清らかな魂 1
此の中で、最も罪深い狂人は誰でしょうか。
もし貴方がそんな風に誰何したなら、私は屹度、こう答えます。
其れは、私の事ですよ、と。
こんな書き物を遺す私は、酷い人間なのでしょうね。貴方に地獄の責め苦を負わせていながら、早々《はやばや》と退場する気でいるのですから。そんな逐電の算段を立てる女を、貴方は酷いと思うでしょうね。今度こそ、幻滅されてしまうのかしら。其れは、少し寂しい気が致します。
和泉君。最初に、お断りしておきましょう。
恐らく、私は狂っています。貴方が思う以上に、屹度。私は狂っているのです。
いつか、貴方は云いましたね。私達の事を、狂っていると。私は貴方をからかってしまったけれど、はっとするような心持ちで、其れを云った貴方の顔を見ていたのです。本当に、吃驚していたのですよ。目に映る世界を冴え冴えと爽やかに拡げていく風と、凛と美しく降る天泣に、心を洗われたようでした。
遊びだなんて、笑ってしまって御免なさいね。でも、私、嬉しかったのよ。貴方が若者らしい情熱を、私のような人間に見せてくれた事。貴方には熱い血潮が流れていて、健やかな精神の持ち主なのだと、知らしめてくれた事。私は、其れが嬉しかった。
其れが、あんまり嬉しかったから。
私は、貴方を逃がさなくてはならないと思いました。
貴方の正気に触れた時、私の狂気は、其れでも貴方を逃がすべきだと思ったのです。貴方は、死んではいけない。死んではいけないのです。
私は、あの子を愛しています。父の云うようにあの子が喰われていなくなるのだとしても、残ったあの子も杏花です。鏡花であれ供花であれ氷花であれ、かけがえのない一人娘です。呉野杏花です。清らかな魂です。
嗚呼、清らか!
そんな言葉を、異国の貴方が携えてくるなんて。其の言葉を、あの子の口から聞かされた時、貴方は私がどんな気持ちになったとお思いですか? 屹度、貴方には判りません。私がどんなに嬉しかったかなんて。屹度貴方には判らないのです。
和泉君。有難う。綺麗な言葉を、あの子に教えてくれて有難う。日本の美しい真夏の景色を、あの子と共に歩んでくれて有難う。
貴方はこの先、あの子と出逢ったことを後悔する日が来るでしょう。其れは、早ければ今夜になるはずです。残酷な未来を判っていながら、私は此の出逢いが嬉しくて堪らないのです。イズミとキョウカが出逢ったのですもの。此の奇縁に運命を感じたのは、あの人も同じだと思いますよ。
嗚呼、あの人の事まで書き進めたところで、一つだけ、お詫びをさせて下さい。
伊槻さんは、私が連れて行きます。
此の決意だけは、絶対に曲げません。
私たち夫婦は、別々に逝くのかもしれません。もし、然うでないのなら。伊槻さんは、私が連れて行きます。必ず、黄泉へ連れて行きます。
外道の選択とお思いになるでしょう。鬼畜の所業と慄かれることでしょう。
ですが、本気です。私は本気です。伊槻さんは、助かってはいけません。あの人の魂は、罪の重さに耐えられない。知っているのよ。弱い人。伊槻さんは、弱いもの。あの人を残す事は、新たな罪を生み出します。苦しめたくはないのです。伊槻さんを道連れにする為なら、私は鬼になりましょう。
御免なさい。貴方はあの人と、仲良くなりたいと思っていたでしょう。其の機会を貴方から未来永劫に奪い去ることだけを、傲慢と知りながらも、私は貴方に謝罪します。
此れらの言葉を以てして、貴方は決定的に、私の事を狂人だと思われるかもしれません。でも、其れでいいのです。私は最初から狂っていました。貴方は其れを事実として胸に刻んで、生涯疑わずに生きるのです。
罪は、私が引き受けます。全てを私の所為にしたいのです。けれど、其れが叶わないことは承知しております。罪も突き詰めれば、愛憎と同じ。人から人へ、奪うことなどできないわ。どんなに欲しくッても、私のものにしたくッても、手には入らないものなのよ。其れは屹度、狡いことだから。貴方が教えてくれた清らかとは程遠い、あまりに狡いことだから。
私は屹度、惨い死に方をするでしょう。
そして、どんな死に方をしたとしても、私の死は、あの子の罪になってしまう。逃れられない運命です。自殺であれ、他殺であれ、私が死んだという事実は其のまま、あの子の罪として消えることはないのです。
そんな業を、あの子に背負わせる為に、出逢ったわけではなかったのに。
でも、出逢いたかった。私の此の願いは、罪でしょうか。あの子に出逢いたいという当然の感情は、あの子の魂を穢すでしょうか。けれど私がどんなに拘っても、私とあの子の先行きは、罪に依って完結してしまう。嗚呼、親殺し。そして、あの子の成長を見守ることなく、死んで逝く事。そんな悍ましい罪が、私達の最後の絆になってしまう。
ねえ、私は貴方に厭なことをたくさん云ったけれど、渾身の強がりだったのですよ。だって、こんなに悲しいことがあるでしょうか。私はまだ、左様ならなんて云いたくない。清らかな杏花。逝かないで杏花。あんなにも無垢で愛らしい花。もっと、ずっと、一緒に居たい。今でも私は、然う思っているのよ。
私は、貴方のように、もっと葛藤すべきだったのでしょうね。ですが、狂う方が楽でした。人でなしに堕ちる方が楽でした。いいえ、最初から人でさえなかった私は、母親失格なのでしょうね。抗うことを、止めてしまったのですから。其れこそが、私の罪なのでしょうね。
私の最期は、果たしてどんなものでしょうか。私の正気は、果たして自我が生きているうちに、私の死を受け止められるでしょうか。可笑しな話ですね。私は自分を狂人だと断じておきながら、正常な人間のふりをしている。
其れとも此れは、生への未練でしょうか。
貴方があんまり綺麗だから、生きることに拘ってしまったのかしら。
困らせるようなことを書いて、御免なさいね。でも、貴方、本当に綺麗よ。其れこそ私は、髪を銀杏返しに結っても良いくらい。本当よ。でもそんな冗談ばかり云っていたら、伊槻さんに怒られてしまうわね。ねえ、和泉君。幸せね。私達、とても幸せなのよ。家族の事を想う時、私達は常に片時の曇りもなく、清々しい空気を吸って生きていて、其れがとても幸せなのよ。
私の事は、どうぞ御心配なく。死んでもいいというわけではないけれど、あの子が死ぬところを見るよりは、どんなにかいいだろう。然う願ってやまない私は、独りよがりで、仕様のない女なのです。ねえ、でも、貴方は其れを、とうに知っていたでしょう?
そんな仕様のない女でも、貴方に名前を褒めてもらえた時は、とッても嬉しく思いました。初めてなのよ。此の名前を、好きだと思ったのは。ずっと嫌いだったというのに、不思議なものね。
和泉君。
いいえ。イズミ・イヴァーノヴィチ。
貴方の言葉、素敵よ。大切にして下さい。心ある言葉は、人を屹度動かすわ。貴方の魂は清らかで、貴方の声が紡ぎ出した言霊も、清らかな魂で出来ている。「鬼」と云わずに、「人」と云った貴方は眩しかった。「病気」とも「狂気」とも云わずに、「成長」と云った貴方は立派でした。どうか、恥じないで。貴方の感性は、気高く美しいのです。どうか、手放さないで。後生だから。貴方の心が死んだ時、此処は、本当の地獄になる。そんな、気がするのよ。
嗚呼、やはり、夏の盛りにふらりとやって来た貴方の事を、私は希望の光のように思っていたのかもしれません。此れは屹度、何かの巡り合わせに違いない、と。そして、最期の時を迎える前に、こんなにも美しく清らかな魂に触れられた事が、私は嬉しかったのかもしれません。
では、後のことは任せました。遺書は、もう一通用意してあります。必要に迫られた時、どちらを人に見せるのか。痴情の縺れとして処理するか、狂女の戯言として処理するか。残された貴方達の、御好きなようになさって下さい。
お兄様にも、どうぞ宜しく。
お願い。貴方が、守ってあげて。私は漸く出逢えたあの人を、困らせたくはないのだから。屹度、綺麗に泣いてしまう。そんな姿を一目見たいと希う、己の醜い浅ましさを、曝け出したくはないのだから。だから、ねえ、早く、帰って頂戴。どうか、逃げて。そして、お兄様が危ない時は、どうか、貴方が助けてあげて。
本当に、可笑しな話です。
私は、これから伊槻さんを殺そうというのに。
そんな鬼女でも、兄の涙を恋しく思う、人の心が生きている。
狂い切れていないのね。貴方達は皆優しくて清らかだから、最後の夏を貴方達と共に過ごした私も、狂っていた事を忘れてしまったのね。貴方達があんまり綺麗だから、私は自分の事を人だと錯覚してしまったのね。嗚呼、いいえ、屹度違う。人の形を模してまで、貴方達と触れ合える場所に、縋りついていたいだけ。
嗚呼。生半可なものは厭。
どうせなら一思いに、胸のすくような狂気で殺して下さい。私が私で、なくなるような。
此の願いをあの子に強いれば、あの子の罪は私の物になるでしょうか。親殺しの罪で、あの子の魂が穢れることを避けられるでしょうか。
いけませんね。やはり此れは、未練と呼ぶべきものです。今度こそ、筆を折ります。
残酷なことを強いて、御免なさい。御父様と和泉君に、全てを委ねます。
最後に。貴方に逢えて、良かった。
左様なら。和泉君。
呉野貞枝




