清らかな魂 7
父と母は、ついに離縁を決めてしまった。
其の事実を聞かされたイズミの心に落胆はなく、さりとて心に傷を負うというような事も又なかった。動かしようがない此の現実を、イズミは冷静に受け止めていた。
何処かで、判っていたのだと思う。此の結末を迎える以外に、解決の道など何処にもないと。しかも、其の事実に気づいていたのは、一人息子だけではなかろう。両親も、イズミと同じ考えに相違なかった。国際電話の声を耳にした時から、イズミは己の考えが正しかった事を、一片たりとも疑っていない。イズミの父母は、愛を以て、決別の道を選んだのだ。
平和で慈悲深い終焉を前に、感傷の言葉など不要だった。
依って、イズミが父に掛けた最初の言葉は、自然とこんな形になった。
「お父さん。お疲れ様です」
其の言葉は、家庭不和によって心に傷を受けた少年が、実父に叩きつけた痛烈な皮肉として周囲には聞こえるかもしれない。誤解を招きかねない言葉だが、イズミにはそんな心算は全くなく、単純に父の帰国を労いたいだけだった。「帰国」という表現が適切かどうかは判らないが、ともあれ。
息子にのんびりと声を掛けられた男は、玄関先で困ったように目を細めた。イズミも自然と微笑みを返す。御託は抜きにして、父との再会が嬉しかったのだ。
灰色の住宅街の一角、『藤崎』と表札の掛かった家の前に立つ父の姿は、質素な白シャツと駱駝色のズボンという洋装であるにもかかわらず、不思議と日本的だった。照れ隠しのように顎を引く姿には、小さな失態が予期せず他者に露見して恥じらうような奥ゆかしさがあり、柔和な表情と撫で肩の立ち姿がそんな印象を助長しているのだと思うと、普段の暮らしでの己の評価を思い出し、イズミは父に気取られぬよう、口の端だけで苦笑した。血は争えないとは、こういう事を言うのかもしれない。
出迎えの為に出てきた玄関先は、茹だるような熱気に包まれていた。飛び石の埋まる白砂が、明々《あかあか》と照り輝いている。其処は今朝、克仁が水を打ったばかりの場所だというのに、今やすっかり乾いていた。蒸発の名残で湿り気を帯びた飛び石がぬらりと鈍く光るだけで、其の湿り気さえも大気に溶けて消え入りそうなほど、袴塚市の夏は暑い。
陽炎が揺らめく門の前に立つ父は、少しばかり華奢だった。シャツの袖から伸びた腕も、骨ばっていて痩せている。薄幸な印象を抱いた理由は、柔らかな髪色の所為だろうか。燦々と降り注ぐ八月の日差しは、父の髪に金色の輝きを与え、天の使いを彷彿とさせた。
イズミの髪と、似た色だ。但し、イズミの方が父よりも、僅かに灰色がかっている。前髪の一房に何気なく触れると、父が此方へ歩いてくるのが、己の灰茶の髪に焦点を合わせたイズミの視界に茫と見えた。
門を越えて、塀沿いに蔓を伸ばした時計草の脇を抜けて、双六のような飛び石を辿って歩いてくる。父が此方へ、やって来る。
入道雲が綿菓子のように立ち上る青空の下、向かい合う長身の男二人の影は青かった。イズミの身長は百八十に届くくらいだが、父はそんなイズミよりさらに背が高い。幾つだったか訊ねかけたが、些細なことなので止めにした。
父と話せる時間は、いつも有限なのだから。
そんな微々たる拘泥を心に留めながら人と会話をしているのかと思うと、些か己が奇妙に思えた。イズミが仕様のない思索にうつつを抜かしている間にも、ざ、と目の前で砂の擦れる音がした。
黒い革靴を履いた父の足が、イズミの正面に立っていた。
「……おかえりなさい。お父さん」
父を軽く見上げたイズミは、内心驚いていた。父と向き合う時、以前はもっと上を向くように見上げていたからだ。離婚の話よりも此方の方が驚いたと言えば、父はどんな顔をするだろう。反応が気になったが、イズミは何も言わなかった。人の良い父を悪戯に困らせるのは、イズミの趣味ではないからだ。
「ただいま。イズミ。久しぶりに会って、お疲れ様はないだろう」
「ですが、他に言いようがありません。的外れだと言うのなら、お父さんは疲れていないのですか?」
イズミが訊き返すと、父は余計に困ったような顔をした。親しみやすさが滲み出ている表情が、先ほど感じた東洋人風という感慨を、より一層強くさせた。イズミよりも父の方が、ロシアの血が薄い所為もあるだろう。其れに、穏やかな気性を薄衣のように纏う父だからこそ、日本的な奥ゆかしさが生まれるのかもしれない。人徳とは本当に、雰囲気へ如実に表れるものだと思う。
イズミが父の立ち姿を観察していると、父はおもむろに、ふ、と破顔した。偏屈な息子の思索に、父の理解が追いついたのだ。
「イズミは相変わらずのようだ。元気で安心したけれど、少し痩せたんじゃないか? ちゃんと食べているのかい?」
「食べていますよ。克仁さんの作るご飯は美味しいのです。もちろん、お母さんのご飯も僕は好きですよ」
逸らした話題をすぐに戻され、父は沈黙する。イズミは父に意地悪をする気はなかったが、質問には答えてほしかった。我ながら幼稚な反抗だと自覚はあるが、其れくらいの我儘は、久しぶりなのだから許してほしい。
控えめな抗議が伝わったのか、父は吐息をついた。煙草の紫煙を細く長く吐き出すような溜息は、父の疲労を表しているようで、此の時漸く、国境を越えて此処までやって来た父の隠された疲弊が、襖の隙間から覗くように垣間見えた気がした。
「ああ。疲れたよ。疲れたさ。でも、疲れたなんて言ったら、ジーナにあんまり失礼だ。可哀そうな事をしたんだから、そんな風に言ってはいけないよ」
「可哀そうだなんて、本気で思っているのですか? お父さんは、お母さんが可哀想だと?」
イズミは悪びれずに、然う訊ねて笑った。
「いいえ、思っていませんね。お父さんもお母さんも、そんな風には思っていません。お互いに清々したのではないですか? 僕は少しすっきりしましたよ。ようやく蹴りがついたのですから。長かったですね」
「イズミ」
流石に呆れたのか、あけすけな物言いを聞いた父の眉根が寄せられる。其れでも此方に悪意が全くない事が伝わったのか、父はやがて愁眉を開き、イズミ同様に笑ってくれた。笑い話にしてしまう事を、改めて許し合えた瞬間だった。
「……これで良かったんだとは思っているよ。僕もだけど、ジーナもね。ただ、イズミとしては思うところがあるんじゃないのかい? ジーナは君に愛想を尽かされるんじゃないかと、今でも怯えているんだ」
「愛想を尽かす」
目を瞬いて、イズミは父の顔を見る。
愛想を尽かす。『愛』が尽きる。なかなか酷い言葉だった。少なくともイズミの方は「愛想を尽かした」覚えはないのだが、其れをイズミ自身の言葉で聞かなくては、納得してもらえないらしかった。
せっかく再会し、折り合い、和解できたというのに、すぐに言葉で仲違いしてしまう。だが、此の言葉が気になるのは、偏にイズミの拘りの所為だろう。
然うと判っていても、素直に聞き流すには、あんまり酷い言葉だと思う。
イズミは屹と父を見上げ、申し訳なさそうに肩を窄める長身の男に、自分でも律義過ぎて厭になるような質問を、特に感情もなく繰り出した。
「僕が何故、お母さんに愛想を尽かさねばならないのです」
「だって、僕らはそれだけのことをイズミに強いただろう」
「僕がお父さんとお母さんのお二人に、何を強いられたというのです」
イズミは、本気で然う訊いた。其れがイズミにとって心底疑問であり、何故父と母が拘るのか、言葉の形で聞きたいのだ。父が今、イズミに其れを求めたように。同じものを、イズミも父に求めていた。
屹度、非道い言葉を聞いた所為だ。綺麗な言葉を口にしてもらう事で、父の言葉の禊としたかったのかもしれない。イズミは己の心の動きを考察によって追随し、納得のいく答えを出せて満足した。
しかし、流石に其処までは父もイズミの思考を汲み取れなかったらしい。降参とばかりに両手を挙げられたので、苦笑したイズミは玄関扉の庇の下へ退避した。日差しがきつかったのだ。イズミの格好は、半袖の白シャツと黒いズボンという学生服。露出した肌に刺さる夏の輝きが熱かった。
「何を、って、イズミ……」
途方に暮れた様子で、父は呟く。やがて微かな諦観を黒水晶のような瞳に浮かべると、真っ直ぐ此方へ歩いてきて、イズミの隣に並んだ。
蝉が、じじっと鳴く声がした。近隣の家から飛んできて、庭の梢にとまったのだ。途端に賑やかに鳴き始めたので、イズミは無花果の木を振り返った。陽光を透かせて煌めく瑞々しい緑の葉をつと見上げながら、イズミは父を横目に見る。父も蝉の居所を探しているのか、木肌へ澄んだ視線を向けていた。
そして、ぽつりと。水を更地へ一滴落とすように、言った。
「……とても重く、十八の青年には、出来ることなら、背負わせたくはなかったものだよ」
じりじりと、蝉が鳴く。其の薄命を削って真夏を謳歌するように、あるいは無心に渇仰して念仏する僧侶のように、力ある声が空気を打つ。イズミの顔を見ない父の隣で深く息を吸い込むと、仄かな涼しさを感じた。日向と日陰では、此れ程までに温度が違う。清涼な風が心地よかった。
「十八です。お父さん。夫婦が夫婦でなくなっても、一応受け止められる年齢です。僕を心配し過ぎですよ」
沈黙が、降りる。イズミにとっては、其の沈黙は軽いものだった。重く捉える理由がない。だが父にとっては、イズミには量れない重みがあるのだろう。
侘しさを感じさせる表情で、父は若木を見上げていた。視線を追うと、空へと伸びる細枝の先に、虹色の羽の反射がきらりと見える。嗚呼、そんな所に居たのかと目を眇めた途端、じじっと短い鳴き声を最後に、七色の光彩を跳ね返す蝉は、再び何処かへと飛び立った。父が、感嘆の息を零す。やはり紫煙を吐き出すような、憂いを帯びた吐息だった。
「日本の夏も、やっぱり美しいな」
「お父さんも、これからは毎年こちらでしょう?」
「ああ。そうだね。……それに、あちらへ詣でれば、もっと美しい景色が見られるだろうね」
微かに伏せられた睫毛は長く、父の風貌を意識した。此処が本当に日本なのか、其の感覚を疑いそうになる。風景は紛れもなくイズミの知る夏の庭そのものだというのに、可笑しな話だとイズミは思う。
「イズミ。克仁さんはいつ頃戻られるんだい」
「あと一時間は戻りませんよ。図書館での打ち合わせに参加するそうです」
「図書館?」
「ええ。次回の絵本の読み聞かせは、今までと趣向の異なる催しになるそうです。人形劇を上演すると聞きました」
「克仁さんは、そんなこともやっているのか」
「いいえ、人形劇は専門の方にお任せして、克仁さんは恒例通り絵本の読み聞かせ、もしくは紙芝居での参加ですね。ブックトークもやるかもしれないと仰っていましたが、人形劇でかなり尺を取りそうですから、今回はなしになるのではないかと思います。……克仁さんも、変わりないですよ。とてもお元気です」
「それを聞いて、安心したよ」
父は満足そうに、言葉通りの安堵の顔で微笑んだ。
日陰で微笑みかけられて初めて、日差しの下では気づかなかった父の首に刻まれた皺に気づいてしまう。頬や額の辺りにも、知らない皺が増えている。変わらないのは、イズミを見つめる黒い瞳の、慈愛の深さだけだった。
父に老いの影が迫るように、これから会う回数が減っていくであろう母もまた、時の流れに呑まれていく。異国の母へ、イズミは遠く思いを馳せた。
次に母と会うのは、年末の冬休みになるだろう。だが、受験期の長期休暇だ。進路を左右する大切な時期に、果たしてロシアに行けるのか、イズミには確たる自信も実感もなく、誠意もあまり持てなかった。そんな曖昧さが申し訳なく、母の顔を思い出そうとした。すぐには思い出せず、少し焦る。簡単に忘れていい相手ではない。躍起になって記憶を呼び起こそうとして、思考の鈍磨に気がついた。
夏の暑さが、イズミから冷静さを奪ったのかもしれない。其れとも、父の来日という珍事によって、変貌するイズミの日常への郷愁と動揺だろうか。もし然うだとするなら、自分でも驚きなので少し笑えた。イズミは、笑ってばかりだった。
「お父さん。荷物はそれだけですか。もっと大荷物で来られるのかと思いましたよ」
イズミは、父の持つ革鞄と白い紙袋を見下ろした。父は、「ああ」と頷くと柔和に笑った。やはり照れ隠しのような笑みだった。
「克仁さんへのご挨拶は明日に出直そうと思って、お土産をホテルに置いてきてしまったよ。ここでイズミに会えるんだから、持ってきたらよかったな。……イズミ、そのまま出られるかい?」
「はい。お父さん、休まなくてもいいのですか? お疲れでしょう。冷たいお茶を出しますよ」
出会い頭に「お疲れ様」と声を掛けたばかりなのに、つい同じ台詞を繰り返していた。はっと気づくと、父は漸く子供らしい一面を見せてもらったと言わんばかりに笑っていた。
「いいんだ。イズミ。有難う」
父の手が、イズミの頭に乗せられた。伸びた背丈を測るように。
其れは、父の顔だった。異国の男でも懐かしの人でもなく、紛れもなく父だった。イズミの知る顔だった。人の親の顔だった。
懐かしさが、不意を打って胸に迫った。此の時漸く、父に久しぶりに会えて嬉しいという感情を、再会の瞬間よりも明瞭に掴めた気がした。
父は、確実に老いていく。イズミが知らぬ間に老いていく。老いから老いへの変遷の隙間に、イズミの居場所は何処にもないのだ。
そんな家族の在り方を、イズミは寂しく思った事はない。父の首から、目を逸らす。見てはいけないものを見てしまった後ろめたさで、胸が詰まった。
だが、其れは一瞬の出来事だった。其の一瞬だけに去来した、其れこそ蝉の命のように、薄幸な感慨に過ぎなかった。
イズミは何事もなかったかのように首を振ると、表情を取り繕って薄く笑い、白昼夢のように湧いた感慨を、そっと胸の奥へ仕舞い込んだ。感傷に浸る時間は、父と別れた後で取ればいい。だから今は、必要なかった。
「行こうか。イズミ」
父の手が、イズミの頭から離れていく。細い指を追うように、髪がさらりと風に流れた。
日向へ歩き始める父の背中は、やはりどこか華奢だった。飛び石を辿る足取りはゆらゆらと心許なく、きちんと食事を摂っているのか心配になる。息子の不摂生を気遣うよりも、まずは自分を大切にして欲しい。大人はいつも子供を気遣うばかりで、一体誰に気遣ってもらう心算で、今を生きているのだろう。
イズミは呆れと心配の溜息を吐いてから、とん、と父に倣って飛び石を踏んで、盛夏の鋭い日差しの下へ、全身を晒して歩き始めた。




