花一匁 19
時刻は、午後の六時を回った頃。
陽はすっかりと落ちて暗い夜が延べ広がり、辺りはしんと静かだった。遠くの方からは子供のかけ声と車のエンジン音、住宅街を照らす蛍光灯が、じじ、鳴くのが聞こえたけれど、人を待つ冬の夜は、ただただ静かで穏やかだった。
灰色の住宅街。その住宅群の中に埋没するように所在する、小さな公園。
私はその公園の白いベンチに腰かけて、一人でコロッケを食べていた。ここに来る途中で商店街を抜けた時、お肉屋さんで買ったのだ。油染みを避けるように包み紙を摘まんで湯気の立つ衣を齧っていると、心までほかほかになる気がした。
今夜も、寒い。冬の終わりが近づいてきたとはいえ、まだしばらくは冷え込むだろう。毬ちゃんが来るまでにコロッケを食べてしまおうという気持ちと、この温もりが手から消えてしまうのは名残惜しいという気持ちの狭間で私は揺れて、ちびりちびりと衣を食んで、ごろごろとしたジャガイモを、たくさん噛んで呑み込んだ。
そうやって待っていると、やがて靴音が聞こえた。
振り返ると、公園の入り口に毬ちゃんが立っていた。
その頃には私もコロッケを食べきり、お母さんにもらった栄養剤をきちんと飲み終えたところだった。私は毬ちゃんの登場に嬉しくなり、水筒の蓋を閉めて鞄に放ると、「毬ちゃん、お稽古おつかれさまー」とのびやかに笑った。
でも毬ちゃんは、同じようには笑ってくれなかった。
表情は暗く、緊張しているみたいだった。公園の入り口付近には黄色い花が植えられていて、斜め下に逸らされた毬ちゃんの目は、花を見ているようだった。私は毬ちゃんに向けて手招きし、「早く早くぅ」と急かした。
のろのろと、毬ちゃんは来た。よっぽど少林寺の稽古で疲れたのだろうか。受験の時期なのにお稽古に通い続けて、毬ちゃんも和音ちゃんも偉いと思う。
「毬ちゃん、疲れた? 大丈夫?」
尊敬を込めて労う私に、毬ちゃんは困ったような顔をした。まだベンチまで来てくれない。早く来て欲しいのに毬ちゃんはなかなか来てくれない。私は我慢できなくなってベンチからぴょこんと立ち上がると、開けっ放しの鞄をベンチの端に避けてから、毬ちゃん目掛けて駆け出した。
「毬ちゃん、来てくれてありがとっ」
「うん……」
私は毬ちゃんの腕を引いて、ベンチに座ってもらった。元気がないのが気になったけれど、これから私が渡すものを見たら、少しは明るい顔になるはずだ。私は期待に胸を弾ませながら、毬ちゃんの隣に腰かけた。
「ミヤちゃん、あの……話って、何?」
おずおずと言う毬ちゃんに、私は照れ笑いを返した。考えたら私は毬ちゃんに何の説明もしていない。戸惑われるのは仕方のない事だろう。
「えっとね。ちょっと渡したいものがあったの」
「私に?」
「うん、毬ちゃんに。でも学校だと、和音ちゃんがいるでしょ? 私がいたら、嫌かなって……」
私は何の気なしに言ったけれど、聞いた毬ちゃんはびくっと震えて俯いた。スカートの上で両手をきゅっと握っている。その手には絆創膏が幾つも貼られていて、あかぎれが酷くなったのかもしれないな、と私は眉を少し顰めた。プレゼントは手を隠せる物の方がよかったかもしれない。後悔から目を背けて、私は公園の風景に視線を逃がした。
そうやって一望した公園には、遊具があんまり置いてなかった。あるのはブランコ、雲梯、砂場、東屋。公園全体の広さも一般的な一軒家くらいしかない。住宅群に押し潰されてしまいそうなほど、質素で寂れた公園だった。その中で最も目立つ遊具、ブランコを見ていると、私はブランコの鎖に浮いた錆に気づいてしまい、ああと思わず瞠目した。毬ちゃんの傷口に似ていたのだ。
本当に、後悔してしまった。でももう遅い。別のものを買ってしまった。私は自分の買ったものに自信を持っていたけれど、これでは駄目なのだ。これでは隠しようがないからだ。
あの傷口は、隠さないといけないものだ。隠して、蓋をして、覆いをして、見えないようにしなければいけないものだ。そうしないと、いけない。そうでなければ見えてしまう。それはとてもいけない事だ。
汚いものは、見えない所へ、早く、隠しておかないと――――。
「あの、ミヤちゃん?」
毬ちゃんの声に、私は我に返った。
いけない。自分が何を考えていたのか、よく分からなくなりそうだった。私は微笑むと、鞄の中から包みを取り出した。
すかすかの鞄。教科書は学校に置いてきてしまった。ピンクの袋に赤いリボンが巻かれたこの包みばかり気にしていて、他の事なんて忘れていた。
毬ちゃんは、きっと喜んでくれる。
私は殊更明るく笑い、包みを毬ちゃんに突き出した。
「毬ちゃん、誕生日おめでとう!」
毬ちゃんが息を呑み、「えっ……?」と言って私を見た。驚いてもらえたのが嬉しくて、私は浮かれながら話し出した。
「三月三日、誕生日でしょ? 雛祭りの日が誕生日ってかわいいね。毬ちゃんは女の子の日に産まれたんだねえ。あっ、ねえねえ、開けてみて?」
ぽかんとする毬ちゃんに、私は包みを握らせた。でもなかなかリボンを解いてくれないので、私は毬ちゃんの手を取って、一緒にリボンを引いてあげた。
でもその時、私は気づいてしまった。
私は、触ってしまったのだ。毬ちゃんの手に。怪我に。ブランコの錆びに似た血の汚れに。
私の、手が。
「ミヤちゃん……?」
毬ちゃんの怯えた声で、我に返った。
私はどきりとして、そして次にくらっとした。
眩しい。そう感じたのだ。月明かりの所為だった。雲の切れ間から出た月が、青い光を降らせている。まるで青色のフィルターが掛かったみたいに、私も毬ちゃんも黄色の花も、花壇に残った雪さえも、透明な青に染まっている。その景色があまりに綺麗だったから、私は傷に触れた記憶の全てを、なかった事にできる気がした。不思議と寛容になれたのだ。
私は毬ちゃんを見て、くすりと笑い声を立てた。
嬉しくなってしまったのだ。
毬ちゃんの目が、私のプレゼントを見ていたから。
毬ちゃんのスカートの上に落ちた包装紙の合わせ目からは、中身が少し覗いている。私はさっきまでの暗鬱さを忘れ、包みをそっと持ち上げた。
本当は、毬ちゃんの手で開けて欲しい。
でも驚き過ぎているみたいだから、私が直接渡してあげよう。そんな親切心から私は包装紙に貼られたセロハンテープを、一枚一枚、丁寧に剥がし始めた。この時の私の手つきは、以前にテレビで見た事のある、産湯から赤ちゃんを取り上げる行為に似ているものがあったと思う。ちょっとだけ厳かな雰囲気にどきどきしながら、私は「はい」と優しく言って、毬ちゃんにそれを差し出した。
「え……?」
毬ちゃんが小さな声を上げ、プレゼントを凝視する。
私の手元では毛糸の繊維が、茫、と月光を弾いていた。
それは、マフラーだった。
血のように赤い、毛糸編みのマフラーだった。
最近の毬ちゃんは血色悪く見えるから、とにかく明るい色で首元を飾れば、少しはマシに見えるんじゃないかなあ。そう考えて選んだのだ。でも地味な毬ちゃんには少し派手かもしれない。ピンクとかなり迷ったけれど、鮮やかな赤はきっと黒髪に映えるだろう。私は自分のセンスの正しさを早く試したくて、毬ちゃんの反応を窺った。
そして、ぽかんとした。
「あれ?」
毬ちゃんは未だに、驚きで固まったままだったのだ。
そしてそんな毬ちゃんの反応に、私はすっかり有頂天になってしまった。
こんなにも、びっくりしてくれるなんて。感極まった私は言おうかどうか迷っていた言葉を、やっぱり言っちゃおうかなあと思い直し、うんと頷いて笑った。
軽い気持ちだった。雑談と同じ調子で、そして励ましと理解を込めたつもりだった。それ以外の感情は、何にも含まない声だった。
私はいつも通りの声で、毬ちゃんに向けて言ったのだった。
「毬ちゃん、あのね、あのね? 毬ちゃんが元々持ってたマフラーって、人にあげちゃったんでしょ?」
「……え?」
毬ちゃんが、私を見た。顔が青い。目が見開かれている。月光が眩しいのだ。私は目を眇めながら畳まれたマフラーを広げると、健気な毬ちゃんに微笑んだ。
そう。私は知っているのだ。毬ちゃんがどうして薄着で、コートも手袋もマフラーも持っていないのか。その理由を知っている。女の子の情報網が、私に全部教えてくれた。私の知りたい情報が自在に運ばれてくる様子は何だかすごく鮮やかで、魔法みたいでわくわくした。その高揚を回想しながら、私はうきうきと喋り続けた。
「毬ちゃんって、五人家族だよね? お父さんと、お母さんと、毬ちゃん。それに毬ちゃんの、弟くんと妹ちゃん。二人共、小学生だったよね?」
「え? ……ミヤちゃん?」
毬ちゃんが、戸惑っている。私の話が下手くそな所為だ。和音ちゃんみたいな国語力が欲しいなあと羨みながら、とにかく結論を言っちゃえばいいかと考えて、私は声を、心持ち潜めた。
「……毬ちゃん、私、聞いちゃったの」
こくんと、唾を呑み込む。言っていいのかな、大丈夫だよね。一瞬の自問自答があったけれど、毬ちゃんの会話相手は私なのだ。私は毬ちゃんの友達。変な心配をする方が可笑しいのだ。私はそう思い直し、自分の考えに勇気をもらいながら、毬ちゃんへにっこり笑いかけた。
そして、遂に、言ったのだった。
「毬ちゃん。――毬ちゃんのとこのおうちって、今はちょっとだけ、大変なんでしょ?」
毬ちゃんが、顔色を変えた。
「ミヤちゃんっ?」と私を呼んで、手を口元に当てている。手の動きに釣られて私が見た毬ちゃんの唇は紫で、毬ちゃんは本当に寒いのを我慢してきたんだなあと、私は目頭が熱くなった。早くマフラーを巻いてくれたらと思ったけれど、私はもうちょっとだけ喋りたくて、毬ちゃんごめんね、もうちょっとだけと心の中で謝りながら、今日までに聞き知った情報の数々を、毬ちゃんへ順々に述べていった。
「大変だよね、色んな人がおうち出入りして。でも相手が親戚でも、自分ちの物をどんどん持ってかれたら嫌だよね。いくら毬ちゃん達の為だからって理由でもひど過ぎるよ。弟くんや妹ちゃんもまだ小っちゃいのに可哀想。辛くて泣いてるんじゃないかなあって、私、すごく心配で」
「ま、待って、ミヤちゃん」
毬ちゃんが、慌てて私を止めた。
「それ、何の、話をして……」
「何の、って」
私は、小首を傾げた。変なの、と思ったのだ。
今私がしているのは、毬ちゃんの家の話なのに。
「毬ちゃんのお父さん、失業したんでしょ? 勤めてた会社、ええと。潰れちゃったんだよね?」
毬ちゃんが、はっと息を吸い込んだ。その顔色は、紙のように白い。私は毬ちゃんを憐れみながら、白い溜息を吐き出した。
「毬ちゃん、高校受験前なのに大変だよね。毬ちゃんの志望校、東袴塚だよね? 私、すごいなあって思ってたんだあ。和音ちゃんも頭いいけど、毬ちゃんもすごいよねっ。県内で上の方だもん。すごいすごい、頭いい! 高校のセーラー服も可愛いし、東袴塚、羨ましいなあ。……なのに悔しいよね、そんな時にお父さんが失業なんて。毬ちゃん、高校行けるのかなあ」
「み、ミヤちゃん……」
毬ちゃんが、かたかたと震えた。ああ、可哀想な毬ちゃん。こんなにも寒さで震えている。私は毬ちゃんの為に喋るのをやめて、一刻も早くこのマフラーを渡してあげるべきだ。それが分かっている筈なのに、私の口はどうしてか言葉を吐き出し続けていた。やめる事ができないのだ。そんな自分の性急さに、私はすごく驚いた。私はお喋りな方だけれど、自分がここまでお喋りだったなんて初めて知った。
でも私は、その理由を知っている。言葉が止められない理由が何なのかは分かっていた。
それは、久しぶりだからだ。私が、毬ちゃんと話すのが。これは本当に久しぶりの友達同士の会話で、私達の絆の確認行為なのだ。だから私は酸欠の金魚のように、せかせか慌ただしく喋っている。
なんて、幸せな時間だろう。私はその清福を確かめるように毬ちゃんの顔を見たけれど、毬ちゃんは私のようには笑ってなくて、口を開けたまま動かない。ああ、やっぱり可哀想。毬ちゃんは可哀想な女の子。私は亜美ちゃんを可哀想だと思ったけれど、私の身近にはもう一人、可哀想な少女がいたのだ。
「毬ちゃん、元気出してね? 意地悪な親戚のおばちゃんとかおじちゃんが毬ちゃんのおうちの物をたくさん持っていっちゃっても、絶対これから何とかなるよ。だって、親戚の人達って意地悪だけど、それでも毬ちゃんに高校だけは行かせてあげるって約束してくれたんでしょ? 取られたものだって毬ちゃんのお父さんがまた働けるようになれたら、絶対返してもらえるって。だから毬ちゃん、思い詰めないでね? 大丈夫。毬ちゃんのお父さんとお母さんが頑張ってくれるって。私のとこもね、お父さんとお母さん優しいよ? 美也子はまだ家の事なんて考えなくていいよって言ってくれるもん。だから毬ちゃんが気にする事なんて、何にもないんじゃないかなあ」
毬ちゃんが私を呼んだ気がした。でも私の喉は機械のように、言葉を次々吐いていく。それを止められないのが何だか凄く怖いのに、その勢いに身を任せるのがどこかで凄く快感だった。唇の端っこが、変な感じに引き攣れた。
ああ、どうして。
私は、笑っているんだろう?
こっちの理由は分からなかった。なのに顔は笑っている。引き攣れた唇が痛かった。
私は、どんな顔で笑っているのだろう? 醜くはないだろうか? ちゃんと綺麗に笑っているだろうか? 急に、鏡が見たくなった。どうか、綺麗に。綺麗に。綺麗に。綺麗な顔でありますように。透明できらきらで綿菓子のように甘やかで、可愛い美也子でありますように。鼓動がどんどん早くなる。頭が全然働かない。神経の全てに薄い膜が被さったみたいに、思考がどんどん鈍っていく。もう何を考えているのかもよく分からないのに、それでも口だけは動いていた。私はそれを望んでいるのだ。喋り続けていたいのだ。
ああ、毬ちゃん。弱くて愛らしい毬ちゃん。
私は恍惚と笑い、毬ちゃんの細い身体を上から下まで見下ろした。ああ、可愛い。すごく可愛い。毬ちゃんは本当に華奢で、可哀想で、仕方のない、誰かが支えてあげないと駄目な子なのだ。私にはそれができるのに、なかなかさせてもらえなかった。和音ちゃんの邪魔の所為で、なかなかさせてもらえなかった。だから私は笑うのだろうか。毬ちゃんとやっと触れ合える嬉しさで、笑った顔になるのだろうか。友達の事を思ったからこそ、私は笑っているのだろうか。
だとしたら、きっと。
私の笑みは、醜くなんてない。
きっと、絶対、美しく見えるはずなのだ。
茹った意識が、そんな回答を弾き出した時――――ふ、と。脳裏に過る色彩があった。
その刹那、青色の月影が真っ白に輝いた気がした。毬ちゃんの姿が見えなくなり、ベンチもブランコも見えなくなる。白い光が燦然と満ちて、何にもなくなったその場所に、一人、女の子が立った気がした。
栗色の髪が陽光を弾きながら、金色に踊るのに気付いた途端、眩いばかりの純潔性に、私は甘い吐息をついた。
――なんて、綺麗な子なんだろう。
今の今まで忘れていた。どうして忘れていたんだろう。でも今思い出せても駄目なのだ。私は馬鹿だから忘れてしまう。折角思い出したこの色を、私はまた忘れてしまう。思い出したこの瞬間から、そんな覚悟も生まれていた。
鮮やかな感覚だった。日差しが中空で煌めくように、一際眩く光る白。空の影の青さの中で、風に溶けそうな佇まい。そうだ、この子は私の中で、誰より白い女の子。記憶の闇から突然蘇った救いの光の白さと共に、私の胸中には感情が、絵具のように溢れ返った。嬉しい、悲しい、苦しい、辛い――――。まるで溶け合ったクレヨンのように、醜くぐちゃぐちゃ混じっていく。ばちん、と金属音が頭で鳴った。鉄錆びの匂いが、ふと香った。ああ、鋏、と私は思った。この匂いは、鋏の匂い。音は、植物の命の消える音。音と匂いの幻だけで、私はそれを悟っていた。
この少女は、幻だ。手で触れる事は叶わない。音も匂いも全部偽物で、本物なんて一つもない。そんな事くらいなら馬鹿の私にも分かっていた。
それでも、私は触れたかった。
幻でもいい。消えないで。忘れる前に触りたい。あの子の栗色の髪に。透けそうなほど白い肌に。この手を這わせてみたかった。
そんな突然のフラッシュバックに、私はくらくらしてしまい――目の前にいる毬ちゃんに、「あはは」と思わず笑ってしまった。
一瞬の回顧。白い記憶から帰ってくると、私の目の前に白い女の子はいなかった。毬ちゃんの他に誰もいない。夜の公園が寂しくそこにあるだけで、何だか少しふらふらした。私を怖々見る毬ちゃんの、あどけない顔が歪んで見える。水面のレンズを通したみたいに、私の視界はぐにゃぐにゃだった。とうとう馬鹿をこじらせて死ぬのだろうか。それはそれでいいかもしれない。
そうやって思い詰めた私の語り口は、益々愚かしく、そして収拾のつかないものとなってしまった。
加速したのだ。
私の機械的な語りかけは、私の意思とは裏腹に、熱病的な加速を見せて、止まらなくなってしまったのだ。
「毬ちゃん、大丈夫だよ。毬ちゃんのお父さんがまだお仕事見つけられてなくても、お母さんが代わりに働いてくれてるんでしょう? その間にきっとお父さんが頑張ってくれるよ? 気にし過ぎちゃだめだからね? 毬ちゃんはすぐ無理しちゃうから、絶対絶対、思い詰めたら駄目なんだからね? 辛い事があったら何でも言って? 私、毬ちゃんの愚痴なら何でも聞くよ?」
「ミヤちゃん、あの、ちょっと」
「それに毬ちゃん、コートとか手袋とか、下の兄妹にあげちゃったんでしょ?家族の為に服をあげちゃうなんて毬ちゃんって偉いねえ。でも辛かったよね? 自分のものは一個もなくなっちゃったんだもん。すごい、すごい、毬ちゃんってすごいね! 私、毬ちゃん尊敬しちゃう。私にはぜーったい真似できないもん!」
「ミヤちゃん、それ、なんでっ」
「大丈夫、他の子は知らないよ」
毬ちゃんが慌てたので、私は優しい声で言った。
今の声で、私は少しだけ自分を取り戻せたのだ。
熱い波が静まり、心が平静を取り戻していく。私は眉尻を下げ、マフラーを持っていない方の手で毬ちゃんの髪を撫でた。
そうだ。私がこんな話をしようと思ったのは、毬ちゃんを怖がらせる為ではないのだ。ただ毬ちゃんに安心して欲しくて、私みたいな友達がいるから大丈夫だと伝えたくて、それで話し始めただけなのだ。少し勢いづいてしまっただけで、私は毬ちゃんを苦しめたいわけではない。それを分かって欲しかった。
私は毬ちゃんの怯えを労わるように、声音をとろんと甘くした。
でも、私の身体にはさっきの熱が残っている。一瞬思い出しかけた〝何か〟の目が、私の心を見た気がした。
その視線に、ぞくぞくした。
もっと、私を見ればいい。
むしろ、見て。見て欲しい。
思えば私という人間は、ひたすらそれを渇望しながら、今まで生きてきたようなものなのだ。それを度々、忘れてしまうだけなのだ。
結果、優しくしようとした筈の私の声は――さっきとあんまり変わらない、病的に熱いものとなってしまった。
「毬ちゃんは頑張り屋さんだね。おうちの物をたくさん持っていかれて、生活きりつめて、おうちの事もがんばって、それで勉強もがんばってるんだから毬ちゃんってすごい。偉いよね。毬ちゃんって家庭科の成績良かったよね? それっておうちの事ばっかりしてるからじゃないのかなあ? お母さんが毬ちゃんにばっかりさせるから、毬ちゃんの手はこんなになっちゃったんだね。可哀想。毬ちゃんって本当に可哀想。可哀想。可哀想。可哀想。可哀想……」
「待って、違うの、お願い、待って……!」
毬ちゃんが、決死の形相で私を止めた。
私は、表情を曇らせた。
毬ちゃんの心労は、もうそんな所まで行きついているのだ。
どこまで優しい子なんだろう。悪いのは毬ちゃんの手から血を流させた家族なのに。苦痛を強いた親戚なのに。私は悲しくなってしまい、つい少しきつい声で言った。
「毬ちゃん、駄目だよ? また我慢しちゃってる。毬ちゃんはそれでいいの? 私は心配したんだよ? だって毬ちゃん、すっごく苦しそうに見えたんだもん。なのにそういうの全然言ってくれないんだもん。だから知った時びっくりしたんだよ? ねえ、本当だよ? 嘘じゃないよ? ねえ、私、嘘なんてついた事ないでしょ? 毬ちゃん、辛かったね、悲しかったね、大変だったね。……でもね、もう大丈夫だよ? ほら、これを巻いたら……また、あったかくなれるから……」
私は毬ちゃんに、赤いマフラーを差し出した。
この赤色は、友情だ。私は毬ちゃんの家庭事情を知っていて、その辛さを知っている。私は毬ちゃんの痛みをきっと癒してあげられる。冬の寒さに凍える毬ちゃんに、確かな温もりを届けてあげられる。
毬ちゃんはもう、一人で苦しまなくていい。そんな愛情をいっぱいに込めて、私は毬ちゃんがマフラーを受け取るのを待った。
これでまた、毬ちゃんの笑顔が見られる。それを信じて疑わなかった。
長い沈黙が、風と共に流れていく。
その後に、毬ちゃんが私に言った空虚な言葉は――私にとって、完全に予想外のものだった。
「ミヤちゃん……調べたの?」
「え?」
「私の、家のこと……なんで、ミヤちゃんが知ってるの」
「なんで、って……」
私は、きょとんとした。そんな質問をされるとは、夢にも思っていなかった。
それよりも何故、マフラーを受け取ってくれないのだろう。手が怠くなってきたから、早く貰って欲しかった。私は「はい」ともう一度差し出したけれど、毬ちゃんはやっぱり受け取ってくれなかった。ぶるぶると冬の寒さに震えながら、月光に染まった青い顔で、私をじっと見つめていた。
そして、硬い声で言った。
「ミヤちゃん、言って。答えて……。なんで、私の家の事、ミヤちゃんが知ってるの? ……っ、誰にっ、聞いたの……っ?」
「えっ……?」
私は混乱し、半端に笑った顔のまま、毬ちゃんの顔と向き合った。
何だか、必死な表情だった。哀しげに私を睨んでいる。いつもより心持ち大きく見開かれた双眸には、月光の青が映っていた。まるで涙のようだった。結晶化した涙のような、宝石のような青だった。その光に魅せられながら、私はついに観念した。
ううん、違う。最初から気づいていた。毬ちゃんが私のマフラーを受け取らなかったあの時から、私は間違いに気づいていた。
私は、間違えてしまったのだ。
毬ちゃんはおうちの事を、人に知られるのが嫌なのだ。相手がたとえ友達でも、私であっても嫌なのだ。誰にも知られたくなかったのだ。
でも私は、その間違いに焦りを全く感じなかった。
この程度の些細なすれ違いが、一体何だと言うのだろう。
確かに私は、毬ちゃんの重大な秘密を知ったかもしれない。でも私は毬ちゃんが望むなら、誰かに言いふらしたりなんて絶対しない。私は毬ちゃんの友達なのだ。友達の嫌がる事をするなんて、そんなルール違反。私がするわけがない。
私は、優しく微笑んだ。
毬ちゃんは怖がらなくていい。私は毬ちゃんの味方なのだ。それを今このマフラーで、証明しようとしたばかりだった。
だから毬ちゃんは、これを受け取るだけでいい。
それだけで私達の友情は、一層強固なものになる。
「毬ちゃん、安心して? 私は誰かに言いふらしたりなんて、絶対に」
「もう何も言わないでっ!」
私の笑みは、そこで凍りついた。
その怒鳴り声は公園中に響き渡り、住宅街の灰色の隙間へ吸収され、やがて寂しい夜空の空気の中へ、木霊とともに消えていった。
私は、怒鳴られたのだ。
弱くて優しい毬ちゃんに、大声で怒鳴られてしまったのだ。
「ミヤちゃん、なんで? どうしてそんなの聞いて回ったの? どうして? 私のおうちの事は、ミヤちゃんには全然……、全然っ、関係ない事なのに……っ!」
「え、と……だって毬ちゃん、辛そうだったから……それに私は、毬ちゃんの、友達だか」
「やめてっ!」
毬ちゃんが叫んで、唇を噛みしめて俯いた。黒髪が揺れ、目元と泣き黒子が隠れる。きっ、と再び顔を上げた毬ちゃんは、「もうやめて!」とまた怒鳴った。
そして頭が真っ白になった私に、やがて毬ちゃんはこう言った。
はっきりとした、声だった。
「要らない」
その言葉を聞いた時、私はそれを聞き間違いだと思った。
だって、と思う。分からなかったのだ。
要らないなんて、言うわけがない。言われるわけがないのだ。
でも、要らないと言われた気がした。
それでもまだ信じられなかったので、私が「なんで?」と訊ねると、相手は私の言葉に返事をしないで、ベンチから勢いよく立ち上がった。
そのまま、私を見下ろす。
逆光だった。背後から射す月明かりでほんの少し目が眩む。月の明るい夜だった。
ああ、こんな時間に呼び出してしまったんだ。
遅れて気付いたけれど、そんな事は既に、あまり問題ではなかった気がする。
「ミヤちゃん、要らない。私、要らない……」
悲しみで掠れた毬ちゃんの声を、私は空っぽの頭で聞いたのだ。
*
こうして毬ちゃんは、私を置いて帰ってしまった。
公園に取り残された私は、一人ぽつねんと考えた。
毬ちゃんが何故泣いたのか。その理由が私には、薄々とだけど分かっていた。
確かに、分かって、いるのだけれど。
ベンチの隣を見ると、そこには赤いマフラーが一つ、打ち捨てられて転がっている。
毬ちゃんの為に、私が選んだプレゼント。
なのに受け取ってもらえなかった、行き場のないプレゼント。
私はそれを見下ろし続け、そして、およそ三十分後。
何となくこの気持ちを、誰かに吐き出さないといけない気がして――携帯電話を取り出して、何気なく目に留まった一人の女の子の番号を、本当に何の気なしにプッシュした。




