清らかな魂 10
息せき切って呉野家におとないを入れた男の事を、イズミは今も覚えている。
小学六年生の春、皐月の頃の出来事だ。灰色で統制された袴塚市の住宅街には、一斉に開花した躑躅の花が咲き乱れていた。
元々、イズミは呉野神社に近寄る気など毛頭なかった。
理由はもちろん、家庭の事情が複雑だったからだ。
そして其の複雑さ故に、父は日本という国に好感を持ちながら、実父である呉野國徳に対してだけは、一歩踏み込んだ付き合いが出来なかったらしいのだが――ある時、其の気まずさを払拭する絶好の機会に恵まれた。
――従妹の、誕生。
國徳の娘である貞枝夫婦の間に、長女が産まれたらしいのだ。
其の報せが何故、父子の蟠りを払拭できる機会となり得るのか。幼いイズミには咄嗟の理解が難しかったが、考えてみれば全く難しい話ではなかった。
呉野國徳は、かつてロシアで現地女性と結ばれて、長男イヴァンが誕生した。
だが其の後、詳細は不明だが、夫婦は離縁を決めてしまった。イズミの父母と同じように。國徳は単身日本へ舞い戻り、帰国後に再婚した日本人女性との間に子をもうけて、呉野貞枝が誕生した。つまり。
イヴァンも貞枝も、父親は呉野國徳。
イヴァンと貞枝は、異母兄妹なのだ。
ただし、日本人とロシア人のハーフであるイヴァンに対し、貞枝は生粋の日本人。男女の差異の相乗効果も甚だしく、兄妹の容貌の隔たりは、赤の他人同然だった。
依って、来日したイズミは、呉野家の玄関で顔を合わせた異母兄妹の姿を見て、思わず絶句する羽目になったのだった。
「お兄様、呉野貞枝と申します。漸く御目通りが叶いましたね。大変嬉しく存じます」
「こちらこそ、お初にお目にかかります。イヴァン・クニノリヴィチ・クレノと申します」
「あら。お兄様ったら、緊張なさっているのね。堅苦しいことは抜きにして。貴方は私の兄なのだから、そんなに畏まる事はないのよ。もっと肩の力を抜いて下さいな」
「……貞枝は、思っていた通りの人だ。電話の声と、全然変わらないね」
「ふふ、お兄様こそ」
貞枝は、ころころと笑った。此の頃は和装ではなく、清楚なブラウスに麻のロングスカート姿だった。黒髪も今ほど長くはなく、凛々しく引かれた眉だけが、作り物めいた美貌には些かそぐわないものの、当時と変わらないままだった。
貞枝は、何処となく狐に似ているとイズミは思う。白い毛並みに、艶やかな紅を差した貌。如何にも夏祭りの夜に和装の少女が身に着けていそうな、風流で妖しげな狐面。然う、狐ではなく、狐面。イズミは貞枝を、生き物だとも思っていなかった。
あまりに失礼な考えなので口を噤んでいたが、イズミは貞枝が怖かったのだと思う。頬に手を添えて笑う貞枝の声には、貞女風の大人しさとは裏腹な、堂々たる張りがあった。背筋はぴんと伸びていて、異国の男を前にしても怖気づいた様子はまるでない。むしろ父の気後れを的確に見抜き、兄の狼狽を楽しげに笑っていた。人を手玉に取っているとまで言えば言い過ぎかもしれないが、貞枝には天邪鬼な一面があったように思う。其れを指して、イズミは怖いと思ったのだ。人を怖いと思うなど、生まれて初めての事だった。
父が呉野神社へやって来たのは、貞枝の長女誕生を言祝ぐ為だが、其れはあくまで建前で、真の目的は國徳との和解だ。親子らしい交友を未だかつて持たず、互いに沈黙で以て断絶してきた親子の絆の修復の為だ。
ならば主役は父であり、イズミは添え物、脇役だ。然う割り切ってしまえば幾らか気楽になるかと期待したが、窮屈さは然程変わらなかった。結局、イズミは國徳や貞枝に礼儀正しく挨拶をする傍らで、貞枝の赤ん坊が親指を吸って眠る顔に見入ったり、庭を散策したりして、時間潰しに徹していた。大人との会話を好むイズミには珍しい事だったが、貞枝への苦手意識を抜きにしても、気になることがあったのだ。
――國徳はロシアを去り、日本で新たな家庭を持った。
イズミ達は外国人というだけでなく、真の意味で余所者だ。下手すれば存在自体、疎まれていてもおかしくない。従妹の誕生は目出度いことだが、其れを祝いに来る行動が果たして迷惑なものでないか、イズミには気がかりだったのだ。
其の心配は、少なくとも表面上はイズミの杞憂だったようだ。貞枝はイズミ達を温かく出迎えてくれて、國徳の方も口数は少なく表情も読み取りにくいものの、此方に嫌悪や倦厭があるようには見えなかった。其れに、庭を見たいと言って談話の場を中座したイズミを呼びに来た父は、何かが吹っ切れたように朗らかな顔をしていたので、ほっと安堵したものだ。此処へ来たのは間違いではなかったのだと、漸く思えた瞬間だった。
――そんな折だった。がさがさと、茂みを掻き分ける音が、背後から騒がしく聞こえたのは。
風が吹くだけでは、此れ程の音はしないだろう。此の山には鹿や猪でも出るのだろうかと長閑な想像と共にイズミが振り返ると、其処に現れたのは鹿でも猪でもなく、工場の作業着のような浅葱色のつなぎに身を包んだ男だった。
歳は、父よりもずっと若い。二十代の前半か中頃だろうか。容貌を観察していると、男がイズミに気づいた。最初はぎょっとした様子で目を丸め、次いで露骨な安堵の顔で溜息を吐く。かと思えば我に返った顔つきに変わり、口をぱくぱくさせていた。見事な百面相だった。そして最後は、「なあ、ここの神社って、社務所はどこか知ってるか!」と切羽詰まった大声で叫びながら駆けてきた。
社務所とは、神社の事務仕事をする為の建物の事だろう。言われてみれば境内には見当たらなかったので、「存じません」とイズミが答えると、男は「うおああ」などと絶望の声を張り上げて、手で顔を覆っていた。
「何か、お困りですか?」
イズミが問うと、男は「お守りが欲しいんだよお……」と今にも泣きそうな声で言う。相手が外人風の容貌であれ子供だったからか、其れとも取り乱していたからか、すらすらと事情を述べてくれた。
「弟の嫁さんに、もうすぐガキが産まれるんだ。くっそ、安産祈願、なんで俺買っとかなかったんだ? ああ、馬鹿野郎、最悪だ……」
男は苛立たしげに髪を掴み、大きく天を振り仰ぐ。イズミは其れを横目に見ながら、呉野家の玄関先へ取って返し、まだ話し込んでいる貞枝と父に「お守りを御所望の方がいらっしゃいます。安産祈願です」と簡潔に告げた。
貞枝は瞬きをしてから涼しく微笑み、「一寸御免なさい」と父に断ってから、ロングスカートの裾を翻して室内に消える。そして一分も満たないうちに戻って来ると、靴を突っかけて表へ出た。イズミもついていくと、男は悄然と肩を落とし、山道を戻ろうとするところだった。
「お待ち下さいな。御守りです」
貞枝が、男を呼び止めた。
振り返った男は、イズミの連れてきた妙齢の女性に気づき、驚いた様子で軽く身体を仰け反らせた。だが御守りという言葉が聞こえたのか、あるいは貞枝の手に握られた茶封筒に気づいたのか、落胆で曇っていた両の眼が、ぱっと陽が射したように明るく光る。瞳の丸さが、猫に似ていた。驚嘆で震える感情の機微が、言葉を聞かずともイズミには如実に伝わった。
「神社の方ですか?」
「ええ。社務所はないんです。此方が自宅でして、御守りの販売等も、此方でさせて頂いているものですから。ご不便をお掛け致しました。どうぞ、お納め下さい」
男は感無量と言った様子で唇を引き結び、がばと深く頭を下げてから、御守りを受け取った。代金の遣り取りを少し離れた所で見守っていると、男はイズミの視線に気づいたのか、此方を見下ろしてにやりと笑った。
「坊主、ありがとな。姉さん呼んで来てくれたんだろ? っつっても、こんな天使みてえな面したガキを坊主っていうのも変か。あんた、名前は?」
「イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノです」
「ああ?」
男の声が上ずる。イズミの言葉が聞き取れなかったのか、目を白黒させていた。イズミは苦笑して、「呉野和泉です」と名乗った。其の方が楽だと思ったからだ。
言い直した名前は字数が全く違ったが、男は特に拘らず、「そうか。イズミ君か」と頷いて、イズミへひらりと手を振った。
そして、名を訊いたからには自分もとばかりに「甥っ子が無事に生まれたら、お礼参りすっから! ……あ。俺は、三浦恭嗣な! じゃあな!」と、まるでボールをぽんと放るように、気さくな調子で名を告げた。其のまま一度も振り返る事なく、泉の畔を駆け抜けて、山道を急いで帰っていった。
溌剌としたものだった。台風のような破天荒さとも言えたが、会話を終えたイズミの心は、日本晴れのように清々しくなった。
自然と微笑んで男の背中を見送っていると、背後から「ほら、御父様。困っていた方がまた一人。やっぱり判りにくいのよ。あんな襤褸の案内板、誰も見てやしないのよ」と、貞枝の文句が聞こえてきた。
「お前は然う云うが、建設費用も莫迦にならん。此のままでいい」
「あら。其れじゃあ、お商売になりませんよ」
「充分だ。不満があるなら、此れから伊槻君に何とかして貰え」
「本当に、融通が利かないのね」
貞枝の呆れ声を耳にしながら、イズミはそろりと振り返る。
其処には、いつの間にやら呉野國徳の姿があった。
頭髪は真っ白で、やや浅黒い手の平には、大小様々な皺が刻まれている。体躯は小柄だが、孫を持つ歳の男とは思えぬ程に、背筋がしゃんと伸びていた。貞枝と親子だという話も、納得できる佇まいだった。
此の日の國徳は、ポロシャツにズボンというありふれた格好で、息子との面会日だからと気負わない姿勢がイズミには嬉しかったのだが、此方も貞枝に言わせれば「なっていない」そうなので、女性の評価は手厳しい。だが此の会合において最も服装や礼儀に頓着していたのはスーツ姿のイヴァンくらいのもので、ラフさでは國徳とそう変わらない貞枝の言い分は、やや筋違いだろうとイズミには思えた。とはいえ年上の女性へ無礼な口出しをする気はなく、掛ける言葉は何もなかった。結局此の日、最後まで、イズミは貞枝が苦手だったのだ。
貞枝には別れ際、「またいつでも、おいでなさいな」と言われていた。
イズミは明確な返事をせずに、ただ曖昧に笑っただけだった。すると貞枝は、「左様なら」と言って微笑んだ。
其の笑みの質は複雑で、様々な感情の糸を交差させて織り上げたような、歪で曖昧な笑みだった。そして其の笑みを曖昧だと感じた時、イズミは己の感情を模倣されたと気づいていた。貞枝は、イズミを見抜いていたのだ。
もちろんそんな物真似は、あまり愉快には思わなかった。ただ、イズミの方も団欒の場を中座したり、貞枝を心の内で狐狸妖怪扱いしたり、相手には失礼な態度を取っている。仕返しをされただけだと受け取って、イズミは真摯に、そして律義に、真似られた笑みで貞枝に笑い返した。ちょっとした共犯者の気分だった。
此のようにして、イズミと貞枝は別れたのだった。そして今日に至るまで、相まみえる事は一度もなかった。イズミが此処へ来る事は、屹度二度とないだろう。其れをあの時、互いに判っていたと思う。
――依って、此の展開はイズミにとって、本当に予想外のものだった。
あの時、襁褓に包まっていた赤ん坊が成長し、幼稚園の年長の歳まで育った事は知っている。
だが、信じられないことに、イズミは其の事実を失念していたのだ。
父と共に神社へ参拝し、呉野國徳に挨拶する。貞枝の事は苦手だが、もし在宅ならば、以前のように口を濁してばかりもいられない。十八の青年として、茶飲み話くらいは付き合わなければならないだろう。そんな覚悟だけを固めていた。
従妹の事は、気に留めていなかった。
何せ、当時少女は零歳児。会話の出来る歳ではない。赤子がいたという記憶のみがイズミの認識の全てであり、其の少女が成長して言葉を話すところなど……やはり自分でもどうかしていると思うが、完全に想定外だったのだ。




