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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第1章 赤ら顔の異人さん
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赤ら顔の異人さん 4

「『遠野物語』を中学生のうちから読むとは感心です。難しいでしょう」

「はい。でも、面白いですよ。私、少林寺拳法を習っていて、そこの師範が教えてくれたんです。『遠野物語』を執筆された人が、民俗学という学問を提唱したそうです。民俗学は、昔の風習とか、伝説とか、民間伝承……言い伝えとか、そういうものを指していて……」

 どういう形で表現すれば、異国の男に伝わるだろう。説明に骨を折るうちに、はたと和音は気がついた。そもそも相手はこの神社の神主であり、日本暮らしも長いのだ。噛み砕いた説明など、必要としないのではないだろうか。その考えは当たっていて、和泉は気さくに頷いた。

「道理で。〝赤ら顔をした異人が現れて、子供や娘を山に攫う〟というのは如何にも民俗学的で、今時の娘さんの発想ではありませんから。素敵な発想だと思いますよ」

 当たりどころか、大当たりだったのかもしれない。

「……『遠野物語』、ひょっとして、読まれたことがあるんですか?」

「はい。日本文化や文学、民俗学に造詣(ぞうけい)が深い方からお話を伺っております」

 古風な文体で綴られた物語を、和泉はものともせずに読んだのだ。目の前の人間が本当に異邦人なのか、和音はこっそり疑った。

「和音さんが連想したのは、神隠しの暗喩である唄と、『遠野物語』の人攫いのお話でしょう。『里』の人間を『山』の異人――赤ら顔で眼光が鋭く、山の神、天狗といった名でも呼称された存在が、何処かへ攫っていくという伝承ですね。特徴としては赤ら顔だけでなく、巨躯であったり顔の彫りが深かったりと、伝承によって異なる点も興味深いですね。いやはや、『外人』と言われた事は多々ありますが、『異人』はなかなかありません。少し異なるだけでも面白いものですね」

 和音は、頬を赤くして俯いた。何故そこまで見抜けるのだろう。からかわれるかと思ったが、男が次に発した言葉は、淡い労りに包まれていた。

「本、破れたのですね」

「……はい」

 火照った顔と意識から、すっと熱が抜けていく。神職の男は、最初から気づいていたのだろう。話そうか話すまいかをしばらく迷い、どう説明すべきかも迷ったが、今までの奇妙な会話を思い出すと、無駄な配慮だと吹っ切れた。着物の帯を解くように私的な話を紐解いても、この人なら大丈夫だ。茫洋とした信頼を胸に、和音は空を振り仰いだ。

「……破られました。これ以外に、ノートも。今日、クラスのリーダー格の子と喧嘩したんです。多分十人くらいで私を潰そうと頑張ってます。クラスの四分の一が、私の敵みたいです」

「変わった言い方をされますね。まるで他人事のようです」

 青色の目を細め、くつくつと和泉が可笑しそうに笑った。

「自分でも、そう思います。でも、思っていたより傷つきませんでした」

 その言葉に嘘はなく、気分は不思議と晴れやかだ。声の形で生まれたばかりの言葉を反芻し、指でなぞるように慈しむと、和音も和泉につられるように、いつしか微笑みを浮かべていた。

「放課後の掃除で教室を出ていた間に、ノートと本がやられてました。私が教室に戻るまでの短い時間で、リーダー格の子達が破いたみたいです」

「それはそれは、ご丁寧なことで」

 慇懃に答えた和泉の目に、愉快げな色が差している。確かに恐ろしい瞬発力と執念で、苛めのターゲットに叩き落とされたものだ。こんな風に(はす)に構えて笑っているから、和音は亜美にとって面白くないのだろう。今までは美也子という守りがあったから、目をつけられなかっただけなのだ。毬だって傍にいてくれたから、和音の演技の露呈がこれほど遅くまでずれ込んだ。二人がいなければきっと亜美は、最初から和音を嫌っただろう。「和音ちゃん」などと呼ばれる事も、多分なかったに違いない。

「楽しそうですね。和音さん」

「楽しい?」

 意外な言葉を受けて、瞬きした。だが、そういう風に言われるのは嫌ではなかった。深刻に落ち込んでいたなら重く響いた言葉だろうが、今の和音には項に抜ける風と同じくらいに爽やかで心地が良いものだった。

「そうかもしれません。友達……毬の事は、気になります。巻き込みたくなかったから、置いていくしかなかったけど……でも、本当は巻き込みたかったんです。あの時、一緒に来てくれたら嬉しかった。美也子の事もそう。なんで野島さんなんか連れて来るんだろうって恨んでました。でも、今はそうでもないです。私は、毬や美也子ほど、周りの誰かと一生懸命に向き合おうとなんてしなかったから。そんな私が今になって、二人に友達としての役割みたいなものを要求するのは、都合がよくて、身勝手です。もっと悲しくなったり、苦しくなったりすると思ってたのに、そんなことにはならなくて……変なんですけど。すっきりしました」

「きっと、無理をされていたからですよ。貴女はしっかり者ですからね」

 不意打ちで褒められ、和音は驚いて隣を見上げた。温もりと慈悲深さを湛えた青い目で、和泉はこちらを見下ろしていた。

「多様な感情の海の中には、直視を恐れる汚れもありましょう。それらを声に出して吐き出す行為は、相当の勇気が必要です。己の内面を真摯に見つめ、言葉の形で告げた貴女はご立派です」

「そうでしょうか……」

「そういうものですよ。貴女は調和の為に人格を歪めなくとも、人と調和できるのです。無理な自己変容を強いれば綻びが生じ、亀裂はたとえ小さくとも鬼のつけ入る隙になります。それをきっと、人は『弱さ』と呼ぶのでしょうね……」

「……? よく分かりませんけど、何となくなら分かります」

「有難う御座います。そういえば先程、少林寺拳法を習っていると仰いましたね。何故少林寺を選んだのです? 空手や合気道など、様々な武道があったでしょう」

「それは、さっき言った毬って子がきっかけなんです。あの子の通ってる道場に、見学に行ったのがきっかけでした」

 答えた和音は、懐かしさを覚えた。十二歳から少林寺拳法を習い始めたという毬は、覚えがあまり良くはなく、技を体得するのにもかなり時間をかけていた。今ではすっかり和音の方が上達しており、そんな落差を毬は楽しそうに笑っていて、師範も一緒になって笑いながら、毬の頭をぽんぽんと優しく撫でていた。

「少林寺って、それまで空手との違いもあんまりよく分かってなかったんですけど……人を傷つけず、自分の身を守る。そんな精神の拳法なんです。私は別に、人を倒す為に強くなりたいわけじゃなくて、そういうのを楽しむわけでもなくて、自分の身を守れるくらいには、きちんと鍛えたかっただけなんです。だから、この流儀が一番しっくりきて……それで、始めました」

 言いながら照れ臭くなり、和音はそそくさと締めくくった。この調子で穏やかな会話が続いていくものかと思いきや、夕日の赤に染まった横顔が、何故だかぞっとするほど冷たいものを孕んだ気がして、和音は息を止めた。

「貴女は、危険です。狙われています」

「……え?」

「言霊という言葉をご存知でしょうか」

 灰茶の髪を夕刻の風に遊ばせた和泉は、端整な横顔に作り物のような微笑みを乗せて、和音が先程そうしたように、空を大きく振り仰いだ。

「言霊とは、声に出して発した言葉には力が宿り、現実に対して何らかの影響を与えるという考え方です。その言葉を人が聞く、聞かないに関わらずです。声に出すという行為だけで現実に対する打撃力となり、良い事を言えば良い事が、そして良くない事……不吉な事を言えば、不吉な事が起こります」

 冷えた風が、頬を打つ。見下ろす住宅街のどこかから、鴉の鳴く声がする。枯れ枝同士が触れ合う音が、黙に嫌に響き渡った。

 ――言霊。

 意味なら分かるが、詳しい知識は持っていない。そういった日本的な教養を異国の男から授けられるとは思いもよらず、和音は面食らっていた。

「そして、ここで僕の妹、呉野氷花さんが出てくるのですが――彼女の〝言葉〟が、どうやらそれに当たるらしいのです」

「彼女の、言葉が……?」

「僕の不肖の妹は、実に困った性格をしておりまして。自らの発する言葉には尋常ならざる霊威が宿っていると、何やら妄信しているのですよ」

 上品な笑い声が、冬の寒さの所為だけでなく張りつめた空気に、妖しく溶ける。和音が疑問を挟む間もなく、和装の男は語り続けた。

「可笑しいでしょう。十五にもなる少女が、世界は己の思うままだと信じて疑わないのです。例えば、明日の天気は雨がいいと一言願いを天にかければ、言の葉の御霊の導きで、大地に雨を呼ぶような。彼女がこういった平和な〝言挙げ〟をしたことはありませんが、ともあれ。それは本当に異能に因るものでしょうか? 単なる偶然の連鎖を奇跡と信じ、自惚れに溺れているのです。――そうして、人を弄びます」

 言葉の柔らかさとは裏腹に、黄昏時の空色に染まる瞳には、抜き差しならない光があった。和音は肌寒さを意識して、コートの腕を思わず抱いた。

「あの子は他者に、酷薄な遊戯を仕掛けてきます。他者に妙な〝言霊〟を吹き込むことで、己の言葉が他者に与える影響力を実験し、他者を玩具に一人遊びをするのです。ただし、あの子の操る〝言霊〟は『会話』が絶対条件のようですが。一人でぼそぼそと何事かを呟いたところで効果はなく、必ず他者との『会話』を引き金にして相手の『弱み』を引きずり出し、そこへ妄言をぶつけてくるのです」

「和泉さん、ちょっと……やめて下さい。何の冗談ですか?」

「はい。冗談ですよ」

「……。はあ?」

「ただ、あの子が他者に迷惑をかけてしまうのは事実です。人の弱みにつけ込む、とはよく言ったものでして。人が『恐れているもの』、『引け目に思っているもの』、すなわち『弱み』に対して、あの子は己の影響力を執拗に誇示してきます。『弱み』をあの子に悟られたら厄介です。鬼の首を取ったように得意になり、他人が聞けば戯言としか思えない妄言を武器に迫ってきます」

「……すみません。意味が全く分かりません」

「では、分かりやすく言いましょう」

 清廉な衣裳に身を包んだ夢のように美しい男は、先程の妖しさなどそっくり消え失せた透明な微笑で、言葉通り冗談のような言葉を紡いだのだった。

「あの子は人の弱みが三度の飯より好きな愉快犯です。『弱み』を握られたら最後、それをネタにしつこく言い寄られ、和音さんは気分を害されると思います。また、相手に与えたその不快感は、己の異能の力が齎したものだと信じています」

「……」

 沈黙する和音は、かなり間が抜けた顔をしていたと思う。全部嘘だと言ってくれたら笑い飛ばせるのに、和音が黙れば黙るほど、両者の沈黙が長引くだけだ。言おうか言うまいか随分迷ったが、どうしても我慢できずに和音は言った。

「……すみませんけど、その。あなたの妹さん、馬鹿なんじゃないですか」

「全くもってその通りです。言い訳の余地もありませんね」

 身内を貶めたにも関わらず、和泉は可笑しそうに同調してくれた。おそらくは、和音の反応を見透かした上で、調子を合わせて笑っている。和音も演技に手を染めた人間だから、小さな違和感には気づいてしまう。

「和泉さんは、どうして私の考えが読めるんですか?」

「人生経験による学習の成果です。貴女にもできるようになりますよ」

 思い切って直球で訊ねたのに、大人の言い訳が返ってきた。和音としては不服だが、和泉は肩を竦めてはぐらかした。

「僕は、貴女が心配だったのです。妹の話しぶりでは、次の狙いは貴女のようでしたから。妹がご迷惑をおかけする前に、貴女にお会いしたいと考えていたのですが……僕の心配は、杞憂だったようですね」

 白い着物に包まれた腕が持ち上がり、細くしなやかな指が和音の頭に触れた。骨ばった男の手の平にどきりとして、和音は動けなくなる。

「僕が思っていたよりも、貴女は己の身を守る術に長けていました。貴女の師の教えも良いのでしょうね。思うままに行動すれば、きっと大丈夫ですよ」

「それは、神主さんとしての言葉ですか?」

「いいえ。神主も神ではなく人間ですから。一人の人生の先輩が、後輩に送る激励です」

 髪に触れた指と温度が、離れていく。和音は、手元の文庫本を見下ろした。

 後半部分が引き千切られて、背表紙を失った『遠野物語』。民間伝承の詰まった本を通して、和音は見つめた。己の身に降りかかった出来事を。話し相手の、呉野和泉を。そして、その妹の、呉野氷花を。

 ――氷花は何故、和音を狙おうと決めたのだろう?

 もし和泉の言葉通りなら、和音は氷花から近々接触を受けることになる。そうして和泉の言うところの『妄言』をぶつけられ、『厄介な』ことが起こる。それは和音としても、異能の力とやらの設定に甘えた戯言としか思えない。

 ともあれ、今の時点で判明した事実が一つある。

 和音は、呉野氷花から――悪意を向けられているらしい。

「……和泉さん。私が次に何を言うつもりなのか、予想できますか?」

 女子中学生の眼差しを受け止めた和泉は、勝負を挑まれたと気取ったらしい。柔和な笑みに、面白がる色が差し込んだ。

「まだ、僕が心を読めると疑っていますね。それにこの勝負、フェアではありませんね。貴女が勝ちを望むなら、僕がどんな予想を述べようと無意味です。貴女から否定の言葉を返されたら、真実がどうであれ僕の負けになりますから」

「いいえ。勝負は簡単です。私が、和泉さんを驚かせられたらそれでいい。これから私が言う言葉が、和泉さんの予想通りか、違うか。反応が見たいんです」

「……成程。貴女の〝言霊〟がどのように世界を変えるのか、僕も興味が湧きました。その勝負、乗りましょう」

「はい。それじゃあ……」

 頷いた和音は、自らの言葉をはっきりと告げた。

「私は、呉野氷花に抗います」

 灰茶色の睫毛が震え、和装姿の異邦人は、青色の目を見開いた。

「言葉の力で不吉な事が起こるなら、それは呉野氷花の身に起こるはずです。私が傷つくことはありません。でも、もしあなたの妹が、私や私の周りの人達を傷つけるなら、抗います。私は、あなたの妹の悪意なんかに、負けません」

 ざああ――と冬の風が、女子中学生と男以外には誰もいない境内に吹き抜ける。息さえ止めたと見紛うほどに沈黙を守る呉野和泉は、文箱の奥に眠る秘密を和歌で詠み当てられたかのように、淑やかな驚嘆を瞳の内に揺蕩わせていた。和音は申し訳なくなって、頭を下げた。

「すみません、調子に乗りました。妹さんが私を狙ってるって聞いて、ちょっとだけ腹が立ったんです」

「いいえ。構いませんよ」

 さすがに身内を貶し過ぎただろうか。和音は気まずさから謝罪を重ねようとしたが、和泉が次に放った言葉は、和音の予想とは大きく異なるものだった。

「あのお唄。しばらく貴女は唄わない方がいいでしょう」

「え? 唄?」

 咄嗟には何を言及されたかすら分からなかったが、一拍遅れで気がついた。

 ――通りゃんせ。あの唄だ。

「道場の師範とは、僕も少なからず交流があります。師範には僕からもお願いしておきましょう。師範が唄えば貴女も釣られて唄ってしまいそうですので、師範にもしばらくの間は謹んで頂くようお願いしなくてはなりませんね。四か月ほどで結構です。和音さんがこの唄を諳んじる事を、禁止します」

「き……禁止っ?」

 吃驚のあまり、上ずった声が出てしまった。それはあまりに脈絡がなく、横暴とも取れる発言だった。

「唄っちゃ駄目って……どうしてですか?」

「四か月の間だけで結構です。中学に通っている期間は、どうか。お願いします」

 質問の答えになっていない。だが、和泉の声には有無を言わさぬものがあった。

「この唄は、様々な解釈を呼ぶ唄として有名です。歌詞に『この子の七つのお祝いに』とあるでしょう。日本では昔、乳幼児の死亡率がとても高く、七つまで生きる事が難しかったそうです。ですから子供が産まれると、健やかな成長を願う為に、人型に切り抜いた紙やお札を守り神としていた風習がありました」

「あ……それ、師範に聞いたことがあります」

 和音はぽつりと答えた。年少の子供を怖がらせてばかりの師範だが、和音達に唄の由来なども教えてくれる。異邦の男は、何故だか肉親を褒められたかのように、得意げに頷いた。

「ただ、『行きはよいよい、帰りはこわい』と意味深な歌詞ですから。神隠し、人攫いの暗喩を見る人も少なくないでしょう。親が子を捨てる『口減らし』の唄という解釈もありますね。『行き』には確かに居たはずの子供が、『帰り』には居なくなっている。それを周囲から問い詰められるのが『こわい』。解釈は幅広く存在します」

「……」

「ですが、心配は要りませんよ」

「え?」

「別の解釈を提示しましょう。この唄、実存する神社のことを唄ったものだと言われているのは御存知でしたか? その神社ではかつて、参拝客が神社で見聞した機密事項を口外しないよう、大変厳しい管理体制を布いていたそうです。それを揶揄した唄だという説もあるのですよ」

「……参拝客? 管理?」

 唖然としてしまい、和音は言葉を継げなくなった。

 怪談色など、どこにもない。現実と、大人の都合があるだけだ。

「参拝の『行き』はよいのですが、『帰り』は手荷物を関所で何度も検分されて、大層うんざりしてしまう。それを皮肉めいた語り口で唄っているのがこの唄だ、という説ですね。他にも、もう一つ」

「まだあるんですか?」

「ええ。『こわい』という言葉にも、違う解釈の余地があるのですよ。単純に考えれば『恐ろしい』という意味に取れますが、東北地方の方言で『こわい』は『疲れた』という意味を持ちます」

「あっ。じゃあ、つまり……?」

 言葉に手を引かれるように、和音は訥々と答えを導いた。

「帰りは疲れるだろうけど、それでも通っていいよ……って。そういう意味になるんですか?」

「その解釈が正解であれ間違いであれ、どちらでも良いのだと僕は思います。何故なら、この唄には他にも『こわい』を『疲れた』という意味で扱う地域では使われていない方言も混じっているそうです。他所の方言が入り乱れているのを根拠に『こわい』イコール『疲れた』説を否定する解釈も存在するようですが、それもまた一つの解釈として楽しめばいいのです」

「楽しむ……」

「怖がることは何もありません。少しでも楽しんだ方が、唄を貴女に教えてくれた師範も喜ぶと思いますよ」

 ――楽しむ。

 優しい語り口の言葉が耳に残り、和音はしばし放心する。視界が鮮やかに拓かれて、眩しく輝いたようだった。そうか、と思った。そうだった、と思った。

 道場で開かれた読み聞かせの会で、子供を優しく見守る師範と、語りに合わせてはしゃぐ子供。温もりが煌めく空間で、間近に触れた眩しさに、やっと名前を付けられた気がした。和音は、唄を口ずさむのを楽しんでいたのだ。それがいつしか怪談や脅し文句を聞くうちに、恐怖の方へ感情が振れて、幼い子供の遊びに混ざるという面映ゆさも手伝って、素直な感情を見失いかけていた。

 和音へ理解を諭した神主の男は、やがて長い睫毛をそっと伏せた。頬に落ちた憂いの影を見て漸く、和音は和泉の申し出を思い出した。

 唄の楽しさを説いた和泉が、和音に唄を禁じている。和泉はきっと、それを気に病んでいるのだろう。

「何か、理由があるんですよね」

「心苦しいお願いをして、申し訳ありません。貴女のお唄、綺麗でしたよ」

 衒いなく言われたので、和音は頬の熱をやり過ごすのに苦労した。普段こんな風に言われることなど滅多にないので、耐性も免疫もなかった。結局和音は空に逃げ道を求めるように顔を上げて、照れ隠しで囁いた。

「四か月経ったら、また唄います。誰に頼まれなくても。師範があんまりしつこいから、身体に染みついちゃってるんです」

「……有難う御座います。和音さん」

 恭しく囁き返した和泉も、和音に倣って大空を見上げたのが分かった。

 そっと隣を盗み見ると、いつしか和泉の袴と同じ浅葱色に染まった空に向けられた眼差しは、途方もなく遠い彼方へ目を凝らしているようで、こんなにも近くにいるのに、同じ空を見上げている気がしなかった。御山の神様だと言われても信じてしまいそうな神聖さを持つ異邦の男は、悠久の未来を眺めるように目を細め、灰茶の髪を風に靡かせながら――

「この出会いが齎した僕と貴女の〝言挙げ〟にも、全てに意味があるのです。言葉の御霊が、宿るのです……」

 和音には分からない謎の言葉を、虚空へ呟いたのだった。


     *


 翌朝、和音は登校するなり、自分の席を取り囲んだ女子生徒達の背中を見た。

 亜美一派だった。

 クラス中の視線が、和音に集中した。亜美達もこちらに気づき、決まり悪そうに呻いて後ずさった。和音の登校はまだ先だと、鷹を括っていたらしい。

 現行犯を押さえられた程度で動揺するなら、最初からくだらない工作などよせばいいのに。和音が呆れながら普段の調子で歩いていくと、亜美は開き直ったらしい。下卑た笑みをニキビの浮いた顔に乗せると、取り巻き達も判で押したように無個性な顔で粘々と笑った。クラスの男子生徒は緊張の目でこちらを見つめる者ばかりで、ふざけた笑い方をする生徒は特にいない。女子生徒は戸惑う者が半数、亜美のように笑う者が半数だ。やはり、敵だらけらしい。

 和音が机まであと一メートルもないという距離に迫った時、亜美の身体で隠れた机の様相が垣間見えた。机の上には油性ペンが転がっている。何をされたのか、細部を見ずとも把握した。

 今日日、これほどベタでくだらない苛めの痕跡があるだろうか。もっと陰湿な手段なら幾らでもあるだろうに、他にやりようはなかったのか。

 呆れが極まって妙な顔になった和音をよそに、亜美達が手を打ち鳴らしながら爆笑した。まるで猿のようだと思っていると、もう用は済んだとばかりに、亜美達が机から離れ始めた。和音とすれ違った亜美は、どん、と肩を当ててきた。

 肉付きのいい身体の脂肪が、骨ばった和音の身体に、ぶつかった時――すれ違う身体が視界から消え去るよりずっと早く、和音は動いていた。

 一歩大きく踏み込んで、その勢いを殺さないまま身体の向きをくるりと変える。流れるように伸びた手が、机の上を掠めて攫う。インクの匂いが鼻腔に届いた。

 油性マジック。キャップは既に外れていた。誰の物でも構わない。和音は使われた物を使うだけだ。身を翻して駆け出す和音に、教室の全員が気づいていた。反応できなかったのは、この動きを予想できなかった亜美だけだ。気づいた亜美の取り巻きが、慌てた様子で手を伸ばす。道場通いで鍛えられた軽い足取りでそれを躱すと、伸ばされた手は視界の端で空振りした。机か椅子か、あるいは人間が倒れる凄い音がしたが、和音に構う余裕はなかった。

 疾走する視界の中で、クラスメイトの視線が迫る。毬がいた。美也子もいる。驚きで顔を真っ青にして、二人の友人は和音を見る。

 ――助けて欲しい。一度は思った。けれど、もう、望まない。けれど、誤解しないで欲しかった。この感情は失望ではなく、嘘でも演技でもないのだ。和音は二人の事がきっと好きだ。

 たとえこの行為が愚かでも、見栄も体裁もどうでもよかった。今動くことで、変わる何かがある。それを追及したいのだ。この奇行は進路に響くだろうかとも頭の隅で考えたが、そんなもの、成績で十二分に補填可能だ。

 抜きんでた器用さはないが、足りないものは努力で補う。不足感が落下感に繋がるならば、それをも上回る燃料を努力で足し続ければいい。ストイックに割り切ってしまえば、さほど難しい問題ではなかった。

 最初から、分かりきっていたことなのだ。行動に移せなかった原因は、自分を平凡だと割り切った、己の劣等感故だ。

 和音は、笑う。この劣等感は、案外捨てたものではないかもしれない。

 亜美の驚愕の表情を前に、上履きを床に強く擦りながら立ち止まった和音の腕は、床と水平に伸びきり、振りかぶった反動で、背の方に反り返っていた。横一文字に一閃したペン先の向こうで、黒い軌跡が顔面に踊る。目を見開いた亜美は、呆然という言葉がこの上なく似合う顔をしていた。

「あんた、何、して……」

 亜美のわななく唇が、疑問を呈する言葉を紡ぐ。和音はしれっとこう答えた。

「やられたことを、やり返しただけ」

 あんたの顔に――とまでは、残念ながら言わせてもらえなかった。

 憤怒の形相で襲い掛かってきた亜美を、ひらりと難なく躱した和音は、ポニーテールに結った髪を靡かせて、文字通りの戦場となった教室へ――『可も不可もなく』を捨てた世界へ、その身を躍らせたのだった。


     *


 閑散とした神社の境内には、二人の人間の姿があった。

 一人は、呉野和泉。神職の装いに身を包んだ、青い瞳と異国の風貌を持つ男。

 もう一人は、呉野氷花。袴塚中学の制服姿の、切れ長の目をした黒髪の少女。

「佐々木和音に何をしたの」

 青空の下、昼下がりの長閑な空気を、氷花の言葉が切りつけた。剥き出しの敵意を向けられた和泉は、首をおっとりと傾けた。

「僕は何もしていませんよ」

「嘘よ。あの子に接触したでしょう」

「おや、ご自分では気づいていないようですね。今の貴女の台詞、あの少年のものと同じですよ。それより貴女、学校はどうしたのです? 授業中のはずですよ」

「話を逸らさないで!」

 苦々しげに氷花が叫び、木々から聞こえる鳥の囀りが、時を止めたかのようにぴたりと止んだ。遅れて聞こえた羽ばたきが世界を揺り動かした時、憤りに満ちた氷花の声が、神域へ呪詛のように流れ始めた。

「今日、佐々木和音と野島亜美、あと彼女の子分が職員室に呼ばれたわ。クラスで乱闘があったみたい。佐々木和音は無傷。野島亜美達は怪我をしていて、それを佐々木和音にやられたと主張しているわ」

「ほう。それで?」

「後からすぐに、風見美也子と綱田毬が職員室に駆けつけたわ。他にも何人か生徒が来たわ。佐々木和音を庇いに。実際のところ佐々木和音は、野島亜美に一度マジックを振りかざした以外、全く何もしていない。殴りかかろうとした野島亜美達を避け続けただけ。それでも彼女達が怪我をしたのはただの自滅。佐々木和音を追ううちに転んだりぶつかったりしただけ。結局、佐々木和音の机にされた落書きや、その他の苛めの痕跡が教師の知るところとなって、野島亜美一派の敗北。これからこってり絞られるそうよ。他にも苛められてた子が学校には随分いたみたいね。そういう子達の上奏まで押し寄せて来る始末で、学校中がてんやわんやだったわ。馬鹿らしいお祭り騒ぎみたい。……もう一度訊くわ。佐々木和音に何をしたの」

「成程」

 和泉は、悠々と微笑んだ。佐々木和音に向けた笑みとは似て非なる微笑みで、十五歳の妹と対峙している。

「大したものです。彼女には際立って人より劣るものなどなかったというのに、その平凡を劣等感と見なし、自己研鑽に励んでいました。大層努力されたのだと思いますよ。能ある鷹は爪を隠すと言いますが、彼女はそれを体現していますね」

「嫌に褒めるのね」

 氷花は苛立たしげに吐き捨てたが、和泉は飄々とした笑みで応じた。

「なぜ少林寺拳法を選んだのかという僕の問いに、彼女はしっかりと答えてみせました。求める強さを自覚の上で、適した強さを体得しようとしています。これからも己の道を踏み外すことなく、彼女は生きていけるでしょう。多少、野放図な手段に訴える事はあるかもしれませんが。好戦的な性質を自覚されたようです」

「そんな戯言はどうでもいいわ」

 唇を歪めた氷花が、鬱陶しそうに長い黒髪を片手で払った。

「もっと崩しやすそうな子だったのに、何てことをしてくれるの。もの凄い野蛮児になってたわ。もうあんなの全然私好みじゃない。つまらないわ」

「貴女の好みの話など、それこそ戯言ですね。和音さんには何の関係もないことです。ああ、一応確認しておきましょうか。貴女は和音さんをどのように追い詰めるつもりでした?」

「聞きたいのね?」

 憎々しげな顔が一転して、氷花は待ってましたとばかりに瞳を輝かせた。

「あの子の『弱み』は『唄を恐れている』ことよ。学校帰りに偶然、道場から出てくる佐々木和音を見たの。唄を小声で唄ってた。でも知っているわ。怖いくせに。そのくせ愛着はあるみたいだから、口ずさんでしまうのね。だから、少し私と会話して、唄への恐れが今より大きなものになれば。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。もしそんな風に少しでもぐらついた状態で、あの子が唄を一度でも唄えば、どうなると思う? お誂え向きに『遠野物語』だって読んでいたもの。上手くいけばこの現代に神隠しが発生したかもしれないわよ? まあ、報道はただの家出少女でしょうけどね」

「嬉しそうに語るほどの内容ではありませんね。その企ては上手くいきませんよ。必ず失敗するよう方方に釘を刺しておきました」

 和泉は穏やかに断定した。氷花の表情は元通りの不愉快を極めたものに戻ったが、やがてにやりと、口の端だけで嘲笑った。

「いいわ。佐々木和音は見逃してあげる。代わりに、あの子の友達に標的を変えるわ。小動物みたいに怯えてる可愛い子がいるの。綱田毬がどういう目に遭えば、佐々木和音とあんたは傷つくかしら?」

「そこで彼女にいきますか。弱いもの苛めの極みですね。確実に落とせる獲物しか狙わない辺りにプライドの低さが窺えます。格好悪いですよ。氷花さん」

「ふぅん、負け惜しみ? じゃあ守って見せなさいよ、今回みたいに。学校は私のフィールドよ? どこまで頑張れるの? お兄様」

 氷花は余裕の笑みで嘯いたが、悪態の声は微かに震えていた。兄の言葉に過敏な反応を示す妹へ、和泉は朗々たる声で追い打ちをかけた。

「貴女は〝言挙げ〟という言葉を知っていますか?」

「言挙げ? そんな言葉、どうでもいいわ。薀蓄なら結構よ」

「まあ、そう仰らずに」

 氷花は露骨に面倒臭がったが、和泉は構わず先を続けた。

「言挙げとは、己の意思をはっきりとした声に出して、言葉の形にすることです。ただし、その言葉がもし己の慢心から生まれたものならば、良くない結果が齎されます」

「兄さんが何を言いたいのか分からないわ。もっと分かりやすく言って」

「では、例を挙げて説明しましょう。〝言挙げ〟という言葉を扱った最古の物語とされている『古事記』には、こんなお話があります。――日本の古代史における伝説の英雄・倭建命(ヤマトタケルノミコト)は、伊吹山の神様を討ち取る為に、素手で山へ分け入ります。その道中で、牛と見紛うほど大きな白猪と遭遇し、こんな言葉を告げたのです。――『きっとこの白猪は、神の使者に違いない。今は殺さずに、帰りに殺そう』。これが、倭建命の行った〝言挙げ〟です」

「随分と野蛮ね」

 氷花はせせら笑う。和泉は相槌を打たず、淡々と物語の終焉を口にした。

「しかし、その言葉は倭建命の慢心によるものでした。何故ならその白猪は、神の使者ではなく、他ならぬ神自身だったからです。倭建命の〝言挙げ〟は誤りでした。そしてこの誤った〝言挙げ〟により、倭建命は神様から祟りを受けて、命を落としてしまうのです」

 氷花の顔から、表情が消えた。

「先程も言いましたが。言挙げとは、己の意思をはっきりと声の形で告げることです。それは古来、神の領域だと考えられていました。個々の意見を明確に主張することは神にのみ許された行為であり、神に承認された主張でなくては、個人の主張は命取りです。〝言挙げ〟に誤りがあった時、人は破滅するのです。だからこそ慎み、禁忌とされてきました。濫りには使いません」

「……。何が言いたいの」

「いいえ、何も。ただ、貴女の遊戯と似ていると感じたものですから。……貴女が自信満々に放ってきた言葉は、果たして神に承認されたものでしょうか。あるいは、慢心から出た戯言でしょうか。一体どちらでしょうね」

 氷花の無表情が、血の色をした憎悪に染まった。

「いつか己の遊戯で破滅するところを、早く拝みたいものです」

 氷花は返事をせずに、和泉に背中を向けた。拝殿と鳥居を結ぶ石畳から脇に逸れて、鎮守の森へ歩き始める。

「そんな僕の悲願の成就を約束するかのように、彼女は凛々しい〝言挙げ〟を響かせました。思い返せば、貴女が昨年の初夏に破滅し損なった少年に似ていますね。そんな彼女が、貴女のお遊びくらいで破滅するわけがないでしょう?」

「殺す」

 徐に、氷花が振り返った。

「私はいつか必ず、貴方を殺すわ。佐々木和音も、やっぱり見逃してなんかやらないから」

「どうぞ。できるものなら」

 異能を宿す妹は、黒髪を翻して森の奥へ消えていく。

 その背中を見送る兄の顔には、妹の憎悪と相反する慈愛があった。

「――扨て。これにて漸く役者が揃い、舞台が整ったようですね。〝赤ら顔の異人さん〟は、普通を愛した少女を攫い、〝アソビ〟の舞台へ誘いました。……氷花さん。僕と貴女の〝コトダマアソビ〟まで、あと少しです」



【赤ら顔の異人さん:END】→

【NEXT:呉野氷花のラスコーリニコフ理論】

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