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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 3

 佐々木和音ささきかずねは、走っていた。

 目的地は、目と鼻の先だ。黄昏時たそがれどきの風にさらされたポニーテールが、冷えた空気を切りひらいて走る背中で、左右に大きくれている。あかね色の陽光を全身に浴びながら、呉野くれの神社の石段を駆け下りた先の住宅街へ、息つく暇なく飛び込んだ。

まり……!」

 きつく噛みしめた歯の隙間から、しぼり出すような声がれる。アスファルトをローファーで蹴りつけながら、和音は恐れと向き合い続けていた。

 ――『綱田毬つなたまりさんのことを、頼みました。よく気に掛けてあげてください。彼女の身の安全は、貴女に懸かっているかもしれませんよ』

 淡々とした声が、心を絡め取った瞬間に湧いた恐怖は、神社の石段から和装わそう異邦人いほうじんを見上げた出逢であいのときに、魂を揺さぶった畏怖いふとよく似ていた。

 ――どうして、知っているの?

 灰色の町を駆けて、丁字路ていじろを曲がり、不安に揺れる心で自問する。

 ――どうして、毬のことを、和泉いずみさんが知っているの?

 かつて和音は、呉野くれの神社の境内で、和泉いずみ愚痴ぐちを聞いてもらったことがある。その際にまりの名を挙げていたとはいえ、やはり和泉の名指しは不自然だ。

 なぜ、呉野和泉は――今の毬のことを、知っているのだ。

 曲がり角をさらに折れると、にび色の屋根瓦が見えてきた。白塗りの外壁と古式こしきゆかしい障子窓を持つ二階建ての隣には、高校の体育館を小さくしたような平屋が併設へいせつされていて、子どもたちの賑やかな声が聞こえてくる。

 きっと、いる。高校受験の前に顔を見て、元気をもらいたい人がいる。そう放課後に言っていたはずだ。舗道ほどうの砂利を蹴るようにして足を止めると、『藤崎ふじさき』と表札の掛かった家の前に立つ。

 そして、門扉の向こうに見える平屋――少林寺拳法の道場の引き戸の前に、さがしていた人物の姿を見つけた。

「毬!」

 呼ばれた相手は、目を丸くして和音を見た。隣に立つ同着姿の男も、駆けつけた和音に驚いていたが、やがて気さくに微笑んだ。

「こんにちは、和音さん。どうしました?」

師範しはん……こんにちは」

 和音は、茫然ぼうぜんと返事をする。

 ――藤崎克仁ふじさきかつみ。少林寺拳法の師範を務める初老の男。ここにいて当たり前の相手だが、不意打ちだったので驚いた。ただ、師範の隣の女子中学生のほうが、和音よりも驚いているようだ。ショートボブの級友は、ぽかんとした顔で言った。

「和音ちゃん、どうしたの?」

 綱田毬つなたまりの言葉は、先ほどの師範の台詞せりふと同じだったが、ホッとした和音は、大きな溜息を吐き出した。毬の声が普段通りのものだったことに、これほどの安堵あんどを覚えるとは思わなかった。無自覚だった気持ちの強さに動揺したが、照れ隠しの笑みで誤魔化して、表情にはおくびにも出さなかった。

「ううん、何でもない。師範も、驚かせてごめんなさい。毬に、ちょっと会いたかっただけで……何でも、ないんです」

 そうびている間に、師範の顔色がわずかながら変わった。よく気がつく人だ。きっと和音の様子から、何かを察したに違いない。そんな予想は大当たりで、師範は優しい眼差しを変えないまま、和音と毬に語り掛けた。

「和音さん、毬さん。明日は、大切な日ですからね。早くおうちに帰って、ご家族の方を安心させてあげてください。今晩は、早く眠るのですよ」

 師範が、毬の頭にぽんと手を乗せた。毬が、くすぐったそうに微笑む。本当に、師範のことが好きなのだろう。面映おもはゆくなった和音は、目を逸らした。

「はい。師範、お稽古けいこの邪魔をしてごめんなさい」

「緊張しているようですね、毬さん。貴女なら大丈夫ですから、明日は気負わずに行ってらっしゃい。是非ぜひ、また遊びに来てくださいね」

「はい。受験が終わったら、また来ます」

 毬が、深々と頭を下げる。和音も、毬にならって頭を下げた。すると、引き戸が開いたままの稽古場から「師範ー、開けっ放し寒い!」「早く来てよお」と、子どもたちの元気な声が聞こえてきた。相好を崩した師範は「はい、今行きますよ」と答えて、毬と和音に向き直り、「れでは、左様さようなら。お気をつけて」とだけ言い残すと、子どもたちの元へ戻っていった。

 扉が、ガラガラと音を立てて閉まる。室内から漏れる光のすじが細くなり、やがてたれた。藤崎ふじさき家の玄関のそばには、和音と毬だけが残された。

「……」

 無言の時が、二人の間に流れた。三浦柊吾みうらしゅうごという男子生徒と出会った時も、似た気まずさを覚えたことを思い出す。

 今ならば、おのれの態度がどれほど相手に失礼だったか、よく分かる。だが、和音は呉野和泉くれのいずみに会いに行ったのだ。駆け戻った場所になぜか居座っていた男子生徒に興味はない。勉強の息抜きに神社まで足を伸ばして、才知さいちけた大人の話を聞く時間が、最近の和音の楽しみだった。受験期の限られた時間に水を差した柊吾の存在は、正直なところ面白くなかった。

 ただ、そんな態度を隠せなかったことは、自分の落ち度だとわきまえている。少し申し訳なく思ったが、もう会うこともないだろう。

 うつむく毬の表情は、師範が去ってからかげっていた。茜色の夕空もくらくなり、紫色の濃度を増した夜の気配が、霧のように庭を包む。毬のスカートからのぞいたひざは白く、対照的に手は赤かった。あかぎれが目立つ指先には、血も滲んでいる。

 手元に視線が吸い寄せられると、き出しの首元にも視線が流れた。マフラーは巻いておらず、学校指定のコートも着ていない。春が間近にせまっているとはいえ、上着が黒いブレザーだけでは、まだまだ心許こころもとないだろう。

「……毬」

 和音は、毬に近づいた。背はこちらが高いので、自然と見下ろす形になる。自分のマフラーを外して、毬の首に巻きつけると、毬ははじかれたように顔を上げた。

「和音ちゃん。いいよ。さっき師範が、カイロをくれたから大丈夫。明日は受験なのに、風邪を引いちゃうよ」

「こうしてないと、毬が風邪を引くでしょ」

 続いて手袋も外そうとしたが、さすがにそれは止められた。「和音ちゃん」と涙をこらえている声で呼ばれたから、和音は「ごめん」と謝った。悪いことをしたとは思っていないが、毬を傷つけたことは、和音の落ち度だと思う。

「和音ちゃん……ごめんね。受験前なのに、心配させてごめんね」

「いい。土壇場どたんばでジタバタするような、いい加減な勉強はしてきてない」

 和音は、毬の頭に手を伸ばしかけたが、大人の師範の真似をしても、子どもの和音には毬の苦しみを消し去れない。無為むいな行為をやめる代わりに、和音は毬の肩に手を置いた。そこしか行き場がなかったのだ。

「毬。どうして、そんなに謝るの。私は、謝られることなんてされてない」

「でも、私の所為で、ミヤちゃんと」

「毬の所為じゃない」

 かなりきつい言い方になった。毬の肩が、びくりと跳ねる。和音は我に返ったが、怒りの熾火おきびは意識のはしあぶり続けて、昨夜の記憶を生々しくよみがえらせた。十二月にはクラスのリーダー格の女子生徒と喧嘩をしたが、そのときでさえ、和音は今ほどのいきどおりは覚えなかった。

「……毬。前に、友達と一度でも喧嘩をしたら、もう元通りの関係にはなれない……って、クラスの子が言ってたこと、覚えてる?」

 その台詞せりふを言った女子生徒は、和音の嫌いな相手だったが、皮肉にも今なら共感できた。もちろん、喧嘩の相手が綱田毬つなたまりなら、きっとそうは思わない。きちんと話し合って仲直りをするはずだ。

 だが、あの相手なら――もういいと、和音は思ってしまった。

「私は、美也子みやことの仲を修復できなくてもいい。あの子が毬に謝らないなら、もう一緒にいたくない。それは毬の所為じゃなくて、私が決めたことだから」

 毬が、悲しそうに眉を下げた。左頬の泣き黒子ぼくろが、薄闇の中でもはっきり見える。うれいを含んだ眼差しは、足元の縁石えんせきに落ちていて、和音は少しどきりとした。

 毬の顔が、つやっぽく見えたからだ。毬は童顔どうがんのはずで、睫毛まつげが落とす影も、暮れゆく空色を淡く映した黒髪も、自分と同じ十五歳の少女のものなのに、不思議と息をむほど美しかった。見てはいけないものを見た気がしていると、毬はおずおずといった様子で和音を見上げた。

「あのね、和音ちゃん……私は、ミヤちゃんのこと、もう怒ってないよ」

「毬が怒ってなくても、私が怒ってる」

「もういいの。怒るようなことでも、なかったもん」

「でも、ひどいことを言われたでしょ。毬が電話で教えてくれなかったら、私は何も知らないままだった」

「……うん。話せて嬉しかった。和音ちゃんは、私よりも受験のことで緊張してるはずなのに……大切なときに、話を聞いてくれてありがとう」

 毬は、薄く笑った。諦念ていねん薄化粧うすげしょうのように乗った笑みは、やはり普段より大人っぽく見える。触れ合えるほど距離が近くても、あまりに遠いへだたりが、二人の間にある気がした。

「……毬。早く帰ろう」

 名残惜しいが、先ほど師範が言ったように、毬は明日に備えるべきだ。「うん」とうなずいた毬と一緒に、玄関へ歩き出そうとしたときだった。

「……ふぅん。そういうこと」

 無粋ぶすい不躾ぶしつけな少女の声が、ささやかに流れる時間にひびを入れた。

 毬が、ぎょっとした様子で立ちすくむ。驚いた和音も、声の方角である玄関を振り向いて、顔見知りの登場に気づき、息を詰めた。

 しかも、ただの顔見知りではない。口を利いたことはない相手だが、少女の兄を名乗った神職の男の話を聞いたあとでは、十二月に転校してきた彼女に抱いた印象は、出会った頃から百八十度変わっていた。

 いわく、人の弱みが三度の飯より好きな愉快犯。戯言ざれごととしか思えない妄言もうげんを発してつきまとい、ストーカー行為に及ぶという小悪党。世界は自分の思うままと信じて疑わない、尊大そんだいな精神のいじめめっ子。

 こうして列挙れっきょしてみると、まるで都市伝説に出てくる妖怪か、さもなければただの馬鹿だと思う。もしくは変質者といったところだろうか。若干じゃっかんの脱力感を覚えつつも、和音は緊張感を保ったまま、対峙する少女の麗姿れいしにらんだ。

 一瞬で、見抜けたからだ。少女がこちらに向けた、明らかなあざけりに。

「……なあに? 物騒ぶっそうな顔をしちゃって。貴女って、同級生にそんな顔するような、厭味いやみで陰険な子だったかしら? やっぱり貴女、前と比べると変わったわね、佐々ささき和音。ま、死んだ魚みたいな目をしてた十二月よりは、はるかにマシなんじゃない? 今の貴女の目、私は嫌いじゃないわ」

 愕然がくぜんとした和音は、すらすらと喋る少女を見た。突然にフルネームで呼ばれたことにも驚愕きょうがくしたが、何よりも驚いた点はそこではなかった。

 厭味。陰険。死んだ魚の目。

 誰のことを言われたのか、すぐには理解できなかった。

 自分のことだと気づいたのは、一拍遅れてのことだった。

 頭の中が、真っ白になる。やがて、カッと頭に血が上った。ここまで高飛車たかびしゃな物言いをする人間を、和音は今まで見たことがない。クラスのリーダー格の女子でさえ、粗野そやではあったが、これほど露骨な自尊心をさらけ出してはいなかった。性格がきつそうだとは思っていたが、まさかこれほどとは思わなかった。

 何せ学校では、この少女は高嶺たかねの花であり、切れ長の目に鋭さがあれど、誰もがうらやむ美少女だ。すぐにクラスの輪に馴染なじんだ、社交性にすぐれた同級生。はなやかな雰囲気を常にまとう、転校生にして人気者。そんな少女が、急に仮面をぐように素顔すがおを見せた理由は何だろう? 今度こそ、和音を狙いに来たのだろうか?

 ――あるいは、もしや。警戒心が、張り詰める。和装わそう異邦人いほうじんが発した警句は、現在の毬の不安定さを指していると思い込んでいたが、今となっては真偽しんぎが疑わしい。先走らずに詳しい話を訊くべきだったと後悔したが、あの場には素性の知れない男子生徒もいたのだから、結局は追及をひかえたかもしれない。和音は、警戒を解かないまま、毬をかばって一歩前へ進み出た。

「……何の用? 呉野くれのさん」

 険を含んだ言い方をしたにもかかわらず、和音と同じ制服姿の少女――呉野氷花くれのひょうかは、不快感を示さなかった。むしろ愉快そうに口角こうかくを上げて、和音の敵愾心てきがいしん嘲笑あざわらった。

「ふうん。やっぱりあんたって陰険ね。でも、期待外れだわ。ねえ、あんたって、いつからそんな性格にけたの? 私の手でそういう汚いところを引きずり出したかったのに、残念だわ。私の知らない所で勝手に汚れた女になんて、私はもう興味はないわ」

「はあ……っ!?」

 ――汚れた。自分が? 頭が今度こそ真っ白になり、心拍数だけが上がっていく。乱暴な言葉遣いでなじられたことならあるが、これほど個人の尊厳そんげんなぶる言葉の石を投げつけられたことなど、今までの人生で一度もない。想像を絶する暴言を受けたとき、感情が死滅しめつするということを、和音は今日初めて知った。時間差で爆発した感情は、寒さを忘れるほどの激しさで、和音の胸中を焼き尽くした。

「な、何っ、言って……!」

 反論しようとしたが、そこまでだった。何一つとして、言い返せない。口喧嘩の経験なんて、数えるほどしか積んでいない。だから、勝手が分からなかった。

 ――だが、和音はつい昨日も、口喧嘩をしたばかりではないか。あのときは口がなめらかに動いたのに、今は言葉の暴力で殴打おうだされる側になっている。他人と感情をぶつけ合えるほどの関係を、和音は育んでこなかった。いい加減な友達付き合いが、人との衝突をけさせた。学校という狭い社会で、可も不可もなく生きてきた和音には、言葉で戦うすべがなかった。

 壮烈そうれつな悔しさと、煮えたぎるようないきどおりが、内腑ないふでぐちゃぐちゃに混ざり合って眩暈めまいがする。だが、理性を捨てて感情を選んで言い返せば、より酷い結果をまねくことは明らかだ。そんな醜態しゅうたいさらしたが最後、目の前の不愉快な少女は、和音の体たらくをわらうだろう。屈辱くつじょくで、目の前が赤く染まっていった。

 だが、暴言に衝撃を受けたのは――和音だけでは、なかった。

「そ、そんなこと……っ、言わないで……!」

 か細い声が、割り込んできた。和音の腕が、背後から強く掴まれる。華奢きゃしゃな身体をぶつけるようにして和音の隣に並んだ毬が、涙目で氷花を睨みつけた。

「和音ちゃんの、ことを……そういうふうに、言わないで……」

 毬の顔は、蒼白そうはくだった。歯がカチカチと鳴っている。眼前の女子生徒は、学校の人気者なのだ。敵に回せば、次の日からどんな噂を立てられるか分からない。

 そんな危険をかえりみずに、気弱な毬が啖呵たんかを切った。びっくりした和音は、慌てて「毬、いい」と制したが、頭を振った毬は、目に盛り上がった涙を零さずに、前だけを悲しげに見据みすえている。

 ――以前にも、こんなことがあった。中学一年生のときに、この少林寺拳法の道場で、毬は一人の友達を救っている。あのときと同じ救い方で、毬は和音にも手を差し伸べてくれた。胸中で燃え盛っていたはずの憎悪ぞうおが、温度を急速に下げていく。唇を噛んだ和音は、涙をこらえるだけで精一杯になってしまった。

「……ふぅん」

 氷花は、毬の姿をじっと見ていた。執拗しつように品定めをするような眼差しに、毬があからさまに怯えてから、急に胸を押さえてうずくまった。

「毬!」

 目をいた和音は、しゃがみ込んで毬の背を支えた。笑い出した氷花が、鬼の首を取ったように「ちょっと、私はまだ何もしてないわ。繊細せんさいすぎるんじゃないの?」と神経を逆撫さかなでするいやらしさで言ったから、殺意がぶり返した和音は、氷花をキッとめ上げたが――邪悪じゃあくな同級生は、もう笑ってはいなかった。

 心底つまらなそうな溜息ためいきが、確かに聞こえた。長い黒髪を手でいた氷花は、冷徹れいてつな眼差しで、状況についていけない和音と毬を見下ろした。

「貴女たちがどうなるのか、見せてもらうわ。ねえ、綱田つなた毬。あんたの友達の女には、ひどい目にわされたけど、別にこれは復讐ふくしゅうではないのよ? 勘違かんちがいしないでね。もう私は、篠田七瀬しのだななせなんてどうでもいいんだもの。偶然だけど面白いことになりそうだから、ちょっと見物させてもらおうと思っただけ。中学校も、もうすぐ卒業だし……ここじゃ、場所も悪いものね」

 氷花の手が、すうと伸びてきた。何をするのかと警戒した和音だが、白い手の行き先は、玄関先の垣根だった。そのとき初めて、和音は気づく。

「……いやな〝アソビ〟ね」

 氷花は、吐き捨てるように呟く。そして、くるりときびすを返した。

「私は、ここでは〝アソビ〟をしないって決めているもの。……次に会ったときは、知らないけどね」

 横顔で振り返った美貌びぼうの少女が、ニイと歯をのぞかせて笑う。悪辣あくらつな顔を見た毬が、小さな悲鳴を上げていた。同級生の怯えを楽しそうに眺めた氷花は、ローファーのかかとを鳴らして、灰色の住宅街の薄暗がりへ消えていく。絹のように背中を流れた黒髪が、藤崎ふじさき家から見えなくなると、毬は庭にへたり込んだ。

「……毬! 大丈夫っ?」

 助け起こすと、毬は「うん」と頷いたが、身体が小刻こきざみに震えている。

「毬。あんな人の言うことは、気にしなくていいから。呉野さんってお兄さんがいるけど、妹は阿呆だって言ってた」

「違うの、和音ちゃん……呉野さんが、私のことを見たとき……なんか、変な感じがしたの」

「変な感じ?」

「うん。でも、ごめんなさい。説明できない……」

 毬は、申し訳なさそうに囁いた。和音は当惑したが、毬の言う『変な感じ』に相当する不快感には、心当たりがあった。その感触は、和音も経験している。

 そのときの和音は、氷花にねらわれていた。

 そして、今は、標的から外れて――代わりに毬が、狙われている。

「和音ちゃん。……呉野くれのさん、さっき、七瀬ななせちゃんの名前を言ってた」

 毬は、何かをうったえるような目をしていた。吐く息が、先ほどより白くなる。

「呉野さんは、七瀬ちゃんの知り合いなの……? 七瀬ちゃん、大丈夫かな。和音ちゃん、私、あの人が怖い。七瀬ちゃんのことを、恨んでるみたいだった。復讐じゃないって言ってたけど……どうしよう、私、早く帰って、七瀬ちゃんに連絡してみる。大丈夫だよね、七瀬ちゃん、大丈夫だよね……?」

 心細そうに言った毬の目から、ついに涙がこぼれ落ちた。

 なぜ毬は、こんなにも優しいのだろう。明確なおどしを受けた今、どう考えても一番(あや)ういのは毬なのに、毬は他人のことばかりだった。友達のことばかりだった。七瀬のことばかりだった。

 顔が、引きれたような笑みを作る。それなのに、泣き出したい心のちぐはぐさが、後戻あともどりできない心のトリガーを引いたとき、自然と手が伸びていた。

「……毬。守ってあげる」

 変だと思う。先ほどは躊躇ためらってやめたのに、今なら何でもできる気がした。

 驚いた毬の息遣いが、和音の耳元で聞こえた。冬の終わりの風にさらされた毬の髪も、制服のブレザーも、腕を回した背中も、身体が触れ合ったところは全て冷たい。友達からぬくもりをうばった怒りは、一人の人間の記憶に結びつく。

 ふわふわした巻き髪が、脳裏でおどった。だが、篠田七瀬しのだななせではない。もう一人、日頃ひごろからお洒落しゃれに気を使っていて、高い社交性を持つ少女がいる。クラスメイトの顔から意識を無理やりがした和音は、今度は呉野氷花のことを考える。

 人を小馬鹿にした笑みを振り撒いていた転校生は、どうしてあの瞬間だけは、笑みを消していたのだろう。あのとき、和音は確かに見た。玄関先の垣根に触れた氷花の指先には、切断されたくきがあり、足元には花が落ちていた。

 ――『いやな〝アソビ〟ね』

 氷花が垣間見かいまみせた虚無きょむが気になったが、和音は思考を打ち切った。

 今は、毬がいれば、それでよかった。

「和音ちゃん……」

 戸惑い気味の毬の声が、耳朶じだを打つ。これから和音は、毬を何から守ろうとしているのだろう。全てが分からないまま、風の冷たさを感じていた。

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