清らかな魂 31
一か月ぶりに帰国した日本の空は、清々しく澄み渡っていた。
門出の日には、うってつけの天気だろう。黒いスーツケースを引いて山道を歩きながら、イズミは木々の隙間から空を仰ぎ見る。
帯状の木漏れ日が地上へ降り注ぐ眺めは、以前と殆ど変わらない。ただ、先月よりも日差しの強さが和らいでいて、蝉の声も聞こえない。ささやかな季節の移ろいが感じられて、つい微笑みが零れ出る。――日本は、やはり美しい。
再会の瞬間の第一声は、一体何と言うべきか。漫然と思考を巡らせながら、イズミは御山の襤褸屋へ足を向けた。
スーツケースの駒が、がりがりと土草と小石を踏んでいく。自然を脅かすような侵略の音の無粋さから、辺りに対して無性に申し訳ない気持ちになってしまう。拝殿への参拝は済ませていたが、後でもう一度詣でようかと益体もなく考え始めたところで、木々が連なる景色が開けて、泉が眼前に現れた。
――其の泉の向こうに、漸く見つけた。
襤褸屋の外、縁側の手前で、掃き掃除をしているらしい、痩せた老人の立ち姿を。心が、ふわりと軽くなった。
「御父様」
イズミが声を張ると、相手はとっくに気づいていたのだろう。ちらと胡乱な目を此方に向けて、溜息を吐くような素振りを見せた。可愛い孫の帰国だというのに、全く以て感動が薄い。此の相手に求めるものでもない気がしたが、ともあれイズミは微笑んだ。
「御父様。呉野和泉がただいま戻りました」
「仰々《ぎょうぎょう》しく云わんでも見たら判る」
素気無い返事が飛んできた。心底どうでも良さそうな返答だったが、堅物なのだから仕様がない。イズミは心持ち早足で呉野家の玄関に向かい、其処へスーツケースを置いてから庭の縁側に直行し、祖父の正面に立った。
呉野國徳の、正面に立った。
見下ろせば、頭一つ分は下の位置に顔がある。やや不機嫌そうな顔つきだが、元気そうなので何よりだ。
「御父様。改めまして。ただいま戻りました」
「然う畏まらんでいい。全く、貴様の喋り方は好かん」
「そう言われても困ります。僕は生まれてこの方、こんな日本語の使い方しかしてこなかったのですから。今更どうやって年頃の少年のような喋り方を会得しろというのです? そちらの方が難しいのですよ」
難癖に対して律義に応答していると、國徳が鬱陶しそうに目を細めた。イズミの話し方が、余程の居心地悪さを誘うと見える。可笑しくなってイズミが笑うと、國徳は余計に面白くなかったのか、ふいと此方に背中を向けて、つかつかと歩いて行ってしまった。
其の行き先を目で追って、嗚呼とイズミは納得する。
掃除中かと思っていたが、然ういうわけでもなさそうだ。
「今からですか」
イズミが訊くと、國徳は振り返らないまま、「其の心算だ」と短く答えた。
全く性急なことだと思う。イズミは苦笑した。
「御父様、昼食はまだ召し上がっていないのでしょう。克仁さんが差し入れを持ってきてくださるそうですよ。それまでに終わらせる気ですか?」
「ああ」
國徳が、振り返る。
竹箒を持っていない方の手には、赤いライターが握られていた。
「此方の準備は出来ている。和泉、貴様も用意があるならさっさと出せ」
「僕には何もありませんよ。貴方のお手伝いこそが僕の目的です。貴方が燃やしたいと思うものを、僕も一緒に燃やします。彼女への怨嗟に繋がるような品など、僕には一つもありませんから。御父様の物を、僕にも共有させてください。僕はそれでいいのですよ」
「……好きにしろ」
着物の裾を翻して、國徳が縁側から庭に向かう。縁側には、衣類や文房具を始めとする彩り鮮やかな品々が、ずらりと並べて置いてあった。
全て、女物だろう。紺色の浴衣を見下ろしたイズミは、國徳を振り返る。
浅葱の狩衣に、紫紺の袴。神主たる祖父の華やかな姿を見つめてから、次いで己の格好を見下ろした。
半袖の白シャツに、黒のズボン。東袴塚学園高等部の制服だ。
制服が礼装である期間は、もう半年程しか残っていない。高校三年生とは果たして、子供なのか大人なのか。一体どちらだろうとイズミは考える。
確たる答えは出なかったが、其れでも一つ、判ることは。
時は流れ、イズミは確実に大人になっていく。子供の時間は終わるのだ。
まるで、〝アソビ〟が終わるように。
其のようにして己の成長を意識した時、ふと思いつくことが一つあった。
「……。僕は、歳を取り過ぎたのかもしれません」
國徳が、不可解そうな顔で振り返る。イズミは、訥々《とつとつ》と心の内を語り始めた。
「たった今、思ったのです。今こうして貴方と共にいる僕が、もっと幼い少年であったなら。今回の事でもっと怒りを見せたかもしれませんし、哀しみを露わに泣き崩れていたかもしれません。僕はおそらく、実年齢よりもだいぶ物分かりのいい子供です。子供と言っていい歳なのかは曖昧ですが、ともあれ……僕は、その所為で。彼女を恨むことも、家族の死を悲しむことも、どちらも中途半端になってしまいました。僕は、最愛の家族の死に対して、もっと恨むことも、悲しむことも出来たはずだと思うのです。せめて僕が、もう少しだけ若かったなら。……そうですね、例えば」
イズミは、思案気に首を傾ける。
「……中学生くらいの歳の頃の、少年少女の感性。そんな若さが、今の僕にあったなら。僕はもっと、父の死を悼む事が出来たでしょうか」
「阿呆らしい」
あっさりと一蹴された。
「貴様の偏屈ぶりは、ちょっとやそっと若返ったところでどうにもならん。……悼み足りんと思うなら、手伝え。和泉。此れからも悼めば、其れで足りる。くだらんことは考えるな」
「……はい。御父様」
イズミは、笑う。
苦く、同時に温かな郷愁を胸に抱きながら、己の制服からも遺品の数々からも目を逸らして、祖父を手伝うべく、痩せた後姿を追いかけた。
*
ぱちぱちと、火の粉の爆ぜる音がする。
重ねた新聞紙と枯れ枝で、小さな火が燃えている。
焼き芋を作るにしても、もっと火が要るだろう。しかし縁側あたりの砂地を除いて周囲は草木だらけなので、燃え移る危険も十分ある。其れに此の行為はただの自己満足でしかないのだから、贅沢を言う心算もなかった。
國徳の手が女物の浴衣を掴み、炎に向かって放り投げる。ばさりと重い音がして、黒煙を吹き上げていた焚火が、一瞬にして見えなくなる。しゅう、と情けない音が聞こえて、其れきり煙も消えたので、イズミは國徳を横目で見た。
「消えてしまったのでは? 初っ端から大きなものを被せるからですよ」
「喧しい」
むっとした様子の國徳へ、イズミは肩を竦めてから、焚火の傍に屈み込む。ライターの炎で紺色の浴衣の端を炙ると、ちりっ、と繊維が焦げる音がして、赤い火花が細く走る。やがて薄赤い炎がぬらりと舐めるように浴衣を覆い、強風に似た音とともに、端からじわじわと燃え始めた。
「……呆気ないものですね」
イズミは、ぽつんと呟く。そして立ち上がってから縁側に向かい、其処に並べていた便箋の束を手に取ると、纏めて半分に引き裂いた。
ばりっ、と思いのほか派手な音が、森の静寂を掻き乱す。其の驚きを顔には出さずに振り向くと、仏頂面で立つ國徳へ、半分になった便箋を差し出した。
國徳も便箋の片割れを受け取ると、其処に綴られた言葉の羅列に一瞬だけ視線を落としてから、イズミに倣って引き裂いた。空砲を空高く撃つような爽快さで、景気のいい音が響き渡る。
「紙吹雪のようにしたら、案外気持ちいいかもしれませんね」
「止めておけ。そんなものが敷地に落ちているなど、考えただけで虫唾が走る。貴様が後で掃除をするなら文句は云わん。好きにするがいい」
「それはきっと骨でしょうね。遠慮させていただきましょう」
イズミは細かく千切った言葉の欠片を、燃え盛る紺色の浴衣に向けて、雪のように舞い散らせる。ふわっと軽い音がして、白い紙片が、朱に染まる。夏の終わりの白雪は、黒い消し炭へと姿を変えて、風に攫われて浮き上がった。
煤が、舞い上がっていく。火炎に焼かれた罪の欠片が、音もなく天へ昇っていく。煙とともに火の粉も舞い、曼珠沙華より紅い彼岸の燐光の揺らめきは、真昼に乱舞する蛍の如く、御山の緑を彩った。奇妙に敬虔な気持ちになり、イズミは澄み切った青天を仰ぎ続けた。
空が、全てを呑み込んでくれる。煤も、火の粉も、此処で祓った全ての罪も、嫋やかに抱き留めて清めてくれる。燦然と輝く赤い炎を眼前に据えて、胸に去来した言葉が、たった一つ。
「……〝清らか〟」
イズミは、虚空に向けて呟いた。
――遊んでくださいな、お兄様!
凛、と。少女の声が、風に運ばれて聞こえた気がした。従妹と過ごした夏の記憶が、脳裏に鮮明に蘇る。秋の気配を孕んだ風が、髪を優しく撫でていった。
――夏が、終わろうとしている。
イズミは軽く頭を振って、國徳を振り返る。帰国した今、過ぎ去った夏を懐古するより、すべきことは他にある。
「御父様。お伝えしたいことがあります。僕は進路を決めました」
國徳は、手中の便箋を炎に投げ入れると、無言でイズミを促した。イズミは頷き、話し始める。
「僕は、神道を学べる大学を受験しようと思います。神社の神主になる為に、大学で勉強をしたいのです」
いつか、己の進路を是と定めるような、決定的な瞬間が来るかもしれない。そんな曖昧な矜持で惰性の学びを極めた姿勢が、こんな結末を運ぶとは。
此れが、イズミの〝目的〟だった。やっと見つけた〝目的〟だった。
目的など、なくていい。そんな風に言ってくれた、父を亡くして見つけた目的。其れが祖父との絆になろうとは、何だか奇妙に運命的で、なかなか奇態な縁だと思う。
「学費は、奨学金制度を利用する心算です。必ず主席で入学します。御父様、貴方に進学の費用を煩わせるような事は致しませんので、ご安心ください」
「そんな心配はせんでいい。出してやれる」
國徳が、口を挟んだ。そんなところで話の腰を折られるとは思わず、イズミは呆ける。「有難う御座います」とやや気抜けした返事をしつつも、まだ此方の話が途中なので、気を取り直して先を続けた。
「僕は、呉野神社を継ごうと考えています。そして、この神社の呉野家最後の神主になる心算です」
「最後」
「ええ。最後です」
復唱する國徳へ、イズミは強く首肯した。
「誰も居なくなれば、いずれこの神社の管理の為に、余所から人が来るでしょう。もしくは、うらぶれて氏子から忘れ去られるか。僕は、どちらでもいいと思います。どちらにしても、同じことだからです。呉野の人間が神主を務めるのは、僕の代で終わりにします。それによって、僕達のような異能を持つ人間が、この世で生きていくことを……もう、終わりにさせていただく心算です」
「……」
國徳は、縁側に広げた色とりどりの帯を掴む。其れらを雑な手つきで火にくべると、漸くイズミを振り返った。
喝を入れられると覚悟していたが、國徳は特に腹を立てた様子は見せなかった。イズミが神妙に祖父の顔色を窺っていると、國徳は朴訥とした口調で言った。
「和泉。貴様の言葉はまるで、将来誰とも所帯を持つ気がないと、然う云っているように聞こえる」
度肝を抜かれて、イズミは黙る。だが、否定は出来なかった。要は然ういうことなのだ。誤魔化すのも妙な話だ。身内でする話だろうかと据わりの悪さを覚えたが、「ええ、そうですよ」とイズミは躊躇うことなく返事をした。
「僕は、生涯誰とも結婚しないでしょうね。ですが、それは誰の所為でもないのです。ここでの経験が僕にそうさせたわけではありませんし、ましてや御父様、貴方の所為でもありません。僕はただ、己の異能を誰にも遺伝させたくないだけなのです。ここで、止める心算です。なので、所帯は持ちません。無論、女性を抱く気はありません。よって、誰とも結ばれる心算はありません。絶対にです」
「聞いて呆れる」
此方は覚悟を込めて言ったというのに、國徳がイズミに返した言葉は、あろうことか呆れだった。
「其れが高校三年生の台詞か。信じられん。そんな餓鬼など私は知らん。和泉、貴様には若さが致命的に足りとらん」
「貴方に若さ云々《うんぬん》を言われたくありませんよ、御父様」
「五月蠅い」
真剣な話をしていたはずなのに、何故か罵り合いに発展してしまった。
家族というものは本当に、面白いものだとイズミは思う。亡くなったイヴァンの時とも、克仁の時とも違う絆。イズミの三人目の父親とは、こんな絆で結ばれている。散々な罵倒を食らったが、不思議と温かな心地でイズミは笑った。
「全く。父親三人に母親一人。とんだ家族構成です。思えば、僕の周りは男だらけでした。華がないなどとは一度も思いませんでしたが、こうなって見ると些かむさ苦しい気が致します」
「其のむさ苦しさを構成する頭数に、貴様も入っている事を忘れるな」
國徳が面倒臭そうに呟いて、縁側の物を次々と火にくべていく。
衣類やノート類がなくなると、もう焼くものは殆ど残っていない。燃えるもの全てを燃やしていてはきりがないので、大半はゴミに出したという。情緒はないが、此れがイズミ達の現実だった。國徳は縁側から赤い手毬を拾い上げると、炎へ無造作に放り投げた。
今の手毬は、〝彼女〟の少女時代の玩具だろうか。郷愁を誘う夕焼け色を目にした時、イズミは國徳に話さなくてはならないもう一つのことを思い出して、口調を少しだけ改めた。
「御父様。もう一つ、聞いていただきたい事があります」
「何だ」
「僕の母、ジーナの事です」
國徳の横顔が、強張った。硬い動きで振り返る顔を見ただけで、イズミは國徳が悟ったことに気づいていた。屹度、労わられている。國徳の優しさは判りにくいものだったが、以前よりは少しだけ、イズミにも判るようになっていた。
「ロシアに戻っていた時の話を、少しだけさせてください。電話でもお話した通り、僕は父の遺体をロシアに運んだ後、埋葬も済ませてきました。父は、ああいう人柄でしたので、原因不明の突然死を悼む方は、とても多かったですよ。……ですが、ただ一人。父の死を誰よりも悼むであろう人物だけが、違った反応を見せました。〝先見〟の異能者たる貴方なら、もしかしたらこの展開、既に予想できているかもしれませんね」
國徳は、口を挟まない。緊迫を孕んだ驚きの顔で、孫を見つめるだけだった。やはり優しい人だった。言葉を掛けずに見守ることが、時として優しさとなることを知っている。
だが、此れはイズミの所為なのだ。其の罪を告解せぬまま此の祖父とともに暮らすのは、たとえ國徳が許しても、己の良心が許さない。許しが欲しいわけではなかったが、筋はきちんと通したい。其の為だけに、イズミは言った。
「僕の母は、父の葬儀に参列しませんでした」
記憶を振り返れば、戸惑いばかりが脳裏を掠める。母の怯えを回想しながら、イズミはほろ苦く微笑んだ。人は、寂しくても笑えるのだ。狡い気もしたが、今はそんな顔しか作れなかった。
「本当は、もっと前から異変を感じていました。ロシアに発つ直前に、国際電話で母に一報を入れた時から、判ってはいたのです。様子がおかしいという事は。要件を伝える前に、電話を切られてしまいましたから。それでも、父を連れ帰る事に必死だった僕は、母にそれ以上気を回す余裕がありませんでした。慌ただしくロシアに到着した僕は、母の家を訪ねました。久しぶりに会えた母は、僕の顔を見て、こう言ったのです」
息を吸い込んで、イズミは言った。
「――『誰?』と。……たった、一言」
炎の中で、枯れ枝がぱきりと割れる音が、國徳の沈黙を際立たせる。居た堪れなくなったイズミは、遺品を燃やすべく縁側に視線を転じたが、既に國徳が焼いてしまって、最早何も残っていない。嘆息してから、語りを再開させた。
「僕は、母から忘れられていました。僕が誰か判らないのです。母は僕の姿を見ても、何も思い出せないようでした。自分は子供なんて産んでいない。結婚もしていない。イヴァンという男なんて知らない。そう言って僕を拒絶して、恐怖の形相で追い出そうとしました。アパートの一室には、僕の幼少時の私物が残っているにもかかわらずです」
「……」
「思い出してもらえない事に焦った僕は、家に残る僕との思い出の品を、次々と母に指摘しました。ですが、それはやってはいけない事でした。そんな事は、するべきではなかったのです」
イズミは、溜息を吐く。己の所業の残酷さに、無気力と悲哀の両方を感じながら、罪をしかと胸に刻み、罰を静かに受け入れた。
「僕の指摘を受けた母は、酷く取り乱してしまいました。なぜ子供用の家具や玩具が家にあるのか、追及されて初めて気がついたようでした。見る間に顔色が青くなり、母は錯乱してしまいました。――僕が、そうさせたのです。僕は母にとって、完全に他人でした。ああなってしまった以上、僕がすべき事は一つです。『貴女に述べたことは全て嘘だ』と母にお詫びをして、早急にアパートを辞しました。……それきり、母にはお会いしていません。家を出る直前に、有難うと今までの感謝を述べて、左様ならと、お別れの言葉だけを掛けました」
「……」
「僕の母は、何故こんな風になってしまったのでしょうね。最初は理不尽さも感じましたが、すぐに自業自得だと気づきました。御父様。これは僕の罪です。貴方はせっかく止めてくださったのに、制止を無駄にしてしまいました。後悔はしていませんが、貴方の心遣いを無駄にした事だけは、お詫びしたいと考えていました」
「和泉」
國徳が、イズミを呼んだ。イズミの懺悔を、断つように。
「貴様の所為かどうかなど、私には判らん」
厳しい声音で向けられたのは、そんな労いの言葉だった。ぶっきらぼうながらも、イズミを庇ってくれている。配慮は嬉しかったが、やはり此れはイズミの所為だ。微笑んだイズミは、縁側に腰掛けて、焚火を眺めた。
火の勢いは、弱まらない。むしろ先程よりも、火勢がやや強まっている。燃え盛る浴衣はまだ形が幾らか残っているので、暫くは燃え続けるだろう。火炎を漫然と眺めながら、イズミは父の最期を思い出していた。
――あの時。
父の今際の時に、イズミが解き放った〝言霊〟。失われていく命を現に繋ぐ為だけに、思いつく端から叫び続けた、魂の言葉。
其の言葉の一つを思い出すと、口の端に自嘲が滲んだ。
――『貴方の命を、繋ぐ代わりに……僕の事を、忘れてください』
僕の事を、忘れてください。
――間違いなかった。此れしか、原因が考えられない。
あの時に発した己の言葉が、よもやこんな結末を齎すとは。そして、其の〝言挙げ〟を父が拒絶した事で、全く別の人間が、絆を忘れてしまうとは。
こんな結末、誰に予想できただろう。今の國徳には判るようだが、先程の驚きを見る限りは、一か月前の國徳にさえ、此れは知覚できなかった未来に違いない。
ただ、一人を除いては。
「……」
もし、あの瞬間に、此の未来を見通せた人間が、一人だけ居たとするならば。
其の人物は、確信犯だったのだろうか。此の展開を予測して、あの瞬間に全てを悟り、其の上で『厭』だと言ったのだろうか。
自分は、『厭』だ。
だから、別の人間が、代わりに忘れたのだろうか。
母が、ジーナが――代わりに、忘れたのだろうか。
此れでは身代わりのようだと思う反面、其れもまた優しさだろうか、とイズミは思考を巡らせる。そんな風に考えると、罪の所在が判らなくなってくる。だが、イズミの言葉が発端なのだ。罪の所在は、イズミに在る。堂々巡りの考えは、其処で無理やり打ち切った。
推測を幾ら重ねても、答え合わせは出来ないのだ。
答えを知っているかもしれない其の人は、もう此の世の何処にも居ないのだから。
「御父様。これは僕の罪と罰です。人の命を筋違いな異能で繋ごうとして、その場の感情のままに〝言霊〟を操った代償です。あるいは父の罪なのか、優しさが理由かもしれません。僕の母は、決して強い人ではありませんから。屹度、夫の死を受け入れられなかったと思います。……だから、これでいいのです。僕にとっては些か酷な罰でしたが、母にとっては、優しい嘘です。今は精神的に不安定ですが、親戚が支えてくれると請け負ってくれましたよ」
「親戚は、覚えているのか。和泉とイヴァンの事を」
「ええ。幸いにも。……忘れてくださっても、僕としては構わなかったのですが。その方が、母が異常者扱いされずに済むでしょうから。僕にとっては幸いでも、母にとってはこの現実、不幸なことにと言うべきかもしれませんね。……それでも、僕は。母が僕の事を綺麗に忘れてくれて、良かったと思っていますよ」
其の言葉を結びとして、イズミは此の懺悔を終わらせようとした。
だが、其の時。一つだけ、母に言い損ねた言葉の存在に気づいてしまった。
「……酷い人で、御免なさい、と。母に謝るのを忘れていました」
母は父のことを酷い人だと詰ったが、父が非道ならば、イズミもまた非道だった。母に無礼を働いた事は謝ったが、此方は謝れていなかった。親戚に伝言でも頼もうかと思案していると、國徳がおもむろに口を開いた。
「和泉。火を見ておけ。離れる」
言うや否や、國徳は浅沓を脱いで縁側を上がってくる。足袋を履いた足がイズミの隣を通り過ぎて、廊下の向こうへ消えていった。
突然に放置される形になったイズミは、「はい?」と生返事をして、姿勢のいい後ろ姿を見送った。言われるままに炎を見守ったが、変わり映えしない火炎の眺めに早くも退屈を覚えてしまい、背後を緩やかに振り返る。
襤褸屋の、居間。イズミが此れから、暮らす家。
一か月前のあの夜に、イズミの父が死んだ場所。
「……お父さん」
そっと、声を掛けてみる。一人だからこそ、出来る行為だった。
父が息絶えた場所の畳は、新しいものに替えてあった。結局汚れたわけではなかったが、気分の問題なのだろう。藺草の匂いが香ったが、其れよりも煤の匂いの方がずっと強い。軽く咳き込んで目尻の涙を拭いながら、イズミは記憶を手繰り寄せる。懐かしさから、目線が自然と遠くなった。
――父が死んで、貞枝と伊槻が消えた時。
國徳が呼んだはずの救急車と警察は、結局、神社に来なかった。
『皆、居なくなっちゃえ』
そんな呪いの〝言挙げ〟を起点として、イズミ達の世界から二人の大人が連れ去られた。しかも、〝言霊〟の霊威が及ぼした影響は、イズミ達の想像よりも、遙かに大規模なものだった。
――消えたのは、人間だけではなかったのだ。
境内からはガソリンの匂いが失せていて、あれだけ鮮烈だった血の匂いも消えていた。そして清廉たる山の香を意識して漸く、イズミと國徳は、父の様子が変化している事に気づいたのだ。
仰向けに倒れ、大量の血を流して死んだはずの父は――血に濡れてなど、いなかった。傷口は塞がっていて、切り裂かれた服も元に戻っていた。
命だけが、肉体になかった。父の死という事実だけが変わらず其処にあるだけで、其の命を奪うに至った凶器はおろか、流れた血液の痕跡さえ、何処にも見いだす事が出来なかった。
希望を懸けて、再度救急車を呼んだ。だが、やはり蘇生は出来なかった。
元々脈も止まっていたので、諦めてはいた。
しかし、其の死因を医師から聞かされた時――衝撃のあまり、イズミと國徳は声を失った。
――死因は、脳出血。
死因が、すり替わっていた。あの夜に『居なくなった』男が与えた死傷など、父の死には関係ないとでも言うように。
どんなに信じられない事実でも、受け入れるしかなかった。父の遺体には外傷がないのだ。現実の不可思議さを医師に訴えたところで、死者が生き返るわけでもない。一度呼んだ救急車と警察がどうなったのかも訊ねたが、救急隊員は狐につままれたような顔をしていたので、イズミも國徳も、其れ以上は首を突っ込むのをやめにした。
欺くして、様々な手続きを経た後に、國徳の協力を得たイズミは、克仁に一切の連絡を取らないまま、父を連れて急遽日本を発った。
そして、袴塚市を離れる直前に――イズミは、全てを知ったのだ。
國徳が、突き止めたからだ。
イズミが父の遺体とともにロシアに戻るべく奔走している間に、國徳は別の面で動いていた。惨劇の現場となった自宅で決定的な証拠を掴み、イズミの出国前に見せてくれたのだ。
――煌びやかで見目麗しい、一冊の古書を。
其の美しい本に挟まれた、茶封筒を。犯人が誰で、父は何故死んだのか。真相が詳らかに開陳された、殺人鬼の遺書を。
そんな経緯があったからこそ、イズミと國徳の再会は、こんな形になったのだろう。舞い上がる火の粉を見送りながら、イズミは青空を振り仰いだ。
鬼女の残した物を、焼く。其の程度のことが、供養になるとは思わない。ましてや仇討ちになるとも思わない。二度と仇は打てないのだ。残されたイズミ達の心の整理がつくだけで、何にもなりはしないだろう。
其れでも、イズミは然うしたかった。國徳もまた然うしたいのだ。だから二人で正装を纏い、愚にもつかぬと知りながらも、こうして遺品を焼いている。
「また貴様は、どうせ益体の無いことでも考えているんだろう」
声と足音が、すぐ隣から聞こえてきた。國徳が戻ってきたのだ。
イズミは振り返ったが、其の瞬間に視界を塞いだのは、朱色に塗られた正方形の物体だった。ぬっと眼前に迫った物体に泡を食いながら、イズミは訊ねる。
「御父様、近いです。……何です? これは」
「見たら判る」
近すぎて判らない。鼻先に突き付けられた物体を掴んで受け取ると、なるほど確かに、見たら判るとの言葉通りだった。
「鏡、ですか」
物体の正体は、小さな手鏡だった。ぱこんとコンパクトを開いてみると、鏡面がきらりと太陽光を反射して、國徳が眩しそうに目を眇める。
「一枚は克仁にやった。もう一枚は、貴様が持っていればいい」
「そういえば、神社は鏡をお祀りしている所が多いそうですね。此方でもお祀りしているのですか?」
「参拝客から見える所には無いが、奥にはある。其れは貴様にやる。先代から受け継いだものだ」
「霊験あらたか、という事ですか」
「〝お守り〟として機能するかは判らんが、無いよりはマシだろう。持っておけ。どう使うかは好きにしろ」
「屹度、僕には不要の守りだと思いますよ。何せ〝同胞〟ですからね。克仁さんにとってもこれは、恐らく不要の守りでしょうね」
イズミは手鏡を閉じると、朱塗りの表面をそっと撫でた。
細筆で描かれた毬の柄は、驚くほど緻密で麗しい。先代から受け継いだ物だと國徳は言ったが、劣化や損傷は全く見受けられなかった。
「〝お守り〟と仰いましたが、守りがなくとも平気だという事くらい、御父様は判っているのでしょう? そうでなくては、克仁さんの所へ氷花さんを預けるわけがありません」
――藤崎克仁。イズミの養父。そして今は、少しばかり仲が悪い相手。
というのも、イズミは日本を発つ直前に、パスポートや着替えといった、必要最低限の荷物を纏める為に、自宅に戻ったのだが――其の際の作業を克仁に見られてはややこしいので、家主たる克仁に様々な嘘を吹き込んで、体よく家から追い出してしまったのだ。
惨劇の夜以降、克仁には父の死はおろか、行方すら教えなかった。其の死を漸く伝える決心がついたのは、イズミがロシアに着いてからの事だった。
國徳から話が伝わっている事を期待したが、國徳は其の役目をイズミに一任していたらしく、克仁は本当に何も知らないままだった。結果として、国際電話で父の訃報を克仁に告げたイズミは、大目玉を食らう羽目になってしまった。
其れでもイズミは、父は急死したと伝えただけで、詳細については頑として語らなかった。今はまだ克仁を不用意に巻き込みたくないという思いが、少なからずあったのだ。
ただ、克仁と仲が悪くなったと言っても、深刻味は薄かった。今回の件で多少の軋轢は生まれたが、其れは絆の深さで修復していけるものだと思う。
現に今日も、此れから会う。克仁とは今後も、家族として付き合っていけるだろう。
――イズミが今後、あの家に近寄ることが出来るかどうかは、判らないが。
「克仁さん、氷花さんと仲良くやっているそうですね。あの子の暮らしぶりについて、克仁さんから聞きましたよ。……元気過ぎて、怖いくらいだと。両親が失踪状態だというのに、それを判っていないのか、気丈さを装っているのか。何にせよ、元気に笑って暮らしているようですね」
「克仁に託すのが一番いいと、私は思う」
淡々と、國徳は言った。肯定的な言葉とは裏腹に、口調は重々しいものだった。
「あの子の先行きがどうなるかは、判らん。だが、私と暮らすよりは、ずっといいに決まっている。……克仁も、手を焼いとるようだがな」
「手を焼いている? 仲が宜しいように見えましたよ?」
「馴れ合いにしか見えん。もしくは、化かし合いか。大人に可愛がられる為に、どういう態度を取ればいいか。其れをあの歳で判っとるのは、末恐ろしいことだと思う」
「……。克仁さんは、人格者です。更生も有り得ると思いますよ」
「流石に其処まで期待するのは、ならん。其れに、克仁には荷が重過ぎる」
國徳は、苦々しげに、其れでいてはっきりと言い切った。
「和泉。誰もが貴様のように、碌な反抗期もなく健やかに育つなどと思い上がるな。克仁と貴様のような家族が、氷花であっても成り立つのか。そんな期待を此方が持つのは、幾らなんでも克仁に悪い。其れに、此れは克仁が果たすべき役目でもない。あいつも其れを判っとるから、氷花との生活で、手を焼くことが多いのやもしれん」
「それは……単純に、女の子との二人暮らしが、初めてだからではありませんか? 克仁さんには、血の繋がったお子さんはいませんから。距離感が判らないだけかもしれませんよ」
「……そんな理由とは、思えんがな」
國徳は、不機嫌そうに目を逸らした。何処となく卑屈な光を其の双眸に認めたイズミは、心配になる。家族としての責任を放棄して、別の人間に押し付けた。國徳は、其れを気に病んでいるのだろうか。
もし然うなら、気にすることではないとイズミは思う。
相手は、仇だ。國徳は家族を殺されたのだ。犯人もまた己の家族なのだとしても、イズミは國徳の選択を、ひいては感情を責める気はなかった。
父親でありながら、娘の罪を拒絶する。其れでも構わないと思ったのだ。
むしろ、そんなものを受け入れられる人格者など、別に居なくていいと思う。
「……」
我ながら、冷淡だと思う。此れでは非道と詰られても、反論の余地など何処にもない。そんな此方の感情は声に出さなくとも伝わったのか、國徳は一層不機嫌そうに眉根を寄せて、ふ、と小さな溜息を吐く。悪態が今にも飛び出してきそうな雰囲気だったが、國徳は何も言わずに、イズミの隣にすとんと座った。
イズミはたじろぎ、目を瞬く。
よもや、此の人物と、縁側に並んで腰掛ける日が来ようとは。
懐かなかった野良猫が歩み寄ってきたような驚きを感じていると、國徳は先程イズミが然うしたように空を仰いだ。そんな祖父の狩衣に、花弁が付いているのをイズミは見つけた。
――赤く、ほんのりと透けた花弁だ。イズミが國徳の書斎に入った時に、天井から降っていた花だろうか。
あの部屋には、なぜ花が降るのだろう。粛々と降りしきる眺めは葬送のようで、イズミたち家族がこうなってしまうことを、御山の自然に宿る神々が、予め知っていたかのようだった。
イズミは、國徳の狩衣から花弁をつまむ。手のひらに移した其れに吐息を吹きかけると、ふわりと舞い散った赤い花の一片は、地に落ちるよりもずっと早く、雪のように消え失せた。
其の頃合いを、見計らったかのように。
しゃがれた声が、横合いから掛かった。
「すまなかった」
イズミは、呆ける。時が、止まったような気がした。
國徳は、此方を見ていない。焚火を見つめたままだった。火影で橙に照らされた横顔は無表情に近かったが、微かな憂いを浮かんでいる。唇は固く引き結ばれていて、其処から言葉が紡がれたことが夢であるかのようだった。
だが、驚きで思考が止まったのは、あくまで一瞬だけだった。
イズミは屹と表情を引き締めると、「何故、貴方が謝るのです」と我ながら珍しいと思うほどきつい声で、祖父に言葉を叩きつけた。
「御父様、聞いてください。御父様が僕に謝る必要性について、僕と一緒に考察しましょう。貴方が何に対して謝っているのか。それを列挙していきます。可能性その一。御父様はロシア女性との離縁をきっかけにして、家族の絆を捻じれさせた事を謝っている。その必要は皆無ですね。もし御父様がソフィヤ御婆様と結ばれていなければ、僕は生まれていないのですから。謝られても困ります」
「……は?」
國徳が、目を丸くする。そんな応答をするところなど、多分初めて見たと思う。可笑しさを覚えて笑いながら、イズミは一方的な主張を展開した。
「それでは、御父様が何を謝っているのか。可能性その二。御父様は過去に伊槻さんへ『神社を継がなくていい』と言った事を謝っている。その台詞の所為で伊槻さんが孤独を深め、あの惨劇の引き金になったのではないかと後悔している。……御父様。貴方は〝先見〟の異能によって、僕がいずれ神職に就く事を悟っていましたね? 神社を継ぐのは伊槻さんではなく僕だと、貴方には予感があったのでは? そうでなければ、神主になる事を前提に貞枝さんとの結婚を許した男性に、神社を『継がなくていい』などと言うわけがありません。ですが、こちらも謝る必要など皆無ですね。貴方は、伊槻さんが就いていた職を尊重しただけです。気に病む必要すらありません」
「和泉」
「それに、謝ってもらって解決する問題ではありませんよ。伊槻さんは死んだのですから」
國徳に口を挟ませないよう早口で言いながら、イズミは悪戯っぽく笑った。伊槻の顔を、思い出していた。
狂気に歪んだ顔ではない。記憶の中で、伊槻は綺麗に笑っていた。片手を差し伸べて、有難うとイズミに告げて、優しい顔で笑っている。
あの夜には恨んだが、今はもう恨んでいない。怨嗟を断ち切って笑える事が、初めて清々しいと思えた。
「伊槻さんは、死にました。呉野家は異能の家系ですが、死んだ人間の事は判りません。もう言葉を交わせないのですから、その心を知ることは出来ません。伊槻さんが本当に御父様の言葉を気に病んだのか、真実は誰にも判りません。……御父様。伊槻さんの事は、もう忘れてしまってもいいのだと僕は思いますよ。伊槻さんは優しい方でした。僕が言うのも妙ですが、たとえ怒っていたのだとしても、屹度許してくれますよ」
「……。要らん気を使いおって。貴様の減らず口には毎度呆れる」
「では、三つ目の可能性の提示を以て、減らず口の主張の終了とさせていただきましょうか」
仏頂面の國徳へ笑いかけると、イズミは最後の可能性を提示した。
「御父様が何を謝っているのか、三つ目の可能性――それは、僕に『氷花さんが〝二人居る〟』と言った事です」
「……」
「僕の出国が慌ただしかった所為で、貴方とあまり話せませんでしたが、貴方が何を『誤認』したのか、今の僕には判っている心算ですよ」
父が死んだあの日、なぜ國徳が此の部屋で拘束されるに至ったか。其方についても、イズミは既に知っている。
惨劇前夜に、伊槻と杏花は、かなり派手な喧嘩をしていた。
温厚な伊槻と、天真爛漫な杏花。二人の間に勃発した親子喧嘩と、其の後の伊槻の豹変。其れらを不審に思った國徳が、翌日に伊槻の様子を気遣ったところ、背後から何者かによって頭部を激しく強打され、昏倒させられてしまったのだ。
イズミはその日の午前中に、杏花の見舞いの為に呉野家を訪れたが――どうやらあの時には既に、國徳はイズミの目の届かない所で拘束されていて、しかも伊槻は一家心中に必要な道具の調達に出掛けていたという。
其処までならば、國徳の口から直接聞いていた。
だから、此処からは。全てイズミの憶測になる。
「惨劇前夜の、伊槻さんと杏花さんの喧嘩。僕は己の異能によって、その時の伊槻さんの記憶を読み取れましたが……あの時の二人の会話、奇妙でした」
当時は制御できない己の異能に圧倒されて、まともに思考など出来なかった。イズミが二人の会話の齟齬に気づいたのは、三通目の遺書を読んでからだ。
――『君は、氷花だろう! もういい加減に止さないか! 普通がいい! そんな僕の願いを、漸く聞いてもらえたんだ! 氷花、さっきも言ったように、〝アソビ〟はもう終わりだ! 貞枝も、お義父さんも、どうして今まで拘っていたんだ……その所為で氷花だけが、今も拘り続けているじゃないか!』
――『お父様は、私と遊んでくれると言いました! 今日は、私と二人で遊んでくれるって、お母様が! なのに、どうして嘘をつくのですか! 氷花ではありません! 杏花です! 今の私は、杏花です!』
「……。御父様。貴方を殴ったのは、誰なのか。伊槻さんと杏花さんが対立するように仕向けたのは、誰なのか。そもそも、なぜ杏花さんはあれほど思い詰めたのか。……全てが、彼女の意のままに操作されていたのでしょうね」
全てが、計画的だった。父、イヴァンの来日に合わせて、巧みに操作されていた。乾いた風が吹き抜けて、國徳の白髪を揺らしていく。額が、露わになる。生々しい切り傷の縫合痕を見たイズミは、淡く笑った。
無事とは言い難かったが、生きていてくれて良かったと思う。
「貴方は、貞枝さんに利用された事に腹を立てて、同時に不甲斐なく思いながら、氷花さんの魂を誤解した事を謝っている。御父様が見たもう一人は恐らく、同じ人間の事でしょう。あるいは、現在の氷花さんを指していると言うべきでしょうか。ですが、たとえ貴方が氷花さんを見誤り、貞枝さんに利用されたのだとしてもです。貴方が僕に、それを謝る必要はありませんよ」
イズミは、國徳の目を凝乎と見た。
強い眼差しと、見つめ合う。初めて出会った少年の頃も、先月の再会の瞬間も、瞳には強さが宿っていた。今は不意を打たれたような驚きの所為か、ほんの少しだけ優しい目つきだ。其れとも其の優しさは、距離が縮まった所為なのか。何にせよ嬉しくなったので、イズミは相好を崩した。
「僕は、貴方と出会えました。貴方と出会えて、父と子の関係になりました。それ以前に祖父と孫の関係ですが、僕はこの絆、結構気に入っているのですよ。……御父様、どうか長生きしてください。僕は貴方が好きなようなのです。もっと、貴方が何を考えているか知りたいのです。一緒にいたいのです」
一息に、然う言った。最初はゆっくりと言ったはずなのに、少しずつ早口になっていた。性急な告白には、やはり若者らしい青臭さが滲んでいて、此れが本当に大人になりつつある人間の〝言挙げ〟なのかと、自問せずにはいられない。
國徳は妙に強張った顔つきで、イズミの言葉を聞いている。怒りの表情に近いが、屹度照れ隠しの顔なのだろう。見かけによらず感情豊かなのかもしれない。然ういえばロマンチストの人だった。イズミが思わず吹き出すと、國徳は此方の考えを見抜いたのか「けしからん。妙な想像をするな」と言い捨てて、颯と素早く立ち上がった。踵を返し、再び廊下を歩いていく。
「御父様、約束してください」
其の背中に、イズミは声を掛ける。國徳は振り返らなかったが、構わず声を掛け続けた。
「僕は、いずれ貴方が死ぬ時に、その死を必ずや看取ります」
「いよいよ気でも違ったか」
「口が悪いですよ、御父様。しかもその台詞、僕達の間では禁句では?」
イズミは溜息を吐いて、結局笑った。酷い言葉だったが、今日くらいは目をつぶろうと思ったのだ。
「僕が、伊槻さんに殺されそうになった時。貴方は僕を守ろうとしました。その時の言葉を、貴方は覚えていますか? 貴方は僕に、『死ぬな』と言ったのです。せめて自分が生きているうちは死ぬな、と。そして『生きろ』と言いました。……御父様。僕は、仰せのままに生きていきます。貴方の言葉に従って、生きていこうと思います。なので、貴方もそうしてください。貴方はご自分が生きている内に、僕に死んでほしくはないのでしょう? 僕も、同じ考えです。ですが、それでも僕は、貴方の死を看取ります。それが子の務めだからです。ですから、その日が来るまでは――可能な限り、長生きしてください。僕だって、家族に死なれるのは厭なのですよ。御父様は惨劇の夜に、遺言のような言葉はよせと仰いました。もう危機は去りましたから、今こそ貴方に言わせてください。御父様。僕は、貴方を、愛して」
最後まで、言わせてもらえなかった。
視界が、深い草色で塞がったからだ。
大股で戻ってきた國徳が、イズミの顔に向けて、またしても何かを突き出したのだ。古書の匂いが、ふわりと香った。
「御父様、何も見えません」
イズミは手鏡を膝の上に置きながら、抗議を込めて國徳に言った。だが、返ってきた言葉は「つべこべ云わずに受け取れ」という実に無慈悲なものだった。
孫の言葉がよほど照れ臭かったのだろうが、イズミとしては不満がある。此方はきちんと心を込めて言ったのだ。〝言挙げ〟の一つくらいは返してほしい。イズミは屹と口を引き結ぶと、顔の真ん前に突き出された物体に手を掛けた。
何にせよ、目の前の此れが邪魔なのだ。こんな物が此処にある所為で、國徳との間に壁がある。こんな物は早く取っ払って、すぐに文句をぶつけたかった。
イズミは憮然とした表情で、其れを受け取り、見下ろして――息を吞んだ。
「……家族の事を、話す」
國徳が、言った。抑揚の薄い声は、幼子へ物語を伝える克仁の声にどこか似ていた。感情を過度に込めなくとも、相手に確かに伝わる声は、魂と真心の声だった。
「私は稟の事を愛していたと、自分では然う思っていた。ただ、其の気持ちが充分ではない事も判っていた。幸せにしてやりたいと思ったが、一生かかっても出来ん事も、判っていた。……結局あれは、不幸な女のまま先立った。其れは私の罪だと思う」
イズミは、顔を上げられない。声が、雨のように降ってくる。國徳は、ただ話し続けた。悲しい家族の物語を、粛々と懺悔のように話し続けた。
「貞枝の事もだ。あいつの考えている事が、私には判らなかった。判ってやらなければならなかった。然ういう風に判っているのに、もう私には、憎むことしか出来そうにない。だが、だからこそ……貞枝があんな女になったことも、私の罪だと思う」
イズミは、顔を上げて、國徳を見る。國徳は、青天を見上げていた。
「私には、未来が見えた。ただ、其れは写真を見るように、酷く断片的なものだった。和泉。貴様はこうして此処に来た。貴様がイヴァンの形見のスーツケースを引いて、此処に来て、私を父と呼んで、此の家で共に暮らす。そんな映像が刹那『見えた』瞬間に、私は悟った。……皆、居なくなってしまった、と。貞枝も居ない。伊槻君も居ない。何が起きて然うなったのかは判らんのに、二人が死んだ事だけが、はっきり判る。――和泉。貴様が私にした要求、呑んでやろう」
國徳はイズミを見下ろすと、強い眼差しで睨みつけた。
「長生き出来るかは判らんが、出来る限り努力してやる。和泉、私を置いて先立つような間抜けだけは、晒してくれるな。貴様の云う、子の務めとやら。きちんと全うしてから死ね。其れまでは精々互いに、罪を背負って生きていくしか仕様が無い」
契りの言葉を聞きながら、イズミは声を失ったままだった。
唇が、震えた。声を上げようとした途端に、瞼も痙攣したように震え始めた。堪えきれずに、目を伏せる。滲んだ視界の中で見た、其の輝きは金色だった。
少女の声が、イズミに囁く。記憶の中で、笑みが弾けた。
――作者は、泉鏡花です。お母様が小さい頃から、お爺様が大切にしていた本だと聞いています。お母様と、お父様と、お爺様の好きな物語も、あの本に入っているそうです。本の上とか、横とか、下の部分が金色で、ぴかぴかしています。とても、綺麗なのです。
頁の隙間から、零れた写真。其の一枚の中で、笑う顔があった。
男の、黒曜石の瞳。女の、ブロンドの髪。
幼い少年の両の手を、父と母が掴んでいる。
遠い異国の空の下で、幸せそうに笑う、三人の姿は。
「……家族写真を、一度だけ見せた事がある。倅と私が映っているものではなく、イヴァンが私宛に送ってくれた、貴様ら家族が三人で写っているものだ。其れを私は一度だけ、貞枝にせがまれて見せた。今年に入ってからの事だ。伊槻君は、驚いていた。私にイヴァンがいる事が、夢物語ではなく事実だと知って、驚いていた。……貞枝は、笑っていた。貴様の髪と目の色を指でさして、綺麗過ぎてお人形さんのようだと言って、笑っていた。――そんな中で、氷花だけが。二人とは全く違った反応を見せた」
イズミは、絢爛豪華な『粧蝶集』から顔を上げた。其のようにして縁側に立つ祖父を見上げた時、皺の刻まれた手に握られた物が、此方へ手向けられていることに気づいた。
まるで、然う、花のように。
其れこそ、本物の花のように。
「氷花は、急に泣き出した。なぜ泣くのかと訊ねたら、貞枝を屹と振り返って、こう云った。――『お人形ではない』、と。頑なに其ればかりを繰り返した。此の人は、人形ではない。髪が見た事の無い色をしていても、目の色が青くても、此の男は親戚の兄さんだと、泣きじゃくりながら貞枝に云っていた。貞枝は、其の訴えを聞いても笑い続けたままだったが……今なら、作り笑いだったと判る」
其の台詞を、イズミは茫然と聞いていた。
人形ではなく、親戚の兄さん。言葉が、ぐるぐると頭で廻る。
命を知らぬはずの少女が告げた、其の台詞の意味を考えた瞬間――出逢った時から今までの思い出が、走馬灯のように脳裏を駆け巡っていった。
――お兄様は、イズミお兄様なのでしょう? 私は、知っているのです!
思えば、イズミは。あの少女から一度も、本当に、たったの一度も――己の容姿について、何かしらの指摘を受けた事が、無かった。
「氷花さんは……僕の髪や目の色について、何も言いませんでした。日本人離れした、それこそお人形さんのような色味だというのに。……何故、ですか」
「判らん。子供の気まぐれかもしれん。ただ、一目惚れだったんだろうとは、思う」
「……」
國徳の〝言挙げ〟が、記憶から一つの言葉を呼び覚ます。此の怪事の犯人が解き明かされても、たった一つだけ残った疑問。其れを疑問に思った事さえも、イズミは既に忘れていた。
九年前の八月に、少女と蕎麦屋で話した時。〝アソビ〟をすれば皆が笑うと、少女は寂しそうに笑っていた。
――お爺様は、本当は。もっと、とても優しい人です。おはなし会にも、連れて行ってくれました。天麩羅も、少しだけ分けてくれました。お爺様は、本当は。もっと、笑う人なのです。知っています。神社の素敵な服を着て、お外を歩くお爺様は……いろんな人に、笑っています。少しだけ、笑っています。……お兄様。お爺様の笑顔も〝清らか〟です。お兄様と、少し似ている笑い方をしています。
――お父様も、本当は。もっと、とても優しい人です。今も優しいお父様ですが、前の方がずっと優しいお父様でした。今は、少し寂しいです。お父様の〝清らか〟を、私は見つけなければいけないと思います。
――お母様は、一緒にいて一番楽しいです。幼稚園の友達といる時も楽しいですが、お母様の方がいいのです。お母様も、笑ってくれます。遊んでくれます。私と、一緒にいてくれます。……でも、私。
お兄様が、一番好きです。
イズミは、回想する。其の台詞に、己が何と返したのか。
――本当に、呆れる程の偏屈だと思う。
此の感情に疑問を呈しても、得られる答えは何もないのに。
「あれは屹度、厄介な女になる。貴様の先行きは波乱塗れだろうが、純真無垢だった頃の好意くらいならば、受け取ってやってもいいと思う」
國徳はイズミの手を取ると、赤い風車を握らせた。そして着物の袂に手を入れて、折り畳まれた半紙を取り出した。
差し出された半紙を、イズミは受け取る。墨の香りが、鼻腔を掠めた。
「あれの部屋にあった。まだ幾らか綺麗に書けているものを選んだ心算だ。他は、きりが無いから捨てた。……要らんなら、貴様が燃やせ。処遇は任せる」
皺が寄ってくしゃくしゃになった半紙を広げると、其れは一枚だけではなかった。赤い風車を持ったまま、イズミは半紙の束に目を通す。
一枚目は、人の名前だ。
――『貞枝』と、大きな字で書かれている。
母の名前を、練習したのだろう。イズミは其の半紙を捲って、二枚目を見た。
――『伊槻』
今度は、父の名前だ。其の次の三枚目には、『くにのり』と平仮名で書かれている。漢字が難しかったのかもしれない。四枚目を捲り、思わず目が点になる。
次は、『天麩羅』だったからだ。
何故『くにのり』は平仮名なのに、もっと難解な字が漢字なのか。わけが判らず、吹き出した。笑いを堪えたまま五枚目を見ると、現れたのは『泉鏡花』だった。嗚呼、と呟いてイズミは頷く。習字らしさが戻ってきた。
そして、六枚目。次が最後だった。
イズミは『泉鏡花』の半紙を捲り、墨痕鮮やかな其の言葉が、眼前に踊った時――拍子抜けの顔で、最後の半紙を見下ろした。
「……カタカナ。書けるではありませんか」
読み書きは出来ないと、言っていたのに。
だからこそ、練習したのだろうか。畳に座して、筆に墨を吸わせて、名前をきちんと書けるように。イズミは、肩を震わせて笑った。
本当に、聡明で、健気な子だと思う。
「ですが、駄目ですね。字が汚すぎます。僕の名前だけなら文句は言いませんが、僕の名は、父の名も含んでいますから、この乱暴さはいただけません。……それでも、屹度。たくさん書いたのでしょうね。その努力に免じて、僕は、彼女の事を……許さなくては、いけないのでしょうね……」
声が、つっかえる。其れでも俯いたまま、話し続けた。
「……僕は。あの子の事が、本当に可愛かったのです。愛らしかった。憎からず思っていました。あの子は聡明で、ですが何も知りませんでした。僕が教えてあげられることは、もっとたくさんあったはずなのです。彼女の〝清らか〟を、僕は守ってあげられたはずなのに。間に合うことが、出来ませんでした」
「……泣くなら、余所で泣け」
國徳が、ふいと目を逸らす。そして「ソーニャに似た顔で、泣かれては敵わん」と吐き捨てたので、イズミはぽかんと國徳を見上げた。
「御父様。……ソフィヤ御婆様の事を、ソーニャと呼ばれていたのですか?」
失言だったのだろう。國徳の肩が軽く跳ねた。「知らん」と片言の口調で言われたので、イズミは思い切り笑ってしまった。
「御父様。僕の顔は、ソーニャ御婆様に似ているのですか?」
「知らんと云っている。黙れ」
「色んな方に、似ていると言われた夏でした。ですが、今の言葉が一番嬉しかったですよ」
言い終えると、イズミは立ち上がった。
清らかな家族の絆が、今も変わらず此処にある。そんな『愛』の所在を知っていれば、此れからも屹度生きてゆける。
ならば。未練は、此処で断つべきだ。
古書と手鏡を縁側に残して、イズミは歩く。國徳から受け取った半紙の束と、もう一つの物を抱えて焚火へ近づき、一度だけ祖父を振り返った。
「御父様。……風車。拾ってくださり、有難うございました」
「いいのか? イヴァンからの贈り物、其方は燃やす事もなかろう」
「いいえ。これは、僕の物ではありません。僕の従妹へ譲ったものです。先程、僕には燃やす物など何もないと言いましたが、それは僕の間違いだったようです」
炎の前に、和泉は立つ。
焼け崩れた浴衣は、殆ど形が残っていない。炭化した残骸の中で、火勢がみるみる弱まっていく。其れでも確かな熱を宿す光の前で、透明な陽炎が揺らめいた。
――遊んでくださいな、お兄様!
声が、脳裏に響いていく。
――仰せのままに。杏花さん。
其の声に応える、己の言葉も響いていく。
過ぎ去った夏の鮮やかな記憶を抱きしめながら、イズミは半紙を炎に落とした。名前が、燃えていく。そして消えてなくなっていく。嗚呼、と後悔と惜別の念から出た声は、やはり未練の声だった。
もう、二度と遊べない。
清らかな少女は、もう居ない。
罪で穢れていない清らかなあの娘は、もう、何処にも居ないのだ。
未練を断つ為の、別離の言葉。哀悼を込めて、魂を込めて、イズミは其の言葉を〝言挙げ〟した。
「左様なら。杏花さん」
風車を、火に翳した。
イズミが手向けた赤い花は、花弁に炎を静かに纏い、やがて燃え落ち、消えていった。
【第4章・清らかな魂:END】→
【NEXT:第5章:最終章・花一匁】




