清らかな魂 9
イズミが日本に心惹かれる時、いつしか母の目が気になるようになっていた。
最初は、気の所為だと思っていた。母の好悪は熟知している心算であり、実際にイズミは子供故の敏感さで母の機嫌を察知して、周到に動き回っていたと思う。今にして思えば実に小憎らしい態度にも思えたが、然ういった殊勝さを以てしてもイズミには当時の母の拘りが見抜けなかったのだから、所詮子供といったところだろうか。
ともあれ、イズミが十歳の頃だった。
或る夜、イズミは父母の言い争う声で目を覚ました。
言い争うといっても、棘のある言葉は専ら母の声であり、対する父は消え入りそうな小声だった。妻を必死で宥めるあまり、覇気と意気込みを尻すぼみにさせたと判る、歯切れの悪い声だった。
父母の諍いの声を聞いた時、イズミの心に過った感情は、何も無かった。
吃驚してしまう。だが、本当に何も無かった。寂しいはずなのに、其の実感が掴めない。では寂しくないのだろうかと自問すれば、其れは違うと頭を振る。混乱しているのだと気づくまでに相当の時間を要し、ベッドから起き上がって薄く光が漏れる扉の傍で両親の横顔を見つめる間、唯一まともに機能した聴覚だけは、父母の諍いを拾っていた。
喧嘩の議題は、イズミの今後の教育方針だった。
嗚呼、と。落胆とも諦観とも判断の付かない溜息が、喉元までせり上がったのを覚えている。寸でのところで息を止めると、胸が詰まって苦しくなった。漸く寂しさを知った気がした。
父は、日本という国を愛していた。自室には伝統工芸品の扇子や皿が飾ってあり、日本語の書籍もたくさんあった。慎ましやかな佇まいの内にひと匙の艶やかさを包んだ文化に、父は関心を寄せていた。
そんな父の東洋趣味を、母は時折疎んでいた。
其れは決して、日本憎しというわけではなかっただろう。母が父の嗜好を疎む理由は単純で、イズミが連れて行かれるからだ。父によって、異国の地へ。母は其れを恐れている。恐れる故に、疎んだのだ。
イズミは幼少時、父と共に何度か日本へ渡航していた。其の旅行の際には、父の友人である藤崎克仁の家へ厄介になっていた。
時期は学校が長期休暇に入る夏ばかりで、イズミは日本を夏しか知らない。
そんなイズミであっても、日本には馴染み深さを感じていた。地方都市の袴塚市には表立った観光名所や如何にもといった日本的な景観はなかったが、克仁の家の縁側はイズミの想像通りの日本の趣を備えていて、風雅で淑やかな日本の夏を、克仁の庭からイズミは知った。
美しかった。魅せられていた。風景だけに心奪われたわけではない。克仁との会話もまた、イズミを魅了してやまなかった。
大人との会話を、此れほど楽しいと思ったのは初めてだった。異邦人たる己の言葉が、日本の男に伝わっている。言葉が一つ行き交う度、心と感情も行き来する。植物が芽を伸ばすように、育まれていく絆と学び。全身全霊で他者へと向き合う感覚は、只の会話と切って捨てられるほど軽いものでは決してなかった。其れ程の感動が、其処には在った。国を超えて、確かに在ったのだ。
イズミは、当時から日本語を操れた。父がロシア人と日本人のハーフだという理由もあるが、学校でも日本語を習っていたからだ。イズミの通っていた学校は、日本語の授業に特化した学校だった。
其れさえもが、母の嫌厭の火種になっていた。
イズミをロシアで育てるか、日本で育てるか。
此のままロシアの学校に在籍させるか、其れとも一念発起して日本の中学校へ入学させるか。中学入学の年齢が近づいていた。ロシアの学校であれば十七歳まで一貫して同じ学校だが、日本では然うはいかない。
父は母から詰め寄られていたが、意思を曲げようとはしなかった。イズミが日本行きを望むならば、母の反対を退けてでも行かせる。そんな熱意が伝わってきた。
イズミに学力がなければ、父はこんな提案はしなかっただろう。
だが、イズミは出来た。父と同じものに好意を示し、其の興味のままに学び取った語学力は、国境を越えた先で通用するものになっていた。
其れに日本には、父の実父――イズミの祖父にあたる人もいる。
父の思い入れの深さの正体は、郷愁と懐古、そして思慕の念だろうか。父の日本への執着は、滅多に会うことの叶わない生みの親への愛着だろうか。
何にせよ、其の時のイズミには、父の見せた思慕とも我儘とも判断の付かない拘りよりも、目の前の諍いをどうにかする方が重要だった。然う気負う一方で、幼いイズミには何もできず、やはり感情が暈けていた。現実感が、薄かった。
だが、此の時――家庭不和の昏い夜に、一条の光が颯と射した。
鮮やかな光だった。月光の青さを仄かに湛えた闇の中で、扉から射し込む其の光は、御稜威の如く輝かしく、凛と清かに閃いた。
嗚呼、と。瞠目と同時に、声が零れた。今度は落胆ではなく、諦観でもない。目の前で扉が開かれていき、溢れんばかりの光の紗の向こうには、イズミへ歩み寄る母が伸ばした、両の白い腕があった。夫婦の紡いだ言の葉は、いつの間にか止んでいた。父よりも早くイズミに気づいた母は、驚いているようだった。次第に狼狽に取って代わった感情の色は、やがて年月を経て色褪せた写真のように、すうと母の顔から消えていった。一つの感情だけを、其処に残して。
イズミは、息をするのも忘れていた。母はイズミを抱きしめると、澄んだ青色の瞳でイズミを見つめて、寂しそうに笑ってから、早く寝るようにと囁いた。其の瞬間に、イズミは全てを悟り尽くしていた。
母は、イズミを愛している。母の手の平と同じ温度の輝きからは、日向の風の匂いがした。もし神が存在するならば、屹度こんな姿をしている。其の気配と光の影を、此の日確かにイズミは見たのだ。
母は、日本的なものを厭う。父の異国への執着が、母から家族を奪うからだ。だから母は、其れを疎む。イズミと父の愛するものを、敵視し続け疎んじる。
其れでも、母がイズミを愛するように、イズミも母を愛している。父も其れは同じなのだ。愛は、何も変わっていない。何も変わってはいないのだ。
結局其の後、イズミは克仁宅へのホームステイを決意して来日し、そして高三の夏、父と母はついに離縁を決めてしまい、家族間の溝は致命的に広がったと、周囲の者は皆思うだろう。だが、然うではない事を、イズミは知っているのだ。
諦めたわけではない。強がっているわけでもなかった。ただ、愛の存在を認めただけだった。冴え冴えと青く美しい輝きを、母の瞳に見ただけだった。
もし、あの日。ロシアのサンクトペテルブルクのアパートで、母の『愛』を見なければ。今のイズミの価値観は、存在しなかったかもしれない。父母の離婚に対して感情的になったかもしれないし、学業に対する姿勢も大いに変わった事だろう。小狡い手抜きに走るような事もなかったかもしれないと思うと、果たして此れは成長と呼んで良いものか微妙なところではあったが、現在の己の生き方は然う捨てたものではないと、少なくともイズミ自身は思っている。
だから、父が母と離縁して、父だけが来日すると聞いた時。イズミの心には克明な嬉しさがない代わりに、疼くような寂しさもなかったのだ。
――ただ、其れでも一点においてのみ。イズミは、父の行動に疑問を呈さずにはいられなかった。
突然の国際電話を受けたあの夜から、イズミはずっと訊きたかったのだ。其れを此の日まで我慢したのは、我慢というよりも其の質問を面倒臭がる事へ比重が傾いていたからだが、此の疑問は目的地に辿り着く前に、片付けておくべきものだろう。
*
「お父さん」
イズミは、石段を上がる父を見上げて、其の痩躯に声を掛けた。
頭上を振り仰いだ先には、丹色の鳥居。青く澄み渡った空に付けられた朱色の目印を見ていると、己が今遍路に来ていて、山を行脚する修行僧になった気分になる。袴塚市の住宅街は灰色なので、御山の鳥居は目を引いた。血液のような鮮やかさは、透明な水を揺蕩う金魚のように涼しげで、暑さを刹那忘れられた。
気づけば石段の途中で立ち止まっていたイズミを、父が振り返る。父は此方の呼び掛けには気づかなかったらしく、魅入られたように空を仰ぐ学生服の青年を見下ろして、不思議そうに微笑んだ。
「イズミ、神社は見慣れないのかい」
「はい。それに此処へ来なければ、他に神社の当てもありませんし」
「君が知らないだけで、他にも神社はあるんだよ。呉野神社は小さな神社だから、むしろ此処を知らない人の方が多いような気がするよ」
「……そのようです」
イズミは、石段の手すりの向こうに視線を投げる。青々と茂る雑草の中で、きらりと太陽光が瞬いた。硝子ビンの破片だろう。手すりの足元にも空き缶が転がっているので、イズミは嘆息した。
「境内にゴミ箱はありますか」
「どうだったかな。久しぶりだから、忘れてしまったよ」
「では、帰りに拾いましょう。ゴミを集めて捨てる所もないとなると、とんだ土産物になってしまいます。ただでさえ、僕は手ぶらですからね」
イズミの言葉を聞いた父が、困惑気味に苦笑する。大方、イズミが藤崎邸へ逃げ帰る可能性が頭を過ったのだろう。思考が顔に出る父の反応を少し面白く思いながら、「逃げませんから」とイズミは笑った。実際に逃げるかどうかを決める程に、状況は動いていないのだ。
一人息子の陽気な答えを聞いた父は、今度は露骨に安堵の溜息を吐いていた。余程、緊張しているらしかった。先程は気づかれなかったので、イズミはもう一度訊いてみる。
「お父さん。何故、こちらに伺おうと思ったのですか」
「何故も何も。イズミだって言っていたじゃないか」
父はきょとんと目を瞬くと、先程のイズミのように空を仰いで、石段をゆっくり上がり始める。そして「父上に会いたくなったからだよ。もちろん、妹夫婦にもね」と穏やかな情愛のこもった声で、其れでいて泰然たる口調で言った。
「……本当は、あまり寄り付かないようにしようとは思っているんだよ。イズミも電話で言っていたけれど、僕らは傍系だからね」
「御爺様が離縁をなさってロシアを去り、日本に戻ってから別の女性と家庭を持った事を、お父さんは責めているのですか?」
「そういうわけじゃないんだよ、イズミ」
イズミがはっきりと訊いたからか、父はたじろいだ顔で振り返る。飴色の髪が、夏の乾いた風にさらさら揺れた。父の髪は、イズミの髪より少し長い。だからこそ、どこか中性的な雰囲気を纏うのかもしれない。
「まあ、全く恨まなかったと言えば嘘になるし、僕はイヴァン・クニノリヴィチ・クレノという自分の名前だって、あまり好きではなかったよ。ただ、そんなものは全て過ぎた話なんだ。それこそ、僕が今のイズミの歳より、もっと幼い頃までのね。今では、時々は顔を見たいと思う家族の一人として、きちんと捉えている心算だよ」
「……以前にお会いした際に、お父さんは御爺様と和解ができていたのですね」
イズミは神妙に頷きながら、石段を再び上がり始めた。父との距離は開いていたが、あっという間に追いついた。
「でも、気まずくはないのですか? 少なくとも僕は今、多少気まずい思いをしています」
「すまないね、イズミ」
此の期に及んで尚行き渋る姿勢を見せる息子を、父は困惑と興味が複雑に入り混じった笑みで見下ろした。克仁同様に父もまた、イズミの喋り方を笑っているのだろうか。もし然うならば、誠に遺憾だと言わざるを得ない。少しばかり憮然としていると、「また逃げるなんて言わないでくれよ」と父が情けない声で言ったので、「逃げませんって」とイズミは呆れ笑いを返しながら、着々と石段を上がっていき、ついに最後の一段に立った。
丹色の鳥居の前で、一礼する父に倣って一揖する。然うして境内の風景を一望すると、イズミは拍子抜けの声を漏らした。
「あまりにも、以前と変わらないままですね。社務所がないところも、寂れたところも」
「それは言わない約束だよ。さあ、あれが拝殿だよ。まずは手を漱ぎに行こう」
曖昧に笑った父に促されて、イズミは手水舎で手と口を漱いだが、森を従えるように建つ拝殿まで歩き、檜皮色の屋根の下で神社の参拝作法を父の見様見真似でこなしながら、周囲が気になって仕方がなかった。
気もそぞろで参拝を済ませると、イズミはまだ拝殿の前で手を合わせている父よりも先に、紅白の鈴緒がぶら下がる賽銭箱から背を向けて、辺りをふらふらと歩き回る。出鱈目に歩を進めたことで視点が幾らか変わったからか、微かな既視感が、今しがた鳴らした鈴の音のように、脳裏で凛と響き渡った。
――見覚えが、あったのだ。
「懐かしいかい」
背後から聞こえる父の声に、イズミは「はい」と返事をする。
うらぶれた神社に吹き渡る風が、山の緑と花の匂いを運んでくる。此の神社を顧みる氏子がどれほどいるのかは不明だが、風化に抗うようにぽつんと存在している境内を照らす日差しの下で、イズミは名前も知らない誰かが此処で捧げた願いの残滓のような光を見た。あの日サンクトペテルブルクのアパートで見た、母の愛に似た光だ。
此処は、神聖な場所だ。其の実感が、五感に響いた瞬間だった。
「……お父さん。神主様のお宅へ向かうには、この小道を真っ直ぐ進めば宜しかったでしょうか」
イズミは父を振り返ったが、父は無心に周囲を見渡していた。イズミの呼び掛けはまたしても耳に入っていない様子で、遊びに熱中する子供のように、深い森の緑の闇へ、じっと瞳を凝らしていた。
屹度、万感の想いが蘇ったに違いない。イズミは然う結論付けた。
「……。先に行っています」
心持ち大きな声で告げると、はっと父が此方を振り返る。「ああ、僕もすぐに行くよ」と頷く姿を見届けると、イズミは微笑を返してから、鎮守の森へ歩き始めた。
鳥居と拝殿を繋ぐ石畳から少し逸れた場所に、山へと分け入る細い小道が見えている。雑木林に続く此の道が一本道であることを、イズミは思い出していた。
小学生の、高学年の頃。従兄妹の誕生を祝う為に、一度だけ来たからだ。
さく、さく、と小道を行く。ローファーが下草を踏む音は、微かな湿り気を帯びていた。光の雨に濡れた大地は潤沢な水の巡りを想起させ、頭上で枝葉を広げる裏葉色の連なりからは、木漏れ日が細く射していた。何処へ向かおうとも絶えず聞こえる蝉の声が、ほんの少し大きくなる。土と水と山の匂いが、鼻腔を清々しく抜けていった。
此の先には、一軒の木造家屋が待ち受けている。二階建ての古めかしい襤褸屋で、お世辞にも小奇麗とは言い難い。掃除は行き届いているのだが、二階の床が僅かに傾いているのだ。倒壊を危ぶむほどの脆さを内包した家屋は、板張りの縁側も、苔むした瓦屋根も、黒く燻されたような艶めきを帯びた柱も、何処を取っても日本的で、座敷童でも住み着いているのではないかと邪推したくなる佇まいだ。日本髪の美しい女が、着物の裾をぞろりと引き摺り、襖の奥から滑り出てきたとしても、屹度イズミは驚かないだろう。
そんな侘び寂びを兼ね備えた襤褸屋の前には、大きな泉があったはずだ。水が湧き出しているのか、其れとも窪地に水が溜まったのか、具には思い出せないが、鏡のように森と空を映す冷たい水が、此方とは異なる世界への通り道であるかのように湛えられていたのを覚えている。敬虔さを感じるほどに透明な泉の畔を通って襤褸屋へ向かったはずなので、干上がってさえいなければ、今も屹度あるだろう。過去の記憶を手繰りながら、イズミは懐かしの家屋と泉を目指して、黙々とゆっくり進み続けた。
何故、イズミは父を置いて、先に来ようと思ったのだろう。逃げる理由なら十二分にあったが、先に行く理由は欠片もない。直前まで父から逃亡の心配をされていた青年の取る行動としては、あまりに一貫性を欠いている。
不思議と神懸かった此の行動は、運命と呼ぶべきものだったのだろうか。
然うでなければ。
此の出逢いは、屹度、無かった。
不意に――足が、何かを蹴った。
小石を意図せず蹴飛ばした感覚に似ていたが、其れよりもずっと軽く、柔らかく繊細な感触が、ローファーの爪先に伝わった。
イズミは立ち止まり、視線を地面に落とす。
其処には、一輪の花があった。
薄桃色の花だった。円い形は、椿に似ている。恐らくは、芙蓉の花だろう。若しくは、木槿だろうか。克仁の家の庭には色とりどりの花が咲き乱れ、四季を麗らかに彩っているので、イズミは日本に来てから植物の知識が増えていた。
よって、花の正体には見当がついたのだが――其の花は、普通の花では決してなかった。
「……?」
思わず屈んで、地に落ちていた一輪の花へ手を伸ばす。ただ、其の花を本当に一輪と数えて良いものか、イズミには判断が付かなかった。
拾い上げた花は、薄らと湿っていて瑞々しかった。大地から吸い上げた水を血のように通わせた花びらは、イズミの生白い手の平で、燦然たる輝きを放っている。ごくりと唾を呑み込んで、イズミは其れを、凝視する。
――茎が、なかった。
花の、頭の部分だけ。萼より下は、何処にもない。
花が花である証のような、最も見目好い部分だけ。天寿を全うして萼から落ちた椿のように、ころんと其処に花は在る。手の平で転がすと、萼の下が露わになった。鋭利な刃物で切りつけたかのように、茎の断面が潰れている。
じわじわと湧いた緊張感が、訳も無く加速した時――視界の端に、同じ薄桃色がちらついた。さやさやと風が吹き、羽衣を翻すように踊る花弁が、目を奪う。イズミの視線を、惹きつける。
ぽつ、ぽつ、ぽつ……と。小道の先に、花が幾つも落ちていた。
茎はない。花しかない。其れ以外の全てを失った花の遺骸が、ころり、ころりと落ちていた。揺れる花弁が、誘っていた。此方へおいでと、誘っていた。
ふらりと、イズミの足が動く。花に誘われ、足が動く。
――何故、父を置いて森に来たのか。
イズミには、やはり判らなかった。そんなことをする理由は、己の心の何処を探しても見つからない。理由が判然としないままでも、足は前へと動いていた。一つを追えば、もう一つ。花を辿って、先を目指す。此れでは本当に遍路のようだ。山へ分け入る修行僧のように、誘われるまま、導かれるまま、イズミは花の小道を歩いていく。
此の先で己を待ち受けるものを、イズミは予感していたのだろうか。其れ故に、期待にも似た感情を、胸に一片、認めたのだろうか。
突然に、道が拓けた。天からの斜光を広葉樹が遮る森林に、光が白々と満ち溢れる。さあ――と、澄んだ山の香で潤う風が、腕を撫で、頬を撫で、東洋人離れした灰茶の髪を梳るように撫でていく。白シャツの裾が、微かな冷気で風船のように膨れて萎んだ。
其処には――やはり泉があった。
澄んだ水は、学校の教室よりも一回りほど広い空間に溜まっていて、深山の緑を映している。草花が青々と匂い立ち、揺れる木漏れ日がちらちらと視界を眩惑する。空色の水面へ射し込む壮麗な輝きは、舞台に立つ芸者を照らすように、惜しげもなく降り注いでいた。
そんな天上の舞台の中央に――其の女性は、立っていた。
女性は和装で、菫色の浴衣に黄色の帯を締めている。白抜きで描かれた朝顔の蔦が、すっと正された背筋に沿って伸びていた。裾で咲いた円い花が、風に揺れて優雅に舞う。木漏れ日を照り返す黒髪は、美しい艶に御山の緑を織り交ぜて、絹糸のような滑らかさで靡いた。
長い髪だった。腰ほどの長さの髪だった。風に弄ばれて見え隠れする項の白さが、眩く光る。此の山の中で、最も輝かしいのが白だった。女性の肌の色だった。
浴衣の裾はたくし上げられ、左手一つで纏められている。ほっそりと心許なく伸びた足が、水面に映って揺れていた。女性は泉の真ん中で、視線を水面に落とし、透明な水に素足を浸して立っていた。
其の様は、艶美だった。そして同時に、驚くほど清くイズミの目には映った。
やがて、女性の右手が水面に伸びる。白魚のような指先には、桃色の茎のない花があった。麗しくも残酷な小さな花を、女性の右手が掬い上げる。水が滴る花の遺骸を、泉から引き揚げて、背筋を伸ばし――戯れに、落とした。
水音が、跳ねた。波紋が揺らめき、泉を取り巻く躑躅の葉から、露がぽつんと落ちていく。水面の静謐さを壊した花が、光の水飛沫を散らして沈む。其の時になって、漸くイズミは気がついた。
泉に浮かぶ、首だけの花が――決して一つではなかったことを。
朝顔。桔梗。風船蔓。
芙蓉。牡丹。百日紅。
花が咲き乱れる山の奥、森に呑まれかけた木造家屋を臨む泉で、女性は手から花を落とす。まるで手毬をつくように。青い波紋が円く拡がり、水の輪が光り輝き、水面の花に打ち寄せては、光の円が崩れていく。女性の顔が、此方へ僅かに傾いた。
凛々しく引かれた眉が印象的な、瞳の大きい美女だった。赤い唇が形作った笑みに気づいたイズミは、女性の行為の意味を悟る。
何ということはない。彼女は、遊んでいただけだったのだ。
だが、イズミが得心した時――思いがけないことが起こった。
女性の笑みが明瞭なものになり、いきなり此方を振り向いたのだ。
「――杏花。其処にいたのね?」
ぱっ、と。まるで花を散らすように、黒髪を優雅に撓ませて、女性がイズミの顔を見る。そして、秘密の花園への侵入者が〝キョウカ〟なる人物ではなく、異国の風貌を持つ学生だったと気づくや否や――怜悧なまでの美貌に、血が通ったような驚きが颯と浮かんだ。
切れ長の目が軽く瞠られ、仰け反った身体がくらりと、危うげに揺らめいていって――はっと息を吸い込んだイズミは、我を忘れて叫んでいた。
「危ない!」
弾けるような水音が、山の空へと響き渡った。
蝉が、飛び立っていく。鳴き声が刹那ぴたりと止んで、梢に静寂が訪れた。水面がさざめく音だけが、世界の音の全てだった。
一時の静寂を経た後に――小さな笑い声が、イズミの耳に聞こえてきた。
「……ねえ、貴方。吃驚したのでしょう?」
今まさに泉へ踏み込まんとしていたイズミは、茫然と女性を見つめる。
体勢を崩した所為か、女性の左手は浴衣を手放していた。重力に従ってすとんと落ちた菫色は、すっかり泉に浸かっている。水を吸ってみるみる変色していく浴衣を見たイズミは内心慌てたが、女性は特に気にした様子は見せなかった。
目を細めた顔は猫のようで、髪を掻き上げる様が奇妙に艶めかしく、イズミは少し狼狽える。かといって、露骨に目を逸らすのもまた躊躇われた。結局沈黙を選ぶ他なくなった青年を前にして、十は年上だろう其の女性は、さも可笑しそうに笑っていた。
「でも、貴方がいけないのですよ? 覗き見なんてしているから。……いらっしゃい。和泉君。其れとも、イズミ・イヴァーノヴィチと呼んだ方がいいのかしら?」
「……どちらでも、お好きなように呼んで下さい。……貞枝さん」
「あら」
女性は、目を瞬く。其れを言ったイズミの反応が、余程意外であるかのように。
そして、次の瞬間には――花のように微笑んだ。
「嬉しい。覚えていてくれたのね」
泉に浮かぶ花の一つを、女性がおもむろに掬い上げる。白い花だ。柔らかそうな花弁の半分が、酒に酔うように仄かな薄桃に色づいている。
水にしっとりと濡れた花を、イズミへ手向けながら――数年ぶりに顔を合わせた叔母は、成長した異母兄の子を見つめて、嫣然と微笑んだ。
「お待ちしておりました。和泉君。お久しぶりですね。……杏花、やっと見つけた。和泉お兄ちゃんが来ましたよ」
「はい?」
イズミが訊き返した時、ととと……と駆けてくる足音が聞こえた。下草を踏み、背後から気配が迫ってくる。イズミは素早く振り返ったが、其の時には既に背後の存在は、目前までやって来ていて――どんっ、とイズミの片足にぶつかった。
「お兄様!」
――こんな歓待を受けるなど、予想だにしていなかった。
手毬が弾むように、飛び込んできた身体は小さかった。其れでも勢いに圧され、イズミはたたらを踏む。そして己の足に絡む華奢な両腕と、光の輪を映す黒髪とが見えた時、驚愕のあまり声を失った。
イズミの足をしかと腕に抱き、頬をぴたりと腿に付けて、制服の黒いズボンに顔を埋めて擦り寄るのは、年端もいかない少女だった。
白い半袖のブラウスに、黒味がかった臙脂のスカート。黒い靴はぴかぴかしていて、お洒落をしているのだと判る。互いの服の布地越しに、互いの体温が行き来する。イズミよりも、少女の方が熱かった。其れは子供の体温だった。
「……ああ」
一目で、判った。此の娘の母親の顔を、先に見た。よって、一目瞭然だった。
此の少女と、イズミとは――数年前に、面識がある。
「貴女は」
「呉野、杏花です!」
肩口で切り揃えた髪を揺らした少女が、ぱっと顔を上げた。花の蕾を開くように、母と同じ唐突さで。
「きょうか?」
「はい! お兄様は、イズミお兄様なのでしょう? 私は、知っているのです!」
成長すれば母にもっと似通うであろう、将来の美貌を窺わせるあどけない顔に、少女は溌剌と眩しい笑みを乗せる。
そして、六歳であろう其の少女は――イズミが生涯忘れることのない〝言挙げ〟を、此の時確かに、口にしたのだ。
「遊んでくださいな、お兄様!」
――其れが、出逢いだった。
異国の地で生まれ、其の後生活の拠点を日本へ移しながらも、己の血に縁のある場所へ寄りつかなかった青年、イズミ・イヴァーノヴィチ。
其のイズミが、十八の歳にして漸く得た、呉野母子との出逢いの瞬間だった。
木漏れ日が射す森の中で、泉に足を浸す風変りな叔母と、其の愛娘――呉野氷花との出逢いは、夏の盛りに、こうして訪れたのだった。




