清らかな魂 21
イズミは茫然と呟き、ふらりと誘われるように、鳥居の向こうへ踏み出した。
其の瞬間、身を切るような痛みが皮膚に走った。
「っ!」
夏場とは思えぬ冷気に襲われて、酩酊感が脳を貫く。くらりと傾いだ身体を何とか立て直して踏み止まると、石畳に落ちた玉砂利を蹴る音が、夜色の境内に響き渡る。
そして、イズミが再び顔を上げた時――其の人物は、跳躍せんばかりの勢いで、イズミの真正面に迫っていた。
「! 伊槻、さ」
言葉は、其処で止まった。
獰猛な手の平が視界を覆い尽くし、反射的に背筋が反る。しかし仰け反った程度では逃げ切れず、がつっと襟首が引き寄せられて、ボタンが弾けて飛んでいく。爪が白シャツ越しに鎖骨を引っ掻き、鋭い痛みが身体を抉った。
短く呻くイズミの顔に、男の顔が肉薄する。肌が触れ合いそうな程に接近されて、顔を強張らせるイズミを見て、其の男は嗤っていた。
壊れきった笑みだった。
「……イズ、ミ、君」
声は歪に震えていて、頬にかかる吐息が熱い。至近距離で見た口元で、唾液の筋が光っている。充血した目玉にかかった黒髪は、汗で額にへばりついていた。
――『こんな状態の人と顔を突き合わせてはいけないって……相手の方には失礼だけれど、僕は怖くなってしまったんだ』
全く、父は優しすぎる。気に病む必要が何処にあるというのだろう。此れは誰であっても然う思う。イズミも今まさに然う思った。
だが、もう遅い。捕まってしまった。
頭髪を振り乱し、病的に血走った双眸を裂けんばかりに見開いて、此方を凝視して嗤う男――呉野伊槻に。
「イズミ君……イズミ君! ああ、君に、会いたかった!」
伊槻の口が笑みの形に引き攣れて、口の端も裂けそうなほどに吊り上る。正気とは思えぬ歓喜の声にイズミが応える暇さえ与えず、伊槻はイズミの襟首を揺さぶった。痩せ型の体躯の何処からそんな力を引き出すのか、強い力で首を絞められ、呼吸がみるみる苦しくなる。「いつ、き、さん」と呼び掛けたが、返ってきたのは凄絶に歪んだ異常な笑みと、突拍子もない台詞だった。
「イズミ君、き、きき、君は、僕のっ、〝家族〟かい?」
「か、かぞく……っ?」
「家族っ!」
伊槻は眼球を忙しく動かし、「家族! 家族!」と執拗に叫ぶ。イズミを激しく揺さぶりながら、鼓膜が破れんばかりの声量で、異質な台詞を叫び続ける。
「家族は、殺さないと! 僕と一緒に、皆で死のう! だからっ、貞枝と、お義父さんと、氷花は、殺す! 君も家族なら、君も殺す! 家族は、皆、殺すんだ! イズミ君! 君は、僕の、〝家族〟かい! ほら、答えてくれよ! 僕は、君を、探していたんだ! さあ、早く! 教えてくれ! 君は、僕の、〝家族〟なのかい!」
「や……やめて、ください……伊槻さん……!」
懸命に訴えて抵抗したが、出鱈目に伸ばした手が何処に伸びたのかも判らない。一度、二度と空を掻き、三度目になって漸く伊槻の身体の何処かに触れて、熱っぽい濡れた手触りが、手の平をぬらりと撫でていった。
悪寒が、心臓を一突きにした。目を見開いたイズミは、伊槻の胸板を渾身の力で突き飛ばした。
伊槻の顔が歪み、白シャツを着た身体がふらつく。石畳にくずおれたイズミは、激しく咳き込み、己の手の平を見下ろして――恐怖に、意識を支配された。
手が、べったりと赤かった。
視界の端で、闇色の影が蠢いた。大人の手が、イズミに向かって伸びてくる。
逃げなくては。其れだけを理解した。横合いに跳んだ身体が石畳を派手に転がり、弾けた玉砂利が乱れ飛ぶ。石礫に打たれながら逃れたイズミは、片膝をついて起き上がり、屹と立ち上がって身構えた。
然うして、血を吐くような気迫で叫んだ。
「伊槻さん……、貴方は、何をしたのです……!」
唇が、わななくように震える。判ったのだ。イズミの手を染めた赤色は、伊槻が流した血ではない。伊槻の狂的な告白が、惨事を物語っていた。
――『来るな』
此処に来る直前に、克仁の家に入った電話。枯れ枝のように痩せた身体。浮き上がった手首の血管。気難しそうに引き結ばれた唇。強い意志を宿した瞳。其れらをまざまざと思い出して、理性の箍が弾け飛んだ。
「御爺様に……、御爺様に、何をしたのです!」
激昂するイズミに、伊槻は返事をしなかった。
其れどころか、「ひひ」と悍ましい笑い声を上げて、目をまん丸に見開いたまま、イズミにじりじりと迫ってくる。まるで捕食するように、屍が人を襲うように、ゆらり、ゆらりと危うげに歩き、イズミが開いた距離を詰める。紺青の空には、円い月。月明りの下、鳥居を背にして、狂人が此方に歩いてくる。
「……イズミ君、質問に、まだ、答えてもらって、いないよ。き、ききき、君は、僕の、か、〝家族〟かい?」
凄烈な狂気を孕んだ目が、イズミを見た。
そして、其の目と視線がかち合った瞬間に――白い閃光が、脳裏で炸裂した。
――『お父様のっ、嘘つき!』
殴りつけるような声が、突如として聴覚に訴えかけてきた。
知っている声だった。だが、イズミが知る少女の声とは違っていた。錆びついた鋏を振るうように、肉の器を刺すように、鋭い怨嗟で研磨された哀しみが、言葉に御魂を降ろしていた。
――『嘘つき、嘘つきっ! どうしてですか! どうしてっ! 嫌いです! 嘘つきのお父様なんて大嫌い! わああ、ああっ、あああ!』
まるで雹が降るように、言葉の暴風が吹き荒れる。悲痛な慟哭に誘われるように、ぱちん――と。花を切り落とすような鋏の音が、何処からともなく聞こえてきた。
其れが、上映の合図だった。声だけではなく〝映像〟が、脳内に怒涛の勢いで拡がった。
――『もう、厭なんだ!』
拒絶を示した怒鳴り声は、此方も知っている声だった。目の前で聞いたばかりなのだ。だが、こんな激情は知らなかった。知らない感情ばかりだった。
――『君は、氷花だろう! もういい加減に止さないか! 普通がいい! そんな僕の願いを、漸く聞いてもらえたんだ! 氷花、さっきも言ったように、〝アソビ〟はもう終わりだ! 貞枝も、お義父さんも、どうして今まで拘っていたんだ……その所為で氷花だけが、今も拘り続けているじゃないか! なあ、氷花! どうしてお父さんの言うことがきけないんだ!』
此の〝映像〟の場所は、和室だ。貞枝夫婦と文学について語らったあの和室に、二人の人間が立っている。
一人は、伊槻。そして、もう一人は。
――『いやです!』
伊槻の言葉を、少女――杏花は、強く拒絶した。
くすんだ色彩の〝映像〟で、親子は海老茶色のテーブルを挟んで対峙している。父を見上げた杏花は、頑なに首を横に振った。黒髪がばらばらと頬を叩き、屹と再び父を見上げた顔は、流れた涙で濡れていた。
――『お父様は、私と遊んでくれると言いました! 今日は、私と二人で遊んでくれるって、お母様が! なのに、どうして嘘をつくのですか! 氷花ではありません! 杏花です! 今の私は、杏花です!』
其の言葉が響くや否や、伊槻の瞳の焦点が、急激に揺らいだ。眼球が裏返りそうなほどの苦悶が赤黒く染まった顔面に浮かび、身体が不自然に痙攣する。ふらつく足で畳に踏み止まった伊槻は、テーブルを回り込んで娘の前に立つと、腰を屈め、白く柔らかな頬を打った。ぱんっと乾いた音と共に、杏花の身体が揺れる。頭から畳に転がって、額がテーブルの脚にぶつかった。
あっ、とイズミが叫んだ途端、現世の声が〝映像〟にノイズを走らせる。ざらついた灰色の砂嵐が、夢と現を掻き混ぜる。風が、酷く冷たかった。此処は、夜の神社の境内。二重にぶれた景色の中で、少女の泣き叫ぶ声をイズミは聞いた。同時に「くひひ」とすぐ傍で不気味に笑う男の声も、耳は確かに拾っていた。
――和泉君。人の持てる感情には、予め量が決まっていると思うのよ。
貞枝の声が、不意に脳裏に蘇る。ぴんと背筋を伸ばした淑女の声が、哀しい家庭不和に射す一条の光のように、気だるげながらも奇妙に殉教的な清らかさで、唄うように諭すのだ。
――質量と云えばいいのかしら。人が誰かに悪い言葉を向けたとして、其れが意識的な悪であれ、無意識の悪であれ、悪意の言葉を受けた心は、少しずつ削れていく。ひとたび削れたならば、防衛本能が働くのかしら。傷ついた心を守る為に、人の感情は動いていく。責任転嫁や言い逃れなんて、いい例ではなくて?
流れ続ける〝映像〟の中で、頬を打たれた杏花が、身体を起こす。額から一筋の血が流れ、怪我に気づいた伊槻の顔が、束の間正気を取り戻したかのように、はっと青く歪んでいく。激しい苦悶と怒りがせめぎ合い、やがて片方の観念が喰われたのか、かつて優しげだった面立ちは、悪鬼の形相へと化けた。
――『こんな心算じゃなかったんだ!』
怒鳴り声を張り上げて、天井を振り仰いだ伊槻の感情が、どろどろ、どろどろ、流れてくる。〝映像〟という枠に収まりきらない激情が、匣を突き破って溢れてくる。表面張力の決壊のように、押し寄せた黒い波が止まらない。こんな心算ではなかったなら、どういう心算でいたのだろう? 可愛い娘に、綺麗な愛妻。不満などないはずだった。否、嘘だ。普通の暮らしを、望んだだけだ。健全で真っ当な、当たり前の家庭を築いていきたいだけだった。其れだけしか、望んでいない。其れ以外は、何も要らない。なのに、其れが叶わぬというのなら。
――でもねえ、激しい感情は時として、己を守る以上の働きを、心に齎すとは思わない? 動いた感情が心を乱し、乱れた心を抑えようと律すれば、また感情が動いていく。此れを人は、葛藤と呼ぶのかもしれませんね。煩悶する姿は美しいのかもしれないけれど、私、あまり見たくはないわ。
どくどくと、脳の血管が激しく脈打つ。イズミは、頭を強く抱えた。伊槻の感情が膨張して、イズミの自我を圧迫する。自他の境が曖昧になり、精神を無理やり侵していく。嗚呼、と喘ぐように息を吸った。吸い込んだ空気からは、何故かガソリンの匂いがした。
――『氷花っ! 嘘をついているのは君の方だ! 僕は嘘なんかつきたくない! 〝杏花〟なんて嘘じゃないかっ!』
伊槻の激昂を聞いた杏花が、立ち上がった。
其の瞳には、新しい涙。すう、と息を吸い込んだ少女は、『嘘つきっ!』と絹を裂くような声で絶叫した。
悲鳴に似た〝言挙げ〟に、イズミが何らかの〝魂〟を知覚した瞬間――新たな感情の波動が唸り、イズミ目掛けて殺到した。
其の感情の、質量は――もう、己の身体では測りきれなかった。
身体に収まりきらない感情が、みちみちと無尽蔵に詰め込まれていく。其れ以上押し込まれては、心と身体が壊れてしまう。普通の家庭、幸せな家族。満ち足りた生活が欲しいだけだ。違う。此の願いは、伊槻のものだ。本当は、偽りの名など呼びたくない。嗚呼、違う。杏花だなんて、呼びたくない。此れは伊槻の感情で、イズミの自我ではないはずなのに――。
杏花だなんて、呼びたくなかった。
娘の真名を、当たり前に呼びたかった。
普通の家庭、幸せな家族。満ち足りた生活が欲しいだけだ。偽りの名を呼ぶたびに、己の心に背いた気がした。嘘で塗り固めた生活は、望んだはずの温かさを、どんどん遠ざけていく気がした。
そんな〝アソビ〟は、厭だったのに。娘が、自分を、嘘つきだと。
またしても、話を聞いてもらえない。義父も妻も娘さえも、自分の言うことだけは誰も聞かない。耳を貸して貰えない。
入り婿の自分だけが、此の家の中で――〝仲間外れ〟だ。
――葛藤が、心を追い詰めている。
凛、と。呉野貞枝の笑う声が、意識の隙間に滑り込む。
――追い詰められた数だけ感情が動き、其の質量を増していく。ねえ、こんな調子で感情の歯止めが壊れていってしまったら、いつか心という器を溢れ出して、身体中から溢れ出るかもしれないとは思いませんか? じわじわと心を追い詰められた、可哀想なお貞のように。
ねえ、和泉君。然う言って、貞枝が笑った気がした。
――病を患うように、人を駆り立てていく感情を、葛藤と呼ぶのなら。……溢れ出した此の感情は、なんて名付けたらいいのかしらね。
「あ……、――あああっ、あああぁぁ!」
喉が壊れるような悲鳴が出た。
声を上げねば死ぬ気がした。身体を内側から押し開かれるような激痛から、己を守る為だった。煮立った血液が身体を巡り、意識と脳髄を焼いていく。イズミはがくりと地面に膝をつき、其のまま玉砂利に倒れ込んだ。
――其の『力』。甘くみない方がいい。
意識を手放しかけたイズミは、國徳の台詞を思い出していた。
――強くなる。手が付けられなくなる事はないだろうが、お前にとって辛いことになるだろう。
嗚呼、こういう風に強くなるのか、と。イズミは事実を受け入れた。今までとは違った『見え方』だ。國徳は、此れを予期していたのだ。
……國徳は、何処にいるのだろう。
失踪したはずの伊槻が神社に居て、他の家族は見当たらない。見上げた伊槻の顔は真っ青で、白シャツの胸元は血塗れだ。誰の血だ。掴みかかって問い詰めたい。其れなのに、初めて呑まれた力の強さで、身体の自由が利かなかった。
だが、此処で此のまま伸びていては、イズミを待つのは破滅なのだ。
いつしか〝映像〟は途絶えていて、少女の〝言葉〟に囃し立てられるように感情を肥大化させた男だけが、ゆらり、ゆらりとイズミの視界を歩いてくる。幽鬼の如き立ち姿と向き合うイズミも、じり、じり、と身体を引き摺り後ずさる。
「イズミ君、何故、逃げるんだい……? 僕等は、〝家族〟だろう……?」
「家族……」
イズミは、歯を食いしばる。家族。また、家族と言った。伊槻は其ればかりを言っている。理由は判らないが、兎も角こうなってしまった以上、もう一言だって答える気はなかった。
――下手を打てば、最悪、死ぬ。
此れは、禁断の問いなのだ。其れだけは、承服している心算だった。
伊槻から視線を外さないまま、イズミはやがて立ち上がる。爬虫類の如き視線が、動きに合わせて付いてきた。狙われている。はっきり悟る。此処で逃げねば殺される。生々しいまでの命の危険を、生まれて初めてイズミは知った。
そして、其れを覚悟した瞬間に――不意を打って駆け出した。石畳を越え、玉砂利を踏み、其の向こうの剥き出しの土をローファーで蹴散らしながら、持てる力を振り絞って、小道を目指して駆け出した。
逃げ切れないと判っていた。此の道の先は行き止まりで、鎮守の森の最奥には、湧き水を溜めた小さな泉と、呉野家の一族が住む襤褸屋しかない。まだ動悸が収まらず、息も酷く切れていた。ガソリンの匂いのする境内で、此方に勝機は欠片も無い。最悪の場合、伊槻と二人で心中だ。
どうしてこうなったのかは判らない。あんな記憶の〝映像〟を見ても、イズミには判らないままだった。
だが、恐らくは――あの〝やり取り〟が、伊槻を変えた。何故か〝家族〟という絆に異様な拘りを抱き、発達した妄執が、常人を鬼人に変貌させた。
もし、其の推測が正しいならば――今、他の〝家族〟はどうなっている?
杏花は? 貞枝は? 國徳は?
下草を踏み分けて走るイズミの後ろで、常軌を逸した男が「ひひひ」と嗤う声がする。暗く細い山道には、花が幾つも落ちていた。今朝も此処で見た花だ。杏花が切り落とした花だ。闇の中で、茫と光る。夜光虫のような輝きは、まるで行燈のようだった。此方においでと、呼ばれた気がした。今朝の拒絶が今夜は歓待、まるで遊女の嘘のように、気まぐれな花が誘っている。逃げるイズミを誘っている。
花灯りを繋ぐように駆けたイズミが、円い月を水面に映した泉の畔まで、漸く辿り着いた時――遂に、見つけた。
呉野一族が住む日本家屋の、開け放たれた雨戸と障子戸の向こう。今朝には貞枝が立っていた縁側から、あの〝映像〟の和室が見渡せた。
――其処に、居た。
海老茶色のテーブルの中央に、小さな丸椅子が載せられている。膝ほどの高さの丸椅子の上には、危うげなバランスで立たされた、細く骨ばった両足。絣の着物に身を包んだ、痩せた老人の身体。
テーブルの上には、長い縄も載っていた。蛇の如き縄の先は、丸椅子に立たされた人物に繋がり、両腕と腹部を縛っている。
しかも、其の縄は――もう一本、あったのだ。
イズミは顔色を失い、あらん限りの声で叫んだ。
「御爺様!」
拘束されていたのは、紛れもなくイズミの祖父、呉野國徳だった。
額から血を流し、片目にまで流れた血液で白髪と顔の半分を朱に染めながら、電気も点いていない和室の青い闇の中で、目を固く瞑って立たされている。
其の首には――輪っかの形の縄が、一巻き。
緩く撓んで鎖骨に掛かった縄の先が、天井の梁へと繋がっているのが見えた途端――血が凍るほどの恐怖に衝き動かされたイズミは、無我夢中で駆け出した。
同時に、イズミの呼びかけに國徳が気づいた。
閉ざされた瞼が、かっと開く。双眸が駆け寄る孫の姿を捉え、表情が露骨に強張った。口の端に滲んだ血の跡が、歪む程に一度震える。
そして、突如――豪胆な声量で、老人の喝が轟き渡った。
「和泉! 貴様は阿呆か! なぜ来た!」
「阿呆ではありません! 貴方の孫です! 来てはいけない理由などないでしょう!」
「其れが阿呆だと云っとるのだ! 来るなと云ったのを聞いとらんのか!」
「ええ、聞いていません、知りません! そもそも貴方は、僕に畏まらなくてもいいと仰ったではないですか! だから図々しくとも来たのです! ……今、お助けします!」
無駄口を叩く暇などなかった。玄関を無視したイズミは縁側に直行し、ローファーのまま呉野家に飛び込んだ。土足のまま畳を踏み越えてテーブルに飛び乗ると、目の前にある祖父の顔に厳しく睨みつけられながら、イズミは首の縄をもぎ取るように取っ払った。だらんと揺れる首吊りの輪を視界に入れながら、続いて腹の拘束にも手を掛ける。
だが、此方は結び目がきつすぎて解けない。もどかしさから手つきが乱暴になる。少し緩んだがまだ駄目だ。もう少し、もう少しと格闘するうちに、背後の伊槻を思い出した。
弾かれたように振り返る。
家のすぐ傍まで迫っていた。
「……!」
縁側から侵入しようとする伊槻を見た瞬間に、反射で跳躍したイズミは、縁側の床に降り立った勢いを殺さぬまま、木の雨戸を全力で引き寄せた。
がっ、と重い音がして、雨戸が目の前で横に滑る。月光が断たれ、部屋が一気に暗くなる。伊槻の顔が、見えなくなる。笑い声が、外から聞こえた。まだ、全く隠せていない。雨戸一枚では凌げない。隣の雨戸はがら空きなのだ。其処から漏れた月明かりが、人型の影を映している。手足を昆虫のように振り回した鬼の影絵が、板張りの床で躍っている。
――まずい。
膠着状態を維持できるのは今だけで、いずれは簡単に突破される。かといって一瞬でも手を離せば、伊槻は此処を開け放ち、イズミに襲い掛かるだろう。イズミは雨戸を必死に押さえたまま、背後の國徳に叫んだ。
「御爺様! 逃げてください!」
「無茶を云うな、和泉。貴様、私にジャンプして逃げろと云うか」
「ジャンプでも何でもして逃げてください! 僕は手が離せないのです! 首の縄は外しました! 早く! 足腰を痛めぬよう気をつけて飛び降りて、そのまま裏手から逃げてください!」
「其の逃亡経路を、狂人の真ん前で暴露する奴があるか、莫迦垂れ! 其れにまだ手が使えん!」
とんでもない罵倒が返ってきた。此方は決死の思いで言ったというのに、なんという仕打ちだろう。汗で濡れた髪を振るって「僕は、真剣に言っているのです!」と叫んだが、其の台詞を言うのが二度目だと気づき、はっとした。
「御爺様、逃げないならば、教えてください。貞枝さんは……杏花さんは、どうしたのです! 何故、こんなことになっているのです!」
「判らん!」と國徳の声が、背中に叩きつけられた。
「私が目を覚ました時には、二人とも消えていた。何処かに隠れているか、山を下りて逃げたか。……恐らく、まだ近くに居る。貞枝も、其れに氷花も。だが」
続きの言葉を聞くより前に、がたがたと雨戸が揺れ始めた。
「!」
どんっ、と衝撃が腹部を襲い、イズミは床に転がった。雨戸を蹴飛ばされたのだ。たった其れだけの振動で転げる程に、今のイズミは疲弊している。其のショックで固まったのが、イズミの運の尽きだった。
一瞬にして、がらりと雨戸が開く。仄青い月光が燦然と射して、和室の薄闇を駆逐した。清浄な輝きを全身に浴びた狂人は笑っていて、其の手にはいつの間にやら、出刃包丁が握られていた。
ぎらりと月明かりを照り返す刃を見て、イズミは目を剥く。
「貴方、一体どこからそんなものを出したのです!」
状況を忘れた叫び声を受けて、伊槻の笑みが深くなる。唇が三日月を形作り、月光を纏う鈍色の凶刃が、イズミ目掛けて振り上げられた、瞬間。
「伊槻君!」
しゃがれた声が、両者の間に割り込んだ。
「伊槻君、聞け! ――『君の〝家族〟の中に、呉野和泉はいない!』」
ぴたりと、刃が止まる。
月影に染まる身体が、痙攣した。
己にかかる伊槻の影が、其れきり微動だにしない。赤く充血した目玉が蠢き、視線がイズミから逸れていき、背後のテーブルの上を見る。「伊槻君!」と鋭く発せられた老人の声は、厚い人情の声だった。乱暴な口調とは裏腹な、決死の慈愛を孕んでいた。
「――『繰り返す! 君の〝家族〟の中に、呉野和泉は居ない! もう一度、今度は名を変えて〝言挙げ〟する! 伊槻君、聞け! 君の〝家族〟の中に、イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノは含まれない! 此奴は、違う! 関係ない! 君とは全く関係のない、赤の他人だ! ……だから、殺すな! 伊槻君! 赤の他人を巻き込んではならん!』」
「……御爺様……?」
イズミは腰を抜かしたまま、背後を振り向く。こんな状態の伊槻から目を逸らす愚かしさを承知の上で、其れでも振り向かずにはいられなかった。
――伊槻の動きが、止まったからだ。
「……。やっと、効いたか。もう使えんと思っていたが……全く。遅すぎる」
國徳が、嘆息する。悪態を吐くような台詞には、自嘲の響きが微かに在った。其れでいて微かな安堵も、掠れた声は含んでいた。
「御爺様、これは、一体……」
身体を拘束されたままの老人へ、イズミが問いかけた時だった。
ふらりと、伊槻の影が動き出した。
「!」
戦慄が走った。
「……逃げろ、和泉」
國徳が、言う。娘の婿を睨みながら、声だけはイズミに向けて、厳粛な声音で呼び掛けた。
「和泉。貴様、〝言霊〟は判るか」
「言霊……っ? ……待ってください、伊槻さん! 行かないで!」
答えかけて、慌てて叫んだ。
伊槻が、イズミを無視して縁側を上がってきたのだ。
死に物狂いで、其のズボンに縋りつく。縋った瞬間に頬と肩を足蹴にされて、身体が板張りの縁側に叩きつけられた。視界が真っ赤に光り、口内に血の味が広がった。だが、諦めるわけにはいかないのだ。諦めたら殺される。イズミの家族が殺される。手を懸命に伸ばしたが、指先がズボンの布地を掠っただけで、伊槻はゆっくり歩いていく。國徳の元へ歩いていく。家族を殺しに歩いていく。
痛みが、全身を蝕んでいった。どんなに手に力を込めても、最早倒れた身体を持ち上げることすら叶わない。
其の絶望に、追い立てられるように――イズミは、声を荒げていた。
「御爺様、逃げてください! 早く、そこから飛び降りるのです!」
「無茶を云うな。逃げないならば、聞け、和泉」
國徳は然う言って、包丁を手にゆっくりと近寄る伊槻を睨み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「私には、伊槻君を止められんだろう。私と伊槻君は、然う親しい間柄ではなかった。伊槻君が其れを気に病んだのは、私の責任だと思う。今さら何を〝言挙げ〟したところで、もう遅い。時間も足りん。そんな付け焼刃の絆で万事が丸く収まるなら、そもそも伊槻君は壊れなかったろう。……だから、いい。伊槻君に殺されること自体は、構わん。伊槻君の好きなようにすればいい」
「そんな……、貴方は、何を仰るのです!」
イズミは床を這い、伊槻に追い縋る。何故かイズミに一切の関心を払わなくなった伊槻に向けて、震える指先を懸命に伸ばした。伊槻は既にテーブルへと足を掛けて、中央に立つ國徳に限りなく近い場所まで迫っている。焦りが、心を衝き動かした。死ぬ。殺される。家族が。國徳が。畳まで這いずり、手を伸ばす。テーブルの足に触れただけで、手は何処にも届かなかった。
「やめてください! 伊槻さん! いけません! 殺してはなりません! 御爺様を殺さないでください! やめるのです! いけません! やめてください! ……お願いします! 殺さないでください! 僕の家族を、殺さないでください! 僕は、まだ……まだ! 國徳御爺様の事をっ、何も知らないままなのです!」
がむしゃらに叫んだ。もう声しか武器はなかった。身体が駄目で手も届かぬなら、唯一残った声に依って、伊槻を止めるしか手立てがなかった。伊槻が、「ひひ」と声を立てる。嗤っている。狂っていた。何処かで歯車が狂っていた。掛け違えた感情が心の器を破壊して、伊槻をこんなにも壊していた。
――何故。
純朴な疑問の観念が、頭に浮かび上がった時――國徳が、口を開いた。
「和泉。此れは、〝言霊〟だ。……やっと、判った。あの娘に、氷花に……何が出来るのか。こうなってやっと、漸く判った。――和泉。呉野氷花の言葉は、人を壊す。其れを、ゆめゆめ忘れるな」
「な……」
何を言われたのか、判らない。
否、判る。教育を賜っていたからだ。周囲の様々な大人から、イズミは其れを教わった。だから、判る。理解が迫る。其の心に手が届く。
嗚呼、と思う。國徳の事が、よく、判る。
「伊槻君の『弱み』は、『孤独』だ。其れを、あの娘の言葉で掬い上げられて、葛藤した。結果、伊槻君はこうなった。……和泉。止められん。あの伊槻君は、『仲間外れが許せない』。自分と一緒に、全員が死ぬまで……『一家心中』を遂行するまで、止まらん。家族を巻き込んで、死ぬ心算だ。むしろ、家族と一緒でなくては、意味がないとすら思っとる。然うすれば、家族と一緒に居られる。〝仲間外れ〟にならずに済む。……余計なことは云うでないぞ、和泉。何を訊かれても答えるな。伊槻君からの質問に、〝家族〟だと答えたら最後。貴様も一緒に殺される」
「……!」
鳥肌が立った。
「私が、此処で生かされていたのは……和泉。貴様のおかげだ。貴様は最近、伊槻君と親しく会話を交わしたろう。親戚の一人でしかなかったはずの貴様は、伊槻君に〝家族〟として認識されかけていた。だから、其の認識を確信に変えるまでは……伊槻君は、誰も殺さなかった。家と神社を焼く準備はしていたはずだが……幸い、実行には移さなかったらしい」
「家族……」
伊槻と会話した、藤崎家での出来事を思い出す。
イズミに礼を言った時の顔は、真っ当で健全な人の親の笑う顔だった。差し伸べられた手は温かで、流れ込んでくる感情もまた温かだった。
其の伊槻が、家族を殺すという。
仲間外れが、寂しいから。家族みんなで、死ぬという。
貞枝と、杏花と、國徳と、イズミと。
――そんな、理屈は。
「納得できません!」
「貴様の納得など要らん! 和泉、早く行け!」
國徳が声を張り上げて、イズミを険しく睨み据えた。
「伊槻君は、もう貴様を〝家族〟だとは思わん! だが、もし火を点けられたら……ガソリンに引火したら、逃げられん! 伊槻君が放火する前に、早く」
「貴方は、何を言っているのです!」
言葉を最後まで聞かずに叫んだ瞬間、弾かれたように手が動いた。
出鱈目に動いた手の平は、伊槻の足首を強く叩き、乾いた音が響き渡る。
瞬間、ぎろりと伊槻が振り返った。
石ころを眺めるような冷たい目が、イズミを見下ろす。そしてテーブルから降りてくると、畳に落ちたイズミの手を、だんっ! と容赦なく踏みつけた。
ぱきっ、と骨が砕ける、呆気ない音がした。頭の中が真っ白になり、遅れて壮烈な激痛が押し寄せて、目の前が真っ赤に染まった。
「――――っ!」
「! 伊槻君、やめろ! ――『赤の他人に構うな!』」
声が、和室に叩きつけられた。歯を食いしばって悲鳴を堪えるイズミの頭上から、力ある声が降ってくる。錫杖の音のような涼やかさが聞こえた途端に、手を踏みつける足が、すうと浮いた。血がどくりと手の甲の血管を流れる感触とともに、伊槻の足が離れていく。其の足が着地した場所は、再びテーブルの上だった。
「赤の、他人」
茫洋と、イズミは呟く。痙攣する手を無理やりに握り締め、激痛を手の平で潰すようにして堪えながら、口の端に血が滲む程に、強く奥歯を噛みしめる。然うでもしなければ抑えきれない程に、其の台詞に明確な怒りを覚えたのだ。
「……赤の他人では、ありません。……僕と、貴方は……赤の他人では、ありません」
屹、と頭上を振り仰ぐ。テーブルの中央にいる痩躯を睨みつけたイズミは、喉を酷使し過ぎてしゃがれた声で、食らいつくように叫んだ。
「僕は、貴方の身内です! 僕は、貴方の孫です! そんな巫山戯た〝言挙げ〟など、僕は聞きたくありません!」
「巫山戯ているのは貴様だ! 和泉! 逃げろと云うのが聞けんのか!」
「知りません、逃げません! 御爺様、貴方は、このままでは殺されます! 貴方を助けるまで、僕はここから逃げません! 御爺様、何故……、貴方はっ、僕の事を助けながら、御自分の事は諦めるのです!」
イズミが、さらに言葉を重ねようとした時だった。
――ぱちん、と。あの音が、またしても脳裏に響いた。鋏の刃を噛み合わせた時のような、花の息の根を止める音が。どくん、と心臓が不穏に打つ。
――来る。覚悟とともに思った。また、あの〝映像〟がやって来る。氾濫した伊槻の心が、再び己を食い荒らす。
苦悶を覚悟したイズミだったが……此の瞬間に身体を過った〝映像〟は、イズミに苦悶を残さなかった。切り刻んだ写真のネガのような映像が、騙し討ちのように脳裏を通り過ぎただけだった。
しかし、其の一瞬が全てを物語っていた。
「御爺様、まさか」
イズミは、愕然と國徳を見る。
額からの流血に、口の端に出来た青い痣。其処に滲んだ赤い血液。天井の梁からぶら下がる首吊りの輪。明らかな暴行の痕。
――今、確かに『見えた』のだ。
畳に倒れ伏す國徳の傍で、携帯で何処かへと電話をかけた伊槻が。
其の伊槻に掴みかかって、携帯を取り上げた國徳が。
来るな、と叫んだところが。
其の直後、弾むように居間から台所まで転がった携帯が。
縄を持った狂人が――手負いの老人を、手酷く殴りつけるところが。
「御爺様。今、貴方が……伊槻さんから、暴力を受けているところが見えました。貴方は……僕を呼び出そうとしていた伊槻さんに、ずっと訴え続けていたのですか? さっきのように、僕は……イズミ・イヴァーノヴィチは、伊槻さんの〝家族〟ではないのだと。貴方は此処で殴られながら、ずっと同じ台詞を言い張り続けていたのですか? ……僕が、殺されない為に、貴方は……!」
何故。咄嗟に然う思った。何故、國徳が、其処まで。
だが、疑問に思うことなど何もないのだ。其の心の動きは、今のイズミと同じだからだ。
家族を救う為に、身を挺して動くこと。其れの、何処が疑問なのか。
國徳は、本当に――回りくどい、大人だった。
絶句するイズミを横目に見た國徳が、「和泉」と淡々とした口調で呼んだ。何かを、覚悟したような声だった。
「十八歳で、イヴァンの息子で、克仁の息子なら……善悪の土台くらい、貴様の中に据わっとるはずだ。もし、貴様が学んだ〝言霊〟に、本当に力があるならば。貴様が思う以上の霊威で、現実を変革させる力があるならば。其れは、こういう風に人を壊す。其れを肝に銘じた上で、己の異能と向き合っていけ。反面教師と受け止めて己の襟を正すも良し、弱気を助けていくも良し、何も見て見ぬふりも良し。貴様の、好きにするがいい。……死ぬな。せめて、私が生きているうちくらいは、死ぬな。……生きろ。和泉」
國徳が、イズミを見下ろす。
真正面に刃物を持った男に立たれても、一切の恐れを顔に出さない老人は、厳しく細められた鋭い眼光を、其の一瞬だけ不意に緩めた。
そして、身体をもう全く動かせない孫を見下ろして、まるで息を引き取るような儚さで、小さく唇を動かして――、
「……よく、来てくれた。貴様に会えて、私は」
包丁が、高々と振り上げられた。
刀身に映る月光が、凶刃の輪郭をなぞるように、滑らかな燐光を弾いていく。
にい、と嗤った狂人の哄笑が、和室に、森に、轟き渡った。
「――っ、御爺様ああぁぁ!」
魂の叫びが、喉を食い破らんばかりに突き上げた瞬間。
其れは、起こった。
「イズミ!」
声が、聞こえたのだ。
天上からの呼び掛けのような其の声は、柔らかで、嫋やかで、美しい。異なる国で生きた時間が、家族の声に郷愁を生んで、イズミをいつも苦しめる。
もう、老いるところは見たくない。同じ歳月を過ごしたいという小さな望みを叶えても、いつかは別々の道を歩むと判っている。されど別れの時が来るまでは、魂の健やかさを見守りたい。其れが、子の務めだと思っていた。
嗚呼。来てはいけない。然う、言っていたのに。
「イズミ、無事か! ……大丈夫か、イズミ!」
手が、舞い降りてくる。白く痩せた手の平は、異邦の男の手の平だ。半分は日本の血、残りの半分が異国の血。二つの国の血を通わせた男の髪は、天の使いのような飴色で、白銀の艶を照り返す。月光の青に包まれた和室で、其の姿は虚構のように清らかだ。此の現実が、虚構であればいい。焦る心で然う思った。
イズミは、手を伸ばした。もう、声も出ない。止められない。だが、危険だけは判っていた。伊槻は、親戚であるイズミさえも襲ったのだ。早く、此処から、逃げてほしい。イズミのことは、もういいから。助けなくても、構わないから。
だが、声なき言葉に乗せた願いに、魂が宿るはずもなかった。
イズミの父、イヴァンは――顔を上げて、テーブルに立つ二人を見た。
黒曜石の如き瞳が、はっと瞠られる。白い肌を蒼白く染めた男の唇が、呼び名の〝言挙げ〟という愛の形をした一つの言葉を弾き出した。
「――父上!」
立ち上がった父は、包丁を振り上げる伊槻に向かって、躊躇なく駆け出した。まるで水中の出来事のように、イズミには其の動きがゆっくりとしたものに見えた。青い闇の中で動いた父は、伊槻の身体に当て身を食らわせ、刮目して言葉を失う國徳を抱きかかえ、テーブルから丸椅子もろとも、二人で転がり落ちていく。
倒れた三人の大人の中で、誰よりも早く立ち上がったのは――伊槻だった。
顔は、壊れた笑みのままだった。父を凝乎と見つめて、嗤っている。
其の瞬間に、理解した。
何が、起ころうとしているのか。
「こんばんは。イヴァン義兄さん。……こんばんは。……ひひ、義兄さん。君の事を、忘れていたよ。君は貞枝の兄さんなのに、あんまり、話ができなかったから。でも、今、思い出した」
黒髪を振り乱し、口の端から血と唾液を垂らした伊槻は、まるで捕食するように父を見る。先程イズミを見た瞳と、同じ獰猛さで父を見る。
そして、禁断の質問を、遂に言った。
「イヴァン義兄さん。君は、僕の〝家族〟かい?」
國徳が、目を見開いた。「ならん!」と鋭く叫ぶ声がして、皺の刻まれた手が父に向って伸ばされる。だが、解けかけた拘束の縄がビンと張って、あと少しのところで手が止まった。
其れでも無理やりに伸ばした手が、言葉が、父に届くよりもずっと早く――父は、既に言っていた。
父は、呆れる程に優しいのだ。イズミが偏屈な態度で接すればいつも笑い、落ち込んでいれば髪を撫でて寄り添ってくる。感情の機微を敏感に読み取る父は、自分では然うとは知らぬままに、いつも人を救っているのだ。
そんな、博愛の人が。
こんな伊槻を、前にして。
優しい嘘を、吐くことは。
もう、誰もが『判って』いた。
「……はい。僕は、伊槻さんの〝家族〟ですよ。……ですから、怖がらないで。伊槻さん。僕は何もしませんから。落ち着いて、僕と、話をしましょう」
父の声は震えていて、刃物を持った狂人を恐れているのは明白だった。
色の失せた唇が、やがて笑みを形作る。気丈に振る舞う父が見せた、渾身の強がり。決死の覚悟と度量で以て、全ての不安と狂気を抱き留めようと、真摯に浮かべた其の笑顔に。
赤い血液が、一滴。
ぴしりと、細やかに、一度跳ねて――月明かり透かす障子戸へ、鮮やかに飛び散った。




