清らかな魂 16
「和泉君。今日は有難うね」
「いえ……」
イズミは頭を振ると、「申し訳ありません」と言って、深々と頭を下げた。
「いいのよ。貴方が気にすることではないでしょう?」
「いいえ。僕の責任です。きちんと帽子をかぶせてあげれば良かったですし、間で水分を摂らせるべきでした。大切なお嬢さんをお預かりしておきながら、申し訳ありません」
「貴方は、本当に律義なのねえ」
顔を上げないイズミの頭上から、困惑気味の声が降る。微かな笑みを含んだ声は普段と変わらないものだったが、其れが今のイズミには返って堪えた。詰ってくれる方が、まだ心が楽になる気がした。
「杏花さんの具合はどうですか」
「お布団に寝かせたら、ぐっすりよ。吐いたら楽になったみたい。貴方のおかげです。御免なさいね。大変だったでしょう」
「そんなことはありません。それよりも、心配です。天麩羅も食べられなかったので、とてもお腹がすいていると思います。……吐いた後では、食欲は無いかもしれませんが」
「和泉君。貴方、いい加減に頭を上げて下さいな。綺麗なお顔の若い子がそんな風に畏まっていたら、私はどうしたらいいのか判らなくなってしまうわ」
ゆっくりと顔を上げると、茜射す廊下に立った呉野貞枝は、やんわりと微笑んでいた。今日は和服ではなく、紺色のワンピース姿だ。労りを含んだ笑みと向き合うと、やはり胸が、鈍く疼く。
「……貞枝さん。杏花さんは、寂しいと言っていました」
然う言って、イズミは今日の出来事を振り返る。
杏花の哀切の表情を。胸を打つ言葉の数々を。そして、名乗る名前を間違えて――思い詰めて、倒れたことを。
「杏花さんは、此処まで帰ってくる途中で、何度か『ごめんなさい』と言っていました。なぜ謝るのかと訊けば、〝アソビ〟が終わるのは厭だからだそうです。僕は、見ていられませんでした。子供がこんな風に追い詰められてしまうものが〝アソビ〟だとは……僕には、とても思えません」
「……其れでも貴方は、氷花を杏花と呼んでくれるのね?」
「……それは、貴女が望んだことだからです」
刹那沈黙したイズミは、結局黙らず然う言った。
黙ることは、簡単だ。だからこそ今、楽な流れに身を任せるのは厭だった。
「僕が、呉野氷花さんを杏花さんと呼ぶ理由は、一つしかありません。貞枝さんと、御爺様と、そして何より杏花さんが、僕にそれを望んだからです。僕は、貴女方と〝アソンデ〟います。ですが、〝アソビ〟とは楽しいものでなくてはなりません。これは、誰が楽しいのですか。杏花さんは、悲しんでいます」
「貴方、杏花とはそんなに話をしていないでしょう? 二人で遊んだ時間を足せば、二日分ほどしか付き合いがないというのに、其れでも可愛い従妹の為に、貴方はむきになれるのね」
「僕が理屈っぽい性格をしているのは、今に始まったことではありませんから」
追及を躱した貞枝に言い返すと、素っ気ない眼差しが返ってきた。つと此方を見る流し目に、冷淡な光が茫と灯る。貞枝は酷薄に笑うと、イズミに告げた。
「和泉君。今日はもう、お帰りなさいな」
「何故です」
すぐさま、イズミは訊き返した。貞枝の言い方は穏便だが、要するに出ていけと言われたのだ。呉野家の都合が悪いのか、其れとも愛娘の守りも碌に出来ない青年への嫌気なのか。どちらも有り得そうな理由だが、どちらにしても意思は同じだ。イズミの存在が邪魔なのだ。普段のイズミであれば、そんな台詞を賜る前に、器用に立ち回って此処を辞しただろう。だが、今日ばかりは食い下がった。
イズミの中に、執着はない。情熱はおろか、目標もない。確かな手応えで掴めるものは、家族愛の尊さと、学びの為に学ぶ姿勢だけだ。
ならば、納得するまで極め抜く。イズミの知らない〝アソビ〟の闇を、目を逸らさずに凝視する。屹度イズミは其の為に、我を張って此処にいるのだろう。
「……」
貞枝は、まだ薄ら笑いを浮かべていた。出て行くどころか微動だにしない不躾な態度の青年を、興味深そうに眺めている。やはり妖女のようだった。此の期に及んで未だ尚、人の親に見えなかった。
逡巡したイズミは、覚悟を決める。此れから見せる物が〝切り札〟ならば、今こそ此処で切るべきだ。鞄から〝切り札〟を取り出すと、貞枝は足をすくわれたような顔をして、意外そうに目を瞠った。
「貞枝さん。――『化銀杏』を読みました。一緒に所収されている他の短編も読みましたので、ご本はお返し致します。貸して下さり、有難う御座いました。……ところで。感想を貴女にお伝えするという約束でしたので、僕ともう暫く話をしませんか?」
「和泉君たら、叔母さんを口説いても仕方がないでしょう?」
文庫本を受け取った貞枝が、くすりと笑う。揶揄混じりではあったが、其の笑みは何処か寂しげだ。以前にも、こんな笑みを見た気がする。一度目がいつのことだったか、イズミは時間をかけて思い出した。貞枝から『化銀杏』のあらすじを聞いた時だ。何だか苛めている気分になり、掛ける言葉に困ってしまった。
「貞枝さんは、お綺麗ですから。口説かれる方は大勢いらっしゃるでしょう」
「貴方って本当に、物語に出てくる美少年、芳之助と同じなのね。非道よ、和泉君」
貞枝は、ころころと笑い飛ばした。非道とまで貶されたイズミは、言葉の毒に吃驚する。悠然と微笑った美女の黒い眼は、地獄への道行きのように昏かった。
「和泉君。其れでは、姉さんに感想を聞かせて下さらない? 貴方はあの文学作品に触れて、どんな感想を持ったのかしら?」
「美しいと思いました」
負けじとイズミが伝えると、貞枝は虚を衝かれた顔で沈黙した。日差しの茜色に照らされた美貌に、驚きが血液のように通っていく。雅な一族が引き合わせた文学作品の感想を、イズミは心のままに口にした。
「――『化銀杏』。年の離れた亭主の事を、好きになれない不遇の妻、お貞。……正直な感想を言いましょう。挫折しかけました。お貞が、あまりにも愚痴を言うからです。数多の愚痴に込められた情念という魂に、僕は圧倒されました。正気と狂気の狭間に立たされ、常に倫理を問うような息苦しさから、読むのを止めてしまいたくなったほどです。……ですが」
イズミは、貞枝を屹と見る。お貞の名から一字を貰い、貞枝と名付けられた叔母を見る。凛々しく引かれた翠黛を、生娘のような初々しさの戸惑いで、ほんのり下げた女を見る。嗚呼、とイズミは息をついた。
――今度は、ちゃんと人に見えた。
「僕は、驚きました。息苦しいという感想が、見事に覆されたのです。鮮烈な感情の閃きが、物語の世界の色を変えました。先ほど僕は、狂気という言葉を用いましたが、そんな情念も含めて、お貞という女性の心も、言葉も、決断も、末路さえも、僕は美しいと思ったのです」
「やっぱり、非道ね。貴方は私の為に、嘘をついているもの」
「嘘ではありません。僕はこの物語に〝清らか〟を見出しました」
「清らか。清らかだと、貴方は云うの?」
「はい」
対峙した二人は、色の異なる瞳で見つめ合う。貞枝はイズミの心を測るように凝乎と息を詰めていたが、やがて日差しから目を背けるように、睫毛を伏せた。
「……和泉君。人の持てる感情には、予め量が決まっていると思うのよ」
「量?」
突然の、告白だった。イズミは、慎重に耳を傾ける。
「ええ。質量と云えばいいのかしら。人が誰かに悪い言葉を向けたとして、其れが意識的な悪であれ、無意識の悪であれ、悪意の言葉を受けた心は、少しずつ削れていく。ひとたび削れたならば、防衛本能が働くのかしら。傷ついた心を守る為に、人の感情は動いていく。責任転嫁や言い逃れなんて、いい例ではなくて? でもねえ、激しい感情は時として、己を守る以上の働きを、心に齎すとは思わない? 動いた感情が心を乱し、乱れた心を抑えようと律すれば、また感情が動いていく。此れを人は、葛藤と呼ぶのかもしれませんね。煩悶する姿は美しいのかもしれないけれど、私、あまり見たくはないわ」
「何故、ですか」
「だって、可哀相だとは思いませんか?」
貞枝は、笑う。何故イズミには判らないのかと言いたげに、やはり少し恨めしげに、謎めいた言葉を畳みかけていく。
「葛藤が、心を追い詰めている。追い詰められた数だけ感情が動き、其の質量を増していく。ねえ、こんな調子で感情の歯止めが壊れていってしまったら、いつか心という器を溢れ出して、身体中から溢れ出るかもしれないとは思いませんか? じわじわと心を追い詰められた、可哀想なお貞のように。――病を患うように、人を駆り立てていく感情を、葛藤と呼ぶのなら。ねえ、和泉君。……溢れ出した此の感情は、なんて名付けたらいいのかしらね」
唄うような問いかけに、イズミは返答を迷わなかった。
「判りません」
だが、本当は判っていた。貞枝の望む方向へ誘導された問いの答えを、言葉にしたくないだけだ。そんな心の動きは忽ち気取られ、貞枝は双眸をすうと細めた。
「和泉君。知っていますよ。貴方、優し過ぎるもの。平気で人に嘘をつく、罪作りな男の子。貴方は誰かを泣かせない為に、現の人を夢の言葉で誑かすのね。薄情者なのよ、貴方」
「貴女にどんな悪意をぶつけられようと、僕は僕です。イズミ・イヴァーノヴィチです。そして、貴女は呉野貞枝です。お貞の字から一字を貰い受けた、物語の一片のように美しい女性であり、僕の叔母です。人間です」
「人間」
「ええ。人間です」
「其の人間を指して、貴方は清らかと云ったのね」
「はい。清らかです。物語に清らかを見出した僕は、貴女にも同じものを見出しました」
「やっぱり、嘘ね」
貞枝は、取り合わなかった。イズミは、懸命に考える。
どんな言葉なら、伝わるだろう。だが、何を伝えたいのだろう。噛み合わない会話の意味すら、イズミには理解できないのだ。貞枝は、何が欲しいのだろう。イズミは、何がしたいのだろう。答えは、己の内にあるはずだ。
悲しそうな杏花の顔が、頭から離れないのは何故なのか。もし此れが執着と名の付くものならば、未知の感情の正体に、幽かでも手が届くなら。イズミは、其れを欲しいと思った。昏い深淵を湛えた瞳と、臆することなく見つめ合う。此の矜持が、嘘か真か。其の真偽は、己自身が決めることだ。
「僕は、貴女の名前を美しいと思いました。物語の登場人物の名を冠した貴女は、とても美しいと思いました」
「口がお上手ね」
踵を返した貞枝が、廊下を歩き去ろうとする。「貞枝さん」とイズミが呼び止めると、横顔だけで振り向いた貞枝は、にい、と口の端だけで笑った。
真っ赤に熟した日差しが、貞枝の全身を照らし出す。鮮血のような斜光を返り血のように浴びた妙齢の女の立ち姿は、イズミの胸に畏怖の念を掻き立てた。
まるで、然う、例えるなら――人を攫うという、異人のように。
「……杏花。もう少し、寝ていなさいな」
「……? 杏花さん?」
弾かれたように振り向くと、廊下の突き当たりにパジャマ姿の杏花がいた。頬に夕焼け色の紅を差して、不安そうにイズミを見つめている。
「お兄様」
か細い声に呼ばれたイズミは、杏花の元まで静かに駆け寄り、床に膝をついた。
「杏花さん、お身体の具合はどうですか」
「……」
杏花は、俯いた。灯が消えたように暗い表情だった。明るい笑みを終始絶やさなかった少女が、瞳に底知れぬ虚無を覗かせて、イズミと目も合わせない。不安を覚えたイズミが、杏花の両肩に手を添えると、糸が切れたように小さな身体が倒れてきた。胸板にぶつかった頭から、切れ切れの声が聞こえてくる。
「……お兄様。ごめんなさい」
「悪いのは僕の方です。貴女への配慮が足りませんでした」
「お兄様は、やさしいのですね」
「……ええ、僕は優しいのですよ」
同じ台詞を、杏花には一度言っている。イズミが杏花を子供扱いして、怒らせてしまった時の事だ。出逢った頃の快活さと、現在の憔悴しきった姿の乖離が酷く、痛ましさで胸が痛んだ。
「……お兄様。天麩羅、頼んでくれたのに、ごめんなさい」
「気にすることはありません。また食べに行けばいいのです」
「また、食べに行けるのですか。お兄様と」
「もちろんです。いつでも行きましょう」
「……では、私。お兄様が暮らしていた国の、ごはんを食べてみたいです。ろしあでは、どんなごはんを食べるのですか」
「そうですね……一つ挙げるなら、ボルシチでしょうか」
「ぼるしち」
「ビーツという赤いお野菜が入っています。見た目はビーフシチューのように見えるかもしれません。美味しいですよ」
「お兄様が、作ってくれるのですか」
杏花が、イズミのシャツに顔を埋めた。顔を上げた時には、笑顔が戻っていればいい。然う願いをかけながら「作りますよ」とイズミは答えて微笑んだ。
「お兄様の、おうちに……遊びに……行きたい、です」
「はい。仰せのままに、杏花さん」
イズミの首に、華奢な腕が巻きついてくる。しがみつくように抱きついてきた子供の体温を、イズミはしかと胸に抱いて座り続けた。
――背後に近づいてきた貞枝から、刺すような視線を感じた時だった。
杏花の体温とは対極に位置する、冷え切った異変に気づいたのは。
「……っ、杏花さん……少し、苦しいです」
イズミは、小さく咳き込んだ。杏花は、無言だった。無心にイズミの首を抱き続けて、細腕に力を込めている。
――首を、絞められている。
呼吸が辛くなって初めて、漸く事態を悟った。細い肩が喉笛に当たり、項と頸動脈を圧迫する腕の強さは、真綿で首を絞めるように、イズミの気道を狭めていく。鎮守の森で出逢った日に、杏花がイズミに告げた台詞が、脳裏に颯と蘇る。
――『らすこーりにこふは、人を、殺すのですか』
六歳の少女が発した言葉が、今になってイズミを戦慄させた時だった。
「……杏花、和泉お兄ちゃん、首が苦しいみたいよ」
貞枝の白く細い手が、イズミの背後から伸びてきて、娘の頭を撫でていた。
イズミは、はっとする。貞枝の声を呼び水にして、世界が時を刻み始めた。聴覚に音が宿り、蜩の鳴き声が聞こえてくる。
縁側から吹く生ぬるい風に全身を嬲られたイズミは、ゆらりと身体を離した娘の顔を、放心の体で見下ろした。
「杏花、さん……?」
「……好きな人には……こうするもの、なのでしょう……?」
然う囁いた声は虚ろで、イズミをぼんやりと見上げた瞳も、焦点が定まっていなかった。起き抜けのような眼差しだと思った時、其の通りの状況だったとイズミは気づく。小さな頭がふらりと傾いで、再びイズミのシャツにぶつかった。矮躯を受け止めたイズミは、顔だけで背後を振り返る。
「……」
今、助けられた。そんな気がした。
「だから言ったのですよ」
イズミを救ったかもしれない叔母は、涼やかに笑った。
暮れゆく夏空と風の音に、酷く似合いの艶美な笑い。嘲笑い。
――もう、人間には見えなかった。
「今日はもう、お帰りなさいな。イズミ・イヴァーノヴィチ。杏花の優しいお兄様。……其れでは、左様なら」
丁寧に告げられた別れの言葉が耳に残り、イズミの頭から離れなかった。




