清らかな魂 2
からころと、下駄が鳴る。清流に手を浸したような涼感が、家々の軒先に吊るされた風鈴の音と、蝉の大合唱と交じり合う。
夏の風物詩が奏でる音色に、坂上拓海は耳を傾ける。灰色の住宅街の玄関先に咲いた色とりどりの花々も、入道雲が拡がる青空も、その空色をたっぷり含んだ庭木が落とす影すらも、盛夏を迎えた袴塚市は、色彩の一つ一つが濃く眩しい。
昼下がりの眩い日差しに拓海が目を眇めていると、陽炎が揺らめく十字路を、赤い色彩がすうと滑らかに過っていった。揃いの浴衣姿の二人連れの、水色の波紋が揺らぐ白地の池に、赤い金魚が泳いでいる。今日は駅前の広場で夏祭りがあるので、毎年恒例の盆踊りに参加する女性達なのだろう。
浴衣の内に金魚を飼い、向日葵色の帯を締めた二人連れが、八月の夏景色から歩き去っていくのを見ていると――脇腹を、肘でつつかれた。
「もう、見過ぎ」
隣を振り返ると、頬を膨らませてこちらを睨む顔と目が合った。木の実を頬張る栗鼠のようだ。後ろめたさよりも可愛さに意識を持っていかれた拓海は、「ごめん」と謝りつつも笑ってしまった。
案の定、相手は怒りを増幅させたらしい。ぽこぽこと肩を出鱈目に殴ってくる。先程の肘鉄よりだいぶ痛かったが、そんな反応がやっぱり可愛く思えてしまう。
「いてて、痛いって。……ごめんな、篠田さん」
拓海は素直に謝ると、篠田七瀬の立腹を、穏やかに笑った。笑われた七瀬は「何よう」と文句を言って、またしても頬を膨らませてむくれている。
「もう、女子が苦手な人が、どうして浴衣美人をガン見してるわけっ?」
「が、ガン見なんてしてないって」
「ほんとかなあ」
じっとりと睨まれた。たじろいだ拓海は、何とか誤解を解かなければと「ええと……、篠田さんは浴衣、着ないの?」と苦し紛れに言ったが、「着ないっ」と叫んだ七瀬は顔をぷいっと背けると、ライトグレーのパーカーに今日は括っていない巻き髪を垂らした後ろ姿を見せて、さっさと先に行ってしまった。
「あー……」
伸ばしかけた手を見下ろして、拓海は肩を落とす。「なんで痴話喧嘩してるんだ」という呆れ声を受けて振り向くと、半袖のカッターシャツに青と白のチェック柄のズボンという出で立ちの三浦柊吾が、呆れ眼で拓海を見ている。そして、すたすたと先頭を行く七瀬にも「おい篠田、お前が先に行くと道が分かんねえ。置いていくな」と実に投げやりな調子で言っていた。
「篠田さん、怒ってるかな」
落ち込んだ拓海へ、柊吾は関心の薄そうな顔で「どんまい」と言って背を叩いた。ますます拓海がへこんでいると、「そんなに怒ってないと思うよ」と今度は涼やかな声が蝉の音に紛れて返ってきた。
人が人を喪った時、その人の声の記憶から忘却していくと聞いた事がある。だが、この声は忘れない気がした。忘れてしまっては勿体ない気がするからだ。柊吾に寄り添うように立った雨宮撫子は、首をおっとりと傾けていた。
「坂上くん。さっきから、気になってたんだけど」
「ん、何?」
拓海は背の低い撫子に合わせて、心持ち背を屈めた。
こうして見下ろしてみると、撫子は本当に小柄だと拓海は思う。拓海はどちらかといえば背が高い部類に入るので、尚更そう思うのかもしれない。成長期を迎えた級友達から取り残されてしまったと、栗色のハーフアップツインの頭を俯かせて打ち明けられた時、拓海は何だか安堵したのを覚えている。人形めいた佇まいの少女が、体温の通った感情を見せてくれて嬉しかったのかもしれない。
ただ、今日は少し日差しが強い。ロング丈の白ブラウス姿の撫子は涼しげだが、頬には熱っぽい赤みが差している。実際のところ、撫子は身体があまり丈夫ではないらしい。針金のように痩せた手足を見ているとつい心配になってしまい、拓海は返答を待たずに質問の言葉を返してしまった。
「雨宮さん。今日暑いけど、しんどくない? 平気?」
「うん、平気。ありがとう」
撫子は頷いたが、少しだけ困ったように、柊吾の方をちらりと見上げる。そして「三浦くん、日傘、自分で持てる」と言って、黒いレースで縁取られた日傘へ青白い腕を伸ばしたが、柊吾は聞き入れず「いいって」と言いながら、撫子の手の届かない高さに日傘を持ち上げてしまう。撫子の手が空を掻き、そのままバランスまで崩したのか、額を柊吾の胸板にぶつけていた。猫じゃらしにじゃれつく猫のようだ。撫子は柊吾から日傘を取り返すのを諦めたのか、拓海に向き直った。
「坂上くん。どうして制服なの?」
「え?」
「服装、自由って聞いてたのに。この後、学校に用事でもあるの?」
「ああ」
今日の拓海の格好は、白い半袖のカッターシャツに黒いズボン。東袴塚学園中等部の夏服だ。隣を歩く柊吾も袴塚西中学の制服姿だが、こちらは拓海のような理由ではなく、単に服装を考えるのが面倒臭かったのだと、昨夜のメールで発覚している。拓海は撫子に笑いかけると「用事はないよ」と穏やかに答えた。
「篠田さんから服装は自由って聞いてたけど、俺だけはちゃんとしといた方がいいかと思って。制服が、俺の正装だし」
「そっか。……坂上くん。緊張してる?」
「……。少し」
拓海はほろ苦く笑って、正直に答えた。隠したところで、透き通った琥珀色の瞳には、おそらく見破られてしまうだろう。
「皆とも話し合ったけど、どうして俺が選ばれたんだろう……って。理由が分からないから、ちょっと気になるし。雨宮さん、気遣ってくれてありがとうな」
「坂上。何回も言ってるけど、俺が代わる」
柊吾が横合いから口を挟み、視線を前方に向けた。拓海もそちらを見ると、先に歩いていった七瀬は、一軒の家の前にいた。石造りの塀と、純白の日差しを照り返す垣根、その垣根からせり出して枝葉を伸ばす大きな木に、熱心な様子で見入っている。赤い夜空色をした果実が、遠目にも鈴なりに実っているのが窺えた。
「坂上が一番、呉野への怨恨は薄いだろ。巻き込まれたようなもんだし。篠田の為だからって、イズミさんのわけ分かんねえ要求を呑むことはないと思う」
「いいんだ、三浦。無理はしてないから」
拓海は、やんわりと言った。意思を曲げるつもりはないからだ。そんな内面の矜持を読み取ってか柊吾は口を噤んだが、覚悟を持ってここにいるのは、互いに同じなのだろう。やがて憮然と、拓海に言った。
「近くで、待機してるから。ヤバいと思ったら、大声出せ。すぐ行く」
「三浦の信用してる人だろ? 大丈夫だって」
「その件で、篠田と喧嘩になったんだぞ。坂上、聞いてないのか?」
「へ? 喧嘩? ……なんでっ?」
「喧嘩っていうか。俺があいつに、一方的に怒られたんだけどな……一から十まで信用すんなって、すげえ怒られた。俺は甘いんだと。坂上、お前なら俺より骨身に沁みてるだろうけど、あいつ、怒らせたらすげえ怖い。気をつけろ」
「うん……知ってる」
「あと……あいつ、お前には今日、来てほしくなかったみたいだぞ。それでも来るんだったら、せめて心配かけないようにしろ。何かあってからじゃ遅いんだ」
「……。そういうの、傷つくよ。三浦」
柊吾が、はっとしたような顔になる。拓海は、淡く笑った。柊吾も傷つくかもしれないと迷ったが、自分の気持ちを偽らずに、素直な言葉にしたかった。
「仲間外れみたいじゃん。俺だって関わりたいよ。守られてばっかりは、嫌だし。篠田さんがまだ狙われてるのに……関わらないでいるなんて、無理だよ」
「……そうだな。すまん」
「謝んなって。三浦」
少し気落ちした様子でアスファルトに視線を落とす柊吾の肩を、拓海は軽い調子で叩いた。「三浦。さんきゅ。あとごめんな、心配してくれてるのに」と言い足すと、顔を上げた柊吾も何だか観念したような顔で、薄く笑った。
「お前と話してると、喧嘩する気が失せる。だから篠田の相手が務まるんだな」
「篠田さんはともかく……喧嘩する気が失せるって言うのは、よく言われる」
拓海は歩きながら、柊吾へ苦笑を返した。
今の柊吾の台詞で、学校での珍事を思い出したのだ。
放課後に裏門で待ち合わせて一緒に帰るのが、東袴塚学園で交際している男女が取る定番の行動であり、拓海達もその例に漏れなかった。裏門までは昇降口を出てすぐの距離なので、校舎の窓から見下ろせる位置にある。
つまり、目立つのだ。拓海の方は平凡な男子生徒だと自覚があるので、目立ち過ぎた理由は七瀬の方にあるのだろう。垢抜けた容貌に、溌溂と響く明るい声。学校で密かな人気を集めていたらしい七瀬と付き合い始めてから、拓海は面識のない男子生徒から声を掛けられることが何度かあった。
用件は、ただの冷やかしの時もあれば、論点が明確でない時もあった。いずれの話にも拓海が耳を傾けていると、大抵の相手は気の抜けた顔で去っていった。理由を訊くと、何だか馬鹿馬鹿しくなったという。拓海としては理不尽さを感じたが、相手の心に思いを馳せると、もの悲しさも胸に残った。
そんな現場を、七瀬に見られた事がある。掃除当番の七瀬を待つ間に、校舎内の自動販売機前に立ち寄った拓海は、一人の男子生徒に捕まった。相手は腹の虫の居所が悪かったのか、ジュースをのんびり選んでいた拓海を見て逆上し、そこへ掃除を終えた七瀬がやって来たのだ。
さらなる修羅場を覚悟したが、七瀬は男子生徒の正面に立つと『ごめんなさい』と謝って頭を下げた。相手は息を詰まらせてから、そそくさと立ち去った。七瀬は相手を責めない代わりに追い駆けもせず、ただ拓海をちらりと見て、『坂上くんも、同じだったんだね』と言って、寂しげに笑っただけだった。
その一件を経てからは、拓海の日常は徐々に平和を取り戻した。波乱の日々に慣れただけかもしれないが、この夏休みが終わる頃には、一学期が懐かしくなるかもしれない。そこまで追憶を終えた時、拓海は新学期を楽しみにしている自分に気づき、驚いた。長い夏休みよりも、七瀬と過ごせる時間がいい。幸福な物思いに浸っていると、撫子が驚き顔で目を瞬く姿に気づき、拓海は我に返った。
「? 雨宮さん?」
あまり感情の機微を表に出さない、撫子らしくない。「七瀬ちゃん、様子が変」と言った撫子が、前方を指さした。
「……篠田さん?」
七瀬が、全速力でこちらへ駆け戻ってきていた。その勢いのまま拓海へ体当たりするように飛び込んできたので、よろけながら受け止めた拓海が「わっ……どうしたんだっ?」と訊いた途端、叫び声が返ってきた。
「虫!」
「へ?」
「虫っ、取って、助けて! 上着に落ちてきたの!」
身体を震わせた七瀬が、拓海のシャツを掴む。拓海は突然抱きつかれて赤面しながら「えっ? どこ?」と訊ねて探したが、「フード! わああっ、早く、お願い!」と切羽詰まった悲鳴が上がった。「篠田、落ち着け」と柊吾がのっそりと声を掛けてきて、七瀬の背後へ回ってくれた。
「何も付いてねえんだけど。どこだ?」
「でもでも、動いてるんだもん! 首の辺り! ……あっ」
「首? ちょっとごめん」
拓海は断ってから、七瀬の髪を捲った。だが、何もいない。
「……篠田さん、えっと」
「……。服の中……」
「……」
硬直する拓海と柊吾へ、「早く」と七瀬がせがんできた。柊吾の方はぎこちない動きで七瀬から距離を取り、「悪い、無理だ。坂上、がんばれ」と役目を拓海に投げてきた。がんばれと言われても困る。七瀬が小さくしゃくり上げた。
「いいから、早く、取って……取ってよう……」
涙を薄く溜めた目で見上げられて、拓海はびっくりしてしまった。七瀬の虫嫌いは聞き知っていたが、こんな風に怯えるところなんて初めて見た。
気後れと動揺でぐらぐらした心を宥め賺して、腹を括る。拓海はライトグレーのパーカーの裾を怖々と捲り、タンクトップの生地に触れて――手を止めた。
拓海よりも先に、七瀬の服を引っ張る人物がいたからだ。
「……あ、雨宮さんっ?」
「七瀬ちゃん、じっとしてて」と冷静に呼び掛けた撫子は、七瀬のタンクトップをきゅっと握り、団扇で風を送るように引っ張った。
途端――ぼとっ、と重い音がした。
柊吾が「げっ」と叫び、拓海は絶句した。男子の異様な様子を感じ取ってか、七瀬も視線を路面に落として、固まった。
「……あー、篠田。気にすんな。ちょっとくらい見た目グロい芋虫入ってたって、棘とかなさそうだし、多分平気だろ。……おい、それ以上見んな。見てもいいことないって。……篠田?」
慌てた拓海は、「篠田さん、大丈夫、もういないから」と必死に宥めたが効果はなく、胸板に頭を押し付けてきた七瀬に「わああん」と泣かれてしまった。柊吾からは速攻で視線を逸らされ、撫子は「よしよし」などと言いながら、七瀬の背中をさすっている。
「……坂上、どうする? 道、分かるか?」
「……ごめん、分かんない。雨宮さんは?」
「……ごめんなさい、七瀬ちゃん任せだった」
見事に全滅だ。苦笑した拓海も七瀬の背中をさすった時に、ちらりと腕時計が目に入った。一時三十五分。待ち合わせには、まだ間に合う。
「さっき、小さい公園の前を通ったよな? ブランコとか、雲梯があった所。ベンチもあったし、ちょっと休んでいかないか?」
拓海の提案に、撫子も「うん」と賛同してくれた。柊吾も異存はないようで、「篠田、聞こえただろ。公園まで戻るぞ。……ほら、もういねえって。泣くな」とへどもどしながら話しかけている。七瀬が嗚咽を呑み込んだ様子で頷いたので、全員が安堵の息を吐いた時だった。
唐突な、呼び声を受けたのは。
「七瀬さん、どうしたんですか。大丈夫ですか?」
ざあっ、と吹き抜けた真夏の風が、打ち水で輝く住宅街を抜けていく。乾いた熱風に乗った男の声は、優しいアルトの響きを帯びていた。
七瀬以外の全員が、声の方角を振り返る。七瀬が走ってきた方角であり、拓海達が元々目指していた方角だった。
七瀬が、むくりと顔を上げる。そして、白い半袖シャツに青鈍色のズボンという出で立ちの初老の男を、緩慢に振り返った。
「あ。……師範」
拓海達は、顔を見合わせた。灼熱の日差しで純白にけぶる舗道をゆっくりと歩いてきた男は、懐の広さを感じさせる声でからからと笑った。柔らかそうな短髪が、夏の風にそよいだ。
「成程。虫嫌いは治っていないようですね。此処は日差しがきついですから、どうぞ此方にいらして下さい。皆さん、初めまして。七瀬さんからお話は聞いておりますよ。三浦柊吾君は君ですね? そちらが、坂上拓海君?」
「あ……はい。初めまして。坂上です」
拓海が軽く頭を下げると、柊吾も我に返った様子で拓海に続いた。男も慇懃に頭を下げてから、撫子へ視線を転じ、目を瞠った。意外なものを、突然に見つけた。そんな驚愕が、目尻に薄い皺が刻まれた顔に浮かぶ。撫子が小首を傾げたからか、男は不自然な沈黙を、自然な微笑みで取り繕った。
「然うですか。貴女が……。雨宮撫子さんですね」
「……? 初めまして。藤崎さん」
撫子が、お辞儀をする。男は――藤崎は、「ええ。初めまして」と優しく応え、相好を朗らかに崩した。七瀬が、涙目で藤崎を睨んだ。
「師範……師範のおうちの庭のイチジクの木に、虫がいます。害虫駆除して下さい。でないと私、怖くて師範のおうちに遊びにいけない」
「おやおや。其れは寂しい事です。お庭には気を配っていたつもりですが、もっと具に観察しましょう。七瀬さん、泣かないで。私が悪かったですから。……では、皆さん。私の家はあそこです」
藤崎は、二軒隣の家を手で示した。濃紺の瓦屋根の一軒家は、白い漆喰壁と障子窓の格子が調和して、風雅な趣を感じさせた。さっき七瀬が庭を眺めていた家だ。拓海達の目的地まで、あと僅かの距離だったのだ。
藤崎の先導で門扉をくぐると、黒い飛び石が双六のように伸びていた。行く手は途中で二又に分かれていて、真っ直ぐ進めば二階建ての家に、右折すれば学校の多目的ホールの縮小版のような平屋の建物に辿り着く。七瀬が通っていた少林寺拳法の教室だろう。気分をだいぶ持ち直したらしい七瀬が、撫子と手を繋いで歩いていく。今日も仲がいい女子組の後ろ姿を見送っていると、レースに縁取られた丸い影が拓海を青く包み込み、日差しの熱がすっと緩んだ。
「三浦」
「返しそびれた」
柊吾は渋面を作ったが、藤崎に伴われて玄関扉をくぐっていく七瀬と撫子を見つめると、感慨深げな目つきになった。
「……去年、呉野がらみであんなことになった時、仲間ができるなんて思わなかった。それに今、篠田の師範に会う事になるとも思ってなかった。状況が動くのは、俺がもっと大人になった時だと思ってた」
「……うん」
拓海は、静かに頷く。柊吾と撫子を襲った〝言霊〟については、二人から話を聞いて知っている。柊吾は、まだ七瀬と撫子を見つめていた。かつて同じ敵に狙われて、何とか生き延びて笑っている。そんな二人の少女を見つめていた。
「ユキツグ伯父さんとか、賢くなるために大人の力を頼っても、結局強くならないといけないのは自分だ。だから、最終的に呉野を潰しに行く時、俺は一人なんだって思ってた、けど……」
柊吾は拓海を横目に見て、「一人でなくてもいいんだよな」と付け足した。
「坂上、さっき俺がお前に言ったこと、忘れてくれ。ほんとに悪かった。もう抜けろみたいなことは言わないから。お前がいたから、篠田は助かったんだしな」
「……ん」
拓海は、笑った。胸の閊えが取れた気分だった。さっき柊吾に言われた事を、拓海はどこかで気にしていたのだろう。そんな拓海だから、柊吾は心配するのだろうか。だとしたら、柊吾は少し狡いと思った。撫子を気にかける柊吾が、七瀬を気にかける拓海を止めるのは道理に合わないからだ。
――あるいは。
前を向くと、開いた玄関扉の向こう側で、七瀬が靴を脱いでいる。撫子は先に上り框に上がっていて、靴を丁寧に揃えていた。楚々とした動きで立ち上がり、シフォンスカートと栗色の髪を翻して歩き出す姿は、人の姿が『見えなく』なる病魔に侵された人間のものとは思えなかった。
――同じように、なって欲しくないからなのか。
「……三浦はさ」
「ん?」
「雨宮さんに、呉野さんに関わるなとか、仇討はやめろとか言われたら、どうすんの?」
「知るか」
あっさりと言い放たれ、拓海は目を丸くする。ただ、言葉の粗暴さとは裏腹に、柊吾の表情は穏やかだった。
「……あいつの為、とか。多分、もうそれだけじゃねえし。呉野みたいな奴が、俺は許せないんだ。それに、雨宮に頼まれたからやってるわけでもないし。あいつに助けてって言われなくても、俺が勝手に動くだけだ」
語り終えた柊吾は、己の言葉を反芻でもしたのか、照れ臭そうに顔を逸らした。そして「やっぱり、これも忘れろ」とぶっきらぼうに言い捨てると、日傘を畳んで家の中に入っていった。
「……ん、忘れる」
大柄な体躯の友人に、拓海は小さく声を掛ける。返事はなかったが、七瀬から「三浦くん、顔赤いけど、どうしたの?」と訊かれた柊吾は、「何も。お前も目ぇ赤いぞ」と余計なことまで喋っていて、早くも口喧嘩になっていた。廊下から戻ってきた撫子が二人の仲裁に入っていて、拓海は少しだけ笑ってしまった。
学校の枠を越えた絆が、拓海達の日常の形を変え始めている。
だが、拓海を待ち受けている現実は、この楽しさから遠いものかもしれない。
「坂上くん。暑いでしょ。早くこっちおいでよ」
七瀬は柊吾との喧嘩が一段落したのか、まだ家に入ろうとしない拓海を振り返り、屈託のない笑みを見せた。
「うん。今行く」
大切に、しようと思う。『鏡』の事件を切り抜けた後で、そう誓ったことを思い出す。あの時の覚悟を貫くために、出来ることがここにある。正確には、この家の二階にある。与えられた役目を拒否する理由は、拓海にはなかった。
意識を緊張で引き締めて歩き出すと、茹だるような暑さの中で、土と草花が濃く香った。蝉がじりじりと騒がしく鳴き、七瀬の声が掻き消される。ほんの少し焦りを覚え、急ぎ足で玄関扉へ向かった時、首筋に視線を感じた。
空を振り仰ぐと、二階の障子窓が開いていた。一列に並んだ文庫本の小口は、この距離からでも日に焼けているのがよく判る。
垣間見えた室内の隅で、灰茶色の髪が、ふわりと風に靡いた気がした。
繊細に艶めく異国の髪を、一瞬だけ、窓枠で区切られた四角い世界に捉えた拓海は――今は七瀬に向き直ると、藤崎達の元へ足早に向かった。




