清らかな魂 13
呉野家に戻ると、立てつけの悪い引き戸の音で気づいたのか、貞枝がすぐに出迎えてくれた。
杏花は母の姿を見ると「お母様」と嬉しそうに呼んで駆けていったが、娘を抱き留めた貞枝の方は、イズミをちらと見て意地悪く笑った。
其の表情を認めた途端、イズミは全てを悟っていた。
「貞枝さん。貴女も覗き見をしていたのですね。場所は、屋根裏部屋の窓といったところでしょうか」
「扨て、何のことかしら」
いけしゃあしゃあと貞枝は言う。黒い双眸は狐の目のように弧を描き、犯行を隠す気がないのは明白だ。イズミは、少しばかりむっとした。
「貴女は一体、どういう教育をしているのです」
「意外ときつい云い方をするのね、和泉君。叔母さん、とても寂しいわ」
「寂しい思いをするのは、貴女ではなく杏花さんですよ」
さっと周囲に視線を走らせて、伊槻の不在を確認する。イズミは声量を絞った早口で、貞枝に面と向かって陳情した。
「将来、己の安売りを後悔するのは杏花さんです。戒めるのが母の務めというものです」
「まあ。高校生の男の子から、そんなお説教をされるだなんて。和泉君、貴方って本当に真面目なのねえ」
「貞枝さん」
本題からずれている。然う言い返しかけたが、もう反論は止そうと思った。貞枝の方が上手なのだ。イズミが敵う相手ではない。
「……では、もういいです。國徳御爺様に呼ばれておりますので、これからお会いしてきます。どちらへ進んだら宜しいでしょうか」
「ご案内しますよ。どうぞ此方へ」
杏花の身体を離した貞枝が、ロングスカートを翻して、廊下を静々と歩き出した。イズミが貞枝についていくと、上り框に一人残された杏花が、手をひらひらと振ってくれた。
「お兄様、いってらっしゃいませ」
律義な子だと思う。イズミも振り向きざまに「はい、行ってきます」と慇懃に答えると、此方に横顔を見せた貞枝が、赤い唇の端を持ち上げた。長い黒髪が一房、紺色のブラウスの肩から滑り落ちる。艶を弾く髪は麗しく、妖怪変化の如き艶美さだ。
「随分、仲良しになったのですね」
「ええ。とても良いお嬢さんです。ですが、僕以外の人にも同じような事をするのではないかと心配です」
「あら。同じような事って何かしら?」
まだ、からかう心算なのか。イズミは失礼を承知の上でだんまりを決め込もうと考えたが、不意に此れが絶好の機会だと気がついた。前を行く貞枝の背中へ、思い切って訊ねてみる。
「貞枝さん。これは一体、どういうことですか」
「これ、とは?」
貞枝が、愉快げに笑った。背後を盗み見たイズミは、杏花の姿が消えている事を確認しながら「貴女には、僕の質問の意味が判るはずです」と小声で問うた。
「あの子は、呉野氷花さんのはずです。何故、皆が揃って杏花と呼ぶのです。氷の花で氷花なのだと、貴女が僕に教えたはずです」
「驚いたわ。覚えていたのね」
貞枝が、イズミを振り向く。驚きと喜色が入り混じった笑みが、此方へ悪戯っぽく向けられた。
「ええ、そうよ。あの子の本当の名は、呉野氷花。貴方の記憶に、間違いはありませんよ」
「では、何故です。貴女も、伊槻さんも、それに氷花さん自身まで」
「そういう〝アソビ〟だと思ってくれたらいいのよ、和泉君」
廊下を進む足を止めないまま、貞枝が言う。歩くたびに、木の床板が軋る音がした。傾き始めた日の光が縁側から射し込んで、古めかしい日本家屋を橙色に染めている。甘やかさを含んだ盛夏の夕暮れ時の匂いが、蜩の声を誘い出す。此の家に来てから、其れなりの時間が経過したのだ。
「……〝アソビ〟?」
イズミは、訊き返す。
其の言葉は奇しくも、イズミの抱いた印象其のものだったからだ。
「ええ。此れは〝アソビ〟。――和泉君。私の娘を、あの場で杏花と呼んでくれた事に感謝します。伊槻さんはあまり乗り気ではない〝アソビ〟だから、つい一緒に文句を云ってくれそうな同胞探しをしてしまうのよ。御免なさいね。厭な目だったでしょう? あの人、お喋りのお相手が欲しいだけで、悪い人ではないのよ」
「……。それは構いませんが、何故です。何故そのような遊びをするのです」
「ふふ、何故かしら」
貞枝は、笑ってはぐらかした。其の誤魔化しが、イズミにはもどかしかった。
「教えては、頂けないのですか」
「いいえ、教えますよ。でも、私から聞かなくとも、國徳御父様が説明をして下さると思いますよ?」
「御爺様が?」
イズミは、密かに驚いた。
少女を、杏花と呼ぶ〝アソビ〟。厳格な印象の國徳も、其の行為に加担しているのだろうか。首筋に触れた薄ら寒さを振り切って、イズミは貞枝を屹と見る。
此れから謁見する國徳に、事情を訊けるのだとしても、目の前の貞枝もまた〝アソビ〟の秘密を知っているのだ。直接訊かない手はなかった。
「何故、僕は呼ばれたのですか。用があったのは、御爺様の実子であり、僕の父であり、貴方の兄であるイヴァンだけだと思います。孫の僕は、添え物のはずです」
「貴方は本当に、質問ばかりなのねえ」
くすくすと、貞枝が笑った。馬鹿にされた気もしたが、あまり腹は立たなかった。真実を知りたいという性急さだけが、此の時のイズミの全てだった。
答えを待つ為に口を噤むと、長い沈黙が場に降りた。此れでは臍を曲げたようにも取られかねないが、貞枝はイズミが機嫌を損ねたとは思っていないのか、其れとも何も考えていないのか――ふと唐突に、感情の濃淡を消した声で、イズミに言った。
「……ねえ、和泉君。貴方は、私達と文学の話をしたでしょう。其の時の鏡花談議で挙がったタイトル、貴方は今も覚えていますか?」
「はい? ……ええ、覚えています」
突然の問いに面食らいながら、イズミは頷く。廊下の角を曲がると、日の光が遮られた。縁側から少し離れただけで、廊下にはあっという間に薄闇が迫る。日中の暗がりが思いのほか静かで不気味で、イズミは無意識に息を詰めながら、前方をゆるゆると歩く貞枝に言った。
「伊槻さんも貞枝さんも、何作品か挙げられましたが、最終的に貴女がまとめる形で述べたタイトルは……伊槻さんが『女客』と『売色鴨南蛮』、貞枝さんが『外科室』、そして御爺様が……確か、『化銀杏』」
「ええ。そうよ、『化銀杏』!」
貞枝の語調が、不意に強くなった。
イズミは、吃驚する。怒りか、其れとも感嘆か。気の昂ぶりが判るだけで、其の激情の名が判らない。爆ぜた感情を目の当たりにして初めて、貞枝が胸中に秘めた情動の存在を漸く知った。そして強引に知らされて未だ尚、此れまで狐面の笑みを崩さなかった女が、情念の刃を騙し討ちのようにイズミへ差し向けたことが信じ難かった。
気圧されて黙るイズミを、貞枝が緩やかに振り返った。薄闇の中で嗤う貌は、やはり幽鬼のようだった。
「貴方がイズミで、私の娘がキョウカ。イヴァンお兄様だけは、名付け親が貴方のロシアの御婆様……ソフィヤさんだったそうだから、違うというだけの話であって。呉野國徳の娘である私が、ねえ、文学的な名を頂かないというのでは、其れでは全く、道理に合わないとは、思いませんか……?」
「……何か、由来があるのですか? 貞枝さんという、貴女のお名前には」
慎重に、イズミは訊いた。貞枝の感情を此れ以上刺激しないよう、腫物に触れるように、同時に、其の扱いを表には出さぬよう気をつけながら、然う訊いた。
そんな配慮の声を受けて、貞枝が酷薄に微笑んだ。
「貴方に『化銀杏』のお話を、少しだけ聞かせてあげましょうか」
よく通る声に、自嘲の響きが滲む。其の声は、今までイズミが耳にしてきたどんな声より、卑屈な色を含んでいた。
「――お家の事情で、十四歳という若さで十歳以上も歳の離れた男と夫婦になった少女、お貞。お貞は二十一歳になっても、年上の旦那さんの事がどうしても好きになれなくてねえ。お家に下宿している美少年、芳之助に、旦那さんへの不平不満を、延々と聞いてもらうのよ。とても愉しそうに。少女のようにきらきらして。其の芳之助という子の事を、憎からず思っているのね。ふふ」
「……」
「ああ、あと。お貞は黒髪を丸髷に結っているのよ。銀杏返しにも結いたいけれど、旦那さんにいけないって云われているそうよ。だからお貞は、髪を丸髷に結っている」
「丸髷。……銀杏返し」
台詞を復唱して、イズミは頷いた。
丸髷も銀杏返しも、昔の日本人女性の髪の結い方を指すはずだ。其処までならかろうじて知識があったが、具体的な写真の記憶にまでは結びつかなかった。
「髪の結い方が、今のお話と何か関係があるのですか?」
然う訊ねると、「ええ」と貞枝は肯定した。イズミが問いを投げかけることを、あらかじめ知っていたかのようだった。
「さっき云った、お貞のいい人。美少年の、芳之助。彼にはお姉さんがいたのだけれど、もう亡くなっていてね。其の人は髪を銀杏返しに結っていたそうなのよ。其れで芳之助は、お貞が髪を銀杏返しに結っている時は『姉様』、髪を丸髷に結っている時は『奥様』という具合に、お貞の事を呼び分けていたのよ。……残酷なことよねえ」
貞枝は、皮肉げに笑った。
「……」
イズミは、何も言わなかった。相槌を打たずに、敢えて会話を止めにした。多少の我は殺してでも調和を選ぶ、イズミ・イヴァーノヴィチらしくない。自覚はあったが、己に居心地の悪さを齎した原因に気づいたからだ。
貞枝の文学講釈が、どうにも聞きにくかった所為だ。
其の聞きにくさが何に由来しているのか、其方の理由も判っていた。
貞枝の感情が、多分に混じっている所為だ。
其れも、恐らくは――良い感情ではないのだろう。
作中のお貞が、美少年の芳之助に愚痴を零したというのなら、『化銀杏』の話をすると言いながら、己の感情という毒を織り交ぜた貞枝の言葉はどうだろう。
貞枝は、イズミに小説の概要を話したいわけではない。
愚痴を、言いたいだけなのだ。
「貞枝さん。御爺様を、お待たせしています。……急がなくては」
「……やっぱり、真面目なのねえ」
貞枝は、くすりと笑った。其の美貌の向こうに、ぴたりと閉じられた障子戸が見える。屹度、此処に國徳がいるのだ。今すぐに貞枝を追い抜いて、ほとんど会話を交わしていない祖父の元へ逃げ込みたかった。此の実のない会話を一刻も早く打ち切る為なら、何処にだって行きたかった。
「和泉君。丸髷はね、此の当時の日本人の、既婚女性の間で代表的な髪型なのよ。対する銀杏返しは、未婚の小娘や芸者の髪型として広まっていた歴史があるわ」
「……」
「銀杏返しの時にしか姉様って呼んで貰えなくて、其れ以外は奥様。お貞さんとも呼んでくれない。そんなのって、あんまりじゃないかしら?」
「……。貞枝さん」
「そんな美少年に、お貞は言うのよ。旦那さんの愚痴を。次第に興に乗りながら、次から次へと陰口が溢れ出る。遊びも知らない勤勉な旦那さんを、どんどんと貶めて、こき下ろしていく。そんな姿を、ねえ、心憎からず思う少年に、陰弁慶だなんて云われちゃあ、心も壊れるというものよね。……気持ちが判らないわけじゃないのですよ。私は」
「……お貞は、どうなるのですか」
「さあ? ……でも、和泉君」
貞枝が一度、言葉を切る。
そして、莞爾と。狐面の貌で、こう言った。
「此れで、判ったのではなくて?」
「……」
物語の結末は、当然だが知る由もない。
其れでも確かに、貞枝がイズミに伝えたいことだけは、理解した。
貞枝は薄暗く微笑むと、煙管から棚引く紫煙のような厭世観を唇に乗せて、イズミに囁いたのだった。
「私は、貞枝。――『貞』の字を、お貞から貰い受けた貞枝。私の名前は、『化銀杏』で狂おしい情念に取り憑かれた、女の名前が由来なのですよ」
「……貴女は、それがお厭なのですか?」
「ええ、厭よ。打っ棄ってしまいたいくらい」
「名前は、打っ棄ることは出来ません」
「そうねえ。じゃあ、名付け親の御父様を、恨めばいいのかしら?」
「何がそんなにも、お厭なのですか」
イズミは、訊いた。もう何も訊くまいと思っていたが、気が変わったのだ。
貞枝は恐らく、感情の機微に敏感だ。イズミが此の会話を厭い始めている事など、とうに看破されているだろう。
たとえ然うだとしても、イズミは胸中に湧き上がった感情を見過ごせなかった。屹度美しいに違いない文学を、否定された気がしたからだ。
ささやかな義憤に駆られたイズミの心を、貞枝がどう捉えたかは判らない。ただ、つと此方に向けられた眼差しは、意外にも優しい憂いに包まれていた。なぜ判ってくれないのかと、思慮の浅い情夫を恨めしげに詰るように、黄昏時が迫る廊下の夕闇で、貞枝は目を細めて微笑っている。
まるで、観念するように。
――観念小説。
そんな言葉が脳裏を掠め、不意を打たれた気分になった。
「……私は、此の物語があまり好きではないのですよ。だって、私のようなんですもの。名前の由来の人物がいて、其の女は陰弁慶。好きになれという方が無理な話ではなくて?」
貞枝の声が、耳朶を打つ。一瞬の不思議な感慨は、其のまま意識の片隅へ、夏の川面に浮かぶ木の葉のように、緩やかに流れ去っていった。
「……貞枝さんは先程、僕に本を貸して下さると仰いましたね」
「ええ。云いましたよ」
「僕は、真っ先に『化銀杏』を読ませて頂こうと思います。そして、その感想を必ず貴女へ伝えに来ます」
貞枝が、足を止めた。振り返る所作が、鼻腔に花の香りを運んでくる。飴色の薄明りに支配された廊下に茫と立った美女と、イズミは真っ向から対峙した。艶やかな赤に濡れた唇が、簡素な言葉を紡ぎ出す。
「ええ。いいわ」
少し恐い返事だった。笑みを絶やさなかった妖女が初めて、顔から笑みを消していた。背筋に氷を流し込まれたような怖気を感じたが、柄にもない喧嘩を自ら売っておきながら、臆病風に吹かれた顔は見せたくない。意地と覚悟で作り上げた無表情の仮面を張り付けて、イズミは貞枝と見つめ合った。
静かな根競べに、先に飽きたのは貞枝だった。
整った顔に、笑みが戻る。人を食ったような、狐面の顔。イズミが最も苦手とする、呉野貞枝の笑みだった。
「……。其れじゃあ私、本を取って参ります。貴方の御爺様のお部屋は、其処の和室です。和泉君、いってらっしゃい」
「……はい。有難う御座います」
イズミは、貞枝の横を通り過ぎる。生暖かい風が、すうと流れた。輻射で温められた廊下を一人で進み始めたイズミの横顔を、貞枝の流し目が追ってくる。障子戸の前に辿り着いたイズミは、床に粛々と膝をついた。
そして、少し離れた所に立つ貞枝の存在を気にしながら――イズミは室内の老人に聞こえるように、心持ち大きな声で呼びかけた。
「御爺様。失礼いたします。イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノが参りました」
しんと束の間、静寂が満ちる。蜩の声が、黙を喰らった。
やがて「入れ」と短くしゃがれた声が聞こえたので、イズミは障子戸の合わせ目に手を掛けると、ゆっくりと横へ滑らせた。
そして――其れらを、見た。
正面から、風が吹く。廊下に蟠る夏の熱気を、御山の清涼な風が洗っていく。イズミの頬を、赤い花びらが掠めていった。東袴塚学園高等部の制服にも、様々な色彩に染まる夏の花が吹き付ける。
山中異界に通じるような静謐な香りを纏う風が、花を運んできたのだろうか。
頭では、判っていた。そんな理由では、無いのだと。
「……来たか」
朴訥な声が掛かった時、イズミは動けなかった。少し離れた所にはまだ貞枝が立っている気配を感じたが、其方を振り返る余裕はなかった。
眼前に拡がる風景に、心を攫われてしまっていた。
「……。ごゆっくり」
足音が、静々と去っていく。遠ざかる床板の軋みを耳に入れながら、「はい」とイズミは返事をした。
去りゆく貞枝への、返答ではない。
和室の最奥に座した男への、返答だった。
「……。御爺様、お久しぶりです」
ありきたりな台詞の他に、声の掛け方を知らなかった。頭を下げるイズミへ、対面の男は「中に入れ」という簡素な指示だけを投げて寄越した。
ぞんざいとも取れる言葉からは、情動を感じられなかった。男が怒っているのか、或いは別の感情を持っているのか判らない。顔を上げたイズミが男の瞳を覗き込んでも、目と目が合うだけで何もなかった。
何一つとして、判らない。
――其れが、嬉しかった。
感動なのか、其れともイズミがまだ知らない衝動なのか、込み上げた想いの熱さで息が詰まる。積年の呪縛という赤い帯がするすると解けて床に落ちるような、紛れもない安堵がイズミを包んだ。
他者の心が判らないという事は、なぜ此れ程の不安と、そして相反する安堵をイズミに齎すのだろう。思考を哲学の海に浸したイズミは、花の香が漂う和室に入り、畳に正座してから足首を立てた跪坐の姿勢で、障子戸を閉ざした。
夕闇が迫る八畳間に、明かりは点いていなかった。障子窓からは焔の色をした日差しが入り、竜胆の如き青紫色に沈む日陰が、和室に濃い陰影を描いている。用意された座布団の傍へ、イズミが膝行の動作でにじり寄ると――名前も知らぬ赤い花が、再び頭上から舞い降りた。
肩に載りかけた紅色を、イズミは軽く身を引いて避ける。男の眉が、微かに動いた。朝露を蓄えた花のように揺れた感情の残滓を追うように、イズミは男を見つめ返す。男の見事な白髪にも、鬼灯のように赤い花が、音もなく舞い落ちるところだった。
短髪に触れかけた赤い花を、男は機敏な所作で振り払う。群青色の浴衣から伸びた腕は、枯れ枝のように痩せていて、薄い筋肉が透けて見えるようだ。座った身体を以前よりも小さく感じたのは、男が僅かながら背中を丸めている所為だろう。其れでも孫を持つ年齢にしては姿勢が良い部類に入るはずだが、軍人を彷彿とさせる立ち姿を見ていただけに、痛ましさが胸を刺した。
國徳は、確実に老いていた。イズミと会わなかった時間の分だけ、日々の歩みという足跡を、人生に刻み続けていた。
郷愁が、不意を衝いて胸を打つ。再会した父の首筋に、老いの影を見つけた時のことを思い出す。
だが、六年の歳月を経ても尚――瞳だけは、変わっていなかった。
己に厳しい自戒を強いているような双眸には、イズミがまだ見ぬ矜持が在った。時の流れに左右されない強靭さが、今も神職の男の瞳で、青白く燃え盛っている。
むしろ、其の双眸は――以前よりも、強い光を宿していた。
此の会合は、イズミと國徳の両者にとって、劇的なものとなるだろう。何しろ、互いに隠し事を止めたのだ。知らんぷりを止めた時、互いは何を語るのか。イズミは当事者の片割れでありながら他人事のように構えていて、同時に微かな高揚を、己の胸中に認めていた。案外、ただ緊張しているだけかもしれない。
天邪鬼な己の思考は、己であっても掴みにくい。人の感情とは、難儀で、複雑怪奇で、不可思議で――面白いものだと、イズミは思う。
「御爺様、改めまして。イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノです。御無沙汰しております」
居ずまいを正したイズミは、深く頭を垂れた。頬や目元に掛かった灰茶の髪の向こう側で、色彩豊かな花が見える。
――茎は、やはり無かった。
「見えているんだろう」
唐突に、國徳が言った。
イズミは、面を上げる。そして、感情が読めない男の問いに、此方も相手からすれば感情が読めないに相違ない声で、「はい」と明瞭に返事をした。
「見えています。この和室に降りしきる、たくさんの花が。この花達は、お庭で切り落とされていた花たちとはまた違いますね。茎のところで切られているという姿かたちは同じでも、言うなれば魂が異なります。彼方は誰にでも『見える』現の花ですが、此方は限られた者にしか『見えない』夢の花です」
「奇矯な云い回しを好むのは、一体誰の影響か」
「お察しの通り、あの御仁の影響です。日本人の父として、僕は彼がとても好きです」
鎌をかけた心算だった。克仁について仄めかした時、國徳はどんな反応を示すのか。興味と茶目っ気が湧いたのだ。
だが、高校三年生レベルの駆け引きなど、老成した大人の前には遊戯同然のようだった。國徳は「座れ」と言ってイズミに座布団を勧めると、軽く俯いたまま息をついた。其の溜息に乗せるように、ぼそりとしゃがれた声が漏れる。
「気に食わん。和泉。判っているのであれば、わざわざ訊くこともなかろう」
「判ってなどおりません。僕は何も知らないのです。克仁さんとはその件について、お話したこともありません」
「一度もか?」
「はい」
「では、頃合いを見て一度話しておいた方がいい。十八の青年と、大人の男だ。向こうも判っとるだろうから、拗れはせんだろう」
「そうでしょうか」
「何を怯えることがある」
國徳が、イズミを見た。鷹のように鋭い眼差しだった。
「一目見た時から、貴様の事には気づいていた。其れでも私が何も云わなかったのは、和泉。貴様と会うことは二度と無いと思ったからだ。耄碌していたんだと思う。今の方が、良く判る。一度衰えたと思っていたが……厭な因縁だと思う」
苦々しさを含んだ声は、微かな諦観を帯びていた。
目の前に座る男は、人形ではない。イズミと同じく血の通った、生身の人間同士なのだ。恐れることなど、やはり無かった。勢いを得たイズミは、國徳の顔を見据えると、漸く相まみえた〝同胞〟との会話に、意識の全てを集中させた。
「克仁さんは、僕に何も明かしていません。ですが、互いに判っています。理由は、互いの事が『判らない』からです。中には『判りにくい』という非常に曖昧な相手もいますが、それは各々の人間に対する相性、個人差の問題だと僕は考察しています。――それでも僕が、はっきりと『判らない』相手だと認定した相手は……一人目は、僕の父、イヴァン。二人目は、僕の第二の父であり、貴方の友人でもある、藤崎克仁さん。……そして。三人目は、貴方です。御爺様」
「……」
「御爺様。僕は、貴方の事が『判りません』。少しどころではなく、全くです。初めてお会いした時からそうでした。ですが、あの頃には今ほど確かな実感を持てませんでした。あの頃の僕は、今よりもずっと子供でしたから」
「……いつから、己の異能に気づいていた? 其の云いようだと、物心ついた時からというわけでもなかろう」
國徳が、訝しげに顎を引く。イズミは、微笑んで答えた。
「小学生の、高学年の頃です。此処で御爺様と出逢うよりも、少し前の出来事がきっかけでした。僕が日本へ渡る前に、僕の父と母は酷く言い争っていました。僕があの時『見た』ものは、母の心でしょうか。あるいは、別のものでしょうか。ともあれ、僕には母の感情が、とても美しく『見えた』のです」
あの日、サンクトペテルブルクのアパートの一室で、イズミは確かに『愛』を見た。父であるイヴァンと決別を選び、母国に残してきた家族は、イズミ・イヴァーノヴィチを愛している。あの日『見た』神々しさが、子供の夢とは思えなかった。ましてや思慕の情を過度に美化した、記憶の幻影とも思えない。あの瞬間の母に手を差し伸べたなら、部屋に射し込んだ輝かしい月光に、己の魂も染まると思った。
「何故、云わなかった」
國徳は、イズミに問うた。喉という発声器官の衰えを感じさせる、酷く掠れた声だった。其れでいて声には意思の芯が通っていて、駆け引きめいた対談に思考を巡らしているのは相手も同じなのだと思うと、ふっとイズミは破顔した。
――いつか、誰かに打ち明ける日が訪れる。
予感は、あった。其の『いつか』が、こんなにも急だとは思わなかった。
「当時、僕たち家族の仲は険悪でした。原因は父から聞かれているかと存じますが、僕の進路の問題です。揉め事の渦中にいる僕が、他愛のない世迷言で両親の心を乱すのは、親不孝な行為だと思います。……いえ」
言葉を切ったイズミは、本当の理由を告白した。
「僕は、日本行きを父に提案された時、克仁さんの家に居候をしながら学校へ通うという生活に、とても魅力を感じました。しかし、僕が精神の異常を訴えて両親の不安を煽ったならば、僕の日本行きは流れたはずです。……僕は、打算で黙っていました。それに、両親以外の他人に、僕の目に『見える』ものを打ち明けたとしても、扱いは嘘つきか異常者の二択でしょう。日々の生活をより良いものにする為には、沈黙こそが肝要と考えました」
「そうか」
イズミの告白を聞いた國徳は、無感動に頷いた。
己の狡賢さを堂々と打ち明けたというのに、反応が薄い。其れどころか、しかつめらしい表情を崩さなかった國徳の顔つきが、僅かに解れた気さえする。
今のイズミの言葉は、國徳にとって然う悪いものではなかったのだろうか。
相手の考えが『判らない』と、此の程度のことでも不思議に感じてしまうのだ。人として当たり前であるはずの心の動きにイズミは戸惑い、結局そんな己に呆れてしまい、そっと苦笑いを漏らした。
「ただ、僕の……そうですね。便宜上〝霊感〟とでも言わせて下さい。おそらく、そんなに強い力ではありません。他者の考えが自ずと『判る』他には、感情に色や輝きが宿ったものが時々『見える』だけです。何も『見ない』ようにしようと思えば、ある程度の制御も出来ます」
イズミは、謙遜の心算で言った。元から誇っているわけではないので謙遜するのも妙な話だが、其処は断っておきたかった。
だが、國徳からは意外な反応が返ってきた。
「其の『力』。甘くみない方がいい」
「と、言いますと?」
「強くなる。手が付けられなくなる事はないだろうが、お前にとって辛いことになるだろう」
「……。辛いことなど、ありません」
首を横に振ったのは、虚勢ではなく本心からだ。其れでも微かに揺らいだ感情の一欠片を受け止めてから手放して、イズミは國徳に失礼のない言い方を考えながら、やんわりと笑う。
辛いことなど、何もない。
其れを確かな自信として、イズミは父母から貰っている。
「他者の思考が筒抜けになるということが、僕にはさほど苦痛ではありません。もちろん、厭なものも時には見ます。屹度これからも、その頻度は増すでしょう。ですが、疎ましいもの全てを帳消しにして、御釣りがくるほど素晴らしいものも、僕はたくさん『見て』きました。人の心の内に在るのが『悪』ならば、『善』もまた在りましょう。僕は他者よりもずっと美しい形で、それらを『見る』ことが出来るのです。……贅沢な、個性だと思います。不平を言えば、罰が当たってしまいますよ」
「……私とは、逆か」
國徳が、嘆息する。表情は相変わらず読み取りにくいが、声には感嘆とも呆れとも取れる響きがあった。
「私は、貴様の歳の頃が、最も酷いものだった。其れからは衰退の一方だったが……やはり、倅と孫にまで遺伝していたか。呉野の血筋は、呪われている」
「呪われているのですか、僕達は。それは、いけません。御爺様。そんなことはありません」
イズミは、断固たる口調で言った。國徳が何処まで本気で言っているのかは知らないが、病は気からと俗に言う。呪われたなどと平易に口にすれば、本当に邪なものが言葉に宿り、其のまま祟られるような気がしたのだ。
拘りの強さは、自覚している。今日の昼下がりにも、再会したばかりの父に突っ掛かった。大人とばかり心を通わせておきながら、まだまだ精進が足りないらしい。そんな青臭さが我ながら可笑しく、揶揄の笑みを浮かべかけた時だった。
國徳が、真剣な目でイズミを見た。
「先程、イズミ・イヴァーノヴィチと名乗ったな?」
「はい。確かに、そう名乗りました」
イズミは、笑みを収める。相手の真剣さを測れないまま、其れでも戸惑いは見せずに、首肯した。
「学校は、東袴塚だと倅から訊いた。高校でも、そんな長い名を名乗っているのか」
「いいえ。僭越ながら、学校では呉野和泉と名乗っております」
「何故、畏まる」
「傍系だからです。御爺様」
「そんなことは、気に病む理由にはならん」
「そうですね。気に病んでなどおりません」
「……もう一度、訊こう。学校では呉野和泉と名乗りながら、ひとたび名を訊かれると、異国の名を名乗るのは何ゆえか」
「それは……」
イズミは、口籠る。単純に、理由を明かすのが恥ずかしかったからだ。
だが、仏頂面で返答を待つ國徳に、恥ずかしいから言いたくないとは言えない。苦笑で心の折り合いをつけたイズミは、長年の秘密を吐露した。
「御爺様がソフィヤ御婆様と離縁をなさったことにより、貞枝さんや杏花さんを直系とする視点で見るならば、僕らは皆様から見て傍系です。呉野姓を放棄していなくとも、名乗るのは恐縮でした。それが理由です」
「……」
「……今のは、お察しの通り建前です。あながち嘘でもありませんが。何となく、僕の名前は呉野和泉というよりも、イズミ・イヴァーノヴィチだという気がするだけなのです。この名前で呼ばれていた、幼少期の記憶の所為かもしれません。……今度は、本当ですよ」
「……和泉。私にもお前の事は『判らん』」
國徳が、厳かに言った。武骨に投げかけられた言葉は、殺意のように鋭利だった。
そして、其の感情を〝殺意〟だと断定した瞬間、イズミの心には強い疑念が、泡のように浮かび上がった。
何故か、悟ってしまったからだ。
其の殺意は――イズミに向けられたものでは、ないのだと。
「私は、今では〝同胞〟の識別しか出来ん。『見える』ことは、もう稀だ。だが……其れでも、〝二人居る〟ことには、気づいていた」
「二人?」
「貞枝が、身籠った時だ。あの時から、もしやとは思っていた」
國徳が、目を逸らす。まるで、何かを恐れるように。
「双子だと思いたかった。だが、産まれた赤ん坊は一人だった。確固たる現実を突きつけられても、私には……やはり〝二人居る〟ように見えた」
「御爺様。それは、どういうことです」
イズミは、口を挟む。喉の渇きを、感じていた。貞枝夫婦との鏡花談議の時に出された茶を、イズミは飲んでいなかった。
「和泉。まずは、孫を杏花と呼んでくれた事に感謝する。……あの娘は、然う長くない。貴様が其の名で呼んでくれた事が、いつか奇跡になればいい。貞枝が、然う独り言を漏らしていた」
吸い込んだ空気が、乾いた喉に絡んだ。何を言われたのか、判らなかった。國徳の言葉は、現実感を欠いていた。
「御爺様、何を仰っているのです」
「呉野氷花の話をしている。貴様は其れを訊く為に、呼び出しに応じて此処まで来たのだろう」
「待って下さい。今の御爺様の言葉では、杏花さんが」
――躊躇う。だが、無理やり言った。
「……じきに、死ぬと言っているように聞こえます」
「其の心算で云った」
「理解できかねます」
「一人は死ぬ。二人で生きていく事は叶わん。氷花が残って杏花は消える。此れは、其れだけの話だ」
「氷花……?」
今度は、氷花。貞枝に教えられた氷漬けの花の名が、脳裏で錫杖の音のように響き渡る。もどかしさに衝き動かされて、イズミは緩く頭を振る。話が全く見えないことが、微かな苛立ちとなって胸を灼いた。貞枝といい、伊槻といい、國徳といい、イズミを取り巻く親族は、回りくどい大人ばかりだ。
「それではまるで、杏花さんが双子だと言っているように聞こえます」
「然う思ってもらっても構わん」
國徳は、一蹴した。外から聞こえる蜩の音が、大きくなる。
「二人居る。だが、一人は喰われる」
「何故です」
イズミは、食い下がった。膝に載せた拳に、力がこもる。
「御爺様の説明では、双子というよりも、一つの身体に二つの魂があると言っているようにも聞こえます。それなら二重人格と言っていただいた方が、まだ納得の余地があります」
「二重人格」
イズミの反論を受けた國徳が、鼻を鳴らした。子供をあしらうような声に、微かな不機嫌が織り交ざる。
「其の台詞を云ったのが、貴様でさえなければ、私は耳を傾けただろうな。和泉。貴様は、私が『判らん』と云った。貴様の父であるイヴァンの事も、同居人である克仁の事もだ。……本当に、其れだけの心算か? 何故、貴様は目を逸らす?」
イズミは、黙る。黙るしかなかったからだ。
他人が聞けば、意味を汲めない台詞だろう。だが、イズミには通じていた。
此れは、痛烈な皮肉だった。
皮肉の意味を知る者は、〝同胞〟以外に居はしない。
「近い将来、あの娘は居なくなる。皆が、其れを判っとる。判っとらんのは、伊槻君だけだ。可哀想だが、仕様が無い。説明できる者もしようとする者もおらんから、杏花が死んだ後も、伊槻君には莫迦で居てもらうしかない」
「……呉野、杏花さん。彼女は一体、何者ですか」
「判らん」
國徳は、目を眇めた。和室に揺蕩う藤色の影が、濃い紫苑色へ沈んでいく。〝同胞〟以外には『見えない』花は、しんしんと天井から降り続けて、畳に触れると消えていく。幽かに畳を照らす夕日の赤が、本棚の硝子扉にも反射した。
「だが、孫の事が『判らん』私でも、判るのは――〝二人居る〟という事実だけだ。其れ以外は、やっぱり『判らん』」
「何故、喰われると断言なさるのです」
「強い方が生き残り、弱い方は淘汰される。当然の定めだろう」
「共存は、あり得ないのですか」
「有り得ぬ」
語調が、力強い。幽玄の花の首が舞う夢幻の和室で、経文の発声にも似た気迫のこもった激情が、イズミに真正面から向けられた。
「あの娘の名付けについては、大方貞枝から私の文学嗜好が理由だと聞かされているだろう。だが、杏花は違う。杏花は、供花。供養の花だ」
「供養?」
「いつか、氷花の為に死ぬ。弔いの花となって死ねと、そんな願いで付いた名だ」
「御爺様」
「和泉。聞け」
厭わしい語りから逃げることを、國徳は許さなかった。次第に祝詞のような敬虔さを帯び始めた言葉の奔流に、いつしかイズミは呑まれていた。
「凍れば、永遠。故に、供花は、氷花になる。詩的過ぎると云われたら其れまでだろうが、此の程度の戯れが、死体さえ残せぬあの子の供養となるのなら。多少の〝アソビ〟にくらい、付き合ってやっても良い」
「……僕は、納得できません」
言葉の圧を、振り切りながら。
イズミは、毅然と顔を上げた。
「御爺様は、諦めています。御爺様だけではなく、貞枝さんもです。――二人居る。判りました。そうでしょうね。僕には御爺様のような知覚は出来ませんが、貴方がそう言うのであれば、間違いなくそうでしょう。……ですが。その所為で杏花さんが死ぬと断言なさる辺りが、僕には納得できません」
「貴様の納得など、要らん」
ばっさりと、切り捨てられた。
感情と心を、ぽきんと手折られたようだった。非情な言葉にイズミは思わず固まったが、國徳は孫の反応を見ると、肩の力を緩めたように見えた。其の態度の何処にも、先程までの激しさはなかった。
「イズミ・イヴァーノヴィチよ。呉野和泉と名乗る事に、未だ恐縮を覚えるか」
「……ええ。そうですね。僕はイヴァンの息子です。父と連なる名を名乗る事に、親子としての絆も感じていますから。それに、やはり皆様から見て傍系だという点も気に掛かっておりますので、呉野和泉と名乗ることは恐縮です」
「赦す」
――きっぱりと、然う言われた。
イズミは面食らい、國徳を見る。國徳は顔色を一切変えず、事務的とも思えるほど淡々とした口調で言った。
「私が、赦す。お前が呉野和泉と名乗ることを、赦す。厭でなければ、好きに名乗るが良い」
「……何故、ですか」
「何故と、問うか」
國徳は、目を細めた。
勉強の不出来な子供へ諭すような、雲間から射す一条の光に似た慈しみを、厳格さという薄衣で包んだ言葉の意味を、イズミはまだ知らなかった。
決して一つの色では表現し得ない、錦の如き絢爛豪華な美しさを、イズミが心から理解したのは――全てが終わった、後だからだ。
「いずれ、貴様から父と呼ばれる。息子になる青年に掛ける、最初の言葉として――此れは、当然の言葉であろう」
*
「左様なら、和泉君」
玄関先で貞枝に見送られたイズミは、頭を下げる。此の別れの台詞を以前にも聞いたと回想しながら、懐かしの呉野家を後にした。
長い一日だった。肩と頭に凝った疲れを感じながら、鎮守の森を抜けたイズミが神社の境内まで戻ってくると、下界を臨む丹色の鳥居のすぐ傍に、質素な白シャツに駱駝色のズボンという洋装の痩躯を見つけた。緊張の名残が、解れていく。
待っていてくれたのだ。
「お父さん」
父は足元に集まっていた雀と戯れていたが、呼び掛けるとすぐに反応した。腰を屈めた姿勢から背筋を伸ばし、イズミを振り返って笑っている。雀が、賑やかに飛び立っていった。羽ばたきの波音が茜色の空に向かって解き放たれて、イズミは頭上を振り仰ぐ。此処は、平和だ。然う、ぼんやりと思った。
「イズミ。お疲れ様」
「その言葉は、僕への仕返しの心算ですか」
イズミは父に視線を戻すと、軽く肩を竦めて見せた。此処に来る前に父へ言った台詞が、よもやこんな形で己に返ってくるとは思わなかった。
「疲れました。僕は添え物のはずでしたのに、貴方に騙された所為ですよ。異国の地で頑張る一人息子に、どうしてもっと優しく接して下さらないのです」
「イズミは手厳しいなあ。だからこうして待っていたじゃないか」
イズミが責めたからか、父が弱り果てた様子で狼狽える。些細な冗談一つにも慌てふためく父の優しさが、今のイズミには嬉しかった。
「イズミ、杏花さんはどうした? 随分懐かれていたそうじゃないか。きっと見送りについて来るんじゃないかと思っていたよ」
「杏花さんなら、眠ってしまいましたよ。遊び疲れたのです。僕を送り出したのは、貞枝さんお一人です。伊槻さんも職場に顔を出すそうで、出掛けられましたから」
「貞枝は、相変わらずだったなあ」
父が、穏やかな目で吐息をつく。妹を持つ兄の目だ。父がこんな顔を見せた事が、単純に驚きだった。視線に気づいた父が、イズミを見下ろして微笑んだ。今度は父親の顔だった。
「イズミは、思わなかったかい? 少し取っつき難い怖さがあるだろう、貞枝は」
「思いましたよ。僕が此処に来たがらない理由の一つは、貞枝さんが恐ろしいからです」
「素直だな、イズミは」
呆れの顔で笑った父は、ふと表情を改めると、穏やかな声音のまま訊いてきた。
「なあ、イズミ。何故あの子は杏花さんなのか、聞いたかい?」
「ええ。聞きましたよ。ですが、意味は理解できませんでした」
「聞いたのか」
父が、目を瞠る。イズミも、驚いて瞠目した。
鳥居をくぐり、石段をいざ下りんとするところで、異国の風貌を持つ二人の男は立ち止まる。夕暮れの光に照らされて、白い貌が赤く染まった。時が止まったような沈黙の中で、口火を切ったのはイズミだった。
「お父さんは、聞いていないのですか?」
躊躇いを覚えたが、はっきりと訊いた。明らかにさせたかったからだ。
父は不甲斐なさそうに淡く笑うと、首をゆるゆると横に振る。色素の薄い茶髪が、夕刻の風に舞い上がった。沈みゆく太陽が残した朱色の艶めきを受けた髪は、はっとするほど美しかった。
「ああ。僕は聞いていない。教えてくれたらいいのにと待ってみたけど、待ったからって話してくれるようなお人でもないから、仕方がないさ」
「……」
「イズミ。僕の父と、君がどんな話をしていたのか、僕は正直なところ、とても気になっているけれど……君だけに話したのは、何か意味があってのことだと思う。僕に気を使うことはないから、君は御爺様とこれからも仲良くしてあげてくれないか」
「どういう意味で、言っているのですか」
つい、きつい言い方になった。父は、目を丸くしている。驚かせてしまったと判っていたが、イズミの耳からは國徳の言葉が消えなかった。
――いずれ、貴様から父と呼ばれる。
國徳は一体どういう心算で、イズミにこんな言葉を掛けたのだろう。
理由を訊ねたが、黙られた。返答をせがむと、時間が遅いから帰れと追い出された。結果として杏花の事もあれ以上は訊けずじまいで、イズミには謎だけが残された。判らないことは、判るようにしたかった。手に取りやすい情報で、理解に足るだけの感情で、其れを伝える言葉の形で、判るようにしたかった。
其れなのに、残った。しかも、気がかりな点は他にもあった。
今後、イズミが國徳を、父と呼ぶのなら――目の前の、此の父は。
「……お父さん。不吉な言葉を聞いたのです。僕は、貴方の事が心配になりました」
「どうしたんだ、イズミ。何を不安に思うことがあるんだ」
父は、心底吃驚したと言わんばかりの顔をしている。反抗期も碌にないまま優等生として育ってきたはずの息子が、唐突に不安を覗かせて慌てているようだ。
「お父さん。貴方はあまり呉野神社に近寄らない方が良いと思います。國徳御爺様のお告げは、意味深でした。ロシアに一時帰国するまでの間は、距離を置かれた方が安全です。貴方が日本に引っ越してきた後も同様です。近寄らないよう、お願いします」
「……イズミ。それは、御爺様に言われたことではなく、自分で考えたことなのかい?」
「もちろんです」
「やっぱり、君と御爺様は似ているね」
意表を衝く言葉だった。思わず父を見上げると、父は朗らかな笑みを浮かべて、幼い子供に然うするように、イズミの髪をふわりと撫でた。
「僕がどうして先に帰ろうとしたか、判るかい? 御爺様に言われたからなんだ。暫く近寄らないように、とね。君達は全く違う個性のようで、驚くほど似ているね。何処が似ているんだろう。貞枝なら屹度、魂が似ていると言って笑いそうだ」
「お父さんは、追い返されたのですか? 御爺様に? ……何故ですか」
「さあ。父の考えは僕にもよく判らないよ。……ただ」
イズミの頭から手を離した父が、今度は己の頭髪を額から掬い上げるように掻きあげた。困ったように笑う声が、黄昏時の空に吸い込まれる。
「これもきっと、何か意味があってのことなんだろうと思う。僕はそう信じているよ。貞枝に言わせれば、ロマンチストの人なんだ。実は僕も、こっそりそう思ってる」
「怒られますよ、お父さん」
「まあ、いいじゃないか」
「何を理由に、そんな御爺様と僕が似ているというのです。僕はロマンチストではありません」
「ああ、イズミはそこに拘っていたのか。君の喋り方では、ロマンチストと揶揄されても仕方がないじゃないか」
「納得できません」
「そういう理屈っぽい堅物さが、御爺様と似ているね。僕はそう思うよ」
悔しかったが、其の指摘には成程と納得してしまった。己の頑固さをしっかりと見抜かれていた事が少しばかり面映ゆく、イズミは照れ隠しのように微笑むと、石段をゆっくりと下り始めた。
此の山を下りた先には民家が軒を連ねているので、暮れなずむ町からは夕餉の匂いが流れてくる。今日の藤崎家の夕飯は、何だろう。克仁の顔を思い出すと、歩調が軽やかに弾んだ。家族とは、やはり良いものだとイズミは思う。
「そういえば、イズミ。僕に質問って何だい?」
イズミを追って、父も石段を下りてきた。「ああ」とイズミは間の抜けた声で応じる。今日は様々な出来事があったので、すっかり忘れてしまっていた。
「お父さんは……國徳御爺様と、克仁さんと、杏花さんと、僕。この四名に対して、何らかの共通点を見出せますか?」
「ん?」
父は、目を瞬いていた。当然の反応だろう。名前だけを列挙して共通点を見つけろでは、あまりにも抽象的過ぎる。だが、配慮不足は承知の上で、今のイズミにはこういう訊き方しか出来なかった。
――國徳は、父に多くを語らなかった。
其の事実が、イズミが父に対して長年抱いてきた一つの予感を、確かに肯定したからだ。
「イズミが何を訊きたいのか、僕には判らないけれど……そうだな。雰囲気だと、僕は思う」
「雰囲気、ですか」
「ああ。御爺様と君だけなら、さっき挙げたような共通点で通るけど、そこに克仁さんや杏花さんまで入ってきては、四人の共通点とは言えないからね。そうなると、何となく雰囲気だと思ったよ」
「それは、何故です?」
「君はまるで先生のように、僕の心を訊くんだなあ」
ゆったりとした笑い声に、蜩の声が重なった。
夏の夕べはやがて終わり、もうじき短い夜が来る。然うすれば、また朝日が昇るだろう。まっさらで何も無く、其の一日をどう過ごすのか、悩ましく思考する日常が巡って来る。蝉には、そんな時間さえ惜しいのだろう。生きるということは、誠に忙しいことだと思う。
「似ていると言っても、何を以て似ていると思ったのか、僕自身あまり判らないんだ。でも……何だろうな。大昔の友人に、久しぶりに会った感じというか。不思議なんだけど、何かが似ている気がしたよ」
「その四名の何が似ているか、どうしても判りませんか」
「それが判れば、苦労はしないさ」
然う答えた父の顔は、今日見た中で最も清々しい笑みを浮かべていた。
「そういえば、イズミが言った四人以外にも、僕は今までに誰かに対して、似たような感じ方をしたことがあった気がするよ。だけど、それは多分、僕等がどこかで似ているというよりも、単純に相手に心惹かれているからだと思うんだ」
「? どういうことですか」
「仲良くしたいということさ。僕が、その相手と」
「仰っている意味がよく判りません。お父さんは、自分と似ていると感じた相手と、仲良くなりたいと思っているのですか?」
「そういう訊かれ方をすると、何だか妙な感じはするけど……そうだな。そうだと思うよ、イズミ」
融通の利かない息子の思考回路に呆れたのか、父が苦笑しながら、其れでいて温かい口調で言った。
「相手への興味は、仲良くなりたいという好意。僕は多分、その人と話がしたいだけなんだ。だから、君と、克仁さんと、父上と、杏花さんと、もっとたくさんの話がしたいと思っている。それが、僕が君達に持つ共通点じゃないかな」
「……そうですか。判りました」
イズミは、深く頷いた。
今の話を聞いて、漸く判った。
――やはり、父には自覚がない。正確には、〝知覚〟はしているが〝自覚〟が出来ていないのだ。
其の感性を、父は霊的なものとは思っていない。父の能力は極めて微弱で、〝同胞〟の認識程度にしか、父の意識に上らないのだ。
父は、人よりも感情の機微に敏感だろう。心が優し過ぎるのだ。
ともすればそんな優しさが、父の〝自覚〟を妨げているのかもしれない。
其れは幸福な事だと、イズミは素直に羨ましかった。辛くはないと國徳に宣言しておきながら、此の体たらくなのだから笑ってしまう。こういった矛盾や粗を見つけてくれるから、イズミは大人が好きなのだろう。子供だけでつるんでいては、見えない何かが見えてくる。
そして、子供という言葉から、今日いっしょに遊んだ少女を連想したイズミは、國徳の台詞を思い出して、唇を結んだ。
――『和泉。貴様は、私が『判らん』と云った。貴様の父であるイヴァンの事も、同居人である克仁の事もだ。……本当に、其れだけの心算か? 何故、貴様は目を逸らす?』
厳しい追及の眼差しを受けた時に、イズミは観念していたのだ。
嗚呼、思い過ごしではなかったのだ、と。
――『孫の事が『判らん』私でも、判るのは――〝二人居る〟という事実だけだ。其れ以外は、やっぱり『判らん』』
あまりにも幼い〝同胞〟は、其の小さな身体にどんな異能を秘めているのだろう。或いは、〝二人居る〟ということが、異能に因るものなのだろうか。
「お父さん。泉鏡花という文豪は御存知ですよね」
「知っているも何も、君の名前の由来である、偉大な作家のお名前だ。忘れるわけがないじゃないか」
「お父さんは、作品を読まれていますか? 読まれているのであれば、もう一つ、別の質問があるのですが」
「何だい? こういう質問は克仁さんの方が得意な気もするけど、聞くよ」
「泉鏡花作品に、児童向けの小説はありませんか?」
「児童向け?」
「はい。杏花さんに紹介できる本がないのです。お勧めの小説を教えてほしいとせがまれましたが、僕はあのお嬢さんに紹介できるような読書をしてきませんでした。あの年齢の少女には、どんな本をお勧めすれば良いのでしょうか。御高説を賜りたく存じます」
「杏花さんが……あの子、字が読めるからなあ。大したお嬢さんだと感心するよ」
「なまじ大したお嬢さんなだけに、困ってしまうのですよ。あまり刺激的ではないものを一つ、お願いします」
「それじゃあ僕のお勧めになってしまうよ。杏花さんは君のお勧めが知りたいのではないのかい?」
「それは、この際仕方ありません。貴方のお勧めを僕のお勧めに挿げ替えて、嘘を付いて機嫌を取ります」
あけすけに言うイズミに、「とんでもない兄さんだなあ」と父が言い返して苦笑する。そしてひとしきり笑った後で、ふと何かを思いついたような顔になり、立ち止まった。
「? お父さん?」
「……イズミ」
父は、茶目っ気たっぷりの笑みを向けてきた。
「いい考えがある」




