清らかな魂 11
「……キョウカさん?」
イズミは、恐る恐る、其の名を呼ぶ。
先程から、疑問は尽きない。縁側を臨む和室に通され、座布団を勧められて坐した時、深まる疑念は臨界点を突破した。
困惑を持て余し、途方に暮れるイズミの内心など、ものともしない豪胆さで――背後からイズミの両肩に掛かる重みは、元気いっぱいの返事をした。
「はい、お兄様!」
少女の両腕が、首に容赦なく絡みつく。締まる、という泣き言を、六歳児の腕力だと己に言い聞かせて、イズミは耐える。しかし柔らかい腕が首に巻きついているのは落ち着かず、弱り果てたイズミは、救いを求めて貞枝を見た。
だが、当ては外れた。幼女に懐かれて身動きの取れない男子高校生を見た貞枝は、笑うばかりで何もしてくれない。其れ許りか、「杏花、恰好いいお兄ちゃんができて良かったわね」と、楽しげな調子で言ったのだ。
度肝を抜かれたイズミは、「僕は、兄では」と言いかけたが、背後から「はい! お母様!」と、喜色に満ち満ちた声が聞こえたので、無粋な弁解は憚られた。少女の喜びに比例して首も余計に締まったので、間の抜けた呻き声が己の喉から絞り出る。
「キョウカさん。抱っこに変えましょう。こちらにどうぞ」
降参だった。息苦しい呼吸の合間に提案すると、「はい!」と嬉しそうに答えた少女が手を離し、正座をしたイズミの膝によじ登ろうとする。
やむを得ないので、行儀は悪いが胡坐をかいた。傍に置いていた父の革鞄は、右手で遠ざけて畳の上に転がした。父が不在の間の預かり物だが、少し邪魔になったのだ。
少女はイズミの黒いズボンの布地をぺたぺたと触ってから、やがて制服の白シャツに手を掛けて、イズミの顔を、つと見上げた。
肩口で切り揃えられた髪が、艶々と揺れる。漆黒の瞳には、白い光が照っていた。和室の外、縁側から射す陽光が映っているのだ。御山の緑を纏う輝きに目を奪われたイズミは、少女と見つめ合っている事に漸く気づいたのだった。
そして――莞爾と。少女が幸せそうに、イズミに微笑みかけてきた。
花のような笑みとは、此の顔を言うのだろう。己より遙かに幼い童子を見たからこその感想だが、如何せん距離が近すぎるので、罪悪感を禁じ得ない。
そんな男子高校生の狼狽を笑う者が――貞枝の他にも、もう一人。
「イズミ君は、モテモテだなあ」
声を受けて顔を上げると、海老茶色のテーブルの向こう側で、貞枝の隣に座る男が、従兄妹たちのじゃれ合いを見て笑っていた。
男は、三十代前半だろうか。実年齢は知らされていないが、貞枝と然う変わらないはずだ。灰色のスーツとぱりっと糊のきいた白シャツが、渋い色味で統一された和室の中で、清々しく目に映る。台詞こそ揶揄めいていたが、其の口ぶりは寂しげだ。一人娘が客人にばかり懐くので、父親として内心複雑なのだろう。妙な誤解をされては堪らないので、イズミは思わず兎にも角にも此れだけはとばかりに、保身の言葉を述べていた。
「申し訳ありません。悪気があってのことでは決してありません。大切な御息女には何もしませんから。何卒、お許し下さい」
「どうして君が謝るんだ……?」
慇懃な謝罪が意外だったのか、男が目を丸くする。そして困ったように頬を掻くと、イズミよりよっぽど申し訳なさそうな顔で破顔した。
「いや、いいんだよ。むしろ、うちの娘がすまないね。首、大丈夫かい?」
「ええ、まあ」
喉の辺りに圧迫感はあるが、耐えられないものではない。「そうか」と男は呆れ笑いを返してきた。含みのある笑みに思えたので、此方の虚勢は筒抜けと見るべきだろう。貞枝といい此の男といい、大人の洞察力は侮れないものだと思う。イズミは素直に感心した。
其の時――ふ、と。白い影のようなものが、視界に射した。
「……?」
イズミは、男に気取られぬよう表情を変えぬまま、相手の両目を注視した。
珈琲のように黒い瞳に揺蕩うのは、微かな嫉妬。薄暗い揺らぎを大らかに抱き込む波は、父性と呼ぶべき慈愛だろうか。
イズミが、まだ知らない感情だ。そんな未知の感情を宿した男の瞳の奥底に、僅かな濁りが、見えた気がして――イズミは視線をさりげなく逸らし、開け放たれた障子戸へ目を向けた。
午後の陽光が白々と降り注ぐ夏山は、美しかった。障子戸で四角く囲われた風景には、鎮守の森の木々と花々、青空を映し取る泉が見えた。
貞枝がイズミをからかい、そして直後、少女と出逢った場所だ。
「お兄様? どうしたのですか?」
少女が、小首を傾げる。余所見が露見したイズミは「何でもありません」と言い繕ったが、子供の鋭敏な感性は、青年の誤魔化しを許さなかった。
「お兄様、何を隠しているのですか? ずるいです。私にも教えて下さいな」
頬を膨らませた少女が、再び首に抱きついてくる。狼狽えたイズミは少女の両親を見やったが、貞枝は「あらあら」と暢気に笑うばかりで、男も「お父さんよりも、ハンサムな外人さんの方がいいのかあ」と茶々を入れて、目を細めるだけだった。
然うやって穏やかに笑う男の目に、もう濁りの影は見えなかった。
「……」
――呉野伊槻。其れが、貞枝の隣に座る男の名前だ。
幼少時、イズミが呉野神社へ詣でた時には居なかったはずの此の男は、貞枝の亭主であり、すなわち少女の父親だ。
顔を合わせたのは、ついさっきの事だ。イズミは此の男について、実は殆ど何も知らない。神社の家系である呉野家へ婿に来てくれた、商社マンの男だとは聞いている。だが、一口に商社マンと言っても仕事の具体的な内容は知らず、聞かされてもいなかった。話し好きといった気さくな雰囲気の男なので、仕事の話題に水を向ければ、案外嬉々として教えてくれるかもしれない。
しかし、男の職業の話よりも、遙かに重要な議題が残っていた。イズミは少女をあやしながら、貞枝夫婦へ目を向ける。
貞枝と伊槻は、客人の膝に乗る愛娘を、微笑ましげに見つめていた。
其れは、親の顔だった。イズミが克仁の家を出る前に、父を玄関で迎えた時と、同じ感慨が胸に去来する。
だが、イズミは気付いていた。此の笑顔が、家族への慈愛や思慕だけで成り立つものではない事を。此の和室で、伊槻と対面した時から気づいていた。
――其の笑顔の、嘘に。
「杏花」
貞枝が、娘を呼ぶ。ごく自然な態度で、娘を呼ぶ。少女は母を振り返り、「はい」と明るく返事をした。あどけない笑みを見た伊槻が、頬をぎこちなく緩ませる。優しげな面立ちが引き攣る様子を、イズミの目は捉えていた。
「元気な返事だなあ……その……杏花」
「お父様? どうしたのですか?」
「いや……なんでも。イズミお兄ちゃんに抱っこしてもらって、良かったな?」
「はい!」
少女の声には張りがあったが、対する伊槻の声はしどろもどろで歯切れが悪い。本心の擬態は明らかなのに、少女はにこにこと機嫌よく笑っている。イズミの隠し事は見逃さずに責めたのに、父親には演技を許している。イズミには其れが不可解で、何処となく歪な反応に思えた。
冷房の入っていない夏部屋で、悪寒がするりと背筋を這う。イズミにぴたりと寄り添う温もりが、此の状況に戸惑う心を支えていた。
其の温度の持ち主の名を、イズミはとうに知っている。
此の少女の名前は――呉野杏花ではなく、呉野氷花であるはずだ。
記憶違いは有り得なかった。呉野の一族との初対面の場で、イズミは確かに聞いたのだ。此の赤子の名は、〝ヒョウカ〟だと。其の場には父もいて、貞枝もいて、此処にはいない國徳もいた。名前の漢字を訊ねると、氷の花と返ってきた。其れを言ったのは、貞枝だった。貞枝が、イズミに言ったのだ。
『杏花は、氷花に喰われてしまう。左様なら、杏花。せめて手向けの花となって下さい』
庭を振り仰ぎながら、然う、此の部屋で。障子戸から射す白々とした光の中で、泉が水面を輝かせるのを茫と見ながら、貞枝は独り言のように、唄うように、意味深な呟きを漏らしたのだ。意味を知りたかったが、結局訊けずじまいになっていた。イズミは、少女を見下ろした。
――此の子は、〝どちら〟なのだろう?
氷花であるはずの少女は、自らを杏花と名乗った。そして家族も、一人娘を杏花と呼ぶ。氷花の名前は、此処に来てから、まだ一度も聞いていない。
考え込むイズミの頬を、少女がむにっと摘まんできた。
「お兄様は、大きいのですね。お父様よりも、少し大きいです」
「背の、高さのことですか?」
「おいおい……杏花」
伊槻が、困惑の声で言う。イズミが其方を見ると、テーブルを挟んで向かい合う男と、視線があっさりとかち合った。
イズミは、黙り込む。伊槻も、何も言わなかった。
貞枝は、まだ笑っていた。少女は、無垢に小首を傾げていた。
和室で歓談する四者の中で、イズミと伊槻の二者だけが、互いをじっと見つめていた。伊槻の笑みには、共犯者めいた粘り気があった。居住まいを正して座っていたが、イズミの目には其の姿が、おどけて肩を竦めているように見えた。子の親としての愛慕と嫉妬の表情は、微かな侮蔑と嫌煙で澱んでいた。薄暗い親近感を押し出した顔で、伊槻が言うのだ。――参った、と。意図せぬ〝アソビ〟に付き合わされて、其の飯事に縛られる事を疎むように。
イズミは、伊槻の瞳に〝其れ〟を見た。
いつしか、視界が再び白く濁っていた。
其の濁りが、囁くのだ。一片の軽蔑を。鬱屈を。怠惰を。愚痴を。悪態を。告げ口を。そして告げ口という言葉に思考が行き着いた時、此れはやはり告発だったのだ、とイズミは静かに理解した。
「……あの」
つい、声を上げていた。伊槻が此の〝アソビ〟に対して葛藤を抱いていようと、其の感情を此方に押し付け、かつ同意を求める笑みを向けられる道理はないからだ。分かち合えるような感情であればイズミも受容できただろうが、初対面の男からそんな感情を貰っても、困惑こそすれ笑う気にはなれなかった。其れに、笑うほど可笑しな事とも思えない。
とはいえ、伊槻に小さな反抗心を抱いたイズミとしても、此の不可思議な〝アソビ〟が何なのかは気になった。
此れは、間違いなく〝アソビ〟だろう。家族ぐるみで、少女を〝杏花〟と呼ぶ〝アソビ〟だ。伊槻はぎくしゃくと娘をキョウカと呼んだが、貞枝は其のようなことは全くなかった。少女の方も、母親と全く同じ自然さで、異なる名前を受け入れている。
最初から自分は〝呉野杏花〟なのだと、自信を持っているかのように。
其の自然さが、イズミには理解し難いのだ。
何故、少女を〝杏花〟と呼ぶのか。理由を、訊ねようとすると――言葉の続きを、貞枝に遮られた。
――す、と。白い人差し指が、赤い唇に添えられたのだ。
紅白の対比が目に涼しく、はっとしたイズミが言葉を呑むと、貞枝は悪戯っぽい笑みをつと浮かべて、手を静々《しずしず》と膝の上へ降ろした。
紺色のブラウスから伸びた腕は、透き通るように白い。濡れた浴衣からブラウスとロングスカートに着替えた貞枝は、数年前の出逢いの日に時が舞い戻ったかのような佇まいだ。洋装になった所為か、貞枝の纏う霊的な妖艶さは朝靄のように薄らぎ、あたかも人間らしい、真っ当で健全な匂いがした。
時間にして、三秒ほどの逡巡の果てに――イズミは、承諾を決めて微笑んだ。
「……何でもありません」
機会さえ得られたなら、貞枝は後で教えてくれるだろう。
イズミが今すべき事は、家族の〝アソビ〟を無粋に壊す事ではなく――少女と〝アソンデ〟あげる事なのだ。イズミは、首にぶら下がる少女を見下ろした。
「……杏花、さん?」
改めて呼んでみると、少女――杏花の顔に、ぱっと笑顔の花が咲いた。
「はい、お兄様!」
あまりに幸せそうに笑うので、イズミもつられて微笑んだ。名を呼ぶくらいでこれ程喜んでくれるなら、此の〝アソビ〟も然う悪いものではない気がした。
伊槻の様子を窺うと、複雑そうに笑っていた。共犯者めいた笑みは、まだ消えない。罷り間違っても、己は同じような顔をしてはならない。イズミが意識的に笑みを作ると、杏花が強く抱きついてきた。首がまた少し締まって呻いたところで、貞枝が口を挟んでくれた。
「杏花。良かったわね。和泉お兄ちゃんにお名前を呼んでもらえて。お兄ちゃん、首が苦しいみたいよ。一寸放してあげなさい?」
「いやです、お兄様と一緒がいいのです」
杏花は、いやいやと首を振る。腕の位置がずれたので、息苦しさが軽減した。「大丈夫です、貞枝さん」と答えると、貞枝は感心した様子で息をつき、じっとイズミの顔を見つめてくる。意味を察したイズミは、特に感情もなく其の視線を受け止めた。
「僕の顔に、何かついていますか?」
おどけた調子で訊ねると、貞枝もイズミが気取った事に気づいたらしい。微かな自虐の入り混じったような笑みで、其れでいて穏やかに微笑んだ。
「貴方の目を見ていたの。本当に青いのね。不思議だわ」
「よく言われます。目だけではなく、髪も。単純に顔を見られる事も多いですね」
「気に障ったかしら。御免なさいね」
「いいえ。そのようなことは」
イズミは生真面目に言った。虚勢ではなく、本心だ。日本暮らしは長いのだ。好奇の目など慣れている。風貌を理由に傷ついた事もあまりなかった。
何故なら、イズミには父がいる。克仁もいて、国境を越えれば母もいる。イズミの愛する人達に、イズミは心から愛されている。其れらの『愛』で、全ては完結しているのだ。他者の入り込む隙など、何処にもない。
「イヴァンお兄様のお嫁さんも、瞳は青色なのかしら?」
続いての質問にも、イズミは「はい」と難なく答えたが、此れには少しばかり驚いた。イズミの母の話題を振られるとは、思いがけなかったのだ。
貞枝は屹度、イズミの父が離縁を決めた事を知らないのだろう。ただ、貞枝ならたとえ知っていようと、躊躇せずに訊く気もした。悪戯っぽく細められた目は狐のようで、薄く引かれた紅の赤さが、妖しさを醸し出している。
やはりイズミは、此の女性を人間扱いしていない。人を誑かす狐狸妖怪の類ではないかと、心の隅で疑っている。幼い頃から変わらない感性が、我ながら可笑しく面白い。貞枝への苦手意識まで、あの頃とそっくり同じなのだ。
「其れにしても、御父様ったら。ああ見えて意外だと思いませんか?」
「意外とは?」
意味を汲めなかったイズミは、訊き返す。貞枝は、「だって」と言って愉しげに笑った。
「貴方、何年か前に私の父と会った時、堅物そうだと思ったのではなくて?」
「いいえ、そのようなことは」
確かに、國徳の語り口は朴訥としたものであり、感情の機微が読み取りにくい。しかし客人の身で頷くわけにもいかず、イズミは当たり障りなく答えた。
だが、相手は狐狸妖怪の呉野貞枝だ。此の程度の思考は看破されているだろう。然う踏んでいると案の定、貞枝の双眸が細められた。やはり、看破されていた。
「和泉君。御父様はあれでロマンチストなのですよ?」
「ロマンチスト?」
イズミが目を瞬くと、「貞枝、止さないか」と伊槻が小声で妻を諭した。此の話題に対して、あまり乗り気ではないようだ。
貞枝の方はどこ吹く風で「いいじゃない、伊槻さん。和泉君だって知りたいでしょう? 御父様のロマンス」と、伊槻をまるで相手にしない。イズミはロマンスという言葉に吃驚したが、膝の上で杏花が「ろまんす?」と不思議そうに復唱したので、ふと我に返って呟いた。
「そういえば僕は、御爺様が何故ロシアへ渡ったのか知りません」
其れに、なぜ離縁して日本へ戻ったのかすら知らない。言外の疑問を貞枝は的確に見抜いたのか、淑やかな口調で言った。
「ロシア行きのきっかけは、御父様の御友人が、大学でロシア文学を学んでいたからだそうですよ。あら、然ういえば和泉君は受験生ね。志望校は決めているの?」
「いえ。文学部への進学を考えていますが、どの大学に進むかは、まだ決めかねています」
淀みなく、然う答えた。勉強は、イズミにとって生活の一部だ。ロシアの学校に在籍していた頃から、イズミは学びと共にあった。
ただ、其の学びには向学心はあれど、目的は無かったように思う。自発的な学習には夢や目標が付随するものだろうが、他者にはあるはずの目的が、イズミの内には何処にもなかった。
学習から目的が欠けていようと、イズミは知識を求め続けた。克仁から教わった日本の歴史、昔話、文学。多岐に渡ってイズミは学んだ。来日したばかりの頃、日本語がまだ未熟で、克仁とたどたどしく会話していた頃のイズミ・イヴァーノヴィチと同じ気持ちで、イズミは常に、学ぶ為に学んでいる。
大学受験の願書提出まで、まだ猶予はある。其れまでの間に、イズミの将来を揺るがすような、進路を是と定めるような、劇的な瞬間は訪れるのだろうか。もしかしたらイズミは、そんな瞬間を己が迎えた時に、どんな道であれ歩いてゆけるように、学びを追及しているのかもしれない。些か哲学的な捉え方だが、今はまだ其れ以上の結論を出せなかった。
「イヴァンお兄様から、和泉君は勉強が大変良く出来る子だと聞いています。受験勉強の調子はどう?」
「まあまあです。これから頑張ります」
のらりくらりと、イズミは笑う。形式的に頑張るとは述べたものの、イズミには其れが出来るからだ。出来ないのは、其処から道を選ぶ事だ。イズミは其れを、頑張らなくてはならないのだ。
貞枝は、そんなイズミの怠惰と、対を為すような勤勉さに気づいたのかもしれない。笑みの質が、ほんの少し人の悪そうなものに変わった。他人の失敗に気づいて後ろ指をさすような嘲りが仄見えた気がしたが、然程悪い気はしなかった。気に病む理由も必要も、イズミは特に感じない。
「貞枝、イズミ君が困っているじゃないか」
イズミの沈黙を狼狽と受け取ったのか、伊槻がやんわりと貞枝を咎める。貞枝は「あら」と笑い声を立てて、先程から細々と語りの邪魔立てをする夫を、軽い調子で睨んで見せた。
「厭だわ、伊槻さんたら。すっかり後ろめたそうにしちゃって。御心配なく。私と貴方のロマンスまで、和泉君に喋りませんよ」
「おい、貞枝。止さないか……」
「あら、照れちゃって」
頬を朱に染めて狼狽える伊槻を見て、貞枝が楚々《そそ》と笑う。
「照れ屋の伊槻さんは放っておいて、話を私の御父様の事に戻しましょうか。和泉君は貴方の御爺様について、どれほどの事を知っているの?」
「実は、あまり。御爺様はロシアで離縁を経験し、その後日本へ帰国された事くらいしか、僕は聞かされていませんから」
其の言葉に、嘘はない。父であるイヴァンさえ、其れ以上の事情は知らないはずだ。父の方はもしかすると、数年前の和解時に何かを知り得たかもしれないが、ともあれ謎は謎のままだ。貞枝は、こくりと一つ頷いた。
「私の御父様であり、貴方の御爺様である呉野國徳には、ロシア語を専攻している御友人がいらっしゃったと、さっき私は云ったでしょう? 御父様は其の御方に付き添う形で、ロシアに渡ったそうなのよ。其処で、とても素敵な御方と出逢ったんですって。名前を……ソフィヤさんと仰ったかしら」
「ああ、間違いありません。祖母の名前です。僕が生まれた時には既に、病気で亡くなっておりましたので、お若い頃の写真でしか、お顔は存じておりませんが……とても綺麗な方ですよ」
「……そうなの」
亡くなったと聞いたからか、貞枝の口調が神妙なものになる。
「いつか、お会いしてみたいと思っていたのに。残念だわ」
「僕もです。御爺様は、御婆様の写真をお持ちではないのでしょうか。是非、見せて頂きたいのですが」
イズミは思わず訊ねてから、とんでもない質問をしたと気づき、はっとした。
――離縁した女の写真など、再婚した男が持っているわけがない。
其れに、もし隠し持っているのだとしても、だ。其れは、現在の家族に訊くべきではなかった。
伊槻の顔が、若干引き攣っている。イズミの失言に気づいたのだ。
気まずい空気が、和室に流れた。此の家の天井は高く、見事な梁が渡してある。二階にある屋根裏部屋の床はまだ傾いているだろうか、と沈黙に包まれる和室で蝉の声を聞きながら、漠然とイズミは思った。
不思議なことに、動揺は少なかった。申し訳なさとは裏腹に、もう口から飛び出した言葉は取り返せないのだから、仕様がないではないか、と。そんな開き直りに近い豪胆さも、心の内に認めたのだ。沈黙もまた気まずさを生むと気づいていたが、真心なき言葉で言い繕う行為に、イズミは意味を見出せない。
伊槻がとりなすように、「まあ、まあ」と不器用な合いの手を入れる。配慮の笑みを見た貞枝が、夫の隣で吹き出した。
「……写真はね、実は何枚かあるのですよ」
「はい?」
イズミは、驚く。貞枝はとっておきの秘密を打ち明けるように、優しい口調で囁いた。
「でもね、御父様ったら。私達には見せて下さらないのです。とッても大切にしている御本に、愛する人の写真を閉じ込めているのよ。稟御母様、嫉妬なさっていたわ。昔の女をまだ引き摺っているのね、なんて云って、随分恨んでおいででしたわ」
「……。御爺様は、ソフィヤ御婆様から御心が離れたから、離縁されたわけではないのですね」
イズミは、静かに言った。此れもまた失言だと判っていたが、何となく言葉の形にしておきたかったのだ。
其れに――薄々だが、そんな気はしていたのだ。
「そうね。時代の所為もあったかもしれませんね。父は長男でしたから、実家の神社を継いでくれなくては困る、と親類縁者から随分責められたそうなのよ。頭のお固い方もたくさんいらっしゃったそうだから。呉野の血筋に外国の血が混じる事へ、抵抗を感じておられたのね」
貞枝の声は、微かな労りを含んでいた。イズミを気遣っているのだ。返事の代わりにイズミは笑ったが、暫しの黙考の後に、ぽつりと言った。
「僕の御爺様は、何だかとても日本文学的な御人ですね」
「日本文学?」
「ええ。御爺様の青年時代のお話から、森鴎外の『舞姫』を連想しました」
「まあ」
貞枝が、目を瞠る。漆黒の瞳に、縁側からの日差しが輝いた。
「本当ね。――異国に渡った青年、豊太郎が、其の地で出会った踊り子の少女、エリスと恋に落ちる。付き添いに友人もいる事ですし、まさに文学通りね。和泉君、私の御父様だけではなくて、貴方もなかなかのロマンチストではなくて?」
「いえ、そのようなことは」
奇想天外な称号を賜ったイズミは、大いに面食らった。
「最近、高校の国語の授業で『舞姫』を扱ったのです。ですから、僕がロマンチストというわけでは、決してなくてですね」
「あら、厭だわ。意外と律義で、生真面目なのねえ」
しかつめらしく言い訳するイズミを、貞枝がからかう。そして、何かを思いついたらしい。笑いを収めて、おもむろに言った。
「……ねえ。文学のお話になったところで、和泉君に一つ、良い事を教えて差し上げます。貴方の御爺様の好きな日本文学作家、何方か御存知?」
「日本文学作家、ですか」
イズミは、今度は突然の質問に面食らう。貞枝は、杏花をちらと見た。
「ヒントは……此れを云うと、答えになってしまうわね。さあ、判りますか? 和泉君。私の御父様、そして貴方と杏花の御爺様である、呉野國徳。彼の愛する文豪は、何方でしょう?」
「……。今の貞枝さんの目線で、確信しました」
イズミは貞枝と見つめ合い、次に杏花を見下ろした。
両親達の会話に口を挟まず、イズミの身体からじっと動かなかった幼い少女は、イズミと目が合った途端に、唇から白い歯を覗かせてにいと笑った。
――此の少女も、答えを知っているのだろう。楽しさが体温と一緒に伝播して、イズミも自然と薄く笑った。
其れに、最初から――其の符号には、気づいていたのだ。
イズミは、杏花を身体にしがみ付かせたまま、居住まいを正す。動きにくいながらも背筋を伸ばし、確実に正解であろう其の名前を、明瞭な語調で告げた。
「國徳御爺様の、愛好する文豪。その御方は、泉鏡花ですね?」
膝の上で、杏花が身じろぎをする。楽しげな笑い声が弾けて、イズミの首に抱きつく力が強くなった。
愛娘の反応を見た貞枝も、忍び笑いを漏らしている。伊槻だけは、ぽかんと唇を開いていた。イズミが正解を叩き出した事が、余程意外だったに違いない。
「正解ですよ。和泉君。さっき気づいたわけではないのでしょう? 貴方、いつ頃から気づいていたの?」
「御息女のお名前を知った時からです。僕達の名前の、音の響きが気になっていました。もし、従兄妹である僕等の名前に、何らかの繋がりがあるのだとすれば、該当する文豪はお一人です。――イズミとキョウカ。かなり判り易いかと思います」
「そうかしら。貴方は判り易いと云ったけれど、一概に然うとも云えないのではなくて? お若い貴方が泉鏡花を知っているというだけで、私は驚きましたよ。作品を読んだことはありますか?」
「いえ、一度も。いつか読んでみたいとは思っていました」
同居人の克仁が読書好きの人なので、藤崎家の本棚にも泉鏡花の著書が並んでいることは知っていた。幽玄の世界へ誘うような清冽さを纏う其の書籍に、イズミはまだ手を伸ばしていない。
其れらの文学に触れた時、此れまでの己が決定的に変わってしまう。そんな漠然とした予感があったのだ。
「そう。丁度いいわ」
貞枝は顔を綻ばせると、華やかな笑顔で伊槻を振り返った。
「伊槻さん、良かったじゃない。和泉君は日本文学が判る人よ。貴方のお勧めの鏡花作品を紹介してあげたらどうかしら?」
「貞枝、イズミ君が困ってしまうだろう」
伊槻は、びっくりした様子で妻を諌める。だが、貞枝の押しは強かった。
「いいじゃないの。伊槻さんだって、お客様とお話するのはお好きでしょう? 其れに、鏡花作品は短編が中心ですし、数も多いわ。和泉君、読みたい作品は決まっているの?」
「いいえ、まだ何も。伊槻さんさえ宜しければ、お勧めの作品を教えて頂けたら嬉しいです」
イズミは、おどおどしている年上の男に会釈した。此の言葉は世辞ではなく本心で、貞枝の厚意を無下にするのは申し訳ないという思いもあるが、己とは異なる感性を持つ他者が選んだ文学に、純粋な興味が湧いたのだ。
催促された伊槻は、「参ったな」と言ってはにかんだ。台詞とは裏腹に、声はまんざらでもなさそうだ。貞枝の言葉通り、人と話をするのが好きなのだろう。
「じゃあ、僕からお勧めさせてもらおうかな。そうだ、貞枝もお勧めの作品を披露したらどうだい? 君には、君だからこそ胸を張ってお勧めできる、とっておきの物語があるじゃないか」
「あら。厭な人ね、伊槻さんて」
無邪気な口ぶりの伊槻へ、貞枝は柳眉を顰めた。瞳に冷酷な光が過り、帯のような黒髪の艶やかさも相まって、幽鬼染みた凄みが宿る。
夫婦のやり取りに首を傾げたイズミをよそに、愛妻の機嫌を損ねたと気づいた伊槻は「まずは、僕のお勧めから」と、早口で話題を切り替えた。
「僕は泉鏡花の作品なら、『女客』と『売色鴨南蛮』をお勧めするね」
「それは……いえ、内容は今後の楽しみに取っておきます。短編ですか?」
「そうだよ。さっき貞枝も言ったように、この文豪の著作は短編が多いんだ。長編からも名作を挙げるなら、『婦系図』が僕にとっては印象深かったよ。独逸語学者の男と芸者の女の愛と別離が、はっとするほどの切なさに義理人情を交えながら、この文豪にしか描き出せない筆致で、巧みに表現されているんだ。読み始めのうちは、独特の硬い文体に馴染めないかもしれないけれど、いつの間にかページを繰る手が止まらなくなること請け合いだよ。終盤の畳みかけるような展開がまた素晴らしくて……ああ、こうして話していると、また読み返したくなってくるなぁ」
伊槻は、小説の具体的な内容は語らなかった。此れから物語の扉を開くイズミに、気を使っているのだろう。あらすじは判らずとも、読み手が其の物語にどれほど魅了されたか伝わってくる語りは、イズミには存外に好ましく響いた。
「短編の作品群に通底するものは、物語の凄絶なまでの美しさだね。終盤にかけて描かれる緊迫感と、触れた瞬間に弾けてしまいそうな狂気に通じる情感を、読み手の想像力に訴えてくる表現は、全く神業としか言いようがない。僕は貞枝と出逢ってから鏡花文学に触れたから、もっと早く読んでいれば、と悔やんだね。そんなわけだから、イズミ君。僕は君が羨ましいよ」
「成程。それは是非とも読んでみたいですね」
イズミが頷くと、伊槻も満足げに頷き返した。やはり、仔細は不明であれ商社マンという職種故か、会話の中心にいる伊槻は生き生きしている。愛娘を〝キョウカ〟と呼んだ時の困惑顔とは打って変わって、笑みは溌溂と明るかった。
ふと貞枝を盗み見ると、妙齢の美女の表情に先程までの凄みはなく、穏やかな目で夫の語りに耳を傾けている。
機嫌が直ったのか、其れとも、其れを装っているのか。判らないイズミには、目の前の会話に集中する他なかった。
「イズミ君は、泉鏡花がどういう作風の物語を書かれる方か知っているかい?」
「確か、先ほど伊槻さんが仰ったような恋愛を描かれている他には、幻想文学でしょうか。お化けの出てくる不思議な物語を紡がれる方、という印象があります」
「ああ、そんな感じだなあ。僕は貞枝や義父ほど読書家というわけではないから、取りこぼしも多いだろうけど、鏡花作品にはお化けの出てくるものが多いらしいよ。幻想文学の有名どころなら、『高野聖』と『草迷宮』辺りかな。現世と幽世の狭間を彷徨っているような夢見心地に、自然への畏怖の念が織り交ざったような、不思議と敬虔な気持ちになる物語群だよ」
「ふふ、でも伊槻さんが好んで選んだものには、どちらもお化けが出て来ませんね?」
貞枝が、茶々を入れてきた。イズミの膝で、杏花がもぞりと動く。母の顔を見上げたのだ。イズミも其方を見つめると、貞枝は唇を引いて笑っていた。
意地悪な笑みだった。ぎくりと妻を振り向いた伊槻も、イズミと同様の感想を持ったらしい。きちんと髭をあたった顎を掻くと、言い訳の口調で言った。
「お化けが出てくるものが、嫌だというわけではないんだ。ただ、人間だけで織りなすドラマの方が、僕にはしっくりくるだけで……」
「あら、そうかしら。違うわね。伊槻さんは、美しいものがお好きだからよ」
貞枝は、取り合わなかった。伊槻の言い分を一蹴して、狼狽える夫へにこりと笑う。
「貴方が選んだ『女客』と『売色鴨南蛮』。どちらも美しいお話ね。鏡花文学の美しさは、破滅の道を往く苛烈さと、修羅の如き情念の凄絶さにあるからこそ、私には貴方が其の二作を挙げたことが面白いわ。伊槻さんは優しいもの。好きな文学作品に、性格がとても表れていてよ」
「それは……」
伊槻は、顔を赤らめて黙ってしまった。「どういう意味ですか?」とイズミが訊くと、振り向いた貞枝が「じゃあ和泉君。私のお勧めを教えてあげるわ」と質問を無視した言葉で応じてきた。
「私が貴方にお勧めするのは、『外科室』と『義血侠血』です。『琵琶伝』も素敵ね。伊槻さんがお勧めするお話だって、もちろんとッても綺麗だけれど、私が鏡花文学の素晴らしさを語るなら、『外科室』は外せませんね」
「貞枝……」
伊槻が、呆れの眼差しで貞枝を見る。貞枝は「何かしら?」と澄まして答えた。
「君が挙げた短編は、全て観念小説じゃないか」
「あら、初めて読む鏡花文学が、観念小説ではいけないの?」
「観念小説?」
イズミは訊く。「ええ」と貞枝が頷いた。
「観念とは、ある物事に対して個人が持っている思想や意識の事ですよ。社会、時代、世相……然ういった様々なものに感銘を受けて、強い触発から打ち出した観念を、小説の形でしたためたものを、観念小説と呼びます。あとは……諦めてしまうことも、観念すると云うわね」
睫毛を伏せた貞枝の目に、儚げな光が灯る。一瞬だけ仄見えた哀切は、此方に目を戻した貞枝の顔からは消えていて、笑みは明るいものに変わっていた。
「作者の思想が強く打ち出された小説の事、と捉えたらいいのではないかしら。鏡花文学の観念小説として代表的なものが、私がお勧めした『外科室』と、他には『夜行巡査』が挙がるわね。どちらの短編も、狂おしいまでに凄烈な男女の愛と其の破滅を、泡沫の夢のような繊細さで描き出した、極楽浄土のように美しい短編です。……嗚呼、破滅の理由なんて、今は訊いてはいけなくてよ。もし貴方が、其処に描かれた地獄の景色を見たいなら、其の青色の瞳で確かめに行けばいいのですから……」
「結局、君が話してばかりじゃないか」
伊槻が、へそを曲げて泣き言を言う。貞枝は「御免なさいね」と夫へ笑いかけながら、肩を落とす伊槻から視線をあっさり外して、イズミを見た。
「伊槻さんが『女客』と『売色鴨南蛮』で、私が『外科室』。最後に、御父様――貴方の御爺様のお勧めも、私から」
「御爺様にも、お勧めの作品があるのですか?」
「もちろんよ。元々、私の父の泉鏡花好きが嵩じて、貴方達はイズミとキョウカになったのですもの」
名の挙がった杏花が、嬉しそうに「ふふ」と笑った。愛らしい声を聞いて、母も我が子に笑みを返す。貞枝はイズミを見つめ直すと、紅の引かれた唇を動かして、其の文学作品の名を紡いだ。
「貴方の御爺様のお勧めは――泉鏡花の『化銀杏』です」
――燃え立つような黄色に染まる銀杏の葉が、脳裏で枝葉を大きく広げた。知らず知らずのうちに息を詰めていたイズミは、厳かな目をした貞枝と見つめ合う。
「その物語も、短編ですか」
「ええ。そうよ」
「その物語も……男女の愛と、そして……破滅を、描かれているのですか」
「そうね。屹度。貴方も、然う思うはずよ」
貞枝の微笑に、陰りが兆した。縁側の外で、雲が束の間、日差しを遮ったに違いない。陽光の明るさが再び和室に満ちていくと、貞枝の笑みにも張りが戻った。
「和泉君。貴方の興味を引いた文学作品はどれかしら。読みたいものがあるのなら、本をお貸ししますよ」
イズミは、暫し逡巡する。最近読みかけている本が一冊あるが、其れは既に一度読破している。貞枝の申し出は、受験勉強の息抜きに丁度いいかもしれない。
「それでは、何か一つ。お願いします」
「あら、何を一番読みたくなったのか教えてくれないのね。私達、折角お勧めを披露しあったのに。残念だわ」
貞枝は、甘さを含んだ声と上目遣いでイズミを責める。苦笑したイズミは、申し訳なさから提案した。
「皆さんのお勧めから一つを選ぶなど、僕にはとても出来ません。代わりに、読み終わった後で感想を言います。それで許して頂けませんか?」
「そう。其れなら、いいわよ」
仕方無いとでも言うように、貞枝が微笑む。伊槻は語り部の役割を完全に取られて不服そうな顔をしていたが、イズミは思わぬところから文学的な知識を得られ、予想外の拾い物をした気分だった。
ちらと壁掛け時計に目を向けると、現在の時刻は午後の三時。イズミが此処に来てから、三十分が経っていた。
「……」
――遅い。
とはいえ、数年ぶりの再会なのだ。積もる話もあるだろう。だが、其れにしても、イズミを残して此れほどの時間、一体何を話しているのだろう。
畳に転がした父の革鞄に、自然と目が吸い寄せられる。持ち主の手を離れた孤独な姿は、在りし日にイズミが公園に忘れてきた赤い風車の記憶と重なった。
馴染みのない家の藺草の匂いが、十八歳になっても変わらない苦手意識を揺さぶって、幼少時の鬱屈を、僅かながら呼び覚まして――気づけば、イズミは言っていた。
「……お庭を、見せていただいても構いませんか」
貞枝が、目を丸くする。少年が青年に成長しても、変わらない逃げ口上に気づいたのか、愉快そうにくすくすと笑い始めたので、隣で伊槻が驚いていた。
「貞枝、何を笑っているんだ?」
「いいえ、何も。可笑しいことなんて、何もないのよ」
貞枝は然う断ったが、顔は楽しげな笑みのままだった。娘たる杏花であっても母の発作的な笑いは解せないようで、不思議そうに小首を傾げている。
「杏花。和泉お兄ちゃん、お庭が見たいそうよ。どいてあげなさいな」
「いやです。お兄様と一緒がいいのです」
「ふふ、然う云うと思ったわ」
貞枝が、呆れ笑いのような眼差しでイズミを見た。
「御免なさいね、和泉君。あの時には貴方一人だったけれど、今日は二人よ。うちの娘も連れて行ってあげて下さいな」
「それは構いませんが、毎日見ているお庭でしょうから、お嬢さんにはつまらない思いをさせてしまうのでは……」
「お嬢さんではありません! 杏花です!」
真下から、突然に頭突きを食らった。意表を衝いた攻撃は見事に決まり、イズミの顎が仰け反る。恐るべき六歳児だった。人間の急所を知っている。
伊槻が「おい、キョウカ」と慌てた様子で叫ぶ声に混じって、貞枝の笑い声も聞こえてきた。イズミは痛む顎をさすりながら、膝の幼女を見下ろした。
杏花は、頬をぷくりと膨らませてむくれている。イズミが他人行儀な呼び方をした事は、此の少女にとっては其れほどまでに許せないことなのだ。
……正直な感想としては、少し一人になりたかった。大人との会話は苦にならないイズミであっても、此処での会話は体力を消耗したのだ。
自然の清涼な空気の中で、凝った疲れを風に流したかったのだが――貞枝の言葉を引用すれば、些か言い過ぎな気もしたが――観念するしか、ないのだろう。
此れほどまでに幼い少女と、何を話せばいいのだろう。判らなかったが、特に厭だとも思わない。幸い懐いてくれているので、其処はせめてもの救いだろう。
「行きましょうか、杏花さん」
「はい、お兄様」
イズミが促すと、杏花はふくれっ面のままだったが、きちんと返事をして膝から降りた。先程の怒りは、多少和らいでいるように見る。イズミが杏花を連れて行くと請け負ったからか、あるいは名前を呼んだからか。機嫌を直してくれるなら、解釈の差異は然したる問題ではないはずだ。
「杏花さん、お庭に行きましょう。僕はここに来るのがまだ二度目なので、迷子になってしまうかもしれません。杏花さんが、僕を案内してくれませんか?」
イズミが言葉を重ねると、少女の顔に笑顔が戻ってきた。まるで、やっと自分を見てくれたとでも言うように。
「……遊んでくださいな、お兄様」
小さな声で乞われたイズミは、杏花に頷いて見せる。そして、頷くだけでは足りないだろうと思い直して、しっかりと言葉で言い添えた。
「仰せのままに。杏花さん」




