花一匁 7
校舎を支配した異常に、柊吾はすぐに気づいていた。
昇降口前の階段を駆け上がり始めてすぐ、誰かの悲鳴が聞こえたのだ。
階上からは生徒達が、恐怖の形相で駆け降りてくる。半狂乱で泣き叫ぶ声まで聞こえたので、さすがに吃驚して立ち止まった。
「おい……っ、何なんだっ?」
明らかに、只事ではなかった。
先陣を切った柊吾が止まると、背後の七瀬と撫子も足を止める。二人も事態の異様さに気付いたのか、戸惑った様子で校舎を見上げていた。
立ち止まる柊吾達の両脇を、何人もの生徒が駆け抜けていく。
形振り構わず人々が逃げ惑う光景は、まるで特撮映画のワンシーンのようだった。冷風に乗ってすれ違った言葉の断片が、柊吾の耳を劈いていく。
それらはどれも不穏な言葉で、そして聞き捨てならないものだった。
逃げろ。
早く。
危ない。
誰か。
警察。
救急車。
「はあっ!?」
顔色を変え、全員で顔を見合わせた。
「おいっ……、何なんだ! 警察って、救急車って!」
「私に分かるわけないでしょ!」
七瀬が頭を振って絶叫した。
「毬……今行くから、無事でいて……!」
祈るように呟く七瀬を横目に見ながら、柊吾は校舎を振り返る。
ここで今、何が起こっているのか。それは柊吾には分からない。
だが、何かが確実に起こっている。状況は緊迫していて、しかもこれは間違いなく、所謂『普通』の事件では有り得ないのだ。確証はないが、全員がそれを理解していた。
何故なら、拓海が言ったからだ。
頑なに氷花との関わりを拒否する拓海が、柊吾達に『全員で行動しろ』と言った。確証など、それで十分事足りた。
間違いない。
これは、氷花がらみだ。
撫子が『見えなく』なったように、七瀬が『鏡』に閉じ込められたように、三度目の異能の事件が、ついに起こってしまったのだ。
「行こう。七瀬ちゃん。三浦くん」
撫子が、七瀬の腕を引く。走る生徒を避けたのか、コートに包まった身体を七瀬にぴたりと寄せて、聳え立つ校舎を振り仰いだ。
「坂上君、一人で頑張ってる。毬ちゃんも。早く行って、安心してもらおう」
七瀬を励ます撫子に主だった表情はなく、狼狽えた様子もまたなかった。
毅然と構え、前を見ている。
――雨宮さんの事、もっと気をつけて一緒にいた方がいい。
柊吾の脳裏を、拓海の言葉が過っていった。
「……」
薄ら寒さを、感じた。
「そうだよね。撫子ちゃん、ありがと。呉野さんの所為だったら、絶対に許さない」
雑踏の中で、顔を上げた七瀬が挑戦的に校舎を睨む。撫子はその様子に安堵したのか微笑んだが、柊吾の視線に気づき、こちらを見た。
「三浦くん、どうかした?」
「……いや、何も」
柊吾は首を振る。今気にしても仕方がないのだ。
意識を、無理やり切り替える。
そして「行くぞ!」と二人へ檄を飛ばし、階上だけを睨み据えたが――そう言って走りはじめた途端、七瀬が「今のっ」といきなり叫んだので、出鼻をくじかれた柊吾は慌てて足にブレーキを掛けた。
「どうしたっ?」
振り返って叫んだが、七瀬は一度息を呑んだ後に、「いいから! 三浦くん走って!」と柊吾を急かした。訝しみながら、それでも急かされた柊吾は言われるままに再び走る。引っ掛かりを覚えたが、本人がいいと言ったのだ。後で訊けばいいだろう。昇降口のガラス扉へ駆け出しながら、懸念を振り切り、柊吾は叫んだ。
「篠田、保健室はどっちだ! 東袴塚の奴なら場所知ってんだろっ」
「昇降口通ったら、廊下を右! 入口から見えてる! ……そこの、窓のとこ!」
昇降口扉の真横。すぐ近くだ。素早く位置関係を把握しながら、柊吾が再び目線を前方扉へ向けた時、視界の中に、すぐに見つけた。
たくさんの教師と生徒で入り乱れる、廊下の真ん中。
そこに見覚えのある学ランを着た、男子生徒が一人いた。
「……いた! 坂上!」
ぐんとスピードを上げて、扉に突っ込むようになだれ込む。ローファーの爪先が簀子を蹴飛ばし、かこんと甲高い音が鳴った。勢いよく突入してきた柊吾達に驚いた生徒が脇によけ、その人物がこちらを向く。
少年は驚いた様子で、柊吾の名前を呼んできた。
「三浦!」
拓海だった。
鞄に引っ掛けていたらしい青色のマフラーが、動きに合わせて揺れ動く。顔には安堵の色が灯ったが、すぐに表情は凍りついた。
七瀬が柊吾を追い抜き、拓海に向かって駆けたからだ。
「坂上くん! 毬は、毬は……!」
七瀬の声が、湿っぽくなる。掴みかからんばかりに詰め寄られて、拓海が苦しそうに沈黙した。東袴塚の二人を視界の端に捉えながら柊吾はローファーをその場に脱ぎ捨て、同じく靴を脱いだ撫子を振り返った。
「雨宮、大丈夫か?」
「大丈夫」
撫子が小さく咳き込みながら、柊吾に頷く。無理をして走らせたので、呼吸がかなり辛そうだ。撫子の細腕を取りながら背後を振り向くと、「保健室に行った!」と拓海の声が、ざわつく廊下に反響した。
「これから救急車が来るって聞いた。綱田さん、身体が動かないんだ」
「動かないっ? どういうこと?」
七瀬の声が、動揺で上ずる。拓海は頷き、ちらと廊下の果てに視線を投げた。
視線を追った先には、『保健室』のプレート。
七瀬の言葉通り、本当に近い場所だった。
「綱田さん、身体が金縛りみたいになってて、自力でほとんど動かせないんだ。無理に動かそうとしたら、痛いって言ってる。これから病院に行く事になるけど……多分、あれは。病院に行っても、動くようにはならないと思う」
「そんな……! なんで!」
「考えるから。篠田さん。どうしたら元に戻るか、ちゃんと考えるから」
拓海が、七瀬の肩に手を置いた。
焦燥に染まった声だったが、同時に落ち着きも感じる声。
この事態の解決の為に、必死に思考を続けている。それが分かる声だった。
「皆も。聞いてくれ。――綱田さんがこうなったのは、絶対、呉野さん絡みだって俺は思う」
「!」
緊張が走った。
やはり。柊吾は唾を呑み込んで、拓海に一歩詰め寄る。
七瀬も拓海の腕を掴み返し、悲痛な表情で顔を上げた。
「坂上。呉野、どこ行った」
「呉野さん、ここにいるの? この学校にいるの? 毬に、何したの!」
「それは、まだ分からない」
拓海は、首を横に振った。それが解明できていない事が自分の落ち度だとでも言うような、そんな悔しさが声にはあった。
「呉野さん絡みなのは間違いないし、絶対だって思う。でも、呉野さんだけじゃない。他にもいるんだ。呉野さんとは違う、別の子が……この事件に、関わってるんだ」
「は?」
柊吾は驚き、七瀬も目を瞠った。
「どういう事だ?」
すぐに訊ねた柊吾へ、拓海は「それは」と何事か喋りかけたが、ふと、視線が斜め下に落ちて――柊吾の隣に立った撫子に気付いたのか、表情が、固まる。
「雨宮さん……」
「? なあに?」
「……ううん、ごめん。後でちょっと、訊きたい事があるんだ。とにかく皆、保健室に来てほしい。篠田さん、行こう。救急車が来る前に!」
「うん!」
頷く七瀬を連れて拓海が走っていく。「おい……」と柊吾は声を掛けたが、結局そのまま黙り込んだ。
「……」
何なのだろう。今の反応は。
柊吾は撫子の手を引きながら、前を走る拓海と隣の撫子とを見比べる。
先程の電話のやり取りを、また思い出していた。
拓海は妙に、撫子を気遣っている。
「……雨宮」
「?」
柊吾の呼びかけを受けて、撫子がこちらを見る。そして拓海に答えた時と同様に、「なあに」と小首を傾げてきた。
ただ、柊吾は撫子に訊いておきながら、何を訊ねていいやら分かっていなかった。
体裁の悪さを覚えて「あー」と無意味に唸ったが、結局普通に、こう訊ねた。
「体調、大丈夫か?」
「? うん。大丈夫」
「そうか」
あっさりと確認が終了した。余計に体裁が悪くなったか、まあいいか、とも思ってしまう。大丈夫ならそれでいい。それが分かれば十分だった。
ただ撫子の場合、本当に体調が辛い場合でも無理して言わない事がある。
痛み止めの薬を捨てた事を、柊吾はまだ、忘れていない。何故捨てたのか問い質して、やっとの事で『怖い』という一言が聞けた日の事を、まだ、忘れていないのだ。
自然と、その日の撫子を思い出す。
思い出して、辛くなった。
泣いている撫子は、出来る限り、見たくない。
「三浦くん、どうしたの?」
柊吾に手を引かれて走る撫子が、軽く手を握り返した。
ぼんやりしていた柊吾は我に返ったが、撫子にいよいよ不思議そうな目で見られてしまい、たじろいだ。
「べ、別に。何でも」
「本当に? 今日、ちょっと変。何かあったの?」
「へ、変って……別に。何もねーし」
「そう?」
「ん」
撫子は思案気な様子だったが、「じゃあ、いい」と言って、柊吾の手をもう一度握り返してきた。
「……」
何だか、しっかりと握ってくれた気がした。
久々に照れ臭さを覚えたが、どう言葉を掛ければいいか分からなかった。何せ口下手な上に不器用なのだ。おまけに撫子の方も口数は多くないので、これが柊吾と撫子の日常だった。
それに、言葉は足りている。
撫子とは充分に、話し合って来たはずだ。
だから今こうして一緒にいるのだし、それがこれからもずっと、続いていくと思うのだ。それが当たり前の事なのだと、柊吾は疑っていなかった。
だから、拓海の言葉は不穏だった。
急に撫子の安全を気にし始めた拓海の言葉が、柊吾にとって当然の平穏を、滅茶苦茶に壊してしまう気がして……本当の所、柊吾は、怖いのだと思う。
「……三浦くん」
だから。
撫子が、さらに言葉を発した時。
柊吾は、素直に驚いていた。
もう、会話は終わった。そんな風に思っていた。続きがあるとは思わなかった。
柊吾を見上げた撫子は、前方の拓海と七瀬を一度見てから、再び柊吾を見上げる。柊吾が驚いているのを意外に思っているようで、それでいてお見通しのようだった。そんな悪戯っぽさと心細さとが、ない交ぜになったような顔。薄らとした表情に、細やかな感情が透けて見える。
その繊細さが、何だか酷く、危うげなものに思えて――急に不安が押し寄せて、柊吾の胸を詰まらせた。
撫子は、淡い笑みをそっと浮かべた。
そして内緒話をするように、小さな声で、囁いた。
「……一緒に、いて」
「……雨宮?」
「ちょっとだけ、……怖い、の。三浦くん。……一緒に、いて。お願い」
「……。いる。当たり前だ」
手を、こちらからも握り返す。
撫子は返事をせず、柊吾の手をやっぱり握るだけだった。だがもう、それだけで柊吾には十分だった。それ以上は、望まない。そんなにたくさんは要らなかった。
元気で、傍にいてくれる。それ以上の幸福を望めば、それこそ何かが壊れてしまう。そんな気がして柊吾はいつも、きっとどこかで怖いのだ。
「人だかり、すごいね」
撫子が、ぽつんと言う。
その声を受けて柊吾も前方に視線を向けると、たった数メートル先の保健室前は、やはり生徒で溢れていた。倒れた女子生徒への心配なのか興味なのか、生徒がわらわら群がっている。
「……行くか」
背筋が、すっと伸びた気がした。
撫子の事は、拓海に後で訊けばいい。
今は、別の少女の事。そちらを早く確認すべきなのだ。
柊吾と撫子が人だかり前に到着すると、先についていた七瀬が臆する事なく人ごみを掻い潜り、扉を勢いよく開け放っていた。
途端に、「関係のない生徒は来ないで!」と、仁王立ちした女性教諭の、怒声が辺りに轟いた。
「おっかねえ」
思わず柊吾が呟くと、「聞こえる」と撫子が小声で諌めてくる。だが柊吾の連れにはもっと好戦的な女子がいるのだ。たった今教諭と向き合っている東袴塚の少女に比べたら、柊吾の言葉など程度の可愛いものだと思う。
果たして、そんな内心の感想は大当たりだった。
女性教諭の理不尽な制止は、やはり七瀬の逆鱗に触れていた。
「関係あります! 倒れた子は友達です! 通してっ!」
耳を劈くような怒鳴り返しと共に、七瀬は教諭をきつく睨む。
だがここから先の予想は少しハズレで、七瀬は怒鳴った直後に「あっ、戸田先生?」と呟き、きょとんと目を瞬いていた。
戸田と呼ばれた教諭の方も、目を真ん丸に剥いて七瀬を見る。
知り合いだろうか。柊吾も見覚えがある気がしたが、よく思い出せなかった。
「いやだわ、篠田さんじゃない。あなた何しに来たのっ」
「何って、受験に決まってるでしょ! どいて下さい!」
七瀬はそれ以上耳を貸さず、教諭の脇をすり抜ける。「ちょっと!」と眉を吊り上げる教諭に拓海が「すみません!」と謝ったが、言いながら拓海も保健室内へ滑り込んだので、悪いとは思ったが柊吾も撫子を引き連れて、強行突破に加わった。
「もうっ、何なのあなた達! 出ていきなさいってば!」
ヒステリックな罵声を浴びながら入った保健室は、暑いのか寒いのか、何だかよく分からない場所だった。白い部屋の真ん中には石油ストーブが赤く光り、同時に清涼な冬の風も身体に感じた。きっと換気中なのだろう。開けられた窓からは茜の光が射していた。
室内を一望した途端、「毬!」と七瀬の声が奥の方から聞こえてきた。
いる。
どくんと、薄い緊張感が身体に張った。
白いカーテンで仕切られた一角に、早足で近づく。七瀬の後姿がすぐに見えたので、「篠田」と小声で呼び掛けた。
七瀬は今にも泣き出しそうな顔で振り返り、隣に立つ拓海の方は、沈痛な面持ちで目を逸らす。
二人の背後には白いベッド。
そこに横たわる人物を見て、柊吾は息を吸い込んだ。
……およそ、一年ぶりの再会だった。
「七瀬ちゃん……」
辛そうな、声がする。
白いシーツを胸元までかけられた少女は、目線を天上に向けていた。
七瀬の呼びかけに答えてか、首をゆっくりと傾けたが、動きは酷く硬かった。
まるで球体関節の入った人形のような、ぎこちない動き。それでも懸命に身体を動かそうとする健気さが、何だか酷くいじましかった。
七瀬が口元に手を当てて、嗚咽を漏らして泣き始める。
綱田毬は目尻に涙を浮かべながら、そんな七瀬を見上げていた。
「……七瀬ちゃん、ごめんね。泣かないで。だいじょうぶ」
「大丈夫なわけないでしょ! ばかあ!」
ぐいと七瀬が涙を拭い、「誰にやられたの」と、低い声で詰め寄った。
「毬。これ病気とかじゃないよね。急になんでしょ? ねえ。誰! 誰にやられたの!」
「篠田さん」
毬を労わってか、拓海が間に割って入った。
「犯人は、呉野さんで間違いないと思う。でも多分、それだけじゃないんだ。俺はさっき、別の子も関係してるって言ったよな? 綱田さん、その子の事をさっき、『ミヤちゃん』って呼んでた」
「え?」
七瀬が、拓海を見る。
拓海は頷いて、苦しそうに目を細めた。
「少し、長めの髪で、篠田さんみたいに巻いてた。袴塚中の女子だった。その子に綱田さんが触られて、そしたらいきなり、こうなったんだ。……多分、あれが原因だ。それしか考えられないんだ。呉野さんが絡んでるのは間違いないって思うけど、直接手を下したのは、呉野さんじゃない」
拓海は一同を見渡す。
この場にいる全員の視線に、臆した様子は全くない。
柔和な面立ちを苦渋に染めた拓海は、重苦しい口調で、それでもはっきり断言した。
「絶対、『あの子』だ」
柊吾は唖然として、その言葉を聞いていた。
思考が、止まっていた。予期せぬ方向から、想定外の攻撃を食らった。その衝撃が大きすぎて、何も考えられなかった。
誰だ。
そいつ、誰だ。
それが感想だった。てっきり氷花だと思っていた。そしてその考えは、決して間違いではないはずだ。呉野氷花の関与まで、拓海は否定をしていない。
だが、氷花だけではないのだ。
まだ、いるのだ。加害者が。悪意で動く人間が。
毬を『動けなく』した人間が、氷花の他にも、まだ、いるのだ。
「……誰、それ」
七瀬が、茫然と呟く。柊吾の内心を代弁するように呟かれた声は、ひどく虚無的なものだった。
顔も、表情に乏しい。無表情に近かった。
その頬に、次第に赤味が射していく。血が通ったようだった。瞳の陰りが取り払われて、生気が爛々と熱く宿る。
直情で、凄烈な怒り。
澄んだ瞳にその感情を見た瞬間、柊吾は七瀬の顔に明確な既視感を覚えた。
これは、知っている顔だった。その血の温度も感情も、何もかもに覚えがある。
中学二年の、初夏。〝言霊〟に誑かされた陽一郎を追い駆けた時に、スーツ姿の異邦人と出会った住宅街で、柊吾もその感情を知ったのだ。
仇の正体が判明した、あの瞬間の柊吾の顔。
「……」
今こそ、分かった。この顔だ。
今の七瀬は紛れもなく、あの時の柊吾そのものだ。
「おい……、篠田」
声を、思わずかけた。率直に、心配になったからだ。
だが、七瀬は聞かなかった。
あの頃の柊吾と同じように、直向きとも愚直とも取れる好戦的態度で、拓海の顔を見上げたのだ。
「他の特徴は? その子の。坂上くん」
拓海が、声を詰まらせる。気圧されたようにも見える顔だが、きっと拓海も気付いたのだ。そして同時に、危ぶんでいる。七瀬の敵意と仇討への奮起。それが柊吾のものと同じなのだと、この瞬間に気付いたのだ。
だからこそ、拓海が慎重な様子で告げた台詞は……柊吾の予想通り、七瀬を諌めるものだった。
「他の特徴は……分からない。でも、篠田さん。追いかけたら駄目だ」
「どうしてっ」
「頼むからやめてくれ! 触られたら、こうなるかもしれないんだ!」
七瀬が、目を見開いて拓海を見る。
拓海も、荒げた声量に自分でも驚いたのか、ショックを受けた顔で黙った。
「……」
柊吾は、目を逸らした。
見ていられなかった。拓海も、七瀬も。二人共の、気持ちが分かる。
二人がここで交わした言葉は、先程柊吾が拓海と電話で交わしたやり取りと、何一つ変わらないのだ。同じ諍いを別の相手で、焼き直しているだけだった。拓海の相手が、柊吾から七瀬に変わっただけだった。
申し訳なかった。拓海に対して。困らせていると知っていた。分かっているつもりだった。それを全て承知の上で、我を通しているつもりだった。
だが、こうして七瀬を止めようとする拓海を見てしまったら……何だか、やるせなくなったのだ。
柊吾も、思ってしまったのだ。拓海がやっぱり、正しいと。この諍いを見て思ったのだ。
七瀬は、何もすべきではない。安全の為に行動は控えるべきだった。柊吾と七瀬は同じなのに、自分の時には通した筋を、七瀬の時には駄目だと思う。
狡かった。我儘だ。酷い欺瞞だと気づいていた。結局柊吾達は互いの事が心配なだけで、その所為で喧嘩を繰り返しているようなものだった。
相手の心は、分かっている。だから今まで一緒にいたのだ。それなのに折り合えない自分達の幼さが痛々しくて、見るに堪えず、俯いた。
もっと、柊吾達が大人だったなら。
こんな拗れ方は、せずに済んだだろうか?
柊吾達はやっぱりまだ中学生で、悔しいくらいに子供だった。
だが、拓海は辛抱強かった。
「篠田さん。俺のわがまま、聞いて欲しい」
柊吾が自己嫌悪に囚われていても、七瀬が怒りで我を失っていても、拓海だけは冷静だった。他者と向き合う事をやめていない。全てを投げ出さずに立っている。辛そうにしながらも、思いを言葉にするのを止めなかった。
必死で、真摯に、七瀬を説得し続けた。
「あの子に触られたら、多分、こうなる。もしこれが、呉野さんの〝アソビ〟なら。どういう〝アソビ〟なのかも、多分だけど、大体分かってる。……だから、行かないで欲しい。篠田さんに、同じ風になられるのは、……嫌なんだ」
一度そこで言葉を切り、拓海は顔色を失くす七瀬に「ごめんな」と、寂しそうに囁く。
そして全員を振り返り、さらに言葉を、継ごうとした。
だが。
和やかに収束するかと思われた空気は、ここで、急激に温度を変えた。
七瀬が、拓海を遮ったからだ。
「待って。坂上くん」
冷静な、声だった。
怒りを押し込めたような、ぞっとするほど普通な声。
状況とそぐわない普通さに、柊吾は違和感を覚えて七瀬を見る。
そうやって見下ろした七瀬の顔は、先程の顔と同じだった。
仇を、討つ。それを決めた者の顔。
柊吾と同じ目つきだった。
「ねえ。さっき言った『ミヤ』って子に身体を触られたら、私達、今の毬みたいになるかもしれないんだよね」
言いながら、七瀬は毬を見下ろす。
毬は悲しげな表情で七瀬を見上げたが、身体はぴくりとも動かない。
拓海はそんな毬を痛ましそうに一瞥してから、「多分」と、肯定の言葉を七瀬に返した。
「そう」
七瀬が、頷く。
そして徐に、コートの前ボタンを外し始めた。
「……。へ?」
拓海が、ぽかんと七瀬を見る。七瀬は構う事なく、黒く重そうなコートのボタンを、上から順に外していった。白茶色のセーターと白いセーラー服、紺のスカートが露わになる。ばさりとコートを脱いだ七瀬はベッドに近寄り、毬の身体にそっとかけた。
毬が、きょとんと七瀬を見た。
「七瀬ちゃん……?」
「毬、待っててね。すぐに戻るから」
柊吾は思わず、撫子と顔を見合わせた。
「……」
雲行きが、怪しい。被害妄想に近い予感があった。
今まで七瀬の破天荒さには、かなり付き合わされてきた。何しろ目の前の垢抜けた女子生徒は、『鏡』の事件で校舎を丸々焼き払いかけたお転婆だ。先程だって待ち伏せされて、ぶん殴られたばかりだった。
その七瀬が、ここで止まるだろうか?
かくして、柊吾の危惧は現実のものとなった。
「……あっ! おい、篠田!」
突然、七瀬が駆け出したのだ。
身軽な動きだった。球技で相手チームからボールを攫うような身のこなしで、七瀬は拓海の脇をすり抜けていく。「あっ」と気付いた拓海が気抜けした声を上げたが、その時にはもう、何もかもが遅かった。
背後からは「あんた達、いい加減にっ」と戸田教諭の説教まで聞こえてきたが――声は途中から、大げさな金切り声に変わった。
七瀬が。
窓から、飛び降りたからだ。
「は……?」
柊吾は、阿呆のように声を上げた。
一瞬、だった。
鮮やか、だった。
助走をつけて弾んだ身体が、ふわっと軽やかに浮き上がる。桟に付いた片手を支点に身体を持ち上げて、しなやかに足が折り曲げられる。プリーツスカートを翻し、セーラー襟をたなびかせながら、七瀬の身体は窓枠の向こう側へ、茜の空へと消えていった。
風が、カーテンを揺らせていく。時間が止まり、部屋がとても静かになった。
誰もが言葉を失って、七瀬の消えた窓を見た。
「……」
重いコートを脱いだのは、身軽になる為だった。
遅れてそれに、気付いた瞬間。
柊吾は爆発的に湧きあがった怒りと、ない交ぜになった呆れに任せ、声の限りに絶叫した。
「――お前はっ、アホかあああああ!」
やられた。
逃げられたのだ。
柊吾の怒鳴り声で、止まった時間が動き出す。
拓海が蒼白になって窓に駆け寄り、「ちょ、えええっ、篠田さんっ! なんで!」と混乱を極めた声で叫んだ。本日二度目の置いてけぼりだ。さすがに可哀想だった。状況を忘れて拓海を憐れむ柊吾だったが、すぐに我に返って窓へ駆け寄り、張り付くように外を見た。
そして、七瀬の姿が既に保健室前の芝生になく、しかも昇降口前の階段を降りようとしているのに気付いた途端――――激しい眩暈で、卒倒しかけた。
「篠田の阿呆! お前何やってんだ! 単独行動すんなって言い合ったばっかだろうが!」
「アホアホうるさいんだけど!」
ぐるんと振り返った七瀬が噛みつき、巻き髪が柊吾の暴言への怒りを表現するかのように大きく撓む。周囲の生徒は突如窓から舞い降りた薄着の少女に驚愕していたが、とうの七瀬は気にした素振りは全くなく、靴下のままだろうがお構いなしだった。
すぐさま階段を降りようとする姿に焦り、柊吾は咄嗟に身を乗り出したが……同じく窓枠に齧りついていた拓海の学ランに、ぎゅむと身体がぶつかった。
柊吾の体当たりを食らった拓海が呻き、窓枠に突っ込む。すぐに起き上がってきた頭が柊吾の肩を突き飛ばし、ごんと音を立てて、こちらの頭も窓枠に激突した。
「いってぇ!」
「ちょ、三浦どけって! 追いかけるから!」
「お前こそ一旦どけって! つっかえてる! 邪魔だ!」
窓枠内で押し合いへし合いしている男子二人を見て、七瀬が申し訳なさそうに吹き出した。「ごめんね」と手をメガホンにしてこちらへ叫び、背中を向けて去ろうとする。
拓海が、はっと顔を上げた。
「篠田さん」
「私、追い駆けてくる!」
七瀬が、拓海に叫んだ。
その顔は、笑顔。
寂しさと晴れやかさが入り混じった顔で、七瀬は拓海に、笑っていた。
「ねえ、犯人まだ校舎にいるんでしょ? 今なら私、絶対追いつけると思う。だから、ごめん。毬の事お願い。その子はグラウンドに向かったって、さっき坂上くん、電話で言ってたよね?」
「駄目だ、篠田さん」
「あのね。さっき、階段でそれっぽい人見たんだ。あのままだと校門前通るかもしれない。それまでに私、その子捕まえないと駄目みたい!」
「篠田さん!」
「駄目。坂上くん。ごめんなさい。わがまま、聞けない。ごめんなさい」
拓海の手が、七瀬に伸びる。
その手をどこか幸せそうに見上げながら、七瀬は手を伸ばさなかった。
ふ、と笑う。
困惑気味のような、それでいてすっきりとした笑顔に、仇への敵意を滲ませながら。
毅然と、七瀬は言い放った。
「和音ちゃんは、私が助けてあげないとね」
それが、会話の終わりだった。
ぱっと身を翻した七瀬の姿は、昇降口前の雑踏へ呑まれ、すぐに消えて、見えなくなった。
「かずね……っ?」
拓海が、不意を打たれたように呟く。だが驚きを見せたのは一瞬で、すぐに七瀬を追うべく踵を返した。
その拓海に道を開けようと、柊吾が数歩、後ろに身を引いた時だった。
足が、何かに躓いたのは。
背後には、ベッドを仕切る白いカーテン。
足が当たった拍子に背中もカーテンにぶつかり、支柱の金属がかつんと澄んだ音を響かせた。
撫子が、はっと柊吾を見た。
「三浦くん」
声を聞いた瞬間に、自分が何をやらかしたか悟っていた。
即座に身を捩って振り返ると、間仕切りがぐらりと傾ぎ、揺れ動く。
倒れ掛かったその先には――動けないまま横たわる毬が、目を大きく見開いていた。
「!」
ぶつかる。
反射で手が動いていた。
突き出した手の平が支柱を受け止め、ぱしりと乾いた音がした。
だがほっとしたのも束の間、振り返り様に無理な体勢を取った所為で、バランスを思い切り崩してしまった。
踏み止まろうとしたが、駄目だった。ベッドへ強く右手をついてしまい、スプリングが激しく軋む。「きゃっ」と悲鳴を上げた毬が目を瞑り、振動で華奢な身体が軽く弾んだ。
柊吾の左手は、薄手のシーツを触ったが――その下にある硬直した腕を、ぐりっと思いきり潰してしまった。
「!」
押し殺した悲鳴が上がり、ぎょっとして手を引いた。
「悪りぃ、痛かっただろっ」
慌ててシーツを捲ろうとしたが、寝ている女子の掛布団だ。触っていいものか分からなかった。
へどもどしていると拓海が異変に気づき、「どうしたんだ?」と駆け戻って来る。撫子もまたベッドに近寄り、「毬ちゃん、大丈夫?」と毬の顔を覗き込んだ。
だが。
毬の反応は、とても意外なものだった。
「……撫子ちゃん。動く」
「え?」
「身体、動く」
傷だらけの白い指が、シーツを捲る。
毬は絶句する柊吾達の目の前で、ゆっくりと上体を起こす。
そして、両手を胸の高さに掲げ、結んで開いてを一度、二度と繰り返して――放心した顔のまま、涙をぽたぽた零し始めた。




