清らかな魂 30
遺書は、其処で破れていた。
続きの言葉は千切り取られ、紙が大きくひしゃげている。
克仁が無言でイズミを見たが、イズミは首を横に振った。
「……それより先は、ありません。ですが、無くていいと思います。そこから先は、全部同じ調子なのですよ。イヴァンお父さんへの遺書のはずが、途中からは杏花さんへの怨嗟でした。それが延々と便箋数枚分に渡っています。國徳御父様と一読した後で、続きは僕達で焼きました。それでも前半部分を残したのは、いつか貴方に真相を明かす時が来たならば、見せる必要があるだろう、と。二人で判断したからです」
克仁は、表情もなく便箋を畳む。そしてジュースとかき氷が載った盆の上に、投げやりな手つきで其れを放った。
「僕に、返してはくださらないのですか?」
「ええ。返しません。此れは私が一階に持っていって、後でコンロの火で炙ります。私にも是非、焼き打ちにさせてください。せめてもの八つ当たりですよ」
克仁は、其の台詞を最後に黙ってしまった。イズミもまた、黙り込んだ。
開け放した窓の向こうで、蜩がしめやかに鳴いている。女のすすり泣きのような哀愁が揺蕩う此の和室に、もう言葉は要らないと思っていた。
「イズミ君」
依って、克仁から小声で呼ばれた時、イズミの心には穏やかな驚きが拡がった。心地よく停滞した時の中で、克仁の時間は動いていた。其れが意外だったのだ。
「何ですか、克仁さん」
「いえ、君を呼んでみただけですよ」
「はい?」
イズミは目を瞬くと、珍妙なことを言った養父へ、溜息を吐いて見せた。
「何を仰っているのですか、貴方は。何か不安に思うことでもあるのですか」
「いいえ、何も。……いや。先ほど君は、意味深なことを云いましたから。不安がないわけではありませんよ。ただ、せっかく家族が帰省したのです。声が聞きたいと思うのは、親として当然の感情ですよ」
「何を、貴方は」
「寂しいですね」
克仁は、言う。イズミの言葉を遮って、ふわりと優しく微笑した。
「寂しいですね。家族を亡くすのは。とても、寂しいことですね。……イズミ君。君は、とてもよく頑張ったと思いますよ」
「頑張った? 僕がですか?」
「ええ。父親があんな目に遭ったのです。君は頑張ったと思います。イヴァンはやはり幸せ者ですね。あんなにも清らかな言葉を、最後に君から貰う事ができて。羨ましいと思う程です」
「止してください、克仁さん。年甲斐もなく泣いてしまったら、一体どうしてくれるのです」
「泣けばいいじゃあないですか。君は全く、妙なところで強情張りですね」
呆れた口調で、克仁が言う。イズミとしては、呆れたいのは此方の方だ。狡猾。悪童。強情張り。おまけに野心家とまで言われていた。本当に散々な評価だった。声を忍ばせて笑っていると、克仁も一緒に笑い始めた。
密やかな笑い声が、夏の夕べに流れていく。イズミと父と克仁の三人、夕餉の食卓を囲んだ記憶が蘇る。家族団欒の再現のような温かさが、和室へ薄らと満ちていく。黄昏が室内に夜を運び、闇の気配が深くなる。線香花火に似た夕日の残光の赤さはまるで、命のように薄幸だった。家族の、命のようだった。
「……」
――家族。其の絆を妬ましく思った、一人の哀れな鬼の女。
其の女の怨嗟が、全てを壊した。イズミの最愛の家族を殺して、皆を破滅させたのだ。イズミが其れを知ったのは、全てが終わった後だった。
だが、貞枝への憎悪の感情は、殆どと言っていいほど湧かなかった。其れこそ妬ましく思っても不思議ではないのに、イズミは貞枝を恨まなかった。否、流石に其れは嘘だった。屹度イズミの本心は、貞枝を憎いと思っている。
ただ、感情が判然としないのだ。掴めはするが、手応えがない。実感が、すこんと抜けていた。まるで磨り硝子越しに、女の艶姿を見るようだった。貞枝の事が、よく見えない。人としての魂の輪郭がぼやけていて、そんな抽象的なものが破滅を齎したという事実が、未だに信じられなかった。
其れとも、こんな風に思うのは、当時の〝言挙げ〟の所為だろうか。少女と呪われた絆を結ぶ為に、己が紡いだ長い台詞を思い出す。
――『憎悪』を、捨てる。
杏花の清らかさを、拾う為に。其れをいつか、返す為に。
憎悪は、毒だ。〝清らか〟を食い潰す。悪感情を心へ溜め込み、何処にも吐き出せないまま留めたなら、其処で淀んで腐敗する。國徳が、イズミに教えたのだ。悪辣な〝言霊〟だけでなく、濁りを極めた感情もまた、己の心を壊すだろう。
そんな負の感情は、美しい言葉を生みはしない。言葉に、魂が宿らない。清らかな魂が、宿らない。其れはとても寂しいことだと、イズミは何度でも思うのだ。
「克仁さん。貴方は、貞枝さんを憎んでいると思いますが……僕は、もう判りません。疲れ過ぎたからかもしれませんし、僕が人を恨まぬと決めた所為かもしれません。……克仁さんは。貞枝さんの事を、どう思いますか」
何となく克仁に訊ねた直後、嗚呼、またやってしまった、とイズミは己の失敗に気づいて苦笑した。論点の暈けた問いかけは、確か此れで二度目だからだ。
一度目は、父が来日の意向をイズミに報せた時の事だ。
あの国際電話で両親の離縁を知った時も、感傷の理由を追及しようと、イズミは母の名を挙げて訊ねたのだ。どんな答えが欲しいのかさえ判っていない体たらくで、闇雲に手を伸ばそうとする其の足掻きは若さだろうか。本当に、イズミは青年のままだった。凍って時が止まったように。呆れ笑いしか出て来ない。
其れでも、克仁は答えてくれるだろう。九年前と、同じように。
だが、克仁はイズミに答えを与えなかった。此方が期待したものとは異なる別の言葉を、溜息のような優しさで、ひっそりと告げただけだった。
「……イズミ君。君は先程、私の言葉が致命的な矛盾を含んでいると云いましたね。其の矛盾を明かしてしまえば、此処で私達が話してきた事、全てひっくり返りますよ。其れでも敢えて、云いましょうか」
イズミが黙っていると、克仁は苦笑いを浮かべた。イズミが疲れたように、克仁もまた疲れたのだ。〝アソビ〟疲れてしまったのだ。
「あの夜、貞枝さんは氷花さんの〝言霊〟を誘って、伊槻さんと共に此の世から消えました。失踪者扱いになって既に七年以上経ちますし、國徳さんが伊槻さんの遺族と相談してから、彼等の死亡届けを出したと聞いています。……なるほど確かに、矛盾しますね。『皆、居なくなっちゃえ』と云われて、伊槻さんが消えるのは道理でしょう。ですが、もう一人の方は道理に合わない」
克仁は、嘆息した。微かに訝しげに、其れでいて同時に不服そうに。
「一体、どういうわけでしょうね。〝同胞〟であり、〝言霊〟が効かないはずの貞枝さんまで、一緒になって消えるとは。実に不可解です」
「……その矛盾、貴方はどう解明するのです?」
イズミが問うと、克仁は疲れの浮いた顔で「何、簡単なことですよ」と答えて、丁寧に説明してくれた。
「〝同胞〟には、異能は効かない。其の大前提は、一体誰が作ったというのです? 実際に、呉野貞枝は〝言霊〟で消えましたよ。事実が証明しているのですから、〝同胞〟であれ他者から受けた異能の影響力は、決して皆無ではないという事でしょう」
「ですが、克仁さん。僕に氷花さんの〝言霊〟が効いた事はありませんよ。何度も死ねと言われていますが、何の問題もありません」
「君は携帯電話解約の件で、相当な恨みを買いましたからね。君、氷花さんが陰で泣いていたことを知らないでしょう。悪戯に苛めるものではありませんよ」
克仁はイズミを嗜めながら、当時の遣り取りを思い出して可笑しくなったのか、小さく吹き出す。然うして一頻り笑ってから「普通ならば、効かないのだと思いますよ。〝同胞〟同士での異能は」と切り出した。
「〝同胞〟同士では異能は効かないという大前提は、異能の家系、呉野の人間たちの経験から得た解釈です。概ね間違ってはいないはずですが、例外もあるという事でしょうね」
「貞枝さんが〝言霊〟で消えたケースは、その例外だったというのですか? どういう条件が揃えば、そんなことになるのです」
克仁は、暫し黙考の姿勢を見せた。
異能が齎した此の怪事を、克仁は可能な限り論理的に解釈しようと努めていた。何かしらの考えがあるに違いない。ただ、其れを口にしていいものか迷っている。葛藤と呼ぶには大げさだが、克仁には其の答えを告げるに足るだけの証拠がないのだ。付き合いの長さから、イズミは其れを悟っていた。
長くも短くもない沈黙の果てに、克仁は「恐らくは、『同意』ではないですかね」と、思案気な様子のまま言葉にした。
「あの時の貞枝さんは、氷花さんの〝言霊〟を受け入れる気でいました。彼女の異能に依って破滅することを受け入れていて、其の異能への拒絶と抵抗は、あの瞬間、彼女の心には欠片もありませんでした。――魂の込められた言葉を、受け入れること。其れこそが、〝同胞〟同士であっても己の異能を相手に届ける為に、必要な条件なのではないか、と。推測することは可能ですが……やはり、憶測の域を出ませんね。せめてもう一例ほど実例を見ないことには、断言するには厳しいでしょう」
「……」
なるほど、とイズミは得心した。一理あると思ったのだ。
――言葉に込められた魂を、拒絶せずに受け入れる。
懐かしい記憶が、脳裏を颯と駆け巡った。其の知識を授けたのも、思い返せば克仁だった。確か、真名を〝言挙げ〟するだけでも、言葉に魂が宿るという。そんな剥き出しの魂を守る為に、異性に名を明かしてはならない。其の行為は、己の全てを相手に委ねることになるからだ。
魂の支配を、許してしまう。そんな風にも、取れる行為。
まるで契りのような遣り取りから、明瞭に蘇る言葉が、たった一つ。
――コトダマアソビ。
イズミと杏花の、二人の〝アソビ〟。
貞枝が消えた理由は、本当に克仁の言うような理由なのか。確かに根拠はないだろう。だが、正鵠を射ているとイズミは思った。九年前に消えた女も、屹度其の正しさを信じたのだ。だから、あんな賭けに出た。
もし、其の賭けに敗れて〝言霊〟で死ねなかった場合は、宣言通りに『伊槻を殺して自分も死ぬ』心算でいたのだろう。其処まで思索が行き着くと、酷く空虚な気分になってしまった。
――貞枝が〝言霊〟で死ねば、其の死は杏花の所為になる。
だが、たとえ〝言霊〟で死ねずに伊槻との無理心中を選んだとしても、あの時の貞枝は〝言霊〟による狂気を演じていた。杏花の罪を偽装したのだ。
――〝言霊〟で死のうが、無理心中で死のうが、どちらにしても同じなのだ。貞枝によって着せられた親殺しの罪は、等しく杏花の魂を穢している。
そして、あの時の貞枝は――其の両方を、やってみせた。
克仁も同じことを考えていたのか、顔が悔しげに顰められた。
「恐ろしい程に、計算尽くの殺人です。事態がどう転んでも、氷花さんの罪になるように出来ています。……怖い女です。本当に」
「ええ。そうですね。ですが、その事実を以てしても、僕は氷花さんに同情はしていませんよ。……杏花さんには、していましたが」
「……。君。さては、自分でも判っていませんね」
克仁が、じろりとイズミを睨んだ。
「君は、氷花と杏花を分けて考えようとしています。其のくせ、二人を同一視しようともしていますね。どっち付かずですよ。イズミ君」
「……そうですね。克仁さん。僕は、どっち付かずです」
イズミは、素直に認めた。
無垢で天真爛漫な杏花への、此れは屹度未練だろう。六歳の清らかな魂に、生きていてほしいと願っている。同時に、其れが叶わぬ夢だという事を、イズミの理性は知っているのだ。
幼子であれ、人を殺せば殺人鬼。親に手引きされた殺人であれ、手を下したのは杏花だ。克仁はあの惨劇を親殺しではなく計画殺人だと言ったが、名前が変化しただけで、杏花の罪は変わらない。大人達を殺した罪は、杏花が永遠に背負っていくものだ。
そんな少女を、イズミは氷花として扱って、九年の歳月を共にした。
違う人間であり、同じ人間。矛盾を抱えた内面を見つめるうちに、嗚呼、とイズミは声を漏らした。
イズミは、ただ時間を巻き戻したいだけなのだ。
清らかな、あの夏に。まだ全てが壊れてしまう前の、幸せな家族の時間に。そんな甘やかな夏の時に、己が戻りたいだけなのだ。
「……克仁さん。僕は、國徳御父様と過ごすと決めた夏の終わりに、『左様なら』と言いました。ですが、未練を断つ言葉を〝言挙げ〟しながら、未練を断ち切れてはいなかったようです。これは、貴方の言葉を聞くまで判らなかったことです。有難うございました」
「君は素直ですね。然ういうところが、坂上君に少し似ています」
「彼には、また今度お会いした時に、改めて謝らせてもらいます。僕は拓海君が好きになりました。もう妬んではいませんので、ご安心ください」
イズミの言葉を聞いた克仁は、安心した様子で微笑んだが、ふと何かを思い出したのか、呟くように言った。
「イズミ君。貞枝さんの遺書は三通ありましたね。隠された一通が此方で、残る二通は、あの〝映像〟で杏花さんが貞枝さんから託されていたものですね。先程も云いましたが、一通は君宛てだと聞いていますよ」
「ええ。そうですよ。先ほど克仁さんが仰ったように、正気を疑うような内容でしたが」
「……。『此の中で、最も罪深い狂人は誰でしょうか。もし貴方がそんな風に誰何したなら、私は屹度、こう答えます。其れは、私の事ですよ、と』」
暗唱する克仁へ、イズミは捨て鉢な気持ちで微笑んだ。
惨劇の夜、貞枝は杏花に二通の封筒を託していた。杏花は一通を泉へ落としてしまったが、あの封筒こそが、貞枝からイズミに宛てられた遺書だったのだ。
水に濡れた所為で、宛名も本文も滲んでいたが、奇跡というべきか、其れとも鬼女の執念なのか。判別不能な箇所はなく、きちんと最後まで読むことが出来た。
当初は、戦慄した。夢うつつのまま書かれたような文字の羅列は、雲を掴もうとするような手応えの無さと、其のくせ浮き彫りになっている狂気ばかりが満ち満ちて、読むたびに冷たい怖気で身体が震えた。
だが、今となっては――別の意味で恐ろしい。
「僕は、あの文章を初めて読んだ時、貞枝さんが氷花さんの〝言霊〟で気が触れてしまい、そんな状態で書き綴った、人としての最後の言葉だと思ったのです」
本当に然うであったら、どれだけ幸せだっただろう。あの遺書には、惜別の言葉が散りばめられていた。愛娘との別れを惜しみ、杏花に罪を残して去る事への哀愁を切々《せつせつ》と綴りながら、狂気に魂を侵し尽くされたような、人としての感情の決壊を窺わせた、鬼女の遺書。虚ろな笑い声が、零れ出た。
もう、あの時のようには思えない。三通目の遺書を読んだ時から、あの時のようには思えなかった。
――此の中で、最も罪深い狂人は誰でしょうか。
遺書の始まりの言葉は、諦念から生まれたわけでは決してなかった。娘にいずれ殺される運命に対する憂いでもなければ、親殺しの罪を娘に負わせる事への悲哀が理由でもなかった。
――もし貴方がそんな風に誰何したなら、私は屹度、こう答えます。
ただ、正直なだけだった。
貞枝は、思った通りのことを、イズミに書いただけだった。
――其れは、私の事ですよ、と。
あれが、まさか、本当に――文字通りの、意味だったとは。
「……」
克仁が、目を伏せる。酷く倦んだ傷口から、つと視線を逸らすように。痛ましげとも腹立たしげとも、どうとでも取れる顔つきだった。
「伊槻さんを殺した貞枝さんが、正気だったというのなら。イズミ君宛ての遺書もまた、正気で書かれたものになります。氷花さんを『妬んだ』貞枝さんは、平気で氷花さんを『愛している』と書いています。論えば、幾らでも同様の嘘がありますね。……酷い、罪ですね。此の嘘、私は赦しませんよ」
「貞枝さんは何故、そんな嘘を吐いたのでしょうね」
己が思っていたよりも、随分と沈んだ声が出た。そんな声が出た事に、イズミは密かに吃驚した。
今更、落ち込むことなど何もないと思っていた。憎悪もしていない鬼の女に、感傷など湧くわけがない。だが、相手は仇だ。父を殺した相手なのだ。何も思わないという方が、無理な話という事だろうか。
気怠く沈黙したイズミを、克仁がまじまじと見つめていた。少しばかり意外そうな表情だった。
「君は、気づいていないのですか」
「? 何にです?」
「なぜ貞枝さんが、こんな嘘をついたのか。なぜ綺麗事ばかりを書いた遺書を君に残して、本心を君には明かさないまま、氷花さんに狂わされた風を装って、何も云わずに死んでいったのか。……君は、気づいていないのですか」
「……知りません」
イズミは、答えた。素っ気ない言い方になったかもしれない。だが、本当に判らないのだ。そんな質問をされたことを、意外に思ったくらいだった。
貞枝は、呉野家を破滅させた。其れをイズミは判っている。其の動機も、憎悪も、何もかもを知っている。三通目の遺書が教えてくれた。貞枝の憎悪が其処にある。其れが答えだと思っていた。其れ以外の答えなど、存在を疑った事さえ一度もない。
「……」
克仁は、しげしげと物珍しそうにイズミを見ていたが、やがて嘆息した後に、ぽつりと言った。
「イズミ君、珍しいですね。君は勉強がよく出来るというのに。解は一つではないという可能性に、今まで気づかなかったのですか。……まあ、仕方がないかもしれませんが。同居しているのが國徳さんじゃあ、気づけなくとも道理です。あの方はロマンチストのくせに、人の事にはとんと疎い」
「克仁さん、何をお一人で納得しているのです。……教えてください。貞枝さんが、僕に残した遺書。娘への偽りの愛や、〝清らか〟賛美で溢れた、あの遺書。思ってもないことばかり書かれた欺瞞塗れのあの遺書が、なぜ僕宛てに書かれたのか。数多の嘘が、何故つかれたのか。知っているなら、早く教えてください」
「君に懸想していたからですよ。貞枝さんが」
――息が、止まった。
訊き返そうとした。だが、出来なかった。何も言えないままだった。そんなイズミを置き去りにして、克仁の言葉は流れ続けた。
「貞枝さんは、君の事が好きだった。甥としてでも、子供としてでもない。一人の人間として惹かれていたのです。憎からず思っていました。愛していたのかもしれません。美しく清らかなあの文学作品、『化銀杏』で、不遇の貞女が、美少年に恋したように。彼女の遺書にも書かれていますよ。君の為なら、髪を銀杏返しに結ってもいい、と。あの文学作品の中で、銀杏返しという髪型は特別ですよ。貞枝さんが君に話した『化銀杏』の物語を思い出してください。お貞が憎からず思う少年、芳之助には姉がいましたね。作中では既に亡くなっている姉さんの事を、芳之助はとても大切に想っているのです。其の姉さんの髪型こそが、『銀杏返し』。貞枝さんの遺書に出てきた髪型です。既婚女性の一般的な髪型である『丸髷』ではなく、愛した少年の拘る髪型、『銀杏返し』。其れを、君の為に結ってもいいと云っている。あの遺書は狂人の書き物ですが、其れでいて同時に――私には、恋文に見えて仕方がないのですよ」
言葉が、朗々と流れていく。まるで灯籠のように流れ続けて、イズミの前から消えていく。幻の声が、イズミを呼ぶ。イズミを呼んで、笑っている。声しか、脳裏に巡らない。先ほど辿ったばかりなのに、顔を思い出せなかった。
虚構の顔ばかり、見せられた。厭世観で糊塗した顔を、狐面のようだとまで思っていた。
其の薄ら笑いの、一体何処に。
本当の心があったというのか。
「貞枝さんは、君の事を綺麗だと書いています。夏の盛りにふらりとやってきた君の事を、希望の光のように思っていた、と。イヴァン宛ての遺書にも書いてありましたね。伊槻さんへの愛について書かれたくだりです。人を愛するという事が、貞枝さんには今まで判らなかった。此の夏まで、一度も。此れは、今は判っているという事です。彼女は、愛を知ったのです。どう考えても、君の事でしょう。其れに、君宛ての遺書の結びにも、はっきりと書いてありましたよ。君に会えて良かったと、貞枝さんは」
「何故です」
イズミは、訊いた。
理解できなかった。考えもしなかった。他人の考えている事は、大体判る心算だった。大人とばかり付き合ってきたのだ。相手の好悪は把握できるはずだった。
だが、判らなかった。そんな感情は知らなかった。なぜ己に向けられるのかすら判らない。
それくらいに、イズミは――貞枝を、見てはいなかった。
「……何故、と。人が人を愛することに、そんな言葉をぶつけては。君、可哀想ですよ。貞枝さんに同情する気はありませんが、今の台詞だけは、君が悪い」
克仁が、哀しげに笑う。すれ違い続けて通わなかった心と、其の魂を悼むように。
「人が人を愛することに、理由など要りませんよ。ですが、強いて云うのなら……君が、清らかに見えたからではありませんか」
「清らか。……僕が」
「ええ。九年前の夏、貞枝さんはイヴァンを殺す気でした。國徳さんも殺す気で、そして君も殺す気でした。呉野の家を滅茶苦茶にして、一族の者達と心中する気でした。……ですが、君は生き残りました。遺書にも書いてありましたね。君を此の惨劇から、逃がさなくてはならないと思った、と。――予定が、狂ってしまったのですよ。君を、愛してしまったから。寂しいですね。〝清らか〟を潰す為に、人を捨てて、鬼になったというのに。其の〝清らか〟を、愛してしまうとは。其処で、立ち止まってほしかった。鬼にならずに、人として。踏み止まってほしかった」
「それでは、遺書が、こんな風に書かれているのは。僕を殺す気だった貞枝さんが、僕を逃がすと書いているのは。氷花さんの所為で狂人になった風に見せかけて、僕達を襲っていた伊槻さんを道連れにして、消えていったのは……」
「好きな人には、綺麗な姿を見て貰いたいと思うものですよ。自己犠牲を演じた心は、一応ですが判ります。……左様ならば、仕方がない。綺麗に死んで、綺麗に別れて、居なくなってしまいたい。其れだけのことですよ」
「何故です」
イズミは、言った。
克仁が、困ったような顔をする。イズミは、言葉を止めなかった。「何故です」ともう一度、克仁が答えてくれるまで問い続けた。
「何故です。貞枝さんが、僕を愛していた? 知りません。そんなものは。……そんな愛情を、僕は認めません。本当にそれが愛だというのなら、彼女は僕の為に、僕の家族を赦すべきでした。それが出来ない女の愛など、僕は、受け入れられません。そんなにも、清らかではないものを、僕は」
言葉が、喉でつっかえる。
気づいたのだ。唐突に。己の言葉の醜さに。嗚呼、と喘ぐように息を吸った。
だから――貞枝は。
「……。君の、清らかな魂は。屹度、彼女を拒絶する。貞枝さんも、判っていたのですよ。己の愛を明らかにしたら、其の時、君から拒絶されることが。貞枝さんの、君への悪辣な態度の数々。あれは、ああするしかなかったのだと思いますよ。……彼女には、伊槻さんがいらっしゃいます。氷花さんという娘もいます。其れに、君は甥ですから。道ならぬ恋は、破滅しか導きません」
「……ですが、僕は呼び出されました。『伊槻さんが、失踪した』と。あれは、僕を呼び出す為の電話だったはずです。あの惨劇の夜に、僕は神社で殺されるはずでした。何故、呼び出したのです。筋が通りません。何故です」
「其の矛盾が解せない君は、一度恋をすれば宜しい」
克仁の目に、慈愛と憐憫が涙のように薄く浮かぶ。其れを知らぬイズミの事を、哀しんでいるかのようだった。
「愛した人の、命と幸せ。其れを守りたいと願うか、救いたいと慈しむか、あるいは死を望むのか。其の葛藤の果てに貞枝さんは、伊槻さんとの心中を選びました。氷花さんに罪を被せて、君の前から消えました。君を殺したいという心が真ならば、君を生かさなければと思う心もまた真。……貞枝さんは、本当は。誰と心中したかったのでしょうね」
「……僕は。僕だけは。彼女の殺人を、止められたのかもしれないのですね」
イズミは、呟く。だが、こんな贖罪には意味がないと、言葉にしながら判っていた。此処まで克仁に言われて尚、判らなかったからだ。貞枝の事が、何も。
家族を殺した鬼の女と、其の家族を愛した青年。
歴然たる差異が、其処に在った。其の隔たりを埋める愛など、此の世に在ってはならないのだ。其れがイズミの感性だった。譲れない心だった。途方もない諦念を抱えて、イズミは項垂れる。
涙など、出ない。ただ、泣けたら楽だろうかとはぼんやり思った。
こんなにも出来過ぎの悲劇の愛に、もしも名前を宛がうなら、其れはさしずめ、観念小説とでも呼ぶべきだろうか。
――酷い、因縁だと思う。
其れをイズミに教えた女は、もう何処にも居ないのに。
「……イズミ君。一つだけ君に云っておきますよ」
克仁が、立ち上がった。
「私は先程、此の〝氷花〟の花は〝貞枝〟になる花だと云いました。……ですが、此処で君に質問です。君は十五歳の少女、呉野氷花さんの事を、どういう少女だと思っていますか?」
「……突然、何を言い出すのです」
「まあまあ、とりあえず答えて御覧なさい」
「……」
イズミは、思案する。そして思いついた端から、少女の印象を述べて言った。
「まず、我儘ですね。世界は己の思うままと盲信している様は、まさしく思春期の少女そのものです。一般的な女子中学生たちを馬鹿にしているわけではなく、彼女が愚かだという話です。自意識が異様に高いのです。後は、そうですね。己の異能によって人を壊すのが、三度の飯より好きな小悪党。そのくせ容貌や世間体を酷く気にする小物です。しかも己の悪意に他者が抗いを見せた時には、目も当てられない程の醜態を晒します。実に格好悪くて情けない、僕の不肖の妹です」
「君、よくもまあ其処まで罵詈雑言がぽんぽん出ますね」
克仁が渋面を作りながら、笑いを堪えた様子で言う。其の顔を見てぴんと来るものがあったので、むっとしたイズミは克仁を睨んだ。
「克仁さん、やはり貴方は狸ですね。僕が坂上拓海君に嘘をついたように、貴方もまた嘘をつきましたね? 貴方は〝言霊〟の事も、氷花さんの悪行も、全てに対して素知らぬふりをしていました。ですが、知っていましたね? 貴方ほどの人が、氷花さんのこれまでの悪事に全く気づいていないなど、それはあまりに不自然です」
「ええ、知っていましたよ」
克仁は、あっさりと認めた。鼻白んだイズミが口を噤むと、克仁は盆を拾う為に屈んでから、すっと背筋を伸ばした。
線の細い黒髪に混じった、銀色の筋が揺れる。……やはり少し、老け込んで見えた。
「イズミ君。先に云わせて貰いますよ。君は、氷花さんの事を小物だと思っていますね。悪辣な態度で己を大きく見せようとする、背伸びをした一人の中学生の少女。其れが、君の思う呉野氷花さんですね」
「ええ。その通りです」
「では、九年前の君と貞枝さんの喧嘩。あれは、やはり君の勝ちです」
克仁は、断言した。イズミは、不意を打たれてしまった。
九年前の、喧嘩。貞枝の言葉が、脳裏を静かに過っていく。
――だって、あの子は変わるのですもの。居なくなって、氷花になる。あの子の言う〝清らか〟とは程遠い、鬼のような心になる。
「かつて〝杏花〟という魂は、母の教育によって〝貞枝〟になるはずでした。ですが、どうです? 今の氷花さん、貞枝さんに見えますか? 確かに悪辣でしょうが、貞淑な悪女には程遠い。悪意が空回って自滅している様なんて、滑稽で可愛らしい程ですよ。――彼女は、〝貞枝〟にはなりませんでした。〝氷花〟です。君が兄として仇の少女と共に居続けた結果が、今の氷花さんの姿なのだと、私は確信していますよ。……其れに」
克仁は、屈託なく笑った。
「君は、何度も戦っていましたね。貞枝さんと向き合い続けて、杏花さんに一体どういう教育をしているのかと、大人相手に食って掛かりました。君は、正しかったのです。彼女を可哀想だと思って戦った君の感性は、あの夏で最も美しく清らかでした。……誇りなさい。正しいのは君ですよ。もう一度云います。よく頑張りましたね。イズミ君」
「……」
肩から、力が抜けていった。ずるりと背後にもたれかかると、和装が擦れて、壁の硬さが背骨に伝わる。文机と反対の方へ身体を静かに倒していくと、鉛のように重い疲労が、傾けた重心と同じ方向へ動いていく。
克仁の前だというのに、だらしない。頭の隅で思ったが、たまにはいいかと思ってしまった。
「……風邪を引きますよ」
克仁の声が、降ってくる。そんな遣り取りが九年前にもあったことを思い出しながら、微睡むようにイズミは笑った。
「……久しぶりの、帰省ですから。何だか安心してしまったのですよ。克仁さん、僕は夕飯を御馳走になって帰ってもいいのでしょう? 少し眠って、目が覚めたら、是非とも頂きたいので……一時間ほど、寝かせてください。今日の晩御飯は、何ですか?」
「ラーメンと、天麩羅蕎麦ですよ」
克仁の足が、ふいと動く。襖の方へ、動いていく。畳が軋む音がして、夜風に乗った藺草の匂いが、鼻腔を優しく掠めていった。懐かしの香りに包まれながら、閉じかけた瞼をイズミは開いた。
「君がラーメンで、氷花さんが天麩羅蕎麦。私は間を取って、両方を小鉢に盛って食べますよ。全く、可笑しな夕餉になるのは、君たち兄妹の好みが全く違う所為ですよ。おかげで私が苦労するのです」
「貴方が優しすぎる所為ですよ、その苦労は」
「減らず口ですね、君は。素直に嬉しいと云えば宜しい」
克仁が、おどけたように笑う。然うして不意に口調を改めると、そっとイズミに囁いた。
「私は、確かに知っていましたよ。氷花さんの悪行を。其れが〝言霊〟の霊威によるものだとは知りませんでしたが、其れでも、知っていましたよ。彼女に、別の貌がある事を。……イズミ君。私は此の部屋に来る直前に、坂上拓海君たちに、こんな言葉を云ったのです。――『私はあの子の親代わりだけれど、親ではない。本来の親としての役割を、全て埋められるとは思っていない。此の関係を家族だと豪語して良いものなのか、其の距離感も未だに掴みかねている』……此の台詞は、私の本心です。嘘などついていませんよ」
「……何故、ですか」
意外な、言葉だった。克仁は、イズミの事を家族だと言った。最愛の息子だと。イズミが生活の基盤を神社へ移してからも、交流が絶えていたわけではない。
其の克仁が、何故。かつてのイズミのように居候する氷花を、家族扱いしないのか。
「……君にだけ、告白しますよ」
克仁は、言葉通り秘密を明かすような密やかさで、其れでいて寂然と言った。
「イズミ君。私はどうやら、少し臆病になってしまったようなのです」
「どういう、意味です」
「氷花さん。いつか、居なくなってしまう気がするのですよ」
驚いたイズミは、口を挟もうとする。だが、意識がひどく重かった。開けた瞼が、閉じていく。倦怠感が緩く身体を覆っていき、何も〝言挙げ〟出来なかった。
「あの子はいつか、私の元から居なくなってしまう。不思議ですね。私には〝先見〟の異能はないはずなのに、そんな悲しい予感が消えないのです。イヴァンが消えて、怖くなってしまったのでしょうね。氷花さんを家族だと認めてしまったら最後、私は屹度、彼女を失った時に耐えられなくなってしまう。心に然ういう自衛が働いて、私は彼女との関係を、踏み込んだものに出来ないのだと思いますよ。……云ったでしょう。狡い大人だと。私もまた、狡いのですよ」
「……。居なくなる。どういう意味で仰っているのか判りかねますが……そうですね。不謹慎な話ですが、もし、國徳御父様に何かあったら、その時は。氷花さんは、僕が連れて帰りますよ。呉野の神社の、あの家に」
「……以前お会いした時には、お元気そうに見えましたが。御加減は、やはりよろしくないのですか」
「ええ。最近、食欲が落ちました。医者にも、診てもらっています。……随分、長生きしてくださいましたが……もっと、長生きしてほしいものです。克仁さんの言葉ではありませんが、家族を失うのは、辛いことですから。……それに」
畳に頬をつけたイズミは、うつらうつら言った。
「愛している、家族、ですから」
克仁は、其の言葉に明確な返事をしなかった。蝉の音が、まだ聞こえる。短い沈黙を挟んでから、克仁は小声で言った。
「杏花であれ、氷花であれ、貞枝であれ。呉野の女は罪作りですね。おかげで此方が、こんなにも永く縛られている」
「……それでも、僕は。氷花さんを、妹として……愛していますよ」
イズミが呟くと、呆れと優しさが入り混じったような、ささやかな笑い声が聞こえてきた。「長い、兄妹喧嘩ですね」と、侘しげな口調で、克仁が言う。
其の言葉を、最後にして――ぱたん、と。襖の閉じる、音がした。
「……。そうですね。そうかも、しれません。……克仁さん。おやすみなさい」
イズミが囁くと、襖の向こうから声がした。おやすみと返してくれたのだろうか。力なく畳に投げ出した白い腕は、やはり死人のようだった。あの夏と全く同じ感慨が、胸に漠然と去来して、思わず笑みが零れてしまう。
本当に、なぜ生き残ってしまったのだろう。
自嘲とも揶揄ともつかぬ其の笑いが、本心ではないことも判っていた。
多分、何も感じていない。心が疲れてしまっていた。イズミは徐々に闇へと引き摺られていく意識の中で、呉野貞枝の貌を思い出そうとする。
九年前に死んだ女。イズミを愛していた女。
其の容貌の記憶に、思いを馳せてみようとして――出来ないことに、気づいてしまった。
黒く艶やかな長い髪。しっとりと濡れた赤い紅。悪辣な笑みを化粧のように頬に乗せた、其の艶姿は――妙齢の女性では、なかったからだ。
もっと、幼い。だが、六歳ではなかった。成長している。其れでも、まだまだ子供だ。けして、大人ではない。
皮肉なものだと思う。清らかではないというのに。
結局、恨むことは出来なかった。
「氷花さん。……貴女、綺麗になったと思います。見た目だけなら、そっくりです。……ですが、まだ、いけません。僕達は、鬼ですから。美しく清らかな文学から、名を戴いた鬼ですから。……今の貴女では、まだ駄目です。小物で、悪党で、幼過ぎて。そんな貴女では、まだ、駄目です。まだまだ、全然、足りません。足りてなど、いないのです」
目を、閉じる。足音が遠ざかり、同時に聞こえてくるのを感じながら、泥のような眠りの中に、意識をずるずると沈めながら、夢うつつの声で、イズミは言う。
「僕達は、罪塗れです。ですが、その罪を、贖うことが出来ません。しかも貴女には、贖う気さえ無いのです。……ならば、せめて。美しくなくては。文学に、見合うように。そうでなければ、赦されません。決して、赦されはしないのです……」
其処から先のことはもう、イズミにはよく判らなかった。
ただ、良い夢を見られる気がした。昔を此れほど懐かしんだのだ。幸せな家族の思い出に包まれながら、美しい夢を見られるだろう。
父に、会いたい。
同じ処へ行きたかった。
だが、駄目だ。まだ駄目だ。其方へ行くには早いのだ。家族と交わした約束が、イズミを現に繋ぎ止める。今はまだ、其方に行けない。会いたかったが、まだ会えない。まだ、生きていなくては。少しでいい。否、長く。生きていなくてはならないのだ。
せめて、夢で、出逢えたら。
そんな希望を抱きながら、イズミ・イヴァーノヴィチは――意識を夏の夕闇へ、ゆっくりと手放していった。
*
廊下の薄暗がりには、夏の静けさが満ちていた。
蒸した夜気と虫の音が、霧のように揺蕩う闇の中。和室から退室した男は、襖をぴたりと閉めてから、階段の傍に立つ浴衣姿の少女に気づき、息を呑んだ。
そこに居るとは、思わなかった。そんな驚きの目で見下ろす男へ、和装の少女は微笑んだ。
「お父様。ただいま戻りました」
「ああ……おかえりなさい。夏祭りは楽しめましたか?」
「ええ。とても。ですが、少し疲れてしまいました。お部屋で少しだけ休んでから、すぐに台所を手伝いに行きます」
「いえ、今日は結構ですよ。君はいつも気が回りますね。ただ、疲れているところ悪いのですが、君に一つだけお願いがあります」
「あら。お父様が私にお願いだなんて、珍しいですね。何でしょうか」
「イズミ君が、君のお部屋で眠ってしまいました。……タオルケットを、掛けてあげてください。風邪を引いては事ですから。君には申し訳ありませんが、お部屋を一時間ほど貸してあげてください」
「お兄様が」
少女は、口元に手を当てる。長い睫毛を伏せて「判りました」と答えると、閉ざされたばかりの襖を開き、静々と自室へ入ろうとする。
その背中に、「氷花さん」と男が声を掛けて呼び止めた。
「はい?」
少女が、振り向く。
呉野氷花が、振り向く。
男は、藤崎克仁は――「いえ、何も」と言い直して、薄く笑った。
「其れでは、夕飯の支度をしてきます。君は私の部屋で休むといいでしょう」
「はい。ありがとうございます」
氷花は、そう言って襖を閉じた。廊下と和室が分断され、六畳一間に沈黙が満ちる。紫紺色に血液を溶いたような薄闇に、ささやかな蝉の音が流れた。
退廃美に染まった室内の奥、文机の傍の畳には、灰茶の髪の異邦人が、身体を横向きに倒して眠っている。
男を一瞥した氷花は、足音を立てないまま押入れの襖を滑らせて、中から白いタオルケットを取り出した。それを表情もなく兄の元まで運んでから、浴衣を着た長身痩躯へゆっくりと掛ける。そして己の浴衣の裾を押さえると、畳へ静かに腰を下ろした。
男の隣――呉野和泉の隣に、腰を下ろした。
「……夏って、厭ね。兄さん」
氷花は、言う。淡々としたその声音は、先ほど同じ中学校へ通う少年に向けたものと同じ、感情の欠落した声だった。
「兄さん。貴方、どうして私の部屋で寝てるのよ。迷惑だわ。死ねばいいのに。……ねえ。本当は、起きてるんじゃないの?」
和泉は、返事をしない。タオルケットの胸元が、規則的に上下する。氷花は、溜息をついた。
「いいのよ、どちらでも。起きていても、寝ていても。生きていても、死んでいても。……でもね、兄さん。貴方を殺すのは、私なんだもの。だから、困るのよ。こんなところで、死なれたら。ねえ、死んでいるなら、生き返って。私が殺し直してあげる」
氷花は、言う。感情が消えた声のまま、はなから返事など期待していないような投げやりさで、眠る兄の頬に手を伸ばし、触れて、撫でた。
「お兄様。貴方、綺麗よ。起きている時の貴方は、意地悪だから嫌い。でも、こうしている貴方は嫌いじゃないわ。だって、お兄様に見えるもの。〝アソンデ〟くれた、お兄様に見えるもの」
和泉は、返事をしない。妹に触れられて尚、目覚める様子は全くない。死人のように黙している。氷花の手が、目覚めない兄の首に伸びた。
白い指が、項を撫でる。
もう片方の手も伸びて、両手が、和泉の首に掛かった。
「……」
虚無を映していた瞳に、惑うような光が揺れる。抵抗しない兄の首から、ぱっと氷花は手を外した。美貌に、自己嫌悪が薄く浮かぶ。莫迦なことをしたと自分自身を蔑むように、和泉から目を背けている。長い黒髪が大きく撓み、眠る和泉の胴に掛かった。
白いタオルケットを掠める毛先が、黒く艶やかに流れていく。
氷花は身体をゆっくりと倒し、和泉の隣に横たわった。
「……私、酷いことを言われていたのよ。お兄様。知らなかったでしょう」
氷花が、兄に身体を寄せる。
衣擦れの音が、微かに響いた。蝉が、まだ鳴いていた。
「あの頃のことは、忘れてしまったことも多いけど、覚えていることも多いのよ。お母様は、私の事が嫌いだったのね、って。今なら判るわ。でも、あの頃は判らなかった。私は、お母様が好きだった。お母様も、私の事が好きだと思ってた。お母様は、綺麗なものがお好き。私も同じよ。美しいものは好き。でも、いくら美しいものを集めても、お母様は私を愛してはくれなかった。好きだと思っていたのは、私の方だけだった。それが判るまで、随分と時間が掛かったわ。伊槻お父様と喧嘩して、お母様と喧嘩して、やっと判ったわ。……だから、嬉しかったのよ。お兄様が、ロシアから来てくれて。遊んでくれるお兄様がいて、私は、本当に嬉しかったの。……だから、許せないのよ、お兄様。貴方の事が、許せないの」
氷花は、じっと兄を見る。瞳に薄く、怨嗟が宿った。
「お兄様は、私と遊ぶことを突然やめたわ。それに、とても嘘っぽい人になってしまった。誰にでも優しいお兄様。でも私には冷たいの。一緒に〝アソンデ〟くれないの。お兄様。貴方、綺麗過ぎるわ。どうしてそんなに綺麗なの? おかしいわ。どうして? そんなにも清らかな人なんて、私は一人も知らないわ。私の知っているお兄様は、そんな人ではなかったもの」
氷花は、もう一度手を伸ばした。再び和泉の頬に触れる手つきは、言葉とは裏腹に繊細だった。
「お兄様は、清らか。……でも、お兄様。清らかな貴方。清らかな人って、『憎悪』がないの? ……そんなわけ、ないわ。絶対にあるはずよ。隠してるんでしょう。お兄様。私に意地悪して、隠してるんでしょう。私、貴方が知りたいわ。本当の貴方が知りたいの。貴方の人間の部分を見つけたいの。貴方の『憎悪』を突きつめたいのよ」
〝清らか〟の角を落とした鬼と、角を拾った御隠居。
あるいは、角を失った善の鬼と、角を得て変貌した御隠居なのか。
氷花は和泉を睨み続けていたが、ふっ、と蝋燭の火が消えるように、張り詰めていた憎悪が消える。まるで力尽きた蝉が地へ転がるように、そっと儚げな吐息をついて、兄の頬に、唇を当てた。
触れるだけの、口づけ。唇を離した氷花は、しばらく思案気に和泉を見つめていたが、それ以上は何もすることなく、幽けき声で、兄に言った。
「おやすみなさい。イズミお兄様。良い夢を」
それを最後に、氷花もまた目を閉じた。
愛憎の角が互いに欠け合った兄妹は、幽玄の花が葬送のように降る部屋で、昏々と静かに眠り続けた。




