清らかな魂 28
「最初に疑わしいと思ったのは、彼女が君達から全く〝同胞〟として扱われていなかったからです」
克仁のそんな言葉から、此の奇妙な謎解きは始まった。
「まるで其れが暗黙のルールであるかのように、君も國徳さんも彼女を〝同胞〟扱いしませんでした。身内であるにもかかわらず。其の反応を以てして、彼女には異能が無いと判断すべきかとも思いましたが、やはり一人だけ遺伝しないという風には、どうにも考えにくいのです」
然う感じるのは尤もだ。克仁の言葉に、イズミは頷く。
「そうですね。貞枝さんは感情的な人でした。何を考えているのか全く判らない反面、悪意ばかりは明け透けです。まるで常人と同じように、感情が心に届いてきます。よって、僕は『判る』『判らない』の判断を、彼女に対してだけは意図的にしませんでした」
「其れは、何故です?」
「貴方ならお判りでしょう、克仁さん。それをしてしまったら……とても怖いことになりますよ」
イズミは、自嘲気味に笑う。克仁の表情が、固まった。
「もし、貞枝さんに異能があるなら……あの事件は、全く違った顔を見せます。僕は、それが恐ろしかったのかもしれませんね。だからこそ無意識に、目を逸らしたのかもしれません。そういえば僕は、御父様からも一度言われていました。何故、目を背けるのかと。やはり屹度、怖かったからでしょうね。貞枝さんの事が、初めて出逢った少年の頃から、ずっと」
「……。君、まさか。予期していたのですか。こうなってしまうことを」
克仁の強張った声を受けて、イズミは暫しの逡巡の後に、頷いた。
「そうかもしれません。とても漠然とした感覚でしたし、自覚が芽生えたのはいよいよ皆が消えようとした時でした。僕の中でその予感が、もっと大きなものであれば……この惨劇、止められたかもしれませんね。感傷になりますが、父も死なずに済んだでしょう」
「……君は、國徳さんの血を、最も濃く引いたのやもしれませんね」
克仁は然う言って、感傷的な流れを断つように頭を振る。其のようにして感情と決別する仕草を見せてから、会話の流れを元に戻した。
「貞枝さんに対する一度目の疑念は、先ほど述べた通りです。二度目に彼女を疑わしく思ったのは、君と氷花さんが蕎麦屋へ行った時の事です」
「ほう」
其の言い方は、少しばかり意外だった。
「九年前にも指摘しましたが、やはり貴方は、杏花とは呼ばないのですね」
「茶番は止しましょう、イズミ君。此の際なのでお断りさせて貰いますが、私は此のような〝アソビ〟にお付き合いする気はありませんよ。呉野の者ではありませんし、御目溢しを願います。扨て、君と氷花さんの蕎麦屋での会話を思い出してください。おはなし会の帰りに、私から聞いた『鬼の角』について、二人で話した時の事です」
克仁は、痛ましげに目を伏せると、「可哀そうに」と小声で言った。
「あの子は、名乗る名前を間違えてしまいましたね。内では〝杏花〟、外では〝氷花〟。其のルールに酷く縛られているように見えました。イズミ君は、後にこんなものは〝アソビ〟には思えないと云いましたが、〝映像〟を見た私も、君と全く同じ疑念を持ちましたよ。此の件で君に謝っていたという氷花さん自身は、〝アソビ〟が終わるのが厭だからと釈明していたそうですが、私にはあの図は、大人の云いつけを守れなかった子供が、期待に沿えなかったという重圧に負けて、或いは苛烈な叱責を受ける未来を想像して、怯えて竦んでいるようにしか見えませんでした」
克仁は、畳から氷漬けの〝花〟を一つ手に取ると、重い溜息を吐き出した。
克仁から見て、手前の花。便宜上、〝杏花〟と定義した方の花だ。
――〝アソビ〟をやめれば〝氷花〟に戻る。そんな、歪みを抱えた花。
「イズミ君。私はあの瞬間に、貞枝さんを悪人と見做しました」
克仁は、言う。単調な言い方だったが、其の声には隠しようのない怒りがあった。
「氷花さんは、〝清らか〟なものに拘泥していました。〝清らか〟という言葉に拘ったこと自体は、言葉を教えた君の受け売りでしょう。ですが、彼女は君と出会う以前から、美しく清らかなものに対して、過剰とも云える執着を見せていました。君と氷花さんが出会ったあの日、御山には花がたくさん落ちていましたね。其の点からも、あの悪癖が君と出会う以前からのものだったと、容易に推測が可能です。六歳の少女が、何故ああも偏執的なまでに、美しいものへ焦がれるのです。あの価値観、美意識、観念。一体誰が植え付けたのです? 小学校にも上がっていない、幼い少女の世間の広さ。そんなものは知れています。あの観念は間違いなく、彼女の家族が植え付けたものです」
「その観念を植え付けた犯人を、なぜ貴方は貞枝さんお一人に限定なさるのです?」
一応然う訊いてみると、克仁からは「國徳さんは、私の友人ですので除外です」という飄々《ひょうひょう》たる返答が飛んできた。イズミは少し呆れてしまった。
「友人。そんな理由では、僕は納得しませんよ。完璧主義の克仁さん。それではただの感情論です。なぜ貴方は諸悪の根源を、貞枝さんお一人に限定なさるのです? 何か理由があるのでは?」
「全く、君はいやらしいですね」
克仁は呆れ果てたような目でイズミを睨んでから、今度は「消去法ですよ」と実につまらなさそうに言い捨てた。
「まず、伊槻さんは違います。感情論と云われたら其れまで。ですが、あの方の感性については、先程も云った通りです。呉野の〝アソビ〟と、〝アソビ〟に固執する愛娘の在り様。其れら全てに於いて倦厭を示した普通の男が、氷花さんにあんなにも歪んだ観念を植え付けるわけがありません。其れに、伊槻さんに関してはもう一つ、感情論とは異なる決定的な証拠がありますよ。伊槻さんは惨劇前夜に、氷花さんと派手な喧嘩をしていますね? あれが演技ではない限り、伊槻さんが呉野の〝アソビ〟を疎んでいたという事実は、大前提として揺るぎません。其れに、イズミ君は伊槻さんの心を『見た』ことで、彼が抱えていた悪感情を、私よりも知っているのでしょう? さあ、まだ何か反論があるなら云って御覧なさい。論破してあげましょう」
「判りました。伊槻さんに関しては白。納得です」
己の異能まで持ち出されては敵わない。イズミは観念して苦笑した。
「まだありますよ、イズミ君。氷花さんは、蕎麦屋でこうも云っています。『〝杏花〟と〝氷花〟の名を使い分けるのは、そうするように言われているから』と。先ほど述べた理由により、氷花さんに名前の使い分けを命じた人間は、伊槻さんではありません。さらに國徳さんに関しても、此の〝アソビ〟に『付き合っている』だけであり、発案者ではありません。一応念押ししておきますが、氷花さんは〝アソビ〟を提案された側であり、容疑者から除外します。依って、残った貞枝さんが犯人です」
「それだけでは、まだ納得できませんね」
イズミは食い下がった。意地悪をしている自覚はあったが、克仁なら応えてくれると思ったのだ。
「國徳御父様は、本当に白ですか? 貴方の友人という言い訳以外の理由を、僕に是非とも聞かせてください」
「其れならば君、何度も云いましたよ。國徳さんは、此の〝アソビ〟の発案者ではない。其れが答えです」
「……。どうやら、先ほど保留にされた矛盾の話に繋がるようですね」
此の謎解きが始まってから、ずっと其れが気になっていたのだ。
「なぜ御父様が〝アソビ〟を始めた人間ではない事が、御父様が白であるという理由になるのです? 判りにくいですよ、克仁さん」
「根拠なら、やはり十八歳の青年、イズミ・イヴァーノヴィチが示してくれましたよ」
克仁は、平然と言う。イズミは、肩透かしを食らった気分になった。
「また僕ですか。今度はどの時点での会話です? 若かりし頃の僕は、手がかりをそこかしこにばら撒いてきたようですね。なかなかのやり手です」
「自画自賛されると、こき下ろしたくなるのが人の常ですが、まあいいでしょう。おかげで謎解きがしやすいのは確かです」
呆れ笑いを浮かべた克仁は、「君が貞枝さんと口喧嘩をした時ですよ」と言って、過去を慈しむような目つきになる。
屹度、イズミが克仁の書斎を引っ掻き回した日を回想しているのだ。面映ゆさを覚えて苦笑すると、気づいた克仁がにたりと笑った。露骨に若さをからかわれたが、然程悪い気はしなかった。我ながら懐かしく思うところが多少なりともあったからだが、過去を偲んでいくにつれて、微かな胸の痛みも思い出した。
結局あの日、イズミの言葉は、貞枝には届かなかった。其の直後に、イズミは杏花に言われたのだ。
――左様なら、と。別れの言葉を、切なくなるほどの清らかさで。
イズミは緩く首を振って、雑念を淡々と追い払う。克仁との〝アソビ〟は、まだ始まったばかりなのだ。
表情を取り繕う息子の顔を、克仁は何も言わずに見つめていた。労わられていると判る沈黙だったが、克仁は其の気遣いを、けして声には出さなかった。此方に負けないくらいに淡々とした声音のまま、問答は静かに再開された。
「君は、氷花さんが花を切った現場を見た後で、一度自宅に帰ってから、精神的な病について扱った本を、呉野家に持っていきましたね。其の時の会話が、鍵ですよ。あの時の君は、貞枝さんから或る決定的な一言を聞き出すことに成功しているのです」
「……決定的な一言?」
「ええ。國徳さんが白で、貞枝さんが黒。其れを証明するに足るだけの、決定的な証拠です」
「その言葉は、何ですか?」
「――『化銀杏』ですよ。イズミ君」
イズミは、沈黙する。そして、口の端だけで笑って見せた。
「……なるほど」
感傷に引き摺られた感情が、高揚でふわりと持ち上がった。和室に蟠る重い空気が、爽やかな軽さに変わっていた。克仁の言葉が変えたのだ。過去の陰惨さで淀んだ空気を、其れこそ清らかに洗うように。イズミは軽く首肯した。
「君は貞枝さんと口論を交わした結果、並行線の議論に失望し、落胆しました。ですが、其れでも……あの喧嘩、君の勝ちですよ。君は、言質を取りましたから。彼女が犯人であるという、決定的な証拠の言葉を。……貞枝さんは、云いました。美しく清らかな日本文学、『化銀杏』を指して、こう云ったのです」
「――『妬ましいほど、好き』……と」
イズミは、克仁の台詞を引き継いだ。克仁の顔に、はっきりとした喜色が浮かび上がる。やっと、尻尾を掴んだ。今にも然う言わんばかりの顔はまるで、文字通り長年追い続けた犯人が残した手掛かりを、漸く見つけたかのようだった。いっそ清々しい程の悪人面に、イズミは小さく吹き出した。
「その台詞の一体どこが、彼女が犯人たる所以になるやら」
イズミは、からかう。もっと克仁の話を聞いていたい。昔から、克仁の話は楽しかった。そんな娯楽に触れられる事が、此の歳になっても叶うとは。己の養父たる此の男には、幾つになっても敵わない。愉悦を隠さず論うと、克仁の笑みに呆れが混じる。屹度全てを見抜かれている。其れこそがイズミにとって、何より愉快なことだった。
「イズミ君。此の台詞の意味を考えて御覧なさい。いや、考えるまでもありませんか。貞枝さんの『貞』の字は、日本文学『化銀杏』から付けられたのだと、貞枝さんは卑屈に云っていましたね。そして其の名は、呉野國徳に依る名付けだと」
克仁は、つと視線を此方へ向ける。
しかし、イズミを見ているわけではないのだろう。
イズミの隣――文机を見ているのだ。
「國徳さんの日本文学好きが嵩じて、一族の者に文学的な名が付けられた。貞枝さんは其のように、君に説明していましたが……本当に、然うでしょうかねえ」
イズミは、克仁の視線を追いかける。
文机の上、障子窓の前。一列に並んだ文庫本。
――其の中の、一冊。遂に、克仁の視線の先に辿り着いた。
『外科室・海城発電』
表題には、入っていない。だが、其の中に在ることは知っている。九年前のあの夏に、イズミは同じ本を叔母から借りた。此処に所収されていることを、克仁もまた知っているのだ。
「君は、貞枝さんに問いました。貞枝さんは、己の名を打っ棄ってしまいたい程に厭だと云っていましたが、実は此の文学がお好きなのではないか、と。〝キョウカ〟という少女の名前に、『杏』の字を当てた理由を問いました。そして、彼女は肯定しました。『化銀杏』を好きだと認めて、娘の名に『杏』の字を当てた理由を認めたのです。ですが、此の肯定。ただ其れだけの意味ではありませんね。彼女は、君に認めたのです。――自分こそが、〝彼女〟の名付け親なのだと」
克仁の笑みが、深くなる。本当に人の悪い笑みだった。一階に居る若人たちに、是非とも見てほしいと切に願う。抑揚ある言葉の流れは、やはり水芸の滝のようだった。あの日〝言霊〟の知識を授けてくれた、歌を詠む声と質が同じだ。其の時と寸分違わぬ流暢さで、意思の言葉が流れていく。唄うように流れていく。
力強い言葉はまるで、其れこそ〝言霊〟のようだった。
「〝アソビ〟を始めた人間が國徳さんではないように、彼女を〝氷花〟及び〝杏花〟と名付けた人間もまた、國徳さんではなかったのです。貞枝さんは、其処を偽って君に教えました。自分達の名は全て、國徳さんが付けたのだと。……イズミ君。此れも私は、國徳さんから聞いて知っていますよ。國徳さんは、君たち親族の、誰の名前も付けていませんね?」
「……はい?」
流石に、其の台詞には驚かされた。目を瞬いたイズミへ、克仁は意趣返しのように笑ってきた。イズミが此の〝言挙げ〟を意外がることを、予め知っていたかのようだった。
「名前の事について、あの頃の君は知らなかったでしょうが、國徳さんと暮らすようになった君は、もう知っているのでしょう? 私が知っている事が、そんなに意外でしたか?」
「國徳御父様は、堅物ですから。克仁さんに話していたとは意外でした」
「君、失礼ですよ。國徳さんは確かに堅物ですが、私という友人がいるのですから。人間ですよ。君と同じ。……ああ、君。己を鬼と蔑むのはなしですよ。今の君は、イズミ・イヴァーノヴィチですからね」
先手を打たれてしまった。反論を封じられたイズミは、お手上げの意思を示して笑った。
「そうですね……そうでした。それに、貴方は多くの人々を幸せに出来る御仁でした」
「褒めても何も出ませんよ」
茶目っ気を見せて克仁が笑い、「君の名付けは、イヴァンですよ」と打ち明けて、目を優しげに細めた。
「イヴァンは、日本を愛していました。日本というよりは、國徳さんを。そんな実父への愛着から、日本文学に傾倒し、愛読し、其処から名を頂戴しました。――其れが、『イズミ』という君の名です。そして、『化銀杏』の登場人物、お貞から『貞』の一字を貰い受けた、呉野貞枝さんの方ですが……彼女、恐らくは知っていますね。『貞枝』という己の名、本当の名付け親が、國徳さんではない事を」
「ほう。では、一体誰が、彼女の名付け親なのです?」
「子の名付け親が父ではないなら、母と考えるのが妥当でしょう。稟さんで間違いないでしょうね」
「稟? 克仁さん、それは何方の事でしょう?」
「君、忘れたのですか? 國徳さんの後妻ですよ。ロシアでの離縁を経て、日本で引き合わされた妻。――呉野稟さん。もう亡くなられていますが、貞枝さんのお母様ですね」
「……。そんな名前まで、貴方が持ち出してくるとは思いませんでしたよ。確か、貞枝さんが一度だけ口にしましたね。僕が貞枝さんと二度目の出逢いを果たした、鏡花談議の席で。ソフィヤ御婆様のお写真を、美しい御本の中に閉じ込めて、未だにお持ちになっている僕の祖父、國徳御父様。そんな御父様に、随分嫉妬なさっていた、と」
――まさか、其処まで言い当てられるとは。イズミは、声を忍ばせて笑った。悪意によって欠けたパズルのピースを、克仁の言葉が埋めていく。理路整然と隙間なく、清らかな言葉で埋めていく。ピースが揃って、見えていく。出来上がる絵が何なのか、此れで漸く目に見える。『判らない』が、『判る』に変わる。克仁が真相に何処まで迫れるのか、推理を見守るのが面白い。
壊れ、裂かれ、修復不能にまで陥った呉野の絆を繋ぐ糸を、九年の歳月をかけて縒り合わせて、綾取りの如く操りながら、たった二人で〝アソンデ〟いる。此れこそまさに、克仁の言った〝コトダマアソビ〟と呼ぶに相応しい。然うに違いないと、イズミは思った。
「其の名付け、及び呉野貞枝を巡る、家族の愛憎について。今から語っても構いませんが、先延ばしにしていた矛盾の解明、そして國徳さんが白で貞枝さんが黒という説明を、此処でさせて貰いましょうか」
克仁は、〝杏花〟の花を畳に戻すと、もう一つの〝花〟を拾い上げる。
今度は、克仁から見て奥の方。イズミに近い方の花。
――未来の少女、〝氷花〟の花。
「氷花。そして杏花。少女の名付け親が國徳さんならば、其れらの名前が少女の先行きを憂える為のものという理屈も、一応筋が通ります。ですが、名付け親は國徳さんではなかった。此のような〝アソビ〟をしようと云い出したのも國徳さんではなく、『少女の先行きを憂える為』に、自発的に動いたわけではなかった。其れをしようと訴えたのは、貞枝さんです。そして彼女曰く、其の名付けの本当の理由は、『妬ましいほど、好き』だから。……〝杏花〟という名前が、本当に氷花さんの先行きを憂える為の名前なら、『妬ましい』などという言葉が出ますかね。母親の口から。貞枝さんは、『少女の先行きを憂いて』などいませんね。彼女の此の台詞からは、醜い怨嗟しか感じられません。國徳さんが白で、貞枝さんが黒。両者の言葉から、此の差は明確かと思いますよ」
「……その怨嗟、貴方はどう証明するのです?」
屹度、応えてくれるだろう。其れを予感しながら、イズミは訊いた。
「貞枝さんは、氷花さんを『妬んで』いた。自分の娘を妬んでいた。その根拠は、一体何です? そこが説明できなければ、今の理論、ただの感情論に終止します」
「一つ目の根拠なら、既に君に提示しました。氷花さんは〝清らか〟を渇望していました。美しさに焦がれたが故に、人知れず抱え込んだ寂しさを、君に吐露して泣いていました。蕎麦屋の一件だけを云っているわけではありませんよ。氷花さんは花を切ったところを君に見られた時に、酷く傷ついた様子で己を責めていましたね。なぜ六歳の少女が、『生まれ変わったら花になりたい』などと云って泣くのです。悲愴過ぎて見ていられませんよ。彼女が母親から受けてきた教育が、何らかの歪みを孕んでいると見て取るには十分です。……そして、もう一つ」
克仁は沈痛な面持ちで、〝氷花〟の花をそっと撫でた。
克仁から見れば、瑞々しく柔らかな花弁に触れている事になるのだろう。だが、イズミの目には、やはり氷の供花にしか見えなかった。温かな男の手に触れられて尚、厚い氷に覆われたまま、時の流れを止めている。
溶ければいい。そんな風にも思ったが、もうどうしようもないのだろう。
氷は、溶けない。凍って死んで手向けとなった。其の凍てつきが、溶けるなど。
そんな希望を抱いていいのか、イズミにはもう判らなかった。
「呉野家の居間で、イヴァンが死んだ夜。イズミ君は、氷花さんと貞枝さんの親子の会話に、違和感を覚えませんでしたか?」
然う克仁に問われて、イズミは回想する。
――嘘つき。
無気力に、怠惰に、そして最後は激昂して、母親へと食ってかかった、幼い少女の悲痛な怨嗟。其の言葉を嘲笑った、狐の面の白い貌。
「貞枝さんは、氷花さんに暴言を吐いていました。あの子は〝清らか〟ではなく、そして自分は嘘つきだと。あの子の神経を逆撫でする言葉ばかりを云っていましたね。挑発的な態度で。面白おかしく。……ですが、考えてもみてください。呉野貞枝さんは、異能の持ち主です。其の仮説がもし正しいのだとしたら……なるほど確かに、君の云う通り、想像するだけで怖いことになります」
其の台詞にどう反応すべきか刹那迷い、イズミは先程から全く代わり映えしない苦笑の顔を克仁に向けた。当時はこんな風には笑えなかったが、今のイズミには其れが出来る。そんな擬態の能力こそが、大人と子供の差異かもしれない。二十七歳と十八歳という人間が、育んだ価値観の差異かもしれない。
そんな差異を認める事が、大人になるという事ならば――やはりイズミ・イヴァーノヴィチの時もまた、此の氷の花と同様に、十八歳で止まったままだった。
九年越しの感傷は、相当に粘着質なものらしい。そんな感慨はやはり苦笑の形としてイズミの顔に上り、何だか己が可笑しくなる。
笑顔で誤魔化す狡さばかりが、上手い大人になってしまった。
「伊槻さんは、氷花さんの〝言霊〟で壊れました。貞枝さんもまた、正気が欠落した様子で、泉の中を進んで行きましたが……貞枝さんは〝同胞〟であり、〝同胞〟に異能は効かないはずです。すなわち、あの方は正気で、氷花さんにあのような暴言を投げかけて、怨嗟を煽ったことになります。……然う、まるで」
克仁は、厳粛な声音で言った。
「〝言霊〟を、誘発するように」
緩やかな諦念が、心に小波の如く寄せていく。イズミは、軽く手を叩いた。
もう、そんなところまで割れている。克仁には敵わなかった。其れに恐らくは最初から、勝てる相手でもなかったのだ。二十七歳だろうが十八歳だろうが、己の倍は生きた家族を、騙すことなど出来はしない。イズミは童心に帰ったような心地で微笑んだが、胸中の寂しさは消えなかった。
貞枝との喧嘩、杏花との別離。過去を回顧した時にも感じた痛みを、人は喪失感と呼ぶのだろう。少女が失くした清らかを、悼む気持ちと同じなのだ。
克仁には、知ってほしくなかった。此の状況を散々愉しんでいながら、己の心の都合の良さには、ほとほと呆れ果てるばかりだった。
だが、時間を巻き戻せない以上、ひとたび知識を得たが最後、無知な頃には戻れない。幾ら寂しく思おうとも、徹底的に極め尽くさねば気が済まない偏屈同士、全てを解き明かす以外に、出来ることなど何もない。
イズミが言葉を待っていると、克仁は其の一瞬だけ、僅かな躊躇いを見せた。此れから己のする〝言挙げ〟が、酷く悍ましいものであるかのように、そして最後は黙祷のように、両の瞼が閉じられる。やがて瞼を開いた克仁は、覚悟を決めたような声で、イズミに言った。
「貞枝さんは、氷花さんを挑発していました。其のようにして、彼女が怨嗟のこもった〝言霊〟を使うように仕向けたのです。『皆、居なくなっちゃえ』と氷花さんは云いましたが、屹度どんな言葉でも良かったのです。ただし、確実に自分達が死ねるような、破滅を呼ぶ言葉を引き出せるように煽っていたとは思います」
「もし、その〝言霊〟。不発だったらどうするのです?」
イズミは、訊く。会話の流れが、いよいよ後戻りの出来ないものへ変わっていくのを感じながら、克仁の言葉に返事をして、其の〝言霊〟に声で応えた。
「氷花さんの、破滅を呼ぶ〝言霊〟。何故そんなものを貞枝さんが引き出そうとしたのか、その疑問は、今は捨て置きます。あの時、もし貞枝さんの思惑通りに事が運ばず、氷花さんの〝言霊〟が不発に終わった場合、貞枝さんはどうするお心算だったのです? あのままでは貞枝さん、伊槻さんに殺されていたかもしれませんよ」
「だから、先手を打って殺したのです」
克仁が言った。殺伐とした声からは、感情が根こそぎ消えていた。表情だけが、悲痛だった。死者を弔う貌だった。
「貞枝さんは、伊槻さんを泉の中央へ誘き出し、予め泉の中へ隠しておいた凶器で刺殺しました。君は國徳さんのおかげで見ずに済みましたが、何が起こっていたのかは明白です。ここで思い出していただきたいのですが、彼女には異能があるということです。〝同胞〟には、異能は効きません。……〝言霊〟は、効かないのですよ。貞枝さんには。先ほど軽く触れたように、あの惨劇の夜、氷花さんの〝言霊〟の霊威に依って気が狂い、異常者の如く立ち回ったあの女は、実際には狂ってなどいなかったのです。――つまり」
克仁は、暫し沈黙する。そして酷く辛そうな間を空けた後、其れでも毅然と言葉を続けた。
「彼女は、あの夜。正気の心のまま御山に居ました。そして少女の〝言霊〟の霊威に依って気が触れた様子を装いながら、氷花さんを挑発して、新たな〝言霊〟を誘いました。此の時、氷花さんは貞枝さんが望む通りの〝言霊〟をぶつけましたが、此の〝言霊〟が出ようと出まいと、貞枝さんにとってはどちらでもよかったのです。彼女の目的は、そんなものではないのですから」
「……」
「貞枝さんは、己の意思で、正気で、狂ってなどいない心で、伊槻さんを……自分の夫を、包丁で滅多刺しにした事になります」
「……」
「――『伊槻さんを殺して、自分も死ぬ』。其の悍ましい宣言を、あの女は本気で云っていたのです。其の殺人を実現する方法は、簡単です。自分で殺しても構いませんが、もっと厭なやり方が一つあります。――娘を、使えばいい。娘の異能を、使えばいい」
恐ろしい〝言挙げ〟を聞きながら、イズミは〝花〟を見つめていた。
二つの花。芙蓉の花。手向けの花。氷の花。
過去の〝杏花〟と、未来の〝氷花〟。
〝アソビ〟の呪いが解けたなら――〝杏花〟は〝氷花〟に、正しく戻る。
初老の男の語る声が、其処に宿った魂が、イズミに理解を促している。記憶の中の蝉の音が、頭蓋の奥で鳴っていた。九年前の夏の名残へ耳を貸せば貸す程に、〝アソビ〟が壊れていく気がした。
嗚呼、終わってしまう。明瞭な喪失感を意識して漸く、壮烈な観念が、喉元にまでせり上がる。寂寞だろうか。愛着だろうか。其れとも惜別の情だろうか。其の感情の質量は、清らかに祟られた心の器では、イズミにはもう測れない。其れを測ろうとしたならば、其の時イズミは破滅する。あの日壊れずに保った心が、今度こそ割れて崩れてしまう。抱え込んだ〝清らか〟が、其処からなだれ落ちていく。杏花に、返せなくなってしまう。イズミは、苦笑してしまった。
また、角を落とすのか。己が鬼なのか御隠居なのか、もうどちらなのかも判らない。思い返せばイズミと杏花は、神社の御山で出逢ってから、本の話ばかりしていた。出逢いが海外文学ならば、絆は日本文学だ。夏部屋に吹き抜けた甘い夜気が、浴衣を清かに揺らしていく。幸福感が、肌に触れた。あの時、イズミは幸せだった。家族と〝アソンデ〟、幸せだったのだ。
其の〝アソビ〟が、終わる。九年前の夏が、真に終わろうとしている。過去の終焉をはっきりと突き付けられた瞬間、イズミは或る台詞を思い出していた。
思い返せば、此の台詞こそが〝アソビ〟を終わらせる言葉だった。幕引きの役割を果たす為に、克仁はあの夏を生き残ったのだろうか。
だとしたら、イズミは其の観念に、自力で気づきたかった。
其れこそが、はっきりと己の感情として判る、あの夏のイズミの後悔だった。
――『元々〝氷花〟だったものを〝杏花〟と呼ぶのが此の〝アソビ〟です』
――『そして、此の花を〝杏花〟ではなく、〝氷花〟と正しい名で呼んだならば……斜め前に置いた、此方の花。私が先程、〝氷花〟と定義した此の花は。未来の象徴たる此の魂、呉野の〝アソビ〟風に云うならば』
――『一体、なんと名付けるべきでしょうね?』
「……克仁さん。貴方の言葉に、矛盾を見つけましたよ。それも、かなり致命的な。或いはこの矛盾、僕たち〝同胞〟にとって、新しい事実の発見とでも言うべきでしょうか。……ですが、この発見についても、今は捨て置きます。克仁さん、先に答えてください。貴方は先ほど言いましたね」
イズミは、〝花〟を凝乎と見る。克仁が選んだ氷の供花を、凝乎と見る。
「貴方が手に載せた、〝氷花〟の花。もし、畳に残した六歳の少女、〝杏花〟さんを、正しく〝氷花〟と呼ぶのなら。……その先を行く少女であり、國徳御父様が〝二人居る〟と誤認してしまった未来の少女を示す、この魂。貴方は、何と呼びますか?」
「〝貞枝〟です」
間髪を入れずに、然う言われた。
迷いのない言葉だった。日本刀の一閃のように、言葉が空気を薙ぎ払う。
イズミは、口を挟まなかった。〝アソビ〟の終わりは、其のようにして迎えるべきだ。葬送のように喪に服しながら、イズミは克仁の〝言挙げ〟を聞き続けた。
「〝貞枝〟です。此の魂の名は。〝杏花〟と呼ばれた〝氷花〟の未来。其の先行きの魂を見た國徳さんが、何故〝二人居る〟と誤認したのか。同じ魂であったなら、歳が違うだけで同じ魂であったなら。〝二人居る〟などとは仰らないはずです。未来の魂に、一目見て判るほどの狂気と異常を見てとったからこそ、國徳さんは驚愕し、〝二人居る〟と誤認したのです。――此の花の名は、〝貞枝〟です。貞枝さんの教育によって、近い未来に必ず変質するであろう魂。あの夜に、確実に人を殺すべく感情を操作されていた、一人の傷ついた少女の魂。……〝杏花〟でも〝氷花〟でも、其のどちらでもなくなろうとしていた……大人に良いように利用された、あまりに可哀想な魂です」
――杏花。
鎮守の森の最奥で、巫女装束に身を包んだ少女が、絶望の淵でイズミに縋り、寂しいと言って泣いた時。イズミは貞枝と戦おうと心に決めた。
しかし、其の夜に父が死に、伊槻が死に、貞枝もまた消えてしまった。
杏花の言った『寂しい』を、イズミはあの時、忘れてしまった。杏花の孤独に同情しながら、命の観念という喪失が齎した隔たりに、愕然と竦んで忘れてしまった。
――『お母様。お父様は、私と仲直りをしてくれるでしょうか』
其の程度の、言葉の所為で。
「氷花さんは、九年前の夏……いえ、其れよりずっと以前から。貞枝さんから歪んだ教育を受けていました。其の教育によって、清らかなものに対して異常な執着を見せるようになりました。かつて清らかだったはずの少女が、親の教育で変質していく。國徳さんが『見た』魂は、そんな魂です。鬼のような、少女の魂。清らかさが剥離して、悪徳に染まった少女の魂。無垢な少女とは似ても似つかぬ、まるで別人のような魂……いずれ、母親のようになる。〝貞枝〟のようになる魂」
愛らしい杏花。憎からず思っていた杏花。そんな杏花が、伊槻を壊した。其の伊槻が父を殺し、父を殺した伊槻は貞枝が殺した。
殺人の連鎖を目の当たりにしても、イズミは杏花のことを可哀想だと思ってしまった。一度は幻滅にも似た感情を抱きながら、其れでも可哀想だと思ってしまった。
そんな風に、同情しながら――杏花の〝清らか〟を、イズミは守れなかった。変質していく魂を、止めることが出来なかった。
だから、あんなことになってしまった。
皆、居なくなってしまったのだ。
「何故、娘に歪な教育を施したのか。何故、彼女は娘を妬んだのか。『妬ましいほど、好き』。何故、此の言葉が生まれるに至ったのか。彼女が『妬ましい』と思う相手。其れは果たして、呉野氷花ひとりなのか。……イズミ君。そろそろ君の番ですよ。呉野貞枝を巡る、家族の愛憎劇。君の口から語って下さい。私が憶測を語るよりも、其の方が明瞭だと思いますよ」
「……。何故、僕がそれを知っていると?」
茫洋と、然う訊いた。過度な感傷に沈んだ脳が、徐々に言葉の意味を咀嚼して、何を言われたのか悟った時、イズミは俄かに動揺した。
「克仁さん、何故そのように確信に満ちた言い方をなさるのです? 何か根拠がおありなのですか」
「根拠はありません。簡単な想像ですよ。……貞枝さんの、遺書。其処に真相が隠されていると見るのは、誰であれ一度は考える事です」
然う言って、克仁はイズミを凝視した。はっとしたイズミは、颯と浴衣の袂へと視線を走らせてしまい、咄嗟の愚行にすぐさま気づき、小声で笑ってしまった。
此れではまるで、己が犯人のようだ。
「やはり、君は持っているのですね。杏花さんが、あの夜に抱えていた茶封筒。あれは間違いなく、呉野貞枝の遺書です。遺書はあの場に二通ありましたが、どちらも後日に焼いたと聞いています。一通は君宛てで、もう一通は國徳さん宛てだったとか。どちらも、正気を疑うような内容だったそうですね」
「内容まで御存知とは。克仁さん、フェアではありませんね。貴方、最初から知っている事が多過ぎですよ」
「君と勝負をしているわけではありませんから、狡かろうが汚かろうが何でもいいのですよ。……其処に隠しているのは判っています。君がもし私と戦っている気でいたのなら、此の勝負、君を見抜いた私の勝ちです。持ってきたという事は、見せる心算はあったのでしょう? ……イヴァンの死の真相。私にも知る権利がありますよ。概ね予想はついてますが、答え合わせとさせてください」
「……。では、一つだけ質問をさせてください」
イズミは、言う。其の質問を以て、克仁との〝アソビ〟を終わりにする。其の為の〝言挙げ〟を、克仁の口から訊きたかった。
――〝アソビ〟は、楽しいものでなくてはならない。其れが九年前のあの夏に、イズミが言った台詞だった。
そして今、楽しい〝アソビ〟が終わろうとしている。郷愁が心を引っ掻き、名残惜しさから出た声は、己でも知覚できる程の微かな甘えを含んでいて、嗚呼、やはり此の人は己の父だったのだと、敬愛の情が心に満ちた。
たとえ此の先にどんなことがあろうとも、克仁には生きていてほしい。だが、そんな風に思った時、此れではいけないと気づいてしまった。
もし、イズミが此れからも克仁の事を、日本の父だと思い続けたままならば。イズミはいずれ、其の死を看取らなければならなくなる。克仁が現世から消える時を、此の目で見届けなくてはならなくなる。其れが子の務めだからだ。最愛の父、イヴァンに然うしたように。
「……。克仁さん。先に、謝っておきます。僕の親不孝をお許し下さい。僕は、貴方がいつか死ぬ時……病死か、老衰かは判りませんが、その死を看取る事は出来ません。先に逝くのは、きっと僕だと思うのです。子の務めを全うできない事だけを、此処で貴方にお詫びします」
「聞かなかったことにしますよ」
克仁は即答した。声音は静かなものだったが、拒絶の意思は明白だった。イズミが目を見開いて黙っていると、怖い顔で睨まれてしまった。
「イズミ君、早く云いなさい。君は私に何を質問しようとしていたのです。其の質問に、私は答えます。そして、君にあの夏の怪事を解明して貰わなくては困るのです。……さあ。云って御覧なさい」
「……」
覚悟を、決めた。
イズミは、〝花〟を見る。克仁の手に在る、氷の花。〝氷花〟の花。〝貞枝〟の花。凍てついたままの永遠の花。
氷は溶けない。清らかさは戻らない。死んだ者も帰らない。
だが、其れでも〝アソビ〟は終わる。いつか必ず終わるものだ。此れは、ただ其れだけの話だった。其れを寂しいことだとは、もう思ってはいけないのだ。
「……克仁さん、貴方に質問です。貴方は先程、呉野貞枝が『妬ましい』と思う相手は、本当に呉野氷花ひとりなのかと言いました。――では。貞枝さんが、『妬ましく』思っている相手。その人物の名を、言ってください」
克仁は、顔色を変えなかった。イズミの言葉に腹を立てた時のまま、此方を鋭い眼光で睨んでいる。其の表情にやがて、憐憫にも似た儚げな情が宿る。行燈のように茫と灯った輝きは、狂気に絡めとられた伊槻から逃げたあの夜に、イズミを國徳の元まで導いた花灯りのようだった。
清らかな情愛の色彩は、イズミに母を思い出させた。サンクトペテルブルクで見た光と、同じ温度が其処に在った。
目には見えない清らかな『愛』を、イズミが心に刻んだ時。
漸く放たれた克仁の言葉が、空気を颯と切り拓いた。
「貞枝さんが、『妬ましい』と疎んだ相手。其の人物の名前は――呉野氷花。呉野國徳。イヴァン・クニノリヴィチ・クレノ。そして、君。イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノ。……全員です。伊槻さんだけはグレーゾーンですが、入り婿の彼を除いて、呉野の一族、全員です。伊槻さんはあの夜、『一家で心中する』という狂気に駆られましたが、あの狂気、皮肉ですね。正気から其れを実践しようとした女を、妻に持ってしまうなど。……彼が、一番の被害者なのかもしれません」
克仁は、言葉を切る。
そして、酷くやるせなさそうに、〝アソビ〟を終わらせる言葉を告げた。
「あの夏の、惨劇の正体は。呉野氷花による親殺しではありません。呉野貞枝による計画殺人です」
嗚呼、とイズミは息を吐く。嗚呼、清らか。あの遺書にも然う書かれていた。賛美と憧憬、そして渇望。手が届かないことを知っていたのだ。だからあんなにも恋い焦がれる。
克仁の言葉を呼び水にして、記憶が花吹雪の如く乱舞する。蝉の声が、わっと溢れた。灼熱の夏の光が、意識を白く照らし尽くした。
――全ては、あの日から始まっていたのだ。
九年前の夏、茹だるような暑さの袴塚市。来日した父の痩躯に、知らない皺の増えた首。異国の風貌を持つ男の、天使のような清らかさ。
あの日、神社へ行く父を止めていたら。父は、今も生きていただろうか。
自問したが、苦笑とともに、イズミは首を横に振る。屹度、あの鬼女は諦めない。六年の月日を待った女だ。何年だって待つだろう。父が再び来日するまで、殺せる距離に近づくまで、好機が訪れる其の瞬間まで、幾らだって待ち続ける。其れを克仁も判っているのだ。
否、其れとも――諦めて、いるのだろうか。
「呉野の一族の、皆殺し。貞枝さんは、家族を残らず殺す気でした。呉野と名の付く人間は、すべからく皆『妬ましかった』。氷花さんの『憎悪』を引き出して〝言霊〟を暴発させた理由は、彼女の怨恨です。イヴァンの死は、伊槻さんによる殺人ではありません。貞枝さんの計画として、始めから織り込まれていたのです。イヴァンの来日は、好機です。殺したい人間が一堂に会する、またとない機会です。貞枝さんは、腹違いの兄を確実に殺す気で、山へと誘き出したのです。君が来れば、イヴァンは来ます。君を助ける為に必ず来ます。其処まで計算尽くの殺人でした。イヴァンの来日が決まった時から、此の殺人計画は動き出していたのです。――其の為に、障害となる國徳さんの動きを封じたのです。其の為に、予め泉に凶器を仕込んだのです。探せば屹度、他の場所にもあったはずです。己の家族と親戚達を、確実に殺す為の凶器が。……其の怨嗟の、正体は。彼女の遺書が、教えてくれるはずです」
克仁が、イズミをひたと見た。
「イズミ君。見せてください。甥っ子と実父に遺書を残した貞枝さんが、〝同胞〟の兄にもまた遺書を残しているという私の憶測が、正しいならば。君が懐に持っているのは、イヴァン宛ての遺書のはずです。……隠された、三通目の遺書。其れを、私に見せてください」
もう躊躇うことはなかった。イズミは浴衣の袂に手を入れて、其処から引き抜いた封筒を、克仁の目に晒した。
一通の、茶封筒。表書きに踊った墨痕鮮やかな達筆が、宛名として封に刻んだ其の名前は――イヴァン・クニノリヴィチ・クレノ。
見るのも辛い、父の名前だった。
「お父さん」
愛を込めて、其の名を呼ぶ。其のようにして、赦しを乞う。
そして、一息に封を開けて、中に押し込まれた紙片を引き抜いて――克仁に、手向けた。ロシアの共同墓地で、母に赤い風車を手向けた時と同じように。
手紙を受け取った克仁の手が、折り畳まれた紙片を開いていく。夜気の甘さが、残り香のように薄く香った。
其処に封じ込められた、悪意ある言葉の羅列が――九年の月日を経て、解き放たれた。




