花一匁 10
まず、柊吾たち袴塚西中学の者が三名。
撫子と、陽一郎。
次に、この学校の生徒。東袴塚学園中等部の者が二名。
拓海と、七瀬。
そして、最後が袴塚中学の二名。
毬と…………和音。
柊吾が自然と和音へ目を向けると、見られた和音は、視線をすっと逸らした。
さり気ない動きだったが、気付いた柊吾はむっとした。
どういうわけだか知らないが、昨日、自分は嫌われたらしい。初対面の人間にそこまで嫌がられる事をした覚えがない分、釈然としない苛立ちで胸の奥がざらざらした。
和音は柊吾に横顔を向けたまま、ついにこちらを見なかった。
淡白な声音で、一言、呟いただけだった。
「……どうなってるのかなんて。私が聞きたい」
しん、と重い沈黙が場に降りる。
毬が怖々と言った様子で「和音ちゃん」と呼びかけると、七瀬がそこへ割って入った。
「ちょっと待って。それなら私も和音ちゃんに訊きたいんだけど。ねえ、さっきからなんでそんなに不機嫌なわけ?」
柊吾はぎょっとして、それを言った七瀬を見た。
あまりにも、ストレート過ぎる台詞だった。七瀬の声はこちらが心配になるほど大胆で、裏表のないものだった。
「……」
静かに睨みつける七瀬と、その七瀬と目を合わせようとしない和音。
かつて同じ師範の元で、同じ流儀を学んだ仲間。
その両者の間で、毬が顔色を失くして震えている。
一目見ただけで、三者の友情の屈折具合が窺える。一波乱ありそうな予感に柊吾が苦々しさを感じた時、和音がぽつりと、短い返事で七瀬に答えた。
「別に」
「別にって事ないでしょ」
素っ気ない言葉にすぐさま七瀬が噛みついたが、傍らの毬が気になったのだろう。ふっと肩の力を抜いた様子で「別にいいけどね」と、付け足すような小声で言った。
そうやって七瀬が折れると、ようやくきな臭い空気が多少マシになった。
何事もなく終わって柊吾は安堵し、毬への同情を込めて嘆息したが――そうやって綱田毬へ意識が向くと、ある一つの疑念が、脳裏をさっと過っていった。
あ、と思わず声が出る。
これは、今すぐ訊くべきだった。
「綱田。ちょっといいか?」
柊吾が呼ぶと、毬はびくりと肩を弾ませて振り返った。いきなり他校の大柄な男子が話しかけてきたので、驚かせてしまったのだろう。小柄の部類に入る少女が震える様は何となく栗鼠や兎といった小動物を柊吾に連想させ、七瀬は毬のこういう所を指して可愛いと言っているのだろうか、と。益体のない事を柊吾は思った。
ともあれ、今は質問だ。七瀬に訊くべき事も山積みだが、それよりも先に明らかにすべき事が、こちら側にもあったのだ。
「綱田。……なんで、急に動けるようになったんだ?」
それがずっと、柊吾には疑問だった。
あの保健室で、毬の身体は確かに動かなかったはずだ。拓海からそういう風に聞いていたし、実際にこの目で見た毬の身体は、金縛りにでもなったかのような硬直を見せていた。本当に、自力では動かせなかったのだと思う。自作自演はあり得ない。
それが何故か、突然動けるようになっている。
あの時は毬も動揺して泣いていたし、柊吾の方も拓海がちゃんと七瀬を捕獲できるか心配で頭がいっぱいだった。そんな経緯で今まで訊かずにきてしまったが、もう毬は落ち着きを取り戻しているし、拓海と七瀬も戻ってきた。
そろそろ、明らかにした方がいい。
柊吾は毬を見下ろしたが、問いを受けた毬は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
答えられない事が自らの責であるかのように恐縮して、「ごめんなさい、分からないの」と、か細い声で言いながら、己の両手を見ろした。
「ミヤちゃんに肩を触られてから、急に身体が動かなくなって……でも保健室で、急にまた動くようになったの。……あの……」
毬がちらと柊吾を見上げ、言い辛そうに口籠る。
何か言いたげな様子でもじもじしているので、怪訝に思い、近づいた。
「どうかしたか?」
だがそうやって訊いた途端、「あ!」と、七瀬の大きな声が、隣りから割って入ってきた。
「三浦くん、毬! その『ミヤ』って子の事だけど!」
七瀬が柊吾と毬の間に飛び込み、さっと陽一郎に視線を走らせた。
視線を受けた陽一郎は、石のように固まっている。
まだ七瀬を恐れているのだろうか。呆れる柊吾だったが、同時に意外にも思っていた。陽一郎の怯え方が、七瀬と初めて会った時よりマシに見えたのだ。
どういう心境の変化だろう。首を捻る柊吾を尻目に、七瀬は堂々と言った。
「さっきの三浦くんの質問だけど。今がどういう状況になってるのかは、私にも分かんない。でもね、日比谷くんをここに連れてきたのは私だから。あんまり怒んないであげて」
「はあ? 篠田が? なんでまた」
謎の組み合わせだった。七瀬は自分でも分かっているのか複雑な顔つきになったが、それどころではないと割り切ったのだろう。表情を引き締めた。
「三浦くん。私達、毬を『動けなく』した子にグラウンドで会ったよ」
「!」
顔色を変えた柊吾に、七瀬がこくりと頷く。
「名前は、風見美也子。和音ちゃんが教えてくれた。袴塚中の子で、和音ちゃんと毬の友達。そうだよね? 和音ちゃん」
水を向けられた和音が、不承不承と言った様子で頷く。
明らかに、非協力的な態度だった。
七瀬はむっと眉根を寄せたが、それでも今は和音との不和を気にしない事にしているのか、文句は口にしなかった。
だが、七瀬がそうやって自粛しても、周りが同じように出来なかった。
棘のある遣り取りを見た陽一郎が、狼狽えて和音を振り向く。そんな大げさな挙動に毬が委縮して、つと下を向いてしまった。そんな毬を気遣うように、撫子がそっと寄り添っている。
そうやって各々が動いて、その動きが一たび収まってしまうと……教室には再び、重い沈黙が満ち始めた。
柊吾は、和音を振り返る。
重苦しい沈黙の中で和音は全く動じずに、白けた表情で立っていた。
ここで繰り広げられた会話全てを、小馬鹿にしているようだった。
思い返せば先程も、この生徒は同じ顔でこちらを眺めていた。
拓海と七瀬の、二人の喧嘩。それを同じ冷たさで眺めていた。
「……」
確かにあれば、無駄なやり取りだったと思う。あの喧嘩を見た和音が実際に何を考えていたかは想像するしかないが、もし時間を浪費された事に不満を持っているならば、その点についてのみ、柊吾も同調して文句を言ってやってもいい。
だが、それでも拓海と七瀬は柊吾の友人なのだ。共に過ごした時間は同じ学校の友人に比べれば遙かに少ないが、距離や時間の隔たりが問題にならないほどの濃密さで、絆を育んできたと思う。
だから正直なところ、この態度は不愉快だった。
唇が、開きそうになる。だがこの不和の大元は、和音と七瀬の友情の歪さかもしれないのだ。現状を少し聞き齧った程度の柊吾が、口を挟める事ではなかった。言えば最後、再び『あなたには関係ない』とでも言われてしまうに決まっている。それに実際のところ部外者だ。言える事など、何も無かった。
だが、それでも口出ししたくなった。
人の、喧嘩なのに。自分の喧嘩ではないというのに。それでも文句を言いたくなった。
柊吾の事なら、いくらでも嫌えばいいと思う。元より好かれるつもりもないのだ。それに和音を怒らせた理由もいまだによく分からない。そんな鈍感さが和音の逆鱗に触れたなら、それはもう柊吾と和音の相性の問題だろう。相手の事が無条件に不快で歩み寄る気もないのなら、それはもうどうしようもないと、柊吾は淡白に思ってしまう。
だが嫌われる対象が、拓海と七瀬なら話は別だ。手を、痛いくらいに握り込む。気を張っていなければ、嫌な感情が顔に露出してしまいそうだった。
本当に、和音は何故ここにいるのだろう。理由を訊きたくなったが、和音自身その答えを知らないのだ。それを知りたいのは自分だと、不機嫌そうに言っていた。
しかもこの女子生徒、見る限り相当の頑固者だ。たとえ事情を知っていたとしても、その情報を柊吾達へ親切に教えてくれるとは思えなかった。そんな時間があるのなら、さっさと一人で帰る気がする。
というよりも。
今この瞬間だって、実は、帰りたくて堪らないのではないか。
和音には度々失礼な態度を取られたので、さすがにこれは偏見かもしれない。そんな己のエゴにも自覚はあったが、この見解、あながち外れでもない気がする。七瀬もまた言っていたのだ。和音は、面倒臭がりだと。
それでも和音が、この場を去らないのは……毬が、ここにいるからだろうか。
それともこの怪事の不可解さに、単純に苛立っているからだろうか。そんな理由からさながら八つ当たりのように、不快な態度を取るのだろうか。
そうやって相手の内心を、一応だが慮ってみた。
だがやはりというべきか、その程度では、苛立ちは抑え込めそうになかった。
「……」
柊吾が悶々と沈黙を守る間、誰も口を利かなかった。時間が経つにつれて沈黙は重みを増し、七瀬が呆れたように溜息をつく。これでは文句を呑んだ甲斐が無いと、暗に告げられたような気がした。
もう誰も、喋れないのではないか。
そんな重圧が、飴色の光に溢れた教室に、暫し広がり続けたが――永い沈黙は、意外な人物の声で破られた。
「……美也子」
澄み渡った声だった。
聞き慣れた声だったが、それでも時折はっとさせられる。声音が透明で綺麗なのだ。風鈴の音のように清らかさを、小さな声は含んでいた。
突然の声に驚きながら、柊吾は隣の少女を見下ろす。
声の主は、柊吾をじっと見上げていた。窓から射した茜の光が、小さな身体を染め抜いている。
全身を朱に染めた撫子は、双眸をすうと、寂しげに細めた。
「美也子。……やっぱり、あの美也子」
「雨宮……?」
訝しんだ柊吾が呼びかけると、横合いからも「みいちゃん」と、か細い声が聞こえてきた。
今度は、陽一郎の声だ。
振り返ると、陽一郎は悄然とした様子で、それでいて悲愴な表情で俯いている。
柊吾は数秒間、その痩躯を見下ろして――つかつかと、大股に詰め寄った。
聞き捨てならないと思ったからだ。
「おい陽一郎。今なんつった?」
詰問調で呼ぶと、はっとした陽一郎が慌てて柊吾から身を引いた。
またしても柊吾が怒ると思っているのだ。さすがに怯え過ぎな幼馴染に苛つきながら、柊吾は逃げる陽一郎の肩をがしっと掴み、その場で無理やり取り押さえた。
「おい。だから逃げんな。今の呼び方どういう意味だ。説明しろ」
陽一郎は「わああ」などと叫びながら往生際悪く逃げようとしていたが、柊吾が手の力を緩めなかったからだろう、観念したように抵抗をやめて、怖々と話し始めた。
「柊吾、みいちゃんだよ? ……覚えてないの?」
「はあ? お前、誰のこと言ってんだ? そんなヤツ知らねえな」
「三浦くん、覚えてないの?」
撫子が、とことこと近寄ってくる。柊吾を見上げて、くいとブレザーを引っ張った。陽一郎に同調するような言葉に柊吾は驚き、そして別の意味でも驚かされた。
今の台詞と、先程の台詞。
それが意味する事の意味を、遅ればせながら知ったのだ。
「待て、雨宮。……さっき、『ミヤコ』って」
「うん。風見美也子。三浦くんも知ってる子。……覚えてないの?」
柊吾は茫然と、それを言う撫子を見下ろした。
何だか、一生懸命に見えたのだ。
その必死さは、柊吾に中二の初夏を思い起こさせた。
撫子が、初めて柊吾に助けを求めた時の事だ。登校したばかりの教室で、生徒の数が少ないと訴えた際の撫子の声、感情、懸命さ。あの撫子の必死さが、既視感となって甦る。それくらいに、必死に見えた。何故か懸命に見えたのだ。
声に急かされるように、柊吾は戸惑いながらも記憶を手繰る。
……風見、美也子。
敵の名前。毬を『動けなく』した人間。張本人。
その人物を撫子も陽一郎も知っていて、しかも二人の口ぶりでは、柊吾の知人でもあるという。
だが、全く覚えがない。柊吾は唸り、首を捻った。
そんな柊吾の反応を見て、陽一郎が困惑顔になった。
「柊吾、ほんとに覚えてないの? みいちゃんだよ?」
「あだ名じゃ分かんねえし、フルネームでも分かんねえな。いつの知り合いだ?」
「ほら、小学五年の時の、同級生で……クラスが、一緒だった……」
「あ」
さすがに、そこまで言われると思い出せた。
顔が、薄く脳裏に浮かぶ。
確かに、いた。そんな名前の女子が、クラスに。
……だが。
「悪りぃけど。俺、そいつとあんま喋ってねえから。名前くらいしか思い出せねえ」
名前の記憶は残っていたが、他の記憶はほとんど無かった。
我ながら薄情だと思うが、柊吾はその翌年に、父を交通事故で亡くすのだ。その所為もあってか小学生時代の記憶の大半は、小六のいざこざでいっぱいだった。交流の薄い生徒の事は、片端から忘れていっている。
唯一その女子について、他に記憶している事と言えば。
「……なんか、すげえ明るい奴だった気がする。違ったら悪りぃ」
「ううん、大体あってる」
撫子が陽一郎と頷き合う。陽一郎の方は柊吾と話が通じて安堵したのだろう、ほっとしている様子だった。
そして、撫子の方は……何故か陽一郎同様に、安堵しているように見えた。
溜息を吐いて、胸を撫で下ろしている。そのまますとんと俯いてしまったので、柊吾は驚いてしゃがみ込んだ。
「おい、雨宮?」
妙に、疲れているように見えたのだ。
柊吾は気遣ったが、撫子にはまたしても顔を背けられてしまった。「大丈夫」と短い返事だけをこちらに返して、微かに寂しげな横顔のまま、首を横に振ってくる。
「……」
どう考えても、平気なわけがない。もうこれで三度目だ。何度も感じた危機感と懸念が、撫子の嘘を実証している。
絶対、何かを隠している。
撫子が何かを抱えているのは、ここまで来れば明白だった。
それでも、追及だけは何とか控えた。ここでは同級生の目があるし、誰もが撫子の目が時折『見えなく』なる事を知っているわけではないのだ。言いにくい事もあるだろう。理由を訊かせて欲しいが、今は諦めるしかなかった。
腕時計に、再び視線を落とす。
時刻は四時四十分。高校受験が終わってから、随分時間が過ぎていた。
今や忘れかけていたが、柊吾達は今日高校受験を終えたのだ。それだけでも皆が相当疲れたはずだし、柊吾だって疲れている。身体に障りのある撫子が誰よりも疲れただろうことは、想像に難くない。
撫子の横顔を見つめながら、柊吾は表情を曇らせた。
このままでは、まずいかもしれない。
今までにも、似たような事があったからだ。経験から、分かっていた。
遠出して疲れた時。不意打ちで驚いた時。
撫子はその度に、『見えない』状態に戻ってしまう。
撫子に体力的、精神的な余裕がなくなると――『見えなく』なる確率が、上がってしまう。
「……雨宮。座っとけ。ほら」
せめて、少しでも休ませよう。柊吾は手近な椅子を引いたが、撫子は「大丈夫」と囁いて、柊吾の手を引っ張った。
そして何故か、やはり安心したような顔つきになると……ぽつりと、溜息のように呟いた。
「……そっか」
「? 何がだ?」
「ううん」
腑に落ちない柊吾に、撫子はようやく、微かな笑みを見せてくれた。
空元気では、なさそうだった。表情は相変わらず薄いが、嘘か本当かくらいは見分けがつく。ほっと息を吐く柊吾だったが、その時、隣からまたしても、陽一郎の声が聞こえてきた。
「みいちゃん、久しぶりに会ったけど……どうしたんだろう」
不思議そうに首を捻り、視線を余所へ向けている。
その姿を横目に見ながら、柊吾は先程のやり取りを思い出し、何となく目が覚めた気分にさせられた。
考えれば、陽一郎にまだ何も訊けていないのだ。
今判明したのは、『風見美也子』という女子が柊吾達の小五の同級生だったという、たったそれだけの事実のみだ。まだ何も分かっていないに等しい。これからどうすればいいのかも分からなかった。
陽一郎は、他にもまだ何かを知っているのではないか。
一応訊くだけ聞いてみようと思い、柊吾は口を開きかけたが――隣から伸びた手が、柊吾の質問を遮った。
突如、陽一郎の襟首が何者かに鷲掴みにされたのだ。
そのままシャツの襟がマフラーごと乱暴に引っ張られて、「ぐえ」と蛙でも潰れたような悲鳴が聞こえた。陽一郎の痩躯が柊吾の視界から高速で消え去っていき、何事かと目で追うと、陽一郎を引っ張ったのは七瀬だった。
怖い顔で、マフラーごと掴んだ襟首を、ぶんぶん激しく揺すっている。
「ちょっと、早く事情吐いてよ。何なの? 日比谷くん、風見さんて子と小五でクラス一緒だったの? じれったいから早く説明して。早く」
「おい、篠田。それじゃ喋りたくても喋れねえと思うぞ……」
さすがに可哀想になり、柊吾は止めに入る。マフラーで首が締まっているのではないだろうか。陽一郎の顔が土色になっていた。
だが、怒れる七瀬に迂闊に声をかけるべきではなかった。
頭が痛いことに、横やりを受けた七瀬は「じゃあ三浦くんが説明してよ」と凄み、怒りの矛先を柊吾に向けてきた。
「ねえ、状況がわけわかんないままで、すっごい苛々するんだけど。風見美也子って女の子が犯人っていうのは分かってるけど、その子と呉野さんとの関係も分かんないよね。っていうか、今あの子どこにいるわけっ?」
「それは……そうだな。っていうか、あいつ。どこの高校受験したんだ?」
自然と、視線が和音と毬の二人に移る。
同じ袴塚中の生徒なら、知っているかと思ったのだ。二人が氷花と交流があるようには思えなかったが、僅かな期待をかけて、柊吾は返答を待った。
ただ、その期待は掛けるだけ無駄だったらしい。
和音は沈黙したままで、毬も困惑顔になるだけだった。
七瀬がちらと柊吾を見て、「知るわけないでしょ。あの子と仲いいわけじゃないんだから」と切り捨ててくる。シビアな女子社会の一端を見た気がして、柊吾は溜息を吐いた。
七瀬にも一度言ったが、やはり女子の社会は面倒臭い。そんな場所で戦って生きているから、七瀬は勝気で強いのだろうか。
だが、果たして篠田七瀬を『強い』と言い切ってしまって本当にいいのか。ふと唐突に、柊吾は思いとどまった。そんな決めつけは、良くない気がしたからだ。
柊吾は、背後を振り返ろうとする。
何となく、気になったのだ。
背後の人物だけは、七瀬の事を『強い』と、はっきり断言しない気がした。
だが背後を向くよりも先に、怖々とした陽一郎の声が聞こえてきたので、結局柊吾はそちらを見た。
そして、陽一郎が苦しそうに発した言葉に、毒気を抜かれる事になる。
「みいちゃんと、呉野さんの繋がりなら……知ってるよ。クラス、小五で一緒だったから……」
「……」
ぽかんと、してしまう。
確かに、言われた通りなのだ。それに本来、これは言われるまでもない事だ。忘れたわけではないからだ。
呉野氷花の印象は、柊吾達にとってあまりに鮮烈だ。
中二の初夏に端を発した、神社での衝突。
悪辣な女子生徒との戦いは、あの時始まったかに思えたが――少なくとも柊吾にとっては、氷花とのファーストコンタクトはそこではなかった。
互いに当時は、ろくに口など利かなかった。時折相手の態度から見え隠れする陰険さに辟易し、距離を取っていたからだ。
そんな交友の薄さから忘れかけていたが……柊吾と氷花は小五の歳に、同じクラスで過ごしていた。
確かな接点が、一つ。
その繋がりに気付いた途端、一つの予感が、脳裏で光った。
「おい、まさか」
周囲を見回すと、すぐに撫子と目があった。
こくんと、柊吾に頷いてくる。その態度に背中を押されるように、柊吾は全員へ声を張った。
「風見美也子って奴の事、知ってる奴。――今すぐ、手ぇ上げてくれ」
すると、ぱっ、と。
手の平が、次々に上がっていった。
撫子と陽一郎が手を上げて、毬も控えめに右手を上げる。
毬が上げると、和音も上げた。面倒臭そうながらもきちんと挙手し、ちらと七瀬に目配せする。
七瀬は手を上げずに肩を竦め、呆れ眼で柊吾を見た。
意味に気づき、柊吾も遅れて手を上げた。
……七人中、五人。
半数以上が、手を上げた。
「おい……なんなんだ、この人数……」
掠れた声が、喉から出た。
何だか、ぞっとするものがあった。
偶然にしては、出来過ぎている気がしたのだ。
思わず呻くと、七瀬が両腕を抱くようにして震えた。見れば保健室で脱ぎ捨てたコートを、七瀬はまだ着ていない。その震えが寒さによるものなのか、場を満たす異様な不気味さによるものなのか。柊吾には判断がつかなかった。
「つまり、三浦くんはころっと忘れてたみたいだけど。私と坂上くんの東袴塚組を除いたら、全員が風見さんと知り合いだったってこと? ……ほんとに全員? ちょっと多くない?」
「……みたいだな」
「……だから、あの子。『二人目』って言ってたのかな」
「? なんだって?」
柊吾は、七瀬を見る。
七瀬は陽一郎の襟首から手を離しながら、疲れたように溜息を吐いた。
「風見さん、言ってたんだよね。グラウンドで日比谷くんを見た時に。『二人目、みぃつけた』って」
「はあ……っ?」
二人目?
咄嗟には意味が解せなかったが、すぐに心当たりに気付いた。
ばっと、毬を振り返る。
毬は不安気な目で柊吾を見上げ、そろりと頷いてきた。
「わ、私の時にも、『みつけた』って、言われた……」
柊吾がさらに追及しようとすると、「三浦くん、まだ話終わってないからね」と七瀬が釘を刺し、冷淡とも言える声音で、先を続けた。
「私がグラウンドで日比谷くんと合流して、風見さんに見つかった時。そこに和音ちゃんも来たの。それで、和音ちゃんを見た風見さんは、今度は『三人目』って言ってた。『二人目』って言われた日比谷くんも、『三人目』って言われた和音ちゃんも、風見さんに襲い掛かられそうになってた」
「おい、待て。じゃあその風見、今どうなってるんだっ?」
「逃げた」
勢い込んで訊く柊吾に、七瀬は短く答えた。
当時の事を思い出したのか、凛々しく引き締められた顔は、柊吾には蒼ざめて見えた。
「救急車のサイレン聞いて、逃げてったの。先生とかも後から来てたし、あの子の言動だいぶおかしかったから。マークされてると思う」
「っていうか、そういや警察がどうとかって騒ぎになってなかったか? あれ、結局どういう事なんだ」
「あ、そっか。それも言わなきゃ」
七瀬が毬と和音、陽一郎の三者を見渡す。
視線を受けた三者は皆、表情を心なしか硬くした。
「? どうしたんだ」
「三浦くん。警察が本当に動いてるのかどうかは、知らないけど……あの子、すごく怖い。鋏を持ってるの」
「……鋏?」
予想外の言葉に、柊吾は目を剥いた。
「うん、なんか、子供っぽい感じの、切れにくそうなやつ」
「おい。ちょっと待て。……だから、どういう状況だ?」
「だから、鋏を持って追い駆けてきたんだってば!」
七瀬が柊吾を睨み付けた。
ほんの少し、涙目だった。急に向けられた心細げな表情に、柊吾は泡を食ってしまう。七瀬にそんな顔をされるとは思わなかったのだ。狼狽える柊吾に構わず、七瀬は半泣きの顔のまま、叩きつけるように叫んできた。
「風見さん、手ぶらで、鋏だけ持って、それで『みぃつけた』なんて言いながら、走ってきたの! もう……、すっごく、不気味だったんだからぁ!」
柊吾は、その様子を想像してみる。
……俄かには、信じがたい光景だ。
だが、こんなにも怯えて訴えているのだ。それが真実なのだろう。
「おい……これ、本当に、どうなってんだ……?」
額に手をやりながらそう言ったが、「分かるわけないでしょ!」と七瀬に怒鳴られた。仕方がないので和音を見たが、相手はやはりこちらを見ない。面倒臭そうに余所を向いて、達観しているだけだった。
だが、和音も今や関係者だ。いくら傍観者を決め込んでいようと、もうそんな態度でいてもらっては困る。
何故、拓海がこのメンバーで帰ってきたのか。今こそ真に理解した。
一人目は毬。
二人目は陽一郎。
三人目は和音。
滅茶苦茶だった。繋がりが見えてこない。狙われた人間がどうして『動けなく』なるのかも分からなかった。和音と毬だけなら通う中学が同じという接点があるが、そこに陽一郎まで加わると筋が通らなくなってしまう。
これを一体、どう推理しろというのだろう。
状況は明瞭にならないどころか、一層混迷を深めていた。
「くそっ……なんでだ? こいつら共通点とかねえだろ」
柊吾が言うと、七瀬が「そんなことないんじゃない?」と切り返してきた。
「ないって事はないでしょ。全員が風見さんて子の知り合いなんだもん。それが一応の共通点なんじゃないの? 私は狙われてなかったっぽいしね」
「は? どういう事だ?」
意味が分からず訊き返したが、これには七瀬自身も戸惑っているようだった。
怪訝そうに「違うって言われたんだよね」と呟いて、唇に指を当てている。
「私、あの子に名前を訊かれて、名乗ったんだけど……なんか、違うって言われちゃったんだよね。それに私だけは、『見つけた』って言われなかったし。なんでだろ」
「……つまり。風見の事を知ってる奴が、あいつと知り合いの奴が……今回の被害者候補、ってわけか?」
考えながら、口にする。この推論が当たっているなら、七瀬が標的にならなかった事に対し、一応の理由付けが出来るだろう。
だがこれは推論というより、ただの当てずっぽうに近い。そんなものを信じて大丈夫なのか、柊吾には自信がなかった。
考え込む柊吾を、七瀬がじっと見つめてきた。
「ねえ、三浦くん」
神妙な声音で言われた言葉は、柊吾にとって、不意打ちのものだった。
「私達が考え込んでても、仕方なくない? この状況、お兄さんに聞いてもらった方がいいと思わない?」
「は? ……お兄さん?」
一瞬誰の事か分からなかったが、すぐに気づいて手の平を打つ。
「イズミさんの事か」
「他に誰がいるの?」
つかつかと七瀬が柊吾に近寄り、右手をぐっと突き出してくる。
その手には、携帯電話。
「分かんない事、いっぱいあるでしょ。頼ろうよ、大人。それにこれが呉野さんがらみなら、お兄さんが責任取るのが筋ってもんでしょ」
「お前って、イズミさんに対して優しいんだか、きついんだか分かんねえな」
「イケメンの優しいお兄さんだけど、言ってる事わけわかんなくて胡散臭い。それでも頼りになる大人、ってとこ?」
七瀬が携帯を操作し、柊吾の顔の前に翳した。
「どうする? 私が話す? それとも他の誰かが話す?」
「……。貸してくれ。俺が話す」
柊吾は携帯を受け取り、耳に当てた。
七瀬が繋いでくれたからだろう、すぐにコール音が聞こえてきた。
「……」
視線を、全身に感じた。皆が柊吾を注視している。呉野和泉が電話に出るのを待ちながら、柊吾は全員の顔を一人一人見つめていった。
七瀬と撫子は、相手が知人なので不安の色は特にない。陽一郎や毬は何が何やら分からないといった様子で狼狽えていて、和音に至ってはぽかんとした表情だった。何故驚くのだろうと不思議だったが、考えてみれば和音は、氷花の異能を知らない。当たり前の反応だろう。
和音は、異能を知らない。
ひいては、和泉の事も何も知らない。
〝イズミ〟を、何も知らないのだ。
だから、ここで柊吾達が呉野和泉を頼る意味が、和音には理解できないのだ。
これでは何だか仲間外れのようで、少しだけだが気が引けた。
だがこうなってみて漸く、柊吾は気付いた。
「……おい、自己紹介まだじゃん。大丈夫か? 俺ら」
撫子と七瀬には、柊吾の呟きが聞こえたらしい。撫子は七瀬を見上げ、視線を受けた七瀬は「うーん……」と気難しげに唸った。
「自己紹介は、簡単だけど……呉野さんのこと説明するの、大変だよね」
七瀬はちらと、背後を振り返る。
その視線の先には、ポニーテールの少女が一人。
「……今の和音ちゃんに、話が通じる気が全然しないんだよね。それに……三浦くん。いきなりコトダマとか超能力とか言っちゃう集団って、客観的に見てどう思う?」
「ヤバい奴等だと思う。現実と漫画ごっちゃにしたアホだ。関わり合いにはなりたくねえな」
「だよね」
七瀬は肩を竦めた。
「とりあえず、お兄さんとの電話次第じゃない?」
その台詞が、終わった瞬間だった。
ぶつんと、呼び出し音が途切れたのは。
一瞬、とても静かになる。風が梢を揺らすような、冷たいノイズの音がした。
耳に当てた携帯から、男の声が聞こえてきた。
『……そろそろ、かけてくる頃合いだと思いましたよ?』
いきなりの言葉だった。
くつくつと、笑い声が聞こえてくる。
こちらは笑う気にはなれないので、柊吾はげんなりと顔を顰めた。
「笑い事じゃないです。イズミさん」
『ほう。柊吾君ですか。てっきり七瀬さんかと思いましたよ』
「篠田の携帯だけど、俺が代表で話してます。……イズミさん。訊きたい事がいっぱいあります。今、東袴塚の高校で起こった事。イズミさんはどれくらい知ってるんですか?」
単刀直入に切り込んだ。この異邦人は、絶対に事件のあらましを知っている。そんな確信があったのだ。違っているならそれでもいいが、もし当たりならば説明の手間が省けるだろう。
期待をかけて訊ねる柊吾に、和泉は笑い声で返してきた。
『柊吾君。君は僕の異能に期待し過ぎですよ。僕は君と同じ人間ですので、全てを了解しているわけではありません。ですが、そうですね。ざっとで結構ですので、何があったか教えてくれませんか?』
「……ほんとは知ってるんじゃないですか?」
疑り深く訊きながら、柊吾は暫し沈黙する。状況がややこし過ぎて、説明一つにも骨が折れそうだった。
「受験が終わってから、綱田の身体が急に動かなくなりました。今は動けるみたいだけど、なんで動けるようになったのかは分かりません。犯人は風見美也子って名前の女子生徒で、呉野と繋がってるらしいです」
言いながら、あまりに下手くそな説明に少しへこんでしまう。言葉が欠けまくっていた。本当に和泉が何も知らないのなら、毬が東袴塚にいる理由も説明しなくてはならないのだ。まるで説明になっていない。
柊吾は言葉を足そうとしたが、和泉の声が、それを遮った。
『不思議ですね。柊吾君。君は自分でも奇妙だと思っているのでは?』
笑い声が、また聞こえた。
『綱田毬さん。彼女はどういうわけだか、身体の自由が利かなくなりました。その原因を君は先程、風見美也子という少女の所為だと述べましたが……いやはや、不思議です。君は何故、その少女が氷花さんと繋がっていると断言するのです?』
「は? それは……」
柊吾は口を開き、そのまま固まる。
言われてみれば、その通りだからだ。
「……そういや、なんでだ?」
それにこの疑問点は、先程七瀬も口にしていたものだ。
それをまさか、通話相手の異邦人に糾弾されるとは思わなかった。
柊吾は思わず七瀬を見たが、和泉との会話が聞こえていない七瀬は、唇を尖らせて睨んできた。
「何? 三浦くん、どうしたの?」
「いや、イズミさんに妙なこと訊かれたけど……分かんねえし、困ってる」
「もう。ちょっと携帯貸して」
七瀬が頬を膨らませて、柊吾から携帯を取り返した。「もしもし、お兄さん。篠田です」と淀みなく名乗り、二言三言、何事か言葉を交わし始めた。
柊吾はその様をぽかんと眺めていたが、やがてこちらを振り返った七瀬は携帯を操作して、とんと机の上に置いた。
「篠田、何してんだ?」
「ハンズフリーにさせてもらったの」
七瀬が携帯を指でさしたが、柊吾には意味がちんぷんかんぷんだ。
首を捻っていると『柊吾君、先程の疑問は解消されましたか?』といきなり携帯が喋り始めたので、びっくりして仰け反った。
「うわ。イズミさん喋った。なんだこれ気持ち悪りい」
「もう、気持ち悪いとか言わない。お兄さんの声、三浦くんだけじゃなくて皆にも聞こえるようにしていいか訊いて、オッケーもらったの。三浦くん、これで携帯を耳に当てなくても会話できるよ」
「……携帯って、すげえんだな」
しげしげと携帯電話を見下ろしていると、和泉の笑い声が、放課後の教室に鮮明に響いた。
『さて柊吾君。もう一度訊きますよ。何故君は、風見美也子さんを氷花さんと結びつけて考えるのです? 理由が理解できませんね。異様な言動を取る少女が一人、学園を徘徊しているだけなのでは? 以前にも言いましたが、僕の妹の関与を疑うには、些か早計過ぎるかと思いますよ?』
「あー、イズミさん、うるせえ……」
和泉と論戦している場合ではないのだ。思わず本音を吐露して頭を抱えていると、電話の向こうで異邦人は、いよいよ愉しげに笑い始めた。
「っていうか、異様な少女って……やっぱりこっちの状況、イズミさん知ってんじゃん。早く教えて下さい。呉野、今どこにいるんですか」
『調査中ですよ』
和泉は飄々と言った。
その台詞に、柊吾は少しかちんときた。
また、調査中。
最早、そんな悠長なことを言っている場合ではないのだ。危機感の薄い声に苛立ちを感じ、柊吾は電話へ距離を詰めたが、次に聞こえた和泉の声で、文句をぎりぎり呑み込んだ。
『氷花さんの行方を訊きたいのであれば、残念ながら、まだ報告は出来ませんね。調査中というよりも、捜索中という方が表現として的確ですから。何せ、氷花さん。現在行方を眩ませているのですよ』
「はあっ?」
予想外の台詞だった。
七瀬も目を丸くして、「嘘、どうして」と電話に叫ぶ。
携帯の向こうからは『さあ』と涼やかな声が返ってきた。
『まず一つ、君達が知りたいであろう情報を開示しましょうか。……彼女の志望校は袴塚市外ですよ。なので近隣の高校を総当たりしても見つからないでしょうね。それに受験の日程も先になりますので、受験が理由での失踪ではない事くらいしか、僕にも克仁さんにも分からないのですよ』
「藤崎さんにも……?」
これには、本当に驚かされた。
氷花の養父でさえ、預かりの娘の居場所が分からないのか。
和泉があまりに軽やかに話すので、こうして聞いている今も信じられない。
だがこれは、結構大事なのではないか。
柊吾は皆と顔を見合わせてから、代表で訊ねた。
「……いなくなったの、いつからですか?」
『昨夜からですよ』
返事がすらすらと返ってきた。
『もう暫く様子を見て、警察に行こうかと検討しておりました。そういうわけですので、今日も調査中と言わせて頂きました』
「……それは、分かりました。でも、それじゃ俺の質問の答えになってません」
柊吾は言う。苛立ちは、もう隠す気さえなかった。
和泉はのらりくらりとしているが、そんな態度では困るのだ。氷花の兄がそんなにも能天気では困る。同じ危機感を持って欲しいし、助言が今すぐ欲しいのだ。
視界の端では、毬が心細そうに柊吾を見ている。
一度、『動けなく』なった少女。
今でこそ『動ける』ようになっているが、いつまた同じ被害が出ないとも限らなかった。現に『二人目』と『三人目』は既に特定されている。
柊吾は、次に撫子を見た。
今日だけで、何度こうやって見下ろしたか分からない。だがそうしなければ不安なのだ。拓海の言葉が忘れられない。それに撫子自身の言動も、一貫性を欠いている。その不安定さに、こちらの精神まで不安で揺さぶられてしまう。
――怖い。
危ない事になりそうで、それが柊吾も怖いのだ。
その恐れを怒りに変えて、その怒りを言葉に変えて、柊吾は和泉に、言い放った。
「俺らは今、東袴塚の学校にいます。俺と雨宮、陽一郎、篠田と坂上、綱田と佐々木の七人です。そのうちの三人が、風見って奴に狙われたんだ。イズミさん、まだ被害者が出るかもしれないし、風見とか呉野とか、絶対にまた襲ってくると思う。……どうやって身を守ったらいいのか、教えて下さい。あと、何が起こってるのかも教えて下さい。っていうか、普通に助けて下さい。お願いします」
一息に喋って、はあ、と長い溜息をつく。
言いたい事を、一纏めにぶつけたつもりだった。それでもまだまだ言い足りていない気がして、もっと文句を言いたくなる。携帯相手に怒りをぶつけるのも妙な図だったが、ともかく相手の返答を待ち、柊吾は液晶を睨み付けた。
だが、そんなこちらの返答に――異邦人は、やはり笑いで答えてきた。
『……柊吾君、君はやはり、早計ですよ』
「は?」
柊吾は語尾を跳ねあげる。意味不明だったからだ。
「イズミさん、俺らを助けてくれないんですか」
『いえ。そういう意味ではありませんよ。……ですが、柊吾君。いえ、七瀬さんでしょうか。僕を頼るのが早過ぎですよ。大人を早い段階で頼るのは良い判断ですし、それを間違っていると言う心算はありませんよ。正しい判断です。ですが……君達は無事に逃げ延びて、束の間とはいえ安寧を掴み取ったのです。……頭の切れる人間の、考察。それを差し置いていきなり僕を頼るとは。些か非道ではないかと思いますよ』
「……? どういう意味ですか」
『柊吾君。十八の青年は、もう九年前に死にましたよ』
あっさりと、和泉が言った。
唐突に告げられた『死』という言葉にびっくりして、柊吾は息をすっと吸い込む。
だが、驚く事ではなかった。
柊吾の目は、陽一郎と毬、和音の方へ向いた。
和泉がぼかした言い方をしたのは、きっとこの場に、あの青年を知らない人間がいるからだ。
――〝イズミ・イヴァーノヴィチ〟
和泉は、愉快気に笑った。
『九年前の青年は堅物で、九年経って現れた少年は、まだまだ未熟で悩みの数も多いようですが……こちらも、七瀬さんのおかげでしょうか。一応復活してくれたようですので僕も安心致しました。やはり弟子のような存在が心を痛めて潰れていると、先代として心配になりますからね』
「……」
さすがに、ここまで言われたら気づいていた。
柊吾は、振り返る。
思い返せば、この友人は……先程から一言も、会話に参加していない。
「……坂上」
「皆、訊きたい事があるんだ。まず、日比谷に訊きたい」
声が、はきはきと空気を割った。
ざ、と。視線が一か所に集中した。
先程まで、皆が携帯を見つめていた。それが今は人を見ている。
教室の、後ろ。
柊吾の、背後。
学ランを着た少年が、顔を上げて立っていた。
「風見美也子さんと、日比谷は小学五年でクラスが一緒だった。それは三浦と雨宮さんも同じで、呉野さんも同じ。五人は、小学五年の同級生。これは合ってるよな?」
突然名指しされた陽一郎が、ぽかんとする。そしてこくこくと頷くと、質問の主は顎を引いて、軽い調子で頷いた。
「それじゃ、もう一個確認。日比谷。あとこれには三浦と、雨宮さんにも答えて欲しい。……その小学五年の年に、転校していった生徒が出たんじゃないか? それも、二人」
ひた、と。
視線が、陽一郎から、撫子、柊吾へ。順繰りに移ってくる。
――転校。
柊吾の背筋に、冷や汗が伝った。
記憶が、フラッシュバックする。夏の住宅街で、異邦人が笑っていた。成程、と。得心したように。柊吾の小五時代を『見て』言った。
二人、転校したと。
氷花の所為で二人、転校したと。
何故、それを、この友人が。
いや、それよりも。
学校を去った、二人の女子生徒。
その名前は。
「その転校生。――一人は、風見美也子さんだ。そうだよな?」
坂上拓海はそう言って、柊吾達の返答を待った。
皆が、一瞬黙りこくった。
だがすぐに、撫子が答えた。
顔を上げて、背筋を伸ばす。
とんと一歩拓海に近寄り、目と目を合わせ、口火を切った。
「うん。坂上くん。正解。……いたよ。転校していった子」
「それは、誰?」
「美也子と、もう一人」
「それは、誰?」
「坂上くんの、知らない子」
「雨宮さん。その人の事、俺に教えて欲しい」
「……教えて、どうするの?」
撫子が、訊き返した。
感情の、読めない声。無感動にも、寂しげにも聞こえる声。そんな声を聞きながら、柊吾は何も言えなかった。
美也子の、転校。
そうだった。それも、覚えている事の一つだった。
転校、していった。そしていなくなったのだ。
二人共、いなくなってしまったのだ。
撫子の声を受けて、拓海は困ったように微笑んだ。
「分からない。……ごめんな。まだ、分からないんだ」
前へ、拓海が一歩進み出る。
「でも、解決したいって思ってる。雨宮さんの事も、安心させたいって思ってる」
そのまま撫子の隣を通り過ぎ、拓海は黒板の前に立った。
携帯からは、笑い声がした。
『坂上拓海君。君は今、撫子さんの質問に対し分からないと口にしましたが、分かっている事も多いのでしょう? ですが、君以外は分かっていない者が大半です。……拓海君。どうです? 今ここで、僕と〝アソンデ〟みませんか? 僕らの〝アソビ〟、君の仲間達への説明にも丁度いいですよ。受験も終わったことですし、ゲーム感覚で一つ、僕と〝アソンデ〟くれませんか?』
「……はい。受けて立ちます。イズミさん」
黒板を背に立った拓海は、朗らかな笑みを皆に向けた。
いつもの、坂上拓海の顔。
人の良さそうな柔和な笑みを、きっ、と厳しく、引き締めて――まるで宣戦布告のように、強い語調で〝言挙げ〟した。
「皆に、これから幾つか質問をするけど、その前に一つ。今何が起こってて、呉野さんがどういう〝アソビ〟をしてるのか……憶測だけど、分かったから。最初にそれだけ言っとく。――『一人目』の綱田さんが『動けなく』なったのは、風見さんに触られたから。その綱田さんが『動く』ようになったのは、あの状況を見る限り、三浦が綱田さんに触ったからだ」
視線が、ばっと柊吾に集中する。
突然自分が槍玉に上がり、柊吾は目を点にして拓海を見た。
「触られたら、『動けなく』なる。でも、同じ〝アソビ〟をしてるメンバーに、一緒に逃げている仲間に触られたら、また『動ける』ようになる。……この遊びがローカルなのかメジャーなのかは、俺にはよく分かんないけど……こういう普通の鬼ごっことちょっと違う〝アソビ〟、皆も小学生の時とかに、やらなかった?」
同意を求めるように、控えめに拓海が全員を見る。
そして、口調を強いものに再び変えて、言った。
「この〝アソビ〟。多分、氷鬼だ」




