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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
64/200

花一匁 4

 突然の着信は、校舎から出てすぐの事だった。

「三浦くん、電話」

 東袴塚学園、高等部、グラウンドにて。

 雨宮撫子の差し出す携帯を見た瞬間から、柊吾は電話の主が誰で、要件が何かを察していた。

 携帯を持たない柊吾へ、撫子を介してでも通話を求める人物。心当たりは家族を除いて二人だけだ。最近携帯を持ち始めた友人の顔を思い浮かべながら、勘で柊吾は訊いてみた。

「坂上か?」

「うん」

 頷いた撫子が、携帯を掲げてくる。

 ディスプレイには、『坂上拓海』の文字。

 柊吾はぐっと息を呑む。表示された通話時間が、ぽつ、ぽつ、と伸びていく。そうやって沈黙する間にも冷たい風が吹きすさび、立ち尽くす中学生達へ容赦なく吹き付けた。寒そうに首をマフラーへ埋めた撫子の持つ、携帯電話が軽く揺れる。そのまま何かの手違いで接続が切れてしまえと念じてみたが、願ったところでどうにもなるまい。柊吾は諦めて手を伸ばしたが、結局手を引っ込めて余所見した。

「出ないの?」

「いや、出るけど。正直、気が進まねえ」

「早く」

 真顔でずいと、携帯を突き付けられる。背の低い撫子にそうされても迫力は薄かったが、柊吾は渋々受け取った。

 すると横合いから「何してるの?」と声がかかった。

 少し舌足らずな、高い声。変声期はとうに過ぎたというのに、結局あまり変わっていない。能天気な幼馴染の声を聞いていると、緊張している自分が馬鹿のように思えてきた。ともあれ部外者に説明する余裕も優しさもなかったので、柊吾は素気無くあしらった。

「お前には関係ないから」

 淡白な態度だったにも関わらず、隣の少年はしつこかった。「何? 何? 柊吾、家族の人?」と幼児のように絡んでくる。うんざりしたので「うるせえ」と呟くと、今度は泣きそうな顔で「柊吾が冷たい」と言ってきた。まるで小学生の告げ口のような弱々しさに、柊吾は心底呆れてしまった。

「雨宮。陽一郎のアホがやかましいから離れる。しばらくでいいから、そいつと一緒に待っててくれ」

「うん」

 律義に撫子が頷き、隣に立つ日比谷陽一郎がショックを受けた顔になる。「否定してよ撫子」と涙目で訴えるのを尻目に、柊吾は校舎の敷地を囲う金網目掛けて、人ごみを縫うように駆け出した。

 ただ、静寂を求めて移動しても、人の密度は変わらなかった。喧騒が気休め程度に薄らいだだけで、携帯を耳に当てた学生達が、そこかしこに立っている。

 電話の相手は、恐らく家族だろう。

 晴れやかな笑顔で話す者もいれば、沈痛な表情の者もいる。背後からは賑やかな話し声が絶え間なく流れ続け、時折どっと、歓声が巻き起こった。

「……」

 柊吾は喧騒を振り返る。

 青い空を見上げると、くらっと微かな眩暈を覚えた。

 疲れたのかもしれない。それとも気の緩みだろうか。柊吾は視線をグラウンドへ戻し、眼前に流れる光景を、まるで俯瞰するように眺めてみた。

 茜射す光の下、集う生徒達の顔はやはり多様だった。それでいて爽やかな空気が辺り一帯に広がっていて、時間と空気の流れは雲の移ろいのように緩やかだ。

 解放感、あるいは連帯感にも似た感覚は、祭りの空気に似ている気がする。騒がしさと穏やかさとが調和する光景は、何だか不思議な感じがした。息を吸い込むと、酸素が血に溶けて身体を巡るのを、清涼感と共に実感した。

 終わったのだ。

 やっと終わった。

 実感は薄い。間であれだけ様々な事があったのだ。だが確かに一つ、大きな戦いが終わっていた。

 試験終了のチャイムの音と、鉛筆を置いた瞬間に得た淡い手応え。結果待ちの現状では達成感さえ曖昧だが、重い荷を下ろしたような身軽さが分かれば、今はそれで十分だった。柊吾も携帯があれば母に連絡できるのだが、恭嗣に携帯を買ってもらえる高校生まで、あと少しの辛抱だ。

 高校入試を終えたばかりの東袴塚学園高等部は、たくさんの中学生達でごった返していた。

 昇降口からは続々と生徒が溢れ、グラウンド先の正門を目指している。

 袴塚市はそんなに大きな市ではないので、中学校の数は知れている。それでも知らない制服をちらほら見かけて、柊吾は軽く感嘆した。

 中学卒業を控えた三年という、それだけの共通点以外は顔も名前も個性も知らない。

 これほどにも自分に近い存在で、同時に途方もなく他人だった。

 そんな子供達が一堂に会しているのは、やはり祭りのように非日常的な浮き立ちを柊吾の胸に齎した。他校の生徒との縁など、こんな機会でもなければ得難いに違いない。

 そこまで考えてみると、他校の生徒との縁が出来た自分は、なかなか数奇な中学生活を歩んだ気がする。大げさだろうが、何だか感慨深かった。

 柊吾が合格すれば、この中の何人かとはいずれ顔見知りになるのだろうか。

 そんな意識の元で眺める人波は面白かったが、相手をいい加減に待たせているので、柊吾は携帯を耳に当てた。

 憂鬱だが、喋らないわけにはいかない。通話料金は相手持ちなのだ。柊吾は背筋を伸ばすと、待たせに待たせた相手に向けて、ついに言葉を発した。

「もしもし」

『三浦だよな』

 すぐさま応答が返ってきた。

 坂上拓海の、声だった。

「……。ああ。俺だけど。受験、お疲れ」

 穏やかな感慨は、この一瞬で失せた。

 柊吾は人目を憚って、声のトーンを落とす。この人ごみの中で声量を絞る不親切は承知していたが、要件が要件だろうから何となくそうしてしまった。

『ん。三浦もお疲れ』と返してきた拓海の声も、柊吾同様に小声だった。ノイズ混じりの喧騒も聞こえたので、心情も状況も、柊吾と大差ないらしい。

 互いに、妙な事をしていると思う。

 だが、笑い合う気にはなれなかった。

 明白な緊張感が、互いを笑うのを許さなかった。

「坂上、今お前どこにいるんだ?」

『まだ校舎の中。昇降口近くにいる。三浦は?』

「グラウンド。雨宮ともう一人。袴塚西の奴と一緒にいる」

『それって、俺の知ってる人?』

「ああ。前に話した事あったと思う。日比谷だけど」

 間が空いた。

 そして数秒経った後に、『あー……えっと、雨宮さんの』と言ったきり黙り込まれたので、柊吾は盛大に溜息を吐いた。

「おい、気にすんな。本人たち含めて誰も気にしてねえから。っていうか、あれ、事故みたいなもんだったから。忘れろ」

『分かった、ごめん……』

「あー、謝んな」

 柊吾は空いた方の手でがしがしと頭髪を掻くと、「で、本題は? っていうか坂上、一人なのか? 篠田は?」と無理やり話題を変えた。

『それなんだけど。うん、一人。でも篠田さんの事は後で。先に本題の方話す』

 声が、急に深刻味を帯びた。

『昨日の三浦からのメール、見た。呉野さん、次は綱田さんを狙うかもしれないってやつ』

 柊吾は黙る。

 何を言及されるか、既に予想済みだった。

『三浦。……あのメール。受信者の名前に、篠田さんと雨宮さんの名前もあったけど』

「悪りぃ」

 先手を打って謝った。

「けど、黙ってるよりは言った方がいいと思う。綱田と連絡が取れるのって篠田しかいねえし。受験前日なんかに言い出して悪かったけど、黙ってたら俺ら、あいつにすげえ恨まれたと思うぞ」

『うん。それは三浦が正しいって思う』

「……」

 三浦が正しい。

 拓海は言った。それは、三浦が正しい。

 柊吾の取った選択と行動で、他に何か不満がある。それが分からないほど馬鹿ではない。柊吾はむっと眉根を寄せた。

『綱田さんと連絡が取れるのって、俺らの中だと篠田さんだけだ。だから篠田さんから連絡取ってもらわないと、綱田さん本人に危ないって事伝えられない。だから俺、三浦が取った行動は正しいと思う』

「坂上」

 柊吾は訊いた。

「お前、何が言いたいんだ?」

『三浦。ここで手を引いてほしい』

 きた。

 どくんと、心臓が脈打つ。知らず、奥歯を噛みしめた。そうやって沈黙を守りながら、身体に走った緊張と動揺で、身体がはっきりと力んだ。

 言われると思っていた。覚悟していた台詞だった。

 それでも、覚悟が甘かった。

 怒り、苛立ち、焦燥。胸を焼く感情は多様だった。そのくせひどく曖昧で、正体を一つに絞り込めない。受験の手応えは分かるのに、こちらは追及できなかった。その苦しさから逃れるように柊吾は撫子の姿を探したが、人の波に隠されて、撫子の矮躯が全く見えない。陽一郎の笑顔だけが、雑踏の隙間から垣間見えた。焦りで、胸がざわついた。

 沈黙する柊吾の耳に、拓海の声が流れ続けた。

『三浦、俺達がイズミさんに訊きに行く事に決めたのは、これが本当に呉野さん絡みなのか確かめて、俺らの安全を確保する為だって、そういう風に皆で言い合ってたよな?』

「ああ。そうだ」

『それで、呉野さん絡みの可能性が強くなった。……三浦。俺らの用事って、もう済んでると思う』

「……おい、坂上。何も済んでねえだろ。綱田の事、どうするんだ」

『関わっちゃ駄目だ。三浦』

 ぴしゃりと、拓海が言った。

『綱田さんの事は、悪いけどイズミさんに任せたらいいと思う。俺らが動かなくても守ってあげられる大人がいるんだ。神社に電話して、俺からもイズミさんにお願いしたから。克仁さんにも、止めて欲しいって頼んだ。とにかく、俺らに出来るのはここまでだと思う』

「ちょ、待て、坂上」

 柊吾は泡を食って、受話器へ叫ぶ。

「何だそれ、聞いてねえ」

『うん。今言った。……一人で動いて、ごめん』

「……。坂上。もっかい訊くぞ」

 柊吾は、凄む。

 拓海がどういう心算なのか、やはり予想が出来ていた。

 蓄積した苛立ちを隠そうともせずに、柊吾は拓海へ問い質した。

「篠田のダチの綱田。どうするんだ。お前、まさか見殺しにする気なのか?」

『しない。でも、綱田さんを助けるのは俺達じゃなくてもいいと思う』

「おい……っ、いい加減にしろ、坂上!」

 柊吾は声を荒げて、そこで一度言葉を切った。

 言い負かされたわけではない。反論の言葉はそれこそ山のようにあった。だが相手は坂上拓海だった。柊吾より確実に頭が切れる相手。論破するのは骨だろう。慎重にならざるを得なかった。

 だが、あんな台詞を突き付けられて、冷静になどなれなかった。

 理性の制止を、感情が一足飛びに踏み超える。

 受け入れられないと、はっきり思った。

 柊吾は拳を固めて、きつく携帯を握り締めた。

「坂上。お前、綱田本人に会った事ねえだろ。お前以外は全員会ってるんだ。篠田は少林寺仲間だし、俺と雨宮は篠田の代わりに一回会いに行ってる。……聞けるわけねえだろ、そんなの。顔も、あと大体なら性格も分かってる相手なんだ。大人しそうで、多分だけど友達とか、人のこと大事にしそうな女子だって思った。呉野に抵抗できるとは思えねえし、絶対ひどい事になると思う。お前は、そんな相手が呉野に狙われてるって分かってて、何もしないで見てろっていうのか? できるわけ、ないだろ……!」

 絞り出すような声で、柊吾は拓海を怒鳴り付けた。

 いつしか感情的になっていた。まるで慎重になどなれていない。だが柊吾はそれでいいと思った。

 論破が無理なら、情に訴える。拓海の心に訴えかける。狡かろうが汚かろうが、知った事ではなかった。この場で拓海に勝てるなら、何でも武器に使う気だった。

 だが、そんな柊吾の訴えに返ってきたのは、突き放すような一言だった。

『そうだよ』

「!」

 息を呑む。

 ……そして強く、歯噛みした。

 怒りに、軽蔑が混じっていく。毒のように心を侵した感情が、自分でも気持ち悪くて仕方がなかった。

 この感情を吐き出したなら、きっと自分も厭になる。それを分かっていながら言葉にせずにはいられなかった。

「坂上、お前……綱田本人に会っても、同じ台詞、言えんのか? なあ。あいつの顔見て、さっき言ったのと同じ台詞、言えんのか? ……おい。もし言ってみろよ。殺す」

『……絶対、言えない』

 毒気を抜かれて、柊吾は黙った。

 意外、だった。先程は、肯定したのに。毬を見捨てる事を、認めたというのに。

 突如零れ落ちた朴訥な心に、柊吾は戸惑い、息を呑む。

 拓海の声は重かった。これ以上の糾弾が憚られるほど、悲痛で重苦しい声だった。

『俺がこんな無茶苦茶言えるのって、結局、綱田さんの顔を知らないからだと思う。分かってるんだ。一度でも顔見ちゃったら、今より少しでも、綱田さんの事を知ったら……もう、駄目なんだろうなって。だって綱田さんは、篠田さんの事を助けた人で……大事な友達って、聞いてるから』

「……」

 綱田毬。

 七瀬の友人。

 思えば『鏡』の学校へ閉じ込められた七瀬の生還は、綱田毬という少女こそが、鍵と命運を握っていた。

 柊吾は、思う。あの時七瀬を助けたのは拓海だ。柊吾と和泉は僅かながらの力添えをしただけで、拓海の存在なくしては七瀬は帰って来れなかっただろう。

 だが同時に綱田毬も、七瀬の命を救った人間の一人だった。

 あの場には、いなかった。それでも毬の存在は七瀬生還に必要だったと柊吾は思う。

 心優しい友人の言葉。七瀬の感性を変えたであろう〝言葉〟がなければ、柊吾達は七瀬を助けられなかった。

「……」

 ようやく、気付いた。

 情に訴えかける心算が、逆に訴えられていた。

 拓海は既に、そこまで分かっているのだ。

 分かっていて尚、柊吾と言葉を交わしている。

 不意に柊吾は、和泉の言葉を思い出していた。

 ――相手と言葉でやり合う際に煩悩に囚われているようでは、勝てる喧嘩も勝てなくなりますよ?

 渋面を作って、拳を一層強く握り込む。

 和泉はこの展開を『見て』いたのだろうか。柊吾の甘さを見抜いて、だからこそ警告の言葉をかけたのだろうか。

 だが、後悔している暇はなかった。

『三浦』

 柊吾を呼ぶ声が聞こえたのだ。

 はっとして、顔を上げた。

 冷徹な響き。感情を意図的に排した声。拓海の声音が、戻っていた。

 和泉の言った通りだった。柊吾はまたしても油断した。

 垣間見せた情愛の一切を再び隠した拓海の声が、切り込むような鋭さで、柊吾の心へ突き刺さった。

『もし三浦が言うように俺らが綱田さんを助けに行って、その所為で俺らのうち誰かが巻き添えになったら。三浦、どうするつもりなんだ?』

「どう、って……」

『やられるのが俺とか三浦だったら、それでも最悪だけどまだマシだ。でも雨宮さんだったら? 篠田さんだったら? 三浦、どうするつもりなんだ。もしもう一度酷い目にあったら、今度は……二人とも、耐えられるか分からない』

「……俺が、面倒見る。あいつらの事。やられないように」

『どうやって』

「それは……」

 柊吾は気圧され、口籠る。言い返せる。だが出来ない。拓海が傷つくのを恐れていた。これでは自縄自縛だった。己の甘さが言葉を縛る。柊吾は焦り、苛立った。言われっ放しだったからだ。下手に加えた手心が、この攻撃を許したのだ。自分も拓海も、どちらも厭になるほど許せなかった。

 言えばいい。簡単な事だ。ここで言わなくては負けてしまう。

 焦燥に衝き動かされるように、柊吾は口を開いたが――拓海の方が、それよりずっと早かった。

『三浦、昨日から言おうと思ってた。雨宮さんの事、少し気をつけて一緒にいた方がいいと思う』

「はっ?」

 突然挙がった名に柊吾は面食らったが、すぐにかっとなって言い返した。

「坂上、話題逸らすな。今は雨宮の話じゃない。綱田だろ」

『でも俺は、ほんとのところ綱田さんよりも、雨宮さんの方をもっと心配しなきゃいけないんじゃないか、って。そんな気がして、怖いんだ』

「はあ……?」

 怖い?

 弱音の言葉。だが、弱音のニュアンスではない気がした。何かを懸念し危惧するような、文字通り恐れの意味合いの言葉だった。

「怖いって、何だ? ……まさか、雨宮の事が怖いとか、今更そんな事言ってるわけじゃねえよな」

『そんなわけない』

 怒気を含んだ柊吾の声に、拓海は物おじせずに答えてきた。その声はむしろ、あらぬ誤解をした柊吾を責めているかのようだった。

 確かな真摯さの伝わる声で、『そっちじゃないんだ』と拓海は言った。

『三浦、誤解させたんだったらごめん。そうじゃないんだ。怖いって言ったのは、雨宮さんの事が怖いって意味じゃなくって……雨宮さん、もしかしたら危ない事になるんじゃないかって。そういう意味で、怖いんだ』

「雨宮が? ……なんで?」

 柊吾は、つっけんどんに訊いた。

 拓海の誠意は、分かった。早合点でこちらが苛立った事も、拓海が撫子を気遣っているのも分かった。

 だが柊吾には、何故拓海がそんな疑念を持つに至ったのか分からなかった。ただ話題を逸らされたようにしか思えなかったのだ。

 それに、余計なお世話だった。拓海に言われるまでもなく、柊吾は撫子へ気を配っている。今でこそ『見える』時間の方が増えている撫子だが、いつまた『見えなく』なるとも限らない。可能な限り一緒にいなければ心配だった。

 撫子の事を考えると、胸が少し、切なくなった。

 同じ学校で、同じ時間を過ごしてきた。歩調を合わせて寄り添って、すれ違いを埋めてきた。関係を、許された。一緒にここまで歩いてきたのだ。

 そんな絆に素手で触れられた気がして、相手が拓海であれ柊吾は不愉快だった。

「雨宮は関係ないだろ。誤魔化すな。坂上」

『ごめん、でも聞いてくれ。克仁さんの家の近所で花が切られて、俺、真っ先にイズミさん絡みだって思った。けど本当にそうなのか、今はちょっとよく分かんなくなってきてる』

「お前が何の話してるのか分かんねえ。まどろっこしいから、もっと端折って言ってくれ」

『聞けって、三浦。頼みがあるんだ』

「何だ?」

『三浦達が小学五年の時の事。前に少しだけ聞いたけど。あれ、もっと詳しく教えて欲しい』

「はあっ? 小五? なんで今それなんだ?」

『いいから。気になる事があるんだ』

「……っ?」

 いよいよわけが分からない。不可解さから沈黙する柊吾だったが、そうやって一度だんまりを決め込むと、拓海への反発心が気道を塞いで、何かを言う気が失せていった。

 撫子の姿を、目で探す。相変わらず姿は見えず、ひょろひょろした陽一郎の姿ばかりが見えた。ちっと舌打ちすると『三浦』と拓海が弱った様子で呼ぶのが聞こえ、ひどく後味の悪い気分になってしまった。

『三浦、聞いてくれって。頼むから。三浦が話さないんだったら、俺、雨宮さんに直接訊かないといけなくなる』

「……今のお前と、雨宮が話すのは嫌だ」

『分かった。じゃあやっぱり三浦が教えて欲しい』

「……」

 押しが、強い。それに粘り強かった。

 あの温厚な坂上拓海が、これほど我を通すとは。

 だが驚く事は無かった。こんな衝突は、初めてではなかったからだ。

 夏の惨劇の上映会以降。普段は互いに、忘れたように黙っている。だが一たび異能者たる少女の影がちらつけば、今のような事になる。


 ――呉野氷花。


 〝言霊〟の異能を操り、柊吾達の日常を変えた少女。

 その少女と対向する為、そして自分達の身を守る為に、柊吾達は全ての鍵を握るであろう異邦人と、少林寺師範を訪ねていた。

 そして、〝イズミ〟と〝キョウカ〟の過去を知ったのだが――九年前の夏の惨劇を『見た』事で、拓海は少し変わった、と。柊吾は悔恨にも似た感情を噛みしめながら、時折強く思うようになっていた。

 何が変わったのか、具体的には分からない。呆れる程の優しさも優柔不断な個性も、さらりと歯が浮くような言葉を言うところも、以前と変わっていないだろう。

 ただ以前よりもほんの少し、肝が据わった気がするのだ。あるいは何かを諦めたのか。眼差しは研ぎ澄まされて、時折ぞっとする程大人びた顔を、拓海は見せるようになっていた。

 まるで、置いて行かれたようだった。大人になる為に必要な何か。柊吾がまだ知らないそれを、拓海が先に知ってしまったようだった。

 その拓海から柊吾は、氷花への仇討をやめるように言われていた。

 最初は、当惑した。不意に見せられた強引さに当惑し、そして次に腹を立てた。それは柊吾が決める事であり、指図される謂れはなかったからだ。

 だから、反発したのだが……すぐに、何も言えなくなった。


 ――これから出るかもしれない未来の被害よりも、俺は。三浦が無事でいてくれる方が大事なんだ。


 言葉が耳に、残っていた。

 血を吐くような声だった。

 苦しそうに、それでも覚悟と共に絞り出された決意の言葉。その真摯さを殺す言葉など、柊吾に言えるわけがなかった。

 狡い。あの瞬間にそう思った。そんな風に言われては、何も言えなくなってしまう。

 拓海が何故ここまで拘るのか。そんな理由は明白だった。

 七瀬を、守りたいからだ。

 勿論七瀬だけではなく、柊吾と撫子も入っている。だが一番は七瀬だろう。拓海は皆の安全を選ぶ為に、敢えて憎まれ役を買って出ている。心を殺した優しさに、理解がないわけではなかった。

 ……分かっていた。拓海が、正しい事くらい。

 実際、言われた言葉は正論だった。柊吾達に出来る事が、他にあるとは思えない。確実に綱田毬を救える人間が存在するなら、それは間違いなく和泉と藤崎の二人だろう。

 現に和泉は氷花の悪行を阻止すべく『調査中』で、何より氷花同様に異能を持つ。それに藤崎の方は氷花に慕われているようなので、養父の言葉なら氷花も聞く耳を持つかもしれない。

 分かっていた。出る幕ではないくらい。拓海が、正しい事くらい。

 だが、納得しろと言われたら、やはり柊吾には出来なかった。

「坂上。俺、お前のやり方に納得いかない」

 柊吾は言う。言いながら、罪悪感で胸が軋んだ。

 拓海の言い様は冷淡だったが、それはわざとに違いないのだ。拓海がこんなやり方を望んでいないのは分かっている。友達に、これほど心配されている。大切に捉えてもらっている。苦しい思いをさせている。

 それでも柊吾は、意地を貫くのをやめられなかった。

 まだ、忘れるわけにはいかないのだ。

 仇を討つ為の感情を、手放すわけにはいかないのだ。

「……」

 目線を、雑踏に馳せる。

 そうやって、探した。二つに結われた栗色の髪を。七瀬を真似て伸ばし始めたという、ようやく胸元まで伸びた髪を。首に巻いた、赤いマフラーを。人ごみに紛れて見えなくなった、華奢な体格の撫子を。雨宮撫子の姿を、柊吾は懸命に探し続けた。

 だが見えない。陽一郎しか目に見えない。違うのだと頭を振る。陽一郎では足りなかった。陰惨さの度合が違う。撫子でなくては駄目だった。

 撫子を見れば、思い出せる気がした。

 中学二年の夏。学校中から腫物扱いされながら、まるで気が触れたような足取りで歩く、夢うつつの撫子を。

 柊吾の事を見ない、見る事の出来ない、一人ぼっちの撫子を。

 あの姿を思い出せば、いつしか痩せて擦り切れた殺意が、この手に戻って来る気がした。

 胸が、苦しかった。

 もうそんな風にしなければ、柊吾は殺意を維持出来ないのだろうか。

 あんなにも、憎かった。仇だと恨み、恨み抜いた。撫子をあんな目に遭わせて、ナイフを取らせた氷花が憎い。撫子の精神をそこまで追い込み抜いた、呉野氷花が許せなかった。

 ぶっ潰す。そう思った。

 思っていた、はずなのに。

 柊吾には、いつしか――――仲間が、たくさん出来ていた。

 撫子を始め、袴塚東で出会った拓海と七瀬。あやふやな付き合いだった和泉の事も、夏の一件以来、距離感が明白に変化した。

 一人では、なくなっていた。

 復讐への覚悟が、仲間を得た安堵で溶けていた。

 それは、恵まれた事だと思う。幸せとして受け止めるべきだ。だが柊吾は苦しかった。不甲斐なくて堪らないのだ。それでいてやはり憎いのに、その感情がぼやけていた。それが苦しかった。自分で自分が許せない。そんな曖昧なものを追う為に、覚悟を固めたわけではなかった。拳をきつく固めながら、鋭さを求めて歯噛みする。違うのだ。こんなものではなかった筈だ。それなのに柊吾は、撫子の姿を探している。撫子を探して、失くした殺意を求めている。

 仇を打つ為の力を求めて、柊吾は、撫子を、探している。

 何の為の、仇討なのか。

 堂々巡りの思考に、胸を掻き毟りたくなるほどのもどかしさを感じた時――、

「三浦くん」

 はっと、した。

「雨宮……」

 撫子が、いた。

 あんなに探して、見つけられなかった。その撫子が、数メートル先に立っている。人ごみの中からひょいと顔を覗かせ、とことこと小さな靴音を立てて歩いてくる。背後からは「撫子、待ってってば」と陽一郎もくっ付いてきた。

 早まった鼓動を意識しながら、柊吾は撫子と見つめ合う。

 撫子は小首を傾げ、立ち尽くす柊吾の顔色を不思議そうに見上げていた。

 目が覚めた。そんな気がした。心を見られた気がしたのだ。

 焦りを、撫子に。見つけられた気がしたのだ。

「……。雨宮、どうした?」

「ううん。なんでも。終わったかなって思って、来ただけ。……電話、邪魔してごめんなさい」

 撫子は柊吾の耳に当てられた携帯に気づいて遠慮したのだろう、こちらには来なかった。柊吾に背中を向けて、再び陽一郎と何事か話し始めた。陽一郎が、ふやけたように笑っている。楽しそうな笑い声が雑踏へささやかに混じり合い、こちらの方まで流れてきた。

「……」

 熱が、引いていくようだった。

 思考の堂々巡りが終わり、意識が現実に戻ってくる。微かな落ち着きを感じながら、柊吾は撫子のか細い後姿を、じっと静かに見守った。

 ――元気に、なったと思う。

 目線がきちんと合うという事。

 そんな幸せを、随分久しぶりに思い出した気がした。

『……三浦。雨宮さん、近くにいるんだな』

「ああ。いる。……坂上。俺、言い方よくなかったと思う。ごめん」

 柊吾は、謝った。

 感情に折り合いが付いたわけではなく、拓海への反発全てが薄れたわけでもなかった。それでも謝ろうと思ったのは、今の柊吾には力が無いと、自分でも気づいていたからだ。そんな状態で仇へ執着しても、これではただの悪あがきだ。

 認めるしかない。

 現実を直視している拓海の方が、遙かに現実的だった。

『……俺の方こそ。ヤな事ばっか言って、ごめん』

「謝んなって。……言う方も、ヤだろ」

『……』

 拓海は沈黙した。やがて『ん』と頷く小さな声は、はっきりと分かる疲労の声だ。「慣れない事してんじゃねえって」と柊吾は悪態を吐いたが、軽口を叩いた自分の声も、拓海同様に疲れている。

 つくづく、互いに妙な事をしていると思う。受話器の向こうからも重い溜息が聞こえたので、ようやく緊張が解けた柊吾は、肩の力を抜いて言った。

「坂上、受験お疲れ」

『三浦も。お疲れ』

「多分、お前は受かってるだろうな」

『結果見るまでは安心できないって。三浦の方は? 手応えあった?』

「まあまあ。多分いけると思う」

『そっか。じゃあ、えっと。高校でもよろしくな』

「なんだ。やっぱ自分は受かるって思ってんじゃん」

 打てば響くように、雑談を交わし合う。先程までのやり取りが嘘のように、スイッチのオンオフを切り替える事が出来た。

 だがこれは、ほんの一時の事だろう。話題が再び氷花に戻れば、同じような事になる。

 不安と覚悟と意地。それらが薄い均衡の元で張りつめた、友人との談笑。

 互いが心の内では思っていた。こんな事はやめたいと。

 それでも我を通す事をやめられないのだから、柊吾達は呆れるほどに不器用だと思う。

 ふと、その時柊吾は思い出した。

 綱田毬の件は先延ばしには出来ないし、先程拓海の言いかけた撫子への危惧も気になった。再度の衝突を思うと気が滅入るが、それとは別にもう一つ、柊吾は火急の問題を抱えていたのだ。

「……」

 神社の神主から受けた、託宣。

 意地悪な笑みはさながら呉野氷花の擬態のようで、それでいて老成した大人が子供の足掻きを見るような、傍観者めいた顔でもあった。自分は舞台袖から見ているのだと、今にも戯曲のような台詞回しが聞こえてきそうな記憶の顔。

 その顔で言われた言葉を、柊吾は思い出したのだ。

「坂上。おい、お前さっき篠田の事あとで話すって言ったよな? あいつどうしたんだ? なんで一緒じゃないんだ?」

 先程は気忙しかったので気に留めなかったが、思い返せば妙だった。

 七瀬は拓海の彼女だ。去年から付き合っていて、クラスも同じで席も隣り。人が聞けば妬ましさから呪われそうな境遇だと柊吾は常々思ったものだが、実際軋轢や冷やかしも多かったと聞いている。

 それでも仲睦まじく一緒にいる二人が、何故、今日に限って別々なのだろう。

「……」

 嫌な予感が、加速度的に膨らんでいった。

 脳裏では、それ見た事かと異邦人が笑っている。

 その悪人面を脳内から叩き出していると、『……それなんだけど』と拓海は困惑した様子で、柊吾の懸念を肯定する言葉を言った。

『ついさっきなんだけど、篠田さんとはぐれちゃって』

「はぐれたぁ?」

『うん。一緒に帰るって話してたのに、篠田さん受験終わったら、いきなり教室飛び出してったんだ。……えっと、その。速すぎて。全然追いつけなかった。人ごみすごいし、呼んでも止まってくれないし、それどころかついて来るように言われるし。で、結局はぐれちゃったから弱ってて。三浦、もし篠田さんの姿見つけたら、教えて欲しいんだけど』

 最後まで聞く事は出来なかった。

 ――――ぽん、と。

 肩に、手が乗せられたからだ。

「……あー。坂上。お前、今すぐグラウンドに出てこい」

『へ?』

 柊吾は背後を振り返らない。棒読みで受話器へ喋りかけながら、視線を前方へ固定する。

 逃げたかったが、捕まった。走って逃げれば振り切れるだろうが、運動の出来る相手なのだ。グラウンドを舞台に他校生の男女が鬼ごっこをする光景が目に浮かび、あまりのシュールさに柊吾はがっくりと肩を落とした。

 ともかく、最初に言うべき言葉は決まっていた。

 柊吾は振り返ると、そこに立つ少女を見下ろす。

 緩く巻かれた髪は、右側で一つに結われている。トレードマークの髪を桃色のマフラーから垂らした少女は、柊吾を真顔で見上げていた。

 毅然とした目にじっと射竦められて、観念した柊吾は通話を切る。『あ』と拓海の慌てた声が最後に聞こえたが、すぐに合流できるだろう。あまり気には留めなかった。

「……受験、お疲れ」

 投げやりに、労う。

「そっちこそ。お疲れ」

 相手はにこりとも笑わず、淡々とした返事で答えてきた。

 東袴塚の生徒との、これは第二ラウンドだろう。受験が終わったというのに、まるで気が休まらなかった。

 本日何度目なのか分からない溜息を吐いていると、腰に手を当てた格好の少女の背後で、陽一郎がおろおろと狼狽えているのが見える。撫子の方は表情に乏しかったが、友人の登場が嬉しいのかもしれない。微かな笑みを覗かせた。

「七瀬ちゃん」

「撫子ちゃん、久しぶり。受験お疲れー」

 振り返って、歯を見せて笑う。

 そして柊吾を再び見上げ、真剣な顔に戻った。

 逃げたい。往生際悪くそう思った。そもそも何故文句が柊吾の所へ集中するのか、抗議したくて仕方がなかった。

「ねえ、三浦くん。ちょっと面貸して?」

 手が、肩から降ろされる。

 軟派な雰囲気にはそぐわない生真面目さで――篠田七瀬はそう言って、柊吾の顔を睨み付けた。

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