清らかな魂 23
血が噴き出した瞬間、真っ先に動く影があった。
ばらりと、縄が外れていく。イズミが緩めた拘束の輪が、身体から螺旋を描いて落ちていく。
其の輪が畳に落ちるよりずっと早く、立ち上がった和装の男の傷だらけの握り拳が、返り血を浴びた殺人鬼の横面を、渾身の力で張り飛ばしていた。
湿った重い音が、狂乱の和室に響き渡る。潰れた悲鳴が上がった時、イズミの時間も動き出した。
「あ……」
畳に、黒い液体が拡がっていく。青い月光を受けた液体は、深紅の艶めきをぬらりと弾き、つんと鉄錆びの匂いが立ち上った。テーブルの横に落ちた手がひくりと動き、仰向けに倒れて目を閉じた白い頬と、畳に付けた耳と髪が、拡がる血溜まりに浸かっていく。父の着たシャツの白が、赤く染め上げられていく。
「あ……あ、ああ、あぁぁぁ!」
慟哭が金縛りを打ち破ったかのように、身体も再び動き出した。跳ね起きて父に駆け寄るだけで、全身の節々が鈍く軋る。己の痛みなどどうでもよかった。イズミは必死に手を伸ばし、父の腕を強く掴む。傷ついた身体が此方を向いた。
胸から腹にかけての一閃から、血が勢いよく流れていく。出刃包丁で袈裟切りにされた身体から、白いシャツの破れ目から、裂かれた皮膚から流れていく。急速に失われていく命の流れを、イズミの手では止められない。
何という皮肉だろう。
己が一度然う言った。
杏花に向けて、然う言ったのだ。
「お父さん、お父さん、お父さん……!」
呼び掛けたイズミは、制服の白シャツを乱暴に脱いだ。ボタンが弾け、生地がほつれるのも厭わずに、引き千切るように服を脱ぐ。下に着ていたTシャツに、湿った夜気が吹き付けた。伊槻が何事かを叫んでいて、國徳が即座に叫び返した。振り返った方がいい。相手は刃物を持っている。判っていたが出来なかった。其方に注意を割いた瞬間、此処で父が死ぬと思った。
イズミが白シャツを傷口にぐるりと巻き付けると、父の顔が苦悶で歪んだ。きつく閉じられた両目の目尻に、深い皺が刻まれる。「堪えて下さい、今、救急車を呼びます!」と叫んだ途端――ぱしっ、と強く音が鳴った。
父の骨ばった手の平が、イズミの腕を掴んだのだ。
「……い、ず、み」
喉が、空気を嚥下するように小さく動く。懸命に息子を呼ぶ声を聞いた時、締めつけられた胸の痛みで、視界があっという間に滲んだ。
「お父さん……喋らないでください、無理をしないでください!」
「いいんだ。イズミ。……なんだ、泣きそうな顔をして。イズミのそんな顔……僕は、すごく久しぶりに、見た気がするよ」
「何を言っているのです!」
イズミは頭を振って、ズボンから携帯を取り出そうとする。父が、其の手をそっと握った。そんなことよりも息子と話す方が、よほど大切なのだと諭すように。
「いいから。イズミ……伊槻さんは、そうか……僕の事が、あまり面白くはなかったのかなあ」
「だから、こんな時に、貴方は何を言っているのです!」
「君の言う通りだった、って、言っているんだよ。傍系が、でしゃばるな、って、君は、僕に言ったじゃないか」
「そんな言い方はしていません!」
父の言葉を強く否定しながら、イズミは遂に携帯を取り出した。すると「和泉! もう呼んだ!」と怒鳴り声が飛んでくる。
國徳だった。和装の裾を翻して、廊下の向こうから駆け込んでくる。いつの間にか和室を離れていたのだ。其方に電話が置いてあったと思い出しながら、イズミも國徳に叫び返した。
「御爺様、伊槻さんはっ」
「縁側から落ちて、其処で気を失っとる! ――イヴァン!」
駆けつけた國徳が、畳に膝をつく。そして血塗れの父の手を取って「イヴァン!」ともう一度強く叫んだ。國徳が父の名を呼ぶところを、イズミは恐らく初めて耳にした。激情を露わに名を呼ぶ國徳を、父は緩やかに見上げた。苦痛に引き攣れた表情が和らぎ、双眸が微睡むように細められる。
「……ああ、父上……御無事で、よかった」
慈悲深い目だった。誰のことも恨んでいない。悲愴なまでの仁心だった。澄み切った赦しの顔を見た國徳の顔が、はっきりとした葛藤で歪む。血管の浮いた痩せた手は小刻みに震えていたが、父の手を離そうとはしなかった。
「父上……僕は、ここに来て、お邪魔だったでしょうか。僕は、皆に会いたかったけれど……いいえ、やっぱり、来られて良かった。貴方が元気なところを、ちゃんと見られた、から」
「イヴァン、喋るな。傷に、障る」
「父上。愛しています。貴方に会えて、よかった」
父が、國徳の手を握り返す。老人の皺だらけの手の平を引き上げて、震える手の甲に口づけした。
「僕は、貴方に会えて、よかった。ずっと、お会いしたかった。貴方は、僕の父親だから。だから、とても、会いたかった……すみません、父上、会いたかったとばかり、繰り返してしまって。でも、こんな風になって、たくさん伝えなくてはと思うのに……会えて嬉しかったこと、とか、会いたかったと、長年思っていたこと、とか……愛している、とか、そんな言葉しか、出て来ないんです。もっと、言いたいことが、あったはずなのに……貴方の事が好きだということ、くらいしか……言葉が、出て来ないんです」
「イヴァン、いい。もう、何も云うな」
「いいえ、今、言っておかないと……イズミ」
父が、イズミを振り向く。國徳の手を離さないまま、気づけば涙の浮いた瞳で、イズミの瞳を凝乎と見た。
「僕は……本当に、酷い人なんだと、思う。いつか、ジーナにも言われたなあ。……イズミ、せっかく、来るなって言ってくれたのに、結局、僕は、来てしまったよ」
「全くです。お父さんは、愚かです!」
イズミは止血の白シャツを皺になるほど握り締めながら、父の顔を睨みつけた。落ちた涙が、赤い白シャツに沁みを作る。白い領域が、減っていく。闇色を帯びた血液が、赤い領域を増やしていく。畳に散った血の飛沫へ、新たな血の波を広げていく。膝をつくイズミのズボンも、いつしか血で濡れそぼっていた。
――深手だった。
直感した。此の出血では、助からない。たとえ救急車を呼んだところで、此の隠れ家から父を降ろすまでに、一体どれ程の時間が掛かるだろう? 神社の石段の長さと勾配を思い出して、絶望的な気分になる。
間に合わない――そんな現実など、受け入れられるわけがなかった。
「……っ、お父さん、駄目です! 頑張ってください、死なないでください! これから、一緒に暮らせるのではなかったのですか! 日本で暮らすと、言ってくださったではありませんか! あれは嘘だったのですか! 僕は……貴方と一緒にまた暮らせるのを、とても楽しみにしていたのです! こんなのは、厭です! 厭です、お父さん……!」
「イズミ。……聞いてほしい、ことが、あるんだ」
父が、色のない唇を緩く動かす。イズミを安心させようとしているのか、朗らかな笑みを顔に浮かべて、國徳と握り合う手を片方、外した。血で濡れて尚白さを残した手の平が、イズミの手の甲に触れる。熱い命の温度が、伝わってきた。
「……イズミ。僕は、君を、愛しているから。いつも、電話で言っている台詞なのに。君を前にしたら、なんだか、照れ臭くなってしまって、だから、イズミが、僕を、愛していると言った時……すぐに、返事ができなくて、すまなかった。僕は……イズミを……愛しているから……」
「お父さん! お父さん……!」
「辛い思いを、させて、すまない……ジーナにも、寂しい思いを、させたから」
「そんなことは、今気にすることではありません!」
「……君は、本当に我が強い。イズミ、君は、自分の事を、強い意志や、拘りを持たない、何かに執着することが出来ない人間だと、思っているだろう?」
はっとした。何故、其れを父が。息を呑むイズミを見上げた父は、「息子だから、判るさ」と楽しげに答えて、笑った。
「この際だから、言っておくけれど……イズミ。そんな風に思っているのは、君一人だけだ。……誰も、君が執着の出来ない人間だなんて、思っていないさ。克仁さんにも、最近、言われたって、知っているんだ。君は、拘りが強い、って。……イズミ。君は、家族をとても大切に出来て、それに、杏花さんの事を……人の事を、思い遣ることも出来る。それに、頑張り屋だ。勉強を……とても、頑張っていると思う。目的なんか、なくたって、いいじゃないか。親の言葉じゃ、ないだろうけど……君が生きているだけで、僕は、それでいいんだ」
「……お父さん、言っていることが、滅茶苦茶です」
「そうかも、しれないね」
父は、笑った。穏やかな笑みはすぐに苦痛で歪み、國徳が手を強く握った。父は、薄目を開けて、また笑った。
「もし、僕が、死んだら……ジーナに、すまなかったと、最後にもう一度、伝えてほしい。克仁さんには、留守番を押し付けて、すみませんでした、と……あと、とても楽しい来日でした、と……それから、イズミ。父上を、頼んだから。僕の父上は、僕の事も、君の事も、大切に想ってくれている、から……一人に、しないで、あげてほしい。時々で、いいから……君が、一緒に、いてくれたら、安心だから……」
父の声が、消えていく。瞳から月光の照り返しが失われて、異国の髪と同じ色をした睫毛が伏せられていく。「イヴァン!」と國徳が名を叫んだ。「お父さん!」とイズミも嗄れかけた声で叫んだが、父は目を開けてくれなかった。消え入りそうな声で、別れの言葉を告げただけだった。
「左様なら、父上……左様なら、イズミ……」
未練の観念が染みた言葉が、心に波紋を生んだ時――何処かへと振り切れた感情が、白く冴え渡って弾け飛んだ。
「――そんな言葉は、嫌いです!」
絶叫したイズミは、両手で父の手を掴む。白シャツを握る手を離した事で、國徳が軽く息を呑んで、すぐさま止血の役割を交代しながら「和泉!」と鋭く叱責したが――此方のただならぬ様子に気づいたのか、はっとした様子で瞠目した。
「御爺様。貴方は先程、僕に〝言霊〟について語りました」
イズミは、言う。涙で濡れた頬を拭いもせずに、父の温かな手だけを握りしめながら、目を閉じて浅い呼吸を繰り返す父の顔だけを見下ろした。
――諦めない。
口の端が、震える。緊張か、怒りか、哀しみか、武者震いか。熱い激情とは裏腹に、意識が冴え冴えと澄み渡る。
諦めない。イズミはまだ諦めない。諦めるには早いのだ。
此処で、諦めたら――何の為の〝異能〟なのか。
「僕たち呉野の人間は、異能を操る一族です。人によって能力や特性に差異があるようですが……僕の異能の全貌は、どのようなものなのでしょうね」
「和泉。貴様、まさか」
「ええ。その心算です」
先刻、國徳はイズミに言ったのだ。此の惨劇が、何を引き金にして起こったのか。常人が聞けば世迷言と切って捨てるべき台詞でも、イズミだけは信じられる。呉野の者であるからこそ、其の言葉が真と判る。
其の言葉の残酷さと、真正面から向き合える。
「御爺様。貴方は、杏花さん――いえ。〝氷花〟さんは、〝言霊〟を操れると言いましたね。伊槻さんは、彼女が持つ〝言霊〟の異能によって壊れたと。……御爺様。貴方は、〝氷花〟さんと同じことが出来ますね? 貴方もまた〝言霊〟を操ることが、自由自在にとはいかなくとも、出来るのですね? ――ならば。僕の祖父に出来て、僕の従妹に出来て、この僕に出来ないという理由が、何処にあるというのです!」
叫びとともに、命の温もりの残る手を、イズミは強く握り締めた。
「イヴァンは〝同胞〟だろうが! 効かん! 和泉! ――〝同胞〟相手には、此の異能は効かん!」
國徳が、決死の顔で叫んでいる。イズミは息を深く吸い込んで、己の意識を研ぎ澄ませた。方法は、何故か頭に入っていた。今までは力の在処すら知らなかったというのに、魂の込め方が明瞭に判る。だが、筋違いだと気づいていた。此の異能の使い方は、本来イズミの領分ではないからだ。『判る』だけに過ぎなかった人間が、突然に己の器に見合わぬ御業に手を染めて、果たして使いこなせるのか。神の領域とも呼ぶべき清らかな御山の空気に分け入り、魂を操る浅はかさ。人の所業とは思えぬ程に、此れから罪深い〝言挙げ〟を為そうとしている。
其れでも、今だけは。其の罪を後で屹度贖うから、今だけはどうか見逃してほしい。真摯な祈りを込めて、イズミは頭を垂れた。
そして、たった一つの願いを、言葉の御魂に託して――あらん限りの声で、〝言挙げ〟した。
「お父さん、聞いて下さい! ――『僕は、貴方を愛しています』! 『生きていてもらわなくては困るのです』! 『貴方と此処でこれからも、一緒に暮らしていきたいのです』!」
「和泉、効かん! 其れに、たとえ〝同胞〟でなかったとしてもだ! 〝言葉〟の力で、此れから死ぬかもしれん男が救えるか!」
「やってみなくては、判らないでしょう!」
父と握り合う手を、額に当てる。まだ生きている。はっきり判る。諦める必要が何処にあるというのだろう。父は助かる。其れを信じていればいい。助からないなどと〝言挙げ〟すれば、其の〝言霊〟の霊威によって、父の命が奪われる。
其れが、イズミには許せないのだ。
「――『お父さん! 貴方の息子はまだ十八です! 親の離縁を受け入れられる年齢だと言いましたが、あれは全くの嘘で出鱈目です! 貴方が生きていなくては、貴方とお母さんの復縁が、永遠に果たせなくなるではありませんか! どうしてくれるのです! 困ります! 生きていてください! 死んではなりません!』」
父の睫毛が、微かに震えた。まだ生きている。生きているのだ。ならば必ず間に合ってみせる。其れこそが屹度此の異能の、正しい使い方に違いない。たとえ然うでなくても構わない。然ういう使い方をする事を、イズミは己に赦すのだ。
「イヴァンお父さん。誰より優しい貴方が好きでした。僕が貴方を愛している事くらい、たとえ僕が〝言挙げ〟せずとも、貴方は知っていたはずです。――ですが、僕は。それでも敢えて、〝言挙げ〟しましょう。言う必要のない言葉です。それでも貴方の命の為に、僕は敢えて〝言挙げ〟しましょう。僕の人としての心と魂、愛をかけて、僕は、敢えて、〝言挙げ〟しましょう。貴方に、敢えて、〝言挙げ〟しましょう。――『清らかな魂、イヴァンお父さん。僕は貴方を守りたいのです。この出血さえ止められたなら、屹度、貴方は助かります。だから』」
イズミは、一度言葉を切る。
そして、覚悟を込めて、心を込めて、魂を込めて、〝言挙げ〟した。
「お父さん。――『貴方の命を、繋ぐ代わりに……僕の事を、忘れてください』」
國徳が、目を見開いてイズミを見た。愕然の顔を視界に捉えながら、イズミは〝言挙げ〟を止めなかった。今やめたら途切れてしまう。言葉に躍動を感じたのだ。己の言葉に魂を感じた。異能の力、言葉の魂。其の霊威に依って、父の命が救えるなら。
此れは、安い代償だった。
代償だとも思わなかった。
「――『お父さん。貴方の心と魂の中で、最も〝清らか〟なものが何なのか。僕は知っています。それは、僕と貴方との思い出です。貴方が最も清らかだと感じるものは、間違いなく僕です。母です。僕たち家族の絆です。その清らかさで命を繋いで、貴方は生きていくのです。……貴方がたとえ、僕の事を忘れても。僕は、貴方を覚えています。僕と貴方が家族だった事を、僕は決して忘れません。そして忘れた貴方を恨みません。愛しています、お父さん。だから、死なないで下さい。血を流す代わりに思い出を捨てて、僕の事を綺麗に忘れて、貴方は生きながらえて』」
「いい加減にせんか!」
頬を握り拳で殴られた。〝言挙げ〟が途切れ、顔が横に振れる。目元に掛かった髪も揺れて、額に当てた父の手が外れた。
緩慢に、振り返る。國徳が、首をゆるゆると横に振った。強張り過ぎて表情の失せた白い顔で、掠れた声で、イズミに言う。
「和泉。……〝言葉〟では、こうなってしまった命は、救えん。……イヴァンの言葉に、耳を傾けろ」
「……」
イズミは、茫然と父を見下ろす。畳の上で繋ぎ合った手が、束の間強く握り締められて、やがて力が抜けていく。
「いずみ」
父の唇が、動いた。開かないままの瞼から、涙がつうと伝い落ちて、耳の方へ流れていく。血が跳ねた頬で月明かりを弾く涙は、凄絶なまでに美しかった。
「君は、本当に、一生懸命で……そんな熱心さに、応えてあげたいと、僕は、心から、思うんだ。――――『けれど』」
殉教的な清らかさを、優しい微笑に湛えながら。
父は、最期の台詞を、そっと告げた。
「……『僕は、大事な家族の事を……愛している息子の事を、忘れるのは、厭なんだ』」
声の残響が、虚空へ吸い込まれて消えた時――全ての音が、遠のいていった。
息遣いも、すすり泣きも、風の音すら聞こえない。無音に包まれた世界の中で、イズミは白い光を見た気がした。
魂が、解き放たれた。然う、思った。柔らかな淡い光が、青い薄闇を照らしていく。清浄の光を全身に浴びたイズミは、嗚呼、と溜息を吐くように声を漏らして、漸く悟る。
父は、もしかしたら――気づいて、いたのだろうか。
「お父さん」
イズミは、父の手を握りしめた。握り返す力のない、まだ温かい父の手の平。まるで眠るような安らかさで微笑む、イズミの父。國徳の実子。
遺された言葉を、魂を、しかと胸に刻みながら――イズミは、國徳を見た。
すぐに、目が合う。國徳も気づいていたのか、厳しい眼差しで頷いてから、血染めの白シャツを押さえる手を、暫しの後に、遂に離した。代わりに足元の縄を拾い上げて、ぼそりと言う。
「……さっき縛っておけばよかったか。和泉。もう警察にも通報した。五分もせんうちに片はつく。貴様は既に標的の外だ。さっさと逃げろ」
「しつこいですよ、御爺様。今さら何を仰るのです。最後まで、お付き合いさせていただきます」
イズミは、呆れを込めて國徳を見る。そして、イズミもまた父と握り合う手を離すと、代わりに眠る父に顔を近づけて、こつんと額同士を触れ合わせた。
未練がないわけでは、なかった。然う簡単に、割り切れるものではない。激情の名残の熱っぽさが、凄烈な哀しさを麻痺させているだけかもしれない。
だが――左様ならば、仕方がない、と。然ういうことに、なるのだろうか。
此の言葉を、正しく使う時が来た。其の現実は、今すぐ受け入れるべきなのだ。
「……左様なら。お父さん。貴方の魂の清らかさは、僕が全て引き受けます。決して、忘れません」
額を一度離して、柔らかな髪越しに口づけを落としてから――顔を上げたイズミは、屹と縁側を振り返った。
其処には、月明かりを背に殺人鬼。
イズミの親戚、國徳の娘婿。そしてイヴァンの義理の弟。
だが、親戚だろうが家族だろうが、此の惨事が異能の所為であろうがなかろうが、イズミ達の行動は変わらない。こうなってしまった以上、外部を巻き込む以外に解決の道など在りはしない。此の男を許す寛容さなど、イズミはもちろん國徳だって持ち合わせてはいないだろう。互いに厭になる程の頑固者なのだ。
罪は、咎める。
其れが、此の場でイズミと國徳に出来る、イヴァンへの仇討ちだった。
「……伊槻さん。こうなったのが、貴方の所為だとは一概に言い切れないことは、判っています。ですから、貴方を憎み切ることに、些かの抵抗も感じますが……それでも、貴方の犯した罪に対して、僕は贖いを求めます。警察に自主するか、それとも此処で僕達に捕まるか。どちらでも結構ですよ。ただし、此処で貴方が御爺様を殺すことは、僕が許しません。もう二度と、貴方に……僕の家族は、殺させません。――『呉野國徳御爺様は、貴方の〝家族〟ではありません』!」
其の宣言が、睨み合いで保たれていた均衡を壊した合図だった。
伊槻の身体が危うげに動き、縁側をふらりと上がってくる。血だらけの両手は空っぽで、包丁は國徳が取り上げたか隠したのだ。だが、丸腰とはいえ相手は正気を失った成人男性。どんな行動に出るかは判らない。イズミは腫れ始めた手の痛みを徹底して無視し、足元に転がっていた丸椅子を拾い上げる。其れを目の前の狂人へと構えながら、國徳を背後に庇った。國徳が不機嫌そうに溜息を吐くのが、気配で判った。
「御爺様」
「何だ」
「貴方の事も、僕は愛していますよ」
「遺言のような言葉は、止せ」
「そうですね。では、全てが終わったら、その時にまた〝言挙げ〟します」
横顔で盗み見た祖父の顔は、相変わらずの仏頂面だ。気難しそうな其の顔に、もう取っつき難さは感じない。胸が張り裂けそうなほど辛いのに、家族が傍に居るからだろうか。其の実感が温かだから、イズミは立ち続けることが出来るのだろうか。
思わず微笑んだイズミが、再び前方へ注意を向けた時――驚きのあまり、息が止まった。
伊槻の背後に拡がる、森の中に――探していた人物が居たからだ。
「貞枝さんと……杏花さん……」




