花一匁 16
佐々木和音は、自問していた。
蒼い顔で微動だにせず、会話を雑音のように聞いていた。
「――イズミさんの言い分は、推理じゃなくて屁理屈です!」
目の前では坂上という少年が、声を張り上げて論舌している。
それらの台詞を聞いた瞬間、和音は内心で少年を激しく馬鹿にした。
言霊? 異能? 氷鬼?
氷花に言霊の異能がある?
馬鹿馬鹿しい。少年の正気を疑った。只の世迷言に本気になっている様は、見ていて滑稽極まりなかった。
だが、携帯越しの男の声は、少年を馬鹿にしなかった。
『……君。めちゃくちゃ言ってますよ。僕の推論に全力でけちを付けてるだけではないですか』
「めちゃくちゃ言ってるのは、イズミさんも同じです」
『いいえ、認めましょう。風見美也子さんの異能の有無。君も僕も証拠不十分。この論争は引き分けです』
そのやり取りを、聞いた瞬間。
頭をハンマーで殴られたようなショックで、和音は顔色と言葉を失った。
どうして。そんな言葉が脳裏を過る。だが声は出ない。言葉にならない。ショックで声が枯れていた。
男の声には理解があった。少年を馬鹿にしていない。
それどころか、男、呉野和泉の声は明らかに――少年の正しさを信じている。
手が、かたかた震え始めた。いくら強く握り込んでも、震えは止まる気配もない。
――本当に、この人は和泉さん?
こんな和泉は知らなかった。優美な嫋やかさは見る影も無い。どこかで落としてきたかのように、慈愛がそっくり欠けていた。その空隙にあらん限りの悪意を詰めて、声を発して言葉に乗せて、和泉は少年と戦っていた。
――この人は……誰?
こんなにも悪辣で、そして楽しそうに喋る和泉を、和音は今まで知らなかった。
声が同じだけの、別の人間のようだった。
和音の知らない和泉が今、携帯で繋がる向こうにいた。
――怖い。
この和泉は、怖い。昨日神社で別れた時も、同じ感想を和音は持った。
この和泉は、あの時の和泉なのだ。善の仮面を剥いだ下から、違う顔が覗いている。その変貌をまるで鬼のようだと感じた時、和音は不可解な恐怖から逃れるように、隣の毬を見下ろした。
だが毬は、和音の視線に気づかなかった。
熱っぽい眼差しで、眼前の戦いを見つめている。
しかも、そんな目をしているのは毬だけではなかった。
この教室にいる他校の生徒達は、皆一様に和泉と少年の論戦を、真剣に、固唾を呑んで見守っていた。
異様な連帯感が蒸す中で、和音は愕然と立ち竦んだ。
和音だけが、不参加だった。冷たい隔絶が壁となって、和音と皆を隔てていた。和音は、誰より孤独だった。
絶対的な孤独の中で、和音は一人の少女を見る。
毬ではない。雨宮という小柄の少女でもない。
もう一人。
「………………」
唇が自然と紡いだ言葉は、声の形を成すほどの、力も、熱意も、何もなかった。
*
和音を取り巻く日常は、十二月を境にほんの少し変わったと思う。
全てのきっかけは、和音の起こした問題行動だった。
否、それよりも一日前の、神社で出会った異邦人との出会い故か。
ともあれ和音はその日以降、己に身の振り方がほんの少し変わった事に、きちんと自覚があったのだ。
「毬。行こっか」
美術室での授業が終わってすぐ、和音はまっすぐに毬の元へ向かった。
そして毬を連れて、そのまま教室を出ようとした。
「和音ちゃん……」
きびきび動く和音に、毬は戸惑っているようだった。和音の事を気遣ってくれているのがありありと分かったが、和音としては正直なところ、毬には早く安心して欲しかった。心配りは嬉しいが、心配し過ぎだと思っていたのだ。
これは完全に和音の問題であり、本来毬が気に病む事ではない。毬にも気に病んで欲しいと願った事もあったが、今ではそんな考えの方が烏滸がましかったと反省していたのだ。その気持ちは一度、言葉の形でも毬本人に伝えている。
だから和音は、背後をちらちら気にする毬に、「行こう」としか言わなかった。
毬がいればそれでいい。和音は心からそう思っていたのだ。
だがそんな和音の行動に、全ての人間が納得していたわけではなかったと思う。
その筆頭たる人物は、頻繁に和音へ声をかけた。
そしてこの時も当然のように、声は、和音を呼び止めた。
「待ってよお、和音ちゃん」
戸惑い気味の、少女の声。
どことなく舌足らずで、無垢にも聞こえる甘い声。
声の方を振り向くと、友人の少女が近寄ってきた。
和音はその時、多分だが……不機嫌が顔に、出たと思う。
表情をそつなく繕うことが、どんどん下手になっていた。
元々、和音達は『三人』だった。和音と毬と、もう一人。中学三年の一年間を、『三』という数字で過ごしてきた。
仲は概ね良好だっただろう。三人目の少女が社交的なおかげで時折人数に変動があったが、そんな例外を除いては、和音達は『三人』だ。それで和音達は纏まっていたのだ。
その数字を今更崩そうと思ったのは、完全に和音の我儘だ。
だがその我儘を、敢えて貫こうと和音は思う。
何故なら残された時間はあと僅か。毬と学校で過ごせる時間は、あの時点で既に三か月を切りかけていた。
その三か月で毬と楽しく過ごしたいとか、思い出を作りたいとか、そういった願いが和音の胸中にあったかどうかは、漠然としか分からない。
ただ、和音は思うのだ。残された時間が僅かなら、毬の笑顔を見ていたい、と。
つまらない人間関係のいざこざで、毬に無理をさせたくなかった。
今までも彼女に対し、思う所は多々あった。それを言わずに黙認したのは、波風を立てたくなかったからだ。可も不可もなく、やり過ごす。それに徹していたからだ。
だがそれは、もうやめようと思った。
和音が切り捨てようとした『三人目』は、友人がとても多い子だ。それは欠点ではなく、むしろ美点だと和音は思う。愛想が人並みのフリを決め込んだ、狸の自分には真似できない。和音がどれだけ努力しても身に付けられなかった社交性を、この少女は十五の歳で持っている。素直に凄いと感心する。
だが、ありあまるその社交性が、和音の内向的な友人を苦しめるなら。
今更そんな繋がりを、無理に維持しようとは思わなかった。
この少女が何気なく自分達の所へ連れてきた友人が、毬の友人でなかった時。
その所為で毬が気まずい思いをするのは、もう、嫌だと思ってしまった。
「美也子。ごめん。先行く」
和音は、言う。
淡々とした拒絶を突き付けられて――風見美也子は、かなり驚いた様子だった。
毬が「和音ちゃん」と呼んだが、和音は聞き入れずに毬の腕を引く。
そして「えっと、和音ちゃんってば」と、甘ったるい声を困惑に染めた友人を教室に残し、毬だけを連れて廊下に出た。
背後からは、たくさんの視線を感じた。見られている。知っていた。クラスの皆に見られている。
怖くは無かった。気にもならない。
毬がいるから、どうでもよかった。
「和音ちゃん、いいの?」
心細そうに呟く毬に、「ん。いいよ」と和音は答えた。
そんな日常で、いいと思った。
和音は、それでよかったのだ。
……そんな己の行動が、まさか、こんな展開を運ぶとは思わなかった。
和音は、深く自問していた。
頭の中では、一つの言葉が回っていた。
表情では冷静を取り繕いながら、内心ではずっと混乱していた。それは、恐怖に近かった。
あの瞬間の風見美也子を、和音ははっきり恐れていたのだ。
――美也子、どうして?
和音は自問する。グラウンドで見た美也子の姿を、変わり果てた友人の言葉を、頭痛と共に回想する。
危うげな足取り。高らかな哄笑。
鋏を持って徘徊し、見つけたと言って微笑む顔。
風見美也子。紛れもない和音の友人。友人だった、クラスメイト。
その美也子が、毬に会いに来たという。
和音に会いに来たという。
高校受験をすっぽかして。鋏一つを携えて。
そして、謝れと言っている。
和音に、謝れと言ったのだ。
――『謝ってよ和音ちゃん! 私の代わりに謝って!』
思い出した瞬間、ぞっと肌が粟立った。
美也子の叫んだあの台詞が、和音には忘れられないのだ。
臓腑を丸ごと吐き出すように、絶叫された断罪の言葉。理性を擲ち、鋏を肉に突き立てるような激しさで、美也子は和音を責めていた。
責められた和音は混乱し、そして次に怖くなった。
――美也子は、自分に怒っている?
だから、鋏を持って歩き回った?
だから、毬を追い駆けてきた?
だから、自分に会いにきた?
……謝って、欲しいから?
和音の行動を、言葉を、謝って欲しいから?
そして、そこまで思考を進めた時――和音は頭の芯が熱くなるほどの怒りを感じ、震える唇を噛みしめた。
なんて、身勝手な。それが率直な感想だった。
悪いのは美也子だ。毬を傷つけて泣かせた。それも受験の前々日。時期が最悪な分余計に性質が悪い。和音には美也子の行動は、逆恨みにしか思えなかった。
その件で文句があるなら、和音に直接言えばいい。それをしないまま学校で騒ぎを起こし、ただの喧嘩を大事に発展させた美也子の事が、和音にはどうしても許せなかった。
美也子の行動は不気味だ。怖い。だが最早この感情は、不安でもなければ恐怖でもない。憎悪と言っても過言ではなかった。
謝れという命令の台詞が、胸に釘のように刺さっている。鉛の匂いさえしそうな言葉に心がささくれ立っていた。ずっと胸が悪かった。そんな不快感が毒のように身体を巡り、和音の意識を蝕んだ。
だが……和音が不愉快だと感じたのは、それだけが理由ではなかった。
美也子の事は、確かに胸糞悪い。だがそれだけではない。それだけでここまで苛立っているわけではないのだ。
今の和音の胸中を食い荒らす、恐怖と不機嫌と怒りは……美也子の存在とは、別の所にも理由があった。
和音が現在置かれている、この状況全て。
何もかもが和音にとって不可解で、不安で、そして不愉快で堪らないのだ。




