花一匁 18
「要らない」
その言葉を聞いた時、私はそれを聞き間違いだと思った。
だって、と思う。分からなかったのだ。
要らないなんて、言うわけがない。言われるわけがないのだ。
でも、要らないと言われた気がした。
それでもまだ信じられなかったので、私が「なんで?」と訊ねると、相手は私の言葉に返事をしないで、ベンチから勢いよく立ち上がった。
そのまま、私を見下ろす。
逆光だった。背後から射す月明かりでほんの少し目が眩む。月の明るい夜だった。
ああ、こんな時間に呼び出してしまったんだ。
遅れて気付いたけれど、そんな事は既に、あまり問題ではなかった気がする。
「ミヤちゃん、要らない。私、要らない……」
私は、驚いていた。
目の前に立つ、綱田毬ちゃんが泣いていたから。
泣いているところなんて、初めて見た。内気で不器用に見える子だから、弱い感じは元々あった。それでも私は毬ちゃんが泣くところを、今までに一度も見た事が無かった。
でも、今、泣いている。
私の目の前で泣いている。
「どうして?」
私は当惑し、ざわざわと胸が騒ぐのを感じながら、そろりと声を掛けた。
「毬ちゃん、どうして泣くの? えっと……これ、気に入らなかった?」
毬ちゃんは何も言わなかった。
ベンチに置いた、鞄を掴む。キーホルダーが乱暴に揺れた。他校の友人とお揃いだというウサギのマスコット。長い耳がふわふわと揺れるのを茫然と眺めている内に、視界から鞄が消え去った。
あ、と呟いた時にはもう遅く、公園の砂地を蹴る音が、冬の夜の静寂に響く。ショートボブの髪が乱れ、駆け出していく背中を目で追った。スカートを翻して、もたつきながらも走る、後姿。
「……」
私は、その背中を追い駆けられなかった。
自分が、毬ちゃんを傷つけた。
それをやっと認められたのは、毬ちゃんがいなくなって一時間後、別の友達がここに来てからの事だった。
*
和音ちゃんが突然、学校で私を避け始めた。
十二月の冬の放課後。私は教室でクラスメイトの女の子たち数人と歓談しながら、時折きょろきょろと辺りを見回し、友達の姿を探していた。
でも、いない。もういない。知らないうちに帰ったのだ。そんな置いてけぼりが少し寂しい気もしたけれど、元々こうなる前から一緒に下校はしていない。落ち込むのも変な話だと割り切って、私は目の前の友人達に、笑顔をにこにこ振りまいた。
「……美也子ってば。話、ちゃんと聞いてんの?」
目の前では野島亜美ちゃんが、細い眉を顰めて私を睨んでいる。
「あはは、ごめん」と私は笑いながら亜美ちゃんに向き直る。意識がすぐに散漫になるのは、私の悪い癖だ。亜美ちゃんは自分の話をいい加減に聞かれるのを嫌うから、ぼんやりするのはご法度だ。
とはいえ聞いているというポーズを繕うのも簡単なので、私に焦りは全くなかった。
「それで、どうするの? ミサちゃんのこと」
私が言ったこの台詞は、何か意図があってのものではない。おぼろげに耳が拾った会話から、こう言っておけば適当な繋ぎになるだろうと踏んでのものだった。
その予想は当たりで、亜美ちゃんは「どうするって別にぃ?」と不服そうに唇を尖らせたけれど、徐々に目を三日月型に細め、にやにやと周りに目配せした。
私と亜美ちゃんは隣り合った二つの机の前にいて、同じように立つ生徒が、他にもあと三人いる。一塊になって放課後に机を囲む様は何だか儀式めいていて、笑顔の意地悪さが少し際立つ。私はそんな中で浮かないようにと、顔に笑みを乗せておいた。こういう合わせ方こそが、集団の中では大切なのだ。
亜美ちゃんは私の問いかけに返事をしないで、チェシャ猫のように笑ったまま、湿った目配せを続けている。返事はもらえなかったけれど、私にはそれで十分、無言の言葉が届いていた。
亜美ちゃんの怒りは根深い。最近喧嘩したという女の子を許さないつもりなのだ。私は少しだけ呆れたけれど、結局亜美ちゃんらしいやと思い直して笑った。
最近、学校の先生から厳しい説教を受けたばかりなのに。それでもまだ懲りていないのだ。
亜美ちゃんにとって弱い者苛めは、最早生き甲斐なのだと私は思う。誰かの悪口を言ったり物を壊したりするのは、亜美ちゃんにとって呼吸や食事と同じなのだ。それらの行為を一たびやめてしまえば、亜美ちゃんはそのまま死んでしまうのかもしれない。自分が生きていくのに必要な行為が、亜美ちゃんは人より一つ多いのだ。そうしなければ生きていけない亜美ちゃんは、ひょっとしたら誰より繊細な生き物なのかもしれない。そんな風に考えてみると亜美ちゃんという苛めっ子が可愛らしく思えてしまい、私はいつも、この子の事が憎めないのだった。
亜美ちゃんの狙う『ミサちゃん』は、これから辛い目に遭うだろう。
でも季節は既に十二月。たとえ苛めの標的になっても、あと三か月ほどで卒業だ。せめて苦しい期間が短く済んで良かったね、と。私は心の中だけで『ミサちゃん』を慰めた。
そしてふと、素朴な疑問が頭をもたげ、私は皆に訊いてみた。
「……ねえ、亜美ちゃん。『ミサちゃん』って、誰だっけ?」
私は何気なく訊いたのに、訊かれた皆はきょとんとした。
そして、どっ、と。一斉に、大きな声で笑い始めた。
「ちょっと美也子。冗談キツ過ぎ」
「酷過ぎじゃない? うちら、そこまで言ってないよ?」
「美也子さあ……時々、すっごいえげつないこと言うよね。自覚なし? 怖いんだけど」
けたけたと笑われた私は、この時ばかりは少し焦った。お腹を抱えて笑う子達の中には、呆れ笑いの子の他に、表情を引き攣らせた子もいたからだ。私の台詞に引いたのだ。
ああ、やっちゃったなあ。諦めたように、心で思う自分がいた。
でも私の顔はふにゃふにゃと笑っていて、焦りは表に出ていない。口はすらすら勝手に動き、「冗談だよお、本気にしないでー」と、弁解の台詞を吐いていた。
皆もブラックジョークと受け取ってくれたのか、私の目論見通り、失言はあっさり流してもらえた。
ただ、一番派手に笑っていた亜美ちゃんの言葉だけが、私の心を、ほんの少しだけ引っ掻いていった。
「美也子、一応言っとくけどね? ミサっていうのは、クラスメイトで、ここの席に座ってるやつの事だからね? オッケー?」
亜美ちゃんが、机の脚を軽く蹴飛ばす。机の中に入ったノートが、振動で少しはみ出した。
私は机を見下ろして、顔を上げると微笑んだ。
「そうだよね、ごめんごめん」
先程までこの席に座っていて、そして今、話題に挙がっている女子生徒の顔を、全く思い出せないまま。
皆に合わせて、微笑んだ。
*
冬休みが空けても、和音ちゃんはまだ私を避け続けていた。
学校の休み時間、教室移動。放課後。
そのどこを取っても和音ちゃんに隙はなくて、授業終了のチャイムが鳴る度、和音ちゃんは機敏に動いて、毬ちゃんを連れて消えてしまう。
「待ってよお。和音ちゃん」
何度、そう声をかけたか分からない。でも和音ちゃんの態度は私に少し冷たくて、「ごめん」とか「先に行く」とか「それじゃ」とか、私を置き去りにする言葉しか言ってもらえなかった。
どうして?
まるで責めるように、私は最初自問した。
でも、それは嘘。
本当は全然、疑問になんて思わなかった。
和音ちゃんがどうしてそんな態度を取るのか、私には幾つもの心当たりがあったからだ。
私は多分、和音ちゃんを怒らせてしまったのだ。
私があんまり、他の友達を連れて来るから。
私は多分、友達が多い方なのだと思う。人と話をするのは好き。色んな子と話がしたい。時間の感覚も分からなくなるくらい熱中して、騒ぎ合うのが好きだった。周りの子も大抵が、私のような少女達。何を話しても面白く、話題は全然尽きなくて、私はそれが楽しかった。
でもそんな私の友達を、内気な毬ちゃんが怖がっていたのは知っていた。
毬ちゃんは亜美ちゃんを怖がっている。それを何とか隠そうとして、いつも和音ちゃんに気遣われていた。
そんな二人を見る度に、私はいつも勿体ないなと感じていた。
楽しいのに。心からそう思う。一緒に騒ぎ合えたなら、それはとっても楽しい事なのに。
確かに亜美ちゃんは声が大きいし、動きも男の子顔負けで怖いと思う。でもあれが亜美ちゃんの普通なのだ。亜美ちゃんは、勇猛な振る舞いをしないと死ぬという大病に侵されている、可哀想な女の子なのだ。亜美ちゃんはただ、生きるのに必死になっているだけだ。息を深く吸い込むように、ご飯を口に運ぶように、肩で風を切って歩き、傍若無人に振る舞って、学校を練り歩いているだけなのだ。
そんな亜美ちゃんの一体どこを、怖がる必要があるのだろう。
毬ちゃんだって、生きていくのに必要な作業が、きっとたくさんあるはずだ。それと全く同じなのだ。ただの日常の工程一つ、怖がることなんて何もない。
毬ちゃんがそこに気づけたなら、二人はきっといい関係になれるだろう。毬ちゃんだけではなく、クラスで亜美ちゃんを怖がる皆が、いい関係になれるだろう。繋がらない絆の糸が、私にはただ残念で、可哀想で仕方なかった。
でもそんな私の考えは、あの日を境に、少しだけ揺り動かされたように思う。
和音ちゃんが、亜美ちゃんと喧嘩をした日の事だ。
美術室の帰りに、気付いたら亜美ちゃんが和音ちゃんに突っ掛っていた。
私はびっくりして、二人の喧嘩を見守るしかできなかった。
亜美ちゃんの狙いが、和音ちゃんになってしまった。そんな瞬間に居合わせてしまい、私は混乱していたのだ。
どうしたらいいのだろう。どちらの肩を持てばいいだろう。注意力散漫なのは相変わらずで、この喧嘩が何故起こったのか分からなかった。
後で毬ちゃんからやり取りを聞いて、ああ、これは和音ちゃんが悪いな、と漫然と思ってしまった。
和音ちゃんは、いつもはもっと上手い子なのに。どうしてあの時は亜美ちゃんを怒らせてしまったのだろう。
その答えは、和音ちゃんが頑張り屋さんだからかもしれない。あの日の和音ちゃんは何だか少し眠そうだった。勉強を遅くまで頑張っていたのかもしれない。和音ちゃんはあんまり自分の事を話さないけれど、頭がいいのは知っている。だから私と違って、夜遅くまで勉強しているのだと思う。
疲れてたのかな。和音ちゃん。
だから、亜美ちゃんと喧嘩なんてしてしまったのだろうか。
だとしたらやっぱりこれは、和音ちゃんには可哀想だけれど、悪いのは和音ちゃんだと私は思った。
和音ちゃんは、勿体ない。亜美ちゃんに合わせるのなんて、とても簡単な事なのに。可哀想な亜美ちゃんが、生きていく上で必要とする我儘。それを守ってあげるのがこのクラスの、ひいては学校のルールなのだ。それを和音ちゃんが守れなかったなら、それは、ルール違反になる。
だから私は、仕方がないなと思ってしまった。
ルール違反は、罪だ。
それは私達の骨の髄にまで沁み込んだ、暗黙の了解の筈なのだ。
分かっていて当然の事で、知らなかったでは済まされない。
こんなにも他愛ないルールを守れなかった和音ちゃんが、クラスから弾かれるのは当然の事だ。だから、こうなったのは、仕方のない事だった。
私は、和音ちゃんを庇えない。
そんな風に、私は思った。
思っていた、はずなのに――その翌日、私はとてもびっくりした。
苛めの標的になった和音ちゃんは、私には想像もつかないやり方で、学校のルールをひっくり返して見せたのだ。
受験を間近に控えた中三の女子が、教室で乱闘騒ぎを起こした。
それは私達にとって、とてもセンセーショナルな事件だった。
私はまたしてもその場に居合わせ、やがて先生がやって来て、関係者がみんな職員室に呼ばれていく中で、毬ちゃんが和音ちゃんを庇いに職員室に走るのを見た時…………何となくで、私はついて行った。
友達として、そうすべきかな、と。何となく思ったからだ。
一度和音ちゃんを庇うのを諦めた私が、毬ちゃんの勇気に乗っかって和音ちゃんを庇いに行っても、和音ちゃんにしてみれば面白くないかもしれない。
一応、そこまでは深読みしていた。
というのも、私には和音ちゃんに避けられる理由の見当がついていても、その突然さがまるで分からなかったからだ。
どうして、突然?
私にとって、和音ちゃんの行動は豹変という言葉が似合うものだった。
私のこういう、どこにも所属しない浮草的な根性が嫌われたのかもしれない。でもそれは理由の一つに数えられても、唐突さの説明にはならない気がした。
和音ちゃんは……何だか、少しだけ変わった気がしたのだ。
あの日以来、何となく人が変わった気がしたのだ。そんな内面の小さな変化が、和音ちゃんの私に対する態度の変化に、何か関わっている気がする。私にはそれが、少しだけ気がかりなのだ。
ともあれ。
あの乱闘騒ぎ以来、私は和音ちゃんから避けられ続け、二月が終わりに差し掛かった今になっても、その断絶は続いていた。
佐々木和音ちゃん。
中三になってから、ずっと一緒にいた友達。
私はそんな和音ちゃんに見捨てられても、実はあんまり困らなかった。友達は多いのだ。元々、色んなグループを渡り歩くような事もしていた。特定の所属を持たずにふらふらしても、目立った陰口も叩かれずに許されてしまう陽のポジション。そんな位置付けと信頼を、私はクラスで築いていた。和音ちゃんと毬ちゃんから置いてけぼりにされた私は、亜美ちゃん達のグループで過ごす時間が増えていた。
和音ちゃんを庇った私の事を、亜美ちゃんは許さないのではないかと最初だけ覚悟した。事実、少し怒られた。
でも私が、ごめんね、和音ちゃんが可哀想に思えたから庇っちゃったとしおらしく言うと、しばらく機嫌悪そうに唇を尖らせていた亜美ちゃんは、やがてにまにまと笑い、私の事を許してくれた。『可哀想』という言葉が気に入ったみたいだった。可哀想な亜美ちゃんは、可哀想という言葉が好きなのだ。亜美ちゃんがやっぱり可愛く思えてしまい、私は仲直りの意思を微笑みで示した。
だから、私は和音ちゃんに見捨てられても、困ってはいなかった。
居場所はある。和音ちゃんと毬ちゃんがいなくなっても、この学校で生きていける。亜美ちゃんは学校の誰かを苛めていないと死ぬ子だけれど、私はそんな事をしなくても、ここでちゃんと生きていける。
でも、気になった。
ずっと一緒にいた友達なのだ。避けられたら寂しいし、それに毬ちゃんを取られてしまったのが悲しかった。
毬ちゃんは弱い子だけど、私はそんな毬ちゃんが大好きだ。和音ちゃんが独り占めしている現状に対して、少しくらいむくれて見せてもいいと思う。
それに、もしかしたら毬ちゃんの口からなら、和音ちゃんが変わってしまった理由が訊き出せるかもしれない。
私は和音ちゃんのいない隙を窺って、放課後にようやく、毬ちゃんを捕まえるのに成功した。
雪の日だった。朝から白い雲が重く垂れ込め、午前中は窓から見える全ての景色が、輝く白銀に覆われていた。放課後までの時間を掛けてようやく降りやんだ雪は、雨と混じってぐずぐずに溶け、枝葉や日陰に雪の名残が残るのみだ。それでも空には厚い雲が浮かんだまま、日の光を遮っていた。
蛍光灯が眩しく照った教室で、「毬ちゃん」と呼んで私は友達に駆け寄った。
和音ちゃんはいつも毬ちゃんにぴったり張り付いているけれど、その日に限ってはいなかった。職員室に呼ばれたのだ。受験生の私達にはよくある事だ。おそらくは先日の問題行動ではなく、進路の件で呼び出されたのだろう。
ともあれ千載一遇のチャンスに、私はすぐさま飛びついた。
「毬ちゃん、久しぶりー」
何気ない風を装って声を掛けると、毬ちゃんはびっくりした様子で身を引いた。
顔色が、少し悪い。その血色の悪さは私の近くにいた亜美ちゃんが怖いからかなと思っていたけれど、本当に顔色が悪い気がして、私は少し心配になった。
「あれ? 毬ちゃん、顔色悪い? 大丈夫?」
「ミヤちゃん……なんでもないから。大丈夫」
毬ちゃんは慌てた様子で手を振り、寂しそうに微笑んだ。その手のあちこちに赤い色がちらついたのが見えて、私は息が止まってしまった。
あかぎれだ。水仕事をしている手。
私のお母さんも、冬場は同じような両手になる。
でも同年代の女の子で、こんなに手がぼろぼろの子は他にいない。私はこてんと首を傾げ、毬ちゃんの立ち姿をまじまじと眺め回した。
そしてすぐ、不思議な事に気がついた。
毬ちゃんは、コートはおろか手袋もしていなかったのだ。
学校指定の黒いコートはどうしたのだろう。以前は着ていたような気がするのに、それは私の記憶違いだったのだろうか。
放課後の教室からは、コートを着込んだ生徒達が次々と急ぎ足で去っていく。男子はブレザーのまま過ごす子も多いけれど、女子は毬ちゃんを除いた全員が、厚いコートを羽織っている。そんな中で薄着のまま立つ毬ちゃんは、何だかな真冬なのに半袖でグラウンドを走る小学生みたいで、私は自分の想像に吹き出した。
「あはは、毬ちゃん寒そう。コート着ないの? 手袋は? すっごく寒いのに、毬ちゃんは元気だねえ」
堪えきれなくなってしまい、私は少しだけ笑ってしまった。
多分、その時だったと思う。
毬ちゃんの目元が震え、表情が強張ったのは。
「……毬ちゃん?」
私は気付いて、毬ちゃんを見た。
何だか、様子がおかしい気がした。
「……ミヤちゃん、ごめんね。ばいばい」
毬ちゃんは鞄を肩に提げると、私の隣をさっとすり抜けようとした。びっくりした私が「毬ちゃん?」ともう一度呼ぶと、振り返った毬ちゃんは気まずそうに私を見た。そんな目で見られてしまった事に私は慌てて、用意してきた言葉をうっかり忘れてしまった。
でもすぐに思い出して、何とか毬ちゃんに言った。
「毬ちゃん。えっと……和音ちゃんは、元気?」
「……元気、だよ?」
緊張して変な質問になってしまったけれど、毬ちゃんは律義に答えてくれた。
そしてその回答が、会話の終わりになってしまった。
毬ちゃんは「ばいばい、ミヤちゃん」とだけ言い残し、そそくさと帰ってしまった。
私は、その背中を追い駆けられなかった。
毬ちゃんが、何だか寂しそうだった。追い詰められているように見えたのだ。深刻な不幸の影が、あどけない頬に射していた。私はそこから目が逸らせず、教室の扉を見つめ続けた。
すると、一人取り残された私の元に、ぞろぞろと亜美ちゃん達がやってきた。
「どしたの、ミヤちゃん。フラれた?」
皆、普段は私の事をミヤちゃんとは言わない。毬ちゃんの呼び方を真似てからかっているのだ。私はぼんやりと皆を振り返ると、「んー」と呟いて首を傾げた。
そして――にっこりと笑って、こう言った。
「えへへ、分かんない」
「はあ?」
「えっと。私、毬ちゃんに何を訊きに行ったんだっけ?」
「あー。まーた始まったよ、美也子は」
皆は呆れたように目を細めたり、手を叩いて笑っている。亜美ちゃんは私をにやにやと見下ろして、唇を意地悪っぽく吊り上げた。
「普通さあ、だべるのに忙しくって何訊きたいのか忘れたりする? 美也子さあ、そんなんで高校受験大丈夫なわけ? ……あ、西高なら大丈夫か」
私は、その言葉を聞いて笑ってしまった。
傷ついてはいない。揶揄混じりであれ、それが冗談だと知っているのだ。そして揶揄が混じっているなら尚更、亜美ちゃんにも言える台詞だと分かっている。だから傷つきはしなかった。それが私の日常なのだ。
亜美ちゃんの今の言葉は、袴塚市の中学生の間でだけ通じるスラングだ。
どんな馬鹿な子でも絶対に合格できるという、西袴塚高等学校。高校受験のための勉強をしくじったけれど、高校生にはなりたい生徒達が、最後に流れ着く墓場。受験勉強に疲れる度に、西高なら大丈夫と軽蔑混じりのスラングが飛ぶ。
もしも、このスラングをぶつけられたのが毬ちゃんだったなら。あの子は泣いちゃうんじゃないかな、と。そんな事を考えながら、私は亜美ちゃんの恰幅のいい身体を見上げた。
「何よお、亜美ちゃんだって西高でしょ?」
私の仕返しに、亜美ちゃんはやっぱりにやにやと笑った。ああ、悪い顔だなあ。明け透けすぎて、笑ってしまいそうになる。でも、すっかり慣れてしまった。悪い顔だと分かっていて、私達はその悪さを舐め合っている。それが何だか気持ちよくて、やめられなくなっている。棘が仕込まれた軽口を、毒が塗られていると知りながら、私達は馬鹿のように、スラングを飛ばして笑い合った。実際きっと馬鹿なのだ。だから馬鹿な高校に行こうとしている。それでも女の子同士で騒ぎ合っていると寂しさがほんの一時紛れる気がして、私は寂しいと感じた自分の心に、何だか少しはっとした。
でも、どうして驚いたのか、すぐに分からなくなってしまう。
いつも、こんな感じだった。曖昧で、蒙昧で、愚昧。霧のような靄が意識に被さっていき、私はいつもあやふやで、ぼんやりしながら生きている。千切れた雲のように霧散しそうな意識をだらだらと掻き集めて、私は毬ちゃんの事を考えた。
私は、毬ちゃんに何をしたかったのだろう?
何を訊くつもりで、声をかけたのだろう?
分からない。もう曖昧だった。すっかり忘れてしまっていた。
ただ、手のあかぎれが忘れられなかった。薄着の身体が、痩せて見えた。青い頬が、気になった。
それに、笑って欲しかった。
あんなに鬱々とした毬ちゃんは、見ていて寂しい気持ちになる。笑っている方が可愛く見える。その方がいい。その方が絶対にいいと、私は強く思うのだ。
――笑っている方が、可愛く、見える。
そんな自分の考え方に、ふと、既視感を覚えたけれど――その懐かしさの理由が分からなかった私は、代わりに、全然関係のない事を思い出した。
そして、ぱっと表情を明るくした。
思い出した瞬間は、関係がないと思っていた。でもこれは関係がある。関係があるからこそ、今思い出す事ができたのだ。私は自分の思いつきの素晴らしさに浮き立ち、タイミングの良さに心を弾ませた。
もうすぐ三月。受験が近い。
でも、受験日の三月五日よりも。もっと近いイベントがある。
ああ、覚えていた。私は、ちゃんと、覚えていた。
そんな安堵の所在さえ分からないまま、私は胸を撫で下ろし、私の行動一つできっと見れるだろう、毬ちゃんの笑顔を想像した。
三月三日。
その日は、毬ちゃんの誕生日だ。




