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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第4章 清らかな魂
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清らかな魂 12

 父の革鞄を小脇に抱えて外に出ると、涼しい風が二人の間を吹き抜けた。

 潤った大地と、すぐ傍にある泉がうさせるのだろうか。石段を上がった時の炎天下が嘘のように、御山の空気は心地いい湿り気を含んでいる。神社へ続く小道の果てに目を向けると、清流のごとき日差しがあやなす鎮守の森の出口から、白い輝きが漏れていた。陽光を、石畳が反射しているのだ。

 道を少し戻るだけで、眩しい夏が其処そこにある。下界から隔絶された天上の木陰を、イズミと杏花は手を取り合って、泉のほとりに沿って歩いていく。

 杏花の足取りは軽やかで、蝉の音に混じって鼻歌まで聞こえてくる。耳を澄ませて聞いてみると、小声で唄われていたのは『通りゃんせ』だ。克仁かつみもよく唄うので、イズミの耳にも馴染んだ唄だ。

「杏花さんは、お唄がお好きなのですね」

「はい、好きです!」

 ぱっと顔を上げた杏花が、太陽も顔負けの眩しさで笑った。

「お母様が、教えてくれました。お兄様、私はもっとお唄を唄えます」

「杏花さん、僕に唄ってくれるのですか?」

「はい!」

 微笑んだイズミへ、杏花は満面の笑みで頷く。瑞々しい日向の匂いに包まれた森に流れた唄は、今度は『かごめかごめ』だった。

 イズミは、驚く。先程の『通りゃんせ』と、音の響きが似ていたからだ。昔から知っている唄が不意に見せた横顔は、イズミの胸に新鮮な感慨をもたらした。

「似ているのですね。なぜ僕は、今まで気づかなかったのでしょうね」

「どうかしました? お兄様」

「いいえ、何も。お唄、とてもお上手ですよ。杏花さん」

 説明に困ったイズミは、何事もなかったかのように笑った。褒められた杏花は華やかな歓声を上げて、ぴょこんと足取りを弾ませた。赤い靴に土が跳ねて、イズミは心苦しくなる。散歩に連れ出したばかりに、見るからに余所行きと分かる靴を汚してしまった。普段履きのものに替えてはどうかと言いかけたが、お洒落な靴を脱げと言えば、へそを曲げられてしまう気もした。

「お兄様も、お唄は好きですか?」

 杏花が首を真上に向けて、此方こちらを振り仰いで訊いてきた。イズミは小さな従妹いとこに微笑むと、「ええ」と穏やかに頷いた。

「人前では披露しませんが、好きですよ。僕の日本の父もまた、昔話やお唄が好きな方ですから」

「ひろう?」

「ああ。すみません。人前では、あまり唄わないという事です」

「どうしてですか?」

「照れてしまうからですよ」

「お兄様は、照れ屋さんなのですか? 私のお父様と同じです。でも、お兄様とお父様は似ていません。同じ照れ屋さんなのに、どうしてですか?」

「杏花さんのお父様と、僕とは……」

 無垢な瞳に見つめられて、イズミは続きの言葉を躊躇った。

 呉野家の事情は、複雑だ。祖父、呉野國徳くれのくにのりの離婚と再婚。直系と傍系。分たれた血筋から生まれた異母兄弟、イヴァンと貞枝さだえ

 そして、國徳くにのりの孫に当たる青年と少女――イズミと杏花。

 盛夏につるを気ままに伸ばした鉄線テッセンの花のようなの事情を、年端もいかない少女にどう説明すればいいのだろう。杏花はイズミを兄と呼んだが、の認識も何処どこまで本気なのか定かではない。年上の青年なら皆『お兄様』と呼んでいるのか、心からイズミを『兄』だと思い込んでいるのか。

 だが、国を超えて出逢った異母兄妹の邂逅の場に、の少女は同席したのだ。杏花の母である貞枝も、イズミの父であるイヴァンを兄と呼んだ。凛とした愛嬌が匂い立つ声で、遠路はるばるやって来た兄を『お兄様』と呼んだのだ。う、此処ここにいる杏花と同じように。

 六歳児なりに、事情を知っているとみるべきだろう。いや、うに違いない。もう、う思い込んでしまおう。怠惰を自覚しながら、イズミは思った。

「……僕と杏花さんのお父様は、血の繋がりがありませんから。似ていないのは、仕方がありません」

「血の、つながり」

 杏花が、こてんと首を横に倒す。「ああ。すみません」とイズミはもう一度謝った。伝えるという行為の難しさを学びながら、より簡単な言い方を試みる。

「僕と杏花さんは、御爺様が同じ人です。それは判りますか?」

「はい。お爺様のお名前は、呉野くにのりと言います」

「ええ。僕の御爺様も、呉野國徳(くにのり)です」

 生真面目に頷く少女へ、イズミも同じように頷き返す。

「その御爺様ですが、りん御婆様とご結婚をされています。お二人の間に生まれた一人娘――呉野貞枝さんが、杏花さんのお母様です。ここまでは判りますか?」

「はい。判ります」

 はきはきと答えた杏花は、得意げに瞳を輝かせた。

「お兄様。お兄様のお父様は、いばん・くにのりびち・くれのというお名前ですね? さっきお爺様のお部屋に行った、イズミお兄様のお父様」

「よく覚えていますね」

 イズミは感嘆した。たどたどしい言い方であれ、六歳児が父の名を正確に言えたのは凄い事だ。イズミは杏花をたたえたが、杏花は別のことに拘っていたらしい。真剣な光を湛えた瞳が、イズミの青色の瞳を捉えた。

「お兄様は、どうしてイズミお兄様なのですか? 名前を全部教えて下さいな」

「イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノですよ」

「お兄様のお母様のお名前も、私に教えて下さいな」

「ジーナ……いえ、母の事は止しましょう」

「どうしてですか?」

「いずれ杏花さんにも、判る日が訪れますよ」

「ずるいです」

 杏花が、頬を膨らませた。

「お兄様は、私を子ども扱いしています」

「ああ、失礼いたしました。杏花さん、僕が悪かったですから」

 イズミは、すとんと屈みこんで杏花に謝る。目線を合わせた杏花は、頬を一層膨らませた。れでは栗鼠リスのようだ。

「面白いお顔になっていますよ、杏花さん。貴女は笑っている方が可愛いですから。そんなお顔はなさらないで下さい」

「お兄様は、優しいのですね」

「ええ、僕は優しいのですよ」

 以前にも、誰かに同じ台詞を言った気がした。思わず笑みが零れた時、杏花が凝乎じっ此方こちらを見つめてきた。

「優しいお兄様に、質問があります」

「どうぞ、何なりと」

 軽く請け負ってから失言に気づき、「僕のお母様の事以外なら、何なりと」と言い直す。またしても機嫌を損ねただろうかと危ぶんだが、杏花は表情を変えなかった。気づけば、既にねている様子もない。子供らしい純真さが、イズミへひたむきに向けられていた。

「イズミお兄様の、お勧めを教えて下さい」

「お勧め?」

「はい。お勧めです。イズミお兄様の、好きなご本を教えて下さいな。イズミお兄様のお勧めだけは、聞かせてもらえませんでした」

 意外な質問だった。イズミは束の間黙り、訊き返す。

「何故、貴女は僕のお勧めが知りたいのです」

「それは、私がキョウカで、お兄様がイズミだからです」

 明瞭な言葉だった。の場所で出逢った瞬間に、イズミに駆け寄った時と同じくらいに、自信に満ち溢れた声だった。

「お母様も、お父様も、お爺様も。泉鏡花は私には早いと言って、まだ読ませてくれません」

「杏花さんは、聡明です。大きくなれば、いずれ読めるようになりますよ」

「お兄様。私は、文字を読めるのです!」

 杏花が、むっと眉根を寄せた。頬がぷくりと再び膨れて、心外だとでも言わんばかりに、イズミと握り合う手を振り回す。

「カタカナは、分かりません。でも、平仮名は読めます。漢字も、たくさん、読めるのです!」

「ああ、すみません。杏花さん」

 イズミは幼女に振り回されるまま身体をゆらゆらさせながら、どうしたものかと思案する。出来ることを出来ないと決めつけられては、の怒りは当然だろう。

 全く、面白い体たらくだった。他人事のように、イズミは思う。

 イズミは、つくづく不器用だ。れを知る者が少ないことで、生き辛いと思うほどに不器用だ。

「杏花さん、どうか機嫌を直して下さい。誰にも教えていない、僕のお勧めを言いますから」

「本当ですか?」

 振り回された手が止まり、ころりと嬉しそうに笑った杏花は、イズミの骨ばった手を両手で包んだ。イズミは空いた方の手を持ち上げて、灰茶の髪を掻きあげた。れほど喜ばれるとは思いがけず、少しばかり照れ臭かった。

「ただ、僕は泉鏡花作品を読んでいませんから、別の小説家の本になります。それでも宜しければ、教えますよ」

「はい!」

 元気な返事を受けて、イズミは腕に引っ掛けた父の革鞄を、杏花と握り合っていない左手だけで器用に開けた。和室に置かせてもらえばよかったのに、預かっていてほしいという父の言葉を愚直なほどに真に受けて、革鞄を持って庭に向かったイズミの背中を、貞枝が笑っていた気がした。しかし結果的には、の愚直さに救われた。イズミは父の革鞄から、一冊の文庫本を取り出した。

 杏花は表題を覗き込むと、大きな目を瞬いた。

「カタカナです」

「ドストエフスキーと読むのですよ」

「どすとえふすきー」

 杏花が、イズミの手を離す。文庫本を両手で掴み、しげしげと物珍しそうに見入っている。海外文学に触れること自体が、カタカナに馴染みのない杏花にとっては初めての体験なのだろうか。

「お兄様。読み方は、『つみ』と『ばつ』で合っていますか?」

「そんな字まで読めるのですか」

 流石に、イズミは吃驚きょうたんした。

 ――『罪と罰 下』

 れが、イズミの差し出した本のタイトルだ。

 著者は、ドストエフスキー。海外文学の金字塔。

 酷暑のサンクトペテルブルクを舞台にした、る青年の犯罪を描いた物語。

 の本を父の革鞄に忍ばせた理由は、ただの退屈凌ぎとしての備えだった。祖父である國徳くにのりは父と二人きりでの会話を望む気がしたので、うなるとイズミは必然的に一人になる。結局は貞枝や伊槻と話し込んだので、の本は出番を迎えることなく家に持ち帰るはずだった。

「お兄様。読めない字があります。教えて下さいな」

「どれです?」

 イズミは中腰の姿勢から、膝を折って屈みこむ。の拍子に、足元にころりと転がる薄桃色の花が見えたが――目を逸らして、気づかなかったふりをした。イズミは杏花に顔を寄せると、本を一緒に覗き込んだ。

「どの字です?」

「この字です」

「……ああ」

 イズミは、硬い声で呟いた。

 己の失敗に、気づいたからだ。

 本の背表紙に綴られた、『罪と罰』のあらすじ。杏花の小さな爪の先は、登場人物の名前の隣、『娼婦しょうふ』という字を指していた。

 ――娼婦、ソーニャ。

 困ったことに、なってしまった。

「……僕にも、その字は読めません」

 結局、苦し紛れにう言った。杏花が、拍子抜けの顔をした。

「お兄様にも、読めない字があるのですか?」

「ええ、僕も子供ですので」

「私と、同じですね」

 杏花は嬉しそうに頷いたが、イズミの内心は複雑だった。

 何故イズミは、六歳の少女に『罪と罰』を差し出したのだろう。都合の悪い部分を隠すこの行為は、間違っても〝お勧め〟とは呼べないものだ。とはいえ他に児童書の当てもなく、イズミはただ途方に暮れた。

 すると、「お兄様」と杏花がイズミを呼んだ。此方こちらの葛藤を救済するような、ひどく優しい声だった。

「では、こちらの字は? 読み方を教えて下さいな」

 今度は、どんな字を読まされるのだろう。密かに身構えながら、杏花が指さした字を覗き込んで――「ああ」とイズミは小さく息を吐いた。

 今度は、安心して読める字だったからだ。

「これは〝きよらか〟です」

「きよらか?」

「ええ。きよらか」

「それは、どういう意味ですか?」

 杏花が、イズミの青い瞳をひたと見た。の御山の泉のように澄み渡った興味の眼差しに、イズミは僅かにたじろいだ。

「清らかとは……美しいという意味です。透明で、澄んでいて、濁りなく、穢れがない」

「きよらか……」

 言葉を胸に刻むように、祝詞のりとのように、杏花は言う。イズミの言葉を復唱して、言葉の意味を、反芻している。

「お兄様は、物知りなのですね」

「まだまだ精進が必要です。そんな僕ですが、杏花さんの質問には、出来る限り答えようと思っていますよ」

「じゃあ、もっとたくさん、私に教えて下さい」

 杏花が、言った。まるで懇願のような光を瞳に揺らめかせて、純真無垢に、切なげに――れでも笑って、杏花が言った。

「私には、分からないことが多いのです。カタカナも分かりません。お兄様のお母様の事もわかりません。〝清らか〟も分からないのです。お兄様、美しいものとは何ですか? お兄様にとっての清らかを、私に教えて下さいな」

「僕にとっての、清らか」

 イズミの茫然とした声に、「はい」と杏花が頷く。何故だか、悲愴な声だった。

「私は、知りたいのです。さっきお母様は、私のお父様は美しいものがお好きなのだと言いました。お母様がそう言うのなら、『女客おんなきゃく』も『売色鴨南蛮ばいしょくかもなんばん』も、きっと美しいのです。お兄様にとっての〝清らか〟は、このカタカナのご本の事ですか?」

「それは……判りません」

 黙考したイズミは、正直に答えた。

 今は、嘘をついてはいけない。れを悟っていたからだ。

「僕は、『罪と罰』が好きです。美しい物語であり、清らかだという感想を持ちました。しかし、その思いはこの物語全体に対するものというよりも、登場人物の一人に抱いたものなのです。〝清らか〟という言葉は、彼女の為にあるのだと。……杏花さん。先ほど僕に質問した箇所を見て下さい」

 イズミは、杏花の片手を取る。己よりもずっと小さな手の指先を、の一文に沿わせてあげた。

「清らかな……、魂?」

「魂は、読めるのですね」

「誰の、事ですか? 清らかな魂の人は、誰なのですか?」

 聡明な少女は、すぐさまイズミに訊いてきた。「この人の事ですよ」と答えたイズミは、杏花の指先を少し横に動かした。

「カタカナです」

 杏花が、寂しそうに呟く。イズミは微笑みながら、「ソーニャと読むのですよ」と教えてあげた。

「ソーニャという名は愛称で、正式にはソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ。ロシアの女の人の名前ですよ。――この本の主人公であるラスコーリニコフは、ある人物に対して、とても酷いことをしてしまいます。そんな己の行動から、精神的に追い詰められていく中で……彼女と、出逢うのです。清らかな魂を持った、心優しい彼女と」

「ひどい、こと」

 杏花が、イズミを見た。肩口で切り揃えた黒髪が、御山に吹き渡る風を孕んで、ざわりと膨れる。

「らすこーりにこふは、人を、殺すのですか」

 ぎょっとした。

「何故、貴女がそれを知っているのです」

「聞いたことがあるのです。お爺様も、同じご本を持っていると思います」

 冷静な口調で、杏花が言う。そして寂しそうに、「ですが、お爺様は、私とあまり話をしてくれません。だから、それだけしか私は知りません」と吐息をつくように続けた。れは、六歳の少女には不相応な、あまりに成熟した諦念だった。

 さわさわと木々の梢が擦れ合い、小波さざなみのような音がする。哀愁が満ちる沈黙の中で、二人は互いのかおを見つめ合った。

 立ち尽くす少女と、しゃがんで目線を合わせる青年。

 日本人の幼子おさなごと、異国の血を併せ持った高校生。

 性別も年齢も体格も、生まれた国の空の色さえ、まるで異なる二人の男女。

 杏花は、言葉を欲している。判っていた。イズミがのまま黙る事が、酷く罪なことくらい。眼前の寂しさが、救いの手を求めている。罪が、罰を欲するように。其処そこまで判っていても、イズミは何も言えないのだ。こんな時、人はどんな言葉を掛けるのか。の謎はイズミにとって、どんな学問よりも難解だ。

 イズミが黙り続けると、杏花はイズミから言葉を得る事を諦めたのか、れとも全てはイズミの思い過ごしで、返答を気にしていないのか――「お兄様」と、静かな声でイズミを呼んだ。慈悲を含んだ声だった。

「らすこーりにこふは、なぜ人を殺すのですか」

「……さあ。何故でしょうね」

「お兄様にも、分からないのですか?」

「ええ。誰にも分からないと思いますよ。正確な答えなど。色々な受け止め方があるそうです。社会の為と一口に言っていいのかも判りませんし、己の信義の為と片付けて良いものなのかも判りません。杏花さんがいつかこの本を読んだ時に、彼の動機について考えてみては如何いかがですか?」

 主人公の殺人の動機については、何周か読んでいるイズミでさえ、上手く説明できないのだ。ならば各々で解釈を模索するのも一興だろうという考え方は、養父である藤崎克仁ふじさきかつみの持論だ。克仁は童謡の類についても幅広い知識を持っていて、唄の由来や其処そこに込められた意味について、以前に話してくれた事がある。

 十人十色の捉え方を受け入れて、学びを楽しく極めていけばいい。れは読書にも通じる事だと感じたイズミは、娯楽の醍醐味を伝えたかっただけなのだが――数ある失言の中で最も酷い失言を犯したと、言い終えた時には気づいていた。

 ――殺人の動機など、六歳児に模索させるものではない。

 伊槻いつきの顔が、脳裏を過る。幼い愛娘に殺人の話をしたと知れば、良くは思わないだろう。貞枝の顔も一緒に脳裏を掠めたが、此方こちらには罪悪感を覚えなかった。の女性は、何も言わない気がしたからだ。

 ともあれ、此処ここまで思慮が及んでくると、先ほど杏花の口から聞かされた「人を殺す」という言葉も、なかなか不気味に響いてくる。六歳というれから善悪を学んでいく年齢の幼女が、人を殺すと口にしたのだ。

 ――れ以上は、いけない。

 杏花が何故そんな知識を有していたのか、イズミには測り知れない。だが、杏花がいくら大人びていようと、考え方や個性、良識が育つ幼年期のあどけない魂に、『殺す』という観念を、脳に植え付けるような教育は――少なくともイズミには、正しいこととも、健やかなこととも思えなかった。

 よって、イズミは杏花に詫びようと、そして先程までの言葉の数々を忘れてもらおうと、口を開きかけたのだが――イズミよりも、杏花の方が早かった。

「お兄様。清らかな魂の、この方は。らすこーりにこふを救ったのですか」

 の囁きは、盛んな蝉の音に掻き消されずに、イズミの耳に届いた。

 瞠目したイズミも、ささやかな言葉を少女に返す。

「さあ、どうでしょう」

「お兄様は、意地悪なのですね。知っているのに、教えてくれません」

「では、教えて差し上げましょうか?」

「いいえ。自分で、読めるようになります。私が、お兄様のお勧めのご本を読めるようになったら、私にも〝清らか〟が判るようになりますか?」

「ええ。きっと、判りますよ」

「本当ですか」

 杏花が、愁眉しゅうびを開いた。心からの安堵だと分かる切迫した微笑みは、森に降り注ぐ陽光の眩しさに溶けてしまいそうなほど、何故だか薄幸なものに見えた。

「清らか」

 そんな相反する感情を包んだ笑みを、杏花は天に向けた。「清らか」ともう一度唱えた声が、神聖な山の空気に染みていく。かすかな声に込められた想いは、懺悔のようであり、惜別のようであり、神秘に触れた驚嘆に満ちていた。青空をかげらせた木々の枝葉の連なりから、日の光がさっと射して、白い頬が一層白く照らされてゆく。イズミは、息を呑んでいた。

 空を仰いだ、小さな姿が――美しく見えたのだ。

 可憐でもなければ、愛らしいでもない。イズミは、美しいと思ったのだ。清らかな言葉を唇に乗せて、瞳に空色を映した杏花が、の森で最も美しいと思ったのだ。

 だが――まだ、違う。

 もっと、適切な言葉がある。の言葉を、イズミはとうに知っている。

 先程から、何度も、何度も――会話に出てきた、言葉だからだ。

「僕は、貴女の事も、清らかな魂の持ち主だと思います」

 イズミは、言った。杏花が、驚きの目でイズミを見た。

「私が、ですか?」

「ええ。貴女は、清らかです」

「私が、清らかなのですか?」

「僕は、そう思います。いえ、今、そう思いました。貴女は、美しい人です。貴女の魂は、清らかです」

 本心を言葉にする行為に、照れや躊躇いは全くなかった。の少女とは、またしばらく会えなくなるかもしれない。イズミが神社に来ない限り、再び距離は開いていく。今こそ言葉にしなければ、永久に言葉の形にはならないだろう。

「……」

 杏花は、黙ったままイズミの言葉を聞いていた。驚き過ぎて魂が抜け落ちたような瞳には、静かな高揚を代弁するように、陽光の反射が輝いている。

「お兄様」

 おもむろに、杏花がイズミの手を強く握った。本をしかと胸に抱き、空いた方の手でイズミの手をぐいと引く。不思議に思った時には既に、杏花はくるんと此方こちらに背を向けて、勢いよく走り始めていた。

 しゃがんでいたイズミは手を引かれて転び掛けたが、「お兄様、一緒に来て下さいな!」と振り返った杏花がせっついてくる。父の革鞄が、腕からすり抜けた。柔らかな土に受け止められて、下草が触れ合う涼しい音が空気を打つ。

「杏花さん。鞄が」

「早く、お兄様」

 止まれなかった。振り返った杏花は笑っていた。あっという間に、視界から革鞄が消えていく。イズミのローファーが雑草を踏み、杏花の靴も泥を跳ねた。蹴った土が泉へ飛んだのか、ぱしゃんと小さな音がする。水面にまるく拡がる波紋を残して、二人は鎮守の森を駆けていく。

 つんのめるように走るイズミを連れた杏花が、家の裏手に回り込んで、ようやく立ち止まってくれた時――気が抜けたイズミは、溜息を吐いた。

 身内の姿が見えたおかげで、安堵したのかもしれなかった。

「……御爺様と、お父さんではありませんか」

 呉野家の裏手は、泉が見える神社側よりも下草が繁茂していて、杏花の胸辺りまで高く伸びたものもある。鬱蒼とした夏の森に寄り添う襤褸屋ぼろやの障子窓から、室内の様子が窺えた。八畳ほどの広さの和室に、座布団が離して並べられていて、密談を交わす二人の男の姿が見える。

 一人は、イズミの父。

 の対面には――浴衣を身に付けた、見事な白髪の老人が、一人。

「杏花さん。親子水入らずの時間を邪魔してはいけません。帰りましょう」

「違います、お兄様。あっちです。あっちを見て下さい」

 杏花は、部屋の隅を指でさす。イズミは室内の大人達に覗き見が露見しないだろうかと冷や冷やしながら、杏花の指示に従って其方そちらを見た。

 窓際には古風な文机があり、の近くには大胆な木目の入った黒茶色の本棚も置かれている。硝子扉と鍵穴らしきものも見えるので、施錠が可能なのだろう。

「下から三段目の、二冊目の本です。見えますか?」

 杏花が告げた場所には、しま柄の背に橙色のラベルを貼った古書があった。ラベルには表題と著者名が書かれているようだが、此処ここからでは文字を読み取れない。金色につつましく輝く文字が、室内に射す外光を、きらりと照り返した気がした。

 綺麗な古書だ。はっきりとは見えなくとも、イズミは素朴な感想を抱いた。

「あれは……?」

「『粧蝶集しょうちょうしゅう』という本です」

 声を潜めた杏花が、可愛らしい笑みを零した。

「作者は、泉鏡花です。お母様が小さい頃から、お爺様が大切にしていた本だと聞いています。お母様と、お父様と、お爺様の好きな物語も、あの本に入っているそうです。本の上とか、横とか、下の部分が金色で、ぴかぴかしています。とても、綺麗なのです」

 杏花は、瞳を宝石のごとく煌めかせて熱く語った。の本がどれほど美しいものなのか、懸命に伝えようとしている。「それは素晴らしいですね」と相槌を打つと、杏花は何故か先程までの情熱を鎮火させて、しゅんと悲しそうに項垂れた。

「ですが、お爺様は私には触らせてくれません。私はお爺様やお母様が手に取っている姿を、遠くから見るだけです」

「何故です?」

 イズミは訊きながら、杏花には酷な質問かもしれないと感づいていた。

 文豪の古書だ。知識のないイズミには正確なことは判らないが、恐らくは絶版だろう。価値のある本かもしれない。

 ――大切な本を、まだ子供の手には委ねたくない。

 の執着は、当然の感情だ。國徳くにのりは、孫の名にイズミとキョウカと付けるほどだ。う納得した一方で、十八歳という子供と大人のあわいに立つ者として、杏花の寂しさも判る心算つもりだ。

「……私が、いい子で、大きくなったら。いつか触らせてくれるそうです」

 寂しげに呟く杏花へ、イズミは「そうですか」と穏やかに言った。

「今から、とても楽しみですね」

「はい」

 顔を上げた杏花が、溌剌と笑った。まだ寂しげではあったが、此方こちらの言葉に多少なりとも勇気づけられたのかもしれない。「貴女は、いい子ですよ」と言って髪を撫でてあげると、杏花がイズミの顔を見つめてきた。

「お兄様」

「どうかなさいましたか、杏花さん」

「もう少し、屈んで下さいな」

「?」

 イズミは、言われるままに膝を折ってすとんと屈む。杏花が『罪と罰 下』を差し出してきたので受け取ると、小さな両手がイズミの頬を挟んだ。

 の体勢で、次に何をされるのか。の期に及んでまだ予想できなかったイズミは、余程の莫迦ばかか、あるいはただの青二才だったという事だろう。

 ――湿った音が、耳にぴたりと響いた。薄く開いた唇に、唇が押し付けられていた。

 イズミは、身動きを取れなかった。顔の近さは感じていたが、避けては杏花を傷つける。う判断して凝乎じっとしていたばかりに、一瞬にして奪われてしまった。

「……。杏花さん。いけません」

 唇を離して、イズミは杏花の肩に手を置いた。

 硬い声のイズミに対し、杏花はきょとんと首を傾げた。

「どうして、いけないのですか?」

「どうして、って……何故、そんなことをしたのです」

「お兄様のことが、好きだからです」

 はっきりと、杏花が言った。何故そんな分かり切ったことを訊くのだろうとでも言いたげに、心底不思議そうな顔をしている。

「お兄様は、私と遊んでくれました。お母様も、お父様も。お爺様は、時々しか遊んでくれません。でも私は、お母様も、お父様も、遊んでくれる時のお爺様も好きです。……お父様は忙しいみたいで、最近は前ほど遊んでくれません。でも、遊んでくれる時のお父様は大好きです」

「それが、どうして、キ……」

 言葉が、つっかえる。そもそも、キスと言って伝わるのだろうか。もしかしたら擬音で言わなくては、幼い少女には伝わらないのかもしれない。間の抜けた眩暈が、イズミを襲った。

「お兄様。好きな人には、こうするものなのでしょう?」

「それは……間違いではありません。しかし、相手が僕ではいけません」

「お兄様の言うことは、おかしいです。お母様も、私にチュッてしてくれます」

「お母様は良くても、僕には駄目です。いけません!」

 卒倒しそうになる。やはり擬音だった。全力で否定を示すイズミを見て、杏花の表情はますます不思議そうなものになった。

「兄と妹では、いけないのですか」

「いけません。それに、僕は、兄では」

 兄では――其処そこで、言葉を止めた。たとえ事実であれ、れは短絡的に告げていい台詞だろうか。

 だが、杏花は笑った。思わず目を瞠るほどに、明るい笑みだった。

「ええ。お兄様は、私の本当の兄ではありません。従兄のお兄様です」

 気抜けしたイズミは、の時になってようやく思い出した。元々イズミ達は、呉野家の血の繋がりについて話していたはずなのだ。

「お兄様と呼ばれるのは、いやですか? では、私はイズミお兄様のことを、なんと呼んだらいいのですか?」

「……お兄様で、いいですよ。杏花さん」

 イズミは、言った。襤褸屋ぼろやの和室で、杏花の名を初めて呼んだ時のことを思い出す。の程度の働きで花のような笑みを見られるなら、う悪い〝アソビ〟ではないだろう。イズミは、確かにう思ったはずだ。

 呉野家の複雑な血縁を、杏花は完璧ではないながらも理解している。従兄妹の関係を知った上で、イズミを兄と呼んで慕っている。

 の親愛に応えるのがいやだとまでは、イズミは微塵も思っていない。

「僕は、貴女の本当の兄ではありませんが……何だか、兄でもいいような気がしてきました」

 杏花の表情が、日が射したように明るくなる。此方こちらも気分が明るくなったが、れでもれだけは譲れないとばかりに、釘を刺すのは忘れなかった。

「ただし、先程のような行為はいけません」

「? どうしてですか?」

「大人になれば判ります。兎も角、いけません」

 質問を重ねてくる杏花へ、イズミが頑なに戒めた時だった。

「イズミ」

 父の声が、聞こえてきたのは。

 イズミは、ぎくりとする。杏花も慌てた様子で、口元を手で覆っていた。

「……お父さん。國徳くにのり御爺様は、どちらへ」

「中座されたよ。孫達が外ではしゃぐ元気な声が聞こえてきて、お茶を取りに行かれたからね」

 う言って、イズミの父、イヴァンは――障子窓の傍に立ち、黒水晶の如き双眸を細めて、和室の中から笑っていた。色素の薄い茶髪が、涼風にふわりと靡いている。

「いつから、其処そこにいらしたのです?」

「君達が、わあわあと騒ぎ出した時からかな。杏花さん、僕を覚えているかい?」

「お写真で、見ました! 覚えています!」

 当時零歳児だった少女が、覚えているわけがない。父の質問は滅茶苦茶だったが、杏花の返しも負けていない。ちぐはぐな会話をイズミは苦笑いで聞いていたが、はっと表情を引き締めた。

「お父さん。立ち聞きをする心算つもりはなかったのです。それに、僕達は何も聞いていません。……御爺様は、御気分を害されましたか?」

「そんなことはないさ」

 父は微笑ましげに杏花を見ていたが、質問を受けて此方こちらを見ると、穏やかな語調でイズミの懸念を払拭した。

「実際に、僕たち親子の会話も終わりかけのようなものだったから、イズミが気にするようなことは何もないよ」

「それなら、安心しましたが……」

「それより、イズミ」

 不意に、父が改まった調子でイズミを呼ぶ。イズミは特に気に留めず、「はい。何でしょう」と返事をした。

「僕は、これから帰ろうと思う」

「はい?」

 呆けたイズミは、訊き返す。父の言い方が、妙だったからだ。

 ――僕は、これから帰ろうと思う。

 僕、は。れではまるで、父だけが一人で先に帰るようだ。

 果たして、の推理は的中した。

 父が次に放った言葉は、イズミを驚愕させるに足るものだった。

「イズミ。玄関に回って、此方こちらのお部屋に来なさい。君の御爺様は、君にお話があるそうだ」

「僕に?」

「ああ。そういうわけだから、僕は先に帰らせてもらうよ。杏花さん、イズミは用事が出来たから、家の中まで送ってあげてくれないかい?」

「分かりました」

 従順に頷いた杏花が、イズミのズボンを軽く引っ張り、「お兄様、行きましょう」と促した。本当にしっかりした六歳児だと感心する反面、予想外の展開に転がり始めた事態を前に、イズミの心はついていけなかった。

「何故ですか」

 和室で背中を向けた父を見上げて、イズミは率直に疑問をぶつけた。

「確かに僕は、御爺様の孫です。ですが、取り立てて二人きりで話すようなことなど、何もないと思います」

「確かに、ないだろうね。君には」

 父が、振り返る。突き放すような言葉だったが、の口ぶりは優しかった。

 そして同時に、微かに寂しげでもあった。

「でも、相手にはあるようだから……聞いてあげてくれないか。イズミ。どうか、後生ごしょうだから」

「……お父さん」

 訊くのは、躊躇われた。父が、傷ついている気がしたからだ。

 だが、これだけは訊いておきたかった。

「……後で、質問があります。今日、お父さんは克仁かつみさんの家に泊まるのを辞退されて、ホテルに部屋を取ったそうですが、やっぱり泊まりに来ませんか?」

「もう部屋を取っているのにかい?」

 眉を下げた父が、肩を竦める。「キャンセル料を払えば良いのです」とイズミは我儘わがままを言って笑った。

「もしその手続きが面倒だというのなら、せめて今日もう一度会う事は可能ですか? 先程も言いましたが、僕は貴方に質問があるのです」

「イズミは、せっかちだなあ。明日まで待てないのかい?」

「ええ、疑問は明日に残したくありません。いけませんか?」

「分かったよ、イズミ。久しぶりの息子の我儘だ。克仁さんには、これから電話を入れておくよ」

 父が照れ臭そうに笑い、イズミも安堵の笑みを返す。父と祖父の間に何があったのかは知らないが、少しでも元気を取り戻せたなら、今のイズミに出来る役割は果たせただろう。

「お兄様、行きましょう」

 杏花が、ズボンをもう一度引いた。幼い少女の先導で、草を踏み分けながら歩く途中で――色とりどりの何かが、雑草に紛れて落ちていることに気づいた。

 一つ、二つ、三つ……ローファーの爪先で、ころりと落ちているのは花だった。がくから下を切り落とされた首だけの姿となり果てて、幾つも足元に落ちている。

 イズミが思い出したのは、泉の中央に立つ呉野貞枝の姿だった。

 浴衣の裾をたくし上げた、妖艶な美女。の手から零れ落ちる、あでやかな花。

「……」

 れは、屹度きっと〝アソビ〟だろう。少女を、杏花と呼ぶような。

 此処ここで落ちる花々も、誰かの〝アソビ〟で生まれたのだ。茎の鋭利な切り口が、頭だけの美しさが、イズミに訴えかけている。

 の〝アソビ〟の意味を、イズミは知らない。

 捧げられた花の命の意味を、まだ何も知らないのだ。

「……お兄様、どうしました?」

 いつしか立ち止まって花を見下ろしていたイズミを、杏花が見上げてきた。

「いいえ、何でもありません。落としてしまった父の鞄を回収してから、おうちに入りましょうか」

 嬉しそうに頷く従妹に、優しく笑いかけながら――イズミは茎のない芙蓉ふようの花から目を逸らして、の場から立ち去った。

 背後の障子窓の向こうから、視線を感じた。

 此方こちらを見守る人物と、対面する覚悟はできていた。

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