鏡よ鏡 16
しんしんと、桜が降る。白皙の肌へ紅を差したような薄桃色の花びらが、御山に拓けた神域に、青空を薄く映した石畳に、雪の如く積もっていく。
木々の梢が風を奏で、鶯が歌う境内で――呉野和泉は、鳥居と拝殿を繋ぐ石畳に佇んだまま、下界に通じる石段を眺めていた。
先程まではもう一人、この境内には快活に笑う東袴塚学園の少女がいた。
そして、今はもういない。和泉が少女の見送りを終えた今、この敷地には二人の人間しか残っていない。家宅で過ごす老人を勘定に入れるなら、その人数は三人になる。
「……有難う、と。彼女は僕に〝言挙げ〟しました」
祝詞をあげるように、和泉は言う。独り言のように、それでいて、聞き手の存在を知る声で、凛と言葉を紡いでいく。
「嬉しいものですね。見返りを求めての行動ではありませんでしたが、礼を賜るとは思いがけませんでした」
朗々と流れる和泉の声に、唯一の〝聞き手〟は応えない。桜が散る境内で、美貌の男の独白だけが、静々と麗らかに響いている。
「有ることが、難しい。有ることが難しいものが、そこにある――他者への感謝を示すこの言葉は、『滅多にないこと』、『大変に珍しく貴重なこと』を指す言葉であり、そんな奇跡を起こしてくれた神様へ、感謝を伝える〝言挙げ〟だったのです。この思想は仏教に基づくものですが、貴女は神社の娘でありながら、神道についてはほとんど何も知らないのでしょう?」
白い着物へ、桜の花びらが掠めていく。瑞々しい白さを見つめた和泉は、鳥居に背を向けて歩き出す。
「何故、神社には鏡を祀る所が多いのか、貴女は御存知ですか? 神道の信仰対象は八百万。木々に、石に、草花に。自然の中に神が宿っていると考える依代崇拝です。人は自然と共生し、己の内に神を見るという思想の神道と、鏡の結び付きについては、有名なたとえ話が一つあります。『鏡』をひらがなで書いてから、真ん中の『が』の字を抜いてみて下さい。『かがみ』から『が』……『我』を抜けば、残った文字は『か』と『み』、すなわち『神』となります。鏡を通して向かい合った『我』を見て、自らの心の内に『神』を見る……清らかな心で神様と向かい合っているかを確認して、そっと襟を正す為に、人は鏡を見るのでしょうか。神社の娘である貴女の今回の〝言霊〟が、『鏡』にまつわるものだった事には、因縁にも似た業を感じますね」
和泉は鎮守の森の手前まで歩いてくると、一本の木立の根元に立てかけていた塵取りの傍で屈み込む。そうして煙草の吸殻を塵取りに乗せると、背筋を伸ばして、茂みを振り返った。
「……立ち聞きに、覗き見。そして窃盗ですか。篠田七瀬さんは貴女をストーカーのように思っていたようですが、これでは言い訳の余地などありませんね。変態のようですよ、氷花さん」
声が森に吸い込まれた直後、がさがさと下草を踏み分ける足音が、御山の静謐な空気を騒がせた。
「……覗きは、あんたの方でしょ」
森から現れたのは、呉野氷花だった。長い黒髪を背に流し、薄手の春物コートに白い丸襟のブラウス、藤色のスカートを合わせている。その姿に目を留めた和泉の顔が、ふ、と笑みの形に柔らかく解れた。
「珍しいこともあるものですね。僕は貴女の私服姿を随分久しぶりに拝見しました。こちらに喧嘩を売りに来る時は、いつも制服姿でしょう? ですが、良いのですか? 養父の方がさぞ心配されると思いますよ? 学校で教師を突き飛ばして逃走した揚句、塩と砂糖のばら撒かれた調理室で大の字になっていた、謹慎中の氷花さん?」
「……今日は、休日よ。謹慎は関係ないわ。うるさいのよ、変態兄貴」
「おや。ご機嫌が随分と斜めのようで。如何なさいました?」
「如何なさいました? じゃないわよっ、エロ兄貴!」
肩を怒らせた氷花が、声を荒げた。壊れた静けさに驚いた雀が、木々から慌ただしく飛び去っていく。
「篠田七瀬には会うなって言ったはずよ! 『見た』わね? あの『学校』での事、全部『見た』のね! 燃えた後の事まで『見た』のね! 変態! 覗き! 死ね!」
「貴女の下着姿になど、興味は露程も御座いません」
和泉はにべもなく言い放ち、氷花の表情がびきりと固まる。
「それに、七瀬さんからもご指摘を頂戴したようですが、あの時の貴女、鳥の巣のような頭髪でしたからね。自意識過剰もここまで来ると凄絶ですね。面白いですよ、氷花さん」
立て板に水の如く話した和泉は、ふとデリカシーの欠如に気づいたのか、「いえ、貴女に魅力がないというお話ではなく、僕の興味の問題です」と律義に付け加えて、火に油を注いでいた。顔を赤く火照らせた氷花は、それ以上罵倒の言葉が出て来ない様子でわなわなと握り拳を震わせていたが、和泉は「ところで」と仕切り直すように言って、にこりと笑った。
「氷花さん。貴女は調理室で七瀬さんと拓海君を待ち伏せする為に、何を盗りました? まだ学校を休んでいる七瀬さんは、自分の私物が幾つか盗まれている事に気づいていないと思います。人の物を盗るのは、犯罪ですよ?」
「知ぃらない。何のことだか」
「とぼけるのですね」
和泉は、仕方ないとでも言うように嘆息した。
「貴女の調理室での待ち伏せ、奇妙ですよ。調理室に七瀬さんが帰ってくる事を、正確に見越していたとしか思えません。貴女、何か仕組みましたね? 六時間目の調理実習で、七瀬さん達が教室を空けている隙に。学生が所持する物で失くして困る物といえば、財布、学生証、定期券と言ったところでしょうが、一体何を盗ったのです? 気づかれるのは時間の問題ですよ?」
氷花は切れ長の目でちらと和泉を見ただけで、何の返事も寄越さない。和泉は、再び嘆息した。
「言いたくないのであれば、構いませんよ。どうせ大したものは盗っていないでしょうからね。……ただ、こういった小さな犯罪が積もり積もって、貴女はいつか柊吾君に捕まるのでしょうね? 貴女の狸寝入り、七瀬さん以外の全員が気づいていたと思いますよ? 良かったですね、今回は見逃して頂いて。七瀬さんの安全確保で忙しかったおかげでしょうが、そうでなければ貴女、きっと袋叩きでしたよ?」
「……」
「天網恢恢疎にして漏らさず、という諺もあります。悪人を捕らえる為に、天が張り巡らした網は広大です。悪事には必ず下されるという天罰に、貴女がどう抗うのか、僕は楽しみでなりません」
「……兄さん。あんた、やっぱりむかつくわ」
氷花が低い声で、悪態をつく。そして、「ノート。何冊か」と、つまらなそうに吐き捨てた。
「結局、無駄になったけどね。あの子達、調理室へ日誌を取りに戻ってきたみたいだから。ノートは適当に放り出したから、調理室に落ちてるはずよ。私にはどうでもいいことだわ」
「ほう。素直でよろしい」
従順さを褒めるように和泉は笑ったが、氷花はしかめ面になった。兄からぷいと顔を背け、長い黒髪が帯のように大きくたわむ。
「別に貴方に弁解しているわけではないのよ、兄さん。勘違いしないで頂戴。私は自分のものではない罪まで、貴方になすりつけられるのが嫌なだけよ」
「盗ったのは事実でしょう。罪は罪です。認めるべきですよ」
和泉が指摘すると、氷花は鼻を鳴らした。そんな妹の悪辣な態度を、和泉は普段通りの穏やかさで見下ろしていたが、ほんの少しだけ、顔色が曇った。
「氷花さん。貴女は僕を覗き魔扱いしていますが、人の事を言えた義理ではないのでは? 覗きの程度は、貴女の方が悪質でしょう?」
「何のことかしら。学校で形振り構わず喧嘩を売ってきた変態お兄様の御言葉なんて、私には何も分からないわ」
「それも誤解ですよ。何度言えば、分かって頂けるのですか」
和泉は困った様子で、灰茶の髪をかき上げた。
「僕は、柊吾君と結託などしていません。貴女の元へ撫子さんを送り込んで、破滅させる気はありません。彼等が東袴塚学園にやって来たのは偶然です。貴女が妙な勘違いで被害妄想を逞しく膨らませたりしなければ、彼等は今後七瀬さんを襲うであろう怪事とは縁がないまま、人知れず学園を去ったでしょう。言うなれば、貴女が彼等を焚き付けたようなものですよ?」
「焚き付けたぁあ? ふざけないでよ、いい加減にしてよ! 死にかけたのよ、死ぬかと思ったのよ、火達磨になるかと思ったのよ! あの野蛮な女なら、三浦柊吾と結託していてもおかしくないわ!」
「ええ、今となっては本当に結託しましたよ。貴女のおかげで。中学生諸君が学校の枠を超えた友情を育むのは素晴らしい事ですね。微笑ましい限りです」
「どこが素晴らしいのよ! どこが微笑ましいのよ! ふざけないで!」
氷花は地団太を踏んだが、和泉は飄々としたものだった。余裕の笑みを悠然と浮かべて、なぜ氷花も同じように思わないのかとでも言わんばかりに、不思議そうな顔をする。そこには少しだけ、揶揄の色が含まれていた。
「微笑ましいではないですか。貴女のおかげで、坂上拓海君も七瀬さんへの好意をきちんと自覚したようです。それに、今回貴女が引っ掻き回した七瀬さんの家庭環境の事も。この一件で、家族の絆は深まったようですね。とはいえ、母親との間に生じていた軋轢など、最初から引っ掻き傷程度の溝でしかありませんでしたが。……もう同じ〝言霊〟は通用しませんよ、氷花さん」
「そうかしら? やってみなければ分からないと思うわよ?」
「いいえ。実践するまでもないでしょう」
おもむろに、和泉は着物の袂へ手を入れた。
氷花は不信感を露わに顔を歪めたが、和泉が袂から取り出した物を見て驚いたらしい。切れ長の目が、軽く瞠られた。
「……。どういう手品? 兄さん、私をからかっているの?」
「いいえ。からかってなどおりません。これは、僕の私物です。同じ人間が『所有』していた物の『片割れ』が、こちらになります」
「……」
和泉は、氷花に近寄った。ぱきん、と浅沓を履いた足が、小枝を踏み割る音がした。氷花は、逃げなかった。兄の行動の意図を考えているのか、じっと疑り深い目で睨んでいる。そんな妹の真正面に立った和泉は、手中の物を差し出した。
――正方形の、手鏡。
朱塗り。繊細な光沢。豪奢な毬柄が、あしらわれている。
「……親の心子知らず、とはよく言ったものでして。七瀬さんのお母様は大層教育熱心な御方ですが、その教育方針は、何も行き過ぎというものではありません。厳しさは多少目立ちますが、少なくとも僕は、それを親として、そして人としての常識を超えるものではないと感じます。ただ、少林寺の道場を訪問された際の行動は、些か常軌を逸していたと人から糾弾されても致し方ないのやもしれません。それでも僕は、子供の教育に親が責任を持とうとする姿勢自体は、尊いものだと思いますよ。それを当の子供が、どのように受け取ったとしてもです」
「……ふぅん。兄さんは、篠田さんの母親の肩を持つのね? 鬼のような、あの母親の? つまらない大人になったものね」
「肩を持つ気はありませんよ。ですが、揺れ動いた感情の変遷を辿り、心の一端を理解して受け止めること、すなわち共感することなら出来ます。そういう大人にはなったつもりですよ」
氷花の言葉に含まれた棘を、和泉は己の言葉通りに受け止めて、剣呑な眼差しすらも受け止めてから、鏡を愛おしげに見下ろした。
「実際のところ、あの日のお母様が七瀬さんに取った態度は、憶測に過ぎませんが、八つ当たりに近いものだったと思います。成績、気品、教育、将来。子供の未来を想えば、親の悩みは尽きないでしょうね。プレッシャーだと思いますよ、一人の人間の未来を背負うという事は。気負い過ぎたのかもしれません。一人で抱え込んだのかもしれません。思えば七瀬さんもそうでしたね。対人関係の悩み事を、誰にも打ち明けずに抱えていました。彼女達は、やはり親子なのですね。ただ、考えてみて下さい。七瀬さんの個性を。氷花さん、篠田七瀬さんがどういうお嬢さんか、貴女は既に、よく知っているのでしょう?」
「ええ。ちゃらちゃらしていて短気で野蛮。死ねばいいのに」
「悪意の塊ですね。それはさておき……よくグレなかった、と。貴女は思いませんでしたか?」
「……は? 兄さん、なんて?」
「では、もう一度言いましょう。よくグレなかった、と。よく非行に走らず礼儀正しく育った、と。貴女は一度も思いませんでしたか?」
氷花が、ぽかんと口を開けた。学校では決して人には見せないであろう顔を向けられた和泉は、くつくつと可笑しそうに笑った。
「七瀬さんは、親からこれほどまでに圧を掛けられてきたのですよ? たとえ道を踏み外したとしても、理由としては十分だと思いませんか? それでも七瀬さんは非行に走らず、規律正しい少女へ成長しました。それが何故か、分かりませんか?」
「分からないわよ。あんな野蛮でがさつな女の事なんか」
「野蛮でもがさつでもありません。繊細ですよ。人の事を思い遣れる、心優しい少女です。――善意や優しさから自分に接してくる人間の事を、人はなかなか、無下にはできないものでしょう?」
「……? 何よ、突然。……それ、誰のことを言っているの?」
「坂上拓海君ですよ」
和泉が、さらりと言う。「はあ?」と氷花は、口をへの字に曲げた。
「ちょっと、兄さんは篠田七瀬の母親の話をしてたんじゃなかったの? どうしてここで、あの優男が出てくるのよ」
「同じ話だからですよ。七瀬さんの事が好きなのは、お母様も拓海君も同じです。ただ、好きと一口に言っても種類は様々ですが、根幹は同じです」
「回りくどいわ。一体貴方、何の話をしているのよ」
氷花は投げやりに吐き捨てた。和泉は笑って肩を竦め、鳥居の方角に目を向けた。そこに今しがた別れたばかりの篠田七瀬の姿を幻視したかのように、端整な顔に浮かぶ慈愛の色が深くなる。
「七瀬さんは、どこかで分かっていたのだと思いますよ。お母様の厳しさは、偏に『愛』故だと。自分の事が大好きで、大切だという大前提の元に、成り立っている厳しさだと。そんな愛情を受け入れる事に対して、彼女には抵抗がありませんでした。それだけのパーソナリティを、彼女が既に確立していたからでしょうね。それはやはり、彼女の親御さんの教育の賜物だと僕は思います。こんなにも早く成長されてしまっては、少女が大人になるのは、きっと、あっという間のことでしょうね……」
和泉の手が、氷花の片腕をそっと掴んで持ち上げた。
氷花は、抵抗しなかった。不機嫌そうな顔は変わらなかったが、和泉に触れられるがままに、腕が緩やかに持ち上がる。幽鬼のような白さの手に、和泉は正方形の鏡を乗せた。
篠田七瀬が、愛着を持って『所有』していた鏡。
その鏡と、瓜二つの鏡を――呉野氷花の、手に乗せた。
「――あの日。七瀬さんの道場通いを辞めさせたお母様は、彼女が育んできた友情を、本当に理解しなかったのでしょうか。綱田毬さんの〝言挙げ〟は、彼女の心を全く動かさなかったのでしょうか。道場の師範との面談の中で、愛娘の勤勉な授業態度を、それでも嘘だと決めてかかったのでしょうか。……そんなことは、ないでしょう。きっと気づいたはずです。あの日ばかりは、非が自分にあるのだと。だからといって、それを素直に認めて道場を続けさせてあげるには、少しばかり目立ち過ぎてしまいました」
青色の瞳に、憐憫にも似た情愛が灯る。温かな憂いを帯びた微笑みが、美貌に茫漠と浮かんだ。
「見栄。体裁。羞恥。そんな感情が生み出した、母子の小さなすれ違い。僕は、たったそれだけのことに過ぎないのだと思いますよ。……素直な言葉の代わりに、愛する娘へ謝罪と愛情を伝える為に、できること。それを機嫌取りと言ってしまえばそこまでですが、僕はやはり『愛』だと思いますよ」
「……それが、この鏡と何の関係があるというの」
「おや、気づいていないのですか? ……同じ家に住んでいながら、貴女はあの御方の事を、本当に何も知らないのですね。七瀬さんの覗き見ばかりしているから、身内に目が届かないのですよ」
優しげに語る、和泉の口調が、少しだけ――厳かなものへと、質が変わった。
氷花の表情も、僅かだが変わった。兄の台詞の意味を、ようやく悟ったかのように。
「……僕と貴女の生き方が決定づけられた、あの日。御父様の『所有』する二つの鏡が、二人の人間へ授けられました。一つは、僕。呉野和泉の元へ。そしてもう一つは、貴女の養父の元へ。それぞれ『お守り』として授けられたのです。……ああ、今更ながら、白々しく『養父』と呼ぶのも可笑しな話ですね。……旧知の間柄、なのですから……」
和泉が、氷花の目をひたと見る。
そして、表情を硬くする妹へ、淡々と告げた。
「もう一つの鏡の行先は、藤崎克仁さん。――七瀬さんの、師範です」
氷花の表情は、変わらなかった。無言のまま、兄の顔を見つめるだけだった。
和泉も、その顔を見つめている。妹の瞳に映った感情の正体を捕らえようとするように、じっと目を凝らして見つめている。やがてそんな行為に飽きたのか、ふ、と吐息をつくように笑った。
「克仁さんは、七瀬さんの事を大層気にかけておられました。同時に、母親の激昂についても、一定の理解を示されていたようです。ただ、衆目さえ厭わない暴力や叱責に関しては、一線を越えたと考えておられたようですね。年長者として、厳しい態度で臨まれたようです」
「……」
「その際、克仁さんは一つの手鏡をお母様へ託しました。神社の神主が『所有』していた、霊験あらたかな聖なる鏡。彼は信仰に無縁の人間ですが、人との繋がりをとても大切にする人です。七瀬さんの事が、心配だったのでしょう。七瀬さんの『お守り』になるように願ったのかもしれません。だからこそ、母親に手鏡を託し、自分の代わりに七瀬さんへ渡して欲しいと頼んだのです」
「何故、そんなことをするの」
震えた声で、氷花が叫んだ。悲哀を含んだ息遣いは、小さな悲鳴のようだった。
「霊験あらたかな、鏡なのでしょう? 頂きものなのでしょう? それをどうして、他人に渡すの? そんなことをして、くれた人に悪いとは思わないの?」
「もちろん、考えたはずです。ただ、それでも良いと思ったのでしょう。鏡を頂いた動機が、友情の印とは違うという事も理由の一つでしょうが、もしあの鏡が七瀬さんの『お守り』になり得るならば、克仁さんはそうしたいと願って、鏡の譲渡を決めたのです。お母様は最初お断りされたようですが、神主が『所有』していた物と聞いてから、最終的には克仁さんの善意を快く受け入れて下さいました。子供の『守り』としたいという克仁さんの御心が、お母様の胸を打ったのかもしれません」
「待ってよ! でも、どうして、あげちゃうのっ? それも、あんな怖い母親なんかに! おかしいわ!」
「子供が余所の人からいきなり高価な物を頂けば、返してきなさいと親に叱られてしまいます。克仁さんもそこを弁えていたので、最初から大人を介したのです。真っ先に怒るであろう母親を、真っ先に説得したのです」
「そんなに、お父様は……篠田七瀬が大切なのっ?」
氷花が、ぐっと和泉を睨んだ。まるで実の親から捨てられたとでも言わんばかりの眼差しで悲哀に喘ぐ妹へ、和泉は誤魔化す言葉を使わなかった。ぐずる子供をあやすように、「ええ」と嫋やかに肯定した。
「大切だと思います。もう道場に通えなくなる七瀬さんの事が大切で、心配で、優しくしたいからこそ、己の『守り』を差し出したのだと思いますよ」
「どうしてよ。道場には、たったの三か月しかいなかったわ。それが、どうして? 大切な鏡を手放すくらいに、どうして大切な存在になるの?」
「時間は、そんなにも大切ですか? 人が人を想うことの根底に、それほどまでに過程を据えるのですか? そしてそれを、貴女は悔しいと思うのですね。……拘る貴女は、やはり人間なのですね」
「お兄様、何を言っているの? やっぱり、むかつくわ。離して」
「ええ。離しますよ。貴女がこれを、受け取れば」
氷花が、驚きの目で和泉を見上げてから、手元の鏡を見下ろした。
藤崎克仁の鏡、篠田七瀬の鏡、それとよく似た、別の鏡――呉野和泉の、鏡。
「……どういう、つもりなの?」
「可笑しなことを訊くのですね。兄から妹への贈り物ですよ。僕には不要の『守り』ですから。ならば貴女に差し上げます」
「守り?」
「はい。少なくとも七瀬さんにとっては、克仁さんの願い通りに、鏡は『お守り』となりました。七瀬さんの鏡は、事件の渦中で何度も割れましたね? 貴女の悪意を代わりに引き受けたからですよ」
「……そうかしら」
氷花が、嘲笑う。だが、声には張りがなかった。和泉の顔も見なかった。唇を噛みしめて俯いて、斜め下の地面を睨んでいる。
「あの子には、私の〝言霊〟が何度も突き刺さったわ。手応えがあったわよ? 傷付けた手応えが。あんなにも脆い鏡一つが、あの子の何を守ったというの? ……何も守れてなんか、いないのよ!」
「いいえ。役割は果たしていますよ」
囁いた和泉が、口角を上げた。氷花が突然に見せた、藤崎克仁への甘えにも似た執着。和泉の声が慈しみを含んだのは、その感情を抱き留めた時だけだった。
きりきりと巻いた薇が、急に弾けて、回るように。
その決壊の始まりは、和泉の言葉によって訪れた。
「……そもそも。貴女はあの『鏡』で出来た『学校』をおかしいとは思わなかったのですか? 僕にはその点が不思議です」
「……何が? おかしいって、何が? ……全部、おかしいわよ!」
顔を跳ね上げた氷花が、怒りを叩きつけた。寂しさを理不尽に変えて、理不尽を怒りに変えて、感情を破裂させて、兄に言葉を叩きつけた。和泉は愁眉を開き、眉尻を下げた。――まるで、憐れむように。
「そうですか。貴女にはまだ、自覚がないのですね」
「自覚っ? 何が!」
「自覚ですよ。貴女が、『鏡』を彷徨っていた頃の。……いやはや、まだ気づいていないとは。七瀬さんも貴女の行動には大変呆れていたようですが、よもやこれほどまでとは」
「兄さん、いい加減にして。貴方、何が、言いたいのよ!」
「氷花さん。貴女、何度か七瀬さんに『気持ち悪い』と言われたでしょう。覚えていませんか?」
「っ?」
氷花が、面食らった顔になる。まさか、そんな台詞が飛び出してくるとは思わなかった。そう言わんばかりに黙る妹を、和泉は静かに見下ろして、肩を竦めた。
「言われ過ぎて忘れたのか、気にも留めていなかったのか。七瀬さんだけでなく拓海君も、貴女のことを大層不気味に思っていましたね。覚えていませんか? 男子トイレでの追いかけっこの時ですよ。思い出して下さい。貴女、二人から思い切り引かれていましたね?」
「兄さん、喧嘩を売っているの?」
「いいえ、真剣に言っています」
歯噛みした氷花が、さらなる文句をぶつけかけて――何も言えずに、固まった。
和泉が、笑っていなかったからだ。
今までひたすらに不変の優美さで微笑んでいた男が、唐突に見せた虚無の顔。仮面を剥ぎ取るように、あるいは隠し持っていた仮面を付けたように、笑顔の削げ落ちた白い顔を向けられて、氷花の顔が、引き攣る。
異様な沈黙が、神社の境内を満たしていく。風の音だけが、二人の間を吹き抜けた。桜の花びらが、散っていく。
無言の時が、数秒続いた。やがて、口火を切ったのは和泉だった。
「氷花さん。何故、篠田七瀬さんと坂上拓海君が、貴女を気持ち悪がったか。分かりませんか」
「……」
「答えては、頂けないのですか。残念ですが、それでは僕が答えを教えましょう。……貴女が、笑っていたからです。それが、気持ち悪いのです。貴女の笑顔に、二人は血が凍るほどの恐怖を覚えました。だからこそ、あの時動けなくなったのです。貴女の悪意に、怯えたわけではありません。貴女の笑顔が孕んだ底知れぬ狂気を前にして、二人は怯えていたのです……」
「それが、どうして……気持ち悪いって思われることに繋がるのよ。笑ってるだけで、どうして……」
「まだ、分かりませんか」
くつくつと、含み笑う声が響く。妹の手を取る兄の声が、笑みを含んで揺れていた。暗鬱な笑い声を受けた氷花が、身体を微かに強張らせた。
「もし貴女の浮かべた笑みが、厭味なものであったなら。『気持ち悪い』とまでは卑下されなかったでしょうね。貴女の態度の悪辣さは、お二人ともよく御存知ですから。……ですが。あの時の貴女の笑顔が、ただの笑顔ではなかったとしたら?」
青色の目を細めて、和泉は笑った。真顔になる以前のものとは、質を異にする笑みだった。氷花の顔が、蒼白になった。
「清らかな笑み。嫋やかな笑み。静謐で、美しく、慈悲深い笑み。――鏡を叩き割って回る鬼女の笑みが、そんな微笑だったとしたら? 聖母のような神々しさを纏った人間が、悪意を金槌の形で振り上げて、眼前に『敵』として立ったとしたら? それは一体、どんな気分になるでしょうね。どんな言葉を、思わず叩きつけるでしょうね……?」
「……どういう、ことなのよ」
氷花の声が、震えている。藤崎克仁の名を〝言挙げ〟された時とは異なる動揺で、震えている。和泉は、容赦しなかった。「あの場所には、己の姿を確認できる『鏡』がありませんでしたね」と、涼しい声音で、嬲るように語り続けた。
「氷花さん。貴女に自覚はなかったようですが、貴女の姿は酷いものでした。アンバランスな美しさは、見る者の精神を揺るがします。学校を徘徊する貴女の表情は、淑やかで、穢れのない、純真無垢。そんな少女が、男子トイレに踏み込んで、鏡を叩き割っていたのです。貴女は邪悪に笑っていたつもりでしょうが、清らかに微笑んでいたのです。あの『鏡』の中で、貴女の魂は清らかでした。それを指して、七瀬さんと拓海君は怯えていたのです。『気持ち悪い』……と。僕に指摘されてようやく分かるようでは、まだまだですね、氷花さん……?」
「……あの場所、何だったの。……言いなさいよ」
「合わせ鏡ですよ? 貴女を連れて学校から帰った時に、説明した通りです」
「ただの合わせ鏡が、そんな歪みを生み出すわけないじゃない!」
氷花が、激昂した。その叫びは、震えを止められないままだった。和泉が刹那、沈黙する。そして、悠然と答えた。
「鏡は、人の魂を映すとも言います。貴女の魂が、あの場所ではそんな形で映りました。これはただ、それだけのことに過ぎません」
「篠田七瀬は、姿が反転しただけじゃない! 坂上拓海に至っては、何の変化もなかったわ! ……なのに! なんで私は、そんなことになるの!」
「それを言うのなら……君達の『個性』は、何故、反転しなかったのでしょうね……?」
氷花が、息を呑んだ。緊張か、恐怖か、驚愕か。細い肩が、軽く弾んだ。
「その不揃いさを指摘するならば、見過ごせない問題は山ほどあります。指摘しましょうか? 拓海君は七瀬さんの左右が反転した姿を見た事によって、あの場所が『鏡』だと勘付きました。ですが、あの場所が本当に正しく『鏡』であるならば、拓海君はもっと早く、その事実に気づけたはずなのです」
「どういう、意味よ……!」
「簡単なことですよ。学校の向きです」
「……え?」
唖然とする妹へ、和泉は優しく笑いかけた。表面的な優しさで、全てを誤魔化して笑いかけた。
「気づきませんでしたか? あの学校の不思議に。……鏡の移動によって出現した、数多の学校風景。実は一つも、反転していません。学校の左右の向きは一度も入れ替わっておらず、移動の為に向こう側へと続く鏡をくぐった時、彼等は正常な向きの学校に降り立っています。ドーナツ状のトンネルをぐるぐると歩くように、まるで堂々巡りのように。それでいて、彼らの『移動』は確実に行われているのです。『落花枝に返らず、破鏡再び照らさず』という諺もあります。散った花は枝に戻らず、割れた鏡は割れたまま。失われたものは戻りません。そんな不変の理に従うように、〝言霊〟で生まれた『鏡』の世界は徹底して、貴女達を次なる『学校』へ誘いました。拓海君は容姿の反転という目先の異常には注意を払っていましたが、学校風景の反転という根本的な異常には、意識を向けていなかったようですね。聡い彼は、これから気づくのでしょうね。この矛盾に。怪現象に。あの場所が本当に『鏡』であるならば、けして有り得ないはずの――致命的な、欠陥に」
「……」
「あとは、そうですね。ついでなので、貴女の行動の矛盾についても言及しておきましょうか。貴女が七瀬さん達の行く手を阻む為に行った、鏡の破壊についてです。気づいていないのが不思議なほどですが。あれ、貴女。自殺行為ですよ」
「……何を、言って」
「あの『鏡』を全部叩き割った後で、貴女は一体どこから移動するつもりでいたのです? ――一蓮托生ですよ、氷花さん。貴女、七瀬さんに諌められていなければ、共倒れでしたよ?」
「……じゃあ、私が最初、篠田七瀬と坂上拓海の二人とは違う『学校』からスタートしたのは、どういうことよ。……知ったかぶりをする気なら、答えてみせなさいよ!」
「そんな些事が、一体なんだと言うのです?」
和泉は、からからと笑った。氷花の怯えを、嗤うように。
「合わせ鏡をする上で、鏡は二つ必要です。貴女方は、入り口が違いました。別々の鏡から、あの『学校』へ降り立ったのです。氷花さん、その程度の小さな疑問で、本題から目を逸らすことは無意味です。貴女は一体、何に怯えているのです……?」
「……」
「まだありますよ。矛盾は一つではありませんから。まだ、指摘の余地は存分にありますよ。今度は七瀬さんが、『鏡』の学校を炎上させた時の事です」
和泉は、畳み掛けていく。言葉をなくした妹を追い込むように、じわじわと畳み掛けていく。笑みの質が、また少し歪んだ。
「幻の業火が、学校を覆い尽くした、あの時。本当なら、貴女方二人とも死んでいても、全く不思議ではなかったのですよ? むしろ、生きているのが不思議なほどです。燃え盛る炎の真っ只中に、突然放り込まれたのですから。――それなのに、『鏡』が映し出した熱は、二人の少女の命が持続できるほどのものでした。その程度の温度しか、『映して』いなかったのです。そのくせ、『炎』は幻なのに『煤』は実体化しているのも解せませんね。実に中途半端です。……何故でしょうね? 何故あの場所は、『合わせ鏡』になり損なったのでしょうね? 『合わせ鏡』を模しただけの、まるで異なる空間になったのでしょうね? あの場所は虚構でありながら、現実の体裁をも取っています。現で夢に対抗するように、夢で現を壊すように、互いが互いを喰い潰し合う、矛盾の混沌で成り立っています。……一長一短ですが、原因は貴女と、そして七瀬さんにあります」
和泉は、まだ妹が受け取ろうとしない鏡を見下ろして、嗤った。
「貴女の〝夢〟を、七瀬さんの〝現〟が守った。その結果が、あの惨状です。ただしこの場合、貴女方のどちらが勝っても、状況は悲惨でしたね。もし七瀬さんの鏡が貴女の悪意を全て凌いだ場合、『合わせ鏡』になりきれなかった『学校』に吹き荒れた、あの『炎』。ひょっとしたら、現実の炎だったかもしれませんよ。あの学校で二人、本当に心中していた可能性は高かったでしょうね……?」
「な……」
「そして、逆もまた然りです。七瀬さんの鏡が貴女の悪意を受け止めきれなかった場合。貴女の〝言霊〟によって、早い時点で何かしらの破滅が訪れていたでしょう。その場合は、氷花さん。貴女は完全なる『合わせ鏡』に囚われて、現には永遠に帰って来られなかったのではないかと、予想できますが――ともあれ。貴女が悪意で行使した〝言霊〟の霊威は、七瀬さんの『鏡』によって希釈されています。言ったでしょう? 『お守り』だと。何度も割れて飛び散った破片は、何度も七瀬さんを守っていたのですよ。割れて尚、守っていたのですよ……? よかったですね、一緒に守って頂いて。そうでなければ、貴女、一体どうなっていたでしょうね? 喧嘩の相手は、選んだ方が宜しいのではありませんか……?」
語りの締めくくりの問いかけに、氷花は返事をしなかった。色白の肌から生気が失せて、一層白くなっている。
だが、沈黙が流れるうちに、氷花の表情に変化があった。
怯えの色が、すうと失せていく。もしくは、取り繕って隠したのか。冷静さと恐怖心の拮抗を窺わせる危ういバランスで、氷花の表情が整えられていく。
やがて、ひた、と。氷花が、兄の顔を見上げた。
かつて己を『仇』と認識して敵対してきた少年少女、三浦柊吾や篠田七瀬が浮かべていたものと同じ敵対の色が、瞳に灯る。
「兄さん。……貴方。三浦柊吾を、騙したわね?」
糾弾の〝言挙げ〟を受けた和泉は、沈黙した。その追及がよほど意外なものだったのか、少しばかり驚いたような顔で、妹の硬い表情を見下ろしている。しかし、すぐに理解が及んだらしく、ああ、と小さな呟きを漏らした。
「……成程。あの学校を『合わせ鏡』の世界だと断言して、彼等に適切な知識を授けなかった事を責めているのですね?」
「どうして、嘘をついたの?」
「緊急事態だったものですから、端折らせて頂きました。申し訳ないとは思っていますが、柊吾君なら皆さんの帰還を叶えられると信じてこその言葉です。それほど罪なことをしたとは思っていませんよ?」
「それを三浦柊吾が知れば、どう思うかしら? 貴方の信頼、失墜するんじゃない?」
「伝えて頂いても結構ですよ。僕は困りませんので」
淡白な口調で、和泉は言う。呆気ない答え方だったからか、氷花が鼻白んだ。
それでも氷花が諦めずに、和泉の目を睨み続けていると――急に。
和泉が、折れた。
何かを諦めたように首を気怠く横に振り、白い美貌に、笑みが浮かぶ。
それは、今まで和泉が誰にも見せた事がないほど、暗鬱で昏い微笑だった。
まるで、呉野氷花のように。
「……では、白状しましょう。――今日は、特別ですよ」
普段と変わらない声音で、和泉が言う。だが、対面の氷花は、兄の姿に異変を感じてか、顔色を変えて、息を詰めた。
「……僕は今回、一度だけ、私情で動きました。後の事を全て人任せにして、柊吾君と撫子さんを、あの調理室へ残したのです。陽動作戦と、称して。教職員の足音など、聞こえなかったにもかかわらず。……何故だか、分かりますか?」
「……分からないわ」
「貴女の顔を、見たくなかったからです。氷花さん」
――音が、消えた。
絶えた会話が、空気から音を奪った。氷花が小さく息を吸い込んで、世界が音を取り戻した。和泉の言葉は、止まらなかった。告白は、始まったばかりだった。
「僕は、調理室で眠る七瀬さんと拓海君を通して、『鏡』の学校を見ました。そして、驚愕したのです。貴女の剥き出しの魂に、グロテスクな魂に、あるはずのない清らかな花を、まだ凍っていない、瑞々しく生きている、あの日確かに捧げられたはずの、手向けの供花を見たのです。……嗚呼、何故、こんな所で、見つけてしまったのでしょうね。心の何処かで、僕は諦めていたのでしょうか。もう二度と出逢えないと、九年の月日を掛けて、諦念を育てていたのでしょうか。まるで、観念するように。鬼の角を失った九年前のあの日から、僕は己の覚悟に則って、呉野和泉に成ったというのに。その覚悟を、どうして貴女は挫くのです? 僕の矜持を試すように、理不尽な『合わせ鏡』が映しました。『鏡地獄』が、本物の地獄を生みました。『合わせ鏡』の導く狂気が、貴女の魂を剥き出しにしました。いいえ、これは、『合わせ鏡』ではありませんでしたね。『凸面鏡』の方がまだ近いと言えましょう。何しろ、歪んでいるのですから。そうでなければ、理屈に合いません。あんなにも清らかなものが、映るはずがないのです。……ああ、どうか誤解なさらないで下さい、氷花さん。貴女は呉野氷花です。呉野氷花以外の何者でもありませんよ。この世に生を受けた時から永遠に、その事実は変わりません。凍りついた、花のように。捧げられた、花のように。よって、これは僕の欺瞞です。一人の〝鬼〟が抱え込んだ、酷く醜い欺瞞です。柊吾君を手助けしようと思う僕の気持ちは本物です。七瀬さんと拓海君を救いたい気持ちも本物です。貴女を助けたいという気持ちも、もちろん本物です。全て、僕の本心です。嘘偽りは御座いません。……ですが、僕は退室してしまいました。貴女の魂のグロテスクさに耐えきれず、あの場から逃げ出してしまいました。そんな僕が、七瀬さんの『味方』だなどと、どうして軽はずみに言えましょう。僕にとってそれは悪です。貴女の悪意より尚酷い、より醜悪な悪なのです。彼等の事が好きだからこそ、僕はそんな欺瞞を彼等に押し付けたくはないのです。それこそ『気持ち悪い』でしょう? そんな善人気取り、僕にとっても彼等にとっても、互いに都合がいいだけだとは思いませんか……?」
――長い、告白だった。
虚ろな告白には、静謐さとは対照的な激しさがあった。爛熟して腐乱した果実に虫の群れが集るように、濁りを突き詰めて形を失った感情が、狂気にも通じる歪な密度で凝っていた。得体のしれない異形のような異質さが、呉野和泉という人間の言葉に宿っていた。声の形で発した言葉に圧倒的な質量を押し込めて、力を世界に顕し、現を変える。まるで、破壊のように、憎悪のように、愛のように――〝言霊〟のように。
「……」
氷花は、表情もなく震えていた。詩を詠ずるように流れた歪な感情の奔流に、ただ圧倒されて震えていた。妹の震えに気づいた兄は、困らせたことを詫びるように微笑した。
両者の間には、温度の違う空気が流れていた。言葉を重ねるほどに開いていく温度差が、隔絶感となって両者の間に横たわっていた。
その隔絶感が沈黙にすり替わり、漠然とした時の流れの果てに――やがて氷花が、「兄さん」と掠れた声で呼んだ。
「……そこまで、私に言っておきながら……それでも貴方は、私に鏡を渡すというの? よりにもよって、御爺様の鏡を、私に渡そうとする、その神経が……理解できないわ」
「それを言うなら、僕は貴女の神経が理解できませんね。子供同士の衝突に〝言霊〟を持ち出す時点で、貴女は喧嘩に負けています。それに貴女は、謹慎の身である以前に勘当の身でしょう。早くお帰りになった方がよろしいですよ。いつ散歩に来られるとも知れませんから」
「……随分、優しいのね」
「いいえ、貴女に優しくしているわけではありません。貴女と鉢合わせる事で、御父様の御心が乱れるのが、可哀想でならないだけです」
「……兄さん。やっぱり私、貴方が嫌いだわ」
氷花は表情を消したまま、至近距離に立つ兄の顔を見上げた。
そして――不意に。
和泉の着物を、ぐっと引き寄せた。
木立の仄青い影の下で、ぶつんと布の繊維が千切れる音が、御山の黙を脅かす。引き寄せられた和泉が前のめりになり、互いの肩が、激しくぶつかる。氷花は痛みに一切構わず、パンプスの踵を浮かせて、背伸びをした。桜の花びらを乗せた風が、氷花の長い黒髪と、和泉の装束の裾を揺らしていく。
和泉は、抵抗しなかった。不意を打たれた驚きを青い瞳の内に表しただけで、妹が着物を引き寄せて唇を奪うのを、奪われるに任せて何もしなかった。停滞にかまけることへ先に耐えられなくなったのは氷花の方で、氷花が背伸びをやめた時、和泉の立ち姿は氷花が引き寄せた格好のままだった。
それが、氷花の逆鱗に触れたのか。
ぱんっ、と乾いた音がして、和泉の顔が、横に振れた。
「……兄さん、私は知っていたわ。去年の初夏にも、貴方は私に言ったわね。愛している、と。でも、貴方が私を『愛』していないって事くらい、最初から分かっていたのよ。――分かっているから、私は貴方が、許せないのよ!」
眦を決した氷花が、和泉から鏡をもぎ取った。乱暴な受け取り方をしたにもかかわらず、和泉の微笑は変わらなかった。とうに驚きの醒めたいつもの表情に困惑をひと匙だけ混ぜて、穏やかに微笑むだけだった。
「……僕達は、家族です。貴女への愛は、家族愛ですよ。その上で、僕はもう一度〝言挙げ〟しましょう。――氷花さん。僕は、貴女を、『愛』して」
「黙って!」
氷花が怒鳴って、激しく頭を振る。そして眼前の兄を仇のように真っ直ぐ睨むと、よく通る涼やかな声で、〝言挙げ〟した。
「イズミ・イヴァーノヴィチ。私はいつか、絶対に、貴方を殺すわ」
ざざ……と春嵐が吹き荒れて、声の残響を攫っていく。花の雨に嬲られた兄の貌は、まだ優しい微笑を湛えていたが、幽かな哀しみの感情が一片、整った容貌の上に浮かぶ。まるで、散り行く桜のように。
「……その名は、もう捨ててしまいました。貴女の兄になると、決めた日から。僕は今、とても悲しいですよ。貴女が僕の事をどれほど嫌いであれ、兄と呼ばれる事が、僕は本当に嬉しかったのです。僕は兄で、貴女は妹で、この関係を定める〝言挙げ〟をやめない事こそが、現在の僕と貴女の絆ですからね」
「だとしたら、その絆。呪われてるわね」
吐き捨てる氷花は、笑わなかった。厳しい表情を崩さないまま、和泉に背を向けて歩き出す。パンプスの爪先が、小石を蹴った。
「ロシアだって言ってあげればよかったじゃない。どうして教えてあげないの?」
「隠している心算はありませんよ。ただ、我々〝鬼〟の兄妹の過去について語り明かす場を持つなら、それはやはり、夏の盛りこそが相応しい。貴女もそうは思いませんか?」
「……。兄さん。この鏡、もらっておくわ。今日のところは、帰ってあげる。……でも、その前に」
黒髪を靡かせて、氷花が振り向いた。
その手には、目線の高さに掲げられた鏡があった。
コンパクトの開かれた聖なる鏡へ、和泉の目が吸い寄せられる。驚きに見開かれた青色の目が、小さな鏡面へ吸い寄せられる。
そこに、映ったのは。
「――『鏡よ鏡。世界で一番美しいお兄様、イズミ・イヴァーノヴィチ。私の魂が清らかに映ったのだとしたら、貴方の魂は一体、どんな風に映るのかしら』……?」
唄うように、挑みかかるように、桜散る境内に、氷花の声が朗々と流れた。
僅かな距離を開けて、対峙する兄と妹。生まれた国も容貌も、まるで異なる二人の家族。
妹が付き出した鏡を、兄が凝視することはなかった。ちらと目を眇めただけで、ふい、と視線は余所へ移る。灰茶の髪が、風にそよいだ。
変わらない、微笑み。慈悲深い、眼差し。
異邦の男は、いつも通りの穏やかさで、妹の敵意を受け止める。
そして、いつも通りの優しい声音で、こう答えた。
「……さあ。陽光の反射が眩し過ぎて、何も見えませんでした」
【第3章・鏡よ鏡:END】→
【NEXT:第4章・清らかな魂】




