清らかな魂 17
「お帰りなさい、イズミ君」
克仁の声に出迎えられたイズミは、居間に入るなり驚いた。
とはいえ、一応の予想は出来ていた。玄関の三和土に、見知らぬ靴があったからだ。ぴかぴかに磨かれた、黒く大きな革靴だ。一目で来客だろうと見抜いていたが、よもや此の人物が自宅に居るとは思わなかった。
「伊槻さん」
イズミが茫然と名を呼ぶと、ソファに腰を沈めていた呉野伊槻は、「やあ」と挨拶してから立ち上がり、照れ臭そうに笑った。今日もスーツ姿なので、一目で仕事帰りと判る。髪も整髪料で整えているのか、硬派に決め過ぎず、さりとてだらしなくはならぬよう、毛先を洒落た崩しで遊ばせていた。
社会で戦う大人の姿は、此の居間にはあまりそぐわなかった。和洋折衷の調度品が古めかしいからかもしれないし、伊槻の座るソファのカバーが、伽羅色の毛糸編みだからかもしれない。そんな回りくどい理由よりも、イズミと克仁の生活空間に此の男が居る風景が、単純に目に馴染まないだけかもしれない。
もし然うならば、我ながら伊槻に対して冷たいと思う。イズミは状況の説明を求めて克仁を盗み見たが、伊槻の対面のソファに座る克仁は、飄々と笑うのみだった。説明する気はないらしい。そんな同居人の思考が手に取るように分かったので、嘆息を堪えたイズミは、視線を伊槻の顔に戻した。
背筋を伸ばした伊槻は、初対面の人慣れした印象からは程遠い、遠慮と気まずさがない交ぜになった顔をしていた。其の理由を本人の口から聞く前に、感情が水のようにするりと身体に流れ込んできて、イズミは合点する。
「……」
不思議だと思う。あの日は疎んだ伊槻の笑みが、今日は其れほど厭ではない。ただ、此れでは少し退屈だという我儘も感じてしまい、己の貪欲さに少し呆れた。言葉を用いない理解は楽には違いないのだが、己の怠惰を育てるだろう。だからイズミはこんな性格なのだろうかと、責任転嫁で憂さを晴らしたい気分になった。
「……イズミ君」
言いにくそうに、伊槻は言う。中肉中背と思っていたが、立ち上がった姿を見ると、意外と体格は痩せ型だ。杏花がイズミを大きいと言った事を思い出す。背がイズミより僅差で低いから、そんな印象を持ったのだろうか。
ともあれ、何故か家に居た男、呉野伊槻は――がばと突然勢いよく、頭を下げてきたのだった。
「先日は、すまなかった」
見事としか言いようがない、角度四十五度のお辞儀だった。此れほどの謝罪を見舞われるとは予想外で、泡を食ったイズミは「あ、頭を上げて下さい、伊槻さん」と珍しく言葉をつっかえさせて、伊槻に駆け寄る羽目になった。間の抜けた光景だったと思う。
「そもそも、なぜ貴方が僕に謝るのですか。僕は貴方から謝られるようなことをされた覚えはありませんよ」
「いや、そんなことはないと思うけど」
イズミが高校生らしからぬ理屈っぽさで応対したからか、伊槻は毒気を抜かれた様子で顔を上げた。
「……いやあ、改めて言うのも妙な話だけど、この間イズミ君が来てくれた時は、僕らは全然話せなかったし……それに多分、君には不愉快な思いをさせたんじゃないかって、実はとても気になっていたんだ」
だから、其の『不愉快な思い』とやらは何なのだ。会話のテンポの微妙な差異は、あの日と同じ倦厭の感情を呼び起こして――此の程度のことで他者を疎んだ心の矮小さに、ほとほと嫌気が差してしまった。
多分だが、心に余裕がないのだろう。ささやかな言葉一つに拘泥して、小さなことまで論う此の思考は、間違いなく今日の出来事を引き摺っている所為だった。
イズミは、伊槻に八つ当たりがしたいのか。内面に然う一喝すると、散らかった心は自ずと纏まり、不必要に強張った身体から力が抜けた。其れこそ妙な話だが、安堵したのだと思う。つまらない責任転嫁は、やはり厭な後味を身体に残す。そんなものは、無いに限る。
「イズミ君。君と初めて出会った席で、僕が君を見ていたのは、何も君の容貌が外国人だから物珍しいとか、そういう差別的な目ではないんだ。申し訳ない。気付いていたんだろう? 僕が君を見ていたのを」
「ああ」
謝罪の気持ちは、然ういう解釈で生まれたのか。イズミは拍子抜けの顔を笑みで隠して、「気になさらないで下さい。慣れていますので」と穏やかに言った。そもそも此の件については水に流した心算でいたのだ。ただ、伊槻がイズミに謝る原因となった出来事を回想すると、イズミは杏花の台詞を思い出した。
――私がもっと〝清らか〟になれば、お爺様は私と一緒にいても、怒ったみたいな顔をしないで済むでしょうか。お父様も、もっと私と遊んでくれるでしょうか。
――……お父様も、最近は、私と遊んでくれないのです。
「……。伊槻さん。謝らなければならないのは、僕の方でした。今日は大切なお嬢さんをお預かりしておきながら、申し訳ありません」
イズミは、頭を下げた。
一番に言いたい台詞は別にあったが、此れは先に通すべき筋だった。其れを通すことを怠れば、他の言葉を語る資格を、己の内に見い出せない。
頭上からは伊槻が慌てた気配が伝わってきたが、愛娘が体調を崩した件は、貞枝からの連絡で知っていたようだ。「気にしないでほしい。今日は、氷花を連れ出してくれて有難う」と伊槻は優しい口調で言ってくれた。
「……」
イズミは、顔を上げた。
今――確かに、尻尾を掴んだ。
視界の端で、克仁が苦笑の顔をしている。肩を竦める所作まで見えたが、判っていて何も言わない辺り、やはり狸だとイズミは思う。克仁は此の展開を見越した上で、伊槻を家に上げたのだろうか。或いは、此の展開を真に望んでいたのは、伊槻だったのではないだろうか。イズミとしては、どちらにしても好都合だ。
「伊槻さん」
「うん?」
「今、氷花と仰いましたね。杏花さんの事を」
「……」
しん、と沈黙が場に降りる。克仁が肩を微かに揺らせて、忍び笑いを漏らしていた。面白がる第三者に加勢するように、蜩の音が和室に満ちる。伊槻も何かを観念したような苦笑いで、軽く肩を竦めてきた。
伊槻は、此の話題に食いついている。最初から其の心算で、此の男は此処まで来たのだろうか。さながら愚痴を零すように。あの日の貞枝と同じように。
黄昏時の空気が甘く香り、沈みかけの太陽光が、居間に霧のように立ち込める。克仁がソファから立ち上がり、電灯を付けに行った。ぱちんと音を立てて、蛍光灯の白い光が瞬く。夕暮れの寂莫感が眩しい灯りで取り払われ、此方を振り返った克仁が、落ち着いた声で言った。
「二人とも、座ったらどうです。お茶を入れ直してきましょう」
其れを聞いた伊槻は、恐縮した様子で「ああ、藤崎さん、お構いなく。すぐにお暇しますので……」と言ったが、克仁はさっさと台所へ消えてしまった。そして、居間には不器用な男二人が、取り残される格好となった。
「……」
伊槻が、ソファに腰を下ろす。イズミも対面に腰かけると、覚悟を決めたような吐息が聞こえて、伊槻は静かに語り始めた。
「僕が入り婿だという話は、君も知っているね?」
「はい。存じております」
「君は僕の事を、どれほど家の人から聞いているんだい?」
「実は、あまり。商社にお勤めだとは伺っております。貞枝さんの旦那様であり、杏花さんのお父様です」
「……。貞枝とは、大学生の時に出会ったんだ」
意味深な間を空けてから、伊槻が最初に告げたのは愛妻の名前だった。最も話したい話題は別にあるのに、敢えて違う話題を選んでいる。本命は後で話す心算なのだ。少しでも長く話す為に、伊槻は会話を延ばしている。
「貞枝は、綺麗だろう? 歳は僕が一つ上で、一目惚れだった。交際を申し込んで、受け入れてもらえた時は吃驚したよ。平凡な僕には、熱意を誰よりも懸命に伝えることくらいしか、貞枝にアピールできるところなんて、何もなかったと思うのに。今でもあの頃のことは、夢みたいに幸せだったって思い出せるんだ」
此の話はもしかすると、あの鏡花談義の席で貞枝が言っていた『ロマンス』だろうか。犬も食わない話を繙いているにもかかわらず、伊槻の表情は神妙だ。甘やかな幸福が、年月を経た写真のように色褪せてしまった寂しさを、イズミは声から感じ取った。
「神社の娘さんだって事は判っていたから、貞枝との結婚を認めてもらえたら、僕は神主を継がなくてはいけないんだろうなって、社会人として働きながら考えていたよ。実際に、お義父さんからは結婚の条件として、いずれ跡を継ぐように言われていたんだ。……でも、イズミ君。僕は今、神社とは違う職場で働いているね? 辞めなければいけないと思っていた会社で、今もまだ働いている。それが何故か、判るかい?」
「いえ、判りません」
「継がなくていいって、言われたんだ」
イズミは、息を吸い込んだ。伊槻は、何でもないように微笑んだ。痙攣に似た震えが、一瞬だけ頬に走った。
「何故なんだろうね。僕には判らなかった。僕は貞枝と一緒になる為に、それなりの覚悟を固めた心算だった。お義父さんはどういう心算で、僕にあんなことを言ったんだろうね」
「何か理由があったのではありませんか」
「そう思うかい?」
硬い声で答えるイズミに、伊槻は尚も笑みを返してくる。大人のあしらい方をされた気がした。子供にはまだ、判らないのだとでもいう風に。
「僕は、別にいいんだ。仕事だって、やりがいや楽しさがあるし、ふいにするより続けたかったから。でも、判らないということが、辛い時もあるんだよ」
此の言葉には、少しどきりとさせられた。真実に続く道のりを、ただひたすらに追及したい。そんな求道者としての魂が、今の伊槻の言葉に共鳴した。伊槻はイズミの動揺など知る由もなく、「だって、そうだろう?」と続けて、興奮気味に身を乗り出した。
「僕には、お義父さんの御心が判らない。神社の今後はどうするのか、考えを一度聞いてみたいけど、引退を迫っているように聞こえたら困るから、正直すごく出しゃばり辛い。貞枝の事も、ずっと一緒にいるのに……何を考えているのか判らないんだ」
「貞枝さんの事も、ですか」
イズミは、内心慌てていた。話題が夫婦間のことにまで及ぶとは、思いもよらなかったのだ。秘めた心の内を吐露するにしても、親戚の小僧相手に話すには、流石に一線を越えている。此れ以上耳に入れてはならぬと思ったが、克仁が戻って来る気配はない。妙な気を使うよりも、早く帰ってきてほしい。やきもきするイズミをよそに、伊槻は語りに熱がこもったことを恥じるように、膝に視線を落としていた。
「判らないさ。貞枝の事も。娘に風変りな名前を付けた時だって、僕の父母はあまり良い顔をしなかった。将来のことを考えたら、やっぱり名前はもっと普通の方がいいとは思わないかい?」
「そのように、進言はされたのですか?」
「もちろん、したさ。……貞枝に、あしらわれたけどね」
「ああ……」
「……ともかく僕は、氷花という名前には反対だったけれど、それでも付いた名前は仕方がない。慣れたら可愛いと思えるようにもなってきた。……だけど、どうしてなんだろう。僕にはやっぱり判らないんだ」
顔を上げた伊槻は、心底不思議だと言わんばかりの顔をした。
「どうして、折角つけた名前で娘を呼ばないんだ。貞枝も、お義父さんも、考えている事が僕には判らないし……情けない話、なんだか仲間外れのような気がして、寂しい気も少しするんだ」
「……」
然ういえば、呉野神社を訪れた時、イズミの祖父である國徳は、確かこう言っていた。判っていないのは伊槻だけだ、と。
――〝二人居る〟。
伊槻は、知らない。呉野の一族の者達が、杏花と呼んで可愛がっている少女の命を、長くないと見做した事を。短い命を儚む為に、家族ぐるみで〝アソンデ〟いる事を。
そもそも、國徳と貞枝の認識は正しいのだろうか。〝二人居る〟うちの一人が喰われて居なくなるという発言を、杏花が死ぬという予言を、いつか訪れるという其の破滅を、少なくともイズミは信じていない。
イズミは、伊槻の顔を見る。貞枝にあしらわれ、國徳からも心を開いて貰えず、娘の事も何も知らない――仲間外れの男を見る。ただの親戚に過ぎないイズミでさえ、同情の念を禁じ得ない程に、伊槻は何も知らされていなかった。
そんな孤独感と隔絶感が、あの日の伊槻の瞳に、イズミを探させたのだろうか。イズミは伊槻という人間が、酷く不憫に思えてしまった。
「……やっと、吐き出せたよ。家では、氷花をキョウカって呼ぶルールがある、なんて。こんな特殊な状況、同僚にも遊び仲間にも言えないからね」
伊槻は、肩の荷が下りたような顔をしていた。哀愁を滲ませつつも、晴れ晴れとした表情だった。
「ずっと、お一人で抱えておられたのですね」
「はは、そんな大層なものじゃないと思うけど。君は大人びた喋り方をするんだなあ」
高校生から労わられたことに狼狽えたのか、伊槻は謙遜するように言ってから、嬉しそうに笑った。今までに見た中で、最も溌溂とした笑みだった。
「大人げないと君は思うかもしれないけど、大人だって、愚痴を言ってないとやっていられない時があるんだ。貞枝は、ああいう態度ばかりだから。誰の言うことも聞かないし、自分がしたいことばかりして、すぐに周りを振り回すし。身近な相手には話せない時もあったから、僕は君が呉野家に遊びに来てくれて、本当に良かったと思っているんだよ。……有難う、イズミ君」
伊槻は語りを締め括ると、イズミへ手を差し伸べた。
すっかり驚いたイズミは、伊槻の手の平を見下ろした。
他者の心が『判る』イズミでも、全てが『判る』わけではない。
伊槻の寂しさは幻視できても、此方は『判って』いなかった。
言葉と態度で示されて、初めて『判った』感情だった。
「……はい。僕も、貴方とお会いできて良かったです。また此方にいらして下さい。伊槻さん」
差し出された手を握り返し、イズミも微笑を返した。今日一日の疲れを、ほんの少しだけ忘れられた気がした。
すると、和解の瞬間を見計らったかのように、克仁が居間に戻ってきた。立ち聞きをしていたのは間違いない。あまりに間合いが絶妙なので、伊槻も気づいて笑っていた。此れ程あからさまな行動を取っても、客人に嫌な顔ひとつされない克仁は、実は凄いのではないかと感心してしまう。屹度、人徳の為せる業だろう。
*
其の後、伊槻はすぐに藤崎家を後にした。丁寧に一揖した時の顔色はすっきりとしたものに変わっていて、夕方の住宅街を歩く足取りも軽やかだ。
呉野家に帰れば屹度、妻からは手玉に取られ、義父とは意思疎通を上手く図れず、娘を本名とは違う名で呼ばなければならない日常に戻るのだろう。伊槻にとって藤崎家で過ごした時間は、束の間の安息だったのだろうか。苦労人の伊槻に幸あれと、同情を込めてイズミは手を振り、スーツの背中を送り出した。
「克仁さん。泉鏡花の『女客』と『売色鴨南蛮』は、どんな美しさを描いているのでしょうね」
イズミはふと思いついて、門の前に立った克仁に訊いた。
「藪から棒に、どうしたんです?」
「伊槻さんのお好きな小説なので、気になりました。俗に言う観念小説ではないのでしょう?」
「嗚呼、成程。観念小説ですか。然ういえば君は、鏡花作品初期のものを、最近読んでいましたね。解釈は人それぞれですし、泉鏡花文学を指して観念小説と呼ぶこと自体も、人それぞれだと思います。其れを念頭に置いた上で、私の感想を云うのなら、此の文豪の初期の作品群は、互いの破滅に依って成就する純愛を、悲しいほどに救いがなく、戦慄するほどの美しさで、緻密に描き出していると思います。そんな物語を読み込んでから『女客』と『売色鴨南蛮』という物語に向き合ってみると、此の二作の美しさは、初期の作品群とは異なる気がしますね」
「どのように異なるのですか?」
イズミが訊ねると、克仁は指を顎に当てて考え込んだ。二つの作品世界を思い返しているのだろう。目元が優しく細められていく。
美しいものを思う時、人は皆こんな顔をするのだろうか。
――清らか。然う囁いた声を思い出す。御山の緑と泉の畔、青い空へ溶けた声は、幼く澄んだ少女の声。
「然うですね。二作品は筋書きがまるで異なるお話ですが、どちらの作品にも清らかな心を持った女性が登場します。個人の感想としては、温かな余韻を得られるのが『女客』で、はっと息を呑むほど冴え冴えとした切なさが輝くのが『売色鴨南蛮』ですね。イズミ君、其の二作品が所収された本は、私の本棚にありますよ。興味があるなら読んでみるといいでしょう」
「清らか、ですか」
イズミは、克仁の台詞から言葉を抜き出して復唱する。今まさに思い描いていた少女の存在を、言い当てられた気分だった。
杏花との別れ際に、笑顔はついに見られなかった。呉野家の廊下で見た空虚な表情を思い出すと、やりきれなさが胸に迫る。
そして、やりきれないという言葉だけでは表現できない、得体の知れない感情も。
「……」
手が、自然と喉へ伸びていく。子供の柔い力によって、絞められかけた首に触れる。杏花は、あの時。何故、イズミを。
「今日の君は、伊槻さんに優しくなりましたね。私が印象を訊いた時は、口数が少なかったではありませんか。あまり良くは思っていなかったのでしょう? どういう心境の変化です?」
「白々しいですよ、克仁さん」
イズミは首に触れた己の指を、腰の横に降ろした。先程までの感慨は一旦忘れ去ることにして、養父を軽く睨んで見せる。
「僕は、伊槻さんを誤解していただけです。いえ、誤解ではないですね。彼の事を、あまりに知らなかっただけでした。伊槻さんの境遇は、同情に値するものです。一家の大黒柱とは思えぬ冷遇っぷりです。可哀想に」
「イズミ君、言い過ぎですよ。君は、優しいのか非道なのか判りませんね」
「非道」
またしても、言葉を復唱してしまう。先程の〝清らか〟に続いて、二つ目の当たりだ。思わず苦笑したイズミは、伊槻を見送る為に出てきた門に背を向けて、のんびりとした歩調で家に戻る。然うして居間のソファで寛ぐと、「僕は非道だそうですよ、克仁さん」と言って、同じく居間に戻ってきた克仁を振り返った。
「今日、貞枝さんに非道だと詰られてしまいました。ですが、何を以て僕を非道だと詰ったのか、僕にはぴんと来ませんでした。僕は彼女が相手だと、なぜ会話が上手くいかないのでしょうか」
「其れは、君。デリカシーの欠如では? 君を好きになった女の子は皆、自分から身を引いていくではありませんか」
「デリカシー。そうかもしれませんね。僕から離れていく女子生徒達の感性は、実に正しいと思います」
「イズミ君、君は自覚があるのですか」
克仁が、苦々しげな表情になる。かと思いきや、愉快そうに吹き出して、腹を抱えて笑い始めた。
「君、其れではモテませんよ。成程、道理ですね。君はそんな調子だから、屹度無意識の内に、貞枝さんに失礼を働いたのでしょう」
「そうでしょうね。ですが、彼女が僕に怒っているのだとしたら、僕もまた彼女に怒っているのかもしれません」
「君が怒る? 其れはまた、珍しいこともあるものです。良ければ、話を聞きますよ」
イズミは暫し黙考し、「いえ」と述べて淡く笑った。己の抱えた葛藤は、まだ一人で処理出来る軽さだと思ったのだ。
――『和泉君。人の持てる感情には、予め量が決まっていると思うのよ』
呉野貞枝の台詞が、呪いのように記憶から浮かび上がってくる。頭を振ったイズミは、意識的に笑みを作る。家族団欒の温もりが、冷えた言葉を頭の中から掻き消した。
「大丈夫です。克仁さん。今日の出来事は、いずれ必ずお話しましょう。少し考える時間が欲しいのです。……ああ。ですが、貴方には質問がありました」
ふと思い出して、イズミは言った。伊槻の登場で失念していたが、克仁には必ず訊きたいことがあったのだ。
「克仁さん。何故、彼女を氷花と呼んだのです」
「何故って、君。國徳さんに然う云われたからですよ」
克仁は、さも当然のように答えた。釈然としないイズミが無言になると、詳しい説明を求める空気を読み取って、克仁が楽しげに笑った。『判らない』相手であっても、家族の思考は筒抜けなのだ。知りたがるイズミを面白がった克仁は、突然にこんなことを言い出した。
「イズミ君。君は、〝言霊〟という言葉を知っていますか」
「コトダマ?」
脈絡のない言葉だった。イズミは首を捻り、やがて頷く。
「何となくなら、知識があります。言霊とは、その言葉の通り、言葉に宿るとされる霊魂を指す言葉ですね?」
「ええ。正解ですよ」
克仁は莞爾と笑うと、八人は卓を囲める丸太のテーブルに置いた茶を煽った。上下する喉仏を視界に入れながら、イズミは克仁の言葉を反芻する。
コトダマ。言霊。耳にしたことなら小説やテレビで何度かあるが、日常会話では出てこない単語だ。克仁の講釈を聞ける予感がして、イズミはソファの背もたれから身体を起こした。幼子がおはなし会を楽しむ気持ちと、此の感情は同じだろう。知識はまるで水のように、得られなければ身体が朽ちる。養父であり教育者である克仁の言葉は、イズミにとって娯楽なのだ。
会話を待つイズミが雛鳥にでも見えたのか、克仁は満足そうに頷くと、立て板に水の如く話し始めた。
「まずは、魂についてお話しましょうか。魂は古代中国の教えによると、人間の精神を司る気だと考えられています。此処で細かい話を挟むと、肉体に宿るものは魄と呼ばれ、人間が死んだ時、魂は天に昇って神となり、魄は地上に留まって鬼になるそうです」
「鬼、ですか」
イズミは、思わず合の手を入れた。蕎麦屋で杏花に話した『鬼の角』の物語を、否応にも意識する。一日のうちに〝鬼〟が何度も話題に挙がろうとは、奇妙な偶然が重なるものだ。克仁も符号に気づいたのか、目尻に皺を刻んで微笑んだ。
「話が脱線しましたが、此の魂魄は一般的に、人間が持つ霊魂と考えられています。シンプルに魂と表現した上で、話を前に進めましょう。人間には魂があるように、人の発する〝言葉〟にも魂が宿るという考え方があります。そして、言葉に宿った魂が齎す霊威によって、声の形で発した〝言葉〟を擬えたような現象が、現実世界に引き起こされるのです。此の信仰が、日本に古くから存在する言霊信仰です。どれくらい古いかと云うと、然うですね。イズミ君は、学校で『万葉集』は読みましたっけ」
「ええ、少しなら」
「其の『万葉集』にも、言霊について歌われたものが所収されています。詠み人は、柿本人麻呂です。――『磯城島の 日本の國は 言霊の 幸はふ國ぞ ま幸きくありこそ』」
よく通る声で、克仁は諳んじる。抑揚は込められていなくとも、此れが歌なのだとはっきり判る伝え方だ。イズミも、返し歌を贈るように言った。
「その歌の意味は、こんなところでしょうか。――〝大和の国、日本という国は、言霊によって幸せが齎される国です〟」
「惜しい。もう一声あれば完璧ですね」
克仁が、コップをテーブルに戻した。居間が蒸し暑い所為で、冷えた麦茶が入ったコップは、うっすらと汗をかいていた。
「イズミ君の云う通り、大和の国は日本です。足りない言葉を補うと、こういった意味の歌になります。――〝日本は言霊が幸いを齎す国であり、私の此の〝言挙げ〟によって、どうか貴方、御無事でいて下さい〟」
「言挙げ? 何ですか、その言葉は」
耳慣れない言葉だった。イズミが訊くと、克仁はすらすらと説明してくれた。
「言挙げとは、己の意思をはっきりとした言葉として表現する事を云います。先ほど私は、言葉には魂が宿ると云いましたね? 其の魂を宿した言葉を口にするという行為を、言挙げと呼ぶのです」
「言霊と、言挙げ。似た言葉ですね」
「似た言葉でも、意味は異なりますよ。言霊が其の魂を指しているのに対し、言挙げは其の行為を指しています。言挙げをしなければ、言葉に魂は宿りません。声に出してこその言霊、そして言挙げですよ。まるで双子、あるいは兄妹のような言葉だと思いませんか?」
「その話が、なぜ杏花さんのお名前の話と繋がるのですか?」
イズミは訊いた。もっと克仁の薀蓄を聞いていたいが、元々イズミ達は杏花の事を話していたのだ。〝言霊〟と〝言挙げ〟に関する知識は屹度、杏花と結びつくに違いない。克仁は縁側に視線を投げると、イズミに横顔を向けたまま言った。
「イズミ君。國徳さんから聞きましたよ。君は氷花さんの事を、あだ名で呼んでいるそうですね」
「……。はい。その通りです」
「氷花さんは、君の名をどう呼んでいるのですか」
「お兄様、ですよ。僕はこの歳で妹ができるとは思いませんでした」
「名前では呼ばれていないのですか。成程。面白いですね」
克仁は、合点した様子で頷いている。イズミは置いてけぼりを食らった気分になったので、一人で納得している克仁へ追及した。
「克仁さん。僕にも判るようにお話して下さい」
「大したことではありませんよ。ただ、やはり君達は〝コトダマアソビ〟をしているような気がしたのです」
「コトダマアソビ?」
イズミの言葉の終わりを引き継ぐように、蜩がカナカナと鳴いている。呉野神社でも鳴いていたが、御山を下りてもまだ聞こえる。短い命を削りながら、まだ密やかに鳴いている。
「嗚呼、此れは私の造語ですから。君に話す薀蓄とは何の関係もないですよ」
克仁は然う断ってから、少しばかり照れ臭そうにはにかんだ。蝉の声を、意識した。言葉が宿した静謐な響きが、イズミを緊張させていた。
「――〝言霊〟。魂が宿った言葉であり、現実世界に影響を与える言葉。言葉の『コト』とは、出来事の『コト』と同義です。〝言葉〟が現実世界に影響を与え、現実世界の〝出来事〟を変革する。〝言〟と〝事〟とが、すり替わる。或いは、同じものになるのです。……つまり」
克仁はソファから立ち上がり、玄関扉に続く襖を振り返った。
「人の名前も、同じです。名を名乗れば、其れもまた〝言霊〟という魂の込められた言葉を〝言挙げ〟するという行為になります。先ほども云ったように、〝言霊〟の〝言〟は出来事の〝事〟、すなわち〝言挙げ〟された名前とは、其の名前を授かった人間そのものを指しています。例えば、特定の誰かを呪おうと画策した時、呪詛する相手の〝名前〟や所持品といった、其の人物に連なる物が必要になる事と、同じものを感じませんか? 〝名前〟を其の人物〝そのもの〟と見立て、すり替え、或いは同じにしてしまう事に依って、呪詛を成立させるのです」
克仁はゆっくりと歩き始めると、襖の前で足を止めた。
「然ういう理由で、名前を異性に明かしてはいけないという考え方もあります。相手に己の真名を晒す事は、己の全てを相手に委ねる事になるからです。然ういった思想も、言霊信仰は孕んでいるのですよ」
「……克仁さん。貴方が僕に伝えたいことが判りましたよ」
イズミはソファに掛けたまま、居間を出ようとしている克仁を見上げた。
克仁の言う〝コトダマアソビ〟とは何なのか。数学の解を導き出した時と同じ手応えを感じたイズミは、手繰り寄せた正解を言葉にした。
「名前は、自分自身。つまり、濫りに明かしてはいけない。名を〝言挙げ〟すれば、それは生身の自分自身を、相手に委ねる事になるからです。――だから、正確な名を呼び合わない僕達の関係は、まるで己の魂を相手に晒すのを恐れるが故に、〝言挙げ〟を意図的にしないようにしている。そんな〝アソビ〟を、僕達が楽しんでいるように見える……。克仁さんは、そう仰っているのですね」
「君は賢いですね」
克仁は妙に誇らしげに微笑むと、襖を開けて出て行ってしまった。「待って下さい。克仁さん」と声を上げたイズミも立ち上がり、廊下に消えた背中を追いかけた。今の会話の所為で、疑問が余計に増えたからだ。
「克仁さんのお話では、〝言挙げ〟は魂の暴露に聞こえます。『万葉集』では、『日本は〝言霊〟が幸せを齎す国』だと歌われています。ですが、これでは安心して〝言挙げ〟など出来ないように思えます」
「其の点に気づきましたか。君はやはり聡いですね」
くつくつと笑う克仁が、廊下の薄暗がりを静かに歩き、三和土でサンダルを突っかけた。庭に水でも撒くのだろうか。イズミも上り框までついていった。
「昔の人間も、君と同じ考えを持ったのです。今のイズミ君と同じ心情を歌ったものが、同じ『万葉集』に所収されていますよ。詠み人も同じ、柿本人麻呂です」
ポロシャツに袖を通した腕が、玄関扉に触れた。扉の硝子窓から射した橙色の淡い光が、薄青い闇とおぼろげに溶け合う家で、壮年の男の歌声が、滝の白糸を彷彿とさせる水芸のような滑らかさで、〝言霊〟を〝言挙げ〟するという古来より脈々と受け継がれてきた行為へ敬意を払うように、朗々と響いた。
「――『葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞわがする 事幸く坐せと恙なく 幸く坐せば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重波 言挙すわれは 言挙すわれは』……此の歌について簡単に解説すると、〝日本は言挙げをしない国です。ですが、其れでも、私は敢えて、言挙げをしましょう。貴方がつつがなく元気でいるのなら、荒磯に打ち付ける波のように、変わらぬ姿でまたいつか、屹度お目にかかれます。貴方のご無事と幸いを、私は敢えて、言挙げしましょう。繰り返し、重ねて、言挙げしましょう〟――という意味になります。日本人は、感情の機微に敏感な方が多いですから、言挙げなどせずとも、相手の考えは大体読めてしまいます。そんな奥ゆかしい性質を示唆される日本人ですが、其れでも敢えて、曖昧な感情を振り切って、言挙げをしようではないか。然う歌っているのが、此の歌なのですよ」
克仁は、長い台詞を終えると、「良い歌ですね、好きですよ」と短い感想を述べて、其れきり黙った。蝉の声が涼やかに黙を埋める家で、イズミと克仁は互いに〝言挙げ〟しないまま、互いの顔を見つめ合った。
克仁が本当に伝えたいことが何なのか、イズミは理解してしまった。
諦観とも解放感とも表現できない感情に、どんな名を与えたらいいのだろう。呉野神社の御山の奥で、國徳と再会した時も然うだった。初めて経験する心の動きに、イズミは感動という名しか付けられなかった。
ともあれ、國徳に続いて二人目だ。
――いつか、誰かに打ち明ける日が来る。
そんな覚悟を此の夏で、二度も決めるとは思わなかった。
「イズミ君。君は、〝言葉〟というものに、強い拘りを持っていますね?」
沈黙を破った克仁の声には、僅かだが厳かな響きがあった。
「イヴァンから聞きましたよ。イヴァンが来日した時に、彼は君からすれば酷いと感じる言葉を使った然うですね。そして其れを、君は嗜めたそうですね? 君が國徳さんと対面した時も同様です。あの方は、呉野家を卑下するような発言をした際に、君に諭されたと云っていました。――君は、会話相手が酷い言葉や卑屈な言葉を使う時、必ずと云っていいほど、其の言葉を否定しますね? はっきりと声に出して、己の意思を伝えています。さながら〝言挙げ〟するように。大方、貞枝さんにも同様の態度で突っ掛かったのではありませんか? 然ういうところが、君は御爺様に似ていますね」
「それは、どういう意味ですか。偏屈なところがですか?」
「言葉を愛するところが、ですよ」
克仁は玄関扉を押し開けると、イズミを振り返って笑っていた。鮮烈な既視感が、イズミを包み込んでいた。
――イズミが國徳と似ていると、指摘を受けるのは何度目だろう。
感情の機微が読めない國徳は、何を考えているのだろう。〝二人居る〟と告げた冷淡な口調には、達観とは相反する激情の存在も感じられた。
厳格な國徳なりに、杏花の未来を案じているということだろうか。着々と迫りくる親族の死が、國徳を急き立てているのだろうか。
國徳のあの言葉にも、魂がこもっているならば。其の〝言霊〟は、どんな色をしているのだろう。國徳の事が『判らない』イズミには、屹度一生かかっても判らないままなのだ。
――だから、イズミは言葉に拘るのだろうか。
見えない心を知りたいから、言葉に重きを置いて量る。他者の思考と感情を。其の魂の質量を。イズミ自身ですら気づかなかった拘りを、克仁に見抜かれていたとは思わなかった。
「……克仁さん。僕は、貴方に話しておきたいことがあります」
普段通りの声で、イズミは言った。特に気負う必要など何もないので、あっさりとしたものだった。
克仁も気持ちは同じなのか、「奇遇ですね、私もですよ」と返してくる。此の状況が楽しくて堪らないのか、秘密基地に向かう子供のような目をしていた。
「もっと早く、互いに話しておけば良かったですね。イズミ君、今日の夕飯はやっぱりラーメンにしましょうか。長い夜になりそうです」
「本当ですか。では、チャーシューか半熟の煮卵を乗せていただけると嬉しいです。ネギもたくさんお願いします。豚骨ラーメンであれば言うことなしです」
「君は拘りが強い子ですね。今まであまり云っていませんでしたが、君の然ういうところが、私はかなり好きなのですよ」
「こんな〝言挙げ〟でも、貴方は好きと言って下さるのですね。克仁さんは、やっぱり変わった御方です。貴方の事が『判る』僕であったなら、屹度それはそれで楽しい毎日だったと思います」
「君は、優しいですね」
「最近、そればかりを言われてしまいます」
イズミが肩を竦めると、克仁も小気味良い笑い声を立てて、玄関扉に向き直る。其の背中に、イズミは声を掛けた。
「……この気持ちもまた、〝清らか〟でしょうか」
「清らか?」
「はい。……あの子もまた僕のように、言葉を大切にしています。綺麗な言葉と、美しい魂に拘っています。今日の僕は、あの子がとても気がかりなようです」
克仁は、黙った。隠し事をやめたイズミには、沈黙の意味を容易く理解できた。
――克仁にも、杏花の事が『判らない』のだ。
克仁は今日のおはなし会で、杏花を〝同胞〟と認識しただけなのだろう。もし克仁が自力で〝同胞〟の存在に気づいたならば、呉野國徳から多くの情報を得ていない可能性も考えられる。憶測に過ぎないが、呉野家の〝アソビ〟の事くらいしか聞いていないのかもしれない。
推測の答え合わせをしようとイズミが口を開きかけた時、克仁が扉を開け放った。室内の薄暗がりが茜色の斜光に駆逐され、夏の熱気が滑り込む。
開いた扉の向こう側、飛び石の双六が導く門の前に、夕焼けの輝きを後光のように引き連れた、長身痩躯を見つけた時――克仁は出迎えの為に此処まで来たのだと気づき、イズミは笑った。
「お父さん。おかえりなさい」
父が、門扉の傍に立っていた。インターホンに手を伸ばしかけた格好で、ぽかんと動きを止めている。突然の出迎えに、余程驚いているらしかった。そんな異邦の男の有様を、克仁が愉快げに笑っていた。
「イヴァン、おかえりなさい。縁側から、君が帰ってくる姿が見えたので、イズミ君と一緒に出迎えてみました。そんなに驚くことでもないでしょう?」
「驚きますよ、克仁さん。手品みたいだ」
父は目を白黒させていたが、やがて「ただいま」と言って微笑んだ。黄昏時のぬるい風が、父の茶髪を蒲公英の綿毛のような柔らかさでそよがせる。身に着けたシャツがゆったりとして見えるのは、痩せて骨ばった身体の所為だろうか。手には白いビニール袋を提げているので、イズミは納得して頷いた。道理で、父が留守だったわけだ。
「お父さん、何を買いに出かけていたのですか?」
「バーベキューの用意だよ。克仁さんから聞いていなかったのかい? これから庭で準備をするから、イズミも手伝ってくれないか」
「お話が違うようです。ラーメンではなかったのですか?」
「イズミ君、もうイヴァンが用意を買ってきたので、ラーメンはやはり延期にしましょう。君、此方の方が嬉しいのではありませんか?」
「僕はどちらも好きですよ。それに、家族と食べるご飯は素晴らしいものだと思います」
イズミは父に近寄ると、肉のトレイや野菜で嵩張った買い物袋を受け取った。伊槻との和解を経てもまだ影のように焼き付いていた心の澱が、すうと晴れていくのを感じていた。家族の顔を見たからなのだとしたら、イズミは案外、自分自身で思うよりも、単純な人間かもしれない。
「お父さん。ロシアに一時帰国するまでの間、できるだけ一緒に食事をしましょう。克仁さんと二人の食事も楽しいですが、貴方を入れて三人になれるなら、僕はその方がいいのです」
「イズミ?」
素直な内面を吐露した息子に、父は狼狽えたようだった。イズミも照れ臭さを覚えたが、其の上で尚、言って良かったと心から思う。
此の感情を相手に伝える為に、言葉は要らないのかもしれない。
だが、克仁から〝言霊〟と〝言挙げ〟を学んだイズミは、敢えて言葉にしたいと思ったのだ。克仁も家から出てくると、軽い揶揄が覗く笑顔で、父の顔を見上げていた。
「イヴァン、息子がこう云っていますよ。君は幸せ者ですね」
「イズミには、本当に敵わないなあ」
情けない照れ笑いを浮かべた父は、然う囁いたきり黙ってしまった。国際電話では『愛している』と平気で言っていたくせに、身を置く国が変わるだけで、こうも違うものなのか。何だか可笑しくなって笑った時、鮮やかな赤色が視界の斜め下辺りをちらついた。イズミは白い買い物袋の中に其れを見つけて、驚いた。
「お父さん、これは?」
「ああ、懐かしいだろう? イズミがこれと同じ物を持ってはしゃいでいたことを思い出して、つい買ってしまったよ」
「……。当時は、もっと大きな物だと思っていました」
買い物袋を片手で支え直したイズミは、懐かしの玩具を取り出した。
――赤い風車。
数年ぶりに手に取った其れは、花のような形をしていた。当時はそんな風には思わなかったはずなので、イズミの感性が変化したのだろうか。幼い少年と高校三年生は、其れほどまでに隔たりがあるのだろうか。
「お父さん。僕が克仁さんから貰ったものは」
「あれは……イズミ。ジーナにあげてしまった事を、忘れているのかい?」
「……そうでした。すみません」
イズミは、謝る。そして、ふと名案を思い付いた。
「お父さん。この風車、杏花さんに差し上げても宜しいでしょうか」
父は意表を衝かれた顔をしてから、愁眉を開いて微笑んだ。イズミの提案を聞いただけで、何かを察したらしかった。仔細は話していないのに、異能のような以心伝心が、イズミに家族の絆を感じさせた。
「イズミ。何か無理をしているのではないのかい?」
「いいえ。ただ、心配なだけなのです。杏花さんの事が」
酷い〝言挙げ〟だと、我ながら思う。まだ克仁にも事情を話せていないのに、感情だけ先に伝えても、個人の抱えた葛藤など、誰も理解できないだろう。
だが、拙く未熟な〝言挙げ〟でも、二人は受け止めてくれる気がしたのだ。そんな家族の在り方も、一つの〝清らか〟ではないかと思う。
「あの子は、六歳とは思えないほど聡明です。ですが、聡明ゆえに苦しんでいます。呉野家の事情は、多くは判らないままですが……やはり、厭な予感がするのです。お父さん、貴方の事だけでなく、僕は杏花さんの事も気がかりです」
「イズミ。君の感情は、とても自然なものだと僕は思うよ」
父は、イズミに事情を訊かなかった。穏やかに目を細めると、イズミが持つ赤い風車を、指先でつついただけだった。からりと、作り物の花が回る。勢いは徐々に失速して、やがて呆気なく動きを止めた。夕方の公園で遊んだ幼い頃を、イズミは思い出していた。置き去りにした花の記憶が不意打ちの哀愁を運んだ時、イズミの頭に父の手の平が乗せられた。
「君は家族を大切にできる子だから、杏花さんにも親身になれるんだろうね。いつの間にか優しいお兄さんになっていたんだなあ」
兄ではない。然う言おうとして、イズミはやめた。
代わりに、別の言葉を言いたくなったのだ。
「お父さん」
今は、言わなくてもいい台詞だ。此れからは、国際電話越しではなく、いつでも、毎日、言える台詞だ。――其れでも。
「貴方は、僕の大切な家族です。貴方が、僕の知らない場所で歳を取る姿は、もう見たくありません。同じ国で、同じ時間を過ごしたいのです。そうやって、歳を重ねていく姿を見たいのです。――愛していますよ、お父さん」
父の白い頬を染めた朱色は、夕焼けの輝きか、其れとも〝言挙げ〟に込められた〝言霊〟なのか。黙ってしまった長身の男を、克仁が楽しげに囃し立てる。
世界中で、此の瞬間のイズミ達ほど、幸せな家族はいないだろう。此の幸福が、永遠に続けばいい。束の間杏花の事を忘れたイズミは、赤い風車を縁側に置いて、バーベキューの準備を始める為に、庭へ向かったのだった。
――からり、と。
乾いた風が、赤い風車を回す音を、背中で聞いた。




