清らかな魂 19
自宅に駆け戻るなり、がむしゃらになって調べ始めた。
血相を変えて帰宅した青年を見て、克仁は珍しく肝を潰したようだった。イズミは言葉少なに断りを入れてから、克仁の寝室である二階の書斎へ駆け込んだ。
イズミの部屋にも小さな本棚が一つあるが、克仁の部屋には壁一面に据え付けられた大型のものが二つある。地震を危惧すれば恐ろしくなる本棚だが、大量の書籍を収めた棚は、いつ見ても魅力的だった。だが、今だけは見惚れる余裕はなかった。欲しい本は、決まっていた。
何故、藤崎克仁と呉野國徳の間に、交友が生まれたのか。昨夜、二人の過去を克仁から聞いたが故に、イズミの行先は自宅二階の書斎となった。図書館に行くという手もあるが、其方は必要に迫られた時に行けばいい。其れに、恐らくは行かずに済む。
克仁は、イズミを指して拘りが強いと言った。学ぶ理由さえ判らぬイズミの事を。だが、克仁だけは人の事を言えた義理ではないだろう。少林寺拳法の師範を務めながら、趣味の分野を広げる克仁が、其の一つ一つに手抜かり無く探求欲を示しているのが良い例だ。
克仁は、拘る。拘り抜く。其の拘りは執念と言っても差し支えないかもしれない。事実、病的なまでに勉学に励んだと聞いていた。もう知っているのだ。だからこそ。
憑かれたように勉学にのめり込んだ人間の、血の滲むような努力の跡地にこそ。望むものは、山ほどある。
本棚の前で黙々と本の頁を繰り、別の本を手に取り、其の文字列を目で追いながら別の本に手を伸ばすイズミを、克仁は止めなかった。
「イズミ君。手伝いますよ」
一度、然う声を掛けられた。イズミは、其の厚意を断った。
「これは、僕の意地なのです。克仁さんの手を借りれば、僕の喧嘩ではなくなります。貴方の書籍や努力を利用していながら、狡い言い訳になりますが。それでも、貴方の直接的な関与はいけません。それに……」
イズミは、克仁に頭を下げた。
「克仁さん。すみません。僕は貴方の友人一家がいる御山に、これからもう一度向かいます。ですが、僕は」
言葉は、其処で止められた。
克仁が、人差し指をイズミの唇に差し向けて、明るく笑っていたからだ。
「其処までです。イズミ君。私は、怒っている君が物珍しいだけですよ。君には悪いですが、愉快に思っているくらいです。……私の事は気にせずに、君の好きなようにおやりなさい」
「……有難う御座います。克仁さん」
深々と、イズミは頭を下げた。
此れほど深く頭を下げたのは、此の家に居候としてやって来た日以来かもしれない。其れほどに真剣に、そして心から、イズミは克仁に頭を下げたのだった。
*
昼食を手早く済ませた一時過ぎに、イズミは呉野家へと戻ってきた。
普段であれば来訪を避けたお昼時だが、今回ばかりは気にしなかった。其れに、相手も来意は承服済みなのだ。再会した貞枝は、玄関に現れたイズミの姿を見るなり、切れ長の目を丸くした。
「あらまあ。和泉君。此れは何事ですか」
「見ての通りです」
揶揄の笑みをものともせずに、イズミは言う。踏み込んだ土間から、貞枝以外には誰もいないことを確認すると、杏花が居ない今の内とばかりに、手提げ鞄に詰めた本を、一冊ずつ上り框に積み始めた。
「……あらあら。まるで河原に石を積むようね。一体何事なのかしら? 嗚呼、貴方は同じことを二度云うのがお厭な人でしたね。ふふ、御免なさいね」
「『二度言う』ではなく、『二度言わせる』の間違いではありませんか? それに、厭ではないですよ。そこまで狭量ではありません。それより」
イズミは貞枝と目線を合わせると、足元に並べた本を指し示した。
「これらの本が何の本か、一目見ただけでお察しでしょうが――全て、精神的な病に関する書籍です」
貞枝が、無言でイズミを見つめ返した。表情は読めないが、イズミは構わず先を続けた。
「時間がありませんでしたので、僕自身ざっとしか目を通せていませんが、参考にできる部分はかなりあると思います。こんなものを持ってきた僕の事が不愉快であれば、それでも結構です。読んで頂かなくても構いません」
「では貴方、どうして本を持ってきたの? 読まれない本に、意味など無いではありませんか」
「いいえ。これらの本を持ってきた時点で、意味なら達成できています。僕の意思を伝え、貴女方に何らかの行動を起こしてもらう為だけに、僕はこれらを持ってきました」
イズミは本の一冊を手に取ると、頁を出鱈目に繰りながら、貞枝の目を見て話し続けた。
「たくさん載っていますよ。僕は以前に御爺様とお会いした時に、杏花さんが〝二人居る〟と聞きました。その言葉を聞いた僕は、二重人格と言って貰った方が判り易いと答えました。その二重人格についても、此方に記載されています。解離性同一性障害という項目もありますので、ご参考までに。……ああ、あと。〝フォリア・ドゥ〟という名の感応精神病についても、別の本に記載がありますよ。フランス語だそうで、日本語に直すと〝二人狂い〟という名称になります。――或る異常な固定観念や妄想を持った精神病者と、その精神病者と親密な結びつきを持つ正常な精神の人間が、外界からの刺激を受けない閉鎖空間で共棲する事により、患者の持つ狂った価値観を共有してしまい、異常な固定観念や妄想に、正常な人間も感染してしまうという病です。珍しい病ですが、その中でも多いのは、家族間で感染するケースだそうです。此処は山の隠れ家ですし、此方もご参考までに」
「……和泉君、貴方」
貞枝は、浴衣の袂から伸びた白い手を、口元に当てて驚いている。「ええ」と答えたイズミは、強く頷いた。
「貴女方は、僕に言いました。杏花さんは二人いて、一人は消えてしまうのだと。僕は、そうは思いません。彼女が幾ら異様な行動を取ったとしても、それは無知であるが故の幼い過ちに過ぎず、異常なものではありません。――ですが、そんな彼女の行動を理由に、それでも貴女方が『杏花さんはいずれ死に、別の人間になる』という大それた主張を展開されるのであれば。それは間違いだということを、僕は示す心算です」
「……。和泉君。貴方のお話は楽しいけれど、叔母さんには少し難しいみたい。ねえ、後生だから、もう少し判り易く云って下さらない?」
「はい。では、もっと判り易く言いましょう。――そんなに〝二人居る〟と盲信なさっているのであれば、杏花さんを病人として扱って下さい」
貞枝が、再び驚いた顔をした。イズミは、畳み掛けるような〝言挙げ〟を止めなかった。
「彼女の行動があくまで異常だと言い張るならば、その異常を公の場で示して下さい。そうでなくては納得できません。僕の納得は要らぬと國徳御爺様には言われましたが、今のままでは杏花さんの為になりません。貞枝さん。貴女は先刻、〝狂う〟という単語を僕の台詞から拾って笑いましたね? 貞枝さんはまるで、杏花さんを狂人だと決めつけているようです」
手にした本を、イズミは床に積んだ本の山に戻した。然うして屹と顔を上げて、己の考えを余すことなく主張した。
「貴女の娘が狂人ならば、狂人としての扱いがありましょう。僕は、彼女が死ぬとは思いません。狂っているとも思いません。しかし、それでも貴女方が〝二人居る〟という主張を曲げないならば、一度病院に診せるべきです。……その程度のことが出来ないのに、彼女を狂人扱いしているのは。神社の家から狂人を出した事を、恥じているからなのですか?」
「……ふふ、あははは」
イズミの言葉は真剣だったが、返ってきたのは嘲笑いだった。
今までにも同様の笑い方をされてきたが、さして気にはならなかった。元来其の程度のものを気にする性質ではなく、貞枝の気性への諦めもあった。
だが、此の時ばかりは許せなかった。かっと、頬が熱くなる。
「何が可笑しいのです」
「だって、貴方。真剣なんだもの」
忍び笑いを漏らした貞枝は、上り框に立ったことで、イズミと目線がほぼ同じだ。真正面にある狐面の貌に、イズミは僅かにたじろいだ。
「和泉君。貴方、私は杏花を狂人と思っていると云ったわね? 少しだけ、違いますよ。殆ど合っているようなものだけれど、でもねえ、少し違うのよ」
「……では、何だと思っているのです」
「鬼よ」
「鬼?」
「ええ。鬼です」
曇天の薄明かりの所為なのか、板張りの玄関の風景は、色彩が鈍く沈んで見えた。活動写真の一コマを切り取ったような家の中で、貞枝の紅ばかりが酷く赤い。
「和泉君は、杏花に物語を聞かせてくれたそうね。私も杏花に教えてもらいました。貴方、杏花があのお話をどう受け止めているか知っていて? まるで貴方のお話のようだと思ったそうよ」
「ええ。杏花さんから聞きました」
イズミは平静を装って答えたが、心の内は複雑だった。貞枝はイズミの話など、まるで相手にしていない。伊槻の愚痴を思い出す。貞枝は誰の言うことも聞かないし、自分がしたいことばかりして、すぐに周りを振り回す。其の通りだと心から思う。そんな叔母の態度に対して、今ほど寛容になれない己を感じたことはなかった。
「でもねえ、私。あの物語は貴方よりも、杏花にこそ相応しいと思うのよ」
「意味が判りません」
「だって、あの子は変わるのですもの。居なくなって、氷花になる。あの子の言う〝清らか〟とは程遠い、鬼のような心になる」
「……鬼」
「ええ。鬼よ。鬼は角を失って、御隠居は角を拾って変貌する。杏花は貴方を指して、角を失った時の優しい鬼だと云いました。そして私は杏花の事を、角を拾って変貌した御隠居だと思っています」
「それは……世迷言です」
「然うかもしれませんね」
辛辣な切り返しをしたイズミに、貞枝は怒りを見せなかった。ただ、意味深に笑うだけだった。其の笑みを意味深だと感じた瞬間に、イズミは悟る。
貞枝は何か、別の話題を振ろうとしている。今の話は入り口なのだ。此れから其の話をする為の、取っ掛かりとなる初めの言葉。
其処に気づけば、理解は恐ろしいほどに簡単だった。
――『泉鏡花作品に、児童向けの小説はありませんか?』
そんなイズミの要望に、応えてくれた存在は。
「……ねえ、和泉君。私は呉野貞枝なのですよ? 神社の娘。呉野國徳の実子。……其の私が。ねえ、貴方。藤崎克仁さんの事を、存じ上げていないとでもお思いですか? 此の本、全部あの御方のものなのでしょう? 私はもしかしたら貴方よりも、あの御方の事を知っているのかもしれませんよ?」
「なぜ貴女が、克仁さんを語るのです」
「理由なら、今云いましたよ。私が神社の娘だからです」
愛想よく、貞枝は笑う。笑みに、微かな侮蔑が混じった気がした。
「あの御方との面識は、私にはありません。でも、貴方の御爺様との馴れ初めなら知っていてよ。あの御方、私の御父様に随分と世話になったそうね。知っているのよ。藤崎さん。当時はまだ学生さんだったのでしょう? 私が其れを知ったのは、あの御方が成人されてからの事だけれど……ねえ、なんでも気が違いかけて、神社に担ぎ込まれたとか」
「悪意のある言い方は、おやめになって下さい」
ぴしゃりと、遮断するようにイズミは言った。
イズミの事なら、好きなように言えばいい。だが、克仁は許さない。
沈黙の後に、貞枝は「……そう、御免なさいねえ」と婀娜っぽく笑った。余裕の無さを、嗤われた気がした。
「……時に。其の藤崎さんと、今の貴方。私はとッても似ている気がするのよ」
「御爺様の次は、克仁さんですか。僕は呉野家縁の方とばかり、似ていると言われますね。貞枝さん、僕は杏花さんの話をしに参りました。克仁さんの話をしに来たわけではありません」
心臓の鼓動が、早くなっていく。妖女の赤い唇が、己の近親者を語るだけで、途方もない胸騒ぎを呼び寄せた。
「和泉君。貴方はさっき、〝フォリア・ドゥ〟と云いましたね? 歪んだ価値観を持った人間と、正常な人間が、同じ閉鎖空間に居住する事で、歪んだ価値観を共有するという、感応精神病」
「ええ。言いました」
確かに、言った。〝二人居る〟と主張する呉野家の人間を揶揄する意味合いも多少あったが、イズミとしては病の一例として挙げたに過ぎない。だからこそ、貞枝が〝フォリア・ドゥ〟という病に水を向けた事に、イズミは驚きを禁じ得なかった。
「和泉君、貴方は私達への皮肉の心算で、そんな病気を引っ張り出してきたのでしょうけど。私から見たら、其の病気に侵されているのは、貴方も同じに見えますよ?」
「……どういう意味ですか」
「藤崎さん。あの御方は、御自分の霊的な力を否定なさるお心算で、勉強に励んでいらっしゃるのでしょう? 民俗学、知っていますよ。勉強熱心な御方。……でもねえ、あの御方。屹度ご自分でも判っていらっしゃると思うのよ。そんな努力も、行動も、全て無駄だということくらい」
――無駄。痛い程の痺れと共に、言葉が脳髄に突き刺さる。「貞枝さん」とイズミは呼ぶ。口を挟めば止まると思った。だが、青年の言葉程度では、妖女の声は止まらなかった。
「ふふ、あははは、ふふふふふ」と、哄笑にも似た嘲笑いが、赤い唇から漏れ出てくる。白い首が、くっと反る。襟足に零れた黒髪が、外光の艶を弾いた。
悪意が、溢れ出していく。其れが悪意だという事を、最早欠片も、疑わない。
「幾ら理論武装して知識を頭に蓄えたところで、ご自分の体験と似た類話が見つかるばかり。其れじゃあ何の解決にもなりませんよ。あの御方の体質を変えるような知識なんて、果たして此の世にあるかしら?」
「貴女は出鱈目を言っています。何を誤解なさっているのかは存じませんが、克仁さんには、貴女の言うような異能などありません」
「あら。神社の娘、國徳の娘を侮らないことね。御父様のお仕事を、私が知らないわけないでしょう? 本当に優しいのね、貴方」
貞枝は、嗤う。まるで手足を捥がれた昆虫に、憐れみの目を向けるように。
そして、昏い愉悦の眼差しを変えないまま、煙管を煙草盆に打ち付けるような〝言挙げ〟を、無礼への仕返しのように、イズミへ手酷く叩きつけた。
「藤崎さんは、学ぶことをお止めにならない。ご自身の異能を否定なさるお心算で、どれだけ勉学に心血を注ごうとも、全て徒労に終わると判っているのに、其れでも蜘蛛の糸のような細い光明に縋りついて、足搔くことを止められないのよ。然ういうところが、とッても。貴方達二人、似ていてよ。今の貴方の行動も、藤崎さんと同じではありませんか? 隔絶された家の中で、たった二人で生活して。徒労と諦念の価値観に、貴方達〝親子〟は感染しているのよ。ねえ、其れこそ真に〝フォリア・ドゥ〟と呼ぶべきものではなくて? 歪んだ価値観の共有を、当事者ばかりが気づかない。其れでも愚直に貴方達は、其の悪足掻きを止めないのでしょうね? ふふふ、ふふふふ。ねえ、和泉君。まるで、〝アソビ〟のよう」
「いい加減にして下さい!」
イズミは、激昂した。
「僕は、真剣に言っているのです!」
貞枝の言葉が、止まった。目が、真ん丸に見開かれている。
今までにも此の女が、驚きを表したことならあった。だが、今ほどはっきりとした驚愕を目の当たりにしたのは初めてだ。ただ茫然と、イズミは思う。声を、荒げてしまった、と。冷静さが、剥離していく。そんなものを纏っていては、貞枝に何も伝わらない。相手が杏花の時でさえ、イズミの声は届かなかった。
魂の〝言挙げ〟は、どんな感情を以て行えば、相手の心に届くだろう。
答えは、出ない。弾け飛んだ感情の箍も、外れたままで戻らない。杏花に伝えられなかった魂を、貞枝に伝える意味も無い。
だが、其れでも言わねばとイズミは思った。
何と、戦っているのだろう。徒労感で眩暈がする。其れでも言葉を放棄すれば、イズミは何かに負けてしまう。其れは屹度、心を手放してしまうことなのだ。そして其のように思う理由もまた、今のイズミには判っていた。
〝言霊〟が、生まれないからだ。
声なき言葉に、魂は宿らない。
〝言挙げ〟は――声に出してこそ、己の力と変わるのだから。
其れを、イズミは克仁に聞いて知っている。
血の繋がりがない親子。其れでも克仁は父なのだ。もう一人の父なのだ。
震える唇を動かして、イズミは言葉を、静かに続けた。
「……僕は、貴女方と〝アソンデ〟いました。ですが、今の僕は〝アソビ〟で此処にいるわけではありません。克仁さんの努力を、二度と〝アソビ〟だなとど仰らないで下さい。僕が、貴女を許しません。克仁さんの事を、僕の大切な家族の事を、貴女に語って頂きたくありません。杏花さんの事もです。杏花さんの事が大切ならば、狂っていると思うなら、貴女がすべき事は〝アソンデ〟思い出を作る事ではありません。然るべきところへ彼女を診せる事です。……貞枝さん。僕は、杏花さんに首を絞められたあの日。貴女に一つ、言い忘れた事がありました」
「何かしら」
白々しく、貞枝が言う。整った美貌からは、早くも驚きの感情が失せている。在るのは人を食ったような笑みと、微かな憐憫だけだった。其の笑みを、やはり許せないと思った。
「『化銀杏』の事です」
迷うことなく告げると、貞枝が不意を打たれた顔をした。
「僕は、考えていました。貴女方が彼女を〝キョウカ〟と呼ぶ意味を。御爺様からは、供養の花と聞いていましたが――意味は、それだけではないはずです」
小説を読んでいる時に、微かな引っ掛かりを感じたのだ。やがて其の符号に気づいたイズミは、拍子抜けにも似た感覚とともに、ささやかな嬉しさを感じたのだ。貞枝は家族ではないというのに、肉親の祝い事のような温かさに触れた気がした。
「――『化銀杏』。それとも、作中に出てくる髪の結い方、『銀杏返し』から取ったのでしょうか。どちらか判断出来かねますが、どちらでも構いません。貴女方は〝キョウカ〟さんの名前に〝杏〟の字を当てました。供養に使われる漢字ではなく、杏子の樹の字を当てました。『化銀杏』の〝杏〟であり、『銀杏返し』の〝杏〟の字を。……貴女は、あの作品の事を、あまり好きではないと言いました。ですが」
言葉を切ったイズミは、決然と告げた。
「貴女、本当は……『化銀杏』が、お好きなのではありませんか?」
「ええ、好きよ」
貞枝の返事は、早かった。
無視されると思っていた。あしらわれるとも思っていた。毒気を抜かれたイズミを、貞枝が莞爾と笑った。人とは思えぬほど美しく、そして妖しい笑みだった。
「妬ましいほど、好き」
そんな笑みと、真っ向から向かい合って――イズミは貞枝に背を向けて、玄関を出て行こうとした。
判ったのだ。伝わらなかったということが。
「……貞枝さん。僕は、貴女にこんな本を届けながら、それでもまだ、杏花さんが狂ったなどとは思っていません。ましてや〝二人居る〟とも思いません」
「では、貴方はどういう風に考えているの?」
「僕は……成長と、考えます」
貞枝が、押し黙った。イズミは、玄関の引き戸に手をかけた。
「人は、誰しも変わっていきます。日々の出逢い。誰かの言葉。人と人とが交わる事で、無限に生まれていく経験と思想。魂の色、形、抱いた感情の質量も、日常の中で変容し、新たな姿を得るのです。杏花さんが、たとえこれからも命を傷つける行動を取ったとしても、僕はそれを病とは捉えません。人としての、成長の過程と捉えます」
「……貴方、やっぱり優しいのね」
「僕の話など、していません」
「和泉君。杏花には会っていかなくていいのかしら?」
「……出直します。こんな顔で杏花さんの前に出られるとは思っていません。貴女から言い訳をお願いします。近日中に、窺わせて下さい」
「酷いお兄様ですこと」
くつくつと笑う声を聞いた瞬間、理性を守っていた糸の最後の一本が、音を立てて焼き切れた。
イズミは、振り向く。そして狐面の女に向けて「貴女は、狂っている」と強い語調で言い放った。
「こんな状況でありながら、杏花さんと喧嘩をした伊槻さんも、〝二人居る〟と言った御爺様も、呉野家の人間は皆、狂っている。そして、誰よりも、貴女が一番、狂っている」
「……貴方が、敬語を捨てたところ。私は、初めて見ました」
「……今日は、これで失礼致します」
今度こそ、帰ろうと思った。
だが、其の時――背後から、小さな足音が近づいて来た。
玄関で騒ぎ過ぎた所為で、家人の誰かがやって来たのだ。
伊槻?
國徳?
其れとも。
「……ああ。……杏花さん」
愕然と、茫然と、イズミは力の抜けた声で呼んだ。
今日はもう、会いたくなかった。兄の顔を、出来ないから。こんなにも酷い顔は、愛らしい妹には見せない心算でいたのに、帰る前に見つかってしまった。
「お兄様。……もう、帰ってしまうのですか」
廊下から姿を現した杏花は、貞枝の隣まで歩いてくると、不安そうにイズミの顔を見上げてきた。白い着物はやはり死に装束のようで、緋袴は血を吸ったかのように重く垂れて、杏花の足首を隠している。
返答を躊躇ったイズミに代わって、「そうよ、杏花。和泉お兄ちゃん、今日はもう帰るわ」と貞枝が答えると、浴衣の裾を押えて屈み、杏花の頭に手を乗せた。イズミが少し迷った後に頷くと、杏花の表情が、寂しげに陰った。
罪悪感で、胸が詰まる。もう、此処に居ればいい。つまらない意地などかなぐり捨てて、杏花と一緒に居ればいい。魔が差したように然う思ったが、帰ると言ったところなのだ。だから、もう帰ろうと思った。
結局、此の期に及んで未だ尚、イズミはイズミ・イヴァーノヴィチのままだった。融通が利かないのだ。言葉と行動、意地と意思を、翻すことが出来ないでいる。杏花を、笑顔にすることも出来なかった。
「……お兄様。あの」
杏花が、貞枝の目を気にしながら囁いた。「どうしました?」とイズミが訊くと、眉を下げた杏花は、イズミに一歩、近づいた。
靴を履いたままのイズミは、其の場で膝を折って屈み込む。杏花の目線に合わせると、杏花がイズミの頬に触れた。
湿った手の平は、やはり温かだった。命を宿した、体温だった。
「お兄様。……また、来てくれますか」
「はい。また来ます」
「また、会えますか」
「もちろんです」
「では……また、遊んでくれますか」
「……いつでも。仰せのままに。杏花さん」
「……待っています」
「……はい」
静かに、言葉を交わした。互いの声しか聞こえない、何もない白い空間で、二人だけで寄り添い合っている気がした。まるで、契りのようだった。
此のまま、時が止まればいい。最も清らかな時のままで、永劫になって止まればいい。イズミには此の瞬間のやり取りが、ひどく清らかなものに思えたのだ。
「……左様なら。和泉君」
貞枝の〝言挙げ〟が、二人きりの時間を終わらせた。
イズミは、はっとした心持ちで貞枝を見る。貞枝は、何かを吹っ切ったような儚さで微笑むと、「杏花も。和泉お兄ちゃんとばいばいして?」と杏花の頭にもう一度手を乗せて、穏やかな声音で促した。
杏花は、とろんとした目で母を見ていた。泣き過ぎた疲労が然うさせるのか、水が低いところへ流れるように、こくんと自然に頷くと、杏花は貞枝の浴衣の裾を怖々と握ってから、潤んだ瞳をイズミに向けた。表情を支配していた心細さが、朝ぼらけの空のような、柔らかい色に薄らいでいく。
幽かな笑みが、あどけない顔に浮かんだ。
「……左様なら。お兄様」
イズミは――何も、言えなかった。
頭の中が白く染まり、鬱屈や葛藤、怒りの感情までもが、此の時全て消え失せた。玄関の引き戸に嵌まった曇り硝子から、明るい日差しの筋が入る。雲の切れ間から射した陽が、白く、眩く、明々《あかあか》と、色彩に見捨てられたような白黒にくすんだ室内を、燦然と照らし出していく。
其の輝きは、一瞬のものでしかなかった。流れる雲が太陽を隠したのか、玄関を照らした輝きは、曇天の白黒に還っていく。再び活動写真の登場人物の如く其の場に佇みながら、イズミは依然として返事が出来ないままだった。
永遠の別れを、告げられたような気がしていた。
微動だにしないイズミを見つめた貞枝が、不意に睫毛を伏せた。そんな母の様子を不思議そうに見上げた杏花が、イズミに視線を戻す。
そして、もう一度「左様なら、お兄様」と言って、小さな五指を大きく広げて――イズミに手を振って、笑ってくれた。
此の日の中で、最も〝清らか〟な笑顔だった。
*
イズミは、遂に左様ならを言えなかった。
杏花の別れの言葉と笑みだけを、いつまでも覚えていた。




