花一匁 2
閑散とした境内は、冬の冷気に満ちていた。
三月に入り、暦の上では一応春。とはいえ、薄雲を被った太陽では、午後四時を回った現在でも、寒さを和らげるには至らない。今日は紺色のブレザーの上に学校指定のダッフルコートを着なかったので、そんな痩せ我慢も凍えに拍車を掛けていた。
白く流れる吐息を眺めながら、三浦柊吾は神社の境内を歩いていた。
深夜に雪も降ったので、足元には積雪の名残がある。黒く濡れた石畳を慎重に進んで目的の人物を探したが、境内には人っ子一人見当たらない。柊吾は、迷わず森の小道へ進路を変えた。
この神社の神主は、大抵の場合は境内にいる。柊吾の来意を天から聞き知っているかのように、高い確率で待ち伏せられているのだ。
それでも居ないということは、自宅にいるに違いない。珍しい事態ではあったが、そういうこともあるのだろう。柊吾は解けかけたマフラーを首に巻き直すと、湿った枯葉を踏みしめて先を急ぐ。
広葉樹が林立する山道を進むと、小さな泉の前に出た。くすんだ陽光をとろんと照り返す水面の向こうに、お世辞にも綺麗とは言い難い日本家屋が佇んでいる。木造二階建ての襤褸屋の庭に、探していた和装の人物を、柊吾は見つけた。
「イズミさん!」
声を張ると、相手も柊吾に気づいた。嫋やかな会釈と手招きが返ってくる。
「柊吾君、お久しぶりです。そろそろ来る頃合いだと思っていました。ちょうど餅を焼いたところです。一緒にいかがです?」
道理で、醤油の焦げた匂いがすると思っていた。異邦人の暢気さに気抜けしながら、柊吾は「はい」と返事をして、小走りで呉野家に直行した。
「庭に直接来ていただいて結構ですよ。縁側にお掛けください」
「イズミさん、仕事は? こんな所で餅食ってていいんですか」
「大人にも休息は必要ですよ。しゃかりきに働いてばかりでは、息切れしてしまいます」
「息切れするほど、参拝客なんて来てねえ気がするんですけど」
「おやおや、鋭い。どうか気づかぬふりをしてください。醤油ときな粉、どちらがいいですか」
「醤油」
柊吾は縁側に腰掛けると、マフラーを解いた。足元で燃える七輪の炭火が、思いのほか温かかったのだ。
柊吾に背中を向けた呉野和泉は、髪が少し伸びたようだ。風に遊ばれた灰茶の髪が、ふわりと繊細な揺れ方をする。白い着物に浅葱の袴という神職に就く者の装いとはいえ、こうして自宅に引っ込んで餅を焼いている姿を見ると、他人事ながら呉野神社の行く末が心配になる。
「柊吾君。君は、僕が怠けていると思っていますね?」
七輪の前に屈んだ和泉が、くるりと柊吾を振り向いた。菜箸で突かれた餅がぱちんと割れて、ぷくぷくと風船のように膨らんだ。
「このイズミさんの姿を見たら、誰だってそう思います。爺ちゃんみたいですよ」
「爺ちゃんで結構です。僕に歳相応の若さはありませんから。それに、冬に餅を焼くのは、僕の代からの怠けではありませんよ。先代も、冬には餅を焼いていました。柊吾君、冬に餅を焼くのは悪ではありません」
ただの軽口に対して、何とも理屈っぽい答えが返ってきた。辟易した柊吾は「あー、はいはい」と生返事をしてから、己の失言に気づく。
言葉を閊えさせた柊吾を、和泉は様子を窺うように見た。
沈黙が気になったのか、それとも、心を読んだのか。
この異邦人の血潮に、どんな異能が流れているのか。人伝に聞いた話だが、柊吾も一応、知っている。
「……イズミさん。今日、俺が何でここに来たのか、判ってるんですよね」
「僕と餅を食べに来たのでしょう?」
和泉はとぼけていたが、顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
こちらが言わない限り、自ら告げるつもりはないのだろう。柊吾は、頭髪に触れかけた手を意識して下げて、立ち上がる。
そして、背筋を伸ばして和泉の前に立ち、言い難さを堪えて、言った。
「え、と。……このたびは。お悔やみ申し上げます」
頭を下げた時、火の粉の爆ぜる音がした。ぱちんと、乾いた音も聞こえてくる。七輪の炭火が割れたのか、膨れた餅が弾けたのか。言葉を絞り出すだけで精いっぱいだった柊吾には、どちらなのか分からない。
「ああ、バレてしまいましたか」
落ち着いた声が、頭上から降ってきた。声音に、悲しみの色は感じられない。だが、感情を隠すのが上手い人だ。表面を綺麗に取り繕って、整った部分しか柊吾に見せていないのだろう。返ってそれが、悲しい気がした。
「知ったのは、最近です。九月には亡くなってたって聞きました。……坂上から。坂上は、藤崎さんから聞いたそうです。篠田も、ショックを受けてるみたいでした」
「僕の父は、幸せ者ですね。こんなにも、若者達に悼んでもらえたのですから」
頭を上げた柊吾の前に、すっと紙皿が差し出された。焼きたての餅から、ほかほかと熱い湯気が立ち上る。
「寂しいですよ。柊吾君。愛している家族を亡くして、僕はとても寂しいです。ですが、同時に僕は幸せでもあるのですよ。己の役目を果たせましたから」
「役目?」
「ええ。子供が大人に対して担う、大切な役目です。君はもう、とっくに知っていることですよ。君は家族を大切にする子ですし、やがて家族になる少女のことも、大切に出来る子ですからね」
「……。は?」
柊吾は、目を剥いた。聞き逃しかけたが、結構凄いことを言われた気がした。
「ちょっと待った、イズミさん。今の、もっかい。家族が何って? もっかい言ってください」
「おっと。柊吾君、いけませんね。僕は、他者よりも早く未来を知ろうとする狡さを、君に許した覚えはありませんよ」
「いや、狡いも何も、今のはイズミさんの失言じゃん。さっきの話、もっと詳しく」
「餅が冷めますよ。お箸と醤油は縁側にあります」
柊吾は食い下がったが、和泉はにたにたと笑うのみだ。こんな下世話な顔など初めて見た。
それとも、今の顔は〝和泉〟ではなく、〝イズミ〟の顔なのだろうか。
紅潮した頬を気取られないよう目を逸らし、柊吾は縁側にどっかと座る。割り箸と醤油挿しを手に取ったところで、ふと縁側の隅に置かれたもう一枚の紙皿に目を留めた。
きな粉が付いた紙皿には、割り箸もちょこんと載っていた。割り箸を収めた箸袋は、先端が軽く折り曲げられている。先ほどまで誰かがここにいて、餅を食べて帰った。そう推測するには十分な光景だった。
「誰か、ここに来てたんですか?」
餅に醤油を垂らしながら訊くと、「ええ」と答えた和泉も、柊吾の隣に腰かけた。
「可愛らしいお客さんが来ていましたよ。柊吾君と同じ、中学三年生のお嬢さんです」
「中三?」
「はい。僕の代で廃れるかと危惧された呉野神社ですが、お若い氏子が通うようになってくださり、神主として嬉しい限りですね」
「女子が来るって『判って』たから、こんなに餅を用意したんですか」
醤油やきな粉の餅だけではなく、よもぎ餅やあんころ餅の皿もある。色とりどりの餅が縁側に所狭しと並ぶ光景は、男の一人住まいにはとても見えない。このバリエーションの豊さが女子生徒へ振る舞う為なのかと邪推すると、少しばかり意外だった。
「イズミさん、意外とマメなんですね。こっちのよもぎ餅も、うめぇし。イケメンで料理も出来るとか、イズミさんわけ分かんねえ」
「ぜんざいもありますよ。宜しければどうぞ」
明らかに作り過ぎだ。祭りでも催す気だろうか。柊吾は呆れ果ててしまった。
そもそも呉野和泉という男は、柊吾が今言ったように、顔の造形一つをとっても端麗で、所作は同じ人間とは思えないほど優美なのだ。顔も性格も良い上に、料理も出来る独身が、寂れた山奥で餅を焼いて中学生に振る舞っているのは、何とも奇妙な光景だった。
「柊吾君、明日は受験でしょう」
きな粉餅に箸を伸ばしていると、和泉が言った。柊吾は口の中に残ったよもぎ餅を呑み込んで、「ん」と頷いてから「はい」と返事をし直した。
「そんな大切な時期に、わざわざお悔やみを言いに来てくださったのですね」
「いえ。っていうか、すみません。御馳走になってるし、その」
柊吾は、後ろめたさから口籠もる。
受験前日の放課後に、呉野神社まで来た理由。それは、和泉が述べた理由だけではないからだ。
「……イズミさん。これを見てください」
柊吾は、紙皿と割り箸を縁側に置いて、ブレザーのポケットに手を伸ばす。そこから取り出したものを差し出すと、和泉は青色の目を瞬いた。
「これは……いやはや。面妖な事態ですね。心当たりはありますか?」
「ないから訊きに来たんです。っていうか、俺らの心当たりはイズミさんです」
しらを切る和泉に、柊吾は凄む。今さら煙に巻かれても困るのだ。互いの手の内は分かっている。化かし合いは時間の無駄だ。
「これは、イズミさんの家の近くにありました。どっちかっていうと、藤崎さんの家の方が近いです。藤崎さんの家の近所の、公園に咲いていたものです」
「ほう。それで?」
「一本だけじゃありませんでした。まだ寒いし、咲いてる花自体が少ないけど、結構な本数やられてた」
自然と険しくなる表情を自覚しながら、柊吾は和泉の顔を見る。
視線を受けたイズミは、臆することなく、柊吾の手からそれをつまみ上げた。
瑞々しさを残した茎は、摘み取られてなお、いまだ命を感じさせた。よもぎに似た深緑の葉が、くたりと揺れる。寂しげに葉が垂れて初めて、明確な死の影を、その植物に見た気がした。
和泉の目が、細められる。観察するというよりは、まるで花の死を悼むように。沈黙を守った異邦人は、やがて一つ頷いた。
「これは、福寿草の花ですね」
「茎を見ただけで判るんですか?」
「ええ。克仁さんの御庭にも植えてありましたから。切られる前の花はご覧になりましたか? 黄色い花弁を丸いお椀型に開花させる、早春の花です。可愛らしい花ですよ」
和泉は眉尻を下げると、茎の切断面に指を沿わせて「可哀そうに」と囁いた。
「……」
胸が痛んだが、柊吾は待った。和泉が、哀悼の台詞とは異なる言葉を口にするのを、無言のまま待ち続けた。圧力を掛けているようで気が咎めたが、同時に柊吾には、和泉が必ずや答えてくれるという確信もあった。
むしろ、答えてくれなくては困るのだ。
和泉の関与を疑う身としては、ここで潔白を示してもらわなくては困るのだ。
そんな覚悟を読み取ったのか、和泉は小さく吹き出した。青色の双眸に宿る感情は、興味か、感嘆か、ただの揶揄か。和泉は笑いを収めると、意味深な流し目を柊吾に向けた。
「僕の関与、ですか。正確ではない言葉ですね。正しくは、僕の身内の関与、では?」
「どっちでも構いません」
心を読まれたことは一切気にせず、柊吾は憮然と言い放った。
「――『花の頭の部分だけ、鋭い刃物みたいな物で、切り落とされる』。……これ、どう考えてもイズミさんたち絡みじゃん。俺ら全員、あいつの仕業だって思ってる。あいつを疑ってない奴なんか、一人もいねえから」
喧嘩を売るように言い捨てると、柊吾は和泉の手元を睨んだ。
首のない花。福寿草。名前はたった今知った。だが、今はそんな知識は重要ではないのだ。もっと他に、知らなけれなばならないことがある。
柊吾は既に、あの夏の惨劇を知っている。
他校の友人から、訊いたのだ。
あの夏を唯一『見て』きた坂上拓海から、〝イズミ・イヴァーノヴィチ〟という青年の過去について、全ての説明を受けて知っている。それを知ったのは柊吾だけではなく、篠田七瀬、雨宮撫子といった同級生においても同様だ。
だからこそ、和泉には答えてもらう義務がある。
袴塚市で現在起こっている怪事について、答えてもらう義務がある。
身内を亡くして日が浅い人間に、取るべき態度ではないだろう。躊躇いが心を引っ掻いたが、そんな理由で訊き渋れば、危険の度合いを測れない。
ジレンマと格闘していると、意外というべきか案の定というべきか、和泉は優しく微笑んで、柊吾の葛藤を見下ろしていた。この男なら、そんな笑い方をするだろう。あまりにも予想通りの顔なので、肩から力が抜けてしまった。
「……なんか、張り合いねえっていうか。詰問するからには、イズミさんの反論くらいは、受け止めるつもりでいたんですけど」
「ほう。君は、僕に張り合いを求めますか。――では、期待に応えさせていただきましょうか?」
和泉の目が、いっそう細められた。
ぞくりと、背筋を冷たいものが駆け抜ける。一瞬、尋常ではない怖気を感じた。顔色を変えた柊吾へ、和泉は優美に微笑んだ。
その笑みが、酷く歪に見えた瞬間――〝言葉〟の勝負は始まっていた。
「柊吾君。何も苦しむことはありません。君が知りたいことは、実にシンプルです。君たち中学生諸君は、袴塚市の花が異様な切られ方をしたという事件について、僕の妹の関与を疑っている。そうですね? ――まず一つ、僕から質問です。君は先ほど、事件の現場は克仁さんの家の近くの公園だと述べました。しかし、たかだか一つの公園の花が切られた程度で、いささか騒ぎ過ぎではありませんか? 大した事件ではないように思えますよ?」
「!」
性急な言葉の槍を向けられて、身が引き締まるような緊張を感じた。だが、怯んだのは一瞬だ。柊吾は、即座に反駁した。
「切られた本数が、一本、二本の騒ぎじゃないです。それに、この近くの住宅街でも、公園と同じ被害が出ています」
平静を取り繕って応じたものの、心臓は早鐘を打っていた。和泉に屁理屈を持ち出されたら、柊吾では到底敵うまい。
だからこそ、柊吾は万一の事態に備えたのだ。天邪鬼な和泉にやりこめられそうになったとき、すぐさま反論できるように。肝心の内容を考えたのは拓海と撫子だが、ともあれ備えに救われた。
「藤崎さんの家の近辺は、庭や軒先に花を植えている家が多いですよね。その辺りで花が咲いてる所は、ほとんど被害に遭っています。規模が結構でかいから、今日から警察が見回りに来るって話も聞きました」
慎重に話しながら、学校で行われたディベートの授業を思い出す。クラスで二つの班に分かれた柊吾たちは、死刑制度の存続について議論する模擬戦に挑んだが、今の和泉との会話はまるで、議論の本番のようだった。
学校で培った経験が、現実世界に生きてくる。新たな知識が強みに変わり、曖昧な輪郭しか持たなかった贋作のナイフが、本物にも似た切れ味を帯びる。いつしか、本物の武器に変わっている。
大人からの教育は、本当に――思いもよらないところで、役に立つ。
おかげで今、戦い方が、よく分かる。
「ほう、警察ですか。まだ事件の危険性が高くない段階で、どれほど真剣に動くやら。では、二つ目の質問です。この怪事、いつ頃に発生しましたか?」
「イズミさん、知ってて俺に訊いてるんじゃないですか?」
柊吾は呆れたが、「昨日。三月三日」とすぐに答えた。
「三月三日よりも前に切られた可能性は、低いみたいです。公園と藤崎さんの家の周辺は、少林寺拳法の道場があるおかげで、子どもや迎えの保護者がよく通るから。三月二日にはそんなことにはなってなかったらしいし、切られたのは三日の夜じゃないかって言われてます」
「三日の夜。……なるほど」
和泉は、神妙に頷いた。言葉の槍はぴたりと止んだが、柊吾は気を抜かずに、和泉の反応を窺い続けた。この異邦人が、どれほど偏屈な思考の持ち主なのか、今こそ真に思い知った気がした。
普通に会話している分には、和泉のこんな一面は目に見えない。
それとも、この顔こそが〝イズミ・イヴァーノヴィチ〟なのだろうか。
だとしたら、柊吾としては――こちらの和泉のほうにこそ、より好感を持てる気がした。厄介な相手だが、柊吾と同じ人間だ。そう漠然と思えたからだ。奇態な感じ方だと思う。和泉もイズミも、同じ人間には違いないのに。
「……柊吾君。いけませんね。言葉の鍔迫り合いの最中に、雑念に囚われているようでは、勝てる喧嘩も勝てなくなりますよ?」
その声に、はっとした。和泉の雰囲気が、鋭利なものにすり替わった。
「三つ目の質問です。君たちは、僕の妹である呉野氷花さんが事件に関与していると疑っていますが、柊吾君は本当に、彼女の関与を疑いますか?」
「……。どういう意味ですか」
「そのままの意味ですよ」
和泉の笑みに、揶揄が覗いた。今までに見たどの顔よりも、悪人面だと断言できる。反発と畏怖を覚えた柊吾は、異邦人の顔を睨みつけた。
――やはり、この男は〝イズミ〟のようだ。
今年の夏には、拓海しか面会が叶わなかった男が今、柊吾と二人で〝アソンデ〟いる。そして己が遊ばれていると気づいた瞬間、条件反射で腹が立った。少なくとも、こちらは〝アソビ〟で来たつもりはないからだ。
「はい」
柊吾は、断言した。もし、この怪事が呉野氷花がらみなら――最悪の場合、事態は人命に関わりかねない。
とはいえ、氷花が操る〝言霊〟は、数々の災いを招いてきたが、実際に人命を奪った瞬間を、柊吾は目撃していない。その所為で、氷花に対して怒りや殺意を覚えこそすれ、根っこの部分では危機感が希薄なのだと自覚もあった。
無論、氷花がどれほど柊吾の友人たちを傷つけたか、片時も忘れたことはない。現に、撫子が酷い目に遭わされた。あのとき感じた殺意と怒りを、手放したことなど一度もなかった。
ただ、呉野氷花という一人の少女の個性を思った時――氷花の言葉が、本当に人の命をも奪うのか。柊吾は時折、自問するようになっていた。
時間の経過と共に、いつしか鮮烈さを失い始めた、殺意と怒り。色褪せていく激情に抗うように、危機感を繋ぎ止めようと躍起になればなるほどに、柊吾の脳裏には仇討ちを止めようとした友人の顔がちらついて、歯痒さから舌打ちした。
――坂上拓海。
九年前の惨劇を、唯一その目で目撃した、柊吾の仲間。
和泉が持つ異能によって、かつての悲劇を実際に見てきた拓海と、あとで昔話を聞いただけに過ぎない柊吾とでは、抱いた危機感に歴然とした開きがあった。それでも拓海の訴えが胸を打ち、柊吾には忘れられないのだ。
――元々、柊吾が呉野神社を訪ねたのは、今回の事件を知って顔色を失くした拓海の言葉が発端だった。代表で喧嘩を売りに来た以上、勝って帰らなければ顔が立たない。そんな意地を込めて、柊吾は和泉と向き合った。
「九年前の夏の事件で、この鎮守の森の花を切ったのも呉野だ。あのときと同じ切られ方をした花を見て、呉野を疑わない奴なんていません。兄貴のイズミさんがあいつを擁護するなら、あいつは犯人じゃないって根拠を聞かせてください」
「そう言われると、弱りましたね」
和泉は、のんびりと笑った。こちらの真剣さとは不釣り合いな和やかさは、まるで日向ぼっこ中の猫のようだ。
「調査中、とだけ言っておきましょうか。この怪事が本当に、氷花さんの遊戯によるものなのか。しがない神職に過ぎない僕には、学校に潜入調査するすべなどありませんから。真相の究明は骨が折れるのですよ」
「篠田の事件のときには、堂々と中学に入ってたくせに」
「あのときは、氷花さんの保護者として呼ばれた立場でしたからね」
柊吾が剣呑な目つきになると、和泉はくつくつと声を立てて笑った。どことなく、昏い笑い方だった。
そして、その笑みを昏いと感じたのは、間違いではなかった。
「柊吾君。君は、僕を疑わないのですか?」
「は? ……イズミさんを?」
「氷花さんが異能を操れるように、僕もまた異能を操れるのですよ? ……花を切る。その程度の他愛のないこと。異能の有無に関わらず、誰にだってできることです。君が氷花さんを疑う理由は、状況が九年前に似ているという、その一点に尽きるのですよ。……模倣犯の、可能性。それを、君は全く考えていないのですか?」
「……っ? も、模倣犯っ?」
こんな議論のパターンは、全く想定していなかった。
たちまち言葉に詰まった柊吾へ、和泉は勝者の笑みを見せた。なんて大人げない男なのだ。軽い殺意を覚えたとき、「僕は、氷花さんの模倣をして〝アソンデ〟いるのかもしれませんよ」と和泉は言って、縁側から腰を上げた。慌てた柊吾は、長身痩躯に追い縋るように声を掛ける。
「ちょっ、イズミさん。逃げないでください」
「逃げませんよ。ここで餅を焼くだけです」
「それを逃げてるって言うんです。待ってください」
「君の負けですよ、柊吾君」
振り返った和泉の顔は、優しい表情に戻っていた。
青い瞳に慈愛を湛えた、いつもの呉野和泉の顔だった。
柊吾は、もう一度舌打ちしたくなる。結局、逃げられてしまったのだ。
「イズミさん。俺たち、受験の準備で忙しいし、遊んでる暇なんかねえから、早く答えを教えてください」
「教えますよ、もちろん。ただ、君は僕のことを怠け者のように感じていたようですし、退屈凌ぎに君と遊びたくなっただけですよ。大人の戯れです」
結局、遊ばれていたらしい。嘆息した柊吾へ、和泉が楽しげに言った。
「ですが、戯れにしても、少しばかり熱中して〝アソンデ〟しまった気がします。そのお詫びとして、君たちが安心できるように、知識を一つ授けましょうか」
「イズミさんって、本当に回りくどいです」
悪態を吐いた柊吾は、ようやく話す気になってくれた異邦人を見上げて――動きを止めた。
両者の間に、予想外の邪魔が入った。いち早くそれに気づいたからだ。
――さく、さく、と。枯葉を踏む足音が、遠くから聞こえてきた。
足音のリズムは、徐々に軽快に速まっていき、こちらへ小走りで駆けてくる。
この御山の隠れ家まで、足を踏み入れる氏子は滅多にいない。最奥までやって来るのは、家主である神主か、その変人と交流がある中学生くらいのものだ。
振り返ると、林立する木々の陰で、黒いブレザーと緑色のスカートが翻った。暗緑色と臙脂のラインが入った、チェック柄のスカートだ。深い森の中で見え隠れする少女は、身のこなしが軽かった。無駄のない動作に合わせて、長いポニーテールが大きく撓む。柊吾もスポーツに重きを置いた日々を送ったので、少女の運動神経の良さを一目で見抜けた。和泉が、庭の七輪のそばで「ああ」と呟く。
「やはり、戻ってこられましたか。さすが、スポーツを得意とする娘さんは、走る姿が美しいですね」
「イズミさん。その発言、変態っぽい。……知り合いですか?」
「ええ」
楽しそうに答えた和泉の双眸に、意味深な光が宿った。
「ようやく、出逢うのですね。君たちは。……面白い」
「え?」
謎の台詞の真意を、柊吾が問い質そうとしたときだった。鎮守の森を駆けてきた少女が、ついに姿を現した。ローファーを履いた足が、ざっと音を立てて止まる。枯れ枝がパキンと折れる音が、冬の御山に響き渡った。
柊吾と和泉がいる庭の真正面、小さな泉を挟んだ向かい側に、一人の少女が立っていた。首に巻きつけた灰色のマフラーと、背中の中ほどに毛先が届くポニーテールが、冷えた風に嬲られている。なぜか驚きの表情で佇む姿を見つめた柊吾は、思わず「あ」と呟いて、縁側から立ち上がった。
少女の制服に、見覚えがあったのだ。黒のブレザーに緑のチェック柄のスカート。同じ制服を着た女子生徒と、柊吾は一度だけ会っている。昨年の三月に起きた『鏡』の事件の後始末で、熱を出して倒れた篠田七瀬の代わりに、七瀬の友人だという他校の女子生徒が待つ袴塚西駅へ、撫子と共に向かった日のことだ。
「ってことは……袴塚中の奴?」
口を衝いて出た言葉に、少女が反応を示した。在籍する学校を言い当てられて驚いたのか、それともこの御山に見知らぬ中学生がいて困惑したのか、硬い表情がさらに硬くなる。柊吾も困惑に囚われながら、初対面の少女と見つめ合った。
「……」
――ここに、何の用がある? きっと互いが、同じ疑問を抱いていた。柊吾にとって少女がここにいる理由が不明なように、少女にとっても柊吾がここにいる理由が不明なのだ。猜疑に満ち溢れた沈黙が流れ、やがて少女が口火を切った。
「和泉さん。……忘れ物を、取りに来ました」
御山の清浄な空気を叩くように告げられた言葉は、微かな警戒を含んでいた。おそらくは、柊吾を警戒しているのだ。不躾な態度にむっとして眉根を寄せると、相手もこちらの苛立ちを拾ったのか、中性的な目鼻立ちの顔に、うっすらとだが、倦厭の色が仄見えた。
そんな両者を交互に見た和泉が、くすりと笑い声を立てた。面識のない猫同士を同じケージに入れて、双方の反応を見て嗜めながら、同時に愉快に思っているような、悪趣味な狡さを見た気がした。柊吾は和泉を睨んだが、対する和泉はどこ吹く風で、泉の畔で立ち尽くす少女に話し掛けた。
「すぐに戻ってこられると思っていましたよ、和音さん。どうぞこちらへ。ああ、彼は怪しい者ではありませんよ。袴塚西中学校に通う三年生の、三浦柊吾君です。貴女の友人である綱田毬さんの、友達の友達ですよ」
なんて珍妙な紹介をしてくれるのだ。柊吾は脱力したが、気抜けしたのは少女も同様のようで、胡乱な目を和泉に向けている。
「友達の友達って……それって、もう他人なんじゃないですか?」
「そうとも言いますね。では、補足の説明をしましょうか。貴女と、綱田毬さんの友達……すなわち、東袴塚学園に通う篠田七瀬さんの友達が、こちらの三浦柊吾君です」
「七瀬ちゃんの?」
少女が、目を瞬いて柊吾を見る。柊吾は、まだ人間関係を正確に把握しきれていなかったが――どうやらこの少女は、七瀬の友人のようだ。
「篠田のダチが、なんでイズミさんに会いにくるんだ?」
「柊吾君、それは僕に失礼ですよ。僕にだって、君の他にも友と呼べる人はいるのです。こちらのお嬢さんは、君と同じ三年生の佐々木和音さんです。昨年の十二月頃から呉野神社に通ってくれるようになった、袴塚中学校の学生さんです」
佐々木和音と紹介された少女は、少し躊躇う素振りを見せてから、泉の畔からつかつかと歩いてきた。そして、玄関前を素通りして縁側までたどり着くと、和泉の隣に立つ柊吾の前で立ち止まり、す、と小さく頭を下げる。
本当に挨拶なのかどうか疑わしい、不器用な会釈だった。柊吾も軽く顎を引いて、我ながら形になっているのかさえ怪しい挨拶を、和音に返す。
「……」
重い沈黙を、七輪で爆ぜる火の粉の音が際立たせた。柊吾は元々、女子生徒と交流が多いわけではない。和音という不愛想な少女と何を話せばいいのか分からないが、この鎮守の森を出れば二度と会わないであろう相手に対して、過度に気を使う必要もないだろう。我ながら心が狭い気もしたが、先ほどの失礼な態度を根に持っているのかもしれなかった。
和音のほうも、見知らぬ男子生徒と慣れ合う気はないらしく、和装の異邦人しか見ようとしない。どんな態度を取られようと構わないが、それでも気分のいい態度ではない。とはいえ、むきになるのも馬鹿らしく、受験直前に要らぬストレスを溜めたくないので、柊吾は無言を貫いた。
「和音さん、御守りです。高校受験、気負わずに頑張ってきてください」
和泉が、着物の袂から赤い御守りを取り出した。話し掛けられた和音は、ホッと表情を緩ませる。「ありがとうございます。がんばります」と礼を述べて、頭を下げた背中から、ポニーテールが肩に流れた。律儀な受験生を見下ろす和泉が、口角を上げた。柊吾は、不意に違和感を覚えた。
理由は、不明だ。だが、なんとなく分かる。
呉野和泉の雰囲気が、僅かだが――先ほどまでと、似ているのだ。
――〝イズミ・イヴァーノヴィチ〟と、似ているのだ。
「……。和音さん。一つ、僕は貴女に言い忘れたことがあります」
和泉の声音が、昏く陰った。柊吾の肌が、ぞわりと粟立つ。
「はい?」
佐々木和音は、和泉を見上げた。ぞっとした柊吾に対して、こちらは何も感じていないらしい。神主の男を見上げる瞳に、曇りの色は欠片もない。他人の柊吾でも分かるほどに、和泉に全幅の信頼を置いた眼差しだった。和装の異邦人は、口の端で笑った。嫌な予感が膨張して、柊吾は波乱を覚悟する。〝和泉〟が〝イズミ〟に変わるとき、そこに安寧は欠片もない。柊吾は、それを理解しかけていた。そして、予感は果たして的中した。
神職の男・呉野和泉は、否、十八歳の感性を呼び覚まして、〝アソンデ〟いるかもしれない青年は――見せかけの平穏に一石を投じる言葉を、囁いた。
「佐々木和音さん。僕は以前に、貴女が狙われていると言いましたが……どうやら貴女、狙いから外れたかもしれません」
「……え?」
「和音さん。……綱田毬さんのことを、頼みました。よく気に掛けてあげてください。彼女の身の安全は、貴女に懸かっているかもしれませんよ」
「イズミさん!」
柊吾は、二人の会話に割り込んだ。静観を決め込むつもりでいたが、和泉の台詞で気が変わった。耳に入った名前が、聞き捨てならないものだったからだ。
柊吾の横暴な友人から、その名前は何度も聞かされていた。ショートボブの髪が可愛いだの、泣き黒子が可愛いだの、喋り方が可愛いだの、口を開けば「可愛い」ばかり言っている。それほどまでに好きな相手なのだ。
その名前が、なぜ、今ここで出てくるのだ。
「イズミさん。……知ってることを全部、洗いざらい吐いてください」
「おっかないですね、柊吾君」
和泉が悪びれずに答えた瞬間に、一陣の風が吹いた。柊吾が振り返ったときにはもう、隣の気配が動いていた。足元で弾けた砂が飛び、小石が泉に蹴飛ばされる。水面を打つ音と共に波紋が拡がり、視界の端ではポニーテールの髪が躍った。
「あ! おい……!」
和音が、走り出していた。なぜか急に神社の境内の方角へ駆け戻ろうとしている和音を、柊吾は慌てて呼び止める。
「お前、えっと……佐々木! 待て! 今からイズミさんに吐かせるから、佐々木も聞いていけ! よく分かんねえけど、佐々木も呉野の被害者なんだろ!」
叫んだ内容は憶測だが、決して的外れではないという確信があった。
呉野和泉は、先ほど佐々木和音に『狙いから外れた』という言葉を使った。
きっと、和音も無関係ではないのだ。呉野氷花から、何らかの被害を被った――あるいは、被りかけた一人。そう考えれば、佐々木和音が呉野和泉と交流を持ったことにも、説明がつく。
立ち去ろうとしていた和音の足が、ぴたりと止まる。柊吾の言葉を聞き入れてくれたのかと期待したが、こちらを振り返った顔を見て、思い違いだと悟った。
佐々木和音の顔色は、蒼白だった。表情はなく、唇の震えが見て取れる。
――怒っているのだ。心の制御ができないほどに、胸を搔き乱されている。和音について柊吾は何も知らないのに、なぜだか理解できた。和音は、柊吾には返事を寄越さずに、成り行きを見守っていた呉野和泉に、訥々《とつとつ》と言った。
「……和泉さん。どうして、そういうことが分かるんですか……って。やっぱり訊きたいですけど、今は訊きません。教えてくれて、ありがとうございました」
異様な様子に、ひやりとするものを感じた。無視され続けていることはひとまず置いておいて、柊吾は和音に近づいた。
「佐々木、落ち着け。お前の友達、綱田毬って言ったよな。……頼む。そいつのことを、俺に教えてほしい。でないと、篠田が……」
心配するから――と、最後まで言葉にできなかった。
「あなたには関係ない!」
叩きつけれた返事が、柊吾の言葉を潰した。ざわりとそよいだ風が、枯木を揺らす乾いた音が、三者の沈黙の重さを嘲った。
和音が、ハッと口を噤む。次いで、後ろめたそうに目を逸らして「ごめん」と小さな謝罪の言葉を乱暴に言い残すと、ぱっと身を翻して駆け出した。手に握られた赤い御守りのストラップが揺れて、頑なな意思を感じる背中が、境内に向かって遠ざかる。枯葉を踏みしめる足音だけが、寂しく響き続けた。
やがて和音の姿が完全に消えて、足音さえも聞こえなくなり、風の音と七輪の炭が熱せられる音だけが、御山の沈黙に粛々《しゅくしゅく》と残る。柊吾は、金縛りが解けたような脱力感と共に、大きな溜息を吐き出した。
「……何だったんだ、今の?」
茫然と呟いて振り返ると、いきなり和泉と目が合った。たじろいだ柊吾は、息を詰める。和装の異邦人の顔つきが、真剣そのものだったからだ。
「柊吾君。僕は、君に知識を授けると言いましたね。佐々木和音さんは、去年の暮れに、氷花さんの標的になりかけた少女です。ですが、未遂です。彼女の身には、何も起こっていません。それどころか、彼女は氷花さんの異能に対して、何の知識も持っていません」
「は……? あいつ、知らないんですか? 本当に、何も?」
「ええ。氷花さんの標的から上手く逸らせそうでしたので、必要以上の説明をしませんでした。今となっては、説明が必要かもしれませんね」
和泉が、目を細める。青色の目に射し込んだ冬の日光が、ナイフの照り返しのような冷たさで煌めいた。
「柊吾君が僕に持ち込んだ、袴塚市の花の切り取り事件は、十中八九、氷花さん絡みでしょうね。ただ、彼女がどこまで噛んでいるのか不明であり、全てを氷花さん一人の所為にするのは、いささか早計ではありませんか?」
「それは……呉野の単独犯じゃない、ってことですか? イズミさんは、犯人が他にもいるって疑ってるんですか?」
「分かりません。調査中ですからね」
和泉は、曖昧な返事で応じた。情動の欠如を窺わせる美貌からは、思考を読み取らせない壁が感じられて、柊吾は少し歯痒くなる。最初の氷花の事件から、すでに一年以上が過ぎている。その間、柊吾は和泉と頻繁に会っていたわけではないが、それでも付き合いは長いだろう。和泉は柊吾のことが分かるのに、その逆は分からないのは、なんだか悲しいことに思えた。
「……柊吾君。僕は、君のことが好きですよ?」
「やめてください、気持ち悪りぃ。っていうか心を読まないでください」
「お元気そうで何より。ところで、柊吾君は〝巫女〟という存在がどういうものかご存知ですか?」
「巫女?」
ぽかんとしたが、出し抜けに驚かせるような会話運びは、いかにも呉野和泉らしい。柊吾は少し考えてから「神社にいる、紅白の着物を着た女の人」と、自分でも上辺のことしか指していないと分かる、陳腐な答えを述べた。案の定、莞爾した和泉から「間違ってはいませんが、不正解とさせていただきましょう」と、厳しい採点を食らってしまった。
「巫女の『巫』の字は、一字で『かんなぎ』と読めます。『かんなぎ』とは、古い書き方をすると、神様の『神』に調和の『和』を合わせて『神和ぎ』となります。この言葉から察することができるように、『巫』とは、神様の意向を俗世の人たちへ伝える、仲介と伝達の役割を果たす人々のことを指します」
和泉は、七輪の前に屈み込み、焼き過ぎた餅に菜箸を伸ばす。餅を皿に移し終えると、縁側に腰掛けた。
「ただ、柊吾君の言うように、巫女の多くは女性が務めていますね。ですが、女性に限定することはありませんよ。今でこそ女性が多い役割ですが、男性にも務まります。僕の肩書である『神主』さえ、本来は文字通り、神がかりをする職業として捉えられていたのですから」
「神がかり?」
「神が、かかる。神がかり。君くらいの年ごろの少年少女なら、本や漫画で一度くらいは目にしているのでは? 神のような圧倒的高次元の存在を、己の身体に降ろす――すなわち、『己の中に、己とは異なる存在を受け入れる』のです。それが〝神がかり〟です。神の意向を、己の身体を貸し出すことによって、俗世の人々に届ける……その役目を担うのが〝巫女〟です」
蘊蓄を聞きながら、柊吾は唾を飲み込む。和泉の言葉に、凄みを感じていた。
「人ならざるものを、その身に受け入れる役目を担う者は、女性であれば『巫女』という呼び名が一般的ですが、男性であれば『巫覡』や『男巫』という呼び名もありますね。呼称が異なっても、担う役割は同じです。……柊吾君。この〝アソビ〟は、誰であっても条件は平等です。誰が安全で、誰が危険か。程度の差異が存在するだけで、君たちは皆、同じ戦地に立たされているのですよ。僕の妹も、含めて。君たちは一体、どんな〝アソビ〟を描くのでしょうね……?」
「イズミさん……?」
「一つ、予言をしましょう」
焼いた餅をアルミホイルに包んだ和泉が、縁側から立ち上がった。
「君は明日、篠田七瀬さんの待ち伏せを受けますよ」
「は? ……篠田っ?」
「ええ。『見え』ました。僕は『見た』ものを外したことがありませんから、君がどんな行動を取ったとしても、七瀬さんの待ち伏せは避けられないでしょうね」
「なんで篠田が、俺を待ち伏せなんか……」
言いながら、思い出した。和泉からこの予言を受ける前に、すでに柊吾はもう一つ、不吉な予言を受けている。袴塚市の花の切り取り事件を調査していたはずなのに、柊吾が得た情報は、綱田毬という袴塚中学校の女子生徒が、呉野氷花の〝言霊〟の新たな標的候補だという、七瀬の友人の関与だった。
明日は高校受験があり、柊吾たちの進路が決まる日だ。――たかだかその程度のことで、あの篠田七瀬が、おとなしくしているわけがない。この予言を仲間たちに共有すれば、七瀬は間違いなく、何らかの行動を起こすだろう。友人のピンチを知って単独で突っ走る姿が目に浮かび、頭が痛くなってきた。
「坂上が、止めてくれたらいいけど……まあ、無理だろうな」
「ええ。思い返せばあの『鏡』の事件、二人三脚で脱出に取り組むというよりは、独走する七瀬さんに彼が容赦なく引き摺られているという図のほうが近かった気がします。本当の二人三脚だったら、相方は全身擦り傷まみれですね。かわいそうに。君も、波乱は避けられないと思いますよ」
「……あー」
頭を抱える柊吾に、和泉は「お土産にどうぞ」と餅の包みを差し出してくる。なし崩し的に受け取らされていると、和泉がおもむろに夕空を仰いだ。
「神道の教えは、人知では到底敵わない自然の摂理に従うことです。それを、惟神と言います。――惟神の道、此度の怪事が、どう展開していくのか。〝アソビ〟の参加者ではない僕は、呉野氷花の兄として、終焉をしかと見届けさせていただきますよ……」
意味深な響きの和泉の声が、虚空へ吸い込まれて消えていく。白皙の美貌を見つめた柊吾は、和装の異邦人の妹に当たる少女を、自然と思い出していた。
呉野氷花。正確には、和泉の妹ではなく、従兄妹。言霊の異能を操る少女。
柊吾たちが住む袴塚市では、一体何が始まろうとしているのだろう。
〝アソビ〟? ――分からない。悪意で柊吾たちを翻弄してきた氷花が、現在どういう立ち位置にいるのか、そして氷花にかつて狙われていたという袴塚中学校の女子生徒・佐々木和音の豹変は何なのか、考えることが多すぎた。
短髪を右手で掻きまぜた柊吾も、和泉に倣って、暮れかけた空を振り仰ぐ。寒風にさらされながら、しばらくの間、柊吾は和泉と共に、襤褸屋の庭に立ち続けた。




