花一匁 3
佐々木和音は、走っていた。
目的地は、目と鼻の先だ。黄昏時の風にさらされたポニーテールが、冷えた空気を切り拓いて走る背中で、左右に大きく振れている。茜色の陽光を全身に浴びながら、呉野神社の石段を駆け下りた先の住宅街へ、息つく暇なく飛び込んだ。
「毬……!」
きつく噛みしめた歯の隙間から、絞り出すような声が漏れる。アスファルトをローファーで蹴りつけながら、和音は恐れと向き合い続けていた。
――『綱田毬さんのことを、頼みました。よく気に掛けてあげてください。彼女の身の安全は、貴女に懸かっているかもしれませんよ』
淡々とした声が、心を絡め取った瞬間に湧いた恐怖は、神社の石段から和装の異邦人を見上げた出逢いのときに、魂を揺さぶった畏怖とよく似ていた。
――どうして、知っているの?
灰色の町を駆けて、丁字路を曲がり、不安に揺れる心で自問する。
――どうして、毬のことを、和泉さんが知っているの?
かつて和音は、呉野神社の境内で、和泉に愚痴を聞いてもらったことがある。その際に毬の名を挙げていたとはいえ、やはり和泉の名指しは不自然だ。
なぜ、呉野和泉は――今の毬のことを、知っているのだ。
曲がり角をさらに折れると、鈍色の屋根瓦が見えてきた。白塗りの外壁と古式ゆかしい障子窓を持つ二階建ての隣には、高校の体育館を小さくしたような平屋が併設されていて、子どもたちの賑やかな声が聞こえてくる。
きっと、いる。高校受験の前に顔を見て、元気をもらいたい人がいる。そう放課後に言っていたはずだ。舗道の砂利を蹴るようにして足を止めると、『藤崎』と表札の掛かった家の前に立つ。
そして、門扉の向こうに見える平屋――少林寺拳法の道場の引き戸の前に、捜していた人物の姿を見つけた。
「毬!」
呼ばれた相手は、目を丸くして和音を見た。隣に立つ同着姿の男も、駆けつけた和音に驚いていたが、やがて気さくに微笑んだ。
「こんにちは、和音さん。どうしました?」
「師範……こんにちは」
和音は、茫然と返事をする。
――藤崎克仁。少林寺拳法の師範を務める初老の男。ここにいて当たり前の相手だが、不意打ちだったので驚いた。ただ、師範の隣の女子中学生のほうが、和音よりも驚いているようだ。ショートボブの級友は、ぽかんとした顔で言った。
「和音ちゃん、どうしたの?」
綱田毬の言葉は、先ほどの師範の台詞と同じだったが、ホッとした和音は、大きな溜息を吐き出した。毬の声が普段通りのものだったことに、これほどの安堵を覚えるとは思わなかった。無自覚だった気持ちの強さに動揺したが、照れ隠しの笑みで誤魔化して、表情にはおくびにも出さなかった。
「ううん、何でもない。師範も、驚かせてごめんなさい。毬に、ちょっと会いたかっただけで……何でも、ないんです」
そう詫びている間に、師範の顔色が僅かながら変わった。よく気がつく人だ。きっと和音の様子から、何かを察したに違いない。そんな予想は大当たりで、師範は優しい眼差しを変えないまま、和音と毬に語り掛けた。
「和音さん、毬さん。明日は、大切な日ですからね。早くおうちに帰って、ご家族の方を安心させてあげてください。今晩は、早く眠るのですよ」
師範が、毬の頭にぽんと手を乗せた。毬が、くすぐったそうに微笑む。本当に、師範のことが好きなのだろう。面映ゆくなった和音は、目を逸らした。
「はい。師範、お稽古の邪魔をしてごめんなさい」
「緊張しているようですね、毬さん。貴女なら大丈夫ですから、明日は気負わずに行ってらっしゃい。是非、また遊びに来てくださいね」
「はい。受験が終わったら、また来ます」
毬が、深々と頭を下げる。和音も、毬に倣って頭を下げた。すると、引き戸が開いたままの稽古場から「師範ー、開けっ放し寒い!」「早く来てよお」と、子どもたちの元気な声が聞こえてきた。相好を崩した師範は「はい、今行きますよ」と答えて、毬と和音に向き直り、「其れでは、左様なら。お気をつけて」とだけ言い残すと、子どもたちの元へ戻っていった。
扉が、ガラガラと音を立てて閉まる。室内から漏れる光の筋が細くなり、やがて断たれた。藤崎家の玄関のそばには、和音と毬だけが残された。
「……」
無言の時が、二人の間に流れた。三浦柊吾という男子生徒と出会った時も、似た気まずさを覚えたことを思い出す。
今ならば、己の態度がどれほど相手に失礼だったか、よく分かる。だが、和音は呉野和泉に会いに行ったのだ。駆け戻った場所になぜか居座っていた男子生徒に興味はない。勉強の息抜きに神社まで足を伸ばして、才知に長けた大人の話を聞く時間が、最近の和音の楽しみだった。受験期の限られた時間に水を差した柊吾の存在は、正直なところ面白くなかった。
ただ、そんな態度を隠せなかったことは、自分の落ち度だと弁えている。少し申し訳なく思ったが、もう会うこともないだろう。
俯く毬の表情は、師範が去ってから陰っていた。茜色の夕空も昏くなり、紫色の濃度を増した夜の気配が、霧のように庭を包む。毬のスカートから覗いた膝は白く、対照的に手は赤かった。あかぎれが目立つ指先には、血も滲んでいる。
手元に視線が吸い寄せられると、剥き出しの首元にも視線が流れた。マフラーは巻いておらず、学校指定のコートも着ていない。春が間近に迫っているとはいえ、上着が黒いブレザーだけでは、まだまだ心許ないだろう。
「……毬」
和音は、毬に近づいた。背はこちらが高いので、自然と見下ろす形になる。自分のマフラーを外して、毬の首に巻きつけると、毬は弾かれたように顔を上げた。
「和音ちゃん。いいよ。さっき師範が、カイロをくれたから大丈夫。明日は受験なのに、風邪を引いちゃうよ」
「こうしてないと、毬が風邪を引くでしょ」
続いて手袋も外そうとしたが、さすがにそれは止められた。「和音ちゃん」と涙を堪えている声で呼ばれたから、和音は「ごめん」と謝った。悪いことをしたとは思っていないが、毬を傷つけたことは、和音の落ち度だと思う。
「和音ちゃん……ごめんね。受験前なのに、心配させてごめんね」
「いい。土壇場でジタバタするような、いい加減な勉強はしてきてない」
和音は、毬の頭に手を伸ばしかけたが、大人の師範の真似をしても、子どもの和音には毬の苦しみを消し去れない。無為な行為をやめる代わりに、和音は毬の肩に手を置いた。そこしか行き場がなかったのだ。
「毬。どうして、そんなに謝るの。私は、謝られることなんてされてない」
「でも、私の所為で、ミヤちゃんと」
「毬の所為じゃない」
かなりきつい言い方になった。毬の肩が、びくりと跳ねる。和音は我に返ったが、怒りの熾火は意識の端を炙り続けて、昨夜の記憶を生々しく蘇らせた。十二月にはクラスのリーダー格の女子生徒と喧嘩をしたが、そのときでさえ、和音は今ほどの憤りは覚えなかった。
「……毬。前に、友達と一度でも喧嘩をしたら、もう元通りの関係にはなれない……って、クラスの子が言ってたこと、覚えてる?」
その台詞を言った女子生徒は、和音の嫌いな相手だったが、皮肉にも今なら共感できた。もちろん、喧嘩の相手が綱田毬なら、きっとそうは思わない。きちんと話し合って仲直りをするはずだ。
だが、あの相手なら――もういいと、和音は思ってしまった。
「私は、美也子との仲を修復できなくてもいい。あの子が毬に謝らないなら、もう一緒にいたくない。それは毬の所為じゃなくて、私が決めたことだから」
毬が、悲しそうに眉を下げた。左頬の泣き黒子が、薄闇の中でもはっきり見える。憂いを含んだ眼差しは、足元の縁石に落ちていて、和音は少しどきりとした。
毬の顔が、艶っぽく見えたからだ。毬は童顔のはずで、睫毛が落とす影も、暮れゆく空色を淡く映した黒髪も、自分と同じ十五歳の少女のものなのに、不思議と息を呑むほど美しかった。見てはいけないものを見た気がしていると、毬はおずおずといった様子で和音を見上げた。
「あのね、和音ちゃん……私は、ミヤちゃんのこと、もう怒ってないよ」
「毬が怒ってなくても、私が怒ってる」
「もういいの。怒るようなことでも、なかったもん」
「でも、ひどいことを言われたでしょ。毬が電話で教えてくれなかったら、私は何も知らないままだった」
「……うん。話せて嬉しかった。和音ちゃんは、私よりも受験のことで緊張してるはずなのに……大切なときに、話を聞いてくれてありがとう」
毬は、薄く笑った。諦念が薄化粧のように乗った笑みは、やはり普段より大人っぽく見える。触れ合えるほど距離が近くても、あまりに遠い隔たりが、二人の間にある気がした。
「……毬。早く帰ろう」
名残惜しいが、先ほど師範が言ったように、毬は明日に備えるべきだ。「うん」と頷いた毬と一緒に、玄関へ歩き出そうとしたときだった。
「……ふぅん。そういうこと」
無粋で不躾な少女の声が、ささやかに流れる時間に罅を入れた。
毬が、ぎょっとした様子で立ち竦む。驚いた和音も、声の方角である玄関を振り向いて、顔見知りの登場に気づき、息を詰めた。
しかも、ただの顔見知りではない。口を利いたことはない相手だが、少女の兄を名乗った神職の男の話を聞いたあとでは、十二月に転校してきた彼女に抱いた印象は、出会った頃から百八十度変わっていた。
曰く、人の弱みが三度の飯より好きな愉快犯。戯言としか思えない妄言を発してつきまとい、ストーカー行為に及ぶという小悪党。世界は自分の思うままと信じて疑わない、尊大な精神の苛めっ子。
こうして列挙してみると、まるで都市伝説に出てくる妖怪か、さもなければただの馬鹿だと思う。もしくは変質者といったところだろうか。若干の脱力感を覚えつつも、和音は緊張感を保ったまま、対峙する少女の麗姿を睨んだ。
一瞬で、見抜けたからだ。少女がこちらに向けた、明らかな嘲りに。
「……なあに? 物騒な顔をしちゃって。貴女って、同級生にそんな顔するような、厭味で陰険な子だったかしら? やっぱり貴女、前と比べると変わったわね、佐々木和音。ま、死んだ魚みたいな目をしてた十二月よりは、遙かにマシなんじゃない? 今の貴女の目、私は嫌いじゃないわ」
愕然とした和音は、すらすらと喋る少女を見た。突然にフルネームで呼ばれたことにも驚愕したが、何よりも驚いた点はそこではなかった。
厭味。陰険。死んだ魚の目。
誰のことを言われたのか、すぐには理解できなかった。
自分のことだと気づいたのは、一拍遅れてのことだった。
頭の中が、真っ白になる。やがて、カッと頭に血が上った。ここまで高飛車な物言いをする人間を、和音は今まで見たことがない。クラスのリーダー格の女子でさえ、粗野ではあったが、これほど露骨な自尊心を曝け出してはいなかった。性格がきつそうだとは思っていたが、まさかこれほどとは思わなかった。
何せ学校では、この少女は高嶺の花であり、切れ長の目に鋭さがあれど、誰もが羨む美少女だ。すぐにクラスの輪に馴染んだ、社交性に優れた同級生。華やかな雰囲気を常に纏う、転校生にして人気者。そんな少女が、急に仮面を剥ぐように素顔を見せた理由は何だろう? 今度こそ、和音を狙いに来たのだろうか?
――あるいは、もしや。警戒心が、張り詰める。和装の異邦人が発した警句は、現在の毬の不安定さを指していると思い込んでいたが、今となっては真偽が疑わしい。先走らずに詳しい話を訊くべきだったと後悔したが、あの場には素性の知れない男子生徒もいたのだから、結局は追及を控えたかもしれない。和音は、警戒を解かないまま、毬を庇って一歩前へ進み出た。
「……何の用? 呉野さん」
険を含んだ言い方をしたにもかかわらず、和音と同じ制服姿の少女――呉野氷花は、不快感を示さなかった。むしろ愉快そうに口角を上げて、和音の敵愾心を嘲笑った。
「ふうん。やっぱりあんたって陰険ね。でも、期待外れだわ。ねえ、あんたって、いつからそんな性格に化けたの? 私の手でそういう汚いところを引きずり出したかったのに、残念だわ。私の知らない所で勝手に汚れた女になんて、私はもう興味はないわ」
「はあ……っ!?」
――汚れた。自分が? 頭が今度こそ真っ白になり、心拍数だけが上がっていく。乱暴な言葉遣いで詰られたことならあるが、これほど個人の尊厳を嬲る言葉の石を投げつけられたことなど、今までの人生で一度もない。想像を絶する暴言を受けたとき、感情が死滅するということを、和音は今日初めて知った。時間差で爆発した感情は、寒さを忘れるほどの激しさで、和音の胸中を焼き尽くした。
「な、何っ、言って……!」
反論しようとしたが、そこまでだった。何一つとして、言い返せない。口喧嘩の経験なんて、数えるほどしか積んでいない。だから、勝手が分からなかった。
――だが、和音はつい昨日も、口喧嘩をしたばかりではないか。あのときは口が滑らかに動いたのに、今は言葉の暴力で殴打される側になっている。他人と感情をぶつけ合えるほどの関係を、和音は育んでこなかった。いい加減な友達付き合いが、人との衝突を避けさせた。学校という狭い社会で、可も不可もなく生きてきた和音には、言葉で戦うすべがなかった。
壮烈な悔しさと、煮え滾るような憤りが、内腑でぐちゃぐちゃに混ざり合って眩暈がする。だが、理性を捨てて感情を選んで言い返せば、より酷い結果を招くことは明らかだ。そんな醜態を晒したが最後、目の前の不愉快な少女は、和音の体たらくを嗤うだろう。屈辱で、目の前が赤く染まっていった。
だが、暴言に衝撃を受けたのは――和音だけでは、なかった。
「そ、そんなこと……っ、言わないで……!」
か細い声が、割り込んできた。和音の腕が、背後から強く掴まれる。華奢な身体をぶつけるようにして和音の隣に並んだ毬が、涙目で氷花を睨みつけた。
「和音ちゃんの、ことを……そういうふうに、言わないで……」
毬の顔は、蒼白だった。歯がカチカチと鳴っている。眼前の女子生徒は、学校の人気者なのだ。敵に回せば、次の日からどんな噂を立てられるか分からない。
そんな危険を顧みずに、気弱な毬が啖呵を切った。びっくりした和音は、慌てて「毬、いい」と制したが、頭を振った毬は、目に盛り上がった涙を零さずに、前だけを悲しげに見据えている。
――以前にも、こんなことがあった。中学一年生のときに、この少林寺拳法の道場で、毬は一人の友達を救っている。あのときと同じ救い方で、毬は和音にも手を差し伸べてくれた。胸中で燃え盛っていたはずの憎悪が、温度を急速に下げていく。唇を噛んだ和音は、涙を堪えるだけで精一杯になってしまった。
「……ふぅん」
氷花は、毬の姿をじっと見ていた。執拗に品定めをするような眼差しに、毬があからさまに怯えてから、急に胸を押さえて蹲った。
「毬!」
目を剥いた和音は、しゃがみ込んで毬の背を支えた。笑い出した氷花が、鬼の首を取ったように「ちょっと、私はまだ何もしてないわ。繊細すぎるんじゃないの?」と神経を逆撫でする厭らしさで言ったから、殺意がぶり返した和音は、氷花をキッと睨め上げたが――邪悪な同級生は、もう笑ってはいなかった。
心底つまらなそうな溜息が、確かに聞こえた。長い黒髪を手で梳いた氷花は、冷徹な眼差しで、状況についていけない和音と毬を見下ろした。
「貴女たちがどうなるのか、見せてもらうわ。ねえ、綱田毬。あんたの友達の女には、ひどい目に遭わされたけど、別にこれは復讐ではないのよ? 勘違いしないでね。もう私は、篠田七瀬なんてどうでもいいんだもの。偶然だけど面白いことになりそうだから、ちょっと見物させてもらおうと思っただけ。中学校も、もうすぐ卒業だし……ここじゃ、場所も悪いものね」
氷花の手が、すうと伸びてきた。何をするのかと警戒した和音だが、白い手の行き先は、玄関先の垣根だった。そのとき初めて、和音は気づく。
「……厭な〝アソビ〟ね」
氷花は、吐き捨てるように呟く。そして、くるりと踵を返した。
「私は、ここでは〝アソビ〟をしないって決めているもの。……次に会ったときは、知らないけどね」
横顔で振り返った美貌の少女が、ニイと歯を覗かせて笑う。悪辣な顔を見た毬が、小さな悲鳴を上げていた。同級生の怯えを楽しそうに眺めた氷花は、ローファーの踵を鳴らして、灰色の住宅街の薄暗がりへ消えていく。絹のように背中を流れた黒髪が、藤崎家から見えなくなると、毬は庭にへたり込んだ。
「……毬! 大丈夫っ?」
助け起こすと、毬は「うん」と頷いたが、身体が小刻みに震えている。
「毬。あんな人の言うことは、気にしなくていいから。呉野さんってお兄さんがいるけど、妹は阿呆だって言ってた」
「違うの、和音ちゃん……呉野さんが、私のことを見たとき……なんか、変な感じがしたの」
「変な感じ?」
「うん。でも、ごめんなさい。説明できない……」
毬は、申し訳なさそうに囁いた。和音は当惑したが、毬の言う『変な感じ』に相当する不快感には、心当たりがあった。その感触は、和音も経験している。
そのときの和音は、氷花に狙われていた。
そして、今は、標的から外れて――代わりに毬が、狙われている。
「和音ちゃん。……呉野さん、さっき、七瀬ちゃんの名前を言ってた」
毬は、何かを訴えるような目をしていた。吐く息が、先ほどより白くなる。
「呉野さんは、七瀬ちゃんの知り合いなの……? 七瀬ちゃん、大丈夫かな。和音ちゃん、私、あの人が怖い。七瀬ちゃんのことを、恨んでるみたいだった。復讐じゃないって言ってたけど……どうしよう、私、早く帰って、七瀬ちゃんに連絡してみる。大丈夫だよね、七瀬ちゃん、大丈夫だよね……?」
心細そうに言った毬の目から、ついに涙が零れ落ちた。
なぜ毬は、こんなにも優しいのだろう。明確な脅しを受けた今、どう考えても一番危ういのは毬なのに、毬は他人のことばかりだった。友達のことばかりだった。七瀬のことばかりだった。
顔が、引き攣れたような笑みを作る。それなのに、泣き出したい心のちぐはぐさが、後戻りできない心のトリガーを引いたとき、自然と手が伸びていた。
「……毬。守ってあげる」
変だと思う。先ほどは躊躇ってやめたのに、今なら何でもできる気がした。
驚いた毬の息遣いが、和音の耳元で聞こえた。冬の終わりの風にさらされた毬の髪も、制服のブレザーも、腕を回した背中も、身体が触れ合ったところは全て冷たい。友達から温もりを奪った怒りは、一人の人間の記憶に結びつく。
ふわふわした巻き髪が、脳裏で踊った。だが、篠田七瀬ではない。もう一人、日頃からお洒落に気を使っていて、高い社交性を持つ少女がいる。クラスメイトの顔から意識を無理やり剥がした和音は、今度は呉野氷花のことを考える。
人を小馬鹿にした笑みを振り撒いていた転校生は、どうしてあの瞬間だけは、笑みを消していたのだろう。あのとき、和音は確かに見た。玄関先の垣根に触れた氷花の指先には、切断された茎があり、足元には花が落ちていた。
――『厭な〝アソビ〟ね』
氷花が垣間見せた虚無が気になったが、和音は思考を打ち切った。
今は、毬がいれば、それでよかった。
「和音ちゃん……」
戸惑い気味の毬の声が、耳朶を打つ。これから和音は、毬を何から守ろうとしているのだろう。全てが分からないまま、風の冷たさを感じていた。




