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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第4章 清らかな魂
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清らかな魂 30

 遺書は、其処そこで破れていた。

 続きの言葉は千切り取られ、紙が大きくひしゃげている。

 克仁かつみが無言でイズミを見たが、イズミは首を横に振った。

「……それより先は、ありません。ですが、無くていいと思います。そこから先は、全部同じ調子なのですよ。イヴァンお父さんへの遺書のはずが、途中からは杏花さんへの怨嗟でした。それが延々と便箋びんせん数枚分に渡っています。國徳くにのり御父様と一読した後で、続きは僕達で焼きました。それでも前半部分を残したのは、いつか貴方に真相を明かす時が来たならば、見せる必要があるだろう、と。二人で判断したからです」

 克仁は、表情もなく便箋を畳む。そしてジュースとかき氷が載った盆の上に、投げやりな手つきでれを放った。

「僕に、返してはくださらないのですか?」

「ええ。返しません。れは私が一階に持っていって、後でコンロの火で炙ります。私にも是非、焼き打ちにさせてください。せめてもの八つ当たりですよ」

 克仁は、の台詞を最後に黙ってしまった。イズミもまた、黙り込んだ。

 開け放した窓の向こうで、ひぐらしがしめやかに鳴いている。女のすすり泣きのような哀愁が揺蕩たゆたの和室に、もう言葉は要らないと思っていた。

「イズミ君」

 って、克仁から小声で呼ばれた時、イズミの心には穏やかな驚きが拡がった。心地よく停滞した時の中で、克仁の時間は動いていた。れが意外だったのだ。

「何ですか、克仁さん」

「いえ、君を呼んでみただけですよ」

「はい?」

 イズミは目を瞬くと、珍妙なことを言った養父へ、溜息を吐いて見せた。

「何を仰っているのですか、貴方は。何か不安に思うことでもあるのですか」

「いいえ、何も。……いや。先ほど君は、意味深なことをいましたから。不安がないわけではありませんよ。ただ、せっかく家族が帰省したのです。声が聞きたいと思うのは、親として当然の感情ですよ」

「何を、貴方は」

「寂しいですね」

 克仁は、言う。イズミの言葉を遮って、ふわりと優しく微笑した。

「寂しいですね。家族を亡くすのは。とても、寂しいことですね。……イズミ君。君は、とてもよく頑張ったと思いますよ」

「頑張った? 僕がですか?」

「ええ。父親があんな目に遭ったのです。君は頑張ったと思います。イヴァンはやはり幸せ者ですね。あんなにも清らかな言葉を、最後に君から貰う事ができて。羨ましいと思う程です」

してください、克仁さん。年甲斐もなく泣いてしまったら、一体どうしてくれるのです」

「泣けばいいじゃあないですか。君は全く、妙なところで強情張りですね」

 呆れた口調で、克仁が言う。イズミとしては、呆れたいのは此方こちらの方だ。狡猾。悪童あくどう。強情張り。おまけに野心家とまで言われていた。本当に散々な評価だった。声を忍ばせて笑っていると、克仁も一緒に笑い始めた。

 密やかな笑い声が、夏の夕べに流れていく。イズミと父と克仁の三人、夕餉ゆうげの食卓を囲んだ記憶が蘇る。家族団欒の再現のような温かさが、和室へ薄らと満ちていく。黄昏たそがれが室内に夜を運び、闇の気配が深くなる。線香花火に似た夕日の残光の赤さはまるで、命のように薄幸だった。家族の、命のようだった。

「……」

 ――家族。の絆を妬ましく思った、一人の哀れな鬼の女。

 の女の怨嗟が、全てを壊した。イズミの最愛の家族を殺して、皆を破滅させたのだ。イズミがれを知ったのは、全てが終わった後だった。

 だが、貞枝への憎悪の感情は、ほとんどと言っていいほど湧かなかった。れこそ妬ましく思っても不思議ではないのに、イズミは貞枝を恨まなかった。否、流石さすがれは嘘だった。屹度きっとイズミの本心は、貞枝を憎いと思っている。

 ただ、感情が判然としないのだ。掴めはするが、手応えがない。実感が、すこんと抜けていた。まるで硝子がらす越しに、女の艶姿あですがたを見るようだった。貞枝の事が、よく見えない。人としての魂の輪郭がぼやけていて、そんな抽象的なものが破滅をもたらしたという事実が、いまだに信じられなかった。

 れとも、こんな風に思うのは、当時の〝言挙げ〟の所為だろうか。少女と呪われた絆を結ぶ為に、己が紡いだ長い台詞を思い出す。

 ――『憎悪』を、捨てる。

 杏花の清らかさを、拾う為に。れをいつか、返す為に。

 憎悪は、毒だ。〝清らか〟を食い潰す。悪感情を心へ溜め込み、何処どこにも吐き出せないままとどめたなら、其処そこで淀んで腐敗する。國徳くにのりが、イズミに教えたのだ。悪辣あくらつな〝言霊〟だけでなく、濁りを極めた感情もまた、己の心を壊すだろう。

 そんな負の感情は、美しい言葉を生みはしない。言葉に、魂が宿らない。清らかな魂が、宿らない。れはとても寂しいことだと、イズミは何度でも思うのだ。

「克仁さん。貴方は、貞枝さんを憎んでいると思いますが……僕は、もう判りません。疲れ過ぎたからかもしれませんし、僕が人を恨まぬと決めた所為かもしれません。……克仁さんは。貞枝さんの事を、どう思いますか」

 何となく克仁に訊ねた直後、嗚呼ああ、またやってしまった、とイズミは己の失敗に気づいて苦笑した。論点のけた問いかけは、確かれで二度目だからだ。

 一度目は、父が来日の意向をイズミにしらせた時の事だ。

 あの国際電話で両親の離縁を知った時も、感傷の理由を追及しようと、イズミは母の名を挙げて訊ねたのだ。どんな答えが欲しいのかさえ判っていない体たらくで、闇雲に手を伸ばそうとするの足掻きは若さだろうか。本当に、イズミは青年のままだった。凍って時が止まったように。呆れ笑いしか出て来ない。

 れでも、克仁は答えてくれるだろう。九年前と、同じように。

 だが、克仁はイズミに答えを与えなかった。此方こちらが期待したものとは異なる別の言葉を、溜息のような優しさで、ひっそりと告げただけだった。

「……イズミ君。君は先程、私の言葉が致命的な矛盾を含んでいるといましたね。の矛盾を明かしてしまえば、此処ここで私達が話してきた事、全てひっくり返りますよ。れでもえて、いましょうか」

 イズミが黙っていると、克仁は苦笑いを浮かべた。イズミが疲れたように、克仁もまた疲れたのだ。〝アソビ〟疲れてしまったのだ。

「あの夜、貞枝さんは氷花さんの〝言霊〟を誘って、伊槻さんと共にの世から消えました。失踪者扱いになって既に七年以上経ちますし、國徳くにのりさんが伊槻いつきさんの遺族と相談してから、彼等の死亡届けを出したと聞いています。……なるほど確かに、矛盾しますね。『皆、居なくなっちゃえ』とわれて、伊槻いつきさんが消えるのは道理でしょう。ですが、もう一人の方は道理に合わない」

 克仁は、嘆息した。微かに訝しげに、れでいて同時に不服そうに。

「一体、どういうわけでしょうね。〝同胞〟であり、〝言霊〟が効かないはずの貞枝さんまで、一緒になって消えるとは。実に不可解です」

「……その矛盾、貴方はどう解明するのです?」

 イズミが問うと、克仁は疲れの浮いた顔で「何、簡単なことですよ」と答えて、丁寧に説明してくれた。

「〝同胞〟には、異能は効かない。の大前提は、一体誰が作ったというのです? 実際に、呉野貞枝は〝言霊〟で消えましたよ。事実が証明しているのですから、〝同胞〟であれ他者から受けた異能の影響力は、決して皆無ではないという事でしょう」

「ですが、克仁さん。僕に氷花さんの〝言霊〟が効いた事はありませんよ。何度も死ねと言われていますが、何の問題もありません」

「君は携帯電話解約の件で、相当な恨みを買いましたからね。君、氷花さんが陰で泣いていたことを知らないでしょう。悪戯いたずらに苛めるものではありませんよ」

 克仁はイズミを嗜めながら、当時の遣り取りを思い出して可笑しくなったのか、小さく吹き出す。うして一頻ひとしきり笑ってから「普通ならば、効かないのだと思いますよ。〝同胞〟同士での異能は」と切り出した。

「〝同胞〟同士では異能は効かないという大前提は、異能の家系、呉野の人間たちの経験から得た解釈です。おおむね間違ってはいないはずですが、例外もあるという事でしょうね」

「貞枝さんが〝言霊〟で消えたケースは、その例外だったというのですか? どういう条件が揃えば、そんなことになるのです」

 克仁は、しばし黙考の姿勢を見せた。

 異能がもたらしたの怪事を、克仁は可能な限り論理的に解釈しようと努めていた。何かしらの考えがあるに違いない。ただ、れを口にしていいものか迷っている。葛藤かっとうと呼ぶには大げさだが、克仁にはの答えを告げるに足るだけの証拠がないのだ。付き合いの長さから、イズミはれを悟っていた。

 長くも短くもない沈黙の果てに、克仁は「恐らくは、『同意』ではないですかね」と、思案気な様子のまま言葉にした。

「あの時の貞枝さんは、氷花さんの〝言霊〟を受け入れる気でいました。彼女の異能にって破滅することを受け入れていて、の異能への拒絶と抵抗は、あの瞬間、彼女の心には欠片もありませんでした。――魂の込められた言葉を、受け入れること。れこそが、〝同胞〟同士であっても己の異能を相手に届ける為に、必要な条件なのではないか、と。推測することは可能ですが……やはり、憶測の域を出ませんね。せめてもう一例ほど実例を見ないことには、断言するには厳しいでしょう」

「……」

 なるほど、とイズミは得心した。一理あると思ったのだ。

 ――言葉に込められた魂を、拒絶せずに受け入れる。

 懐かしい記憶が、脳裏をさっと駆け巡った。の知識を授けたのも、思い返せば克仁だった。確か、真名を〝言挙げ〟するだけでも、言葉に魂が宿るという。そんな剥き出しの魂を守る為に、異性に名を明かしてはならない。の行為は、己の全てを相手に委ねることになるからだ。

 魂の支配を、許してしまう。そんな風にも、取れる行為。

 まるでちぎりのような遣り取りから、明瞭に蘇る言葉が、たった一つ。

 ――コトダマアソビ。

 イズミと杏花の、二人の〝アソビ〟。

 貞枝が消えた理由は、本当に克仁の言うような理由なのか。確かに根拠はないだろう。だが、正鵠せいこくているとイズミは思った。九年前に消えた女も、屹度きっと其の正しさを信じたのだ。だから、あんな賭けに出た。

 もし、の賭けに敗れて〝言霊〟で死ねなかった場合は、宣言通りに『伊槻いつきを殺して自分も死ぬ』心算つもりでいたのだろう。其処そこまで思索が行き着くと、酷く空虚な気分になってしまった。

 ――貞枝が〝言霊〟で死ねば、の死は杏花の所為になる。

 だが、たとえ〝言霊〟で死ねずに伊槻との無理心中を選んだとしても、あの時の貞枝は〝言霊〟による狂気を演じていた。杏花の罪を偽装したのだ。

 ――〝言霊〟で死のうが、無理心中で死のうが、どちらにしても同じなのだ。貞枝によって着せられた親殺しの罪は、等しく杏花の魂をけがしている。

 そして、あの時の貞枝は――の両方を、やってみせた。

 克仁も同じことを考えていたのか、顔が悔しげにしかめられた。

「恐ろしい程に、計算()くの殺人です。事態がどう転んでも、氷花さんの罪になるように出来ています。……怖い女です。本当に」

「ええ。そうですね。ですが、その事実をもってしても、僕は氷花さんに同情はしていませんよ。……杏花さんには、していましたが」

「……。君。さては、自分でも判っていませんね」

 克仁が、じろりとイズミを睨んだ。

「君は、氷花と杏花を分けて考えようとしています。のくせ、二人を同一視しようともしていますね。どっち付かずですよ。イズミ君」

「……そうですね。克仁さん。僕は、どっち付かずです」

 イズミは、素直に認めた。

 無垢で天真爛漫な杏花への、れは屹度きっと未練だろう。六歳の清らかな魂に、生きていてほしいと願っている。同時に、れが叶わぬ夢だという事を、イズミの理性は知っているのだ。

 幼子であれ、人を殺せば殺人鬼。親に手引きされた殺人であれ、手を下したのは杏花だ。克仁はあの惨劇を親殺しではなく計画殺人だと言ったが、名前が変化しただけで、杏花の罪は変わらない。大人達を殺した罪は、杏花が永遠に背負っていくものだ。

 そんな少女を、イズミは氷花として扱って、九年の歳月を共にした。

 違う人間であり、同じ人間。矛盾を抱えた内面を見つめるうちに、嗚呼ああ、とイズミは声を漏らした。

 イズミは、ただ時間を巻き戻したいだけなのだ。

 清らかな、あの夏に。まだ全てが壊れてしまう前の、幸せな家族の時間に。そんな甘やかな夏の時に、己が戻りたいだけなのだ。

「……克仁さん。僕は、國徳くにのり御父様と過ごすと決めた夏の終わりに、『左様さようなら』と言いました。ですが、未練を断つ言葉を〝言挙げ〟しながら、未練を断ち切れてはいなかったようです。これは、貴方の言葉を聞くまで判らなかったことです。有難うございました」

「君は素直ですね。ういうところが、坂上さかがみ君に少し似ています」

「彼には、また今度お会いした時に、改めて謝らせてもらいます。僕は拓海たくみ君が好きになりました。もう妬んではいませんので、ご安心ください」

 イズミの言葉を聞いた克仁は、安心した様子で微笑んだが、ふと何かを思い出したのか、呟くように言った。

「イズミ君。貞枝さんの遺書は三通ありましたね。隠された一通が此方こちらで、残る二通は、あの〝映像〟で杏花さんが貞枝さんから託されていたものですね。先程もいましたが、一通は君宛てだと聞いていますよ」

「ええ。そうですよ。先ほど克仁さんが仰ったように、正気を疑うような内容でしたが」

「……。『の中で、最も罪深い狂人は誰でしょうか。もし貴方がそんな風に誰何すいかしたなら、私は屹度きっと、こう答えます。れは、私の事ですよ、と』」

 暗唱する克仁かつみへ、イズミは捨て鉢な気持ちで微笑んだ。

 惨劇の夜、貞枝は杏花に二通の封筒を託していた。杏花は一通を泉へ落としてしまったが、あの封筒こそが、貞枝からイズミにてられた遺書だったのだ。

 水に濡れた所為で、宛名も本文も滲んでいたが、奇跡というべきか、れとも鬼女きじょの執念なのか。判別不能な箇所はなく、きちんと最後まで読むことが出来た。

 当初は、戦慄せんりつした。夢うつつのまま書かれたような文字の羅列は、雲を掴もうとするような手応えの無さと、のくせ浮き彫りになっている狂気ばかりが満ち満ちて、読むたびに冷たい怖気で身体が震えた。

 だが、今となっては――別の意味で恐ろしい。

「僕は、あの文章を初めて読んだ時、貞枝さんが氷花さんの〝言霊〟で気が触れてしまい、そんな状態で書き綴った、人としての最後の言葉だと思ったのです」

 本当にうであったら、どれだけ幸せだっただろう。あの遺書には、惜別の言葉が散りばめられていた。愛娘との別れを惜しみ、杏花に罪を残して去る事への哀愁を切々《せつせつ》と綴りながら、狂気に魂をおかし尽くされたような、人としての感情の決壊を窺わせた、鬼女の遺書。虚ろな笑い声が、零れ出た。

 もう、あの時のようには思えない。三通目の遺書を読んだ時から、あの時のようには思えなかった。

 ――の中で、最も罪深い狂人は誰でしょうか。

 遺書の始まりの言葉は、諦念ていねんから生まれたわけでは決してなかった。娘にいずれ殺される運命に対する憂いでもなければ、親殺しの罪を娘に負わせる事への悲哀が理由でもなかった。

 ――もし貴方がそんな風に誰何すいかしたなら、私は屹度きっと、こう答えます。

 ただ、正直なだけだった。

 貞枝は、思った通りのことを、イズミに書いただけだった。

 ――れは、私の事ですよ、と。

 あれが、まさか、本当に――文字通りの、意味だったとは。

「……」

 克仁が、目を伏せる。酷くんだ傷口から、つと視線を逸らすように。痛ましげとも腹立たしげとも、どうとでも取れる顔つきだった。

伊槻いつきさんを殺した貞枝さんが、正気だったというのなら。イズミ君宛ての遺書もまた、正気で書かれたものになります。氷花さんを『妬んだ』貞枝さんは、平気で氷花さんを『愛している』と書いています。あげつらえば、いくらでも同様の嘘がありますね。……酷い、罪ですね。の嘘、私はゆるしませんよ」

「貞枝さんは何故、そんな嘘をいたのでしょうね」

 己が思っていたよりも、随分と沈んだ声が出た。そんな声が出た事に、イズミは密かに吃驚びっくりした。

 今更、落ち込むことなど何もないと思っていた。憎悪もしていない鬼の女に、感傷など湧くわけがない。だが、相手はあだだ。父を殺した相手なのだ。何も思わないという方が、無理な話という事だろうか。

 気怠く沈黙したイズミを、克仁がまじまじと見つめていた。少しばかり意外そうな表情だった。

「君は、気づいていないのですか」

「? 何にです?」

「なぜ貞枝さんが、こんな嘘をついたのか。なぜ綺麗事ばかりを書いた遺書を君に残して、本心を君には明かさないまま、氷花さんに狂わされた風を装って、何もわずに死んでいったのか。……君は、気づいていないのですか」

「……知りません」

 イズミは、答えた。素っ気ない言い方になったかもしれない。だが、本当に判らないのだ。そんな質問をされたことを、意外に思ったくらいだった。

 貞枝は、呉野家を破滅させた。其れをイズミは判っている。の動機も、憎悪も、何もかもを知っている。三通目の遺書が教えてくれた。貞枝の憎悪が其処そこにある。れが答えだと思っていた。れ以外の答えなど、存在を疑った事さえ一度もない。

「……」

 克仁は、しげしげと物珍しそうにイズミを見ていたが、やがて嘆息した後に、ぽつりと言った。

「イズミ君、珍しいですね。君は勉強がよく出来るというのに。解は一つではないという可能性に、今まで気づかなかったのですか。……まあ、仕方がないかもしれませんが。同居しているのが國徳さんじゃあ、気づけなくとも道理です。あの方はロマンチストのくせに、人の事にはとんとうとい」

「克仁さん、何をお一人で納得しているのです。……教えてください。貞枝さんが、僕に残した遺書。娘への偽りの愛や、〝清らか〟賛美であふれた、あの遺書。思ってもないことばかり書かれた欺瞞ぎまんまみれのあの遺書が、なぜ僕宛てに書かれたのか。数多の嘘が、何故つかれたのか。知っているなら、早く教えてください」

「君に懸想けそうしていたからですよ。貞枝さんが」

 ――息が、止まった。

 訊き返そうとした。だが、出来なかった。何も言えないままだった。そんなイズミを置き去りにして、克仁の言葉は流れ続けた。

「貞枝さんは、君の事が好きだった。おいとしてでも、子供としてでもない。一人の人間として惹かれていたのです。憎からず思っていました。愛していたのかもしれません。美しく清らかなあの文学作品、『化銀杏ばけいちょう』で、不遇ふぐう貞女ていじょが、美少年に恋したように。彼女の遺書にも書かれていますよ。君の為なら、髪を銀杏返いちょうがえしに結ってもいい、と。あの文学作品の中で、銀杏返いちょうがえしという髪型は特別ですよ。貞枝さんが君に話した『化銀杏ばけいちょう』の物語を思い出してください。おていが憎からず思う少年、芳之助よしのすけには姉がいましたね。作中では既に亡くなっている姉さんの事を、芳之助よしのすけはとても大切に想っているのです。の姉さんの髪型こそが、『銀杏返いちょうがえし』。貞枝さんの遺書に出てきた髪型です。既婚女性の一般的な髪型である『丸髷まるまげ』ではなく、愛した少年のこだわる髪型、『銀杏返いちょうがえし』。れを、君の為に結ってもいいとっている。あの遺書は狂人の書き物ですが、れでいて同時に――私には、恋文に見えて仕方がないのですよ」

 言葉が、朗々と流れていく。まるで灯籠とうろうのように流れ続けて、イズミの前から消えていく。幻の声が、イズミを呼ぶ。イズミを呼んで、笑っている。声しか、脳裏に巡らない。先ほど辿ったばかりなのに、顔を思い出せなかった。

 虚構の顔ばかり、見せられた。厭世観えんせいかん糊塗ことした顔を、狐面のようだとまで思っていた。

 の薄ら笑いの、一体何処(どこ)に。

 本当の心があったというのか。

「貞枝さんは、君の事を綺麗だと書いています。夏の盛りにふらりとやってきた君の事を、希望の光のように思っていた、と。イヴァン宛ての遺書にも書いてありましたね。伊槻いつきさんへの愛について書かれたくだりです。人を愛するという事が、貞枝さんには今まで判らなかった。の夏まで、一度も。れは、今は判っているという事です。彼女は、愛を知ったのです。どう考えても、君の事でしょう。れに、君宛ての遺書の結びにも、はっきりと書いてありましたよ。君に会えて良かったと、貞枝さんは」

「何故です」

 イズミは、訊いた。

 理解できなかった。考えもしなかった。他人の考えている事は、大体判る心算だった。大人とばかり付き合ってきたのだ。相手の好悪は把握できるはずだった。

 だが、判らなかった。そんな感情は知らなかった。なぜ己に向けられるのかすら判らない。

 それくらいに、イズミは――貞枝を、見てはいなかった。

「……何故、と。人が人を愛することに、そんな言葉をぶつけては。君、可哀想ですよ。貞枝さんに同情する気はありませんが、今の台詞せりふだけは、君が悪い」

 克仁が、哀しげに笑う。すれ違い続けて通わなかった心と、の魂をいたむように。

「人が人を愛することに、理由などりませんよ。ですが、強いてうのなら……君が、清らかに見えたからではありませんか」

「清らか。……僕が」

「ええ。九年前の夏、貞枝さんはイヴァンを殺す気でした。國徳くにのりさんも殺す気で、そして君も殺す気でした。呉野の家を滅茶苦茶にして、一族の者達と心中する気でした。……ですが、君は生き残りました。遺書にも書いてありましたね。君をの惨劇から、逃がさなくてはならないと思った、と。――予定が、狂ってしまったのですよ。君を、愛してしまったから。寂しいですね。〝清らか〟を潰す為に、人を捨てて、鬼になったというのに。の〝清らか〟を、愛してしまうとは。其処そこで、立ち止まってほしかった。鬼にならずに、人として。踏み止まってほしかった」

「それでは、遺書が、こんな風に書かれているのは。僕を殺す気だった貞枝さんが、僕を逃がすと書いているのは。氷花さんの所為で狂人になった風に見せかけて、僕達を襲っていた伊槻いつきさんを道連れにして、消えていったのは……」

「好きな人には、綺麗な姿を見て貰いたいと思うものですよ。自己犠牲を演じた心は、一応ですが判ります。……左様さようならば、仕方がない。綺麗に死んで、綺麗に別れて、居なくなってしまいたい。れだけのことですよ」

「何故です」

 イズミは、言った。

 克仁が、困ったような顔をする。イズミは、言葉を止めなかった。「何故です」ともう一度、克仁が答えてくれるまで問い続けた。

「何故です。貞枝さんが、僕を愛していた? 知りません。そんなものは。……そんな愛情を、僕は認めません。本当にそれが愛だというのなら、彼女は僕の為に、僕の家族をゆるすべきでした。それが出来ない女の愛など、僕は、受け入れられません。そんなにも、清らかではないものを、僕は」

 言葉が、喉でつっかえる。

 気づいたのだ。唐突に。己の言葉のみにくさに。嗚呼、とあえぐように息を吸った。

 だから――貞枝は。

「……。君の、清らかな魂は。屹度きっと、彼女を拒絶する。貞枝さんも、判っていたのですよ。己の愛を明らかにしたら、の時、君から拒絶されることが。貞枝さんの、君への悪辣あくらつな態度の数々。あれは、ああするしかなかったのだと思いますよ。……彼女には、伊槻いつきさんがいらっしゃいます。氷花さんという娘もいます。れに、君はおいですから。道ならぬ恋は、破滅しか導きません」

「……ですが、僕は呼び出されました。『伊槻さんが、失踪した』と。あれは、僕を呼び出す為の電話だったはずです。あの惨劇の夜に、僕は神社で殺されるはずでした。何故、呼び出したのです。筋が通りません。何故です」

の矛盾がせない君は、一度恋をすればよろしい」

 克仁の目に、慈愛と憐憫れんびんが涙のように薄く浮かぶ。れを知らぬイズミの事を、かなしんでいるかのようだった。

「愛した人の、命と幸せ。れを守りたいと願うか、救いたいと慈しむか、あるいは死を望むのか。の葛藤の果てに貞枝さんは、伊槻いつきさんとの心中を選びました。氷花さんに罪を被せて、君の前から消えました。君を殺したいという心がまことならば、君を生かさなければと思う心もまたまこと。……貞枝さんは、本当は。誰と心中したかったのでしょうね」

「……僕は。僕だけは。彼女の殺人を、止められたのかもしれないのですね」

 イズミは、呟く。だが、こんな贖罪には意味がないと、言葉にしながら判っていた。此処ここまで克仁に言われて尚、判らなかったからだ。貞枝の事が、何も。

 家族を殺した鬼の女と、の家族を愛した青年。

 歴然たる差異が、其処そこに在った。の隔たりを埋める愛など、の世にってはならないのだ。れがイズミの感性だった。譲れない心だった。途方もない諦念を抱えて、イズミは項垂うなだれる。

 涙など、出ない。ただ、泣けたら楽だろうかとはぼんやり思った。

 こんなにも出来過ぎの悲劇の愛に、もしも名前をあてがうなら、れはさしずめ、観念小説とでも呼ぶべきだろうか。

 ――酷い、因縁だと思う。

 れをイズミに教えた女は、もう何処どこにも居ないのに。

「……イズミ君。一つだけ君にっておきますよ」

 克仁が、立ち上がった。

「私は先程、の〝氷花〟の花は〝貞枝〟になる花だといました。……ですが、此処ここで君に質問です。君は十五歳の少女、呉野氷花さんの事を、どういう少女だと思っていますか?」

「……突然、何を言い出すのです」

「まあまあ、とりあえず答えて御覧なさい」

「……」

 イズミは、思案する。そして思いついた端から、少女の印象を述べて言った。

「まず、我儘わがままですね。世界は己の思うままと盲信している様は、まさしく思春期の少女そのものです。一般的な女子中学生たちを馬鹿にしているわけではなく、彼女が愚かだという話です。自意識が異様に高いのです。後は、そうですね。己の異能によって人を壊すのが、三度の飯より好きな小悪党。そのくせ容貌や世間体を酷く気にする小物こものです。しかも己の悪意に他者が抗いを見せた時には、目も当てられない程の醜態しゅうたいさらします。実に格好悪くて情けない、僕の不肖ふしょうの妹です」

「君、よくもまあ其処そこまで罵詈雑言ばりぞうごんがぽんぽん出ますね」

 克仁が渋面を作りながら、笑いを堪えた様子で言う。の顔を見てぴんと来るものがあったので、むっとしたイズミは克仁を睨んだ。

「克仁さん、やはり貴方はたぬきですね。僕が坂上拓海さかがみたくみ君に嘘をついたように、貴方もまた嘘をつきましたね? 貴方は〝言霊〟の事も、氷花さんの悪行あくぎょうも、全てに対して素知らぬふりをしていました。ですが、知っていましたね? 貴方ほどの人が、氷花さんのこれまでの悪事に全く気づいていないなど、それはあまりに不自然です」

「ええ、知っていましたよ」

 克仁は、あっさりと認めた。鼻白はなじろんだイズミが口をつぐむと、克仁は盆を拾う為に屈んでから、すっと背筋を伸ばした。

 線の細い黒髪に混じった、銀色の筋が揺れる。……やはり少し、老け込んで見えた。

「イズミ君。先にわせて貰いますよ。君は、氷花さんの事を小物だと思っていますね。悪辣あくらつな態度で己を大きく見せようとする、背伸びをした一人の中学生の少女。れが、君の思う呉野氷花さんですね」

「ええ。その通りです」

「では、九年前の君と貞枝さんの喧嘩。あれは、やはり君の勝ちです」

 克仁は、断言した。イズミは、不意を打たれてしまった。

 九年前の、喧嘩。貞枝の言葉が、脳裏を静かによぎっていく。

 ――だって、あの子は変わるのですもの。居なくなって、氷花になる。あの子の言う〝清らか〟とは程遠い、鬼のような心になる。

「かつて〝杏花〟という魂は、母の教育によって〝貞枝〟になるはずでした。ですが、どうです? 今の氷花さん、貞枝さんに見えますか? 確かに悪辣あくらつでしょうが、貞淑ていしゅくな悪女には程遠い。悪意が空回って自滅している様なんて、滑稽こっけいで可愛らしい程ですよ。――彼女は、〝貞枝〟にはなりませんでした。〝氷花〟です。君が兄としてあだの少女と共に居続けた結果が、今の氷花さんの姿なのだと、私は確信していますよ。……れに」

 克仁は、屈託くったくなく笑った。

「君は、何度も戦っていましたね。貞枝さんと向き合い続けて、杏花さんに一体どういう教育をしているのかと、大人相手に食って掛かりました。君は、正しかったのです。彼女を可哀想だと思って戦った君の感性は、あの夏で最も美しく清らかでした。……誇りなさい。正しいのは君ですよ。もう一度()います。よく頑張りましたね。イズミ君」

「……」

 肩から、力が抜けていった。ずるりと背後にもたれかかると、和装が擦れて、壁の硬さが背骨に伝わる。文机と反対の方へ身体を静かに倒していくと、なまりのように重い疲労が、傾けた重心と同じ方向へ動いていく。

 克仁の前だというのに、だらしない。頭の隅で思ったが、たまにはいいかと思ってしまった。

「……風邪を引きますよ」

 克仁の声が、降ってくる。そんな遣り取りが九年前にもあったことを思い出しながら、微睡まどろむようにイズミは笑った。

「……久しぶりの、帰省きせいですから。何だか安心してしまったのですよ。克仁さん、僕は夕飯を御馳走ごちそうになって帰ってもいいのでしょう? 少し眠って、目が覚めたら、是非とも頂きたいので……一時間ほど、寝かせてください。今日の晩御飯は、何ですか?」

「ラーメンと、天麩羅蕎麦てんぷらそばですよ」

 克仁の足が、ふいと動く。ふすまの方へ、動いていく。畳が軋む音がして、夜風に乗った藺草いぐさの匂いが、鼻腔びこうを優しく掠めていった。懐かしの香りに包まれながら、閉じかけた瞼をイズミは開いた。

「君がラーメンで、氷花さんが天麩羅蕎麦てんぷらそば。私はあいだを取って、両方を小鉢に盛って食べますよ。全く、可笑おかしな夕餉ゆうげになるのは、君たち兄妹の好みが全く違う所為ですよ。おかげで私が苦労するのです」

「貴方が優しすぎる所為ですよ、その苦労は」

「減らず口ですね、君は。素直に嬉しいとえばよろしい」

 克仁が、おどけたように笑う。うして不意に口調を改めると、そっとイズミに囁いた。

「私は、確かに知っていましたよ。氷花さんの悪行を。れが〝言霊〟の霊威れいいによるものだとは知りませんでしたが、れでも、知っていましたよ。彼女に、別のかおがある事を。……イズミ君。私はの部屋に来る直前に、坂上拓海さかがみたくみ君たちに、こんな言葉をったのです。――『私はあの子の親代わりだけれど、親ではない。本来の親としての役割を、全て埋められるとは思っていない。の関係を家族だと豪語ごうごして良いものなのか、の距離感もいまだに掴みかねている』……の台詞は、私の本心です。嘘などついていませんよ」

「……何故、ですか」

 意外な、言葉だった。克仁は、イズミの事を家族だと言った。最愛の息子だと。イズミが生活の基盤を神社へ移してからも、交流が絶えていたわけではない。

 の克仁が、何故。かつてのイズミのように居候いそうろうする氷花を、家族扱いしないのか。

「……君にだけ、告白しますよ」

 克仁は、言葉通り秘密を明かすような密やかさで、れでいて寂然せきぜんと言った。

「イズミ君。私はどうやら、少し臆病になってしまったようなのです」

「どういう、意味です」

「氷花さん。いつか、居なくなってしまう気がするのですよ」

 驚いたイズミは、口を挟もうとする。だが、意識がひどく重かった。開けた瞼が、閉じていく。倦怠感が緩く身体を覆っていき、何も〝言挙げ〟出来なかった。

「あの子はいつか、私の元から居なくなってしまう。不思議ですね。私には〝先見せんけん〟の異能はないはずなのに、そんな悲しい予感が消えないのです。イヴァンが消えて、怖くなってしまったのでしょうね。氷花さんを家族だと認めてしまったら最後、私は屹度きっと、彼女を失った時に耐えられなくなってしまう。心にういう自衛じえいが働いて、私は彼女との関係を、踏み込んだものに出来ないのだと思いますよ。……ったでしょう。ずるい大人だと。私もまた、狡いのですよ」

「……。居なくなる。どういう意味で仰っているのか判りかねますが……そうですね。不謹慎な話ですが、もし、國徳くにのり御父様に何かあったら、その時は。氷花さんは、僕が連れて帰りますよ。呉野の神社の、あの家に」

「……以前お会いした時には、お元気そうに見えましたが。御加減おかげんは、やはりよろしくないのですか」

「ええ。最近、食欲が落ちました。医者にも、てもらっています。……随分、長生きしてくださいましたが……もっと、長生きしてほしいものです。克仁さんの言葉ではありませんが、家族を失うのは、辛いことですから。……それに」

 畳に頬をつけたイズミは、うつらうつら言った。

「愛している、家族、ですから」

 克仁は、の言葉に明確な返事をしなかった。せみが、まだ聞こえる。短い沈黙を挟んでから、克仁は小声で言った。

「杏花であれ、氷花であれ、貞枝であれ。呉野の女は罪作りですね。おかげで此方こちらが、こんなにもながく縛られている」

「……それでも、僕は。氷花さんを、妹として……愛していますよ」

 イズミが呟くと、呆れと優しさが入り混じったような、ささやかな笑い声が聞こえてきた。「長い、兄妹喧嘩ですね」と、わびしげな口調で、克仁が言う。

 の言葉を、最後にして――ぱたん、と。ふすまの閉じる、音がした。

「……。そうですね。そうかも、しれません。……克仁さん。おやすみなさい」

 イズミが囁くと、ふすまの向こうから声がした。おやすみと返してくれたのだろうか。力なく畳に投げ出した白い腕は、やはり死人のようだった。あの夏と全く同じ感慨が、胸に漠然と去来して、思わず笑みが零れてしまう。

 本当に、なぜ生き残ってしまったのだろう。

 自嘲とも揶揄やゆともつかぬの笑いが、本心ではないことも判っていた。

 多分、何も感じていない。心が疲れてしまっていた。イズミは徐々に闇へと引き摺られていく意識の中で、呉野貞枝のかおを思い出そうとする。

 九年前に死んだ女。イズミを愛していた女。

 の容貌の記憶に、思いを馳せてみようとして――出来ないことに、気づいてしまった。

 黒くつややかな長い髪。しっとりと濡れた赤いべに悪辣あくらつな笑みを化粧のように頬に乗せた、艶姿あですがたは――妙齢の女性では、なかったからだ。

 もっと、幼い。だが、六歳ではなかった。成長している。れでも、まだまだ子供だ。けして、大人ではない。

 皮肉なものだと思う。清らかではないというのに。

 結局、恨むことは出来なかった。

「氷花さん。……貴女、綺麗になったと思います。見た目だけなら、そっくりです。……ですが、まだ、いけません。僕達は、鬼ですから。美しく清らかな文学から、名をいただいた鬼ですから。……今の貴女では、まだ駄目です。小物こもので、悪党で、幼過ぎて。そんな貴女では、まだ、駄目です。まだまだ、全然、足りません。足りてなど、いないのです」

 目を、閉じる。足音が遠ざかり、同時に聞こえてくるのを感じながら、泥のような眠りの中に、意識をずるずると沈めながら、夢うつつの声で、イズミは言う。

「僕達は、罪(まみ)れです。ですが、その罪を、あがなうことが出来ません。しかも貴女には、あがなう気さえ無いのです。……ならば、せめて。美しくなくては。文学に、見合うように。そうでなければ、ゆるされません。決して、ゆるされはしないのです……」

 其処そこから先のことはもう、イズミにはよく判らなかった。

 ただ、良い夢を見られる気がした。昔をれほど懐かしんだのだ。幸せな家族の思い出に包まれながら、美しい夢を見られるだろう。

 父に、会いたい。

 同じところへ行きたかった。

 だが、駄目だ。まだ駄目だ。其方そちらへ行くには早いのだ。家族と交わした約束が、イズミをうつつに繋ぎ止める。今はまだ、其方そちらに行けない。会いたかったが、まだ会えない。まだ、生きていなくては。少しでいい。否、長く。生きていなくてはならないのだ。

 せめて、夢で、出逢えたら。

 そんな希望を抱きながら、イズミ・イヴァーノヴィチは――意識を夏の夕闇へ、ゆっくりと手放していった。


 *


 廊下の薄暗がりには、夏の静けさが満ちていた。

 蒸した夜気と虫の音が、霧のように揺蕩たゆたう闇の中。和室から退室した男は、ふすまをぴたりと閉めてから、階段の傍に立つ浴衣姿の少女に気づき、息を呑んだ。

 そこに居るとは、思わなかった。そんな驚きの目で見下ろす男へ、和装の少女は微笑んだ。

「お父様。ただいま戻りました」

「ああ……おかえりなさい。夏祭りは楽しめましたか?」

「ええ。とても。ですが、少し疲れてしまいました。お部屋で少しだけ休んでから、すぐに台所を手伝いに行きます」

「いえ、今日は結構ですよ。君はいつも気が回りますね。ただ、疲れているところ悪いのですが、君に一つだけお願いがあります」

「あら。お父様が私にお願いだなんて、珍しいですね。何でしょうか」

「イズミ君が、君のお部屋で眠ってしまいました。……タオルケットを、掛けてあげてください。風邪を引いては事ですから。君には申し訳ありませんが、お部屋を一時間ほど貸してあげてください」

「お兄様が」

 少女は、口元に手を当てる。長い睫毛を伏せて「判りました」と答えると、閉ざされたばかりのふすまを開き、静々と自室へ入ろうとする。

 その背中に、「氷花さん」と男が声を掛けて呼び止めた。

「はい?」

 少女が、振り向く。

 呉野氷花が、振り向く。

 男は、藤崎克仁ふじさきかつみは――「いえ、何も」と言い直して、薄く笑った。

れでは、夕飯の支度をしてきます。君は私の部屋で休むといいでしょう」

「はい。ありがとうございます」

 氷花は、そう言ってふすまを閉じた。廊下と和室が分断され、六畳一間に沈黙が満ちる。紫紺しこん色に血液を溶いたような薄闇に、ささやかな蝉のが流れた。

 退廃美に染まった室内の奥、文机ふづくえの傍の畳には、灰茶の髪の異邦人が、身体を横向きに倒して眠っている。

 男を一瞥いちべつした氷花は、足音を立てないまま押入れのふすまを滑らせて、中から白いタオルケットを取り出した。それを表情もなく兄の元まで運んでから、浴衣を着た長身痩躯(そうく)へゆっくりと掛ける。そして己の浴衣の裾を押さえると、畳へ静かに腰を下ろした。

 男の隣――呉野和泉の隣に、腰を下ろした。

「……夏って、いやね。兄さん」

 氷花は、言う。淡々としたその声音は、先ほど同じ中学校へ通う少年に向けたものと同じ、感情の欠落した声だった。

「兄さん。貴方、どうして私の部屋で寝てるのよ。迷惑だわ。死ねばいいのに。……ねえ。本当は、起きてるんじゃないの?」

 和泉は、返事をしない。タオルケットの胸元が、規則的に上下する。氷花は、溜息をついた。

「いいのよ、どちらでも。起きていても、寝ていても。生きていても、死んでいても。……でもね、兄さん。貴方を殺すのは、私なんだもの。だから、困るのよ。こんなところで、死なれたら。ねえ、死んでいるなら、生き返って。私が殺し直してあげる」

 氷花は、言う。感情が消えた声のまま、はなから返事など期待していないような投げやりさで、眠る兄の頬に手を伸ばし、触れて、撫でた。

「お兄様。貴方、綺麗よ。起きている時の貴方は、意地悪だから嫌い。でも、こうしている貴方は嫌いじゃないわ。だって、お兄様に見えるもの。〝アソンデ〟くれた、お兄様に見えるもの」

 和泉は、返事をしない。妹に触れられて尚、目覚める様子は全くない。死人のように黙している。氷花の手が、目覚めない兄の首に伸びた。

 白い指が、うなじを撫でる。

 もう片方の手も伸びて、両手が、和泉の首に掛かった。

「……」

 虚無を映していた瞳に、惑うような光が揺れる。抵抗しない兄の首から、ぱっと氷花は手を外した。美貌に、自己嫌悪が薄く浮かぶ。莫迦ばかなことをしたと自分自身を蔑むように、和泉から目を背けている。長い黒髪が大きくたわみ、眠る和泉の胴に掛かった。

 白いタオルケットを掠める毛先が、黒く艶やかに流れていく。

 氷花は身体をゆっくりと倒し、和泉の隣に横たわった。

「……私、酷いことを言われていたのよ。お兄様。知らなかったでしょう」

 氷花が、兄に身体を寄せる。

 衣擦きぬずれの音が、微かに響いた。蝉が、まだ鳴いていた。

「あの頃のことは、忘れてしまったことも多いけど、覚えていることも多いのよ。お母様は、私の事が嫌いだったのね、って。今なら判るわ。でも、あの頃は判らなかった。私は、お母様が好きだった。お母様も、私の事が好きだと思ってた。お母様は、綺麗なものがお好き。私も同じよ。美しいものは好き。でも、いくら美しいものを集めても、お母様は私を愛してはくれなかった。好きだと思っていたのは、私の方だけだった。それが判るまで、随分と時間が掛かったわ。伊槻いつきお父様と喧嘩して、お母様と喧嘩して、やっと判ったわ。……だから、嬉しかったのよ。お兄様が、ロシアから来てくれて。遊んでくれるお兄様がいて、私は、本当に嬉しかったの。……だから、許せないのよ、お兄様。貴方の事が、許せないの」

 氷花は、じっと兄を見る。瞳に薄く、怨嗟が宿った。

「お兄様は、私と遊ぶことを突然やめたわ。それに、とても嘘っぽい人になってしまった。誰にでも優しいお兄様。でも私には冷たいの。一緒に〝アソンデ〟くれないの。お兄様。貴方、綺麗過ぎるわ。どうしてそんなに綺麗なの? おかしいわ。どうして? そんなにも清らかな人なんて、私は一人も知らないわ。私の知っているお兄様は、そんな人ではなかったもの」

 氷花は、もう一度手を伸ばした。再び和泉の頬に触れる手つきは、言葉とは裏腹に繊細だった。

「お兄様は、清らか。……でも、お兄様。清らかな貴方。清らかな人って、『憎悪』がないの? ……そんなわけ、ないわ。絶対にあるはずよ。隠してるんでしょう。お兄様。私に意地悪して、隠してるんでしょう。私、貴方が知りたいわ。本当の貴方が知りたいの。貴方の人間の部分を見つけたいの。貴方の『憎悪』を突きつめたいのよ」

〝清らか〟のつのを落とした鬼と、つのを拾った御隠居。

 あるいは、つのを失った善の鬼と、つのを得て変貌した御隠居なのか。

 氷花は和泉を睨み続けていたが、ふっ、と蝋燭の火が消えるように、張り詰めていた憎悪が消える。まるで力尽きたせみが地へ転がるように、そっと儚げな吐息をついて、兄の頬に、唇を当てた。

 触れるだけの、口づけ。唇を離した氷花は、しばらく思案気に和泉を見つめていたが、それ以上は何もすることなく、かそけき声で、兄に言った。

「おやすみなさい。イズミお兄様。良い夢を」

 それを最後に、氷花もまた目を閉じた。

 愛憎のつのが互いに欠け合った兄妹は、幽玄ゆうげんの花が葬送のように降る部屋で、昏々と静かに眠り続けた。

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