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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第4章 清らかな魂
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清らかな魂 6

 花が、降る。色とりどりの、花が降る。

 蓮。桔梗。梔子くちなし。朝顔。月下美人。

 いずれの花にも茎はなく、がくより下は存在しない。散りゆく極彩色の花々は、最も見目好みめよい部分のみの姿となり、それ以外の存在を一切許さない冷酷さで、木張りの天井からぼうと染み出しては、淡雪のように降っている。そうして畳に触れた途端、夢幻ゆめまぼろしのように消えていく。甘い香りだけが、儚く残った。

 見る者の魂を、奪い去るのではないか。そんな懸念を抱くほどに、幻想的な花が降りしきる、六畳一間の和室に――和装の男は、座っていた。

 黒地の浴衣は白と灰の縞柄で、苔色の帯を締めている。くつろいだ様子で折り曲げられた足はすらりと長く、はっとするほど白い肌が、浴衣の裾から覗いていた。雲間から射す一条の光明のように、窓辺の光も、また白い。日差しの輝きを乗せた風に、男の灰茶の髪がさらりと靡いた。

 襖に面した障子窓の手前には、長方形のはこのような柿渋かきしぶ色の文机ふづくえがある。そこには数冊の文庫本が、窓際へぴたりと沿って、行儀よく一列に並んでいた。

『遠野物語』

『罪と罰 上』

『江戸川乱歩傑作選』

外科室げかしつ海城発電かいじょうはつでん

 男の骨ばった指先が、文庫本の天をなぞる。優雅に一冊の本が引き抜かれると、支えを失くして倒れ合う本が二冊、軽くぶつかり合って止まった。男の指は、年季の入った本のページを、ぱらり、ぱらりと捲っていた。

 表題は、『罪と罰 下』。ページの中ほどから零れた栞の紐は、しっとりと美しく、血液のように垂れている。

 その栞のページまで、男の指が到達すると――唇から、感嘆の声が零れた。

「……意外でしたね。二度と読むことはないのだろうと思っていました。僕は兄でありながら、氷花さんの事を、まだまだ何も知らないのでしょうね……」

 よく通る声だった。凪いだ海を髣髴とさせる、落ち着き払った声だった。

 その声を聞く者全てに、均等な慈愛を振りまくような、異質な博愛を纏う男を囲み、花は降る。降り止まない。切り落とされた花の首は、男の坐する部屋一面を、男の所作に関係なく、粛々と彩り続けるのみだった。

 何だか葬送のようだと思った時――男は拓海を振り返り、莞爾にっこりと微笑んだ。

「お待ちしておりました。坂上拓海君。……君は今、『見えて』いますね……?」

「……」

 拓海は、返事ができなかった。藤崎によって開け放たれた襖の前で、ただただ気圧されて立ち尽くした。

 室内に、調度はさほど多くない。目の前の文机の他には小さな本棚と和箪笥が一つずつ。壁には衣紋掛えもんかけからぶら下がる白いセーラー服と、紺色のスカートが一揃い。他には、何もなかった。花だけしか、ここにはなかった。

「ようこそ。氷花さんの部屋へ。あるいは、かつての僕の部屋へ」

「……初めまして。……坂上拓海と、申します」

 拓海は、何とか声を絞り出す。思うように口が利けない理由は、畏怖ではなく、感動でもなく、それ故の情動の麻痺でもなかった。

 拓海には、どうしてか――この光景が、当たり前のものに思えたのだ。

 そんな感性の異常には気づいているのに、夢とうつつの境が曖昧になったこの部屋で、何故か思考を放棄していた。ああ、こういうものなのだ、と。まるで、観念するように。『鏡』の事件で非日常に慣れた所為かもしれないが、この光景に心奪われた真の理由は、和装の男の所為ではないかと拓海は思う。男は幽玄ゆうげんの世界の主のように、人に化けた狐宜しく座している。

 ただ、妖物としての雰囲気は男にはなかった。西洋人形といった方が、印象としては近いだろう。陶器のように白い肌も、灰茶色に艶めく髪も、こちらを見つめる青色の目も、全てが作り物めいていて、見目麗しく纏まっていた。

 完成された美しさに、明白な生の欠損――拓海が男の虚ろに気付いた時、違和感の正体が、急に分かった。

 拓海には、男が空っぽに見えたのだ。それは例えるならば、雨宮撫子と出会ったばかりの頃に、拓海が抱いた印象と、通じるものがある気がした。

 表情が薄いから、感情の所在が掴めない。『見えない』ものを探そうとすれば焦り、笑顔が覗けば安堵して、少しだけ嬉しくなる。拓海は男と撫子に、見た目では測れない魂の部分で、似通ったものを見た気がした。

「……成程。君は雨宮撫子さんに、とても優しい人のようです。友達を大切にする君の魂は、やはり清らかなのでしょうね……」

「! ……な、なんで……」

 吃驚びっくりした拓海は、正面の男を凝視した。

 今、心を読まれた気がしたのだ。

 そんな拓海の狼狽を、藤崎がちらと振り返る。そして目元に呆れの渋さを浮かべつつも、状況をたのしんでいるような揶揄の言葉を、そっと男へ投げかけた。

「イズミ君、坂上君が困っていますよ。大方、階下の七瀬さん達にも、同様の態度を取ってきたのでしょう。君、あらぬ嫌疑を掛けられていますよ。中学生だからと、あまり人をからかうものではありませんよ」

「御冗談を。僕はいつだって真剣です。克仁かつみさんは手厳しいですね」

 男は小気味良く笑ったが、藤崎は男ほど笑わなかった。愉快そうに笑う顔は、次第に無表情と大差ないほどの薄い笑みへと沈んでいく。拓海にはその顔がやはり泣き笑いのように思え、それが先程から少し気になっていた。

 それに――気になる事なら、他にもある。

「……」

 拓海は躊躇いながら、自分の左手を見下ろした。

 ――そこに伝わる、温かな温度。

 中学生の拓海より、ずっと精悍で、それでいてどことなく線がまるく、硬い手の平。拓海の手は、藤崎の手と繋がれていた。

 さっき、突然に握られたのだ。この部屋に、入る時から。かき氷とジュースの入った盆を畳に置いた藤崎が、何故か拓海の手を取った。

 そして、その瞬間から――世界は、色彩を変えていった。

 見目好い花の雨が降る、幻想の世界に変わったのだ。

「あの……」

 拓海は戸惑いながら、藤崎を見て、男を見る。藤崎はすぐに気づいてくれて、申し訳なさそうに拓海へ笑いかけたが、手は離されなかった。拓海と握り合っていない方の手が、すうと中空へ差し伸べられる。

 紳士が貴婦人を舞踊に誘うような、恭しい手つきだった。そんな藤崎の手の中に、ひらりと小鳥が枝にとまるように、薄桃の羽が舞い降りた。

 一つの小さな花だった。五つある花びらは先の方が割れていて、綿のようにふわふわしている。桜に似た花だった。

「あ……」

 拓海は、思わず声を漏らした。

 ――つい先程、名前が挙がったばかりの花だった。

「私はあの子に出逢った時、とても驚きましたよ。……あの子の魂には、〝鋏〟が見えました。小学生の子供が持っているような、刃先が丸く、が青い物です。玩具のような他愛のない鋏ですが、の大きさは……人の身体ほど、大きい」

「鋏? ……藤崎さん、それ……何の、話ですか」

「雨宮さんの話ですよ。坂上君。君も何か、事情を知っているのではありませんか?」

 藤崎の物腰は柔らかかったが、もう笑ってはいなかった。痛ましげに細められた双眸は、風にそよぐナデシコの花びらへ落ちている。それ以外を、見ないように努めている。そんな頑なさが、眼差しにはあった。

「……鋏が、何なんですか」

 声が、少し震えた。訊くのは、怖い。それに訊きたい事は他にも山ほどあった。だが、まずはそれを知らなければならない気がした。

 藤崎が、拓海を見る。やがてしばしの沈黙を挟んだ後に、吐き出すように言った。

「……刺さっています。胸の、真ん中に。身体を、深く刺し貫かれています」

 ――茫然と、した。

 言われた内容が突飛過ぎて、言葉が脳に届かない。近いところまで声は確かに響いているのに、あと一押しが足りていない。堰き止められて、伝わらない。感度が妙に鈍ったような、それでいて重い痛みを身体に覚えたような、ぐにゃぐにゃと柔らかな手応えだけが、意識を強く、叩いていった。

「……」

 鋏。柄が青色の、子供が持つような、切れ味の悪そうな、鋏。それをもっと大きくしたような、この世に存在してはいけない、残忍な凶器。

 それが刺さるところを、拓海は想像する。巨大な鋏が人体を貫くところを、藤崎の言葉通りに想像する。

 丸みを帯びた鈍色の刃先が、白く整った肌理きめをひやりと撫でる。

 だが、鈍磨した刃先では、肌を傷つける事が叶わない。必然的に、強く刃先を押し込まざるを得なくなる。捩じ込むように。抉り込むように。突き刺されと呪詛を吐き、貫けと渾身の悪意で。ぐりぐりと執拗に、粘着質に、押し付けていく。刺さるまで。刺さるまで。刺さるまで。相手の身体に、刺さるまで。


 雨宮撫子の身体に、刺さるまで。


 ばちん、と強い照明をいきなりかれたような、フラッシュが白く瞬いた。

 燦然と輝く意識の只中に、撫子の面影が閃いた。想像の人体が、のっぺらぼうのはずの顔が、見知った顔にすり替わる。

 半袖の白ブラウスを着た撫子の胸元で、リボンに留められた金色のボタンが光る。露出した細腕が、抜けるように白い。青と白のチェック柄のスカートと、肩に届かない長さの栗色の髪が、振り向く動きに合わせて翻った。

 ――驚いている。

 感情をあまり露わにしない撫子が、目を見開いて驚いている。華奢な両手が、助けを請うように、前方へ伸ばされた時――青い閃光が、凄い速さではしり抜けた。

 短い悲鳴が、迸った。苦悶に喘ぐ友達が必死に押し殺し、押し殺せないで空気を裂いた、断末魔の悲鳴だった。

 重い砂袋で力任せに殴りつけたような、耳を塞ぎたくなるほど鈍く湿った音がして、崩れ落ちる矮躯わいく

 その身体には――冗談のように、大きな、青い、鋏が。


「あ、……う、……うわああああああ!」


 悲鳴が喉を食い破った。だが一度連想した〝映像〟は、拓海の頭から消えないどころか、惨状を克明に描いていく。微に入り細を穿うがち、残虐な光景を、色鮮やかに築いていく。脳内で入った再生スイッチが故障して、湧き出した〝映像〟が止まらない。一人歩きした〝映像〟が、恐慌状態に拍車をかけていく。

 撫子の手が、空を掻く。色を失った唇が開き、誰かの名前を呼んでいる。身体が徐々に弛緩していき、胸に刺さった鋏にしなだれかかった両腕からも、力がゆっくり抜けていく。こんな〝映像〟は、間違いだ。そうでなければおかしいのだ。撫子は今、一階にいる。柊吾と七瀬と一緒に居る。撫子は、生きている。死んでいない。生きている。

 拓海は焦り、恐怖し、堪らずきつく、目を瞑ったが――悪寒は、すうと唐突に薄れた。まるで、憑き物が落ちたように。

「……坂上君。坂上君。……大丈夫ですか?」

 目を開けると――藤崎が、拓海の顔を心配そうに覗き込んでいる。

「あ……」

 ――我に、返った。

 そうとしか形容できないこの感覚は、夢の目覚めそのものだ。

 ――帰って、きていた。

 ここは、和室。撫子の姿は、どこにもない。花が降り続ける部屋に、恐慌の名残のような呼気の乱れが微かに響く。首筋を伝った汗が、窓からの風に冷やされてようやく、拓海は現実感を取り戻す。

 ――夢、だった。そう、思った。白昼夢は、終わっていた。

「藤崎、さん……」

 放心した拓海は、藤崎と見つめ合う。藤崎は心なしか、すまなそうな顔つきになっていた。拓海が妙な妄想に憑りつかれた揚句、叫び声を上げたからだと気づき、羞恥と混乱が一息に押し寄せてくる。

「あ……え、と。……は、はい。平気です」

 しどろもどろに弁解したが、本心からの言葉ではなかった。藤崎の言葉の不吉さは、依然として拓海の意識にこびりつき、それこそ鋏のように、胸に突き刺さったままだった。

「……。何なんだ。今の……」

 拓海は、藤崎には聞こえないほど小さな声で、呟いた。

 ……ただの想像にしては、嫌なリアリティを帯びていた。そもそも拓海は、そこまではっきりと〝鋏〟を想像したわけではなかったのだ。藤崎の告げた〝鋏〟の意味を、拓海なりに考えようとしただけだった。

 それが、いきなりこうなった。撫子が鋏によって惨殺される〝映像〟が、突如として頭に浮かんだのだ。疑問を覚えた瞬間、はっと拓海は気がついた。

 何故こんな〝映像〟が急に見えたのかは分からないが、藤崎の言う〝鋏〟なら、拓海の記憶にあったのだ。

 以前に、柊吾が言っていた。昨年の初夏に、撫子を襲った〝言霊〟の事件について、あらましを聞かせてもらった時に。同じく〝言霊〟の被害を受けたという柊吾の友人が語った思い出話に、その言葉は潜んでいた。


 ――『小五の時に、クラスで育てたナデシコの花が、何者かに鋏で切り取られて、ほとんど全滅……』


 鋏で、切り取られて。


「藤崎さん……何で、鋏って……何か、知ってるんですか」

 拓海は緊張の面持ちで、藤崎に問う。対する藤崎は平然としたもので、拓海の警戒を解くような緩やかさで、首を横に振った。

「いいえ。何も。私は『見える』ものを云っただけの事ですよ。……私と手を繋いだ所為で、君には違うモノが『見えた』ようですね。意図した心算つもりではありませんでしたが、申し訳ない。加減しましょう」

「……へ?」

 何の話をされたのか、よく分からない。藤崎は拓海が落ち着きを取り戻してほっとしているようだったが、瞳には夕暮れ時の空のような淡い憂いが灯っていた。

「何度か抜けかけた事もあるようですが、根深いですね。まるで呪いのようです。可哀想に。あんなに酷いものは初めて見ました。性質たちの悪い何かに脅かされたのでしょう。雨宮さんは何でもないように振る舞っていますが、あの深手で普通の表情を取り繕うのは、並大抵の事ではありません。彼女は強い子ですね。そんな努力が、私には痛ましく思えます。……れに、七瀬さんも」

「え? 篠田さんっ?」

「火事にでも遭ったのでは? 火傷の痕が見えました。ほとんど治癒しているようなので、辛さは感じていないでしょうが、刺し傷のような痕も幾つか。喧嘩と一言で片づけるには、〝傷痕〟がいささか生々しいですね」

「な……ちょっと待って下さい、藤崎さん……それって篠田さん、大丈夫なんですか……!」

 血の気が引いた拓海は、藤崎に詰め寄る。七瀬の名前まで、この場で挙がるとは思わなかったのだ。

 それに、先程も思った事だが――何故、知っているのだろう。

 撫子の事も、七瀬の事も、これらの指摘は明らかに、かつての事件を示している。拓海達の誰も、明かした覚えなどない。

 拓海が薄らと浮かべた警戒の色に、藤崎は気づいているのかいないのか、やんわりと穏やかに笑った。大人の笑い方だった。藤崎は拓海の不審を払拭できる事に、自信と確信を持っている。拓海にはまだ背伸びしてもできないだろう、余裕と達観の笑みだった。

「……やんちゃな子ですから。君がれからも優しく見守ってあげて下さい。七瀬さんは、君の事が本当に好きですよ。ただ、私には〝傷痕〟が『見える』だけで、事情は全く判りません。時間が許せば、七瀬さんに何があったのか、後で聞かせてもらえませんか。派手な喧嘩は、少しばかり心配になりますからね」

「……なんで、そんなに分かるんですか」

「簡単なことですよ」

 藤崎は、笑う。微かな皮肉と、自嘲が織り交ざった声だった。

れが、私の〝霊感〟だからです」

「霊感っ?」

 拓海はぽかんと口を開けたが、そんな反応はもっともだとでも言うように、藤崎は声を忍ばせて笑った。やはり揶揄が滲んでいる。言葉にした藤崎自身が、己の言葉を笑っている。拓海の目には、そんな風に見えた。

「イズミ君も先程()っていましたが、坂上君。君は今、『見えて』いるのでしょう? 此処ここに降る花達が」

 そう告げた藤崎は、おもむろに手の平をくるりと返し、花を手から零した。

 ナデシコの花が、落ちていく。そして、降り行く先達せんだつの花々に混じり、畳に触れて、消えていくかと思われたが――ぱきん、と。冷たく澄んだ、音が鳴った。涼風が頬を撫で、室内のぬるい空気を切り拓いた。

 ナデシコの花は、消えていなかった。

 消えずに、畳の上で――凍っていた。

 分厚い氷に覆われた花が、ころり、と石のように転がる。花が触れた畳の周囲に、音もなく霜が降りた。足元からは冷気が立ち上り、息を詰めた拓海は、幻の移ろいを凝視した。

 ……本物に、見えた。虚構を疑う理性こそを否定せざるを得ないほどに、花は確固たる存在感でそこに在る。

 直に触れたなら、もっときちんと、その実在を確かめられるだろうか。拓海の手は、誘われるように、畳の花へ伸びたが――繋がれた手が、軽く引かれた。

 驚いて顔を上げると、拓海を止めた初老の男は、首をゆるゆると横に振って、柔和に笑うだけだった。

「克仁さん。僕は初めて貴方が発した〝言葉〟として、その事実を受け止めましたよ。貴方には彼女の〝言霊〟が、そんな形に『見えて』いるのですね。僕とはまた違った見え方です。実に面白い」

「面白がっている場合ですか。イズミ君」

 藤崎が、男を振り返る。笑みは絶やさないままだったが、言葉には微かな棘が混じっていた。

「君も、あの子の窮状は判っているのでしょう。神社の神主代行らしく、御祓いでも御祈祷でも、何でもあの子の為にやってあげればいいでしょう。君はあの子を可愛いと思いながら、何故()うしないのです。意地悪ですよ、イズミ君」

 糾弾された和装の男は、面目なさそうに微笑んだ。悪びれている風ではなく、純粋に、力になれない事を詫びている。そんな無力と諦観が、仄かに覗く笑みだった。

「残念ながら、僕も人ですので。撫子さんの為に尽くしたい気持ちは山々ですが、同時に〝アレ〟は、今の僕や御父様にどうにかできるものではありません。もちろん貴方にもです。克仁さん。ご家族の方や柊吾君に一任するのが、一番の治療なのですよ」

「……。『愛』ですか。れもまた、大切でしょう。なくてはならぬものでしょう。ですがイズミ君。君は今、自分を人だといましたね? 私はの言葉、忘れませんよ」

 笑みを収めた藤崎は、会話についていけない拓海をよそに、きっ、と男へ厳しい眼差しを向けた。今まで拓海が見た中で、最も凛々しい表情だった。同時に、最も悲壮な表情だった。

「君はいつも、己を『鬼』だと蔑む。私に今、言質を取られた事を覚えておいて下さい。いくら非人間を装ったところで、君はやはり人間ですよ」

「一本取られましたね。克仁さんを前にすると、僕は子供に戻ってしまうようです。矛盾を掬い上げられるとは、お恥ずかしい限りです」

「全くですよ。……坂上君。どうぞ、こちらへ」

 藤崎が、男の対面に用意された紫色の座布団を腕で示した。拓海が慌てて頭を下げると、手が、そっと離された。

 さらりと、雪の入り混じった風が、最後に身体をひと撫でして――和室は、ただの和室に戻っていた。

 みんみんみん……と、開いた障子窓の向こうで、蝉が盛んに鳴いている。短い夏を謳歌する声が響き渡る狭い部屋で、居住まいを正した和装の男が、拓海を見上げて笑っている。吸い込まれそうな青い目で、異国の男が、笑っている。

 優しく、涼しげに、嫋やかに。そして、やはり、空っぽに。

「……」

 拓海は、対面の座布団へ正座する。花が降り止んだ夏の部屋で、異国の風貌を持つ男と、真正面から向き合った。その間、三者は無言だった。不思議と儀式めいた雰囲気がぴんと張り詰め、花の残り香と蝉の声、盛夏の熱気と日陰の涼しさだけが、薄青い和室で囲われた世界の全てだった。

 長いとも短いとも判断の付かない、絶妙な間合いの末に。

 男が、ついに口を開いた。

「……本日は御足労頂き、誠に有難う御座います。御挨拶が遅れました。呉野和泉と申します」

 流れるような動作で、男――呉野和泉が、頭を下げた。

 灰茶色の頭髪が揺れて、白い外光を弾く。和泉の容貌は日本人離れしているはずなのに、そんな艶めきが何故だかひどく浴衣と調和して見えた。

「……いえ、お招き頂き、ありがとうございます」

 拓海は狼狽えながら、頭を下げる。拙いお辞儀が面白かったのか、顔を上げた和泉にくすりと上品に笑われた。

「七瀬さんから既に聞かれているとは思いますが、僕は呉野神社の神主代行を務めている者です。もちろん、閑古鳥の鳴く呉野神社での務めだけでは生活が立ちゆきませんので、外国語教室の教師として働く事もありますが、ともあれ――ご存知の通り、僕は氷花さんの兄ですよ」

「……」

「そして」

「え?」

 続きがあるとは思わず、拓海は慌てた。和泉は拓海の動揺を全く気に留めず、自分のペースで、こう続けた。


「僕は、藤崎克仁さんの家族です」


 蝉が、鳴いている。誰もが沈黙してしまうと、蝉の声ばかりが部屋に響く。窓の向こうの舗道からは、子供の歓声が聞こえてきた。真夏の昼下がりの沈黙に、藤崎の苦笑交じりの声が溶けた。

「君は、うやって他者を悪戯いたずらに翻弄するから、妙な嫌疑をかけられてしまうのですよ。ホームステイ先だったと、素直に分かりやすくえばいいでしょう」

「いやはや、それは失礼致しました」

「ホームステイ?」

 拓海が目を瞬くと、二人の大人は揃って笑った。藤崎の目元には優しげな皺が寄り、何かを懐かしむように双眸が細められる。「ええ。イズミ君は私の家族です」と肯定した声には、温かな慈しみがこもっていた。

「イズミ君は幼少時、母国と日本を行ったり来たりしていましたから、私の所で預かる事が多かったのですよ。の頻度が増していき、日本の中学校への入学が決まった頃からは、ホームステイ先として私の家に居候する事になったのです」

「……呉野さんの母国は、どこなんですか」

 この質問は、七瀬が一度探りを入れたものの、回答が得られなかった質問だ。今日なら答えてもらえる気がしたので訊いてみると、予感は果たして的中した。「和泉で構いませんよ、拓海君。氷花さんと同じ呼び名では言い辛いでしょう」と前置きした和泉は、拍子抜けするほどあっさりと、拓海の疑問に答えてくれた。

「ロシアです。僕の日本人としての血は、祖父に当たる呉野國徳くれのくにのりの血です。母国の血は、ロシア人の家族の血です。氷花さんは僕の妹ですが、九年前までは従妹いとこでした。思い返してみても、誠に奇妙な巡り合わせですね」

「い……いとこ?」

 拓海は、目を軽く瞠った。ロシアは、まだ予想の範疇だった。柊吾や七瀬から和泉の容貌について聞いていたので、驚くには値しなかった。だが、この情報は予想外だった。脳内で描いていた呉野家の相関図がぐちゃぐちゃになり、混乱で少し眩暈がした。先程の撫子の、残虐な〝映像〟の所為だろうか。気分の悪さが、尾を引いていた。

「えっと……すみません、和泉さん。何から訊いたらいいのか、分からなくなったんですけど、少しだけこちらからも、質問をさせてもらっていいですか」

「もちろんです。何でも訊いて下さい」

 和泉は、莞爾かんじとして笑った。呉野氷花の兄とは到底思えない朗らかさだが、元は従兄妹だと証言されたばかりだ。純粋な善の笑みを前にして、拓海は何だか困ってしまった。

 何しろ、拓海はこれから、和泉を弾劾するようなものなのだ。なのに和泉は、拓海に優しい。今年の春に神社で和泉を責めた七瀬にさえ、それは同じだったという。喧嘩の経緯を拓海達に報告した七瀬は、思い返せば後ろめたそうにしていたが、今なら気持ちがよく分かる。

「あの。……さっきの、何ですか。手品とかじゃないですよね」

「ああ。これですか」

 和泉は、部屋の中空に目を向けた。拓海が〝花〟の事を言ったのだと、すぐに悟ってくれたらしい。それともこちらの心を読んだのだろうか。拓海には判断できなかった。

「手品ではありませんよ。ですが、手品という表現で、僕にも少し茶目っ気が湧きました。一つ僕も、その〝手品〟とやらに乗っかってみましょうか」

「? 和泉さん?」

 拓海はきょとんとしたが、和泉は面白がって返事をしなかった。代わりに、手慰てなぐさみのように開いていた文庫本のページを、ぱたん、と音を立てて閉じた。

 瞬間――朝日を受けた花が開花するように、溢れんばかりの色彩が、盛夏の和室へ舞い広がった。

「あ……」

 拓海は唖然と、また『見える』ようになった花々を振り仰ぐ。

 ぴしぴしと、空気の凍てつく音がする。尖った冷気が、半袖から露出した腕を撫でた。極彩色の花々は、透き通る薄氷うすらいに覆われていき――やがて、全ての花が凍りついた。

 ごとん、ごとん、と花が落ちる。あのナデシコの、花のように。あっという間に厚い氷に閉じ込められた花々が、重力に従って畳に落ちる。消えずに畳に積もった花の一つを、拓海はじっと見下ろした。

 うっすらと薄桃の花びらを透かせた花は、一体何の花だろう。最も麗しい姿のまま、それ以外の何も持たないという欠陥を抱きしめたまま、残酷に時を止められた花。永遠を体現したような、氷漬けの花。

 ――氷花。

 何だか、はっとした。拓海がその符号に勘付いた時、唄うような和泉の声が、凛とした響きで聞こえてきた。

「……『父のうようにあの子が喰われていなくなるのだとしても、残ったあの子も杏花きょうかです。鏡花きょうかであれ供花きょうかであれ氷花であれ、かけがえのない一人娘です。呉野杏花です。清らかな魂です』……そう書き遺して、笑って死んでいった人が、僕の身内にいます。僕は今日、その昔話をひもとく為に、君をここへ招きました。ですが、拓海君に話す為だけではありません。僕は、この悲劇の物語について何も知らない克仁さんへの懺悔も兼ねる為に、この場を設けさせて頂きました」

「……やはり、ですか。イズミ君。薄々勘付いていましたよ」

 藤崎が、拓海の隣の座布団へ腰を下ろした。そして、膝に乗せていた拓海の手を、てらいのない動作で再び取った。

「!」

 三度みたび、景色が入れ替わった。

 氷漬けの花から、氷が一斉に取り払われたのだ。

 冷気が霧散し、代わりに蒸した熱気が戻ってくる。蝉の声が聞こえて初めて、そんな外界の音までもが聴覚から遠のいていた事実にようやく気づき、拓海は慄然として藤崎を見た。藤崎の目は、和泉を見つめたままだった。真剣な眼差しで、和泉だけを見つめていた。

「イズミ君。君が此処ここに住んでいた、高校三年の夏の、某日まで。の部屋は普通の部屋でした。ですが、君が此処ここを出ていくと決めた時期を境に、どういうわけだか不思議な現象が起こり始めました。の部屋に君が居る時、花が降るようになったのです。茎のない、頭だけの花達です。そして君が居なくなると、ぴたりと何もなかったかのように降り止んでしまう。れに、れもどういうわけだか私には判りませんが……先程の君の言葉を借りるなら、君と私では『見え方』が違うようですね? 君にはいつも、の花が凍てついているように『見えて』いたのですね? 君は先程、〝言霊〟と云いましたね? れについて、君の知識を私に開陳する気はありますか?」

「貴方にしては、珍しく詰問調ですね。如何いかがなさいました? 克仁さん」

「氷花さんの、家族代理としての義務だからです」

 克仁は、言う。声に初めて、もどかしさにも似た情動が、熱っぽく通った。

「イズミ君。私は氷花さんというお嬢さんの事を、とても良い子だと思っています。素直で聞き分けがよく、礼儀正しい良い子だと。だからこそ、氷花さんの春の問題行動について、言及は君と國徳くにのりさんの二人に任せて、私からは何もわなかったのです。私まであの子を責めれば、あの子の周りは敵だらけになってしまう。きちんと指導をする家族が他所よそにいるならば、私の出る幕ではないと考えました。れに、彼女の方から先に謝られてしまいましたからね。――だから私は、何もわなかったのです。彼女が私には見せないかおを持っているのだとしても、れは思春期の少女が大人に見せたくないと隠す、いじらしい側面の一つだと割り切っていました。ですが」

 一度言葉を切った藤崎の琥珀の目には、微かな立腹が覗いている。子を叱る親のような目つきだった。

「最近のイズミ君を見ていると、私のそんな対応は果たして正しいものなのか、疑問に思う事が増えてきました。の辺りの弁解も、私に聞かせてくれませんか」

 徐々にきな臭く張り詰めていく大人同士のやり取りに、拓海ははらはらと聞き入っていたが――この時にはさすがに、部外者の拓海でも気づいていた。

「あの……藤崎さん……〝言霊〟について、本当に何も知らないんですか?」

「……。知らないのは私だけのようですね、イズミ君。少し酷いのではありませんか? まるで仲間外れです」

「そんなことはありませんよ。――僕達は、〝同胞〟なのですから。疎外感を覚える事はありませんよ、克仁さん」

「同胞?」

 謎の言葉を聞き取り、拓海は首を傾げる。藤崎が振り返り、何故だか悲しげに微笑むと、拓海の手から、手を外した。

 ぴたりと、花が降り止む。正確には、止んではいないのだろう。拓海の目には見えていないが、花はおそらく、今も絶えず降っている。藤崎の目には、あでやかに。和泉の目には、凍てついて。ひょっとしたら拓海の肩や膝にも、花が降り積もっているのかもしれない。

「坂上君。私は個人的な趣味として、民俗学をたしなんでいます。学問の追及がこうじて、地域の子供達へ民話を語り聞かせたり、すぐ其処そこの道場で開かれる絵本や紙芝居の読み聞かせの会に、お手伝いとして参加もしています。ただ、私が民俗学にのめり込んだきっかけは、決して子供好きという理由ではありません」

「え?」

 突然の告白に、拓海は面食らう。藤崎は顔をつと上げると、天井を大きく振り仰いだ。拓海には見えない夢の花を、幻視しているのだろうか。

「私には、俗に言う〝霊感〟があるのでしょう。ですがね、坂上君。藤崎克仁という人間は元来、心霊や狐狸妖怪こりようかいの類、非日常的な超常現象に対して、不審と倦厭を持つ人間でした。有体に言えば、一切信じなかったのです。読み物としては楽しめますが、実在を問われたならば、首をはっきり横に振ります。神の存在も同じです。若かりし頃に学友が、神の実在について熱く議論を交わしておりましたが、私は彼等をまるで相手にしませんでした」

 滔々《とうとう》と語る藤崎は、己の頑なさを笑うように、照れ臭そうに目を細めた。

「ですが、ある時から……具体的にいつ頃からなのかは判然としませんが、私はいつしか普通の人とは違うものが『見え』始めている事に、徐々に気づいていくのです」

 藤崎の手が、虚空を再び掴む。そして、拓海には見えない何かを乗せた手の平を、寂しげに見下ろし、苦笑した。

「私の視界に入る人間に――〝怪我〟の痕が『見える』ようになったのですよ。ですが、頭では不思議と分かっています。誰も、怪我などしていない。目の前の人間が腹から血を流していようが、頭がかち割れていようが、片目が欠損していようが、彼等は平然と生きている。私は慌てましたが、やがて気づきました。――〝傷痕〟は、私にしか……『見えて』いないのだと」

「……」

「誰かに酷い言葉をぶつけられた時、あるいは惨い仕打ちを受けた時、心に傷を負う――と。そんな形容をする事があるでしょう。私が『見て』いるものは、ともすればそんな〝傷痕〟ではないかと考察した時期もありましたが、ともあれ。私の理性は、誰にも見えないはずの傷が『見える』という現実を易々《やすやす》と受け入れられるほど柔軟でもなければ、老成してもいなかった。よって、私は己にだけ『見える』ものを徹底的に拒絶する為に、猛勉強を始めたのです」

「え? ……勉強?」

「はい。勉強です。がむしゃらに知識を頭に詰め込みました。全ての超常現象に、科学的な理由付けを行う為にです」

「えっ」

 藤崎が、温和に笑う。今語られている性急な若者と同一人物とは思えないほどに、緩やかで円い微笑だった。

「若い私は、あらゆる勉強を試みましたよ。当初は科学を極める為に知識を肥やしていきましたが、次第に自分が病魔に憑りつかれているのではないかという可能性に思い至り、精神病理についての本も大量に読み漁りました。其の頃にはもう鬼気迫るという言葉通り、半分狂人のような有様でしたね。結局、そんな私の様子がよほど不気味だったのか、家族に神社へ担ぎ込まれましてね。の時にお世話になったのが、呉野神社の神主。呉野國徳くれのくにのりというわけです」

 ――壮絶な話だった。七瀬から聞いた藤崎克仁像と、凄まじい隔たりがある。軽い笑い話のように昔を語った藤崎は、放心する拓海をあっけらかんと笑い飛ばして、ふ、と手の平に息を吹きかけた。まるで、花を散らすように。

「最終的に、私は神主さんとの会話の中で、平常心を取り戻し……焦燥から解放されて以降は、民俗学に没頭しました。其処そこには私が経験したような不思議体験、異質で怪しげな怪談のアーキタイプが、たくさん織り込まれていたからです」

「怪談? アーキタイプ?」

「ええ。アーキタイプとは、原型という意味です。『遠野物語』を読まれた事はありますか? 例えば、ある人攫いの話が所収されていて、里の人間が、妖怪だか天狗だか、正体の判らない赤ら顔の異形によって、山へと攫われたそうですよ。幸いにして私はまだ、異人さんにはお目にかかった事はありませんが――ういった妖しげな知識には惹かれましたね。そんな類話やいにしえの知識に、私は期待を懸けていましたから」

「期待、ですか?」

左様さようです」

 藤崎は、優しい口調を終始崩さないまま、昔話を締め括った。

「結局、私が民俗学というり所にこだわるわけは、の知識で自分の〝霊感〟を否定したかったからなのですよ。れが『見える』ことは普通で、ありふれていて、全く特別なものではなく、恐ろしいものでも決してない。れが、此処ここに記されている。体験談として其処そこにある。私以外にも他にいる。そんな安心感が欲しかったばかりに、今日こんにちに至って尚、いまだに惹かれ続けているのでしょうね……」

「……」

「ただ、私の〝霊感〟は極めて弱いものです。若かりし頃、取り乱したのが恥ずかしいほどです。少しばかり幻想的で狂おしい景色が見える他は、〝傷〟や魂の色、風合い。ういったものが、自ずと判るばかりです。他には、私と同じような〝霊感持ち〟の人間も、識別が可能です」

「魂……」

 拓海は茫然と、藤崎の言葉を拾って、呟く。

 作り話には思えなかった。現に七瀬と撫子の〝傷痕〟が言い当てられているのだ。藤崎は本気で、己が『見た』ものを言葉に変えて、拓海へ打ち明けてくれている。拓海は刹那逡巡し、別の切り口から会話を続けた。

「藤崎さんの言い方で言うのなら、三浦の魂は、どういう風に見えていますか」

「彼の魂ですか」

 藤崎は意表をかれたような顔をしたが、すぐに柔らかな表情になると、丁寧な口調で答えてくれた。

「……〝お守り〟が見えましたよ。身体の周りを、ヒイラギの葉で編んだような光の輪が、美しく嫋やかに巡っています。彼は愛されて生まれてきたのですね。子供は誰しもうあるべきですが、彼のように『見える』ほどの〝お守り〟は、少なくとも私にとっては珍しいものです。安心して下さい」

「……そうですか」

 謎めいた言葉だったが、拓海はほっと胸を撫でおろした。撫子の〝鋏〟に、七瀬の〝火傷〟。この上柊吾まで何かあったらと思うと気が気でなかったので、その保険は心強いものだった。

「……三浦は、大丈夫なんですね」

「ええ。大丈夫です」

 藤崎が拓海へ微笑ましげに答えた時、横合いから「それでは、〝同胞〟の話に戻りましょうか」と声が聞こえて、はっとした。藤崎に発言を譲っていた和装姿の異邦人は、拓海と目が合うと莞爾にっこりした。

「克仁さんの言葉を借りるなら、僕もまた〝霊感持ち〟という事になります。拓海君は柊吾君と七瀬さんから話を聞いているようなので、どうやら気づいているようですね。僕はそんなに怪しいですか?」

「えっと……」

 返答に窮する拓海を見て、和泉が吹き出す。気を悪くしたわけではないようで、和泉はひとしきり笑った後で、手に持ったままだった『罪と罰 下』を机に置くと、蝉の音に耳を傾けてから、穏やかに言った。

「良いのですよ。実際に僕は、変人だの狂人だのと、数々の罵倒を氷花さんから受けてきましたから。とはいえ、〝同胞〟に変人呼ばわりされるのは、いささか心外でしたが。僕が狂人だと言うのなら、彼女にもそれは言える事でしょうに」

「同胞……?」

 また、同胞。何度も耳にする言葉だった。

 固唾を呑んで、次の言葉を待つ拓海へ――和泉が、また笑った。

 そして、核心を突く言葉を、唐突に言ってのけたのだった。


「僕、呉野和泉。それから、呉野氷花。呉野國徳。藤崎克仁。イヴァン・クニノリヴィチ・クレノ。――この五名は、〝同胞〟。すなわち、〝霊感持ち〟です」


「……え?」

 拓海は、和泉を見る。流れるように言葉を操る、美貌の男の顔を見る。

 だが、そうやって和泉の顔を見つめても、にこりと笑い返されるだけだった。

 こちらが訊かなければ、教えてくれないのだろうか。拓海は茫然としながら「……もう一度、言ってもらえますか」と和泉に訊ねた。和泉は「ええ」と律儀に頷き、拓海の為にもう一度、同じ〝言挙げ〟を繰り返した。

「〝同胞〟――克仁さんが先程仰った〝霊感〟を持った人間は、呉野和泉。呉野氷花。呉野國徳。藤崎克仁。イヴァン・クニノリヴィチ・クレノ」

「ま、待って下さい! ……最後のっ、誰ですか!」

 拓海は、思わず和泉に叫んでしまった。

 藤崎が隣で、小さな溜息を吐く。相変わらずの和泉の態度に呆れているのだろう。救いを求めて藤崎を見ると、藤崎は苦笑しながら「イズミ君の父上ですよ。ロシア人と日本人のハーフです」と拓海の疑問に答えてくれた。

「イヴァン・クニノリヴィチ・クレノ。イヴァンが名前で、クニノリヴィチがミドルネーム。クレノが姓に当たります。奇妙な名前に思うかもしれませんが、ロシアではミドルネームに、父上の名を頂くのです」

「……そう、なんですか……」

 呆ける拓海に、藤崎が鷹揚に頷く。

「イヴァンの父上は、呉野國徳さんです。イヴァンは『クニノリ』という名前を頂いて、イヴァン・クニノリヴィチ・クレノになります。ざっくばらんに言えば、男性であれば『ヴィチ』、女性であれば『ヴナ』が父上の名前に付き、父称ふしょうと呼ばれるれがミドルネームとなるのです。なので、イヴァンのミドルネームは『クニノリヴィチ』。大雑把な説明になりましたが、分かりましたか?」

「……はい。何となく」

 拓海は頷いたが、軽い驚きで力が抜けたままだった。国が異なるだけで、名前にはそんな常識が加味される。それが単純に不思議だったのだ。

 だが、突然の外人名に気を取られている場合ではなかった。理解が及んだ拓海は、おそるおそる訊ねた。

「和泉さんのお父さんも、その……〝霊感持ち〟なんですか?」

「ええ。……そうですね。そうでした。父だけは、もうどうだか判りませんが……父もまた、『分かる』人でしたよ」

 和泉は、淡く笑った。

 意味深な、言葉だった。意味深な、笑みだった。

 微かな引っ掛かりを覚えたが、和泉は拓海に質問の隙を与えなかった。すっと居住まいを正した和装姿の異邦人は、拓海と真っ直ぐ向き合った。

 ――雰囲気が、少し変わった気がした。

「拓海君。僕は今から、九年前の話をします。夏の盛りの出来事です。……『左様さようなら』、と。十八歳の青年が、六歳の少女に、別れの言葉を告げました」

「青年? ……少女?」

「ええ。高校三年生の青年です。青年は実に生真面目な性格でして、遊びも知りませんでした。同年代の友人はそこそこの数いましたが、丁寧な物腰を煙たがられたのか、深く付き合う間柄の友人は一人もおらず、大人とばかり深く心を通わせていました。それでも彼が周囲と調和できたのは、彼が異邦人だったからです。日本人離れした髪の色と瞳の色。異国の人間への興味と関心。それらが周囲の人間との絆となって、彼を学園に繋ぎ止めていました。そんないつ千切れるとも分からない危うい絆の正体に気づいていながら、己が呼吸し易くなるものには都合よく乗っかろうという、少し怠けたところもありますね。小狡いところもある青年ですが、根は純情です。融通の利かない若者らしい情熱と、己の信義を持っています。同年代の少年少女との接触をいい加減にしたことで生まれた、偏った人間関係と、人付き合いの希薄さが……そんな初心うぶさを、十八歳の心に残したのかもしれません……」

「……」

 何となくだが、分かった気がする。

 和泉が今、誰の話をしているのか。

 拓海が「和泉さん」と口を挟みかけると、腕が引かれた。一瞬、視界に花が躍る。硬い手の平はすぐに離され、花は幻にかえっていく。振り向くと、藤崎が唇に指を当てていた。制されるのは、二度目だった。和泉が、静かに言葉を続けた。

「……さて、これよりお話させて頂きますのは、九年前の夏の惨劇です。消えていく妹、止まらない狂気、次々と死にゆく家族の姿――そして。僕が呉野和泉として、この世に生まれ直すまで。その誕生秘話を、今ここにひもときましょう。……ですが、その前に」

 青色の瞳に、外光の澄んだ輝きがぼうと灯る。拓海と相対した和泉は、たのしげに笑っていた。

「坂上拓海君。先に君の疑問を、この場で全て片付けてしまいましょうか。君は僕に、幾つか質問を用意してきましたね? さあ。答えましょう。もう一度言いますよ。――何でも、訊いて下さい」

 呼吸が、つかえた。胃の辺りに浮遊感を覚え、心臓の鼓動が早まっていく。

 分かってしまったのだ。拓海の質問が終わった時、何かが始まり、変わってしまう。もう後戻りは出来ないのだ。この知識は劇薬で、破滅を孕んだ諸刃もろはつるぎだ。

 七瀬の顔が、脳裏を掠めた。声を、思い出そうとする。拓海を呼んで、拗ねて、怒って、甘えて、笑って、少しだけ泣き出しそうな顔をした七瀬の様々な声を、拓海は思い出そうとする。

 拓海が無事に帰らなければ、もう二度と聞けなくなる声。

 拓海が役目を放棄すれば、いずれ聞けなくなるかもしれない声。

 そこまで、思い詰めた時――最初の質問は、自ずと決まった。

 すっと、息を吸い込む。拳を握り、手の震えを殺し、覚悟を決めて、顔を上げて――拓海は一つ目の質問を、和装の男に向けて叩き出した。

「呉野氷花さんは、篠田七瀬さんを狙っていると聞きました。それは、今もですか?」

 藤崎が、目を見開いた。驚きの表情を視界の端に捉えたまま、拓海は和泉を見つめて答えを待つ。

 和泉の表情は、変わらなかった。柔和な笑みを湛えたまま、「いいえ」と短く答えて笑っている。

「神社では七瀬さんにああ言いましたが、実は直後に状況が変化しました。氷花さんは、七瀬さんに恐れを為しています。七瀬さんと喧嘩を続ければ、次はどんな『合わせ鏡』に囚われるか分かりませんから。その証拠に、学校で会っても避けられているのでしょう? 確かに以前の事件で怨恨は生まれましたが、僕は安心しても良いと思いますよ。捨て身の喧嘩ができるほど、あの子には〝アソビ〟に対する執着も、覚悟も矜持もないはずです」

「……分かりました。二つ目の質問です。去年、氷花さんが袴塚西こづかにし中学で、雨宮さんの目を『見えなく』した時。氷花さんを転校させましたよね? 三浦達から遠ざける為に。今回そうしないのは、どうしてですか」

 これには、藤崎も黙っていられなかったらしい。「イズミ君」と硬い声で和泉を呼んだ。和泉は、困ったように眉尻を下げた。

「克仁さん。後ほど必ずお話します。さて、拓海君。中学生の少女を転校させるのは大変な事ですよ? ですが、僕としてはそれでも転校させたいのが本音です。七瀬さんの安全をより確かなものとする為には、それは必須の処置でしょう。その考えには御父様おとうさま――呉野國徳くれのくにのりも、賛成の立場を取っていますが、今回は養父たる克仁さんのご意見を、重く受け止めさせて頂きました」

「当たり前です」

 藤崎の声には、微かな憤りが滲んでいた。

「私は、氷花さんが袴塚西中学から転校した経緯さえ、聞かされてはいないのですよ。にもかかわらず、また転校させるという。理由を私にわないのは、構いませんよ。家族ではないのですから。ですが、たった一度の問題行動を理由に、学校を転々とさせる事には、賛成できません。前回は家族のお二人で決めた事だからと口を挟みませんでしたが、二度目ともなると、看過かんかする方が無理な話です。――れに。私は氷花さんの問題行動を、一度目だと思っていましたが、どうやら話が違うようですね?」

「……拓海君、この通りです。僕は克仁さんにとって、どんどん悪者になっていくようです。親不孝者で申し訳ありません」

「全くですよ。今日は家族会議です。……イズミ君、夕飯を食べて帰りなさい。久しぶりですから、ゆっくりしていきなさい」

「有難う御座います。克仁さん」

 親密に、二人は笑い合う。家族の会話に水を差すのは気が引けたが、「三つ目の質問をします。次は、藤崎さんに」と拓海は質問を割り込ませた。

「藤崎さんが、呉野氷花さんを預かっているのは分かりました。でも、それならどうして篠田さんは、今までその事実を知らなかったんですか」

 この謎は、是が非でもはっきりさせておきたかった。七瀬の見せたショックで打ちのめされたような顔が、拓海には忘れられないのだ。

「篠田さんからは、この家に泊まりに来たこともあると聞きました。そんな篠田さんが、氷花さんの存在に全く気づかないのは不自然です。藤崎さんは、隠していたんですか」

「ええ。隠していましたよ」

 簡潔に肯定されて、拓海は度肝を抜かれる。藤崎は、ただ寂しげに笑うだけだ。

「どうして、言わなかったんですか」

「訊かれなかったからですよ。……私はイズミ君を預かるよりもずっと前に、妻とは若い時分に死別していますから。自分と血の繋がった子供は一人もいません。門弟の間では有名な話なので、子供なりに気を遣ってくれたようですね。家庭について訊かれる事は、ほとんどありません。入門したての門弟が訊いてきても、私が事情を話した途端、申し訳なさそうに委縮してしまいます。皆、優しい子ばかりです」

「……」

「私は、その優しさに便乗しました」

 藤崎の瞳に灯る憂いの色が、また少しだけ濃くなった。

「もし、私が氷花さんの存在を門弟に一言でも喋ったならば。の関係について、多少なりとも説明を求められるでしょう。ですが、勘当された娘さんを預かった経緯など、いふらせるわけがありません。七瀬さんが毬さんと泊まりにいらした時、氷花さんは夏期講習で、家を何日か空けていました。う、まさに今日のように。今日は夏祭りに出掛けていますから、帰宅は普段よりずっと遅いはずです。こうして君達と鉢合わせない日を、私達は調整していたのです。――坂上君。四つ目の質問をどうぞ。私もイズミ君と同じ考えです。私達は君達から見て悪者のようですから。何でも答えさせて下さい」

「……すみません」

「謝らないで」

 藤崎が手を伸ばして、ぽんぽんと拓海の頭を撫でてくれた。子供をあやす親のような愛情に触れた時、罪悪感で息が詰まった。

 優しい藤崎に、拓海はまだ問答を続けなくてはならないのだ。それが途轍もない苦行となって、良心をきりきりと締め付ける。

 だが――どんなに、止めたくても。

「……四つ目を、訊きます。呉野氷花さんの〝言霊〟についてです」

 感情を殺して、拓海は顔を上げた。

「さっき和泉さんは、〝霊感持ち〟は五人いると言いました。でも、その前に〝霊感持ち〟同士でも『見え方』が違うとも言いました。それは、どういう意味ですか。お互いに、できることが違うって事ですか? 呉野氷花さんは〝言霊〟が使えますけど、他の人には無理って事ですか?」

「……ほう」

 和泉が、吐息をついた。拓海の決心を慈しむように、思慮深い笑みが白い美貌に浮かぶ。

「最後の質問に、それを持ってきましたか。克仁さんが氷花さんの〝言霊〟について全く知識がないと判ったから、後回しにしたのですね。君はやはり優しいですね」

「イズミ君。君がそんな風に全てバラしちゃ、坂上君も立つ瀬がないでしょう。君はどこまで無粋を働けば気が済むのです」

 からからと、藤崎が笑う。預かりの娘について何も知らなかった痛みを突かれて尚、藤崎は傷ついた様子を見せなかった。拓海は申し訳なさが極まって俯きかけたが、藤崎は気丈な声で続けた。

の質問にはまず、私から答えましょうか。坂上君。君がどういう意味で〝言霊〟という言葉を使っているのかは知りませんが、少なくとも私は〝言霊〟と名のつく異能など持っていません。私にできることは、先程述べた通りです。〝傷痕〟の判別、魂の色形、風合いが分かる程度。あとは〝同胞〟の識別のみです」

「同胞の、識別?」

「ええ。何しろ、〝同胞〟の〝傷〟だけは、私にも『見えない』のですから」

「え?」

 ぴんと、閃くものがあった。驚く拓海へ、和泉は優雅に首肯した。

「君が考えた通りですよ、拓海君。僕達は言葉の形で確認せずとも、互いが〝同胞〟であると見抜けるのです。もちろん、克仁さんにできることや、僕にできることは違います。ですが、識別の能力には、どうやら個人差はないようです」

「それは、つまり……」

「はい。克仁さんであれば、何も『見えない』相手。僕であれば、何も『分からない』相手。そして、氷花さんであれば――〝言霊〟が『通用しない』相手。……残りの二名は、僕達ほど特徴的ではありません。識別のみの能力です。ですが、分かりやすいものでしょう? 己が持つ他者とは異なる五感の機能が、全く利かない相手。要するに――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それこそが、我々の言う〝同胞〟です」

「……!」

 拓海は、弾かれたように藤崎を振り向いた。

「藤崎さん、じゃあ……呉野氷花さんが〝霊感持ち〟だって事は、〝言霊〟の異能について知らなくても、最初から分かってたんですか?」

「ええ。知っていましたよ。ですが、何もいませんでした。れは氷花さんも同じです。彼女も私の〝霊感〟には勘付いていたはずですが、何もってきませんでした」

「分かってたのに、どうして」

「其の理由なら、今イズミ君が云いましたよ、坂上君」

 切羽詰まって訊ねる拓海に、藤崎は微笑を返してくる。細められた双眸で、穏やかな光が揺れていた。

「心の内が全く『分からず』、何も『見えない』相手。会話を積み重ねて日常を過ごし、日々を繋げていくことで、やっと掴めていく距離感と絆。れは、至極真っ当な、人として当然の在り方です。私は単純に、れが嬉しかったのです。氷花さんと、人として触れ合える事が嬉しかったのです。私はもちろん人間で、氷花さんだって人間です。れでも、氷花さんの事が何も『見えない』、『把握できない』事が、『恐ろしい』と思うよりも、『安堵』する方へ、私の心は傾きました。そんな己の人としての心が、私は誇らしいのです。そして、もし氷花さんも私と同じように思ってくれるなら、れは本当に素晴らしい絆だと、私は思うのですよ」

「……」

 常人ならざる異能を宿した初老の男の、積年の孤独と、妄執もうしゅうの名残。郷愁の凝縮された〝言挙げ〟を、拓海は黙って聞くことしか出来なかった。

「私は、氷花さんの親ではありません。家族としての距離感も、いまだに掴みかねています。……ですが。私は彼女の友人ではなく、教育者であろうとは思っています。同じ家に住む以上、ういう立場に立たねばならぬと、肝に銘じているのです。其れに、氷花さんが己の〝霊感〟に自覚があるのかどうかすら、私には判りませんでしたからね。……ですが、あるのですね。君達の話では」

「……はい」

うですか」

 微笑んだ藤崎が、肩を落とした。たったそれだけの所作が藤崎を一回り小さく見せた気がして、拓海の胸がずきんと痛む。浴衣のたもとに手を当てた和泉が、静々と言った。

「……克仁さん。これからきちんと、お話しますよ。今まで黙っていて、すみませんでした。ですが、貴方は氷花さんの味方ですから。僕は氷花さんから、氷花さんに優しく接してくれる存在を、奪いたくはなかったのです。彼女を歪みなく『愛』する人に、彼女を叱らせたくはなかったのです。貴方が傷ついてしまうところも、僕は見たくなかったのです」

「黙られている方が、辛いこともあるのですよ。イズミ君はやはり子供ですね」

「……子供、ですよ。今日の僕は」

 和泉が、しめやかに笑った。

 その笑い方は、やはり拓海には意味深なものに思えた。

 違和感を覚えた時――驚きのあまり、呼吸が止まった。

 ――笑顔が、違う。

 純度の高い善意の笑みを、今まで頑なに崩さなかった男、呉野和泉。

 その和泉が、笑みの質を一変させていた。

 僅かに伏せられた白いかおに、柔く繊細な髪がさらりとかかる。灰茶の睫毛に縁どられた双眸に、奇妙に獰猛な光がぼうと浮かぶ。持ち上がった口の端の、作る影が不思議とくらい。蒼くかげった男の貌は、他者を圧倒する虚ろな闇を漠然とそこへ延べ拡げ、静かに一人、笑んでいた。

 暗鬱な、笑み。嗜虐的で、純然たる、悪意の笑み。

 ――そんな笑い方をする人間を、拓海は一人だけ知っている。

 あの日、学校の調理室で拓海は見たのだ。あらん限りの〝言霊〟の悪意に攻め入られ、錯乱を見せた篠田七瀬に、対面の少女が浮かべた悪辣な笑み。

 呉野氷花の、笑み。


「坂上拓海君。もう一度、僕に自己紹介をさせて下さい。――初めまして。僕は、イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノと申します」


 風が、不意に吹き荒れた。障子窓から入る夏の風が、三者の衣服を乱していく。

 ぬるい風に全身を嬲られた瞬間、拓海は花の影を畳に見た。柿渋かきしぶ色の机の上に、四方を囲う土壁に、部屋のあらゆる場所の中に、数多の花と氷の影を、揺らめく視界に拓海は見た。

 そして、和室の壁一面に、青く澄み渡った夏空と、灰色の住宅街が、映像を投影したかのように現れて、六畳一間の氷花の部屋が、全く別の夏景色に、鮮やかに塗り替えられていって――。


「イズミ・イヴァーノヴィチ。それは、九年前の八月に命を投げ出した、十八歳の青年の名です。……ああ、ご挨拶が遅れましたが、今日の僕は死人です。今日という日まで誰にも真相を語ることのなかった死者であり、つのを失くした鬼の片割れ。死者であり鬼である語り部、イズミ・イヴァーノヴィチによる、九年前の夏の日の、罪と罰の告白の記録。――どうぞ、お聴き下さい……」


 こうして、拓海は戦線から一時離脱した。

 長い悲劇の上映に、魂が耐えられるのかさえ、判らないまま――途方もなく孤独な場所へ、赴く為に。

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