清らかな魂 24
縁側に立つ、伊槻の背後。月光が降り注ぐ、森の中。水面が青く輝く、泉の畔に――其の母子は、立っていた。
母親は昼間と同じ浴衣姿で、娘も巫女装束のままだった。美しい貌の女と少女は、豊かな黒髪を風に流し、寄り添い合って立っている。
絶句するイズミへ、女は艶やかに笑いかけた。少女の方は、笑わない。母の笑みを昏い瞳で見上げてから、イズミにも同じ昏さの視線を向けて、表情もなく立っている。
「……貞枝。お前は……」
國徳が、息を詰まらせたような声で、娘を呼んだ。
父親の声が聞こえたのか、貞枝と呼ばれた女の笑みが、一層眩い艶めきを帯びる。唇の紅が、すうと笑みの形に伸びた。
「こんばんは。和泉君、御父様。……イヴァンお兄様。貴方という人は、やっぱり此処に来てしまったのね。ねえ、貴方。どうして来てしまったの? あれだけ駄目と云われていたのに。……本当に、いけない人」
貞枝が、笑う。嘲り笑うように、其れでいて何処か寂しげに。笑みに複雑な感情の滲みを湛えたまま、貞枝は浴衣の袂に手を入れると、何かをそっと取り出した。
目を凝らすと、其れは茶封筒だった。手紙が入っているのか厚みがあり、二通用意されている。貞枝は静々と屈み込むと、杏花に二通の茶封筒を手渡した。
「杏花。此れを、和泉お兄ちゃんに渡しておいで」
「はい、お母様」
杏花は茶封筒を受け取ると、母の顔を凝乎と見上げた。
――気づけば、伊槻が動きを止めていた。
國徳だけを視界に捉えていたはずの伊槻の目が、今や森に立つ母子を食い入るように凝視している。横顔から窺える眼差しに、凶暴な輝きが颯と兆した。
――殺す気なのだ。瞬時に気づき、イズミは蒼白になった。
「貞枝さん、杏花さん。……此方に来ては、いけません」
「ええ。私は行きません。其方に行くのは、杏花だけよ」
粛然と笑った貞枝は、出し抜けに――ぱん、と両手の平を叩き合わせた。浴衣の裾が、翻る。真夏の夜の冷気を孕んで、黒髪が大きくたなびいた。
「伊槻さん、此方においでなさいな!」
貞枝が、声を張った。笑みを含んだ呼び掛けとともに、ぱん、ともう一度手を叩く。囃し立てる女の声に呼応して、伊槻が覚束ない足取りで縁側を下りた。誑かされたかのように表へ出ていく姿に度肝を抜かれたイズミは、思わず構えていた丸椅子を投げ出して、血相を変えて叫んだ。
「貞枝さん、何をなさっているのです! この伊槻さんが何をするか、貴女にはっ」
「判っていてよ、和泉君。判っているから、こうするのよ!」
貞枝は三度手を打ち鳴らし、「伊槻さん、此方においでなさいな!」と唄うように繰り返す。覚悟なのか、諦観なのか、何らかの自信に裏打ちされた凛々しい声に、明瞭な意思の存在を知覚する。出会った時から此の瞬間に至るまで、本当に振り回されてばかりだった。
ただ、焦った。貞枝も、父の姿を見たはずだ。此処で無惨に殺された、腹違いの兄の死を。にもかかわらず、衣服を真っ赤に染めた異常者たる夫に対して、なぜ此のような行動を取れるのか。真意が何一つ理解できなかった。
「貞枝さん、貴女は……それでは、殺されてしまいます!」
「其れでいいのです」
凛とした答えが、返ってくる。貞枝はイズミをひたと見つめると、恥じらうように目を逸らして、娘の手元を見下ろした。
「和泉君。杏花に託しました。こんな心算ではなかったのに、貴方、来てしまうんだもの。全てが終わった後で、読んでくださいな」
「貴女は、何を言って……」
イズミが問い詰めかけた時、「お母様」と別の人物の声が割り込んだ。
杏花が、母の浴衣の裾を引いていた。貞枝が「なあに」と答えて微笑むと、母の注意を引いた杏花は、愛らしく小首を傾げて、こう訊いた。
「お母様。お父様は、私と仲直りをしてくれるでしょうか」
「……」
無邪気に訊ねた杏花を、イズミは呆然と見下ろした。
杏花も母親同様に、全てを見たはずなのだ。血の海に沈んで眠る父と、満身創痍の國徳を。イズミ自身も、國徳ほどではないにしろ手負いなのだ。
そんな、地獄絵図の中で……喧嘩の仲直りが、一体、何だと言うのだろう。
人が、既に死んでいるのだ。最愛の人が、此処で、今。
虚脱感で、意識がぐらつく。父の最期の記憶が、蘇る。イズミの〝言霊〟を拒絶して、静かに逝った父の声。其の魂の清らかさが、眼前の少女を否定する。結局イズミは兄の心算でいただけで、ただの薄情な高校生に過ぎなかったのかもしれない。貞枝の言葉通り、非道な人間かもしれない。
だが、そんな己の葛藤や欺瞞を抜きにしても――此れは、あまりに酷過ぎた。
命の観念の欠落は、斯くも残酷なものなのか。
「……」
打ちひしがれるイズミを、貞枝が一瞥してから俯いた。赤い口の端が持ち上がり、イズミは静かに戦慄した。
――笑っているのだ。
人が、死んだ山で。血を流す國徳を、視界に入れながら。思い返せば此の叔母は、杏花に茶封筒を託した時にも笑っていた。笑みが記憶に馴染んだ所為で、違和感の認知が遅れていた。
――狂っている。
今度こそ、然う思った。イズミは、本気で、然う思った。
「仲直り、ね……」
思案気に囁いた貞枝は、人差し指を唇に当てる。そして、不意に意地悪く微笑むと、純心に訊ねる娘を見下ろして、試すような声音で言った。
「ふふ、そうね、どうかしら。……判らないわねえ、杏花」
「? どうしてですか?」
「だって。杏花はもう、お父様とは遊べないもの」
杏花が、沈黙した。
遊べない。然う言い切った母親を見つめる顔から、表情がそっくり消え失せる。そんな娘に尚も笑いかけながら、貞枝は残酷な〝言挙げ〟を止めなかった。
「杏花。〝アソビ〟はおしまいです。此れから皆は、貴女のことを〝氷花〟と呼びます。御爺様も然う呼んでくださるから、安心していいのよ」
「……」
娘の無言の訴えを、貞枝は笑って相手にしない。あしらわれた杏花の唇が、小さな言葉を紡ぎ出した。
「嘘つき」
水面に花を落とすように、言葉が一つ、零れ落ちる。一つ零せば、もう一つ。「嘘つき」と無表情の杏花の口から、言葉が零れ落ちていく。感情の起伏が緩やかな、酷く凪いだ声だった。
だが、此の台詞こそが、伊槻を狂わせた元凶なのだ。伊槻の心が、教えてくれた。何が己の精神を壊したのか、きっかけとなる記憶を見せてくれた。背後に立つ國徳もまた、イズミに教えてくれたのだ。犯人。罪人。諸悪の根源。此の惨劇に、そんな位置づけの人間が居るならば、其れが誰を指しているかは明白だ。
嗚呼、と思う。
此の子は、誰だ。
イズミを兄と呼んで慕う顔。其のあどけなさと繋がらないのだ。
愛らしい杏花。憎からず思っていた杏花。イズミの知る杏花と、目の前の少女の間に、残酷なまでの隔たりを感じた。理不尽さに苛まれながら何故なのかと自問したが、理由もまた明白なのだ。善悪を知らない故に、こうなった。其れ以上でも以下でもない。然うと判っていても此の隔絶感を受容したら最後、自我が狂って死ぬ気がした。心の壊れた伊槻のように、同じ道を辿る気がした。
そんな風に、思い詰めた時――唐突に、思い出した。
――〝二人居る〟
嗚呼、そうか、と。諦念に覆い尽くされた心で理解した。少女の先行きを憂いているはずの此の〝アソビ〟は、あまりに大人に都合が良かった。
恨む相手を、別に作る。此れなら、無垢な〝杏花〟を憎まずに済む。
此れは、然ういう〝アソビ〟だったのだろうか。
――ざぶん、と。不意に、水音がした。
驚いて顔を上げると、貞枝が襤褸屋に背を向けて、湧き水を湛えた泉へと足を踏み入れたところだった。奇行に息を呑んだイズミが「貞枝さん!」と呼び止めると、肩を強く掴まれた。
はっとする。國徳だった。イズミと目が合うと、首を横に振ってくる。
見守れと、あるいは行くなと言いたいのだろうか。視線を正面に戻すと、貞枝は浴衣の裾を捲りもしないで、泉の中央を目指している。楚々《そそ》とした足運びが水面を波立て、月明りの帯が射し込む舞台に、泡沫の煌めきを散らしていく。畔に残された杏花は微動だにせず、無言で母を見送るだけだ。
「御爺様。……止めなくて、いいのですか」
「……」
國徳は、返事を寄越さなかった。前方を睨む祖父の顔を、間近に見て――イズミは、先程とは比較にならぬほどに驚いた。
國徳の眼差しが、あまりにも鋭かったからだ。
息子のイヴァンを見つめた時とは、明らかに目つきが違う。視線だけで人が殺せるならば、此の目が屹度然うだろう。研ぎ澄まされた敵意に圧倒されて「御爺様」と呼び掛けたが、母親に置いていかれた杏花の声が、イズミの声を遮った。
「……お母様の、嘘つき」
感情が欠けた声で呟いてから、次の瞬間には火が付いたように「嘘つきっ」と叫び、非難の〝言挙げ〟が森の黙に響き渡る。貞枝はくるりと振り向くと、「そうよ、私は嘘つきでした」と悪びれずに言ってのけて、にんまり笑って開き直った。
「可哀想な氷花。此れから一人ぼっちになる氷花。けれど、私は伊槻さんを一人には出来ないもの。だから、伊槻さんと一緒に行きます。でも、嗚呼、違いますね。あの人を連れて行くのは、私の方ですもの」
「……っ、貞枝さん!」
堪りかねたイズミは、母子の会話に割って入った。二人の間に何があったのかは判らないが、此の親子の会話を止めなくてはと思ったのだ。異能の血がざわめくのだ。イズミは貞枝の声音から、確たる凶兆を感じたのだ。
だが、発作的な呼びかけ程度で、呉野貞枝が止まってくれるわけもなかった。
愛娘から甥の青年へと視線を滑らせた貞枝は、双眸を糸のように細めて、妖しく笑う。蠱惑的な嗤い声に、陰湿さが滲んだ。
「ねえ、和泉君。御父様。此の人が此のまま正気に返ったら、一体どうなると思いますか?」
「……それは、伊槻さんの事ですか?」
イズミは貞枝の真意を探りながら、慎重に訊ねる。貞枝は「ええ。そうよ。此の人」と答えて、伊槻に視線を転じた。
其の瞬間、躑躅の茂みの傍に立つ杏花の横を、伊槻が通り過ぎていった。泥とガソリンを被った革靴が水に浸かり、びしゃびしゃと濡れた音を立てていく。妻を追って泉に入った男は「ひひひ」とまだ奇怪な笑い声を上げていて、人としての理性が壊れきった夫を眺めた貞枝は、愛おしそうに目を細めた。
――ぞっとした。
此の時の貞枝の目は、人を愛する目ではない気がしたのだ。強いて言うならば、愛玩動物を見るような。道徳の観念が捩じ切れた眼差しは、イズミに此処から先の言葉を聞いてはいけないと悟らせたが、悟った時には遅過ぎた。
「……発作的に、人を殺して。ねえ、伊槻さんは耐えられると思いますか? イヴァンお兄様をこんなにして、其れで、此れからも生きていけると? ……無理ですよ。出来はしません。其れこそ本当に、気が狂ってしまうわ」
「……!」
愕然としたイズミは、伊槻を見た。
弛緩した腕をだらりと下げて、血塗れの身体で妻を追いかける男、呉野伊槻。家族を殺して自分も死ぬ。そんな妄執に憑りつかれ、凶行に走った孤独の人。
伊槻は、本当に――家族を、殺したかったのだろうか?
決まっている。こんな現実を、伊槻が望んだわけがない。こうなってしまった後で伊槻を擁護する心算はなかったが、呉野伊槻という人間が本来どういった個性の持ち主だったか、少しだがイズミは知っているのだ。
知っていて尚、仇だと思う。赦せない。然う思う。
だが、恨み切っていいのかは判らなかった。社交的な個性と平凡な孤独を抱えた、優しくも寂しい一人の男。イズミの知る呉野伊槻は、そんな相手なのだ。其の一方で、伊槻はたとえ本心ではなかったとしても、壊れる心に身を任せて、此処で人を殺めてしまった。仇だ。殺人者だ。イズミは家族を殺された。最愛の人を、清らかな人を、伊槻に此処で殺された。
イズミは――伊槻が、憎い?
「……」
そんな自問ばかりしていたから、気づくのが遅れたのだ。
――此れが伊槻の本心であり、同時に本心ではないのだとしたら。
もし、伊槻が此れから、正気に戻るなら。人と話すのが好きで、気弱な面も持ち合わせた、普通の男に戻るなら――其れは、あまりに恐ろしい想像だった。
精神が此処まで破壊し尽くされた人間が、正気を取り戻すとは限らない。其れに、仮に元の伊槻に戻れたとして、其の伊槻は果たして今夜の出来事を、正確に覚えているだろうか? 父を殺した事を、國徳に暴行を加えた事を、神社の敷地にガソリンを撒いた事を、伊槻は後に思い出せるだろうか?
判らない。だが、恐らく無理だ。少なくともイズミは、然う思う。
――其れでも、もし。此の伊槻が、正気に戻るなら。人の心が一欠片でも残っていて、元の伊槻としての個性を取り戻す可能性が、僅かでも在るというのなら。
此の惨劇の全てを、伊槻が思い出した時。
正気の伊槻は、果たして其の事実を受け入れられるのか。
「……」
「可哀そうな人」
沈黙するイズミに追い打ちをかけるように、貞枝が言った。地に落ちた蝉の足掻きを見るような、嗜虐的とも無感動とも取れる目つきだった。そんな茫洋たる光を瞳に浮かべた女は、其の眼差しを夫へ転じて、哀れむように目を細める。
「弱い人。本当に弱い人。伊槻さんは弱いもの。私は其れを知っているのよ。そんな罪悪感を背負った貴方が、此れから生きていけるわけないものね。人の命を背負える程に、強い人ではないのだから。……其れに、そんな人。此の世に居るわけないものね」
其の一瞬だけ、貞枝はふと寂しそうな微笑みを見せて、睫毛を伏せた。
だが、其の時には既に――イズミは、異常に気づいていた。
軽く俯いた、貞枝の口元。赤い唇が形作った表情は、微笑ではなかったのだ。
――満面の、笑みだった。
「……だから。伊槻さんは、私が連れて行きます。此の人を殺して、私も死にます。ねえ、伊槻さん。美しいお兄様の仇となった、私の愛しい旦那様。弱い貴方を、決して一人にはさせないわ。其れが妻というものです。夫の罪は妻の罪、子供の罪は親の罪。連綿と受け継がれていく数多の罪を、全て引き受けるのが此の私……」
言葉が、早口になっていく。最初はゆっくりと、次第に性急に、焦燥と歓喜が血泡のように言葉に滲み、狂気の演説が加速する。膨れ上がった感情の歯止めが、暴発して壊れていく。イズミの中で、不吉な予感も加速した。
此の様子が何を示しているのか、イズミはもう知っている。こんな狂気は既に一度、別の人間で見たばかりだ。
――依って、此れは二人目だ。
「ふふふ、ねえ、和泉君。御父様。御免なさいね、厭な叔母さんで。御免なさいね、厭な娘で。伊槻さん、早く此方においでなさいな。貴方を一人にはしませんから。貴方の嫌いな〝杏花〟は居ません。ねえ、伊槻さん。貞枝ですよ。貴女の愛した貞枝ですよ。――私と、〝アソンデ〟くださいな!」
「貞枝さん、伊槻さん……!」
抜き差しならぬものを感じ取った。イズミが名を叫んでも、貞枝はおろか伊槻さえ、襤褸屋の〝家族〟に見向きもしない。垣間見えた伊槻の横顔は安らかで、白痴の如き薄笑いは、杏花が今朝此の森で見せた笑みにそっくりだ。其の杏花は無表情で父を見送るばかりで、やはり畔から動かない。自分と〝アソンデ〟くれない男など、知らない。然う言わんばかりの無頓着は執着の糸が切れたかのようで、今の杏花の状態が、イズミにはよく判らなかった。
だが、其れどころではなかった。事態は最早、一刻の猶予もなかった。
夢見心地で唄う女と、其の女を殺す為に泉へ踏み込んでいく男。両者の姿に同じ狂気を見たイズミは、強張った顔を國徳に向けた。
「御爺様。貞枝さんも、まさか……」
既に、杏花の――〝氷花〟の言葉に、魂を絡めとられているのか。
「……」
國徳は、肯定も否定もしなかった。厳しい眼光を変えないまま、一人娘を睨んでいる。其の視線の先で、貞枝が愉しげに笑っていた。恍惚の表情で手拍子を打ち、焦点の暈けた目を爛々《らんらん》と伊槻に向けて、狐面の女が笑っていた。
「鬼さん、こちら、手の鳴る、方へ。……ふふふ、伊槻さん、私と遊びましょうよ、伊槻さん……」
歓待の声に誘われて、伊槻がゆっくり歩いていく。踝の浸かったズボンが水を吸って、歩行がみるみる重くなる。壊れたように笑いながら、「貞枝」と名を呼ぶ其の理由は、妻への変わらぬ愛故か、殺意が齎した歓喜故か、其れとも精神が壊れた故の、ただただ無為な笑みなのか。理由など、イズミには判らなかった。こうなってしまった二人の事など、何も判りはしなかった。
――もう、滅茶苦茶だった。
イズミたち一族は、何故こうなってしまったのだろう。何が此れほどの破滅を生んだのか、理由の一端ならば、國徳が既に示している。だが、其れだけの情報では足りないのだ。此の悲劇の真相に至るまでの道筋が、屹度イズミには隠されている。イズミの目には『見えない』何かが、其処に在るに違いないのだ。
然ういう風に思わなければ、到底やりきれそうになかった。少女の〝言霊〟が、イズミから父を奪うことに繋がったなど、認められるわけがなかった。
「お父さん……」
感傷から出た囁きに、応える者は誰もいない。夜風が寂しく吹き抜けて、イズミと國徳の間を抜けるだけだ。男女の〝アソビ〟で揺れる水面に、仄青い光が照り返す。蛍のような燐光は、心が洗われるほど美しく、悍ましいほど清らかだ。此の御山其のものが、嘘を吐いているかのようだった。
そして、其の嘘を――糾弾する鬼が、一人。
「……嘘つき、お母様の、嘘つき。お父様の、嘘つき。……私は、杏花ではなかったのですか。おうちに、居るのに。どうして、氷花と呼ぶのですか」
風が唸り、ざわざわと木々の梢が揺れた。
泉の畔に取り残された娘の声は、風の音に掻き消されそうな小声だったが、貞枝の耳には届いたようだ。泉の中央で月光を浴びる和装の女は、さも愉快そうに笑った。
「さっきも云いましたよ、氷花。貴女のお母様は、最初から大嘘つきだったのです。なあに、貴女。今さら気づいたのかしら。我が娘ながら、愚かねえ」
「……嘘つき」
「そうよ、嘘つきです」
「お母様は、ひどいです」
「そうよ、氷花。私は酷い女ですよ。嗚呼、だって、娘がいずれ死ぬ事を、最初から諦めていたんだもの!」
貞枝が、伊槻に手を差し伸べた。早く来いと誘うように。二人の距離は、あと少しで手を取り合えるほどに迫っている。杏花の顔が、颯と歪んだ。
あどけない顔が――憎悪に染まった。
「……お母様は、嘘つきで、ひどいひと」
「ええ、そうよ、そうよ氷花! 私は嘘つきで酷い人! だから、貴女とはもう遊べないの!」
貞枝が、高らかに笑った。妄執に憑りつかれた狂信者のように、声を上げて笑っている。正気を手放した女の嗤い声に臆したのか、杏花の身体が小さく震える。其の弾みで、両手から茶封筒が落ちてしまった。
一通は、土の上に。もう一通は、泉の水面へ――ぽちゃん、と軽い音がして、薄茶の封筒が水に浮いた。はっと青ざめた杏花が水面に手を伸ばしたが、茶封筒は畔から離れた所まで流されてしまい、幼い指先は届かなかった。其の様を一瞥した貞枝が「仕様のない子」と嘯いて、不出来な娘の体たらくを蔑んだ。
「私も伊槻さんも、もう貴女とは遊べません。誰も、貴女とは遊べないのです。左様なら、氷花。お別れの時間です。お母様は、お父様と一緒に遠い処へ行ってくるから。おうちに帰って、お留守番でもしていなさい?」
「……、厭です!」
肩を怒らせて、杏花が顔を跳ね上げた。肩口で切り揃えた髪が乱れ、封筒を手放した空っぽの手が、理不尽を堪えるように握り込まれる。「厭です!」と繰り返し叫んだ声には、悲壮感が血のように滲んでいた。
「……」
憐れみが、イズミの心を満たしていった。そんな場合ではないと判っていても、蕎麦屋で杏花の孤独を知った時のように、可哀相だと思ってしまった。
何故、杏花が厭と言ったのか。其れは家族が〝アソンデ〟くれない事でもなければ、貞枝への反発でもないだろう。
恐らくは、其の全部だ。幼い少女が育んできた思想、経験。記憶に留まる事が適った全てのもの。其の全部が厭なのだ。心を通わせた夏の記憶が、『判らない』相手の心を報せてくれる。自棄になる心くらい、手に取るように判るのだ。
〝清らか〟を渇望した少女が、今――世界の全てに、手酷い拒絶を突きつけたのだ。どくん、と全身の血が下がる感覚とともに、胃の底が急激に冷えた。
――此のまま、喋らせてはいけない。
気づいたのだ。こんな状態の少女の言葉が、一体何を引き起こすのか。
悲劇が、起こる。言葉に込められた魂が、此の場で再び、惨事を起こす。
「……!」
イズミは、杏花を呼ぼうとした。切迫感と使命感に衝き動かされるように、杏花を止めるべく呼ぼうとした。此のままでは人が死ぬ。イズミか國徳か貞枝か伊槻か、誰かに白羽の矢が立ち此処で死ぬ。そして、死という観念が脳を満たした瞬間に、父の死に顔を思い出して――喉が委縮し、呼吸が止まった。
そんな一瞬の怯みが、命取りになってしまった。
杏花が息を吸い込んで、黒髪で隠れた頬と目元が、涙を堪えるように一度震える。やがて遂に開かれた唇から、新たな破滅を呼ぶ〝言挙げ〟が、為されようとしたところで――別の人物の〝言挙げ〟が、割り込んだ。
呉野貞枝の声が、割り込んだ。
「……ねえ、伊槻さん。貴方、イヴァンお兄様を包丁で殺したのね?」
悍ましい台詞を告げた声音は、場違いなほど長閑だった。台詞と同じ緩慢さで、貞枝が腰を屈めていく。水を吸い上げて闇色に浸食された浴衣から、ほっそりとした腕が伸びた。白魚のような指先が、夜空を映し取った水面に浸けられる。背から零れた黒髪の毛先が水面の鏡面をくすぐって、波紋が円く拡がった。
「あ……」
イズミは、愕然と息を吸い込んだ。
――此の光景はまるで、あの日の再現のようだった。
木漏れ日が射す森の泉で、水面から掬った花を此方に手向けて、異邦人を歓待する女の優美な仕草。イズミが貞枝と数年ぶりに再会したあの日と、此れは殆ど同じ光景だった。
だが、此の光景は、間違ってもあの日の再現では有り得なかった。
貞枝の手が、夜色の水面から引き上げられる。
水を滴らせた白い手に、握られていた物は――今度は、花ではなかった。
泉の水底に、何故そんなものが隠してあったのか。イズミには知る由もない。
ともあれ、遠目にもはっきりと見えたのだ。
貞枝の手に握られた、鈍色の輝きが。淑やかに笑う女の手に、恐ろしい程しっくりと収まった、其の凶器が。
錐のように細い、銀色の包丁が。
和装から覗く細腕に、其の凶刃を流水の如き滑らかさで構えた女は、白い頬をおっとりと傾けて、美しく笑った。
普段通りの、人を食った笑みで。愛想の良さで厭世観を押し隠した、狐面のような薄ら笑いで。貞枝は、夫に告げたのだった。
「伊槻さん。一緒に、死んでくださいな」




