清らかな魂 25
其の〝言挙げ〟の瞬間だった。
イズミの視界が、真っ暗な闇に落ちたのは。
貞枝の振るった包丁が、伊槻の無防備な喉笛を捉え、横薙ぎに奔ったのが見えた途端、何も見えなくなったのだ。
「!」
がくん、と身体が下がる感覚に襲われて、畳に思い切り尻餅を付く。背後から引き倒されたのだ。咄嗟に抵抗しようとしたが、すぐに何も出来なくなった。
顔を覆う手の感触が、あまりに温かだったから。
「……」
名を、呼ぼうとした。されど掠れて声にならず、喉で一度引っかかる。やっとのことで絞り出した声で、イズミは家族に呼び掛けた。
「御爺様」
「見んでいい」
すぐ傍から、短く囁く声がした。顔を覆う老人の手に、イズミはおそるおそる手を重ねる。いよいよ本格的に腫れ始めた手は感覚がなく、己が今触れているのが本当に祖父の手なのか、心細くて堪らなかった。存在を確かめるように「御爺様」ともう一度呼んだ時、激しい水音が響き渡った。
絶叫が空を裂き、阿鼻叫喚に混じる殴打の如き雨音が、此の世の全てを地獄に変えた。耳を劈く叫び声は哄笑なのか悲鳴なのか、氾濫する声の中でびたびたと水面を穿つ雨音が一際生々しく響き渡り、魂が慄然と竦み上がる。人肌と布の感触が、ぎゅっと乱暴に押し付けられた。音が、急速に遠ざかる。両耳が塞がれ、痩せた腕が頬に痛いほどに触れていた。殺戮の音が一気に薄れ、空気がごうごうと唸る音ばかりが、イズミの頭蓋で鳴っていた。
――背後から、抱きしめられている。体温が、身体に伝わる。其処に居るのだと、はっきり判る。老人の細腕だけが、今のイズミを守っている。
「御爺様」
イズミは、呼ぶ。もう一度。答えてくれるまで何度でも。其のようにして家族に呼び掛けながら、嗚呼、此れではいけないと判っていた。此のままでは何も見えない。音も遠い。絣の着物越しに聞いた断末魔は、其の凄絶さが嘘のように希釈されて、イズミの耳まで届いてくる。
だが、聞こえる。其れでも聞こえる。まだ終わっていないのだ。止めなくては。貞枝と伊槻を。焦り、同時に漠然と思ったが、手遅れだとも判っていた。心と身体が麻痺している。此の体たらくで今さら止めに入ったところで、二人を助けられるとも思えない。
其れでも、見届けなければならない気がした。己の使命感となけなしの正義感が、意識に訴えかけている。此のままでいいのか。國徳に庇われたまま、此の惨劇の実態を知ることを諦めてしまって、イズミは、本当にいいのか。
だが、イズミには、どうしても――國徳の手を、拒めなかった。
疲労と怠惰、そして何よりも重篤な悲哀で淀んだ身体に、温かな優しさが染みていく。壮絶な地獄の中で、血の繋がった家族の温度に触れている。
……ずっと、会いたかった人だった。
異国の地に居た頃から、イズミは國徳に会いたかった。
だが、会おうとしなかった。傍系だからと気兼ねして、其の興味に蓋をした。然うして月日が流れた末に、運命が交差した此の夏に、イズミは此の男から、憎からず思われていると知ったのだ。『判らない』ことなど何もなかった。共に家族を亡くしたのだ。イズミは父を亡くしたが、國徳は息子を亡くしたのだ。
國徳は、屹度泣きたいに違いないのに――其れでも、泣かずに然うするのか。
イズミの頬を、涙が声もなく伝い落ちた。もう、此のまま眠りたい。家族と三人、此のまま此処で眠っていたい。そんな終わりで、いいと思った。
「御爺様。何も見えないのは、怖いです」
「怖いことが、あるか。見えた方が、怖いこともある。貴様は、こんなものは見んでいい」
「御爺様」
もう、此れしか望まない。唯一の祈りを込めて、イズミは言った。
「死なないと、約束、してくれますか」
「……まだ、死なん。口の減らん奴め」
國徳の悪態が、耳元でくぐもって聞こえた時だった。
黒一色の世界を引き裂くように、「酷いです!」と杏花の悲鳴が響き渡った。
「お母様は、嘘つきです! お父様も、嘘つきです!」
悲鳴ではなく、罵声だった。糾弾の声に応えるように、嘲り笑いも響き渡る。誰の声かすぐに判る。女の厭な笑い声が、森の空気を震撼させた。
「そうよ、嘘つき! 杏花ったら、一体何度云わせるのかしら? ああ、氷花でしたね。貴女とのお遊びのおかげで、すっかり馴染んでしまったわねえ」
「お母様は、ひどいです!」
叫び声が、まだ聞こえる。今度は涙声だった。暴力に似た激しさは、まるで慟哭のようだった。
「お母様。私には、何もありません。何にもないままでした。からっぽです。お母様が、取ったから。……返して、お母様。清らか、返してください!」
「あら。私を盗人呼ばわり。親不孝者ねえ、氷花。貴女には〝清らか〟なんて、初めから一つもなかったじゃないの」
「嫌いです! お父様も、嫌い! お母様も、嫌い! 皆、嫌いです! 大嫌い!」
「あら、そう」
素っ気ない、声がした。無関心を極めたような母の声に、杏花が、かっとなったのが――見えていないのに、はっきり判った。
「お母様なんて、大嫌い!」
杏花の声が大きくなり、肌に触れる空気の質感ががらりと変わった。怜悧な風が皮膚を鋭く撫で上げて、鳥肌が全身を覆っていく。一点で膨張した空気の波動が押し寄せて、國徳がイズミを支える力を強くした。嗚呼、と観念の息を吐き出したイズミは、今こそ明瞭に悟っていた。
――全てが、終わろうとしているのだ。
最後の〝言挙げ〟が放たれる前に、意識は終焉を知覚していた。イズミは此の展開を予知したわけではなかったのに、薄らとした既視感が身体を抜けたのは、一体どういうわけなのか。
呪われた呉野の血が、イズミに破滅を報せたのだろうか。
神社の御山で起こった、呉野の一族による惨劇。救いのない悲劇に幕を引く言葉を、少女は遂に〝言挙げ〟した。
「お母様も、お父様も、嫌いです。……『皆、居なくなっちゃえ』」
背筋が凍るほどに、感情が削げ落ちた声だった。此の瞬間を迎えるまでの激情を、此の呪詛と引き換えに地獄へ捧げたかのようだった。恨み、辛み、妬み、嫉み、虚無の深淵に堕ちた声に、全てが凝集されていた。血の絆を断ち切る怨嗟が、空気を邪悪に震わせて、残響を風音に溶かしていく。
六歳の幼い魂が紡ぎ出した、悲愴な〝言挙げ〟。
娘の言葉を聞いた女は、簡素な返事を寄越して、笑った。
「はい。判りました」
――ぷつん、と。絹糸が切れるような音を、聞いた気がした。
ざざざざ、と風が音を立てて吹きすさぶ。木々の梢が激しく揺さぶられる音が、塞がった耳朶を其れでも打った。怖気が、ひしひしと身体に迫る。深い贖罪の念が意識を突き上げて、畏怖を掻き立てられたイズミは震えた。
自然が、怒っている。御山に宿る神々の怒りに、イズミ達は触れてしまった。
だが、畏敬の念と綯い交ぜになった恐怖に、心臓を鷲掴みにされたのは、此の一瞬だけに過ぎなかった。
――しん、と。
辺りが、急に静かになったのだ。
「……」
耳鳴りがする程の沈黙の中で、虫の鳴き声が聞こえてくる。盛夏の夜の沈黙が、数十秒ほど続いた後に、イズミの顔を覆う腕の力が、ほんの少しだけ、緩んだ。
手が、ゆっくりと外されていく。國徳の浴衣の裾が離れ、そろりと開いた両の目に、月明かりが淡く射した。
「……御爺様」
茫然と、イズミは呟く。そして、背後の國徳を振り返るべく、俯き気味になっていた顔を、ゆるゆると上げた。
視線が、上向きになる。縁側の床から、御山の木々へ。帯のように射し込む月明りで青く輝く泉の水面へ、視線が吸い寄せられた時。
「……」
イズミは、沈黙した。
愕然と、していたのだ。
其処には、誰も居なかった。
水面が、波紋を描く。一滴、二滴、狂乱の名残か血か涙か、水面が円く輪を描く。拡がった波紋が畔へ緩やかに押し寄せて、新たな波紋を生み出しては、ぶつかり合って消えていく。
恐ろしいほどに静かだった。貞枝が居ない。伊槻も居ない。泉で殺し合って居たはずの男女の姿が、最初から誰も居なかったかのように、忽然と消え失せている。静謐な水面に血の色はなく、澄んだ湧水だけが其処に在った。そして茫然としている内に、水面の波紋さえなくなった。
此処には、何もなかった。皆、居なくなってしまったのだ。
「あははははは」と笑い声が聞こえてくる。貞枝の笑い声だと思いたいのに、其れは杏花の声だった。
否、違う。別の声だ。罪と罰を一身に引き受けるべく〝アソビ〟によって生まれた少女。鬼の娘、狂いの子。純真無垢ゆえに育まれた、悪徳の魂。まるで産声のような哄笑に、御山の空気がびりびり震える。静寂が、壊れていく。悪意に染まった〝言霊〟が、森の〝清らか〟を壊していく。
「お父様も、お母様も、嘘つき。嘘つきでした。私は、最初から氷花だったのですね。お父様、お母様、どうして嘘をつくのですか。それは、新しい遊びですか?」
杏花は――氷花は、然う言って、笑った。
己の〝言霊〟を暴走させた、善悪も命も知らぬ少女。
そんな少女の言葉に依って、呉野の大人が破滅した。しかも、命を奪った行為に対して、良心の呵責も感じていない。
嗚呼、と思った。死んでしまった、と。
イズミは、守れなかった。まるで観念するように、其れを悟った。
「御爺様」
イズミは、國徳を振り返る。背後で屈んだ國徳の目は、厳しく細められたままだったが、イズミが呼ぶと、此方を見た。
再会の日に、なぜ國徳はイズミにあのような言葉を掛けたのか。理由が漸く判っていた。正解かどうか訊ねたいが、今はただ結末をなぞるだけでいい。自然の摂理とも言うべき此の流れに従うことを、イズミは厭だとは思わない。
「御爺様。……御父様、と。貴方の事を、これからお呼びしてもいいですか?」
國徳が、軽く目を瞠った。イズミは、薄く微笑んで見せた。思った以上に、自然に笑うことが出来た。相手が家族だからだろうか。やはり其の感覚は、イズミにとって温かで、厭わしいものでは決してなかった。
「僕はこれから、貴方と共に生きていきます。それが父の最期の祈りでもありますし、そんな願いを抜きにしても、僕は貴方と一緒に居たいのです。祖父というよりも父親のように、貴方を慕っていきたいのです。克仁さんにも、そうしたように。……これから貴方の息子となる僕は、呉野和泉と名乗ろうと思います。気兼ねせずに、名乗っていこうと思います」
「……イズミ・イヴァーノヴィチはもういいのか。イヴァンの名が入ったロシアの名、無理に捨てる事もなかろう」
素っ気なく言い捨てられて、イズミは少し呆れてしまった。此の結末の一端を予期していたであろう男が、何を言っているのだろう。素直ではないというか、一体何処まで頑固なのだ。
ただ、『捨てる』という言い方をされて、胸が痛んだのは事実だった。其れでも決意は揺るがないので、イズミは國徳に頷いて見せた。
「はい。捨てましょう。父の名を頂いた名では、清らか過ぎていけません。呉野和泉でなければ、なれぬものもあるのです」
其の台詞だけで、國徳は此方の矜持を察したようだった。
「好きにすればいい」
再び素気無く言って、イズミから目を逸らして嘆息する。そしてすっくと立ち上がり、孫娘の他には誰も居ない御山の景色を見渡した。イズミも祖父に倣って立ち上がると、伊槻が然うしたように縁側を下りて、庭に降り立ち、悠長な歩みで少女の元へ近寄った。
少女はけたけたと不気味な笑い声を立てていたが、イズミの足音に気づくと、ぴたりと声を殺した。くるんと此方を振り向いた顔は、薄い笑みに覆われていた。
顔立ちは、やはり愛らしい。あの貞枝の娘なのだ。其の悪辣さまでそっくりだ。
今までは、そんな風には思わなかったはずだった。イズミはほんの少しだけ、少女に対して申し訳ない気持ちになる。其の一方で、此れが己の本心ではない事を、心の何処かは知っていた。
イズミは、悪いことだとは思っていない。此の少女への態度を変えることを、互いの関係を変えることを、悪いことだとは思っていない。仕様がないと、諦観と共に思うだけだ。其れ以外の感情は、今はよく判らなかった。
「……全く、貴女には驚かされてばかりでした。ですが、今ほど驚いたことはなかったと思います。何がそんなにも可笑しいのです? 僕は全く面白くありませんよ。人は、そんな風には笑いませんから。――鬼のようですよ、氷花さん」
淡々とした揶揄が、薄く滲んだ台詞を受けた少女――氷花は、きょとんと可愛らしく小首を傾げた。何を言われたのか判らない。然う言いたげな目をしている。
だが、やがてイズミが己を〝氷花〟と呼んだ事を呑み込めたのだろう。白い頬に、さっと赤味が差した。怒っている。すぐに判ったが、もう呼べなかった。
何故ならイズミは、目の前の人間が〝杏花〟だとは思えない。全く別の鬼の女が、無垢を装っているだけだ。
「……僕は、貞枝さんから聞きました。人の持てる感情には、予め量が決まっているのだと。貴女は『鬼の角』の物語を覚えていますか? 角を拾った御隠居が、鬼のような人間に変貌し、角を失った鬼は、優しい心の持ち主となる……」
イズミは、言う。此の神域で消えていった大人達を悼みながら、何故かガソリンの匂いさえも消え去った清浄の山で、一向に来ない救急車と警察のことを、頭の隅で考えながら。幕を下ろした幽玄の舞台の上で、生存者として取り残された登場人物の一人として、道化のように語り続けた。
「僕は、父が死んだ時。その魂の清らかさを、引き継ごうと決めました。そして、貴女が鬼のような激しさで、言葉の魂を操った時。貴女の事を、御隠居だと思いました。清らかなあの少女は、どうすれば帰ってくるのでしょうか。これは、感傷です。未練を〝言挙げ〟したところで、失われた命は戻りません。ですが、それでも」
イズミは、氷花と呼ぶことに決めた少女を見下ろした。
寂しさは、最早感じなかった。此の場所で喪失したものが多過ぎて、麻痺に侵された神経では、辛さを上手く感じ取れない。
其れでも、イズミは思うのだ。杏花の事を、憎めない。出逢いの日に見た清らかさが、此の夏に知った観念が、イズミの心から消えないのだ。
愛しかった。救いたかった。もっと一緒に居たかった。
だが、其の願いが、もう叶わぬというのなら。
「貴女が、この夏に失った〝清らか〟は――僕が、貰い受けましょう」
其の理屈は本当に、偏屈な己に似合いの考えだと思う。此のように理由付けせねば言葉にも出来ぬ不器用さに、ほとほと嫌気がさしてしまう。とはいえ、悪い気はしなかった。むしろ愉快に思う程だった。
「ですが、ここで一つ問題があります。僕は既に、父の清らかさを受け継いで生きていくと決めたのです。この上貴女の〝清らか〟まで引き受けてしまっては、僕は破滅するかもしれません。貴女の母の言葉によれば、持て余した感情は、人を壊すそうですから。國徳御父様も仰っていました。人には、各々に適した感情の質量があるのです。貴女は、それを壊しました。そして、人を殺めました。その罪は、誰のものでしょうか。……貴女を責める心算は、僕にはありませんよ。ですが、誰を恨めばいいのか判らない状況は、なかなかやりきれないものです」
「お兄様は、怒っているのですか? ……少し、怖いです」
「そうですね。怒っているかもしれませんね。そんな心算はありませんが」
「……。お兄様、冷たいです。面白くありません」
「ええ。面白くなくて結構です。面白いことを言った心算もありませんから」
「……」
氷花の目から、感情が失せる。
そして、「お兄様も、私と、遊んでくれないのですか」と小さな声で言った。
イズミは、「ええ、遊びませんよ」と躊躇なく言い放った。
氷花の目の色が、変わる。だが、イズミは言葉を撤回しなかった。
まだ、此方の言い分は終わっていない。此の少女には最後まで、きちんと聞いてもらわねば困るのだ。
然うでなければ、イズミが〝呉野和泉〟になった意味がない。
「氷花さん。このままでは貴女は、〝清らか〟を失った鬼のような少女のままです。人の命への『愛』がなく、『憎悪』しか持たぬ貴女では、落としてしまった『鬼の角』の如き〝清らか〟を、屹度拾えはしないでしょう。しかし、僕には貴女の〝清らか〟を拾う手立てがありません。僕の心にどれだけの空き容量があるのかは判りませんが、欲張りは人を破滅させるでしょうから。貴女の〝清らか〟を引き受けた時、僕は破滅すると思いますよ。ですから、僕は決めました。――僕は、捨てましょう。『愛』を持たない貴女の代わりに、僕は己の『憎悪』を捨てましょう」
少女が、呆けたような目でイズミを見た。
思い出す、物語があった。思い出す、笑顔があった。
――杏花。
イズミに左様ならと別れを告げて、居なくなってしまった幼い少女。手の平から〝清らか〟を取り零して、魂を怨嗟で満たした小さな従妹。
盛夏に出逢った其の少女は、イズミを優しい鬼だと言った。『鬼の角』という美しい物語を好きだと言って、イズミを優しい鬼だと言った。
ならば。イズミは、其れになろう。杏花が求めた、其れになろう。清らかな魂が此の世に残した〝言挙げ〟に、イズミは価値を見出したのだ。
其の価値は希望であり、同時に絶望と隣り合わせだった。何故なら此れはどう客観的に見ても、ただの自己欺瞞に過ぎないからだ。杏花の為とは名ばかりの、己の為に相違ない。然うと判っていても尚、イズミは其れになろうと思った。
己の事など、どうでもいい。杏花が、イズミに望んだのだ。
其れならば、イズミ・イヴァーノヴィチは。人としての魂は。
今、此処で、死ぬべきだ。
「僕は、誰も憎みません。『憎悪』という名の角を捨てて、僕は清らかさだけを追求した、優しい鬼となりましょう。僕は貴女を恨みません。父の仇ですが憎みません。僕は『憎悪』を捨てる代わりに、貴女の『愛』を引き受けます。清らかな心とその魂を、貴女が失ったというのなら。鬼の角、清らかな魂。僕はそれを拾いましょう。鬼であろうと御隠居であろうと、僕はどちらでも構いません。貴方の落とした〝清らか〟は、僕が確かに、預かりました。……そして、それらを引き受けた僕は必ず、〝清らか〟という名の鬼の角を、いつか杏花さんにお返しします。彼女が落とした〝清らか〟を、僕は屹度、お返しします。僕は、あの子と約束しました。杏花さんと遊ぶことを、僕だけは絶対に、止めたりはしない、と。……ですが、その約束を、果たせないのなら。僕が杏花さんと再び出逢うことがなく、僕が引き受けた一人の人間以上の清らかさを、もう彼女に届けられないというのなら。その時は――僕は、貴女の破滅を見守らせていただきましょう」
人で、鬼で、花。凍りづけの、手向けの供花。供養を体現した此の少女へ、己に出来ることが何もないというのなら。
看取る。見届ける。
少女の破滅を、最期まで。
其の為の鬼に、イズミはなる。
此の森で、三人もの大人が消えた。父は死に、恐らくは伊槻も死んだ。伊槻の死体とともに何処かへと姿を晦ませた貞枝もまた、生きているとは思えない。常識を超えた其の理解を、イズミは自然と受け入れていた。
大人達は、なぜ死ななくてはならなかったのか。〝言霊〟について知識を得ても、当事者として此処に居ても、見逃した真実が多すぎた。
だからこそ、今度こそは、必ずや見届けようとイズミは思う。
少女の血塗られた先行きを、余すことなく見尽くすこと。其れこそが、イズミが杏花の為にできる最後のことであり、父への弔いであり、己の宿命だと思うのだ。そして、同時に其の破滅は、此の氷の少女の宿命にも違いないと、イズミは勝手ながら思うのだ。
「罪塗れの貴女が、どのように身を滅ぼしていくのか。僕は、それを見守らせていただこうと思います。その為に、僕は貴女の兄となりましょう。幸い、貴女の兄に相応しい名を名乗ることを、既に許されましたから。……氷花さん。僕の妹。これから僕等は兄妹です。どうぞ、よろしくお願いいたします」
決意の口上を終えたイズミは、氷花を見下ろした。
夜風に前髪を揺らした氷花は、兄となる青年の長い台詞に耳を傾けたものの、其の内容についていけなかったのか、呆然の顔をしている。瞳に、戸惑いと敵意が薄く浮かぶ。嫌われたかもしれない。其れでもいいと、投げやりに思った。
ふと其の時、自己紹介がまだだったとイズミは気づいた。
ずっと、イズミ・イヴァーノヴィチと名乗っていた。あの少女には然う呼ばれてはいなかったが、此の少女に呼ばれる場合、此の名前では不都合だ。
此の名前では、氷花の兄になれない。父の名を含んだ名では、此の悪意の前に無防備すぎる。父はもう居ないのだが、其れでも今までの名で少女に呼ばれてはならぬという思いは、イズミの中で強固だった。
――〝コトダマアソビ〟
真名を偽って己が魂を守りながら、兄妹同士で相対するという〝アソビ〟。
だが、此の遊びは果たして本当に、克仁の言うような高尚なものだろうかと、イズミには最初から懐疑的だった。
何故なら此れは、ただの『言葉』の『遊び』だ。其れ以上の意味など屹度、此の少女は持っていない。そんな浅はかな少女と同じ土俵に立つのも情けない気がしたが、兄として付き合うと決めた以上、然うも言っていられないだろう。
イズミは、友好的に笑った。
憎悪を意識的に捨て去った空虚な心に、一人の人間が持つには過剰とも言うべき仁愛を満たして、微笑む。
狡い笑みだ。知っていた。知っていて尚、イズミは笑う。
そして、妹になった少女に向けて、己の名前を〝言挙げ〟した。
「初めまして、呉野氷花さん。――僕は、呉野和泉と申します」




