清らかな魂 29
『私は、知っていたのです。御父様が、御母様を愛していないという事を。
いいえ、判ってはいるのです。愛してくださっている事は。ですが、其れは本当に愛でしょうか。たとえ本当に愛だとしても、愛だと認めるのは厭でした。
愛しているではなく、仕方なく愛してくれている。そんな歪な愛情は、まだ子供だった私にとって、受け入れ難いものでした。
御父様には、遠く離れたロシアの地に、愛した女性が他にいた。其の人を置いて日本に戻り、此処で家庭を持ってしまった。家族に命じられるまま再婚なさって、稟御母様を妻にして、そして生まれたのが此の私。
イヴァンお兄様。自分には異国の兄がいると知った時、私は貴方に同情の念を寄せたのです。御父様に捨てられた、可哀想なお兄様。そんな風に同情して、貴方を蔑んでいたのです。
そんな優越感は、やがて崩れ去りました。私は、気づいてしまったのです。御父様の愛情が、一体どちらに傾いているのか。あの御本を、見た時から。
捨ててやろうかと思いました。
なのに、結局できませんでした。
だって、お兄様。貴方のお母様、とッてもお綺麗だったんだもの。嗚呼、此れじゃあ敵わないわって、思ってしまったんだもの。
中でも、一際美しかったのは、貴方たちの家族写真でした。我が子を抱くソフィヤさんと、愛妻の肩を支えた御父様と、真ん中の貴方。こんなにも美しい思い出が、美しい本の中に収まっている。
其の瞬間に、判ったの。御父様の御心は、まだ其方に在るのね、って。御父様の書斎で、本棚を閉ざした硝子扉の鍵を開けて、絢爛豪華な『粧蝶集』を、勝手に手に取って開いた時に。私は、全てを知りました。
私は、愛されてなどいないのだと。
引き裂かれた愛の果てに、仕方なく再婚した女が産んだ、厭な子供。其れが私。私でした。愛されていたのは貴方よ、お兄様。同情されるべき存在は、私でした。蔑まれるべき子供は貴方ではなく、最初から私だったのです。
だから、私が『貞枝』と名付けられたのは、御母様なりの当てつけですよ、屹度。確かめたことはないけれど、稟御母様、時折寂しそうにされていたもの。
厭な子供。厭な女。厭な命。
御父様にとって私は屹度、何から何まで厭だったでしょうね。
私という命は、あの方の枷になります。日本に繋いで、繋ぎ止めて、其のまま縊り殺してしまう。御父様、死にたかったと思うのよ。私だったら死んでいるわ。本当よ。嘘じゃない。酷い境遇だと思うもの。
でもねえ、此処がどんなに苦界でも、御父様が死なないのは。
貴方の所為よ、お兄様。
貴方がいなければ、屹度死んでいたと思うのよ。ソフィヤさんと二人、心中したかもしれなくてよ。でもねえお兄様、貴方の所為で、御父様は死ぬ事も出来ない。子供に親は必要ですもの。親もまた、子供が必要なんだもの。
御父様がもし、自殺なんてなさったら。貴方の成長を、二度と知る事が出来なくなります。貴方が今どんなことを考えて、どれくらい背が伸びて、ソフィヤさんと一緒にいるのか。美しく清らかな未来を想像する事も、いつか巡り会う日が来ると夢想する事さえも、死んでしまっては叶わない。貴方の命は呪いよ、お兄様。御父様を現に繋いで、生き地獄の憂き目に合わせているのよ。
そして、貴方がそんな呪いを、私の父に掛けた所為で。
私が、生まれてしまったのよ。
お兄様。貴方の所為よ。
愛のない結婚も、愛のない子供が生まれたのも、全部、全部、貴方の所為よ。
御父様は貴方の所為で、愛に殉じる事さえ出来ない。
皮肉ね。御父様のお好きな文学、愛の成就と破滅ばかり。御父様は死にたいのに、貴方が其れをさせないのよ。
お兄様。貴方が許せない。
貴方、清らか過ぎるもの。
愛し合った女の人が、産んでくれた自分の子供。引き裂かれてなお愛された、清らかな魂、イヴァンお兄様。私、貴方が憎かった。
でもねえ、誤解しないで頂戴ね。お兄様だけが憎いわけではないの。私の書き方では御父様を愛しているように聞こえるけれど、私は御父様を愛しているわけではないのですから。
むしろ、逆です。
御父様が、憎い。
半端な意思で再婚して、母に私を産ませた父が憎い。お家の為に後妻を抱いて、其れで恥ずかしくないのかしら。死んでほしい。死ねばいいのに。早く死ね。怨嗟ばかりが募りました。
ですが、殺そうとは思いませんでした。人を殺せばどうなるかくらい、判っていてよ。だから、何もしませんでした。怨嗟だけが、育ちました。其れでも、何もしませんでした。何も出来ませんでした。
そして、月日は流れ、私は伊槻さんから求愛されました。
伊槻さんへの愛については、御父様宛ての遺書を見せて貰ってくださいな。
掻い摘んで書くと、私が伊槻さんに向けた愛情は、あの方が私に注いでくださった愛情と比べたならば、恥ずかしい程に微々たるものだったという事です。
私、伊槻さんの事は好きよ。嘘を吐いているわけではないの。
でもねえ、愛しているかと訊かれたら。御免なさい。答えられない。
愛しているって、何かしら。私には判りません。判った事なんて一度もなかった。此の夏まで、一度も。伊槻さんには悪いことをしてしまったと思うけれど、其れでも「愛している」と云われた事は嬉しかったの。だから、結婚しようと云われた時、はいと私は答えたの。
そして、身ごもりました。
愛しているかどうかさえ、よく判らない人と寝て、私は子供を授かりました。
そんな時でした。私の人生の転機とも云うべき、予想外の事態が起きたのです。
其の言葉は、天啓でした。私を救う言葉でした。私は、其れを知ったのです。此の言葉を掛けられた今、私がすべきことが何なのか。爛々《らんらん》とした生気が身体を巡るのを感じながら、高揚に踊る胸で聞いた、其の言葉を告げたのは。
御父様でした。
憎いと思った御父様。其の御父様が、云ったのです。子を身ごもり、大きく膨らみ始めた私の腹を見下ろして、國徳御父様が云ったのです。
嗚呼、二人居る、と。
茫然とした様子の其の台詞は、屹度、私に向けられたものではなかったと思います。驚き過ぎたあまりに口から自然と滑り出した、ただの独り言だったと思います。
ですが、其れを独り言で終わらせる心算はありませんでした。
逃がさない。然う思ったわ。御父様、絶対に逃がさない。
私は、其の一言だけで悟ったのです。
娘に、異能がある事が。
父と、異能について語り合った事はありません。ですが、私は悟りました。父が、一体何を見たのか。一体何を以てして、〝二人居る〟と云ったのか。正確に理解していたのよ。
私は神社の娘ですから、父と藤崎克仁さんとの会話も、白状してしまうけれど、よく立ち聞きしていました。だから、父の異能については知っています。ただ、御父様は藤崎さんに全てを明かしているわけではなさそうでしたから、私が知った父の異能は、屹度ごく一部なのでしょうけれど。
其れでも。父が、僅かながら未来を見られる事。私は、其れを知っています。
だから、二人居ると言われた時。私は自分の腹を見下ろして、とても嬉しくなってしまったの。
判ったの。異能の子。此の子にもまた遺伝した。私が父から受け継いだ異能。其れよりもずっと強い異能。其れを、此の子は受け継いだ。其れが判って、嬉しかった。此の子がどういう風に成長するのか、其の成長を操作できる。私の意のままに操れる。
私は、其れから。御父様に、働きかけました。
自分に、異能としか形容できない霊感がある事を。
そして、其の異能が子供に遺伝したかもしれない事を。
其れを怖々と訴えて、どうしましょうと縋りました。縋って、働きかけました。いずれ此の子が死んでしまう。其れが判ってとても怖い。どうにかして、助けてほしい。其れが叶わないなら、ねえ、せめて。此の子の為に出来ることを、家族で何かしてあげましょうよ、と。
然うやって、働きかけました。
私の筋書き通りに動いてもらう為に、私は御父様を懐柔しました。
昔から、時々はっとする事があったのですよ。此の人には霊感がある、此の人は然うじゃない。そんな識別を私は無意識のうちに、まるで遊びのようにしていました。自分が神社の家の娘だから、そんな力に長けているのだと思っていたわ。
ねえ、其れまでに一度だけ。異能のことを御父様に訊かれたの。
お前には、霊感があるのではないか、と。
父には、確信がないようでした。探るような眼つきだったわ。
私は其の時、「何のこと?」と云って、はぐらかしました。父と話すことなんて何もないと思っていたし、興味もあまりなかったもの。
ですが、事情が変わりました。
私は、知らなくてはならないのです。此の子の異能が何なのか。此の子に何が出来るのか。其の異能を知らなくてはと、使命のように思いました。そして、もし、使えるなら。どんなことにだって利用してやろうと思いました。
お兄様。臨月に、お電話をくださったことを覚えていますか。
子供が無事に生まれたら、会いに来ると云ってくれましたね。イズミ・イヴァーノヴィチを連れて、是非とも娘に会いに来ると。
其の言葉を、受話器越しに聞いた時、貴方は私がどんな気持ちになったとお思いですか? 屹度、貴方には判りません。私がどんなに嬉しかったかなんて。屹度貴方には判らないのです。
本当に、嬉しかったのですよ。
本当に、本当に、私は嬉しかったのです。
此れで、復讐が出来るから。
美しい貴方達に、清らかな愛に包まれた貴方達に、國徳御父様に愛された貴方達に、復讐が出来るから。
清らかな家族を殺す為に、私の家族を利用する。
其の機会に、恵まれた。其れが、私には嬉しかった。
お兄様。和泉君。そして國徳御父様。
私は屹度、貴方達を殺します。
呉野のお家を滅茶苦茶にして、清らかな愛を全て壊して、全員残らず殺します。そして、私も後を追います。其れを、私は決めました。子を身籠り、貴方の電話を受けてから。其れからの私は、國徳御父様の懐柔に意識の全てを集中させて、娘に此れから施す教育はどんなものが相応しいか、其の思索に明け暮れました。誰と触れ合っても埋まりはしなかった深い孤独が、此の時やっと、はっきりと埋まった気がしたのです。私は、とても幸せでした。
其の日から。私は、人である事をやめました。
いずれ、家族を皆殺しにする。そんな所業を為す女が、人を名乗っていいわけがない。そんな己を鬼だと思った時、私は自分の顔が、笑みを作っていることに気づきました。
嗚呼、本当に、どこまでも厭な女。
そんな厭な女から、もうすぐ生まれてくる子供。
悲しいわねえ、お兄様。愛がないままの出産は、稟御母様の時とまるで同じ。私は伊槻さんを愛さないまま、子供を産んでしまいました。悲しい子を産み落とした罪は、私にも等しくあったのです。
此の異能の所為で、愛娘の将来に、暗雲が立ち込めるのではないか。
そんな風に怯えて見せたら、簡単だったわ。
御父様、話してくれましたよ。此の子にもし異能があるなら、どんな可能性があるか。もし何らかの破滅を齎すようなものであれば、どんな異能だろうか。一緒に考えてくれました。私は霊感の識別しか出来ない霊能者で、微弱な異能しか持っていないというのに、父は其れを判っていないようでした。今まで愛想なんて欠片もない堅物一辺倒だった父は、とても一生懸命に、此の子の将来を一緒に案じてくれました。
温かな時間でした。信じられない程の幸福を感じました。親子の絆を、感じました。
そして、其の一瞬だけ、胸が少し痛みました。
私は、自分の娘を復讐の道具にしようとしているのに。其の異能を、自分の都合の良いように利用しようとしているのに。
ですが、立ち止まる心算はありませんでした。
此の程度の絆で、全てを赦してしまえるなら。私という女は鬼になどならなかった。
ねえ、お兄様。幸せね。貴方達、とても幸せなのよ。家族の事を想う時、貴方達は常に片時の曇りもなく、清々しい空気を吸って生きていて、其れがとても幸せなのよ。
赦せない。
綺麗過ぎて、赦せない。
死んでくれなければ気が済まない。
嗚呼、ねえ、然うでしょう? 杏花。
いずれ私のようになる、醜い魂の女の子。
貴女が無垢に笑うたびに、私が貴女にした鬼の所業に、涙が出そうになってしまう。貴女の感性が私に近づく其のたびに、引き攣り笑いを我慢するのが、私はとても辛かった。屹度、醜い。酷い貌で笑っている。其のうち貴女を見るたびに、鏡を見ている気分になる。私はそんな女を作ろうとして、人でなしになっている。歪んだ鏡の貴女を見て、時々私は思うのよ。嗚呼、もう、今すぐ死んでしまいたいって。
杏花。私は、貴女に〝命〟を教えません。
代わりに、〝アソビ〟を教えます。
美しいものに手を伸ばしても、けして手には入らない。そんな観念を教えます。
杏花。美しく清らかな貴女。
私のようになればいい。
清らかなものへ恋い焦がれながら、命を摘んで、疎外感と醜さを魂いっぱいに溜め込んで、人でなしにおなりなさい。
貴女は、そんな、いけない子だから。
美しく清らかなものには、一生かかっても、手が届かな』




