花一匁 8
その笑顔に気付いたのは、七瀬だけのようだった。
人の流れを逆走し、雑踏を掻い潜るように階段を駆け上がる七瀬は、その時偶然見てしまった。
隣をすれ違った女子が、一人――――笑っているのに気付いたのだ。
少女と七瀬。両者の間にはたくさんの人間が行き交っていた。その隙間から、僅かに覗いた顔の笑み。吊られた唇。赤い舌。たなびく髪は巻かれていた。袴塚中学の制服だった。
一瞬の邂逅。すれ違ったその刹那、時間が止まったようだった。
こちらは相手に気付いたが、あちらは七瀬に気づかなかった。生徒の波に流されるように、ふらふら階段を降りていく。
覚束ない足取りを、視界に捉えたその瞬間――七瀬は不意打ちの悪寒に震え、思わず足を止めてしまった。
冷たく、そして厭な笑い方だった。弱者を見下げているのだと、すぐに分かる。こんな顔をする女子など学校社会にたくさんいる。あれは、そういう顔だった。そんな顔を七瀬は見たのだ。
条件反射でかっとなった。顔を見たその瞬間に、人間性を掌握した。七瀬は多分、あの子が嫌いだ。
だがとても奇妙な事に、その笑みを見た七瀬がより強く感じたのは、怒りではなく恐怖だった。
怖い。何故かそう思う自分がいた。普段の自分からは考えられない心の動きに、七瀬はひどく動揺した。
その混乱に任せるように「今のっ」と叫ぶと、柊吾がすぐ振り返ってくれたが、結局七瀬は、柊吾を頼ろうとはしなかった。自分でも被害妄想だと思ったからだ。それに少女を不気味に思った程度で、皆の足を止めたくなかった。そんな時間がもったいなかった。
今は、拓海と毬が大事。その一心で、七瀬は言葉を呑み込んだ。
全てを忘れ、狂気の笑みを、なかった事にしようとした。
だが、状況は変わっていた。
拓海の言葉が変えたのだ。
――綱田さんがこうなったのは、絶対、呉野さん絡みだって俺は思う。
でも多分、それだけじゃないんだ。
呉野さんが絡んでるのは間違いないって思うけど、直接手を下したのは、呉野さんじゃない。
――絶対、『あの子』だ。
その言葉が、火を点けた。
分かった。
あの子だ。
突き上げるような怒りと共に、七瀬はそれを理解した。
根拠はない。だが確信した。やはりあの子がそうだった。
柊吾は今頃、きっと怒り狂っているだろう。拓海も今回ばかりは怒らせてしまったかもしれない。それにすごく傷つけた。七瀬が全部悪いと思う。
だが和解も謝罪も、一先ず全部後回しだ。
追い駆ける。全力で。毬の救い方は分からないが、それでも仇を野放しにして、じっと待つなんて出来ないのだ。手がかりを求めて、仇を求めて、七瀬は一人で駆け続けた。
階段は長く、校舎三階分は高さがある。今後毎日のようにこの昇降運動を繰り返すのかと思うと心底うんざりさせられたが、今だけはいい。何でも良かった。全ての恨みつらみと動揺を、身体を動かす力に変える。早く。早く。一歩でも前へ。仇の少女の行く先へ。そして、早く校門前へ。
佐々木和音の、待つ元へ。
「和音ちゃんの馬鹿……っ、なんでこのタイミングで、東袴塚に来るかなあ!」
走りながら、悪態を叫んだ。
吸い込む空気は冷えていて、足の指先も凍えていく。ごつごつしたコンクリートを靴下一枚で駆ける様は何だかあの日の氷花のようで、だからと言って笑えない。そんな余裕はどこにもなかった。
心配だった。和音の事が。
本当に、何故和音は今日ここへ来たのだろう? 七瀬には理由が分からなかった。
ただ、それでも許せなかった。
和音がどういう経緯で毬を気遣うようになったかは知らない。だが少なくとも和音はここにいるべきではなかった。和音は氷花を何も知らないのだ。そんな友人がここにいても、邪魔で迷惑なだけだ。心配になってしまうだけなのだ。
もし。和音が今、氷花と出会ったら?
他者の『弱み』を暴き、抉り、嘲弄する、鬼の少女と出会ったら?
暴言を、吐かれたら?
〝言霊〟を受けてしまったら?
――篠田には悪りぃけど。俺はあいつの事、あんまり良く思わなかった。
柊吾の言葉を思い出し、七瀬は頭を抱えたくなった。
「……もう!」
駄目だ。
『弱み』だらけだ。
七瀬自身が、直接今の和音を見たわけではない。だがあの柊吾が倦厭を示したのだ。ぶっきらぼうながらも優しい柊吾が。他者の悪口の吹聴など、柊吾は絶対にしないだろう。
その柊吾に、あんな言葉を言わしめた。
きっと、今の佐々木和音は――七瀬の知る佐々木和音と、ほんの少し、違う子だ。
何故、変わってしまったのだろう。歯噛みしながら、同時に祈るような気持ちで七瀬は思う。以前のままでいてくれたなら、一体どれだけ良かっただろう。手抜きでぼんやり生きているような和音でいてくれたなら、まだ身を守れたかもしれないのに。今の和音はどういうわけだか、そんな防御を捨てていた。明らかに無防備になっていた。
一応、氷花の狙いからは外れた人間。だが人伝の言葉では安心など出来なかったし、少なくとも現に今、この敷地を『ミヤ』が徘徊しているのだ。毬を犠牲にした悪意の少女が、今も同じ場所にいるのだ。
『ミヤ』が氷花の差し金なのか、その真偽は分からない。
だが、拓海の憶測を信じるなら……何をされたらまずいのかは、今の七瀬にも分かっている。
――間に合わなきゃ。
きっ、と前を睨み、唇を引き結ぶ。
和音は七瀬の友達だ。たとえ内容の薄い会話しか交わして来なかったとしても、浮かべられた笑みも薄っぺらでも、共に過ごした時間は消えない。向けてくれた笑顔も和音から七瀬宛てのものだ。たとえ嘘でも、七瀬宛てのものなのだ。
助けよう。和音を。毬と同じにならないように。
助けに向かう理由なんて、それ以上は必要ないのだ。
走る七瀬が靴を履いていない事に、気付く生徒が出始めた。ざわりと視線が身体に張り付き、風景と一緒に背へ流れる。髪が頬を何度も叩き、靴下は砂と泥とですっかり白くなっていた。我ながら本当にひどい格好で走っている。和音を見つけたら絶対に、文句をたくさん言ってやるのだ。
そう心に決めて、走り続けた時だった。
あと少しで階段を降りきる。そんな折に、声がかかった。
男子の声。
やや高めの声だった。
「あのっ、待って!」
後ろから聞こえた声を、七瀬は最初気に留めなかった。
ただ何となく引っ掛かりを覚えたので、七瀬は振り返る。
そして呼ばれたのは自分だったと驚きと共に気づかされ、ぎょっとして立ち止まった。
「日比谷くんっ?」
七瀬を呼んだのは、日比谷陽一郎だったのだ。
へろへろとした足取りで、階段を必死に降りてくる。息は切れ切れで、顔も可哀想なくらいに真っ赤だった。相当懸命に走ったと、一目で分かる形相だった。
「ま、待って……さっきの人、だよね……?」
陽一郎はぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら、七瀬の前で立ち止まる。苦しそうに喘ぎながらも安堵した様子の陽一郎に、七瀬は声を掛けれなかった。
思い出していたからだ。数分前の、出来事を。
「日比谷くん……もしかして、私達を追い駆けて来ようとしてた?」
七瀬はここを離れる時、撫子の手しか引かなかった。
置き去りにされた陽一郎がその後どうしていたかは、完全に意識の外だった。
「……」
気まずい。それに後ろめたかった。陽一郎は不思議そうに七瀬の顔を見てきたが、七瀬は少し俯いた。
……さすがに、七瀬が悪かった。
他校の友人の輪に突然乱入した揚句、その友人を攫っていったのだ。陽一郎から見れば七瀬は邪魔者以外の何者でもないだろうし、きっと怒りや理不尽も感じたはずだ。それにすごく、寂しかったと思う。それが分からないほどの礼儀知らずではないのだ。
もし、七瀬が人から同じ仕打ちを受けたなら。
今考えた事と同じ事を、きっと七瀬も思うだろう。
――本音を言えば、七瀬は陽一郎に対し、どうしても好意的になれない自分を感じていた。
それは、柊吾の境遇に同情した所為かもしれない。先程『きつそう』と言われた事も、実は結構効いていた。一番言われたくない言葉だからだ。
だがそんな個人的な感情は、七瀬が陽一郎にした仕打ちを、正当化する理由にはならないのだ。
状況は、緊迫している。
だがここで再び陽一郎を説明なしに放り出すのは、七瀬の良心が許さなかった。
「日比谷くん。置いてけぼりにしてごめんなさい。三浦くんと撫子ちゃん、勝手に連れてってごめんね」
息を弾ませ、七瀬は言う。すっと頭を下げると、自分の呼吸が白く流れた。
狭窄した視野の上の方で、陽一郎が「えっ」と言って身を引いたのが分かる。
顔を上げて見た顔は、案の定ぽかんとしたものだった。そのくせ七瀬と目が合うと、途端におろおろ狼狽え始める。煮え切らない態度に呆れたが、七瀬は少しだけ笑って見せた。優柔不断な慌て方が、ほんの少しだけ拓海に似ていた。
そんな七瀬の反応がやはり意外だったのか、陽一郎は不思議そうに、首をこてんと傾げてきた。
「あの、なんで僕に謝るの?」
「なんでって。こっちが悪いって思った事は、謝るのが普通でしょ?」
七瀬は答えながら、校門方面へと視線を馳せる。話しながらであっても油断は禁物だ。どこに氷花や『ミヤ』がいるとも知れない。
生徒数は、まだかなり多い。その雑踏に紛れた所為か、探し人の姿が見えない。グラウンドに集う生徒の中には騒ぎを知らない者も多いのか、階上に比べてパニックを起している人数は少なかった。
見ようによっては、平和を取り戻しかけているようにも見える。
だが絶対に、まだ敷地内にいるだろう。
あの校門を『ミヤ』が通った時、そこで和音に出会った時。必ず何か、悲劇が起こる。確証はないのに、七瀬はその予感の正しさを信じていた。
『あの子』は、袴塚中学の制服を着ていた。その符号が不吉なのだ。
毬も袴塚中。
和音も袴塚中。
そして『ミヤ』も袴塚中。
同じ学校の女子生徒達。
……関連は、間違いなくあるだろう。
「日比谷くん。今日はもう、このまま帰った方がいいよ」
七瀬は、静かに言った。
陽一郎には悪いと思う。突然の事で、やっぱり説明ができていない。
それでも、タイムオーバーだ。
七瀬はくるりと踵を返し、陽一郎に背を向けた。
「三浦くん達は保健室にいるけど、用事で時間かかると思うから。――じゃあ悪いけど、急いでるの!」
「ま、待って! ええと、あの、名前っ」
おろおろと声がかかったので、振り返って「篠田!」と叫ぶ。何やら声が返ってきたが、七瀬は「ばいばい!」とだけ叫び返し、校門目掛けて走り始めた。それで終わりだと思っていた。
だが、甘かった。
背後の声はしつこく、それどころか「篠田さん待って! 何で一人で走ってんの? 靴、履き忘れてるよ!」と要らぬ気遣いを押し付けてきたのだ。
一体どこの中学に、靴を履き忘れる女子がいるのだ。謝意が瞬時に蒸発した七瀬は「うるさいんだけど!」と殺気立ちながら、陽一郎を振り返った。
そして、ぽかんとした。
陽一郎が足を止めて、驚いた顔をしていたからだ。
「……?」
違和感。
何を、驚いているのだろう。何だか変な感じがした。感情が、おかしい。上手く繋がっていなかった。七瀬は陽一郎にこんな顔をされるような言動など、取ってはいないはずなのだ。
それに、純粋な驚きの目は、七瀬の顔を見ていない。確かにこちらを見ているのに、目線が全く合わなかった。
あ、と気づく。
それが違和感の正体だ。
陽一郎の視線は、どこへ向かっているのだろう。
これではまるで、もっと遠くを見ているような。
眼差しの先を追うように、七瀬は何気ない調子でそちらを振り向く。
そして、身体を、強張らせた。
「……」
さっきは、いなかったはずだ。いや、人ごみで気づかなかっただけなのだ。
だから今、ようやく気付いた。
そこに立っている事に。
「二人目。みぃつけた」
ぱちん、と金属の音が高らかに鳴った。
その音は、鋭利だった。そして冷たい音だった。触れてはいないのに温度が分かる。冷たい金属の音だった。
「……。あんたでしょ? 『ミヤ』って子」
ゆっくりと、七瀬は言う。
かちりと、自分の中で、何かのスイッチが入った気がした。
全身を、そちらに向ける。声を聞いた瞬間から、覚悟も折り合いもついていた。
制服に、巻き髪。特徴は全て合致している。拓海の言った通りだった。一点だけを除いては。
華奢な手に握られた、青い鋏を除いては。
「日比谷くん、下がって」
七瀬は振り返らないまま、一歩前へ踏み出す。背後では陽一郎の気配がびくりと震えていた。怖いのかもしれない。七瀬だって怖い。だが恐らくは陽一郎が恐れるほどに、七瀬は少女を恐れていない。怒りが恐怖を薄めていた。だからこうして立っていられる。
大丈夫だ。七瀬は負けない。負ける気もしなかった。
「……ねえ。毬やったの、あんたなんでしょ? 私、東袴塚の篠田七瀬。あんたの事を『ミヤ』ってあだ名なんかで呼ぶの嫌だから、フルネーム、名乗って」
淡々と、七瀬は言う。相手の名を訊くのだから、自分から名乗るのが筋だと思った。
だが七瀬の恫喝に、少女は反応を示さなかった。
前方二メートルほど先の距離で、薄らと笑みを浮かべて立っている。
不気味な笑みを浮かべた少女は、無言で、鋏を鳴らしていた。
しょきしょきと金属が擦れ合う音がして、時折ぱちんと強く響く。拍子を取っているようだった。あるいはそうする事で、精神の安定でも図っているのか。少女の手は執拗に、断続的に、何も無い空間を鋏で忙しく刻んでいた。
「……」
腕に、鳥肌が浮いていく。
思わず身体を両腕で掻き抱くと、冷気に晒され続けた身体はびっくりする程冷えていた。虚勢を無理やり振り絞って、七瀬は少女をきっと睨んだ。
間違いない。
この子は敵だ。
この子が毬を、あんなにしたのだ。
「……」
無言のまま、互いに静止。
その時間は、きっと数秒にも満たなかった。相手は七瀬を見ておらず、それ故七瀬も動けなかった。相手の出方が分からないし、声が届いているかも分からないのだ。そんな相手とどう戦うか、必死に考えながら立ち続けた。
すると、周囲から悲鳴が上がった。ギャラリーの誰かが気付いたのだ。少女の握った青い鋏に。昇降口前での狂乱が再び伝播し、周囲からざっと生徒達が引いて行く。
いつしか七瀬達三人を中心に、円形の輪が出来上がっていた。
人が人を取り囲み、それを皆で見つめている。
見た目だけなら子供の遊び、『かごめかごめ』にも見える風景。だがこれは遊びではなく、そんな生ぬるいものでもない。もっと殺伐として生々しい、公開処刑のようなものだった。
「……日比谷くん、早く逃げて。あの子、何するか分かんない。早く」
七瀬は、言う。背後の陽一郎へ、感情を殺して淡々と。だがそれを言う自分の声が、震えているのは分かっていた。
手を、ぎゅっと濁り込む。弱気になっては駄目なのだ。止めてくれた人達を、振り切ってまでここにいる。その七瀬が弱気になるのは、柊吾や拓海が許しても、七瀬自身が許せなかった。
それに、理由はそれだけではなかった。単純に陽一郎が心配なのだ。
別にこれは、罪滅ぼしのつもりではなかった。ただ、やっぱり思うのだ。七瀬が陽一郎と逆の立場だったなら、あんな状況で放り出されて、一人で帰れと言われても納得なんて絶対できない。訊きたい事がたくさんあるのに相手が何も答えてくれない。それはやっぱり理不尽だと、七瀬は心から思うのだ。
だから、助ける。陽一郎を。
行動理由などそれくらいで十分であり、もちろんその為に自分を犠牲にする気もなかった。
七瀬と陽一郎は、二人共が無事なまま、この場を乗り切らなければならないのだ。
そして、さらにその上で――七瀬は和音を探し出して、この少女との接触を、阻止しなければならないのだ。
「……」
こうして考えてみると、とんでもないミッションだった。こんなハードルの高さなんて聞いていない。冗談は大概にして欲しい。
だがこれが達成できなければ、謝る事もできなくなる。
柊吾と拓海に、謝る事もできなくなる。
保健室に皆を置き去りにした時の、二人の慌て様を不意に思い出してしまい、七瀬はくすりと笑ってしまった。ほんの少しだけ、心が軽くなったのだ。
和音との友人関係は、柊吾に言わせれば『面倒臭い』ものらしい。確かにそうだと七瀬も思う。おかげで大変な事になっている。
だがその面倒臭さが、ここで終わるのは嫌だった。それについてごちゃごちゃと考える方が、七瀬からすれば『面倒臭い』。
七瀬は笑みを引き締める。
今は、考えるのは止そうと思う。
ここで七瀬がすべき事を、やりたいようにやるだけだ。
「……日比谷くんの所為だからね。こんなややこしくなったの。ねえ、早く走って逃げて。途中で転んだり、あの子に追いつかれたりしたら許さないから」
「あの、篠田さん、あの……!」
「さっさと逃げてって言ってんでしょ! 早く! 逃げて!」
ぐずぐずしている暇はないのに、何故逃げてくれないのだ。
強気が一転して、焦りと苛立ちに変わる。この少年は絶対に運動音痴だ。見た目だけで十分分かる。連れて逃げるのは骨だろう。早くも現実の壁にぶち当たり、七瀬は俄かにまごついた。
だがそんな七瀬の動揺は、次の瞬間、凍り付いて固まった。
「みいちゃん」
「……え?」
「みいちゃんだよね?」
陽一郎が、ふらりと一歩進み出る。驚きのあまり自然とそうしたような、放心の様子だった。
七瀬もまた、放心していた。だが慌てて我に返ると「だめっ!」と叫んで陽一郎のブレザーを掴む。だがそうやって引き留めながら、頭は真っ白になっていた。
何? 誰?
みいちゃん?
陽一郎が、少女をそう呼んだ?
……まさか。
「日比谷くん、まさか……、この子と知り合いなの?」
「う、うん」
陽一郎が、気もそぞろに頷く。
そして「みいちゃん」ともう一度、か細い声で、そのくせ不思議そうに少女を呼んだ。
その視線を追うようにして、七瀬も少女を振り向いたが――この時ようやく、七瀬は自分が余所見をしていた事実に気付いたのだった。
視線を前方に戻した時、状況は動いていた。
ざっと、砂を蹴る音がする。
こちらへ肉薄すべく地を蹴った少女の体躯が、陽一郎へと迫っていた。
「! だめ!」
七瀬は陽一郎を突き飛ばした。
反射で、そして渾身の力で突き飛ばされて、「うわあぁ!」と叫んだ陽一郎の身体が、面白いように吹っ飛んでいく。見た目通りの軟弱さだった。強く突き過ぎてこちらも反対へ吹っ飛んだが、そうやって出来た空間に、飛び込んできた少女の顔は、にいと無邪気に笑っていた。
「……!」
肌が一斉に粟立った。
――間一髪だったのだ。
触られたら、『動けなくなる』。拓海の述べた見解が脳裏に赤く点滅し、心臓がばくばくと脈打った。
あと少し、突き飛ばすのが遅ければ。二人のどちらかが犠牲だった。共倒れも有り得ただろう。本当に危ないぎりぎりのところで、七瀬達は助かったのだ。
冷たい風が、全身を嬲る。ますますほつれた髪が揺れて、顔の前をたなびいた。そんな最悪の視界の中で、少女がスローモーションで動いて見える。七瀬の目の前を横切りかけて、その勢いを殺せずに、矮躯がゆっくり傾いでいく。前のめりになっていく。
七瀬は、行動を迷わなかった。
やらなければ、やられる。その信念に基づいて、七瀬も瞬時に動いていた。
体勢を立て直し、その勢いのまま腰を落とす。そして眼前を行き過ぎかけた少女の膝裏目掛けて、七瀬は右足の蹴りを見舞った。
あっ、と悲鳴が聞こえ、軽く乾いた手応えが、七瀬の足首に伝わってきた。
「……っ」
胸が、鋭く痛んだ。
そんな暴力は初めてだった。学校の柔道や少林寺の乱捕りでもしない。ふざけてでもやってはいけない。それが七瀬の良識だった。背徳感と罪悪感で、胸がぎゅっと痛んだ。
反射と手心の拮抗した暴力は、それでも七瀬にとって吉と出た。
元々不安定だった少女の身体が、七瀬の一押しでぐんと前へ押し出される。鋏が手から弾け飛び、グラウンドへ落ちた先達を追うようにして、少女の膝も、地面に付いた。そうやって派手な擦過音と砂煙を立てながら、少女はその場にくずおれた。
――転んだ。
それを視認した瞬間、七瀬は猛然と駆け出した。
最悪の気分だった。正当防衛と言うのは容易いがそれでも人を蹴飛ばした。手を差し伸べようとしてしまう。相手は仇にも関わらず、謝りそうになってしまう。
だが、逃げるべきだった。
今は逃げるべきなのだ。
「日比谷くん、立って!」
尻餅をついた陽一郎の腕を、無理やり掴んで引っ立たせた。
「早く! 今の内に逃げよう!」
「で、でも、みいちゃんが……」
「もう! なんで知り合いなのっ、あんた達は!」
やりきれず、七瀬は怒鳴った。これでは埒が明かなかった。感情が氾濫し、溢れてた激情が苛立ちに変わって爆発する。二人は知り合いらしいが、そんな事実七瀬は知りたくなかった。どんどんややこしくなっていく。
因縁を、感じていた。『ミヤ』と毬が呼んだ少女を、『みいちゃん』と陽一郎が呼んだのだ。
そして毬は今『動けなく』なっていて、しかも眼前の不審な少女は、先程『二人目』と叫んでいた。
それに、拓海も言っていた。これは氷花の〝アソビ〟だと。
「……」
これは、もしかしたら……最悪の展開かもしれない。
信じられないし、出来る事なら信じたくない。
だがこの少年は、ひょっとして。
「……ねえ、日比谷くん。呉野氷花って覚えてる?」
七瀬は陽一郎を立たせながら、投げやりに訊いてみる。
すると陽一郎は、目に見えて表情を硬くした。
何と言うか、分かり易い。七瀬は溜息を吐いた。
「なんで篠田さんが、呉野さんのこと知って……」
「あの変態女には、こっちで散々な目に遭わされたから。……っていうか日比谷くん。今回の被害者候補に、日比谷くん、また入ってるよ」
「……へ? えっ? 被害者っ? えっ?」
「二人目ってあの子言ってたでしょ? あの子とどういう関係だか知らないけど、近寄っちゃだめだからね。……触られたら多分、『動けなく』なっちゃう」
言いながら、じりじりと七瀬は陽一郎を率いて後退した。
少女は未だに、転んだままだ。その動向を注意深く見つめながら、必死になって後退する。
もう、間違いなかった。
日比谷陽一郎は、確実に――氷花の〝アソビ〟の、参加者だ。
ただ、だとしたら状況がまずかった。
どうする? 助けを求める?
周囲をざっと見渡したが、もう人の輪は崩れていた。七瀬達を遠巻きにしていた生徒達はもっと遠くへ逃げている。助けを求めて声を出すより、少女に先に捕まってしまう。
せめてもの救いは、相手が鋏を持っている事かもしれない。異常者然とした少女の立ち居振る舞いに、周囲の者は引いていた。喧騒の中からは教師を呼びに行こうと騒ぐ声が聞こえ、何人かの生徒が駆け出すのも、視界の端に過った。
もうすぐ、警察と救急車、それに教師がやってくる。
そのいずれかがここへ来れば、きっと少女は捕まるのだ。
つまり、その間まで逃げ切れば――――七瀬達の勝ち。
逆に、その間に捕まれば――――七瀬達の、負けとなる。
「……日比谷くん。行こう」
七瀬は、陽一郎の手を握った。
陽一郎が驚いて七瀬を見たが、「走って。あと余計な質問は後で訊くから今言ったら許さない」と滅茶苦茶な脅しで圧をかけると、顔色を青くして、ぶんぶんと頷いてきた。やはりとても腑に落ちないし、腹が立って仕方が無い。きっと相性が最悪なのだ。
ならば、いちいち失礼なこの少年は、さっさと柊吾へ押し付けよう。
渋い顔をされるだろうが、そんな顔を見たかった。
「行こう!」
覚悟を決めて、七瀬は陽一郎の手を引いた。
そうやってグラウンドを逃げ回るべく、校門の方角へ進路を定め、一歩、足を踏み出した。
その時だった。
「――――美也子!」
声が、響き渡ったのは。
その声は、大きな声ではなかった。むしろ、控えめ。人目を気にしたような声。
女の子の声だった。
知っている声だった。
「和音ちゃんっ?」
七瀬は立ち止まり、ばっと声の聞こえた方へ顔を向ける。
そして、そこに友人の姿を見つけた瞬間、怒りと安堵ともどかしさが混じり合い、自分が一体どんな顔をしているのか、七瀬は自分でも分からなくなってし合った。
佐々木和音が立っていた。
人ごみの中から、勢いよく飛び出してきたのだ。ポニーテールに結った髪が、マフラーと一緒に揺れ動いた。蒼白な顔でこちらを見た和音は、七瀬の声に驚いたのか、はっと息を詰まらせた。
「七瀬ちゃん? なんで、ここに……」
「和音ちゃん、駄目!」
七瀬は、慌てて叫び返した。
感傷も情動も、一瞬で消え失せた。
思い出したのだ。のっぴきならない状況を。
和音はここに、居ては駄目だ。
七瀬は問答無用で、陽一郎を引き摺る。「ぎゃあぁ」と首でも絞められたような潰れた声が聞こえたが、無視して強引に引っ立てて、和音の真ん前に駆けつけた。
「和音ちゃん、逃げて! っていうか、今すぐ私と一緒に逃げて!」
「七瀬ちゃん、何言ってるの? っていうか、何してるの。後ろの人、すごい苦しそうだけど」
「もう! いいから!」
本当に埒が明かなかった。
空いた方の左手で、和音の右腕を引っ掴む。和音がびっくりした顔で「ちょっと!」と抗議してきたが「説明は後!」と切って捨てた。
「今はとにかく私と逃げて! 後で言うから!」
「待って七瀬ちゃん。後回しにしないで。ちゃんと説明して。逃げるって何の話? ……それに、美也子がっ」
「あああぁっ、もう! 何! 何なの! いい加減にして!」
最後まで聞かなかった。
和音の台詞をぶった切り、七瀬はその場で絶叫した。
既視感で、眩暈がした。
今のやり取りで分かったのだ。
祟られている。そう思った。
陽一郎にしろ和音にしろ、どうしてこのタイミングなのだ。
『ミヤ』に『みい』に『ミヤコ』。
――どう考えても、同じ人間の異なるあだ名だった。
「もう、嫌っ! なんで和音ちゃんまで、その子と知り合いなわけっ!?」
七瀬の癇癪に、和音は答えようとしなかった。不機嫌そうに黙り込み、さっと七瀬の手を引き剥がして、先へ進もうとする。
「ちょっと、和音ちゃんっ?」
少し、かちんときた。
だが苛立っている場合ではないのだ。少女は幸いにしてまだ立ち上がっていなかったが、近い距離に座っているのだ。早く逃げるべきだった。
少女は転ばされたにも関わらず、七瀬を振り返りはしなかった。
それどころか妙に晴れやかな笑みを浮かべ、手をグラウンドへ伸ばした。
「あ……!」
鋏だ。
鋏を、拾おうとしているのだ。
どくんと、心臓が鼓動を打った。
来る。
少女が鋏を拾ったら――〝アソビ〟が、再び始まってしまう。
「行っちゃ駄目、和音ちゃん!」
七瀬は絶叫した。裏返る寸前の大声だったが、それでも和音は答えてくれなかった。迷いのない足取りで、ローファーの踵をこつこつ鳴らして歩いていく。
そして、あろうことか。少女の真正面で足を止めたのだった。
「……」
少女が、立ち上がる。
手には、青色の鋏。
髪は転んだ拍子に乱れたのか、茶髪は少女の瞳を不気味に隠し、頬に張り付きながら揺れていた。
ひゅう、と風が吹きすさび、少女の目元の髪を払う。
露わになった少女の顔に、目立った表情は何もない。先程まで七瀬と陽一郎に向いた笑顔は、いつの間にやら失せていた。
だが硝子玉のような目が、和音の姿を捉えた時――冷然たる光が、獰猛に宿った。
にい、と口の端が吊られていく。
微かな痙攣を見せた笑みに、周囲の生徒が総毛立った。
異様な少女は、ギャラリーの一挙手一投足にはまるで関心を示さずに、平然とした口調で、ついに口火を切ったのだった。
「和音ちゃんだ。えへへ、おはよう」
その声は可愛らしく、普通だった。
ごく普通の挨拶を、ごく普通に言ったような、そんな普通の声だった。
実際にこの台詞を日常の最中で訊いたなら、誰も何も思わなかっただろう。
だからこそ、余計に普通ではなかった。
「和音ちゃん……!」
七瀬は、口を挟もうとする。和音と少女の距離が近い。それがとても怖いのだ。
正直なところ、実感はこの期に及んでまだ薄い。触られて本当に、『動けなく』なるかも分からない。
だが、犠牲者が出ているのだ。危険はあまりに明白で、危機感の有無は関係ないのだ。それが和音に伝わらないのが、この上もなくもどかしかった。
「和音ちゃん、戻ってきて! 理由、あとで説明するから! とにかくその子から離れてっ!」
「七瀬ちゃん、ちょっと黙って」
きっぱりと、言い捨てられた。
再三の呼び掛けに、和音は振り返る事さえしてくれない。少女だけと向き合っていて、それを邪魔する七瀬の事を、明らかに邪魔だと思っている。
そんな素っ気なさに、やっぱり七瀬はかちんときたが……なんとか、文句を呑み込んだ。
柊吾を、思い出したのだ。
「……」
これか。
和音のどこが変わったのか、何となくだが分かった気がした。
沈黙する七瀬達を、陽一郎がおろおろと見比べていた。先程までは苛立った相手だが、こうなってみると案外一番の常識人はこの少年かもしれない。少なくとも鋏女と堅物女に比べたら、まだ会話になる相手だった。
七瀬は怒りを静かに呑んで、じっと成り行きを見守る。和音の事は腹立たしいが、それだけを理由にここから逃げるつもりはなかった。
逃げる時は、和音も一緒だ。
だから、まだ、逃げられない。
「美也子。高校受験、どうしたの」
和音が、言う。
その声音は硬かった。目の前の少女の不可解さを無理やり理解しようとして、理解が及ばず恐れている。抑えた声量の和音の声から、そんな恐怖が伝わってくる。
状況が、もう滅茶苦茶になっていた。
和音と陽一郎。二人共が、仇の少女と面識がある。何故陽一郎が少女と面識があるのかは不明だが、和音の方は何となく予想がついていた。
和音と『ミヤコ』は、きっと友達なのだろう。互いに名前で呼び合っていて、着ている制服も同じなのだ。推測は容易かった。
そして『ミヤコ』によって身体の自由を奪われた毬も、彼女を『ミヤちゃん』と呼んでいる。こちらもまた、友人同士で間違いない。
毬、和音、そして、目の前のこの少女。
三人は、友人同士。
「高校受験? ああ、そっか。そうだったよね」
少女は、くすくすと笑った。
和音の強張った声を不思議にも思っていないのか、楽しそうに笑っている。
異質な笑い方だった。無垢とも形容できる笑い方は十五の歳よりずっと幼い少女のような、あどけなささえ窺えた。
そして少女が次に告げた台詞は、先に告げたものよりも、さらに異質なものだった。
「忘れてた」
しん、と場が静まり返る。
七瀬は、口を開けたまま沈黙した。隣で、陽一郎も固まっている。「みいちゃん……」と、蚊の鳴くような声がした。
和音もまた、絶句していた。
多分だが、誰よりも驚いていたと思う。友人の立場の佐々木和音が、最も衝撃を受けている。これほど感情を露わにした和音を、七瀬は初めて見た気がした。
「忘れてた……? 高校受験を、忘れてた……?」
信じられないとでも言うように、和音が言う。
対面の少女は首を縦に振って、人懐こい笑みを和音に向けた。
「うん。忘れちゃってた。えへ」
「……何、言ってるの、美也子……!」
和音が、少女に詰め寄る。
二人の距離が、あと一メートルほどに縮まった。
「! 和音ちゃん、待って」
呼び掛けながら、七瀬もその後を数歩追った。背後で陽一郎が慌てている。早く逃げろと言ったのに、いつまで経っても逃げてくれない。気弱なのか人がいいのか、迷惑だったが憎めなかった。だがこの場に居られても困るのだ。正面と背後、両方を気にするのには限界がある。
焦りを覚えた七瀬の耳に、二人の会話が聞こえてきた。
会話は、続行されていたのだ。
「美也子。馬鹿みたいな事言ってないで質問に答えて。……ここに、何しに来たの」
「毬ちゃん達に会いに来たの。あと、和音ちゃんにもね」
「毬」
和音が、顔色を変えた。
「……美也子。毬の事で、何か文句あるなら私に言って。私に怒ってるから、こんな事してるの? 鋏なんか、持ち出して。……美也子、帰りなよ。ううん、帰って。皆が見てる。それにここで騒ぎ過ぎたせいで、先生も呼ばれてるんじゃないの? ……困るの、そっちだと思う」
「……あはは」
和音の声に、やはり少女は笑っていた。
この期に及んでまだ普通に、無垢な様子で笑っていた。
――狂っている。
この場にいる全員がそう思った、瞬間。
螺子が弾け飛ぶように、少女がけたたましく笑い始めた。
「あはははっ、ねえ、和音ちゃん! 謝ってよ!」
「……っ、はあっ?」
和音が唖然として身を引く。少女は哄笑を上げながら、和音へ向かって、一歩、二歩と踏み出した。
まるで追い詰めるように、逃がさないとでも言うように。狂気の笑みで詰め寄った。
「和音ちゃん、謝ってよ! 和音ちゃんは私と同じなんだもん。大丈夫だよ、絶対同じだから大丈夫。だから和音ちゃんも鬼になれるよ? ねえ、ルールなんて作り替えちゃえばいいんだもん。鬼が二人いたって大丈夫! そういうルールだよって皆に言ったら、それで皆、納得してくれるよ? ねえ、そうしようよ。和音ちゃんも鬼になろうよ? ねえ? ねえっ? ねえっ!」
「ちょっと、美也子っ」
「だから、謝ってよ和音ちゃん! 私の代わりに謝って!」
少女の笑みが、深くなる。
あどけない顔に心底からの愉悦が、壊れそうなほどに満ち満ちた。
「私の代わりに、謝って! 謝ってよ、和音ちゃん! 謝って、謝って、謝って、謝って!」
もう聞いていられなかった。
「っ――――、」
七瀬は、息を吸い込んだ。
限界だった。口を挟まずに見守るのは。
うるさいと、そう怒鳴りかけていた。
だが七瀬の口出しよりも、別の声の方が早かった。
「――――いい加減にして!」
すかん、と空に抜けるような声。
澄んだ響きのその声は、最初に聞いた控えめなものとは、質も声量も違っていた。
驚いた七瀬が見た和音の顔は青白く、だが頬が少し赤かった。顔にもちゃんと、表情があった。
……怒って、いた。
今まで、感情をあまり見せてはくれなかった。その和音が、怒りを露わに立っていた。
唇を震わせて、感情を震わせて、それを隠そうともせず立っていた。
「……私に謝って欲しいなら、普通に、そう言えばいいでしょ。代わりって何? 鬼になれるって何の話? 美也子が何を言ってるのか、私には分からない。毬をあんなに泣かせて、高校受験すっぽかして、私達に会いに来て、それで、私に、何を代わりに謝って欲しいの? ……もう、帰って。やっぱり美也子の顔、今は私、見たくない」
和音は、少女を睨み付けた。
「帰って!」
血を吐くようなその言葉に、少女の表情が切り替わった。
「そう」
一瞬、無表情になる。
氷の温度を思わせるほどに、笑みの質が、冷たく凍った。
「じゃあ、和音ちゃんも、『逃げる』方ってことだよね?」
その台詞に、はっとした。
少女がすっと息を吸い込み、笑みを深めた顔のまま、和音に向けて、強く叫んだ。
「――三人目、みぃつけた!」
手が、和音へ鋭く伸びた。
「!」
七瀬の行動は早かった。
陸上のスタートダッシュのように飛び出して、和音のコートを引っ掴む。和音がぎょっとして体勢を崩し、ぐらりとよろめいた鼻先を少女の手の指が引っ掻いた。
そのまま遠心力で振り回すように七瀬が和音の身体を振り解くと、和音はきっと七瀬を振り向き、仇のように睨んできた。
「何するの七瀬ちゃん!」
「逃げてって言ったの聞かないからでしょ! 和音ちゃんのばか!」
怒鳴り返した七瀬は、少女の前に立ち塞がる。
少女が、七瀬を見た。
きょとんと首を傾げている。
七瀬は和音を背に庇うと、少女を真っ向から睨み付けた。
これから、どうすればいいのだろう。分からなかったが、何もしないわけにはいかないのだ。
身体が、震えた。武者震いではない。恐怖で身体が震えていた。その感情が恐れなのだと、もう認めないわけにはいかなかった。
……鋏が、怖い。
他愛のない凶器。小学生の使うような、先の円い刃物。
だがそんな鋏であっても、使い方一つで人を傷つけられるものなのだ。
……どうしよう。
すごく、怖い。
「……」
少女の目が、和音から七瀬に移ってくる。
そして、「ねえ、名前、なんていうの?」と訊いてきたので――恐怖を忘れて、七瀬はかっとなった。
さっき名乗ったばかりなのに、あの自己紹介はなかった事にされていた。それが癇に障ったのだ。
「篠田七瀬。さっきも言ったと思うけど?」
「……ちがう」
「え?」
七瀬は訊き返したが、少女は返事をしなかった。
サイレンが、聞こえたからだ。
「! やった!」
救急車が到着したのだ。
音の方向へ、七瀬が振り返った途端――――どんっ、と強く、背中に何かがぶつかった。
「っ!?」
奇襲。
びっくりして固まった油断が、反撃の隙を七瀬から奪った。
にゅっと腕が伸びてきて、いきなり羽交い絞めにされたのだ。
腕が吊られ、何も無い空を手が引っ掻く。身体が後ろにぐいと引かれ、背後の人間の身体に、背中が強く押し付けられた。
「! やっ……!」
痴漢。
冷静に考えればそんなわけがない。ここは高校敷地なのだ。
だが混乱した七瀬はそこまで考えが及ばず、ざっと血の気を引かせて、滅茶苦茶に暴れまくった。
「ちょっと、やだ! 誰っ! ……離してっ!」
思い切り肘鉄を食らわせた。
「ぶっ」と間の抜けた声がして、七瀬はぎくりと動きを止めた。
声で、分かった。痴漢ではない。
それどころか……彼氏だった。
「さ、坂上くん」
「いい加減に、してくれ!」
鼓膜が、びりびりと震えた。
七瀬はびくりと竦み上がり、動きを止める。そのまま息も止まった気がした。
本気で、怒鳴られた。
そのショックで、動けなかった。
「……ごめんなさい」
七瀬は、言う。分かったのだ。どれだけ傷つけたか。分かっているつもりだったが、つもりでは駄目なのだ。
傷付けてしまった。七瀬が思うよりも、ずっと。
「……」
拓海は、しばらくの間何も言わなかった。羽交い絞めから解放もしてくれない。おかげで腕と身体を吊られたまま、七瀬は身動きも出来なかった。
とんと、胸板にもたれてみる。すると、腕をやっと外してもらえた。
外れた腕が、ぎこちなく胸元とお腹に回ってくる。ようやく少し安心して、七瀬は「捕まっちゃった」と呟いてみた。
「……捕まえるの、大変、だから……もう、こういうの、やめてほしい……」
苦しそうな掠れ声は、元の優しい声に戻っていた。呼吸は結構乱れていて、どれほど急いでくれたかよく分かる。喋るのだって、もしかしたら辛いのかもしれない。だから、声をかけずにいきなり羽交い絞めだったのか。七瀬は少し呆れて、ちょっとだけ笑った。
だが、笑っている場合ではなかった。
すぐに状況を思い出した。
「……あ! 待って!」
はっと、身体を起こそうとする。捕まってしまった所為でやっぱり動けなかったが、七瀬は正面を見つめ、「待って!」ともう一度叫んだ。
少女が駆け出すのが見えたのだ。
七瀬達に背を向けて、校門方面へ逃げていく。
だが、そのまま行ってしまうかと思われた少女は、突然こちらを振り返った。
その顔は、笑顔。やはり普通の笑みだった。狂っているのはこちらなのだと、正気がぐらつきそうな顔。
そんな顔を、睨んでいると――――眩暈を感じ、ふらついた。
安心した所為かもしれない。薄着の自分の身体を覆う、男の子の身体が温かかった。だから急に、力が抜けてしまった。
「篠田さんっ?」
慌てた拓海の声を聞きながら、七瀬は地面にへたり込みかけて、腕で再び支えられた。だが、もう足が立たなかった。ひどく、疲れてしまっていた。
ただ、そんな状態であっても、仇を忘れたつもりはなかった。
七瀬は少女を睨んだが、相変わらず微笑む少女は、七瀬を見てはいなかった。
その視線の先には、二人の人間。
陽一郎と、和音がいた。
陽一郎は、七瀬から少し離れた所で顔面蒼白になっている。和音の方は、七瀬のすぐ隣でへたり込んでいた。結局、さっき揉み合った時に転んでしまったらしい。顔色は陽一郎同様に白い。いっそ青いくらいだった。
硬直する二人の男女を、少女は食い入るように見つめていた。
そして、ふと柔和に笑い、二人に優しく語りかけた。
「陽一郎、こないだは電話ありがと。久しぶりだったし、もっと話したい事もあったけど……また、迎えに来るからね。でも陽一郎よりも、和音ちゃんが先かなあ」
言いながら、少女は和音へ微笑んだ。
「ねえ、待ってるから。大人に〝アソビ〟を邪魔されない時に、また一緒に遊んでね? ……じゃあ、ばいばい。和音ちゃん。またね。待ってる。待ってるから……」
それを最後に、少女は背中を向けて走っていった。
サイレンの鳴り響く雑踏の中へ、生徒の海の中へ、身軽に走って消えていった。
誰も、追い駆けられなかった。
見送る事しか、出来なかった。
「……和音ちゃん」
七瀬は、和音を呼ぶ。
確かめたい事があったのだ。
「あの子、友達なんでしょ。……名前、教えて」
和音は、返事をしてくれなかった。七瀬の声が聞こえていないわけがないのに、敢えてこちらを見ないようにしている。頑なに俯く横顔は、唇をきつく噛んでいた。
そんな様子に、七瀬が苛立ちかけた頃。
「美也子」
と。
投げやりに、和音が言った。
「風見美也子。私と毬の、学校の友達。…………友達、だった子」
「……だった?」
「……」
和音は、それ以上何も言わなかった。
四者の間に、重い沈黙が満ちた。




