呉野氷花のラスコーリニコフ理論 2
HRが終わるとすぐに、教室から早足で退出した。
追いつかれては困る。そう思っての行動だったが、相手も簡単にこちらを逃がす気はなかったらしい。
「柊吾!」
慌てた様子の声が、背後から聞こえてきた。変声期を迎えても、この級友の声は少し高い。身体の線の細さも相まって、女子のようだと時折思う。
――無視する。
振り返らずに大股で歩く度、肩から提げた学校指定の通学鞄が、胴に当たってぱかぱか揺れた。「柊吾ってば! 待ってよ!」ともう一度声が掛かったが、当然それも無視だ。他の行動などあり得ない。それでも小走りでついてくる足音から逃げてやろうかと思ったが、意地を張って足を早めるのも癪だった。それに無理やり振り切って撒いたところで、後々《のちのち》余計に面倒なやり取りを強いられるに決まっている。ここで相手をするのも同じくらいに面倒だが、ともかく。
先に片付けるか、後で片付けるか。
……先に片付けた方が、少しはマシか。
そうやって、雑に結論付けると――三浦柊吾はようやく、背後のストーカーを振り返った。
「待ってって……言ったのに……!」
日比谷陽一郎は、泣きそうな目で恨み言をぶつけてきた。青と白のチェック柄のズボンの膝に、苦しげに両手をついている。白シャツの薄い胸板が上下しているので、小走りではなく本気で追ってきたのだろうか。廊下の端から端までの早歩き程度で、軟弱なことだと思う。柊吾は不機嫌を隠さず鼻を鳴らした。
「じゃあ、ついて来なきゃいいだろ」
「だって……柊吾、逃げるから……」
「……」
こいつから逃げてやろうか、と。先程自分でも思ったところだ。だが実際に目の前の人間から言われてみると、承服しかねるものがある。柊吾はぎろりと剣呑な目で、色白の少年を見下ろした。言ってくれるものだと思う。
「おい、用がねえなら帰るぞ。俺、急ぐんだけど」
こちらの声音が恫喝を含んでいたからか、陽一郎が怯んだ。自分は柊吾の機嫌を損ねるような事を言っただろうか。そんな風に気を揉んで、まごついているように見える。裏表なく人と接する陽一郎は、思考がすぐに顔に出る。その狼狽も、戸惑いも、手に取るように分かりやすい。
だが、逆は無理だ。柊吾には陽一郎の考えが分かったが、陽一郎にはきっと分からないだろう。何故、柊吾が気分を害したのか。何故、接触を避けているのか。そして何故、逃げるのか。陽一郎には、分からない。分かるわけがない。
――分かって欲しくないとも言う。
そのエゴには自覚があったが、それらを全てひっくるめた総合評価によって、今の柊吾は陽一郎が嫌いだ。大嫌いだと言ってもいい。近寄りたくないし、極力会話をしたくない。いや、極力どころではなく、何も話したくないのだ。口など利きたくないし顔も見たくない。そういうレベルで柊吾は今、陽一郎が嫌いだった。幼馴染同然の友人をこれほど嫌う日が来ようとは自分でも驚きだが、拗れてしまったものは仕方がなく、しかも腹を立てているのはこちらだけなのだ。そんな独り相撲の怒りを抱えて、一体どうしろというのだろう。
決まっている。無視だ。何も言わなければいい。このまま関係を断てばいい。簡単なことなのだ。それで万事が丸く収まる。それなのに、ひょろひょろとした痩躯で立ちはだかって柊吾の帰宅を邪魔立てし、関係を容易には断たせてくれない日比谷陽一郎が、この上なく憎らしかった。
「だって、その……えっと」
陽一郎は、歯切れ悪く言葉をぶつ切りにして、俯いて押し黙り、口を開いてはもごもご喋る。掛ける言葉を探しあぐねて途方に暮れている姿は、死病を患った家族へ病名を告げる医者のようだ。その印象は、おそらく惨いくらいに正解だ。柊吾の声は、自然と尖った。
「陽一郎」
「え、何?」
「雨宮の事をわざわざ言いに来たのか? 俺に」
先手を打つなり、陽一郎の顔が青くなった。大当たりらしい。それ以外に予想のしようもなかったが、露骨な反応を目の当たりにした柊吾の心は、激しい苛立ちで黒く染まった。
「うん。えっと……撫子の、ことだけど」
――撫子。
歯に物が詰まったような言い様は、何も女子生徒の名を呼び捨てにする事への抵抗ではない。やはり柊吾への配慮によるものだ。陽一郎本人は配慮だと信じて疑っていないだろうが、こちらからすれば配慮の皮を被った偽善にしか聞こえない。よって、最後まで聞いてやる義理はなかった。
「柊吾、あの、僕は……」
俯く陽一郎が何か言いかけたが、柊吾は廊下をずんずん進んで階段を下りた。「柊吾ぉ!」と哀願を含んだしつこい級友の呼び掛けを、ひたすらに無視して一階を目指す。
無視しなければ、何を言うか分からなかった。今、こんな精神状態で陽一郎と会話を続ければ、柊吾は間違いなく暴言を吐く。自分でもそれがどれほど格好が悪くて惨めな姿か分かるのだ。そんな情けなさで爛れただらしのない心を、陽一郎なんかに気取られたくはないのだ。
もう既に気取られていると、心のどこかで気づいている。
だがだからといって、そんな弱みをむざむざ晒してやる気にはなれなかった。傷ついていると哀れまれ、陽一郎に気遣われるくらいなら死んだ方がマシだ。乱暴な足取りで歩く柊吾の姿を、すれ違う生徒達が怪訝そうにちらりと見た。
最近背がめきめき伸びた事もあり、柊吾は中学二年生ながらも高校生に引けを取らないほど身体つきががっしりしている。大柄だと何かと目を引くのか、視線を集めてしまう場面もかなり多い。それ自体は慣れているので何とも思わないが、今のように機嫌がすこぶる悪い時に限っては、同じようには思えないから難儀だった。見るなよと舌打ちでもしたい心境だったが、無作為に八つ当たりの対象を広げても仕方がないので、一階に着いた柊吾は生徒達の下校ラッシュでごった返す昇降口へ分け入ると、下駄箱からローファーを取り出した。
その時、野太く溌溂とした声が、急ぐ柊吾を呼び止めた。
「あ、三浦!」
今日は、背中に声をぶつけられてばかりだ。今度も声だけで相手が判ったので、柊吾は振り向く。陽一郎の時のように、おざなりにはしなかった。
「監督」
窓から入る外光で白々と輝く青磁色の床に立っていたのは、野球部の監督である森定だった。体育の授業を受け持つ男性教師だが、野球部で顔を合わせる時間の方が圧倒的に長いので、部活以外でも柊吾は監督と呼んでいる。体格と顔の造形がいかつい教師は、眠たげな猫のように相好をふにゃりと崩し、「よお」と軽い調子で声を掛けてきた。
柊吾は我に返り、少し焦った。このままでは、陽一郎に追いつかれる。またあしらえばいいだけの話だが、できれば今日はもう陽一郎の顔など見たくない。高めの声が耳朶を打ち、ざらざらと心が濁る感触をまざまざと思い出す。クラスで顔を突き合わせる度、何度も、何度も、何度も。
今日はもう、うんざりだった。
「監督、すみません。俺、急いでるんでっ」
早口で言い捨てて、素早く靴を履き替える。「休みは聞いてたが、そんなに急ぐ用事だったか?」と森定は呆れ声で首を捻った。ポロシャツの前で組まれた腕は、日に焼けて浅黒い。柊吾も日焼けしているが、森定ほどではない。柊吾はローファーの爪先でとんとんとタイルを小突きながら、謝った。
「練習、今日出られなくてすみません」
「いや、別にそれはいいんだ。届けも貰ってるしな。他のメンバーも三浦くらいきちんとやってくれたらいいんだがなあ」
屈強な体格に似合わず、人懐こさを窺わせる円い声で森定は言う。のんびりした声を聞いているだけで、焦燥感が倍増した。振り返ったら案外近くに、陽一郎の姿が見えるのではないだろうか。
「すみませんっ、本当に時間無いんで、明日必ず聞きます!」
「ああ、そうだったな。すまなかった」
切迫した柊吾の声を聞いた森定は、ふと我に返った様子で謝ってきた。柊吾はがりがりと短い頭髪をかき回すと「いえ、すみません」とこちらも謝り、悪いとは思ったが通学鞄を肩に提げ直し、昇降口へ身体の向きを変えた。
「三浦」
森定の声が、再び柊吾の背中を引き留めた。
まだ、何か用があるのだろうか。柊吾は振り返りかけたが、潜められた声が耳に入り、動きを止めた。
「……推薦の事。急かすわけじゃないんだが、できるだけ早めに返事をもらえないか? もちろん三浦の将来の事だし、親御さんときっちり話し合って決めてもらわないといけないんだがな……また近いうちにでも、今どういう風に考えてるのか、三浦の考えを一度聞かせてくれないか?」
森定が柊吾に向けた顔は、普段通りのものだった。快活で、豪胆で、それでいて穏やかに笑う、部活の監督の顔だった。
同じように笑って見せるには、今の柊吾には余裕がなさ過ぎた。それでも強張っていた顔の筋肉が僅かに解れ、柊吾は口の端を少し持ち上げると、森定に身体ごと向き直った。
「近いうちに、ちゃんと決めます。待たせてすみません」
「ああ、謝るな謝るな。明日の部活、皆で待ってるぞ」
「……はい。失礼します」
鷹揚に笑う森定へ、柊吾がようやく笑みを返せた時だった。
「柊吾!」
背後から声が三度、柊吾の背中を叩いた。
やはり、接近されていた。胃の底へ落ちた苦渋が、ヘドロのように重く溜まる。柊吾は昇降口の扉をくぐり、正午過ぎの青天の下へ、校舎の外へ踏み出した。相手はまだ上履きのはずだ。外までは追ってこないだろう。
だが、背後の声は柊吾の予想を覆す執拗さを見せてきた。
「柊吾! ……待って、柊吾ってば! 聞いてほしいんだ!」
まだ呼んでいる。まだ諦めていない。三浦柊吾を呼んでいる。下校中の生徒達が昇降口を振り向いたが、人目を憚りながらの陽一郎の声は、初夏を謳歌している蝉の音よりもずっと小さく控えめで、気に留めていない者も多かった。柊吾も聞こえない振りを決め込んだが、陽一郎はめげなかった。「柊吾!」ともう何度目かも分からない呼び声が、背中に叩きつけられる。
この段になってようやく、柊吾は陽一郎の態度を訝しんだ。校舎を出た時点で勝ちだと決め込んでいたが、何かがおかしい。普段の陽一郎なら間違いなく、人目を気にして諦める頃合いだった。
――さすがに、しつこ過ぎる。
日比谷陽一郎は普段から天真爛漫で能天気な人柄で、優しい面立ちとなよなよした頼りなさは、クラスの誰もが知っている。どん臭さから悪目立ちすることも多々あるが、本人は進んで目立ちたいとは思っていないはずなのだ。
そんな陽一郎が突然見せた切迫感と必死さが、柊吾の肝を不穏に冷やした。校庭に続く緩い坂道を下ることに専念すると、背後の息遣いに、焦燥が混じった。
「僕! 考えてたんだ! ……撫子のこと!」
――関わってはいけない。
直感だった。義務感にも似ていた。しかし、その嫌な予感から、柊吾はついに逃げ切れなかった。
「別れよう、と、思う」
――ぴたりと、柊吾は足を止めた。
「撫子と、別れようって、考えてる……」
――迫るのは、一瞬だった。
空気が切れる音がして、色を残して景色が崩れる。素早く振り返って見上げた場所で、昇降口から出てくる生徒の群れに、幼馴染の痩躯を見つけた。柊吾はこちらの権幕に息を呑む陽一郎の元へ、一足飛びに舞い戻って肉薄し、シャツの襟首を鷲掴みにした。
ぶつんっ――と、糸が引き千切られる音が弾け、ボタンが一つ、硬く強張った手の隙間から零れていく。地面で数度跳ねたそれは、ころころと転がり、溝に落ちた。近くから女子生徒の短い悲鳴が上がり、目の前の人間は呼吸が気道を抜けるヒュウッという音だけを漏らして怯えている。他愛のない同級生の襟首をきつく絞め上げながら、柊吾は低く言った。
「今。なんつった」
陽一郎の唇は青く、微かに覗いた歯はかちかちと噛み合わさるばかりで、そこからは言い訳の言葉さえ一片も零れ落ちて来なかった。その狡さが凄まじい怒りに直結して、柊吾の方も感情で喉が塞がれる。このまま陽一郎を、力任せに殴ってしまいたい。爆発的な勢いで思考を圧迫した欲求を、柊吾は懸命に堪える。陽一郎の襟首を掴む手に過剰な力を込めることで、張り詰めた糸のような今にも切れかけの自制心で、衝動をがむしゃらに抑え込む。
一触即発の沈黙は、そう長くは続かなかった。
「三浦」
まだこちらを見ていたらしい森定に、静かな声で呼ばれたからだ。
柊吾が無言のまま見上げると、緩やかな傾斜の上、昇降口の扉前から森定はこちらを見下ろしていた。先程までの柔和さが鳴りを潜めた顔は、確かな厳しさを孕んでいた。
だが少なくとも柊吾には、森定が怒っているようには見えなかった。理知的な眼差しに諭されて、真っ向から目が合うと――力が、一気に抜けていった。
馬鹿なことを、したと思う。こんな吊し上げに、意味など皆無だ。
「……聞かなかったことにしてやる」
柊吾は吐き捨てると、青い顔の陽一郎から手を離した。
放り捨てられる格好になった陽一郎が、激しく咳き込む。大げさな声が響いて初めて、柊吾は下校途中の生徒達が、はらはらとこちらの様子を窺っていたことに気がついた。視界の端に映る森定の日焼けした顔は、まだ真剣みを帯びたままだったが――僅かに労しげな感情の色がそこに含まれているのを認め、奥歯を強く噛みしめた。
――森定にまで、事情を知られているのだ。
何だか余計にやりきれず、何もかもが疎ましかった。目の前の陽一郎も、こんなつまらない喧嘩を見ている同じ学校の生徒達も、仲裁の言葉を掛けずにただ諍いを制した森定も、そして、この自分さえも。柊吾は踵を返し、全てから背中を向けて、轟然と歩き始めた。
――これでは本当に、逃げているようだ。
自嘲気味に、そう思った。
*
袴塚西駅に着くと、人通りが緩やかな改札口を素通りし、待ち人の姿を探した。
待ち合わせの時刻は十三時。図らずも急いで学校を飛び出してきたので、十五分も早く着いてしまった。相手はまだ現れていないかもしれない。
待ち人は何に対しても大雑把なので、待ち合わせの時刻を決めた時も「十三時前後くらいで」と気楽に言っていた。本人いわく、分度器で角度を測るように何かを正確に定めるということが苦手らしい。意味はあまり分からないが、漠然とした共感は呼ぶ言葉だった。
柊吾にもできないこと、苦手なことはある。その最たるものが学校の勉強だ。決して成績が悪いわけではないが、どんなにテスト前に根を詰めても、順位は中の上が限界だった。きっと勉強の仕方や要領が悪いのだろう。
ともかく、柊吾にとっての『勉強』が、相手にとっては『時間』なのだ。その程度の些事にまで神経を尖らせていては、自分は近々、限界を迎える。野球がストレス発散になれば良いのだが、今はそちらに意識を回すことも、煩悶を助長させるだけだった。重い思索に意識が引き摺られかけた時、午後の穏やかな喧騒を掻い潜って、聞き慣れた波長の声がした。
「シュウゴ」
はっと辺りを見回すと、駅前ロータリーの隅に白い車を見つけた。運転席から出てきた中肉中背の男が、こちらへ片手を挙げている。助手席には白いワンピース姿の女性もいた。早く着いたつもりでいたが、一番遅れていたようだ。頷いた柊吾は、くすんだコーラルピンク色の煉瓦で舗装された道を走る。細長いプランターで咲く薄紫のデイジーの傍を通り過ぎ、あっという間に男の正面に到着すると、余所行きの笑みを形ばかり浮かべて見せて、すっと浅くお辞儀した。
「ユキツグ伯父さん。お久しぶりです」
「なんだお前。敬語なんか使いやがって。つれねえなあ」
せっかく礼儀正しく振る舞ったというのに、つっけんどんにあしらわれた。憮然とした柊吾が「なんだよ」と悪態を吐くと、「ん、やっぱりそういう喋り方の方が落ち着くよ」と快活に答えた男は、目尻に微かな小皺を刻み、柊吾の短い髪を撫でた。
あまり好きな仕草ではないので、柊吾は抗議の意味を込めて、手を軽く振り払う。慣れている男も肩を竦めて「反抗期か?」と茶化してきたので、歯をむき出しにして笑ってやった。
「そりゃあ、まあ。中二だから」
「おお。真っ盛りじゃん。それなら仕方ねえか」
拳を突き出してくる男へ、柊吾も同じように拳を突き返す。二人でじゃれ合っていると、ぶーん……と機械の作動音が聞こえ、車の窓が開いた。助手席に座った人物が、カンカン照りの下で小突き合う中年男と中学生男子の二人を、微笑ましげに見つめている。少し照れ臭くなった柊吾は、ぶつけ合っていた拳を、ズボンの横に下ろした。
「恭嗣義兄さんったら。いつまで柊吾をからかってるの」
日差しの熱気がアスファルトから立ち上る中で、蝉の音と混じり合ったその声は、風鈴のように涼やかだ。軒先に水を打つような清涼感を、かつて別の人物に対しても連想した事を思い出して、息が止まる。既視感を振り切る為に頭を振ると、車内の人物の笑みがほんの一瞬静止したが、やがて薄く笑ってくれた。
「おかえりなさい。柊吾」
「ただいま。母さん。ユキツグ伯父さんも」
「俺はついでか。生意気になったもんだな」
豪快に笑い飛ばされ、柊吾も釣られて少し笑った。後部座席の扉を開けて車内に入ると、白シャツから伸びる剥き出しの腕に、空調の冷えた風が吹きつける。
「これから、何を食いに行くんだっけ?」
「中華よ。もう、柊吾がラーメンと餃子を食べたいって言ったからお店決めたのに。すぐ忘れちゃうんだから」
「ああ、そうだっけ。ごめん」
通学鞄を座席の空いた所へ投げ出した柊吾は、助手席の黒髪をぼんやり眺める。肩の辺りで丸く切り揃えられた、線の細い柔い髪。艶やかな毛先が掠める、白くほっそりとした項。
華奢だと思う。授業参観で見た同年代の母親達の、誰より華奢で脆いと思う。その感想は多分だが、これからも変わらないのだろう。変わる日が来ればいいと切に願うが、今のところ柊吾の願いは叶っていない。
「シュウゴも来たことだし。行くか」
音を立てて扉が閉まり、初夏の日差しが遮断された。快適な温度に調整された影の内側から眺める駅前は、陽光に炙られて輝いて見える。街路樹の葉が落とす影には、夏空色が映っていた。何となく、そちらに行きたいと柊吾は思う。そちらの方が、気持ちがいい気がした。発車の振動に身を任せ、背中を座席のシートに埋めると、柊吾はミラーに映った顔を見る。運転席に座る男の目は、猫に似たアーモンド形で、子供のような茶目っ気を含んでいる。普段はあまり意識しないが、ほんの少し、父に似ていた。
――まだ、三年も経っていないのだ。
もっと経った気もすれば、まだまだ全然経っていない気にもなる。どちらだか分からないのが何だか奇妙で、感情も上手く働かない。毎日が忙しいから、麻痺してしまったのだろうか。がむしゃらに生きるということは、代償に感覚の鈍磨を受け入れるということだろうか。柊吾は感情を思い出そうと自分の心と向き合ってみるが、回想して掘り起こされる感情は、母の涙を伴っている。すぐにやり切れなくなって、思考を放棄した。
今は、目先の団欒に集中した方がいい。
伯父との会食は、一か月ぶりだっただろうか。車窓から眺める駅の景色が流れ去るのを、空っぽの心で柊吾は見る。
そして、笑顔で会話を振ってくる男、三浦恭嗣――死別した柊吾の父、三浦駿弥の兄――の言葉が聞こえてきたので、無為な思索をさっぱりと断ち切ると、会話に応じる為に、そちらを向いた。