清らかな魂 15
道場兼自宅を出ると、肌を突き刺すような夏の日差しで眩暈がした。
夏は好きだが、暑さは苦手だ。実に我儘な性格をしていると自覚はあったが、灼熱の日差しに皮膚がじりじりと炙られていく感覚が苦手なのだ。夏の風景の美しさは、日陰から眺めるに限ると思う。
「お兄様、お蕎麦です!」
よって、前方を指さした杏花が元気に叫んで、アスファルトを駆けていった時、暑さに参ったイズミは店を見つけられてほっとした。
呉野神社がある御山の近く、灰色の住宅街が拡がる区域は、最寄りの袴塚西駅に近づくにつれて、商店やマンションが増えてくる。目的の蕎麦屋は市街と民家の狭間辺りに位置していて、周囲に飲食店の類は一軒も無い。こんな所で営業しても流行らないだろうと要らぬ世話を焼きたくなるほど、外観は普通の家だった。涼めるのなら何処でもいいという捨て鉢な気分を抱いていたので、味には期待をかけていなかったが、克仁曰くなかなかの美味との事なので、少し楽しみにしていたのも事実だった。
暖簾をくぐって引き戸を開けると、蕎麦屋は意外にも繁盛していた。四つある四人掛けテーブルとカウンター席は客で程良く埋まっていて、壁には年季が油のように染みたメニューが横一列に貼られている。客の要望でメニューが増えたと判る眺めから、此の蕎麦屋の歴史と、日本的な侘び寂びを感じた。
空いたテーブル席へ杏花を座らせたイズミは、隣の椅子に杏花のポシェットと帽子を載せて、自らは対面の席に腰を下ろし、和綴じのメニューに手を伸ばす。
「杏花さんは、何を召し上がりますか? お子様ランチもありますよ」
イズミが子供向けメニューの頁を開いて見せると、杏花は頬を膨らませた。怒ると必ず、此の顔をされてしまう。杏花はイズミを屹と睨んで、ぱっと頁を変えてしまった。
「私は、もう決めているのです。天麩羅蕎麦を食べるのです!」
「貴女には量が多いと思いますよ。エビフライなら、お子様ランチにもついています」
「それは、天麩羅ではありません! 違うのです! 私は、天麩羅を、食べるのです!」
杏花としては、蕎麦のつゆに漬かる海老の天麩羅こそが天麩羅であり、お子様ランチのエビフライは、天麩羅ではないのだろう。そんな融通の利かない拘りが愛らしく、ひっそりと小さく笑ったイズミは、メニューをぱたんと閉じた。
「お兄様は、何を食べるのですか?」
「僕は天丼にします。こちらにも天麩羅が乗っていますよ。……ああ、すみません。天丼単品一つ、天麩羅蕎麦も単品で一つ、お願いします」
隣を横切った店員に注文すると、杏花は満足げに頬を緩めた。「天麩羅、天麩羅」と楽しそうに歌い始めている。あれだけぷりぷりと怒っていたのに、ころりと感情が変わっていた。余程楽しみにしていたと見える。
「なぜ貴女は、天麩羅に拘るのです」
「食べたかったからです!」
杏花は、華やいだ声で答えた。目がきらきらと輝いている。
「おはなし会には、お爺様とも行ったことがあります。その日の帰りに、お爺様が食べていたのが、天麩羅です! ……ですが、私はお子様ランチでした。量が多いから駄目と言われたのです」
「そうですか。リベンジですね」
「りべんじ?」
「ああ、すみません。今日こそは、天麩羅を食べられますね」
「はい!」
にこにこと笑った杏花が、再び「天麩羅、天麩羅」と小声で歌い始める。近くのカウンター席で新聞を読んでいた白髪の男が、ちらと此方を見て笑った。
今さらながら、青年と幼女という奇妙な取り合わせに、イズミは不思議な心持ちになる。幸せそうに歌う杏花の声に反応したのはカウンター席の男だけで、他の者は食事か、家族との会話に忙しいようだ。
子を持つ親は、様々な視線の中で生きている。今の視線は微笑ましげなものだったが、然うでない場合もあるだろう。今朝イズミが杏花を迎えに行った時に、貞枝に感謝された事を思い出す。貞枝も、伊槻も、屹度イズミには測り知れない気苦労の中で呼吸をしているに違いない。
「杏花さんは、おはなし会よりもご飯の方が楽しみだったようですね。おはなし会では、何か気になるお話はありましたか?」
「どれも楽しかったです。でも、大きな本が一番楽しかったです!」
「ああ。そうですね。あれは凄かったです。大人二人がかりで読むような本があるとは、僕も初めて知りました」
「お兄様でも、知らないことがあるのですね」
「もちろんですよ。先ほど克仁さんがお話された『鬼の角』も、初耳でした」
「鬼の角」
杏花が呟き、沈黙する。ふわりと穏やかな笑みを乗せた顔は、天使のようにあどけなかった。
「お兄様。あのお話は、まるでお兄様のお話のようですね」
「どういう意味ですか?」
「だって、お兄様は優しいからです」
対面に座った杏花が、身を乗り出す。そして精一杯イズミに顔を寄せてくると、両手で頬に触れてきた。
キスされた事を、思い出す。警戒したイズミは身体を固くしたが、杏花はイズミの戒めを覚えていたのか、単に其の気がないだけなのか、触れる以上のことはしない。ただ、何処となく寂しげに笑っただけだった。
「藤崎さんから、あのお話を聞けて良かったです。お父様が『女客』と『売色鴨南蛮』で、お母様が『外科室』、お爺様が『化銀杏』なら、私は泉鏡花のお話、『鬼の角』を選ぼうと思います」
「そんなに気に入ったのですか?」
「はい。気に入りました」
イズミは、静かな驚きを感じていた。
――『鬼の角』。
克仁が語った短編を指して、杏花はイズミのようだと言った。
其の言葉の意味を、今のイズミは判っている。
物語の登場人物が、善の心の持ち主だからだ。
イズミは、己が善人だとは思わない。だが、少なくとも悪人ではないだろう。杏花に優しく接していることも、自覚として意識している。
イズミは、杏花の瞳を見る。微かに潤んだ眼差しに、言葉を催促された気がした。克仁が教えてくれた物語を、杏花はもう一度聞きたいのだ。意思を言葉で確かめなくとも、『判らない』はずの心が『判る』。至極真っ当な人と人との交わり方を、己の半分も此の世で生きていない少女から、教えられたような気がした。
ねだられるまま、求められるまま、誘われるように――美しい鬼の物語を、イズミは語り始めていた。
「……『鬼の角』。心優しく慈悲深い商家の御隠居が、剽軽な性格の小僧と歩いていた時のことでした。節分の豆まきで追い立てられていた鬼と、小僧がぶつかってしまうのです。小僧とぶつかった鬼は、角の片方を落としてしまいます」
「はい」
杏花が、頷く。双眸が、細くなった。まだ、続きをねだっている。まるで女のようだった。六歳の少女とは思えぬ歪な婀娜っぽさを、イズミは瞳の中に見る。此の時感じた軽い眩暈は、夏の熱さか疲労の所為か、判断さえおぼろげなまま、イズミはただ語り続けた。
「御隠居は、鬼が落とした角を拾います。角を失くした鬼は、優しく慈悲深い性格へと変貌し、逆に角を得た御隠居は、鬼のように残虐非道な性格に、心が入れ替わってしまうのです」
「はい」
杏花が、頷く。まだ求めている。欲している。続きを聞きたいとねだっている。イズミは、其れに応えるだろう。他人事のように然う思った。『化銀杏』を、思い出す。貞枝の声が、蘇る。美少年の芳之助を、お貞は憎からず思っている。イズミも全く同じなのだ。愛の質は違っていても、求められたら応えてしまう。まるで、優しい鬼のように。
だから、杏花は、イズミを、兄と慕うのか。
「やがて鬼は、己の角を取り戻します。鬼の角は、冥界……鬼の住まう世界で、一種の威厳、地位を示します。それを失った鬼の為に、彼の仲間が協力して、御隠居から角を奪い返しに来たのです。――角を取り戻した鬼は、元の非道な鬼へと戻ります。角を手放した御隠居も、元の慈悲深い御隠居に戻ります。御隠居の自宅まで攻め込んだ鬼の軍勢も、小僧の機転によって追い出され、全ては元に戻ります。鬼は鬼へ、人は人へ。己の個性を取り戻し……物語は、終幕です」
「お兄様の話し方は、まるで夢のようですね」
「夢、ですか」
「はい。何だかふわふわしています」
「判りにくかったですか?」
「いいえ。好きです」
杏花が、言った。はっきりとした、意思が通った声だった。
「お兄様。今のお話を、私は〝清らか〟だと思いました」
「清らか」
――また、だった。イズミは、瞠目する。
子供の記憶は、移ろいやすい。幾ら文字が読めようと、大人びた話し方をしていようと、所詮は六歳の幼い少女。めくるめく日常の流れの中で、他愛ない会話の記憶は次々と塗り替えられていくだろう。出逢いの日の思い出は、頭の片隅から薄れていると、イズミは疑っていなかった。
だが、違った。杏花は全てを覚えていて、今も〝清らか〟に拘っている。
「杏花さんは、〝清らか〟という言葉が使えるようになったのですね」
「はい。綺麗な言葉は好きです。お兄様、もっと私に〝清らか〟を教えて下さいな。私は〝清らか〟をたくさん知りたいのです」
「何故、焦るのです」
「だって」
明るい笑顔に、陰りが差す。眉尻を下げた顔は、やはり少女の顔ではなく、艶美な女の顔に見えた。貞枝の顔に、よく似ていた。
「私は、お爺様に、あまり良く思われていませんから」
「……何故、そう思うのです」
「遊んでくれないからです」
杏花は、イズミの頬から手を離した。温もりが、離れていく。其れがとても寂しいことに思えて、イズミは手を伸ばしかけた。稽古場で見た家族連れの男が、妻の腕を取るように。引き留めて、何をする気だったのか。名前も判らない情動で、胸が少し苦しくなった。
「お爺様は、私とあまり遊んでくれません。多分、私がいけない子だからです。良い子でなければ、お爺様はご本にも触らせてくれません。……お兄様。お兄様のご本では、魂が〝清らか〟な女の人が出てきます。お兄様は私のことを〝清らか〟だと言ってくれました。その女の人のように、私も〝清らか〟ですか?」
「ええ。清らかです」
「では、あとどれくらい〝清らか〟になれば、お爺様は私と遊んでくれますか?」
「……」
「私には、わからないのです。お母様も、お父様も、お爺様とおんなじように、美しいものが大好きです。私がもっと〝清らか〟になれば、お爺様は私と一緒にいても、怒ったみたいな顔をしないで済むでしょうか。お父様も、もっと私と遊んでくれるでしょうか。……お父様も、最近は、私と遊んでくれないのです」
「……杏花さん。一つ質問があります」
イズミは、感情を殺した声で訊いた。
もう限界だったのだ。判らないことが、辛いのではない。杏花の声が、辛かった。こんな台詞を聞かされて尚、何の感情も動かぬほどに、心が枯れた心算はなかった。
――可哀想だと、思ってしまった。
此の告白は、六歳の少女に依るものなのだ。こんなにも小さな身体で、考え、思い悩み、模索して、漸く弾き出した結論が、〝清らか〟さを極めること。
此れでは、あまりにも――杏花が、孤独で、寂し過ぎる。
「貴女が、克仁さんに自己紹介をした時に、僕は驚いていたのです。名乗る名前を選んだ理由を、僕に訊かせてもらえませんか」
「ああ」
杏花が、笑った。何かを、観念したように。
「氷花と、言ったことですか」
「……はい」
「お兄様、私には名前が二つあるのです。おうちに居る時は〝杏花〟。お外に居る時は〝氷花〟。使い分けるように言われています」
「何故、ですか」
「わかりません」
笑い声が、楽しげに弾んだ。悲しみの気配が羽のように軽くなり、イズミはただ驚いていた。何が杏花を救ったのか、理由が判らなかったのだ。
「私がこうしていたら、皆が笑ってくれます。お爺様もです。お母様も、楽しそうに笑ってくれます。……お父様は、少しだけつまらなそうです。でも、皆で楽しく遊ぶのが、私はとても好きなのです」
「……」
「お爺様は、本当は。もっと、とても優しい人です。おはなし会にも、連れて行ってくれました。天麩羅も、少しだけ分けてくれました。お爺様は、本当は。もっと、笑う人なのです。知っています。神社の素敵な服を着て、お外を歩くお爺様は……いろんな人に、笑っています。少しだけ、笑っています。……お兄様。お爺様の笑顔も〝清らか〟です。お兄様と、少し似ている笑い方をしています」
「……」
「お父様も、本当は。もっと、とても優しい人です。今も優しいお父様ですが、前の方がずっと優しいお父様でした。今は、少し寂しいです。お父様の〝清らか〟を、私は見つけなければいけないと思います」
「……」
「お母様は、一緒にいて一番楽しいです。幼稚園の友達といる時も楽しいですが、お母様の方がいいのです。お母様も、笑ってくれます。遊んでくれます。私と、一緒にいてくれます。……でも、私。お兄様が、一番好きです」
「……何故、ですか」
「それは」
杏花が、何かを言いかけた。
まさに其の時、店員が蕎麦と天丼をテーブルに運んできた。杏花の視線が、ぱっと移ろう。丼から覗いた海老の尻尾に気づいたのだ。「天麩羅」と華やかな声を上げて、ぴょこんと身体が兎のように軽く弾む。
すると、横合いからくすりと笑い声が聞こえてきた。
イズミが横目に様子を窺うと、カウンター席に座った年配の男と目が合った。杏花が歌っていた時に、微笑ましげに見守っていた人物だ。イズミが会釈すると、男もにこりと微笑んだ。
其の瞬間に流れ込んできた男の心を、イズミは忽ちのうちに理解する。予感を裏切らない正確さで、男は何気ない調子で話しかけてきた。
「君、以前に神社の石段で、ゴミを拾いながら下りていた子でしょう」
「僕を知っているのですか」
「ええ。覚えていますよ。感心しましたから」
父と二人で神社から帰った時のことだろう。何しろイズミの容貌は奇抜なので、こういった声掛けには慣れていた。
だが、男が杏花に目を向けて、「そちらの子は、神社の神主さんのお孫さんでしょう」と言った時には、不意打ちだったので驚いた。
「杏花さんの事も、知っているのですか?」
「はい。よく境内に散歩に行くもので。あそこの神主さんや若い奥さんとも顔見知りで、お嬢さんと一緒に歩いているところも、たまに見かけるんですよ」
男が朗らかに笑うと、雰囲気が克仁と似通った。子供を愛する大人の貌は、皆一様に慈悲深い。此れもまた、杏花の言う〝清らか〟だろうか。そんな風にふと思い、イズミは杏花を見下ろした。
杏花は瞳を煌めかせて天麩羅蕎麦を眺めていたが、イズミが見知らぬ男と行きずりの会話に興じていたからだろう、きょとんと愛らしく小首を傾げた。
小動物のような仕草を見て、男が円やかに微笑んだ。手元の新聞紙を折り畳んで、穏やかな口調で訊ねてくる。
「お嬢ちゃん、こんにちは。お名前、自分で言えるようになったかな?」
「はい!」
杏花が、元気いっぱいに返事をする。目の前に念願の天麩羅があるからだろうか、声には明るい張りがあった。会話相手が笑ってくれたことも嬉しいのか、満面の笑みで割り箸を握り締めた杏花は、唇を開いた。
――〝内〟は杏花。〝外〟は氷花。
杏花は当然、後者の名を名乗るだろう。イズミは特に気負うことなく、杏花の言葉に耳を傾けていた。
だが――失念、していた。
杏花が、まだ六歳の少女であることを。
十八歳のイズミでさえ、己の全ての行動に責任を持ち、間違いを犯さず生きていくなど不可能だ。生きている限り、失敗と不手際は己の影のように付き纏う。器用さで其れを手当し、切り抜ける道を模索しながら生きている。
よって、此の時。杏花が、名乗る名を間違えたのは――いつか必ず訪れたであろう〝アソビ〟の終焉を予感させる、象徴的な出来事だった。
「呉野、杏花です!」
名乗り終えた直後から、無邪気な笑みが、凍りついた。
杏花の手から、割り箸が落ちる。テーブルを叩く乾いた音が、異様に大きく響き渡った。空っぽになった小さな手が、ぱっと口元を押さえる。指先が、蝋のように白い。
「……。僕の、妹です。僕は、呉野和泉と申します」
イズミは、やむなく然う名乗った。悩んだ末の名乗りだったが、今は然うすべきだと感じたのだ。
然うでなければ、イズミは、杏花を、庇えない。
「妹……ですか。君が……兄?」
「はい。僕はクオーターですから。日本人の血も混じっています。兄ですよ」
イズミは、真実と虚構を織り交ぜる。少し早口になっていた。自分でもなぜ焦っているのか判らない。ただ、杏花から目を背けてほしかった。幼さ故の失敗を、無かったことにしたかった。此処で見逃してもらえなければ、〝アソビ〟が壊れてしまう気がした。
國徳の顔が、脳裏を過る。ふとした瞬間に突き上げるような感情の起伏を見せた祖父の言葉が、イズミの肝を冷やしていく。
――『凍れば、永遠。故に、供花は、氷花になる』
次に思い出した台詞は、呉野貞枝の言葉だった。凛と唄うような予言の声が、胸騒ぎを掻き立てた。
――『杏花は、氷花に喰われてしまう。左様なら、杏花。せめて手向けの花となって下さい』
カウンター席の男は、不思議そうにイズミと杏花を見比べてから、訳ありと判断したのだろう。「仲が宜しくて、結構ですなあ」と無難な感想を述べた。
「ええ。有難う御座います」とイズミも当たり障りなく答えてから、杏花に視線を戻して――息を呑んで、立ち上がった。
「杏花さん、どうしましたか」
杏花は、俯いていた。蕎麦の丼に前髪が付きそうなほど身体を前に傾けて、割り箸を拾おうとした姿勢のまま、真っ白な握り拳に力を込めて震えている。
イズミは、急いで駆け寄った。カウンター席の男も顔色を変えて、「大丈夫ですか」と張り詰めた声を掛けてくる。返事をする余裕はなかった。「杏花さん」とイズミは杏花の名だけを呼んだ。
「おにいさま、気分が、悪い、です」
「無理をしないで下さい、杏花さん。どこが苦しいですか?」
杏花の身体から、力が抜けた。手を伸ばしたイズミは、幼い身体を引き寄せる。手の甲が丼に当たり、鈍い痛みがじわりと拡がる。蕎麦のつゆが少し跳ねて、つ、とテーブルの縁に雨垂れのように伝い落ちた。
細い肩は、熱かった。夏の熱気を吸ったような体温に触れて漸く、イズミの心に明確な動揺が駆け抜けた。
「杏花さん、もう少しの間、辛抱して下さい」
「おにいさま」
譫言のようにイズミを呼ぶ杏花を担ぎ上げて、イズミは手つかずの丼に背を向ける。そして、気遣うような眼差しの男を、振り返る暇さえ惜しんで――店の奥へと駆け出した。
――思えば、此の時が。
呉野杏花と過ごした夏の、最も〝清らか〟な時間であり、其の終わりが訪れた、決定的な瞬間だったのかもしれなかった。




