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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
67/200

花一匁 7

 校舎を支配した異常に、柊吾はすぐに気づいていた。

 昇降口前の階段を駆け上がり始めてすぐ、誰かの悲鳴が聞こえたのだ。

 階上からは生徒達が、恐怖の形相で駆け降りてくる。半狂乱で泣き叫ぶ声まで聞こえたので、さすがに吃驚して立ち止まった。

「おい……っ、何なんだっ?」

 明らかに、只事ではなかった。

 先陣を切った柊吾が止まると、背後の七瀬と撫子も足を止める。二人も事態の異様さに気付いたのか、戸惑った様子で校舎を見上げていた。

 立ち止まる柊吾達の両脇を、何人もの生徒が駆け抜けていく。

 形振り構わず人々が逃げ惑う光景は、まるで特撮映画のワンシーンのようだった。冷風に乗ってすれ違った言葉の断片が、柊吾の耳を劈いていく。

 それらはどれも不穏な言葉で、そして聞き捨てならないものだった。

 逃げろ。

 早く。

 危ない。

 誰か。

 警察。

 救急車。

「はあっ!?」

 顔色を変え、全員で顔を見合わせた。

「おいっ……、何なんだ! 警察って、救急車って!」

「私に分かるわけないでしょ!」

 七瀬が頭を振って絶叫した。

「毬……今行くから、無事でいて……!」

 祈るように呟く七瀬を横目に見ながら、柊吾は校舎を振り返る。

 ここで今、何が起こっているのか。それは柊吾には分からない。

 だが、何かが確実に起こっている。状況は緊迫していて、しかもこれは間違いなく、所謂『普通』の事件では有り得ないのだ。確証はないが、全員がそれを理解していた。

 何故なら、拓海が言ったからだ。

 頑なに氷花との関わりを拒否する拓海が、柊吾達に『全員で行動しろ』と言った。確証など、それで十分事足りた。

 間違いない。

 これは、氷花がらみだ。

 撫子が『見えなく』なったように、七瀬が『鏡』に閉じ込められたように、三度目の異能の事件が、ついに起こってしまったのだ。

「行こう。七瀬ちゃん。三浦くん」

 撫子が、七瀬の腕を引く。走る生徒を避けたのか、コートに包まった身体を七瀬にぴたりと寄せて、聳え立つ校舎を振り仰いだ。

「坂上君、一人で頑張ってる。毬ちゃんも。早く行って、安心してもらおう」

 七瀬を励ます撫子に主だった表情はなく、狼狽えた様子もまたなかった。

 毅然と構え、前を見ている。

 ――雨宮さんの事、もっと気をつけて一緒にいた方がいい。

 柊吾の脳裏を、拓海の言葉が過っていった。

「……」

 薄ら寒さを、感じた。

「そうだよね。撫子ちゃん、ありがと。呉野さんの所為だったら、絶対に許さない」

 雑踏の中で、顔を上げた七瀬が挑戦的に校舎を睨む。撫子はその様子に安堵したのか微笑んだが、柊吾の視線に気づき、こちらを見た。

「三浦くん、どうかした?」

「……いや、何も」

 柊吾は首を振る。今気にしても仕方がないのだ。

 意識を、無理やり切り替える。

 そして「行くぞ!」と二人へ檄を飛ばし、階上だけを睨み据えたが――そう言って走りはじめた途端、七瀬が「今のっ」といきなり叫んだので、出鼻をくじかれた柊吾は慌てて足にブレーキを掛けた。

「どうしたっ?」

 振り返って叫んだが、七瀬は一度息を呑んだ後に、「いいから! 三浦くん走って!」と柊吾を急かした。訝しみながら、それでも急かされた柊吾は言われるままに再び走る。引っ掛かりを覚えたが、本人がいいと言ったのだ。後で訊けばいいだろう。昇降口のガラス扉へ駆け出しながら、懸念を振り切り、柊吾は叫んだ。

「篠田、保健室はどっちだ! 東袴塚の奴なら場所知ってんだろっ」

「昇降口通ったら、廊下を右! 入口から見えてる! ……そこの、窓のとこ!」

 昇降口扉の真横。すぐ近くだ。素早く位置関係を把握しながら、柊吾が再び目線を前方扉へ向けた時、視界の中に、すぐに見つけた。

 たくさんの教師と生徒で入り乱れる、廊下の真ん中。

 そこに見覚えのある学ランを着た、男子生徒が一人いた。

「……いた! 坂上!」

 ぐんとスピードを上げて、扉に突っ込むようになだれ込む。ローファーの爪先が簀子を蹴飛ばし、かこんと甲高い音が鳴った。勢いよく突入してきた柊吾達に驚いた生徒が脇によけ、その人物がこちらを向く。

 少年は驚いた様子で、柊吾の名前を呼んできた。

「三浦!」

 拓海だった。

 鞄に引っ掛けていたらしい青色のマフラーが、動きに合わせて揺れ動く。顔には安堵の色が灯ったが、すぐに表情は凍りついた。

 七瀬が柊吾を追い抜き、拓海に向かって駆けたからだ。

「坂上くん! 毬は、毬は……!」

 七瀬の声が、湿っぽくなる。掴みかからんばかりに詰め寄られて、拓海が苦しそうに沈黙した。東袴塚の二人を視界の端に捉えながら柊吾はローファーをその場に脱ぎ捨て、同じく靴を脱いだ撫子を振り返った。

「雨宮、大丈夫か?」

「大丈夫」

 撫子が小さく咳き込みながら、柊吾に頷く。無理をして走らせたので、呼吸がかなり辛そうだ。撫子の細腕を取りながら背後を振り向くと、「保健室に行った!」と拓海の声が、ざわつく廊下に反響した。

「これから救急車が来るって聞いた。綱田さん、身体が動かないんだ」

「動かないっ? どういうこと?」

 七瀬の声が、動揺で上ずる。拓海は頷き、ちらと廊下の果てに視線を投げた。

 視線を追った先には、『保健室』のプレート。

 七瀬の言葉通り、本当に近い場所だった。

「綱田さん、身体が金縛りみたいになってて、自力でほとんど動かせないんだ。無理に動かそうとしたら、痛いって言ってる。これから病院に行く事になるけど……多分、あれは。病院に行っても、動くようにはならないと思う」

「そんな……! なんで!」

「考えるから。篠田さん。どうしたら元に戻るか、ちゃんと考えるから」

 拓海が、七瀬の肩に手を置いた。

 焦燥に染まった声だったが、同時に落ち着きも感じる声。

 この事態の解決の為に、必死に思考を続けている。それが分かる声だった。

「皆も。聞いてくれ。――綱田さんがこうなったのは、絶対、呉野さん絡みだって俺は思う」

「!」

 緊張が走った。

 やはり。柊吾は唾を呑み込んで、拓海に一歩詰め寄る。

 七瀬も拓海の腕を掴み返し、悲痛な表情で顔を上げた。

「坂上。呉野、どこ行った」

「呉野さん、ここにいるの? この学校にいるの? 毬に、何したの!」

「それは、まだ分からない」

 拓海は、首を横に振った。それが解明できていない事が自分の落ち度だとでも言うような、そんな悔しさが声にはあった。

「呉野さん絡みなのは間違いないし、絶対だって思う。でも、呉野さんだけじゃない。他にもいるんだ。呉野さんとは違う、別の子が……この事件に、関わってるんだ」

「は?」

 柊吾は驚き、七瀬も目を瞠った。

「どういう事だ?」

 すぐに訊ねた柊吾へ、拓海は「それは」と何事か喋りかけたが、ふと、視線が斜め下に落ちて――柊吾の隣に立った撫子に気付いたのか、表情が、固まる。

「雨宮さん……」

「? なあに?」

「……ううん、ごめん。後でちょっと、訊きたい事があるんだ。とにかく皆、保健室に来てほしい。篠田さん、行こう。救急車が来る前に!」

「うん!」

 頷く七瀬を連れて拓海が走っていく。「おい……」と柊吾は声を掛けたが、結局そのまま黙り込んだ。

「……」

 何なのだろう。今の反応は。

 柊吾は撫子の手を引きながら、前を走る拓海と隣の撫子とを見比べる。

 先程の電話のやり取りを、また思い出していた。

 拓海は妙に、撫子を気遣っている。

「……雨宮」

「?」

 柊吾の呼びかけを受けて、撫子がこちらを見る。そして拓海に答えた時と同様に、「なあに」と小首を傾げてきた。

 ただ、柊吾は撫子に訊いておきながら、何を訊ねていいやら分かっていなかった。

 体裁の悪さを覚えて「あー」と無意味に唸ったが、結局普通に、こう訊ねた。

「体調、大丈夫か?」

「? うん。大丈夫」

「そうか」

 あっさりと確認が終了した。余計に体裁が悪くなったか、まあいいか、とも思ってしまう。大丈夫ならそれでいい。それが分かれば十分だった。

 ただ撫子の場合、本当に体調が辛い場合でも無理して言わない事がある。

 痛み止めの薬を捨てた事を、柊吾はまだ、忘れていない。何故捨てたのか問い質して、やっとの事で『怖い』という一言が聞けた日の事を、まだ、忘れていないのだ。

 自然と、その日の撫子を思い出す。

 思い出して、辛くなった。

 泣いている撫子は、出来る限り、見たくない。

「三浦くん、どうしたの?」

 柊吾に手を引かれて走る撫子が、軽く手を握り返した。

 ぼんやりしていた柊吾は我に返ったが、撫子にいよいよ不思議そうな目で見られてしまい、たじろいだ。

「べ、別に。何でも」

「本当に? 今日、ちょっと変。何かあったの?」

「へ、変って……別に。何もねーし」

「そう?」

「ん」

 撫子は思案気な様子だったが、「じゃあ、いい」と言って、柊吾の手をもう一度握り返してきた。

「……」

 何だか、しっかりと握ってくれた気がした。

 久々に照れ臭さを覚えたが、どう言葉を掛ければいいか分からなかった。何せ口下手な上に不器用なのだ。おまけに撫子の方も口数は多くないので、これが柊吾と撫子の日常だった。

 それに、言葉は足りている。

 撫子とは充分に、話し合って来たはずだ。

 だから今こうして一緒にいるのだし、それがこれからもずっと、続いていくと思うのだ。それが当たり前の事なのだと、柊吾は疑っていなかった。

 だから、拓海の言葉は不穏だった。

 急に撫子の安全を気にし始めた拓海の言葉が、柊吾にとって当然の平穏を、滅茶苦茶に壊してしまう気がして……本当の所、柊吾は、怖いのだと思う。

「……三浦くん」

 だから。

 撫子が、さらに言葉を発した時。

 柊吾は、素直に驚いていた。

 もう、会話は終わった。そんな風に思っていた。続きがあるとは思わなかった。

 柊吾を見上げた撫子は、前方の拓海と七瀬を一度見てから、再び柊吾を見上げる。柊吾が驚いているのを意外に思っているようで、それでいてお見通しのようだった。そんな悪戯っぽさと心細さとが、ない交ぜになったような顔。薄らとした表情に、細やかな感情が透けて見える。

 その繊細さが、何だか酷く、危うげなものに思えて――急に不安が押し寄せて、柊吾の胸を詰まらせた。

 撫子は、淡い笑みをそっと浮かべた。

 そして内緒話をするように、小さな声で、囁いた。

「……一緒に、いて」

「……雨宮?」

「ちょっとだけ、……怖い、の。三浦くん。……一緒に、いて。お願い」

「……。いる。当たり前だ」

 手を、こちらからも握り返す。

 撫子は返事をせず、柊吾の手をやっぱり握るだけだった。だがもう、それだけで柊吾には十分だった。それ以上は、望まない。そんなにたくさんは要らなかった。

 元気で、傍にいてくれる。それ以上の幸福を望めば、それこそ何かが壊れてしまう。そんな気がして柊吾はいつも、きっとどこかで怖いのだ。

「人だかり、すごいね」

 撫子が、ぽつんと言う。

 その声を受けて柊吾も前方に視線を向けると、たった数メートル先の保健室前は、やはり生徒で溢れていた。倒れた女子生徒への心配なのか興味なのか、生徒がわらわら群がっている。

「……行くか」

 背筋が、すっと伸びた気がした。

 撫子の事は、拓海に後で訊けばいい。

 今は、別の少女の事。そちらを早く確認すべきなのだ。

 柊吾と撫子が人だかり前に到着すると、先についていた七瀬が臆する事なく人ごみを掻い潜り、扉を勢いよく開け放っていた。

 途端に、「関係のない生徒は来ないで!」と、仁王立ちした女性教諭の、怒声が辺りに轟いた。

「おっかねえ」

 思わず柊吾が呟くと、「聞こえる」と撫子が小声で諌めてくる。だが柊吾の連れにはもっと好戦的な女子がいるのだ。たった今教諭と向き合っている東袴塚の少女に比べたら、柊吾の言葉など程度の可愛いものだと思う。

 果たして、そんな内心の感想は大当たりだった。

 女性教諭の理不尽な制止は、やはり七瀬の逆鱗に触れていた。

「関係あります! 倒れた子は友達です! 通してっ!」

 耳を劈くような怒鳴り返しと共に、七瀬は教諭をきつく睨む。

 だがここから先の予想は少しハズレで、七瀬は怒鳴った直後に「あっ、戸田先生?」と呟き、きょとんと目を瞬いていた。

 戸田と呼ばれた教諭の方も、目を真ん丸に剥いて七瀬を見る。

 知り合いだろうか。柊吾も見覚えがある気がしたが、よく思い出せなかった。

「いやだわ、篠田さんじゃない。あなた何しに来たのっ」

「何って、受験に決まってるでしょ! どいて下さい!」

 七瀬はそれ以上耳を貸さず、教諭の脇をすり抜ける。「ちょっと!」と眉を吊り上げる教諭に拓海が「すみません!」と謝ったが、言いながら拓海も保健室内へ滑り込んだので、悪いとは思ったが柊吾も撫子を引き連れて、強行突破に加わった。

「もうっ、何なのあなた達! 出ていきなさいってば!」

 ヒステリックな罵声を浴びながら入った保健室は、暑いのか寒いのか、何だかよく分からない場所だった。白い部屋の真ん中には石油ストーブが赤く光り、同時に清涼な冬の風も身体に感じた。きっと換気中なのだろう。開けられた窓からは茜の光が射していた。

 室内を一望した途端、「毬!」と七瀬の声が奥の方から聞こえてきた。

 いる。

 どくんと、薄い緊張感が身体に張った。

 白いカーテンで仕切られた一角に、早足で近づく。七瀬の後姿がすぐに見えたので、「篠田」と小声で呼び掛けた。

 七瀬は今にも泣き出しそうな顔で振り返り、隣に立つ拓海の方は、沈痛な面持ちで目を逸らす。

 二人の背後には白いベッド。

 そこに横たわる人物を見て、柊吾は息を吸い込んだ。

 ……およそ、一年ぶりの再会だった。

「七瀬ちゃん……」

 辛そうな、声がする。

 白いシーツを胸元までかけられた少女は、目線を天上に向けていた。

 七瀬の呼びかけに答えてか、首をゆっくりと傾けたが、動きは酷く硬かった。

 まるで球体関節の入った人形のような、ぎこちない動き。それでも懸命に身体を動かそうとする健気さが、何だか酷くいじましかった。

 七瀬が口元に手を当てて、嗚咽を漏らして泣き始める。

 綱田毬は目尻に涙を浮かべながら、そんな七瀬を見上げていた。

「……七瀬ちゃん、ごめんね。泣かないで。だいじょうぶ」

「大丈夫なわけないでしょ! ばかあ!」

 ぐいと七瀬が涙を拭い、「誰にやられたの」と、低い声で詰め寄った。

「毬。これ病気とかじゃないよね。急になんでしょ? ねえ。誰! 誰にやられたの!」

「篠田さん」

 毬を労わってか、拓海が間に割って入った。

「犯人は、呉野さんで間違いないと思う。でも多分、それだけじゃないんだ。俺はさっき、別の子も関係してるって言ったよな? 綱田さん、その子の事をさっき、『ミヤちゃん』って呼んでた」

「え?」

 七瀬が、拓海を見る。

 拓海は頷いて、苦しそうに目を細めた。

「少し、長めの髪で、篠田さんみたいに巻いてた。袴塚中の女子だった。その子に綱田さんが触られて、そしたらいきなり、こうなったんだ。……多分、あれが原因だ。それしか考えられないんだ。呉野さんが絡んでるのは間違いないって思うけど、直接手を下したのは、呉野さんじゃない」

 拓海は一同を見渡す。

 この場にいる全員の視線に、臆した様子は全くない。

 柔和な面立ちを苦渋に染めた拓海は、重苦しい口調で、それでもはっきり断言した。

「絶対、『あの子』だ」

 柊吾は唖然として、その言葉を聞いていた。

 思考が、止まっていた。予期せぬ方向から、想定外の攻撃を食らった。その衝撃が大きすぎて、何も考えられなかった。

 誰だ。

 そいつ、誰だ。

 それが感想だった。てっきり氷花だと思っていた。そしてその考えは、決して間違いではないはずだ。呉野氷花の関与まで、拓海は否定をしていない。

 だが、氷花だけではないのだ。

 まだ、いるのだ。加害者が。悪意で動く人間が。

 毬を『動けなく』した人間が、氷花の他にも、まだ、いるのだ。

「……誰、それ」

 七瀬が、茫然と呟く。柊吾の内心を代弁するように呟かれた声は、ひどく虚無的なものだった。

 顔も、表情に乏しい。無表情に近かった。

 その頬に、次第に赤味が射していく。血が通ったようだった。瞳の陰りが取り払われて、生気が爛々と熱く宿る。

 直情で、凄烈な怒り。

 澄んだ瞳にその感情を見た瞬間、柊吾は七瀬の顔に明確な既視感を覚えた。

 これは、知っている顔だった。その血の温度も感情も、何もかもに覚えがある。

 中学二年の、初夏。〝言霊〟に誑かされた陽一郎を追い駆けた時に、スーツ姿の異邦人と出会った住宅街で、柊吾もその感情を知ったのだ。

 仇の正体が判明した、あの瞬間の柊吾の顔。

「……」

 今こそ、分かった。この顔だ。

 今の七瀬は紛れもなく、あの時の柊吾そのものだ。

「おい……、篠田」

 声を、思わずかけた。率直に、心配になったからだ。

 だが、七瀬は聞かなかった。

 あの頃の柊吾と同じように、直向きとも愚直とも取れる好戦的態度で、拓海の顔を見上げたのだ。

「他の特徴は? その子の。坂上くん」

 拓海が、声を詰まらせる。気圧されたようにも見える顔だが、きっと拓海も気付いたのだ。そして同時に、危ぶんでいる。七瀬の敵意と仇討への奮起。それが柊吾のものと同じなのだと、この瞬間に気付いたのだ。

 だからこそ、拓海が慎重な様子で告げた台詞は……柊吾の予想通り、七瀬を諌めるものだった。

「他の特徴は……分からない。でも、篠田さん。追いかけたら駄目だ」

「どうしてっ」

「頼むからやめてくれ! 触られたら、こうなるかもしれないんだ!」

 七瀬が、目を見開いて拓海を見る。

 拓海も、荒げた声量に自分でも驚いたのか、ショックを受けた顔で黙った。

「……」

 柊吾は、目を逸らした。

 見ていられなかった。拓海も、七瀬も。二人共の、気持ちが分かる。

 二人がここで交わした言葉は、先程柊吾が拓海と電話で交わしたやり取りと、何一つ変わらないのだ。同じ諍いを別の相手で、焼き直しているだけだった。拓海の相手が、柊吾から七瀬に変わっただけだった。

 申し訳なかった。拓海に対して。困らせていると知っていた。分かっているつもりだった。それを全て承知の上で、我を通しているつもりだった。

 だが、こうして七瀬を止めようとする拓海を見てしまったら……何だか、やるせなくなったのだ。

 柊吾も、思ってしまったのだ。拓海がやっぱり、正しいと。この諍いを見て思ったのだ。

 七瀬は、何もすべきではない。安全の為に行動は控えるべきだった。柊吾と七瀬は同じなのに、自分の時には通した筋を、七瀬の時には駄目だと思う。

 狡かった。我儘だ。酷い欺瞞だと気づいていた。結局柊吾達は互いの事が心配なだけで、その所為で喧嘩を繰り返しているようなものだった。

 相手の心は、分かっている。だから今まで一緒にいたのだ。それなのに折り合えない自分達の幼さが痛々しくて、見るに堪えず、俯いた。

 もっと、柊吾達が大人だったなら。

 こんな拗れ方は、せずに済んだだろうか?

 柊吾達はやっぱりまだ中学生で、悔しいくらいに子供だった。

 だが、拓海は辛抱強かった。

「篠田さん。俺のわがまま、聞いて欲しい」

 柊吾が自己嫌悪に囚われていても、七瀬が怒りで我を失っていても、拓海だけは冷静だった。他者と向き合う事をやめていない。全てを投げ出さずに立っている。辛そうにしながらも、思いを言葉にするのを止めなかった。

 必死で、真摯に、七瀬を説得し続けた。

「あの子に触られたら、多分、こうなる。もしこれが、呉野さんの〝アソビ〟なら。どういう〝アソビ〟なのかも、多分だけど、大体分かってる。……だから、行かないで欲しい。篠田さんに、同じ風になられるのは、……嫌なんだ」

 一度そこで言葉を切り、拓海は顔色を失くす七瀬に「ごめんな」と、寂しそうに囁く。

 そして全員を振り返り、さらに言葉を、継ごうとした。

 だが。

 和やかに収束するかと思われた空気は、ここで、急激に温度を変えた。

 七瀬が、拓海を遮ったからだ。

「待って。坂上くん」

 冷静な、声だった。

 怒りを押し込めたような、ぞっとするほど普通な声。

 状況とそぐわない普通さに、柊吾は違和感を覚えて七瀬を見る。

 そうやって見下ろした七瀬の顔は、先程の顔と同じだった。

 仇を、討つ。それを決めた者の顔。

 柊吾と同じ目つきだった。

「ねえ。さっき言った『ミヤ』って子に身体を触られたら、私達、今の毬みたいになるかもしれないんだよね」

 言いながら、七瀬は毬を見下ろす。

 毬は悲しげな表情で七瀬を見上げたが、身体はぴくりとも動かない。

 拓海はそんな毬を痛ましそうに一瞥してから、「多分」と、肯定の言葉を七瀬に返した。

「そう」

 七瀬が、頷く。

 そして徐に、コートの前ボタンを外し始めた。

「……。へ?」

 拓海が、ぽかんと七瀬を見る。七瀬は構う事なく、黒く重そうなコートのボタンを、上から順に外していった。白茶色のセーターと白いセーラー服、紺のスカートが露わになる。ばさりとコートを脱いだ七瀬はベッドに近寄り、毬の身体にそっとかけた。

 毬が、きょとんと七瀬を見た。

「七瀬ちゃん……?」

「毬、待っててね。すぐに戻るから」

 柊吾は思わず、撫子と顔を見合わせた。

「……」

 雲行きが、怪しい。被害妄想に近い予感があった。

 今まで七瀬の破天荒さには、かなり付き合わされてきた。何しろ目の前の垢抜けた女子生徒は、『鏡』の事件で校舎を丸々焼き払いかけたお転婆だ。先程だって待ち伏せされて、ぶん殴られたばかりだった。

 その七瀬が、ここで止まるだろうか?

 かくして、柊吾の危惧は現実のものとなった。

「……あっ! おい、篠田!」

 突然、七瀬が駆け出したのだ。

 身軽な動きだった。球技で相手チームからボールを攫うような身のこなしで、七瀬は拓海の脇をすり抜けていく。「あっ」と気付いた拓海が気抜けした声を上げたが、その時にはもう、何もかもが遅かった。

 背後からは「あんた達、いい加減にっ」と戸田教諭の説教まで聞こえてきたが――声は途中から、大げさな金切り声に変わった。

 七瀬が。

 窓から、飛び降りたからだ。


「は……?」


 柊吾は、阿呆のように声を上げた。

 一瞬、だった。

 鮮やか、だった。

 助走をつけて弾んだ身体が、ふわっと軽やかに浮き上がる。桟に付いた片手を支点に身体を持ち上げて、しなやかに足が折り曲げられる。プリーツスカートを翻し、セーラー襟をたなびかせながら、七瀬の身体は窓枠の向こう側へ、茜の空へと消えていった。

 風が、カーテンを揺らせていく。時間が止まり、部屋がとても静かになった。

 誰もが言葉を失って、七瀬の消えた窓を見た。

「……」

 重いコートを脱いだのは、身軽になる為だった。

 遅れてそれに、気付いた瞬間。

 柊吾は爆発的に湧きあがった怒りと、ない交ぜになった呆れに任せ、声の限りに絶叫した。


「――お前はっ、アホかあああああ!」


 やられた。

 逃げられたのだ。

 柊吾の怒鳴り声で、止まった時間が動き出す。

 拓海が蒼白になって窓に駆け寄り、「ちょ、えええっ、篠田さんっ! なんで!」と混乱を極めた声で叫んだ。本日二度目の置いてけぼりだ。さすがに可哀想だった。状況を忘れて拓海を憐れむ柊吾だったが、すぐに我に返って窓へ駆け寄り、張り付くように外を見た。

 そして、七瀬の姿が既に保健室前の芝生になく、しかも昇降口前の階段を降りようとしているのに気付いた途端――――激しい眩暈で、卒倒しかけた。

「篠田の阿呆! お前何やってんだ! 単独行動すんなって言い合ったばっかだろうが!」

「アホアホうるさいんだけど!」

 ぐるんと振り返った七瀬が噛みつき、巻き髪が柊吾の暴言への怒りを表現するかのように大きく撓む。周囲の生徒は突如窓から舞い降りた薄着の少女に驚愕していたが、とうの七瀬は気にした素振りは全くなく、靴下のままだろうがお構いなしだった。

 すぐさま階段を降りようとする姿に焦り、柊吾は咄嗟に身を乗り出したが……同じく窓枠に齧りついていた拓海の学ランに、ぎゅむと身体がぶつかった。

 柊吾の体当たりを食らった拓海が呻き、窓枠に突っ込む。すぐに起き上がってきた頭が柊吾の肩を突き飛ばし、ごんと音を立てて、こちらの頭も窓枠に激突した。

「いってぇ!」

「ちょ、三浦どけって! 追いかけるから!」

「お前こそ一旦どけって! つっかえてる! 邪魔だ!」

 窓枠内で押し合いへし合いしている男子二人を見て、七瀬が申し訳なさそうに吹き出した。「ごめんね」と手をメガホンにしてこちらへ叫び、背中を向けて去ろうとする。

 拓海が、はっと顔を上げた。

「篠田さん」

「私、追い駆けてくる!」

 七瀬が、拓海に叫んだ。

 その顔は、笑顔。

 寂しさと晴れやかさが入り混じった顔で、七瀬は拓海に、笑っていた。

「ねえ、犯人まだ校舎にいるんでしょ? 今なら私、絶対追いつけると思う。だから、ごめん。毬の事お願い。その子はグラウンドに向かったって、さっき坂上くん、電話で言ってたよね?」

「駄目だ、篠田さん」

「あのね。さっき、階段でそれっぽい人見たんだ。あのままだと校門前通るかもしれない。それまでに私、その子捕まえないと駄目みたい!」

「篠田さん!」

「駄目。坂上くん。ごめんなさい。わがまま、聞けない。ごめんなさい」

 拓海の手が、七瀬に伸びる。

 その手をどこか幸せそうに見上げながら、七瀬は手を伸ばさなかった。

 ふ、と笑う。

 困惑気味のような、それでいてすっきりとした笑顔に、仇への敵意を滲ませながら。

 毅然と、七瀬は言い放った。


「和音ちゃんは、私が助けてあげないとね」


 それが、会話の終わりだった。

 ぱっと身を翻した七瀬の姿は、昇降口前の雑踏へ呑まれ、すぐに消えて、見えなくなった。

「かずね……っ?」

 拓海が、不意を打たれたように呟く。だが驚きを見せたのは一瞬で、すぐに七瀬を追うべく踵を返した。

 その拓海に道を開けようと、柊吾が数歩、後ろに身を引いた時だった。

 足が、何かに躓いたのは。

 背後には、ベッドを仕切る白いカーテン。

 足が当たった拍子に背中もカーテンにぶつかり、支柱の金属がかつんと澄んだ音を響かせた。

 撫子が、はっと柊吾を見た。

「三浦くん」

 声を聞いた瞬間に、自分が何をやらかしたか悟っていた。

 即座に身を捩って振り返ると、間仕切りがぐらりと傾ぎ、揺れ動く。

 倒れ掛かったその先には――動けないまま横たわる毬が、目を大きく見開いていた。

「!」

 ぶつかる。

 反射で手が動いていた。

 突き出した手の平が支柱を受け止め、ぱしりと乾いた音がした。

 だがほっとしたのも束の間、振り返り様に無理な体勢を取った所為で、バランスを思い切り崩してしまった。

 踏み止まろうとしたが、駄目だった。ベッドへ強く右手をついてしまい、スプリングが激しく軋む。「きゃっ」と悲鳴を上げた毬が目を瞑り、振動で華奢な身体が軽く弾んだ。

 柊吾の左手は、薄手のシーツを触ったが――その下にある硬直した腕を、ぐりっと思いきり潰してしまった。

「!」

 押し殺した悲鳴が上がり、ぎょっとして手を引いた。

「悪りぃ、痛かっただろっ」

 慌ててシーツを捲ろうとしたが、寝ている女子の掛布団だ。触っていいものか分からなかった。

 へどもどしていると拓海が異変に気づき、「どうしたんだ?」と駆け戻って来る。撫子もまたベッドに近寄り、「毬ちゃん、大丈夫?」と毬の顔を覗き込んだ。

 だが。

 毬の反応は、とても意外なものだった。

「……撫子ちゃん。動く」

「え?」

「身体、動く」

 傷だらけの白い指が、シーツを捲る。

 毬は絶句する柊吾達の目の前で、ゆっくりと上体を起こす。

 そして、両手を胸の高さに掲げ、結んで開いてを一度、二度と繰り返して――放心した顔のまま、涙をぽたぽた零し始めた。

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