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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 9

「わああん、よかったあぁ」

 感極まったような涙声が、夕方の教室に響いた。

「おい、静かにしろって」

 感動するのは分かるが、教師非公認の集まりなのだ。これではすぐに見つかってしまう。柊吾は渋面を作ったが、拓海が「まあ、俺らがいるし、何とかフォローするから」と取り成すように笑った。

 そしてふと真剣な顔になると、小声で柊吾に耳打ちした。

「それよりも、三浦。今の状況、ちゃんと整理した方が良いと思う」

「ああ。俺もそう思う」

 柊吾は頷くと、拓海と共にその場をぐるりと一望した。

 がらんどうの空き教室。放課後なので誰もいない。

 そこへ集った、中学生の人数は……自分も入れて、七人だ。

 少年少女は一様に、柊吾と拓海を振り返る。

 その視線を受け止めながら、柊吾は今後の事を思案した。

 何から、話すべきだろう。柊吾はここにいる全員と顔見知りだが、そうでない者も中にはいるのだ。全員と面識のある柊吾が、この場を取り持つべきだろう。

 輪の中心に立つのは気が進まないが、そうも言っていられない。

 まずは、自己紹介が無難だろうか。

 柊吾は髪に手をやりながら、リーダーシップを取るべく、重い口を開いた。



 *



 ……まさか、こんな事になるとは。

 それがこの現状に対する、柊吾の率直な感想だった。

 保健室から飛び出した七瀬を追うのは、拓海一人に一任した。柊吾が追い駆ける方が七瀬捕獲は確実だろうが、拓海からその役割を奪うのは酷に思えたし、かといって柊吾まで一緒に行けば、撫子と毬が置き去りになるからだ。

 教員がいるので安全だとは思ったが、〝言霊〟の異能について何も知らない人間の元へ二人を残して大丈夫なのか、柊吾には確信が持てなかった。

 そんな不安から居残りを決めて、三人で拓海の帰還を待ったのだが――まさか拓海が、四人で戻るとは思わなかった。

 確かに拓海は、七瀬を連れて戻ってきた。

 ただし、他にも連れがいたのだ。

 昇降口前で階段を見下ろしながら、柊吾達は絶句した。

 階段を上がってくる拓海と七瀬の背後には――陽一郎と、和音もいたのだ。

 変てこなメンバーだった。何故グラウンドに放置してきた友人と、校門前で毬を待っていたはずの他校生がここにいるのか。

 理由が本気で分からず戸惑ったが、ほどなく四人は、こちらに気付いた。

 真っ先に七瀬が毬の姿に反応したが、奇妙な事に何も言わなかった。隣の拓海を気にする素振りを見せて、瞳を潤ませただけだった。大っぴらに喜ばない七瀬の様子に柊吾は首を捻ったが、ともかく他にも訊くべき事は山ほどあったので、柊吾は拓海に詰め寄った。

 だが拓海は柊吾の前に立つと、開口一番こう言った。

「三浦。説明するけど、ここじゃ目立つから。皆で今から東袴塚中に来てほしい」

 少しぶっきらぼうな言い方だった。ぽかんとする柊吾に拓海は多くを語ろうとせず、柊吾が預かっていた二人分のスクールバッグを礼と共に受け取ると、七瀬を連れてさっさと歩き始めてしまった。連行という表現がぴったりの歩き方に思わず口を挟みかけたが、七瀬が抵抗せずに従っているので、やむなく黙った。

 ……そして、今に至っている。

 東袴塚学園高等部の隣の敷地。そこに併設された学校は、去年にも一度訪れた事のある懐かしの学び舎だ。

 再び訪れた現在、またしても異能の事件に巻き込まれる事になろうとは。

 奇妙な因縁にうんざりしながら、柊吾は教室の一角へ視線を投げた。

「……」

 教室の、窓際。一番後ろの席。

 小声で語らう二人の声が、こちらの方まで聞こえてきた。

「ごめんね。ごめんなさい。坂上くん」

「……ん」

「……許してくれるの?」

「……」

「……ごめんなさい」

「……」

 拓海は、謝られると頷く。

 だが、許すとはなかなか言わない。喧嘩を終わりにする言葉だけは、七瀬に返さず黙っている。

 表情は俯き気味な上に余所を向いているので窺いにくいが、気まずそうな目をしていた。消沈した七瀬が謝罪を繰り返すと反応を見せるが、結局堂々巡りだった。

「……」

 胸が、少しむかむかした。

 かれこれ数分、この調子だ。

 時間がもったいないので、早く機嫌を直して欲しい。だが拓海の気持ちが分からないわけではないし、これは百パーセント七瀬が悪い。とは言え七瀬はもう何度も謝っているのだ。そろそろ機嫌を直してもらわないと、柊吾達も困る。

 湿っぽい七瀬の声が聞こえるのは、精神的に辛かった。そんな声を聞くのは拓海だって辛いだろうに、どうして許してやらないのだろう。柊吾は時間が経つにつれて、拓海に対して薄らと、同情よりも、苛立ちを感じ始めていた。

 ――拓海と七瀬の二人に案内されたこの場所は、二人の教室だと聞いている。

 よく、ここまで来れたものだと思う。拓海と七瀬の足取りは堂々としたものだったが、柊吾達は内心でずっとはらはらしていた。隣の校舎での高校受験という大イベントがなければ、きっと侵入できなかったに違いない。東袴塚の制服を着た生徒には何度かすれ違ったが、特に何も言われなかった。さすがに教師に見つかればその限りではなかっただろうが、鉢合わせずに来れたのは、きっと運がよかったのだ。

 ただ、そこから先が良くなかった。

 元々、拓海達四人の様子がおかしいのには気づいていた。

 四人は口数が少なく、皆が重い空気を漂わせていたからだ。

 あの陽一郎でさえそれは同じで、戸惑いの目で全員の顔色を窺っていた。置いてけぼりにした柊吾達へ恨み言を言う事もなく、粛然と、そして気遣わしげな顔で黙っている。

 絶対に、何かがあった。

 だからこそ拓海は、四人で戻ってきたのだろう。

 一体、グラウンドで何があったのか。『ミヤ』とやらはどうなったのか。そもそも氷花はどう関与しているのか。

 訊くべき事はたくさんあって、すぐにでもそれらを問い質したいのだが……まだ、出来ないままでいる。

 拓海と七瀬が、ずっとこんな調子だからだ。

 二人の様子が一番おかしい。それにも最初から気づいてはいたのだ。

 まず、格好が変だった。何故か二人共砂まみれで、その汚れ具合は靴を履かずに飛び出した七瀬よりも、拓海の方が深刻だった。制服のズボンには蹴り足と思しき砂のスタンプが大量に捺され、髪も妙な方向に跳ねている。

 まるで暴れ猫を取り押さえようとして返り討ちに遭い、滅茶苦茶に引っ掻き回されたような有様だった。

「おい、坂上……それ、どうしたんだ?」

 ここに来る途中うっかりそう訊くと、二人は気まずい沈黙で以て応えてきた。柊吾は状況を察して拓海に同情し、暴れ猫の方には呆れの視線を送っておいた。

 ただ、七瀬を責める気にはあまりなれなかった。

 七瀬があまりにもしおらしく見えたので、怒る気概が削がれたのだ。

 明らかに反省している人間に、しつこく文句を言う気はない。七瀬は現に廊下を歩く途中で、柊吾達に「ごめんなさい」と謝ってきた。トレードマークの巻き髪も、心なしかくったりしている。あの髪は感情のパラメータなのだろうかと何気なく見ていると、撫子も七瀬の髪を目で追っていたのが、不思議と印象的だった。

 教室に到着した拓海は、扉が開いていて、かつ無人であるのを確認すると、窓際の席まで歩き、ようやく七瀬を解放した。

 そして、椅子に掛けて何も言わない。

 唇をむすっと引き結んで、ぷいと余所を向いている。

 拓海らしくない拗ね方だった。とはいえ笑い事ではないので柊吾は静観を決め込んでいたが、いつまでも七瀬の謝罪を聞き続けるのは、いい加減きつかった。

 それに、苛立ちもあるが、それだけが理由ではなかった。

 拓海が突然に見せた子供っぽい怒り方が、やはり意外に思えたのだ。

「……あいつがあんな風に怒るのって。珍しいな」

 柊吾が言うと、撫子が反応した。

「そうかな」と呟き、悲しそうに睫毛を伏せる。

「溜め込んじゃってた、だけだと思う。我慢、いっぱいしてたんじゃないかな」

「我慢? そんなに篠田に怒ってたってことか? 前から?」

「ううん」

 撫子は、首を横に振る。夕焼けの光を受けて、髪が栗色よりもずっと明るい色に光った。伏せられた目も、同じ輝きを映している。

 腕時計に、視線を落とす。

 時刻は四時半を過ぎていた。

「七瀬ちゃんに怒ってるんじゃなくて。……今は、ちょっとだけそうかもしれないけど。前からっていうのは違うと思う。坂上くん、上手く伝わらなくて、伝えられなくて、苦しかっただけだよ」

「伝わらない?」

「言葉が」

 撫子が、拓海を見た。

 表情は希薄だが、その眼差しは寂しげだった。

「七瀬ちゃん、危ない目に遭ったのに。本当に、危ない目に遭ってきたのに。坂上くんが思ってるのと同じくらいの、危なかったんだっていう自覚は……七瀬ちゃんには今も、無いんじゃないかなって思う」

 少し、どきりとした。

 七瀬の話をされているのに、自分の事も、言われた気がした。

「本当に危なかったんだよって伝えても、上手く伝わらなかったら、それってすごくもどかしいと思う。……だから三浦くん。坂上くんのこと、怒らないであげて。誰かに怒られるようなこと、坂上くんは何もしてない」

「……ん。そうだな」

 気まずいながらも、柊吾は頷く。そしてそれきり、沈黙した。

 拓海の気持ちは、今ので分かった。そんな感情が理由なら、もう不用意には怒れない。

 だが、柊吾が今黙ろうと思ったのは……別の理由からだった。

「……」

 不思議、だった。今日は本当にどうしたのだ。

 昇降口でも思ったが、やっぱり今も、不思議に思う。

「雨宮。……どうしたんだ?」

 撫子は、柊吾を見る。だが、すぐに目を逸らされてしまった。そんな反応が予想外で、柊吾はひどく慌ててしまった。

「おい、どうしたんだ?」

 自分は何か、まずい事でも言ってしまっただろうか。だがそんな事はないと思う。それに撫子に怒ったわけでもないのだ。

 なのに何故、柊吾を見ようとしないのだ。

 沈黙する撫子の姿は、何だかいつもよりずっと小さく見えた。きゅっと胸の前で手を握り込んで、身を守るように震えている。

 この姿は、まるで――『見えなく』なっている時と、おんなじだ。

「雨宮」

 柊吾は、呼ぶ。だが撫子は、「なんでもないの」と小さな声で言うだけで、何も教えてくれなかった。

 隠されている。痛みが、また、隠された。

 焦りが胸に、突き上げた。

「なんでもなく、ないだろ。……痛いのか?」

「ううん。お薬飲んだから、平気」

 撫子は、首を横に振る。言いながら、軽く柊吾から身を引いた。怯えているようだった。その怯えを言葉で言い当てられるのを、恐れているかのようだった。

 不審に思い、顔を覗き込む。

 撫子はぎゅっと目を瞑って、柊吾の腹をとんと押した。

 弱々しい叩き方だったが、柊吾は少し、ショックを受けた。

 拒絶された、気がしたからだ。

「…………俺、何かしたか?」

 自分でも驚くほどに、弱った声が出てしまった。

 だがその言葉に、すぐに撫子は返事をくれた。

「三浦くんの所為じゃない」

 柊吾は、呆ける。

 その台詞だけは、少し強い言い方だった。

「……ごめんなさい」

 撫子が謝って、すっと俯く。

 柊吾は茫然としながら、撫子が泣きそうな顔をしているのを見下ろした。

「……」

 自惚れかもしれないが、一つだけ理解した。

 今のはどうやら、拒絶ではないらしい。理由は不明だが、柊吾が嫌だからという理由でそうしたわけではないのだ。

 一緒にいて、と。撫子は柊吾に言った。

 その台詞を聞いた時、柊吾は素直に嬉しかった。

 今までにはなかった事だ。だから、嬉しかった。噛みしめるようにそう思った。

 だが今となっては、素直に喜んでいいのか分からなかった。

 撫子がこうやって柊吾を頼る根底には、どう考えても、不安と恐怖があるからだ。

 撫子は、今も不安なのだろうか。

 怖いのだと、柊吾に囁いた時のように。今もまだ、怖いと思っているのだろうか。だから、柊吾を頼るのだろうか。だから今、饒舌になっているのだろうか。

 だから、今、こんな感情を見せたのだろうか。

 柊吾にはよく分からない感情を、それでも見せてくれたのだろうか。

 今日の撫子は、柊吾から見て……壊れそうなほど、脆く見えた。

「……雨宮」

 柊吾は、撫子を呼ぶ。

 何か、言わなくては。そんな義務感に駆られて名を呼んだが、言おうと気負った途端に身体が熱くなり、いきなり言葉に詰まってしまう。

 俺が守るから怖がるな……なんて。

 そんな台詞は恥ずかし過ぎて、言葉になんて出来なかった。

「……ありがと」

 柊吾は何も言わなかったのに、撫子からは礼を言われた。

 こんな格好悪い煩悶まで見抜かれたのだろうか。恥ずかしかったが、気に病んでいても仕方がない。それきり感情を振り切って、柊吾は窓際を振り返った。

 自分達まで、拗れている場合ではないのだ。窓際で勃発した盛大な修羅場を潜り抜けない限り、事件の状況は謎のままだ。

 不幸な事に、喧嘩はまだ続いていた。

 ただ、幸いな事に、状況には少しばかりの変化があった。

「坂上くん。……ごめんなさい。本当に、悪かったって思ってる」

 七瀬が言いながら、拓海の顔を覗き込む。垣間見えた横顔は悲しげなものだったが、それでも伏せられる事なく、拓海を真っ直ぐ見つめていた。

「二回も置いてって、ごめんなさい。保健室の時は、止めてくれたのに。……言うこと聞けなくて、ごめんなさい」

「……二回じゃない」

「え?」

「二回じゃない。これで、三回目だ」

 拓海は言う。言った直後、自分の言葉に耐えられなくなったかのように俯いた。

 黒髪が、目元を隠す。窓から射す橙の陽光を髪が弾き、頬にはその温かさとは対照的なほどに冷たい、青色の影が落ちた。

「……篠田さんは、『鏡』の時も。俺だけ、先に帰したじゃん」

 七瀬が、目を見開いた。

 言われて初めて、気が付いた。そんな驚きが見える顔。

 そんな七瀬を見ないまま、拓海はぽつぽつと語り続けた。

「あの時だって。俺、篠田さんが帰ってきてから、言ったじゃん。勝手に逃がされたりすんの、嫌だ、って。それでもやっぱり篠田さんは、一人で全部、やろうとするんだ。だから……。ううん、ごめん。ごめんな」

 拓海は精根尽き果てたのか、机の上に突っ伏し、そこに置いていたスクールバッグに顔を埋める。その格好のまま「ごめん」と、吐き出すように繰り返した。

「篠田さん、ごめん。何回も謝らせて。怒ってないから。もう、謝んなくていいから。……無事でよかった。もう、それだけでいいから。だから……本当に、ごめん。怒鳴って、ごめん。乱暴にして、ごめん。ごめん……」

「……ねえ、坂上くん」

 七瀬が、拓海の腕をそっと掴んだ。

「私のこと、どうしたら許してくれるの?」

「? 篠田さん?」

 拓海が、不思議そうに顔を上げた。

 七瀬はにっこりと笑って、握った腕にぎゅうと抱き付く。幸せそうに微笑む顔が、こちらからも少し見えた。

 その顔に、柊吾はぽかんとする。

 この時の七瀬の顔は、柊吾や撫子に向けられるどんな顔とも違っていたからだ。

 七瀬とのグラウンドでの会話を、柊吾は自然と回想する。

 話が拓海の事へと及んだ時、七瀬は、何と言っただろう。

 思い出して、嘆息した。

「坂上って、馬鹿だな。……許してやればいいのに」

 犬も食わない喧嘩とは、こういうものを言うのだろう。腕を上げて、ぐっと伸びをする。柊吾の耳に、七瀬の楽しげな声が聞こえてきた。

「ねえ。我儘、もう一回言ってよ。坂上くん。何でもいいから我儘言って? 言うこと聞くから。何でも一個、坂上くんの言う通りにするから。……私、何したらいい? 坂上くん、私に何して欲しい? 教えて」

「へっ……? えっ、ちょっ、待って、えっ」

 拓海が、飴玉を呑んだような顔になる。七瀬が椅子から腰を浮かせ、拓海にぴったり寄り添った。

「我儘、言ってよ。命令して。何でもするから」

「ま、待った。篠田さん。別に、俺、そんなつもりで言ったんじゃ……」

「じゃあ、私は何もしなくていいの?」

「え、と、それは……」

 狼狽えた拓海に、七瀬が弾むようにさらに抱き付く。途端に赤面した拓海が「わあぁ!」などと騒いで身を引いた所為で、がたごとと机と椅子が激しく鳴り、放課後の静寂が大いに乱れた。

 全く、ここまでくると見ているだけで腹が立つ。柊吾はぎろりと二人を睨んだ。

「おい、坂上。何考えてるか知らねえけど。このチャンス無駄にすんな。今すぐ篠田に二度と単独行動すんなって約束させとけ。でないとこいつ、またやるに決まってる」

「ちょっと、三浦くんには聞いてないんだけど」

 七瀬が柊吾をじろりと振り返り、すっくと立ち上がった。

 そのまま拓海を見下ろすと、「ねえ、いい?」と、何やら伺いを立てている。

 柊吾にはその唐突さが解せなかったが、拓海はそれで了解したようで、我に返った様子で「うん」と頷き、照れ臭そうに笑った。

「俺に付き合わせた所為で、ごめんな。引き留めて」

「ううん。謝らないで。私は二人とも大事。どっちが上とかないんだもん。……それじゃ、行ってくるね」

 七瀬が教室の黒板付近を振り返ったので、柊吾も理由をようやく悟った。

 何という事はない。拓海を傷つけた責任から、こちらを優先してここにいたのだ。だからあちらは、断腸の思いで後にした。

 黒板前には二人の女子生徒と、一人の男子生徒が立っている。

 毬と和音、陽一郎の三人だ。

 三人は所在無げに、そしてこちらから目を逸らして立っていた。いちゃつく二人の所為であちらも相当困っている。妙な親近感を覚えたが、見れば一人だけ目つきの冷たい者もいる。その表情が気になったが、三人のうち一人が前に進み出てきたので、それきり冷たい目の事は忘れてしまった。

 綱田毬が、歩いてくる。

 泣き出しそうな安堵の顔で、さらに数歩、七瀬へ近寄った。

「……毬っ」

 七瀬がその名を呼びながら、駆け出していく。

「七瀬ちゃん」

 毬も名を呼び返し、七瀬に抱き留められて泣き出した。

 七瀬の方もそこで緊張の糸が切れたのか、「わああん」と声を張り上げて泣き始め、放課後の教室は、いよいよ騒がしくなってしまった。

「……見つかるの、時間の問題だな」

 諦めた柊吾が呟くと、隣からは重い溜息が聞こえてきた。

 振り返ると、拓海が机の上で項垂れていた。

 髪はまだ跳ねていて、七瀬捕獲時の爪痕が残っている。ぴょこぴょこと風に踊る髪に撫子が触れようとして、触っていいものか思い悩んでか、手を引っ込めるを繰り返していた。猫じゃらしにじゃれつく猫を見る気分になりながら、柊吾は拓海の肩に、ぽんと自分の手を乗せた。

「お疲れ。……あんまり気に病むなよ」

 柊吾の声に、拓海は顔を上げないまま「ん」と頷く。もそりと髪が動き、撫子の視線が一緒に動いた。柊吾が拓海の髪を一房摘まむと、やっぱり撫子の視線がついてくる。ほんの少し茶目っ気が湧いた柊吾は、拓海の髪をぴんと弾いた。

「……三浦、さっきから何してんの?」

「別に。っていうか、早く元気出せって。元気出ねえなら、とりあえず制服の泥叩いて来い」

「ん……分かった」

 ぐったりと、拓海は頷く。

 そして顔だけで、こちらを振り返った。

「三浦。雨宮さん。……今の俺、すごく格好悪いと思う」

「お前って別に、格好気にするような奴じゃなかっただろ」

 柊吾は言い捨てて、そっぽを向いた。

 別段格好悪いとは思わないが、少なくともスマートではないだろう。柊吾にはその本音を隠す気もなければ、過剰な気遣いを向ける気もなかった。

 いい加減な優しさで、今を誤魔化すのは嫌なのだ。そういう付き合いは、したくなかった。

「坂上。ああいうのを彼女にしたお前が悪い。篠田の暴走はこれからも絶対に治んねえから諦めろ。……また逃げたら、お前が捕まえに行けばいいだけだ。今回みたいに」

「……ん。分かってる。それに、さっき篠田さんにも言ったけど、怒ってるわけじゃないんだ。もう怒ってない。嘘ついてるわけでも、無理してるわけでもないんだ。……けど、なんか、駄目なんだ」

 拓海が、鞄に顔を埋めた。

「俺ばっか、どんどん好きになってってる気がして……なんか、辛い」

「ほんと、なんでお前って……そういうの、さらっと言えるんだ」

 柊吾は腕に立った鳥肌をさすりながら、背後に数歩引いた。

 信じられない甘さだった。同じ人間とは思えない。拓海はどうしてこんな風に、感情を素直な言葉にできるのだろう。柊吾には逆立ちしたって真似できるとは思えなかった。

 そして拓海の事を甘ったるいと思った時、柊吾は父の事を、久しぶりに思い出した。

 今は亡き柊吾の父。母である遥奈に『愛』を語った博愛の人。

 もういない。死んでしまった。だからもう、二度と会えない。

 だが、『愛』は、家族に残った。

「……」

 柊吾は自然と、撫子を見下ろしていた。

 昨日神社で、和泉に言われた事を思い出したのだ。

 撫子が視線に気付き、きょとんとする。

 無垢に澄んだ目で見上げられて、かっと、頬が熱くなった。

「……!」

 速攻で目を逸らしたが、そうなると再び視線が項垂れる拓海に向いてしまい、どこを向いても恥ずかしいという現状に、柊吾は頭を抱えたくなってしまった。

 柊吾は、思う。拓海は甘い。思い煩わなくてもいい事で、苦悩を抱え込んでいる。

 だがそんな友人の葛藤に呆れ返る一方で……柊吾はやっと、ほんの少しだけ安堵を覚えたのだった。犯罪的なその甘さは、柊吾の知る拓海そのものだからだ。

 あの夏以降、柊吾は拓海が変わったと感じていた。軸は変わらないままでも大人びた。性格と価値観に、確実な変化があったと思う。

 ただ、他の面でも、もう一つ。

 別の変化もあった事を、柊吾は思い出したのだ。

 拓海は、夏以降――藤崎克仁と、親交が深くなっていた。

 七瀬の師範。そして〝イズミ〟の日本の父。

 最初は、意外な組み合わせに呆けた。柊吾が気付いた時にはいつの間にか、呼び方が「藤崎さん」から「克仁さん」に変わっていたのだ。一緒に蕎麦屋にも行ったという。あれから柊吾は一度だけ藤崎の家に遊びに行ったが、その際に見た二人の姿を鮮やかに覚えている。

 ……家族のように、見えたのだ。

 不思議な感想だと、自分でも思う。だが、確かにそう見えた。藤崎はソファに掛けながら本の頁を捲っていて、時折手を止めては拓海に声を掛けていた。拓海の方も藤崎の勧める本を物色しながら、解れた表情で笑っていた。どことなく親密な二人を見て七瀬がやきもちを妬いていたのが、まだ記憶に新しい。

 今にして思えば、拓海は話に聞いた〝イズミ〟に少しだが似ている気がした。

 個性が、ではない。もちろん似ている所もあるだろう。だが似ているという表現では、少し語弊がある気もした。

 神主、呉野和泉の言葉を借りるなら、〝イズミ・イヴァーノヴィチ〟は、九年前の夏に死んだ。

 だがそれは、勿論言葉通りの意味ではないのだ。表舞台から退いたという、そんな意味合いだと柊吾は思う。〝イズミ・イヴァーノヴィチ〟は堅物だが、呉野和泉はそうではない。変人には違いないが、基本的には博愛の人だ。

 和泉は〝イズミ〟として俗世と関わるのを止めて、舞台から一歩引いた所から、この世の成り行きを見守っている。そんな隠遁者の立ち位置に、〝イズミ〟は粛々と退いたのだ。

 〝イズミ〟が居なくなった事で、生まれた空席。

 柊吾にはそこに、拓海が座ったように思えてならなかった。

 藤崎と拓海の関係を、馴れ合いだとは思わない。むしろとてもいい関係だと柊吾は思う。夏以来少しだけ変わってしまった柊吾の友人は、家族と友人といった周りの人達を、一層大切にするようになっている。柊吾は藤崎の事をあまり知らないが、息子を手放して悲しまない親などいないはずだ。新しく出来た絆は、きっと藤崎を救っている。

 拓海は〝イズミ〟の居なくなった家に、団欒を齎した。誰にでも出来る事ではない。

 そこまで考えたところで、柊吾は思考が一回りした事に気がついた。

 拓海の甘さに父を見て、その父から家族を連想し、結局、思考が拓海の事に戻っている。

 だから、思い出したのだろうか。

 拓海の余裕のなさばかりが目について、忘れがちになっていた温かさを。今、思い出すことが出来たのだろうか。

 柊吾は口の端だけで、少し笑った。

 拓海は、本当に……頑張っている、友人だった。

 優しさは変わっていない。心は変わっていないのだ。様々な事があった所為で、鬱屈を溜め込んだだけだった。撫子の言った通りなのだ。

「……篠田の事で、お前がそんな心配してんの、見ててすげえアホらしい」

 柊吾は、拓海の頭をわしっと掴む。「三浦、痛い」と抗議されたが、何かしていないと照れ臭すぎて爆発しそうだった。

 すると、隣から別の手も伸びてきた。

「坂上くん。七瀬ちゃん、坂上くんのこと好きだよ」

 撫子が、もそもそと拓海の髪を撫でていた。

 拓海はこちらには驚いたようで、顔を横にしたまま、ぽかんとしている。

「大好きって言ってた。これから他の人のこと、好きになるなんて考えられないくらい好きって言ってた。……七瀬ちゃんには、内緒にしてね。ばらしちゃった」

「……ん、内緒に、する」

 拓海が、かちこちと頷く。

 これでやっと、解決だろう。こんな話でここまで時間を喰うとは思わなかった。柊吾は大きく吐息を吐いて、抱き合う七瀬と毬を振り返った。

 相変わらず、盛大に泣いている。

「おい、静かにしろって」

「まあ、俺らがいるし、何とかフォローするから。……それよりも、三浦。今の状況、ちゃんと整理した方が良いと思う」

「ああ。俺もそう思う」

 柊吾は全員を振り返り、見渡す。

 そして、自己紹介を促そうと、声を張ろうとしたのだが――陽一郎の姿が目に留まった瞬間、気が変わって歩き始めた。

「おい、陽一郎」

 びくりと、陽一郎の肩が跳ねる。大方、柊吾が怒るとでも思っているのだろう。

 その予想は大当たりで、まだ柊吾は何も言っていないにも関わらず、陽一郎は「ごめん!」と叫び、すたこらと逃げようとした。

「おい、こら。逃げんな。事情洗いざらい吐くまで逃がさねえ。居残れ」

「やだ、三浦くん怖いんだけど。ねえ、やっぱり恨んでんじゃないの?」

 七瀬が涙を拭いながら、呆れ眼で柊吾を見てくる。「そんなんじゃねえし」とすかさず言い返しながら、柊吾は陽一郎の襟首をむんずと掴んだ。

「坂上、なんでこいつ連れてきた? なんか事情あるんだろ? それ早く訊かせろ。っていうか……どうなってんだ? この状況」

 柊吾は言いながら、周囲をざっと見渡した。

 そうやって、改めて見回したメンバーは…………やはり、変てことしか言いようのない面子だった。

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