清らかな魂 26
頭が、ひどく痛かった。
気遣われてばかりだった。間で何度も意思を問われ、もう止せばいいと諭された。そのたびに弱々しく絞り出した声は惨めなくらいに震えていて、意地が見抜かれているのは分かっていた。
見たいわけではなかった。むしろ、見たくない。見るのはとても恐ろしかった。
だが、見なくてはと思った。
それが、自分の、役目だと思った。
激しい拒絶と後悔と恐怖。初めて経験する感情に、内腑をぐちゃぐちゃに掻き混ぜられて、胃の底がひっくり返るような吐き気に、何度も襲われた。いよいよ無理だと思った時、引き寄せられた肩が倒れ、男の胸板にぶつかった。
すぐに、抱きしめられた。胸板に顔が押し付けられて視界が塞がり、腕が耳に強く当たる。温かい闇に身体が包まれ、目に涙が薄く滲んだ。
もっと、耐えていたかった。なのに、感情を堪えきれなかった。
これは、現実なのだ。嘘でも映画でもなく、確かに起こった出来事なのだ。
しんとした静寂が場を包み、薄闇が迫る六畳一間の和室に、虫の音がりいりいと、涼やかに聞こえ始めた時。
「……坂上君、終わりましたよ」
全てが終わったことを、ようやく知った。
穏やかに掛けられた声に、誘われるようにして――坂上拓海は、ゆっくりと顔を上げた。
拓海をずっと支えてくれた藤崎克仁は、茫然の体で見つめ返す拓海へ、悲しげに笑った。労りの微笑と向き合って初めて、拓海は藤崎の腕にしがみ付いた自分の手が、かたかたと小刻みに震えていることに気づく。
慌てて「すみません」と謝ったが、拓海の手は藤崎の両腕に固定されたかのように離れず、そんな己の身体の動きに、拓海はひどく動揺した。このままではいけないと躍起になればなるほどに、指の震えが大きくなる。
「……。坂上君。今日は私が自宅までお送りしましょう」
「……藤崎さん?」
「後ほど、私の連絡先をお渡しします。君が今日ここで見聞きしたことで、日常生活を送るなかで気になることがあれば、相談に乗らせてください」
拓海は茫然としたまま、藤崎の険しい表情を見つめた。
この家に上がらせてもらった時から、優しげな顔ばかり見てきた。あの〝映像〟の中でも、それは同じだった。そんな男が不意打ちで見せた真剣さに驚いていると、藤崎は拓海を緊張させたことを詫びるように、柔らかく笑った。
「坂上君。人とは、自分が思っているよりも、ずっと脆い生き物ですよ。少なくとも私は、大人になった今であっても、自分の事を然う思っています」
「それは……つまり」
拓海は、ぼんやりと藤崎を見つめ返す。
七瀬の、師範。そして、先程〝映像〟で見た、あの青年の養父であり――家族。
この場にいる〝もう一人〟の視線を気にかけながら、薄々と察した藤崎の言葉の意味を吟味して、拓海はおずおずと訊いた。
「もしかして……病院で、カウンセリングとかを受けた方が良いってことですか? ……こういうものを、見たから」
「必要が生じれば、然うなるかもしれません。しかし、其れは選択肢の一つです。まずは君の心身の健やかさを、周囲の人間が日々見守ることが大切ですから」
中らずと雖も遠からずな答えが返ってきた。思わずたじろいでいると、藤崎が「親御さんには、私から」などと言い始めたので、びっくりした拓海は「それはっ、大丈夫です!」と急いで言った。
藤崎の気遣いは有難いが、拓海には到底この件に家族を巻き込む気にはなれなかった。今日の出来事を家族に説明できる自信はなく、藤崎にその役割を担わせるのも恐縮だった。そんな言い訳を抜きにしても、家族にだけは絶対に言えないと、拓海は強く思うのだ。
――家族同士で、殺し合った。
そんな記憶の話など、家族に、言えるわけがない。
「……あ」
なぜ藤崎が拓海をここまで気遣うのか、家族への後ろめたさを意識してようやく、理由の一端を掴めた気がした。
――この殺人の記憶は、誰かに打ち明けることが難しいからだ。
藤崎と、もう一人と、階下で拓海を待つ友人達。限られたメンバーにしか話せない。そんな禁断の知識という果実に、拓海は手を伸ばしてしまった。
藤崎は、そこを気にかけてくれたのだろうか。拓海がここで見聞したものについて気に病んで、煩悶をどこにも吐き出せないことを危惧したからこそ、そんな申し出をしてくれたのだろうか。優しさが、じんと胸に沁みていった。
「……藤崎さん。また、会いに来てもいいですか?」
藤崎が、目を瞬いた。拓海自身も己の言葉に驚いていたが、この気持ちこそが素直な本心なのだと気づいていた。
「もし、迷惑じゃなかったら……俺は、今回のことを知らない家族よりも、俺のことを知らない誰かよりも、藤崎さんと、もっと話をしたいです」
躊躇いながら最後まで言い切ると、気恥ずかしさから頬が火照った。七瀬にも時々怒られるが、拓海の言葉には多少そういう所があるらしい。己の口下手を全力で呪っていると、頭上から小気味良い笑い声が降ってきた。
「君は素直な子ですね。七瀬さんが君を好きになったのも納得できます。君、無意識で然うなら罪作りですよ。七瀬さんからも時々怒られるのでは?」
「へ? 罪作りっ?」
面食らって顔を上げると、優しい瞳と目が合った。父親が子供を見るような、深い慈愛の眼差しだった。
「私で良いのなら、幾らでも。いつでもお越し下さい……と、云いたいところですが、此のようなものを『見た』後では、我が家に来るのは不安でしょう。今度いっしょに蕎麦でも食べに行きましょうか。イズミ君は丼を注文していましたが、あそこの蕎麦は絶品ですよ」
朗らかに笑う藤崎の手が、拓海の頭に乗せられた。中学三年生にもなって大人から髪を撫でられては、何だか少し照れてしまう。赤面した拓海は目を泳がせたが、その手を拒む事はしなかった。藤崎の手は、温かかった。藤崎克仁という人が様々な人から愛されてきたことが、とてもよく分かる温度だった。
そんな藤崎だから、あの青年も――藤崎が、悪意の言葉に晒された時。たった一人で戦ったのだろうか。
そんな思いを、汲むように――薄闇の中から、声がした。
「……君には、酷なことをしてしまいました」
拓海は、障子窓の方を振り向いた。
――白と灰の縞柄をした黒地の浴衣に、苔色の帯を締めたその男のことを、忘れていたわけでは決してなかった。〝映像〟が和室から消えた後も、拓海は浮世離れした男の麗姿を、視界の端に捉えていた。
ただ、拓海には声の掛け方が分からなかったのだ。あんなにも凄絶な夏の最中に居た人に、ただ鑑賞していたに過ぎない中学生が、一体何を言えるだろう。それでも声を掛けられたことに僅かな救いも感じていて、手の震えも止まっていた。落ち着きを取り戻した心に背中を押されるようにして、掠れた声で拙く言った。
「……酷なことなんて、されていません」
藤崎の両腕から手を離し、身体ごと男へ向き直る。障子窓と文机を背にして坐した和装の男は、青色の目を細めて微笑んだ。
室内は薄らと赤く、彼誰時の夕闇を延べ拡げたような紫紺の影が、朝霧に似た柔らかさで、六畳一間を包んでいた。畳に置いた盆の上で、手をつけなかったジュースのコップとかき氷の器が、酷く汗をかいている。溶けた氷にシロップが揺蕩い、夕日の残滓を照り返した。
血を溶いたような色彩は、不気味さよりも美しさの方が勝っていた。こんなにも退廃的な空気の中に居ては、どんなものでも綺麗に見える。そんな気がしてしまったのは、異邦人たる男の笑みが、あまりに美しい所為だろうか。
「……いいえ。そんなことはありません。僕は君に、酷いことをしました」
拓海の震えた声に、男は鷹揚な返事を寄越した。灰茶の髪の輪郭を、背後の光が赤く照らす。寂しく笑う人は皆、何故だかとても美しい。少なくとも、拓海の周囲ではそうだった。業が美しさを極めていき、傷が清らかさを磨いていく。
拓海が、七瀬への好意を自覚したあの事件も、元はといえばそんな経緯だった。
どうして人は、傷ついた人のことを、放っておけないと思うのだろう。
同情だろうか。違うだろう。それだけの感情で、支えられるものではない。
それでも綺麗だと思うのは、一体どういうわけだろう。
「……僕は、君にこんなものを見せるべきではなかったのです。少なくとも、中学生の少年に見せるものではありませんでした。これから君は、苦しむことになるでしょう。こんな記憶を僕の視点で見たことを、ふとした瞬間に思い出して、苦悶に苛まれることもあるでしょう。そんな業を、君のような優しい魂に背負わせたのです。僕はやはり、非道だったのやもしれません」
男は、穏やかに言い募る。拓海はその言葉を否定したくて、頑なに首を横に振った。その一方で、何も違わないのだと分かっていた。男の言葉は正しいのだ。藤崎もそれを心配している。
この記憶は、枷になる。トラウマとして刻まれた。脳に、意識に、記憶に。忘れる事はないだろう。夏の殺人の記憶を抱えて、拓海はこれから、生きていく。
だが、拓海はあくまで『見た』だけだ。目の前の男から、酷い仕打ちを受けたとは思っていない。むしろ、酷い仕打ちをしたのはこちらの方だ。こんな展開は、誰も望んでいなかった。叶うならば誰にも見せたくなかった記憶のはずで、拓海達がせがまなければ、一生繙かれないままのはずだった。
それを、こじ開けた。だから、辛いことになった。
ここにいる二人にとって、辛いことになってしまった。
「俺は……和泉さんに、辛いことなんて、されていません。辛いのは和泉さんで、藤崎さんだと思います。だから、俺が、辛いとか……そういうのは、違います。そういうのは、違うんです」
拓海は、言葉を重ねる。すぐに耐えられなくなって、がばと深く頭を下げた。
「すみませんでした」
謝って済む話ではなかった。謝罪を求められていないことも分かっていた。それでも愚直に謝る以外に、拓海は贖い方を知らなかった。
沈黙の後に、穏やかな笑い声が頭上を流れ、薄闇に溶けて消えていく。
拍子抜けして顔を上げると、異邦の風貌を持つ男は、少しだけ面白がるような目をしていた。
「君は、やはり優しい人ですね。優しい人は薄幸ですから、僕は君を見ていると心配になってしまいます。拓海君、僕は優しい人に依怙贔屓をしていると、実は自覚があるのですよ。父を思い出すからでしょうね。……君と出会うことは、僕が望んだことです。どうか、気に病まないでください。優しい顔で、笑ってください」
そう言って、青色の瞳の異邦人――呉野和泉は、笑った。
慈愛に満ちた表情だった。そんなにも嫋やかな情愛を、人の身体で保持できることが信じられないと思うほどに、純粋な善の笑みだった。
だが、拓海は知っている。その優しさが、どんな経験と思想を土台にして成り立っているのか、痛ましい歴史を知っているのだ。
和泉は、否、〝イズミ〟は――どうして、こんなにも辛い選択をしたのだろう。
かつて救いたかった一人の少女と、亡くしてしまった最愛の父。その二人の供養の為に、仇の兄になると決めた青年、イズミ・イヴァーノヴィチ。
修羅の道だった。心が血を流している。拓海であっても分かるのだ。目の前で笑う和泉が、一体どれほどの悲哀を擲って、今ここに座っているのか。込み上げた畏怖で、胸が詰まった。
拓海には、出来ない。己の肉親を殺したに等しい少女の、家族になる事など。どんなに前身たる少女が清らかであれ、拓海にはきっと出来ないだろう。
それを、イズミは成した。全ての破滅を見尽くす為に、己の感情の一部を放棄して、人をやめて、鬼になる事を選んだ。そして、仇の兄となった。そこには、拓海には想像さえ及ばない覚悟があった。
この家で初めて出会った時、拓海は和泉のことが恐ろしかった。本心が見えず、行動の意図も読めず、敵なのか味方なのかすら分からない。そんな相手から突然の指名を受けて、動揺する心で見た異邦人の微笑みは、優しさに満ち溢れているからこそ意味深で、不安を否応なく掻き立てられた。
だが、もうそんな風には思えなかった。ここには不器用な青年がたった一人、凄絶な哀しみに刻まれて血塗れになりながら、美しく坐しているだけだった。
「……和泉さん。今日は、ありがとうございました」
拓海は、畳に前髪がつきそうなほど頭を下げる。そうして顔を上げて背筋を伸ばすと、微笑する異邦人に会釈を返して、立ち上がった。泣き笑いのような情けない顔になったかもしれないが、もう何でもいいと思った。
とにかく拓海は、一刻も早く、ここから立ち去るべきなのだ。
「……拓海君。君は、善の心の持ち主です。君の魂もまた〝清らか〟だと、九年前の夏をもう一度過ごした僕は思いますよ」
襖に手を掛けた時、拓海の背に声が掛かった。
振り向くと、文机に寄り掛かるようにして座っていた和泉が、身体をこちらへ傾けて、ひらりと手を振ってくれた。
意外な仕草だった。慇懃な態度と浮世離れした嫋やかさを、羽衣のように纏った男が、突然に見せた人間らしさに、拓海は暫し茫然とする。これでは普通の人間のようだった。奇妙な形容だが、そんな表現しか出来そうにない。
その時、もっと的確な表現の存在に思い至った。
分かってしまえば、簡単な話だった。
今の仕草は、〝呉野和泉〟のものではなかったのだ。
「僕は、別れの言葉があまり好きではありませんから。左様ならは、特別な時しか言いません。……柊吾君と、撫子さん、七瀬さんを頼みました。君が知り得たことを活かして、これから彼等を守ってください」
「……。〝イズミ〟さん、ありがとうございました」
ぽつりと、拓海はそう言った。
その言葉のニュアンスに、和泉はきっと気づいただろう。拓海はイズミ・イヴァーノヴィチを知っている。その身に流れた異能の血を、既に〝映像〟で見て知っている。あの青年ならば、他者の心の動きに気づかないわけがない。
和泉は余程予想外だったのか、双眸を丸く見開いて驚いていた。青い瞳に、赤い外光が薄く光る。しばらく放心した様子で沈黙した和泉は、やがてくつくつと小声で笑った。今にも面白いと言い出しそうな喜色が美貌へ薄らと浮かび上がり、その笑いを収めてから、もう一度、拓海に手を振ってくれた。
「健闘を祈りますよ。坂上拓海君。正面から戦うことだけが、抗戦ではありませんから。君はもう、氷花さんとの戦い方を決めたようですね」
「……ずるいかもしれません」
答えた拓海は、俯いた。欠けだらけの言葉であっても、今の二人なら通じていた。「狡くて結構ではないですか」と和泉は明るい調子で応じてくれた。
「狡いことの、一体どこが悪なのです。僕は十八で狡い人間でした。君は十五で狡くとも、誰がそれを咎めるというのです? 己の行動の信念が揺らぐには、いささか早いと思いますよ。安寧を愛する個性であればあるほどに、衝突は平穏を壊す劇薬のように感じられて、恐ろしさから足が竦む時もありましょう。その時は、一度立ち止まってから思考するも良し、一先ず進んでから策を練るもよし。己の選んだ道の先で、試行錯誤すればよいのです。――拓海君。狡さもまた『武器』となります。狡猾さは、己と他者を守る盾になります。己の目標の為に手段を選ばないことは、どんなに狡い行いであれ、僕の目には高潔な選択として映ります」
「どうして、ですか」
「羨ましいからですよ。僕には、君の事が」
和泉が、文机に手を伸ばした。骨ばった長い指が、窓際の本に触れて、天をなぞる。夕餉の匂いを運ぶ風が、和室にぬるく吹き抜けた。
「戦い方が分かっているというだけで、僕には羨ましいのです。あの頃の僕は、懸命に戦っているつもりで、何とも戦えていませんでした。それを後悔するつもりはありませんが、新たな戦い方を模索する者を見ていると、羨望の念が湧くのです。……坂上拓海君。僕はもう一度、君に懺悔しましょう。僕は、君に酷いことをしました。君を呼び立てて、こんなものを見せて傷つけた、その理由は」
「和泉さん」
拓海は、遮った。やんわりと制止する拓海を、和泉が見上げる。目と目が合った瞬間に、全てを了解されたと判った。
異邦の男は、困惑気味に微笑む。そうして藤崎に視線を投げると、藤崎は呆れたように嘆息してから、拓海に目を向けて微笑んだ。
「坂上君。先に一階へ下りていてください。私はもう少しイズミ君と話すことがあります。七瀬さん達をすっかり待たせてしまいましたから、早く会いに行ってあげてください」
「はい。……本当に、今日はありがとうございました」
拓海は薄く笑って、頭を深々と下げる。そして和室の外に出て、襖を閉じようとした刹那――藤崎の顔から、笑みが消えるのを見た気がした。
多分、気の所為だろう。そう結論付けて、拓海は襖をぱたんと閉じた。
文字通り長い映画を観た後のように、緩慢な疲労が全身を包んでいる。頭痛と吐き気は収まっていたが、心の鬱屈が綺麗に晴れたとは言い難く、階段を下りる度に床が軋み、忘れていた眩暈がぶり返す。くらりと、視線が階下に落ちた。
「……」
一階の、玄関前。先ほど見た〝映像〟の光景が、茜色の輝きとともに、脳裏へ颯と描き出される。
――ここで、イズミと藤崎が会話を交わしたのだ。
そして、帰宅したイズミの父を出迎えて、楽しい団欒が始まった。
――家族。
もう、元には戻らない、家族。
「……」
疲労を重く引き摺りながら、拓海は階下へ辿り着く。そうして居間に繋がる襖を抜けて、その姿を見つけていた。
「ああ」
赤ん坊のような声が、喉から漏れた。相手も拓海に気づき、はっと息を呑む仕草に合わせて、浴衣の裾が翻る。下ろしていた髪は後ろで纏められていて、襟足に掛かった一房の髪が、ふわりと緩く揺れていた。
明かりの点いていない居間は、二階と同じく薄暗かった。赤紫色に沈む甘やかな闇の中で、ソファに腰かけた少女は立ち上がり、心底の安堵を覗かせた顔で、拓海を呼んだ。
「坂上くん」
――会いたかった。
今年の四月に、茜射す放課後の調理室で、長い眠りから覚めた少女が、拓海に告げた短い台詞。あの時と同じ台詞を、今度は拓海が言おうとしていた。
なのに、せり上がった感情が切実過ぎて、拓海は〝言挙げ〟できなかった。
代わりに、浴衣を着た少女の元へ――篠田七瀬の元へ、大股に歩いた。
居間の薄闇に踏み込んで、一息に距離を詰める。藍色に白い朝顔と蔦の模様が拡がる浴衣に手を伸ばし、拓海は戸惑う七瀬を抱き竦めた。
「よかった」
会いたかったと言うはずだった。それなのに口を衝いて出た言葉は、全く違う台詞だった。だが、それこそが最も言いたい言葉だった。拓海は、表情もなく七瀬を抱きしめた己の目尻に、涙が薄く浮いたことに気づく。項に顔を埋めてそれを隠すと、微かに弾んだ身体から、七瀬の動揺が伝わってきた。
「や、やだ、どうしたの? 坂上くんってば」
「よかった。篠田さんが、無事で」
「え?」
「よかった。無事で、本当に、よかった」
綺麗に着付けられた浴衣が乱れるのも構わずに、片手で背をなぞって掻き抱くと、「坂上くんっ? 待ってよ、待って」と声を上ずらせて抵抗する七瀬の片手に指を絡めて、命の温度と輪郭を探りながら、拓海は全てを思い出していた。
――拓海と七瀬が、呉野氷花と初めて衝突した、あの時。
忘れ物の日誌を取りに戻った調理室で、氷花に待ち伏せされた七瀬は、〝言霊〟の攻撃を受けた。
何故あの時、七瀬はあれほど取り乱したのか。『合わせ鏡』の学校で、七瀬と心を通わせながら、拓海の心からは違和感が消えなかった。事件後に三浦柊吾から〝言霊〟について教わっても、己の実感が事実に寄り添うことはなかった。
だが、異能の少女の父親が、命に代えて教えてくれた。魂が無残に切り裂かれていく様を、〝イズミ・イヴァーノヴィチ〟の異能を通して目の当たりにして、こんなにも時間をかけて、拓海はようやく知ったのだ。
――あの時の七瀬も、同じ状況だったのだ。
肥大化した感情に心の器を破壊されて、精神の堰が崩れた不憫な男と、同じ危機に直面していたのだ。
七瀬も、ああなったかもしれない。錯乱し、葛藤し、決壊した感情を狂気に変えて、激情の赴くままに、凶行に駆り立てられたかもしれない。
呉野伊槻と、同じになったかもしれない。
もしかしたら――母親を、殺しにいったかもしれない。
――『お母さんのいない所へ、行けばいいのよ』
母親が、いない世界。そんな世界を追及する為に、母親を殺しにいったかもしれない。足場が崩れていくような恐怖で、身体が芯から冷たくなった。
――危なかったのだ。
あの時、危なかったのだ。本当に、危なかったのだ。
人を鬼へと駆り立てる狂気が、あの時七瀬を襲ったのだ。拓海の目の前で、手が届くほど近い距離で、頽れる身体を支えた手の平では、到底庇いきれない悪意の刃に、魂をずたずたに切りつけられて。しかも、その脅威に拓海は気づいていなかった。人が人を殺そうとした瞬間に立ち会わせていながら、危機感がまるで足りていなかった。拓海は、七瀬を最悪の形で失ったかもしれない。取り返しの付かない惨事が、起こっていたかもしれないのだ。そんな事実を見過ごしかけていたことが、何よりも恐ろしいことだった。
だが、同時に……強い安堵も、感じていた。
七瀬は、壊れなかったからだ。氷花の〝言霊〟を受けても、その攻撃に魂を脅かされても、それでも正気を保っていた。
生きている。人のままでここにいる。それが、拓海には嬉しかった。
「ありがとう。篠田さん」
なぜ礼を言ったのか、最初は自分でもよく分からなかった。己の〝言挙げ〟に誘われて、心の答えが導かれる。深い情愛が胸を満たすのを感じながら、あの青年が言葉を愛した理由を理解した。
「あの時、壊れないでくれて、ありがとう。篠田さんのお母さんのこと、恨むんじゃなくて、大事に思ってくれて、ありがとう。家族のこと、大切に思ってくれて、ありがとう……」
「坂上くん……?」
「それから」
戸惑う七瀬に、拓海は言った。
「生きててくれて、ありがとう」
滅茶苦茶な台詞だったが、七瀬は拓海に文句を言わなかった。ただ一言「苦しいよ」と恥ずかしそうに囁かれたが、「ごめんな」とだけ囁き返して、抱きしめる力を強くした。
もう、何も要らないと思った。九年前の夏の青年が、唯一生き残った家族を慈しんだ心が、痛いほどによく分かる。希望だった。支えだった。赤い風車のようなその温もりを手折られたら、生きていけないと知っているのだ。かつて〝イズミ〟が呉野國徳に望んだように、拓海も七瀬が無事なら、それ以上は望まない。もし七瀬があの時、氷花の〝言霊〟の霊威に屈していて、『鏡』とは異なる狂気に憑かれて、自我を喪失していたなら、拓海は七瀬を失ってから、その大切さに気づいて泣いただろうか。
拓海は、きっと幸せだ。他者が見れば許せないと思うほどの平和の中で、幸せを享受して生きている。今までの拓海は、人から疎まれることがあまりなかった。だが、七瀬と付き合い始めてから、学校で他者の悪意と向き合う機会ができてしまった。拓海はこんなにも無自覚で、大切なことへの気づきが遅いのだから、恨まれるのも道理かもしれない。自分らしくない揶揄めいた思考の流れだったが、そんな捉え方も出来るのだという発見は、ほんの少しだけ新鮮だった。
その観念を受け止めた上で、拓海は拓海でしかないのだ。己を疎んだ相手に対して、怒りも悲しみも返したくない。悪意に悪意で歯向かう戦い方は出来なかった。己の幸せさえ碌に測れていないこの甘さが、他者の癇に障るのだとしても、一つずつ学んでいけばいい。そんな姿勢を九年前の青年から、拓海は教えてもらったのだ。
「坂上くん、ちょっと、困る!」
はっとした様子の七瀬が拓海の背を叩いたが、拓海にはよく聞こえなかった。ただ、己の理解がそこまで追いついたことが嬉しかったのだ。分からないことが、分かるようになる。あの青年も、思えばそれが好きだった。拓海にも手が届いた感慨が温かで、七瀬が生きている事が幸せで、現実にピントが合っていなかった。
よって、そんな拓海の目を覚ましたのは、七瀬ではなく、横合いから飛んできた声だった。
「……あのさ。坂上と篠田、お前ら俺になんか恨みでもあるのか?」
かなり決まり悪そうな声だった。
「……。へ?」
我に返った拓海は、ぽかんと顔を上げた。しかし視界に人影は無く、声が随分と下方から聞こえた事に遅れて気づいて、すとんと視線が落ちる。
すると、ばっちり目が合った。
他校の制服姿の少年が一人、ソファに寄り掛かるように床のラグに腰を据えて、胡乱な目でこちらを見ていた。かと思えば、気まずそうに目を逸らしている。「あ」と拓海は呟いた。我ながら薄情だと思うが、七瀬の姿を真っ先に見つけた所為で、こちらをすっかり忘れていた。
「三浦っ?」
呼ばれた三浦柊吾は、拓海をちらと再び見た。だが、じっとりとした目を向けられたのは一瞬だけで、またしても視線は逸らされた。今にも「またかよ」とでも言い出しそうな呆れ眼に気づいた途端、今度こそ拓海は我に返った。
こんな現場を目撃されるのは、『鏡』の事件の時に続いて二度目だった。ばっと身体が発火したかのように熱くなり、拓海はふらふらと七瀬の身体を離した。
「えっと、三浦、これは、その」
無意味にまごついていると、「言い訳すんな恥ずかしい」と素気無く一蹴されてしまった。そんな柊吾の横顔と耳も真っ赤で、徹底した目の逸らし方に違和感を覚えた拓海は、七瀬を振り返り――その場で、身体を硬直させた。
なぜ柊吾が、こちらを見ないのか。その理由が、目の前にあった。
「……」
七瀬も、顔を真っ赤にして俯いていた。
拓海が乱暴に触れた所為で、髪はおろか浴衣まで乱れている。はだけた胸元を押さえて震える姿が目に飛び込んできて、次の瞬間にはそれをやったのが自分だという認識が、がつんと殴りつけるように降ってきた。
あらゆる感情を差し置いて浮かび上がった感情は、失礼なことに恐怖だった。ざっと血の気が引いていき、動揺と混乱で「わ、わああ」と拓海が情けない声を上げた途端に、ばちんと平手打ちが飛んできた。
「わああ、じゃないでしょ! ばかぁ!」
顔が真横にぶれて、柊吾が「うわ」と同情を含んだ声で呟く顔が、視界の端で残像になる。その最中にも胸板を殴られて、「もう、三浦くんいるのに! 普段自分からはそんなことしないくせに!」と抗議が矢のように飛んできた。
「ご、ごめん、ほんとにごめん……!」
無抵抗に殴られながら、拓海は弁解しようとしたが、何だか可笑しくなってしまい、結局ふやけた笑い方をしてしまった。
――帰ってきた。そんな実感が、身体を包んだからだ。
「ただいま、篠田さん。三浦」
柊吾が、「ん、おかえり」と言って頷いている。こちらを見てはくれなかったが、口角が少しだけ笑みの形に持ち上がった。七瀬も浴衣の襟を直しながら拓海を睨み、「心配したんだから」と掠れた声で言って、瞳を潤ませて俯いた。
「ん。……ごめんな。ただいま」
「……おかえり」
「うん」
「あー、いつまでやってんだ、お前ら」
柊吾が嘆息して、「帰り支度、やっとけよ」と声を掛けてきた。その段になって初めて、拓海はここに居るはずのもう一人の姿が見えないことに気がついた。
「三浦。雨宮さんは?」
拓海が訊くと、柊吾と七瀬は顔を見合わせた。一拍の間を空けてから、柊吾が顎でソファを示す。柊吾がもたれているソファだ。
拓海は促されるまま目を向けて、そこに白いタオルケットが盛られていることに気づき――そのタオルケットが人型に膨らんでいることに気づいて初めて、タオルケットからはみ出た栗色の髪を見つけて、驚いた。
「あ、雨宮さん?」
「寝てるけど、そろそろ起こすつもりだったから、声とか気にしなくていいぞ」
柊吾はソファから落ちた白い腕を優しく取って、タオルケットの中へ戻そうとする。タオルケットを少しずらした事で、拓海の立つ場所からも、その人物の顔――雨宮撫子の顔が見えた。
ハーフアップツインの髪は下ろされていて、テーブルの上にヘアゴムが二つ置かれている。眠る時に邪魔になったから解いたのだろう。胎児のようにタオルケットに包まる様子は、小柄な体格の所為か人が寝ているというよりは、猫がそこにいるような感覚を拓海に抱かせた。
穏やかな、寝顔に見えた。
ただ、表情の大半はタオルケットで隠れて見えない。閉じられた目元が見えるのみで、本当に穏やかに眠っているのかは判らなかった。
「……雨宮さん、どうしたんだ」
「……」
拓海の質問に、七瀬と柊吾は答えなかった。二人揃って気まずそうに黙ったが、七瀬の方には喋るつもりがないようだ。話すならば、その役目は柊吾に譲る。そんな意思がはっきり分かる目で柊吾を見つめて、無言で会話を促している。
柊吾は言い難そうに眉根を寄せて、空いた手で髪を弄っていた。拓海に話したくないというよりは、会話の糸口を探しあぐねているのだろう。雰囲気からそれを察した拓海が待っていると、柊吾はやがてぽつりと言った。
「……坂上。お前の学校でも、保健体育で薬物依存の授業、やっただろ」
「薬物依存?」
突拍子もない言葉が飛び出してきた。面食らったが、拓海はそろりと頷く。確かに少し前に、そんな内容の授業を受けた。
「……。雨宮の事。前にこいつと一緒に話したけど、呉野の所為で目が『見えなく』なってから、病院に通ってる。最近は頻度が落ちてるけど、痛み止めの薬とか要るし、経過も見てもらった方がいいらしいから、まだ通院してるんだ」
「痛み止め?」
拓海は、驚いて口を挟んだ。
「待てよ、三浦。雨宮さん、痛み止めもらってんの? ……なんで?」
「ここが、痛いんだと」
柊吾が、こんと自分の胸をノックした。
丁度、胸の真ん中あたりだ。はっとした拓海は、息を詰めた。
――その場所に、覚えがあったからだ。
「原因は、医者に診せても分からねえんだ。レントゲンを撮っても、何も写らないらしい。けど、雨宮は痛いって言ってる。多分、心因性のものじゃないかって、医者とか、雨宮の両親は言ってる。……俺も、そうじゃないかって思ってる」
「……」
「雨宮、元々クラスで人気があった方なんだ。綺麗とか、洗練されてるって言い方してる奴とかいた。……けど、『見えなく』なってから、そういうクラスの目とか、少し変わったって思う。背も、ちっこいままあんまり伸びねえから、綺麗って言われるより、可愛いって言われる方が増えてるし。同情されたり、あとは『見えない』状態の時に、からかってくる奴もいる。そういうのは俺らが蹴散らしてるし、雨宮には味方が多いから、滅多にないけどな」
柊吾は、タオルケットに包まる華奢な少女の手を握り締めながら、「何でだろうな」と大柄な体躯には似合わない程の小声で、言った。
「これも、前にお前らに言ったけど。雨宮が呉野にやられた時の〝言霊〟って、ほんとに大したことないやつなんだ。雨宮が気にしてるわけじゃない。びっくりしただけだって言ってた。どっちかって言ったら、篠田が受けた暴言の方がえげつないと思う」
「そんなの、比べられないでしょ」
柊吾の言葉に、七瀬がすぐに言い返した。
「人が受けた言葉の重みなんて、外から見て分かんないじゃない。三浦くんの言ってることが間違ってるとは言わないけど、私と撫子ちゃんを比べるのはおかしい」
「ああ。俺だってそう思う」
七瀬の言い方はややきつかったが、柊吾は怒りを見せなかった。素直に七瀬の言葉に頷いている。
「思うけど、それを差し引いても、やっぱり雨宮の食らったやつは大したことないと思う」
七瀬は束の間黙ってから、「じゃあ、個人差じゃない?」と微かな労りの覗く声で言った。
「私が呉野さんの言葉を受けて平気でも、撫子ちゃんは違うってことでしょ。……華奢だもん。仕方ないよ」
「……ん。そうだろうな。個人差だって、思うしかないんだろうな」
柊吾が、俯く。「だから、許せないんだ」と深い憤りを押し込んだ声が聞こえて、ぎりっと歯が食いしばられた。
「まだ、苦しんでるんだ。呉野にやられたのは去年の初夏だったのに、一年以上経って、『見える』時間の方が増えてきても、まだ痛いって言ってるんだ。……こいつ、表情分かりづらいから。自分の事をあんまり話さねえし。だから、ここを痛がってることも、俺、最近になってやっと知った。薬を飲むのが怖いからって、処方された薬を捨ててたことも。最近になって知ったんだ」
「な」
目を、見開いた。拓海は、思わず身を乗り出す。
「雨宮さん、なんで」
「薬物依存の授業を聞いて、怖くなったんだと」
柊吾は、テーブルに載った撫子のヘアゴムに視線を転じ、その横に置いた透明なプラスチック製のピルケースに目を向ける。目が『見えなく』なった時に必要な絆創膏が詰められたものと、もう一つ。今度は本当に薬の詰められたケースがそこにあった。
「こういう、痛みを誤魔化す薬を飲んで。飲み続けて、いつか薬の効果に身体が慣れて、本当に耐えられないくらい痛い時に、薬が効かない身体になってたら怖い、って。雨宮、言った。……そんな風に考えてたなんて、俺、全然知らなかった。最近、倒れられたから。その時に、やっと聞き出せた」
「……」
「篠田の師範の、藤崎さん。あの人、いい人だよな」
柊吾が、呟くように言った。居間の向こう、茜色に色づく薄闇が蟠る台所へ、遠い眼差しを向けている。
「雨宮、ここに来てすぐに、お茶の用意を手伝いに行っただろ。あの時に、藤崎さんから気遣われたらしいんだ。実は体調が良くなかったこと、見抜かれてたらしい。本当に辛くなる前に親御さんに電話するように、とか。お茶とか水は冷蔵庫から好きに取っていい、とか。タオルケットの場所まで、俺に伝言させてた。……おかげで、助かった。……坂上。痛み止めの副作用でうとうとしてただけだから、大丈夫だ。もう落ち着いてるし。お前は気にすんな」
「……」
そう言われても、心配しないわけにはいかなかった。現に、薬を飲んで眠っているのだ。先程だって拓海が撫子の容体を訊いた時、柊吾と七瀬は気まずそうに口を噤んだ。拓海が二階にいる間に、ここでも色々なことがあったのだ。
拓海は、眠る撫子を見下ろした。
感情の機微や言葉を、あまり表には出さない、拓海の友人。無表情か、薄らとした綺麗な笑みを浮かべるところくらいしか、拓海はあまり見たことがない。
撫子が、そんな風に考えていたなんて知らなかった。
そんな風に考えて、苦しんでいたなんて知らなかった。
「……雨宮さん。気にし過ぎだ」
拓海は、言った。撫子の気持ちが分からないわけではなかったが、それでは撫子が辛くなるだけだ。
「ああ。俺もそう思う」
柊吾は、先ほど七瀬にそうしたように、拓海にも頷いてくれた。
「これは、雨宮の気にし過ぎだ。でも、俺はそういう気持ちを、できるだけ分かってやろうと思う」
柊吾はピルケースを手に取ると、中の錠剤を見下ろしながら、言った。
「雨宮が何を怖がってるのか、なんで怖いって思うのか、そういう気持ち一つ一つを、できるだけ分かってやろうと思う。分かってやって、理解して……その上で、大丈夫なんだってこと、ちゃんと伝えてやろうと思う。怖くないんだってことを、俺が、教えてやろうと思う」
「……」
「こいつには、昔から……教えてもらうことの方が、多かったから。俺が教えてやれることって、少ねえと思うけど。でも、今度は俺が教えてやりたいんだ」
「……」
「怖がらなくていいってことを、俺が、教えてやりたいんだ」
柊吾が、そう言った時だった。
撫子の手が、ぴくりと動いたのは。
柊吾と握り合う手が不意に引き寄せられて、柊吾が驚いた顔になる。拓海と七瀬も驚いて見守っていると、小さく身じろぎして「ん」と声を上げた撫子は、柊吾の手をゆっくりと両手で掴んだ。
目は、開いていない。まだ、眠っているのだろうか。
そんな状態のまま、柊吾の手が、弱々しく引き寄せられて――胸元に、押し当てられた。
息を吸い込む、声がした。声の主は、柊吾だったかもしれないし、七瀬だったかもしれない。拓海だったかもしれないが、誰でもいいと思ってしまった。
柊吾の大きな手の平を抱いて、眠る撫子。閉ざされた目に涙が滲んでいくのが見えた時、拓海は静かに目を背けた。
もう、見てはいけないと思った。柊吾も撫子も、見てはいけないと思った。
「……ん。……痛いよな。……俺が、ついてるから。ついてる、から……」
柊吾が俯いて、顔をソファの手すりへ倒す。そんな姿が視界の端でちらつくのを気にしながら、拓海も唇を噛んで俯いた。
――取り返しのつかない事なら、もう、既に起こっている。
確かに、七瀬は無事だった。だが、それは本当に運が良かったか、もしくは柊吾や七瀬が言ったような個人差に助けられたからに過ぎないのだ。あるいは、柊吾や七瀬の心の強さだろうか。それだけが理由ではない気がした。この異能は、大人が破滅するほどのものなのだ。
撫子は、きっと運が悪かった。不意を打たれて、驚かされて、こうなってしまっただけなのだ。制服の白シャツを着た己の胸に、拓海は手を当ててみる。
――撫子が痛いと訴えたその場所が、なぜ痛むのか。柊吾は心因性のものだろうと推測したが、おそらくはそうではないことを、拓海は知っている。
――二階の和室で、見たからだ。
心の〝傷〟を『見る』ことが出来る男の目で、拓海も同じものを『見た』からだ。
その場所に、何が刺さっているのか。拓海は、もう知っている。
「……坂上くん。今日あったこと、また今度教えてね」
顔を上げた七瀬が、拓海を振り向いて囁いた。
「今日は……皆、疲れちゃったから。……ごめんね。坂上くんが、一番疲れたはずなのに……ごめんね」
「……いいって。篠田さんが気にすることじゃないし。……待たせて、ごめんな」
拓海は首を横に振って、ぼんやりと笑った。七瀬も笑みを返してくれたが、その笑みには言葉通りの疲労が薄らと滲んでいた。
「待つのって、大変だった。こんなに辛いことなんだって、初めて知ったかもしれない。……帰って来てくれて、安心した」
「……ん。さんきゅ」
拓海としては、その言葉が聞けただけで十分だった。視界の端で寄り添い合う男女の姿を意識しながら、拓海は撫子の〝鋏〟の事を考える。そして、柊吾に言わなくてはならない事柄について、緩慢に思考を巡らせた。
だが、それらを柊吾の耳に入れるのは、今日でなくてもいいだろう。皆が、酷く疲れていた。だから、今日はもういいと思ってしまった。
「……もうすぐ、雨宮の両親が迎えに来るから。その後で、俺らも帰るぞ」
「……うん」
「……そうだね」
沈んだ声で頷き合って、視線を逸らし合っていた時だった。
――かたり、と。玄関扉の方で、物音がしたのは。
「……。三浦、篠田さん。ここにいてくれ。俺が見てくる」
拓海は小声で言って、踵を返す。七瀬と柊吾が、緊迫した顔を見合わせた。「坂上くん」と潜めた声で呼び止められたが、今は二人を庇いたかった。七瀬だけではなく、柊吾の事も。おそらくは誰より傷ついているだろう友人に、今日はもう休んでいてほしかった。
居間の襖から廊下に出ると、階段前の玄関扉に目を向ける。
そこにいた相手も拓海に気づき、小さく息を呑んでいた。
「……。そ。来てたのね」
三和土に立った浴衣の少女は、涼やかな声で素っ気なく言った。艶やか黒髪は綺麗に纏められていて、藤色の浴衣から覗く襟足の白さを際立たせている。
――呉野氷花だった。
あの〝映像〟では無垢だったはずの少女が今、中学三年生という拓海と同じ歳の少女として、目の前に粛然と立っていた。
「そんなところだろうと思っていたわ。お父様ったら、こそこそなさっていたもの。隠し事をしていると思ったのよ。……あんたがいるって事は、篠田七瀬もいるんでしょうね」
「……」
背後から七瀬が飛び出して来ないか気になったが、振り返るわけにもいかず、拓海は黙る。氷花はこちらの葛藤に興味などないのか、「そう警戒しなくても、今日は何もしないわ」と言って、小さく鼻を鳴らしていた。
「別に、来てもいいのよ。私がいない時ならね。お父様は、篠田七瀬がお好きだもの。仕方のないことよ。目障りだからさっさと死んでほしいし、いないに越したことはないけどね。……いらっしゃい。坂上君。篠田さん。あとは、三浦君とあの女もいるのかしら。歓迎するわ」
拓海は、返事を出来なかった。氷花を警戒するあまり声を出せなかったわけではなく、相手の様子が普段と異なることに驚いたのだ。
拓海自身は、氷花と話したことはほとんどない。『鏡』の事件の最中に一度だけ啖呵を切った程度で、あとは学校での華やかな印象を、噂として知っているのみだ。
だが、今の氷花は、拓海の知るどんな氷花とも違っていた。
物憂げな眼差しには鈍い怠惰が浮いていて、目立った表情は窺えない。訥々とした調子の語りにも感情の存在が見受けられず、張りが感じられなかった。無表情をひたとこちらに向けたかと思えば、興味を失ったかのように、ふいと視線が逸らされる。そんな仕草を見るにつけ、齟齬に心がざわついた。
――笑っていない。
常に悪辣な笑みと言葉で他者を翻弄してきた氷花が、初めて見せる顔だった。
背後から、視線を感じる。柊吾と七瀬の二人だろう。こちらの様子を窺っている。拓海と対峙する氷花も、背後の二人に気づいたはずだ。
――それでも、笑わない。
一切の好戦的な光が失せたその様は、目の前の少女が本当に呉野氷花なのか、そんな当たり前の事実さえ疑わせる程に、違和感のあるものだった。
違う人間を、見ているようだった。
普通の、一人の少女を見ているようだった。
「え、と……」
不安と戸惑いから口籠る拓海へ、氷花が不意に口火を切った。
「私、夏が嫌いなのよ」
「え?」
「いいえ、違うわね。……夏休み。八月が嫌いなの。だから、学校に行くのは好きな方よ。厭な夏なんて、早く終わってしまえばいいのに」
突然の、告白だった。否、独白というべきだろうか。拓海は状況についていけず、相槌も打てないまま、氷花の美貌を見つめ返す。氷花は、はなから拓海に会話など求めていないのか、淡々とした口調で語り続けた。
「夏の空気が嫌いなの。何だか、懐かしい感じがするじゃない。ちょうど今みたいな、赤くて、紫で、色のついた空気とか。暮れていく空はまだ明るくて、日差しがまだ残っていて、蝉がまだ鳴いているの。もうすぐ夜が来て、寂しくなる。それが私は嫌いだった。今だってそうよ。とても嫌い。大嫌いなのよ。……寂しい空気は、嫌いよ。酷いことを言われた日々を、思い出してしまうもの」
「酷いこと……?」
「貴方みたいな、平和呆けした優男には関係のない話よ。坂上拓海。……随分と、恨まれたものね。あんたみたいな人畜無害そうな生き物でも、人から倦厭を集めたりするのね。見ていて滑稽だったわ」
吐き捨てるように、氷花は言った。
すぐに、学校での七瀬絡みの件だと気づいた。こちらの近況を、氷花は噂から拾って追っているのだ。緊張が、身体に電流のように走った。
「呉野さん、もう、篠田さんには」
「あんた、馬鹿なの? もっと頭良さそうな奴だと思ってたわよ。人の話をちゃんと聞きなさいな。……今日は、何もしないわ。そんな気分じゃないもの」
氷花は悪辣に言い放ったが、その声にもやはり覇気がなかった。呉野氷花らしからぬ在り様に拓海が戸惑っている間にも、氷花は素足を上り框に下ろしていて、下駄を丁寧に揃えていた。そうして拓海と居間の向こうにいる面子へ怜悧な視線を投げてから、浴衣の袂を翻して、階段へと向かっている。
「言ったでしょう。歓迎するわ、って。お父様に迷惑のかかる場所で、私は〝アソビ〟をする気はないのよ。……今度会った時は、知らないけどね。私はあんた達なんて嫌いだもの。皆まとめて、殺してしまいたいくらい」
「……呉野さんは、なんで〝アソビ〟に拘るんだ?」
拓海は、訊いた。背後で、七瀬に呼ばれた気がした。止められていると気づいていたが、拓海は氷花に向き合い続けた。
何故、拓海はこんなことを氷花に訊こうと思ったのだろう。相手の武器は〝言葉〟なのだ。この会話自体が拓海の命を脅かすかもしれないし、この場で正気が削ぎ落されるかもしれない。その危険をこの場の誰よりも、もしかしたら氷花本人よりも明確に知っていながら、それでも何故訊こうと思ったのだろう。
単純に、知りたかったからかもしれない。あの夏に悪意に染め抜かれた魂が、なぜ今も〝アソビ〟を求めるのか。九年前の夏の青年が、何故なのかとひたすら大人に問うたように。ああ、と拓海はようやく気がついた。
拓海は、もしかしたら――〝イズミ〟に、少し似ているのかもしれない。
「……変なことを訊くのね。貴方って」
階段を半ばまで上った氷花が、気だるげに振り返る。そしておもむろに髪へ手を伸ばすと、月下美人の形をした花の髪飾りに手を掛けて、ぱっと外した。
黒髪が、滝のように流れ落ちる。艶めきながら背に垂れた髪を手で梳きながら、「理由なら、簡単よ」と氷花は無感動な口調で言った。
「暇潰し。時間潰し。そんなところかしら。……それ以上の理由なんて、貴方達には求めてないわ」
それきり、氷花は何も言わなくなった。一階から己を睨む少年少女の視線に臆することなく、長い黒髪を揺らしながら、階段をゆっくり上がっていく。髪を下ろした後ろ姿は、母親の女性に酷く似ていた。
和装の少女の背中が、二階の暗がりに溶け込んで、完全に見えなくなった時。拓海は背後から腕をそっと支えられて、身体がぴたりと触れ合った。
「なんで、そんな無茶するの」
「……ごめん」
複雑な表情で睨む七瀬に、拓海は謝る。それから背後を振り返り、すぐ傍まで来ていた柊吾の姿にも目を留めた。
柊吾は厳しい表情で、階上の闇を睨んでいた。ひたむきに仇を見る少年の瞳に、どす黒い怨嗟は見当たらない。守りたい存在を想う正義感が、真摯に湛えられているだけだ。
そんな友人の姿を見ていると、胸が痛んだ。
しかし、拓海は言わなければならないのだ。先程は言うまいと、一度は呑んだその台詞を。
今日は、言わなくてもいいと思った。そんな風に、逃げようとした。
だが、拓海達は――氷花と、ここで出会ってしまった。
相手に、敵意はなかった。だが、その出会いが、柊吾の心に敵愾心を焚き付けたなら、拓海は今こそ〝言挙げ〟すべきなのだろう。逃げ場を断たれたような覚悟を迫られながら、拓海は確かに思ったのだ。
まるで、観念するように。
「……三浦。……訊きたいことが、あるんだ」
拓海は、言った。
こちらの声音に、何か察するものがあったのだろう。瞠目した柊吾が二階を睨むのを止めて、拓海を見た。「坂上?」と慎重な声音で拓海を呼ぶ。
――言葉にする、ぎりぎりまで躊躇した。本当に、いいのか。やめるなら今だった。だが、そんな自問さえもが逃避だと、拓海はもう気づいていた。
どちらにしても、逃げるのは同じなのだ。そんな発見が何だか意外で、場違いだと分かっているのに、苦笑したくなってしまう。
青い瞳の異邦人は、この拓海の決断を、いつから知っていたのだろう。
どの選択も、逃避になるなら――『盾』になる逃避がいい。
「三浦は、仇討ちがしたいって言ったよな。雨宮さんが、それを望んでなくても。自分の意思で、したいって言った」
「……ああ。言った」
「それって、具体的にどうするとか、三浦には何か考えがあるのか?」
柊吾が、息を吸い込んだ。はっきりとした驚きの感情を認めた瞬間、拓海は「ごめん」とすぐに謝った。意地の悪い質問をした。自覚がきちんとあったのだ。
「嫌な言い方して、ごめんな。……でも、三浦がそれを、決められてないなら。俺は、三浦のやろうとしてること、止めないといけなくなる」
「おい、ちょっと待て。坂上……っ?」
「……ごめん。三浦。二階で『見た』ことをちゃんと話せてないのに、俺がこんなことを言い出したって、わけ分かんなくて、むかつくだけだろうなって、分かってるんだ。……でも、俺は。篠田さんにも、三浦にも、雨宮さんにも、誰にも死んでほしくないんだ」
死ぬという言葉に反応したのか、七瀬がびくりと拓海を見上げた。傍らの少女にだけは、身体の震えが伝わってしまったかもしれない。
逃げているだけだ。そう思われても構わない。拓海がここで柊吾を止められなければ、先行きに待ち受けているのは破滅なのだ。卑怯者でもいい。拓海は友達が大切で、これが拓海の戦い方だ。もう二度と、同じ惨劇を起こしてはならない。九年前に消えた命を、無駄にするわけにはいかないのだ。
「仇討ち。――やめよう。三浦。やめた方がいい。……頼むから。呉野さんには、もう関わらない方がいい」
柊吾は、表情を失くして拓海を見ていた。
その顔に、反発の色が浮かび上がる。柊吾は、拓海が予想した通りの反駁を寄越してきた。
「……駄目だ。坂上。悪いけど聞けねえ。あんな奴を野放しにしてたら、また雨宮みたいな犠牲者が出るかもしれないだろ」
「三浦」
伝わって欲しい。拓海は、真っ直ぐに柊吾の目を見て、言った。
「これから出るかもしれない未来の被害よりも、俺は。三浦が無事でいてくれる方が大事なんだ」
柊吾が、吃驚したような顔で拓海を見た。顔からは怒りが薄れ、やがて打ちのめされたような表情で黙ってしまう。拓海は、罪悪感から俯いた。
覚悟はしていたが、それでも結構堪えてしまった。単純に慣れていない所為もあるのだろうが、友人との衝突は、辛いことだと拓海は思う。
「……」
いつか、必ず。
氷花との戦いは、生々しい命のやりとりを、拓海達に強いるだろう。
そんな血の色をした予感が、心に染みついて離れないのだ。
「……坂上くん」
七瀬が、拓海を見上げて心細そうに呟いた。
その声を受けて、拓海が七瀬を見下ろした時――七瀬の乱れた髪が、拓海は不意に気になった。
思い出したのだ。あの〝映像〟に出てきた夏の青年が、艶美な女性と交わした言葉を。狂気に駆られて黄泉へと消えた女の声が、脳裏で凛と響き渡った。
――『お貞は黒髪を丸髷に結っているのよ。銀杏返しにも結いたいけれど、旦那さんにいけないって云われているそうよ』
だから、お貞は。髪を、丸髷に結っている。
――丸髷。銀杏返し。
どんな結い方なのかは、知らない。だが、七瀬の纏められた髪を見ていると、自然と手が、髪に伸びた。
「……え? 何?」
七瀬が、不思議そうに言った。拓海が七瀬の髪を結っていた紐を引いて、解いたからだろう。ぱらりと柔らかな髪が肩に落ちて、背に流れる。柊吾もすっかり毒気を抜かれた顔で拓海を見つめて「何やってるんだ、お前」と言った。
「あ、えと、その……」
我に返った拓海は、二人分の視線を受けて、狼狽える。頭が真っ白になっていた。何故そんなことをしたのか、自分でも分からなかったのだ。
あたふたと言い訳を考えて、考えられずに思考が上滑りする。悪戯に時間ばかりが流れてしまい、結局、苦し紛れにこう言った。
「篠田さんが髪をくくらないの、珍しかったじゃん。そっちも、その、かわいかったし……えっと……」
「おい……。ったく。……坂上。さっきの話、また今度な。今日は、もういいから。……あと、気遣いは受け取っとくから……」
柊吾が顔を赤らめて、拓海に背を向けて歩いていく。同じく赤面した七瀬からも「何言ってるの」と小さな声で言われてしまった。
「……ん、ごめん」
拓海は、曖昧に笑った。今度は本心から言ってあげたかったが、さすがに気恥ずかし過ぎて言葉にならなかった。
「……」
少しだけ、自分が狡くなった気がした。




