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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第3章 鏡よ鏡
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鏡よ鏡 14

『差出人:綱田毬 Re:無理しないでね

 七瀬ちゃん、退院おめでとう。身体の具合はどうですか? もう学校には行けるようになった? 何回も言うけど、本当に気にしないでね。七瀬ちゃんが元気になったら、その時にまた会おうね。

 あの日、袴塚西中の子が来たからびっくりしました。七瀬ちゃん、他校にも友達が多いんだね。

 あと、袴塚西中の雨宮撫子ちゃんが、七瀬ちゃんと話したいみたいなの。七瀬ちゃんの携帯に電話をかけさせてほしいって言ってたよ。

 それじゃあ、またメールするね。七瀬ちゃん、お大事にね。


 追伸:あのね、遊園地の割引チケットを、前にも話したミヤちゃんっていう学校の友達からもらったの。七瀬ちゃんが元気になったら、一緒に行きませんか?

 あの、もし一緒に行ってくれるなら……二人までしか入場の割引が利かないから、私と二人になっちゃうんだけど、よかったら。』


 つい、何度もメールを見てしまう。分かりやすい浮かれ方をしている自覚はあったが、携帯の電源を切る前に、一目見ておきたかったのだ。毬とのメールのやり取りは、今日も七瀬にささやかな元気を届けてくれる。携帯を紺色のプリーツスカートのポケットに滑り込ませると、ぐっと空高く伸びをした。

「もう元気なのになあ……」

 身体を弓なりに反らせてから、ぱっと手をほどいて背中で組む。青空の下で、春風にそよぐセーラー服の襟の近くを、桜の花びらが掠めていった。

 どこから飛んできたのだろう。午前中の仄白い光に包まれた灰色の住宅街を見回すと、「あっちみたいだ」と男の子の落ち着いた声が聞こえて、隣から黒い学ランの腕が伸びてきた。骨ばった指先は、丁字路ていじろの突き当り、色の鳥居と石段辺りを指している。

「もうすぐだね、坂上くん」

「ああ。三浦が言ってた通り、本当に住宅街の真ん中にあるんだな」

 感嘆の声を漏らした坂上拓海と、七瀬も気持ちは同じだった。周囲を住宅にぐるりと囲まれた小さな御山おやまは、開発の波から取り残された陸の孤島のように見える。木々は桜色の薄化粧をしていたが、ところどころ新緑が瑞々しく萌えていた。

「散っちゃうのって、あっという間だよね。あんまり楽しめなかったなあ」

「いいじゃん。葉桜でも綺麗だよ」

「じゃあ、後で駅前に行こうよ。桜並木、見たい」

「うん」

 その返事が嬉しくて、七瀬は拓海の手を握った。途端に、拓海は人の良さそうな顔を狼狽で赤らめる。そろそろ慣れて欲しいと思う。七瀬は抗議を込めて少し睨んだが、そんな七瀬を見下ろす拓海が、ふと気遣わしげな顔になる。

「篠田さん、今日はもう平気? 熱が下がるまで結構かかったから、心配した」

「坂上くんまで。平気だって言ってるのに」

 七瀬は軽い調子で笑ったが、確かに言われた通りだった。まさかこれほど長引くとは、七瀬も思っていなかった。

「あーあ。三日も学校に行けないのヤだったなあ」

「なんで? ゆっくりできてよかったじゃん。三浦と雨宮さんも、見舞いに来てくれたし」

「それはもちろん、嬉しかったし、楽しかったけど。でも、今の時期に学校に行けないのは寂しいよ」

「ん?」

「もう」

 どこまで鈍いのだろう。七瀬は唇を尖らせた。

「席替えまで、あと二週間くらいでしょ? せっかく隣なのに。お休みしちゃった所為で、もったいないことしちゃったなって思ったの」

「あ……」

 やっと分かってくれたらしい。拓海はぎこちなく頷いて余所見をした。本当に、こちらが言ってばかりだった。怒りたくもなったが、まあいいか、とも思う。

 今は、目先のことに集中した方がいい。

「それじゃ、ちょっと待っててね」

「……俺、一緒に行かなくて本当に平気?」

「うん。私のことだしね。……でも、来てくれて嬉しかった」

 話しながら歩いていると、あっという間に鳥居の前まで辿り着いた。角が丸く削れた石段は御山のてっぺんまで伸びていて、春の日差しをたっぷり吸い込んだ草花が、青々と豊かに匂い立つ。七瀬が一人で歩き出すと、花の香りを運ぶ風が、さらさらと前髪に触れていく。「気をつけて」という背後からの声に振り向けば、少年の優しい笑顔が、七瀬を見送ってくれていた。

「行ってきます」

 休日に制服姿で出かけた二人は、笑い合う。拓海は鳥居の前で待ち、七瀬は右側で結った巻き髪を翻して、頂上にあるもう一つの鳥居を目指して、歩いていく。

 呉野神社を目指して、歩いていく。


 *


『鏡』の学校から帰還した後の事を、七瀬は途中までしか覚えていなかった。

 柊吾が七瀬の代わりに毬へ会いに行ってくれた事は覚えている。調理室で拓海と二度目のキスをした事も覚えている。

 ただ、信じられない事に、七瀬はその最中に気を失ったらしいのだ。

 拓海は七瀬が意識を失くしてすぐに尋常ではない熱に気づき、保健室まで七瀬を担いでいってくれたという。四十度の高熱に保健室の戸田とだも目を丸くしたそうで、七瀬は病院へ救急搬送される事になってしまった。そんな経緯があった所為で、七瀬には『鏡』の件がその後どのように収拾をつけたのか、ほとんど分からないままだった。

 目を覚ました時には病院のベッドに横たわっていて、傍らには何故か泣いている母と、狼狽える弟、そしてほっとした様子の拓海の姿があった。

 今までの事は全て夢だったのかと思いかけた瞬間だったが、夢ならここに拓海がいるわけがない。その日は拓海と何も話ができずに終わったが、翌日に退院して自宅療養に移ってからは、見舞いに来てくれた拓海から、大方の事情を聞かせてもらえた。

 しかし、真相を知るに至る道筋は、けして平坦なものではなかった。

 拓海は放課後になると、七瀬の家までわざわざ見舞いに来てくれた。

 ただし、一人ではなかった。

 連れがいたのだ。

「……葉月……」

 七瀬がパジャマの上にカーディガンを引っ掛けた格好で茫然と呼ぶと、あがかまちで小さくなっているショートボブの少女は、拓海の隣で俯いて、目を逸らした。

 そして、「七瀬ちゃんが、心配で、来たの」と、蚊の鳴くような声で言ったので――その襟首を、七瀬は鷲掴みにした。

「ひっ、えっ? えっ?」と泣きそうな声で葉月が叫び、「篠田さん、落ち着いて」と慌てて割って入ろうとする拓海をリビングの扉の向こうへ突き飛ばして弟の方へ放りながら、「葉月、来て!」と鋭く吐き捨てた七瀬は、葉月だけを二階に引っ立てた。「拓海兄ちゃん、怒ってる姉ちゃんなんか放っといて、俺とゲームしよーよ」と小学六年の航希こうきが拓海にじゃれつく声を階下に残して、七瀬は顔面蒼白の葉月を自室へ放り込み、扉を閉めた。

 床にへたり込む葉月が、「七瀬ちゃ……」と弱々しい声を吐き出して、恐れをなしたように七瀬を見上げている。『大人しい』友人相手に自分がどれだけ威圧的に接しているかは分かっていたが、ぶり返した感情の熱で、くらくらした。

 その時には、思い出していた。

 ――一年いちねんの時に、クラスが、同じ。

 分かったのだ。上り框で俯く横顔を、一目見ただけで、分かった。

 葉月が、誰を好きなのか。

「葉月」

 怒りで震える声を、七瀬は絞り出した。

「坂上くんが、好きなんでしょ」

 葉月の身体が、びくりと震えた。否定しない。当たりだった。七瀬は葉月の正面に屈み込むと、熱で潤んだ瞳と怯える瞳をかち合わせて、親友の顔を睨みつけた。

「……別に、それはいい。良くないけど、いい。でも、それじゃあ葉月、なんでうちに来たの? 私が心配だから? 違うよね。そういう顔じゃなかったよね。……私、ダシなの? 私のお見舞いをダシにして、坂上くんとここまで一緒に歩けて幸せだった? ……葉月、ねえ! どこまで私のことを馬鹿にしたら、気が済むのっ……!?」

「ば、馬鹿になんて、してないっ」

「じゃあダシにしたのは認めるわけっ?」

「……っ」

 葉月の目から、涙が零れ落ちた。「ちが……してない」と弁解して、首をふるふると横に振る。だが、七瀬の表情から怒りの色が引かないのを見て、気圧されたのか、諦めたのか、それとも開き直ったのか。否定の言葉を切れ切れに呟くのをやめて、首を振るのもやめて、葉月はすとんと俯き、やがて言った。

「……一年の時から、好きだったんだもん。誰にでも優しくて、控えめで、酷いことなんて言わなくて、他の男子と、全然、ちがくて……好きだったんだもん。七瀬ちゃんに、なんで、そんな風に、言われなきゃ」

「だって、私も好きだから。昨日、告白した。キスもした。付き合ってる」

 葉月が、黙った。顔を上げて、目を真ん丸に見開いている。

 どうやら拓海は、葉月に何も言っていないらしい。七瀬に学校での配布プリントを届けたいからとでも言って、自宅の場所を訊ねただけなのだろう。

 拓海が最低限のことしか葉月に話さなかったのは、当然と言えば当然かもしれなかった。拓海からすれば、葉月は他人なのだから。昨日までの、七瀬と拓海の関係のように。

 葉月は言葉もなく七瀬をじっと凝視してから、やがてくしゃりと、顔を歪めた。悲しみと怒りだけではなく、はっきりとした理不尽で、葉月の顔が歪んでいた。今日まで隠されてきた感情は、すぐさま火がついたような激しさで、葉月の声で破裂した。

「どうして、取っちゃうの! 七瀬ちゃん、ひどい!」

「ひどいのはどっちよ! 葉月、いい加減にして!」

 即座に七瀬は言い返した。非難や反駁はんばくに不慣れな葉月が、身体を縮こまらせて竦み上がる。階下でがたごとと物音がしたが、構っている暇はなかった。

「三年に上がった時のアレ、一体どういうつもり!? 私よりあっちの子達がいいなら、はっきり言葉でそう言いなよ! 中途半端で凄くむかつく! 葉月、あんた何がしたいの!」

「何もしたくない!」

 凄い返しが来た。七瀬が咄嗟に黙ると、「だって!」と涙声で叫んだ葉月が、ひくひくと肩を震わせた。

「私、七瀬ちゃんが好きなんだもん! 七瀬ちゃんと一緒にいたいのに、七瀬ちゃんは私が新しい友達を作ったら、どっか行っちゃったじゃない! 加藤かとうさんとか木田きださんとか、きつそうな子のところに行っちゃって、近寄れな」

「きつそうって言うなあぁぁ!」

 抑圧された怒りが爆発した。文句のせきが決壊して、七瀬は不満をぶちまけた。

「『きつそう』って目で先に見てきたのは、そっちの連れでしょ! 葉月は私の言葉に、何の返事もしてくれてない!」

「それを言うなら、七瀬ちゃんだって、私の言葉に返事をしてくれてない! なんで、なんで取っちゃうの! 知ってたんじゃないのっ? 知ってたくせになんで取っちゃうの!」

「訊いたって名前を教えなかったくせに、知ってたくせにって何!」

「だって恥ずかしかったんだもん!」

「じゃあ私に予知しろって言うのっ? できるかぁ! ちゃんと口で言いなさいよ!」

「じゃあ、言ったら協力してくれたの!?」

「絶対しない!」

「わあああん!」

 ……酷いなじり合いが始まった。これほどに盛大な口喧嘩をしたのは、小学校の調理実習以来かもしれない。

 坂上拓海は、女子が苦手だ。挙動不審はそれが理由なのだと七瀬に打ち明けて、照れ臭そうに笑っていた。

 だが、そんな拓海を取り巻く女子側の気持ちはどうだろう。七瀬が鏡で怪我をした時、拓海は歩くペースを落としてくれた。何となくモテそうな人だとは思っていたが、最初に抱いたその印象は当たっていた。おかげで友人関係のこじれに恋愛問題まで持ち込まれ、事態は完全に泥沼化していた。この面倒臭さの渦中にいるのが、自分だというのが信じられなかった。

 結局、七瀬と葉月は一時間にもわたってひたすらに相手を罵倒し続け、先に罵倒の言葉が尽きた葉月がぐずぐずと泣き、七瀬も疲労とやるせなさと悔しさで、顔が涙でぐちゃぐちゃになった。熱も上がった。何の為に来たのだと睨みつけたところで葉月がいよいよ大声で泣き始め、すっかり収拾がつかなくなってしまった。

「どうして七瀬ちゃんが、坂上君のこと、好きなの? いつ、そうなったの?」

「……。昨日」

「私の方が、長い、のに」

 葉月が、泣き腫らした目で七瀬を睨んだ。

「私の方が、絶対、知ってるのに。なんで、席が隣になっただけで、まだちょっとしか一緒じゃないはずの、七瀬ちゃんなの……なんで、取っちゃうの……なんで……!」

 葉月がそこまで言うとは思わず、七瀬は少し驚いた。

 それほどまでに、葉月が坂上拓海への好意にこだわるとは思わなかったからだ。それほどまでに、真っ直ぐな感情を七瀬にぶつけてくるとも思わなかった。

 ……今、少しだけ嬉しかった。

 変だと思う。失礼なことを、たくさん言われているのに。先程まで、殺意に近い怒りが湧いていたのに。ただ、何となく理由は分かっていた。

 ああ、と思う。こういう喧嘩が、したかったのだ。

「……私、もし葉月の気持ちを、知ってたとしても。告白したと思う。坂上くんのこと、好きだから。軽いって思われても仕方ないけど、本気だから。そういうところで誰かに気を遣いたくないし、自分がしたいように、したと思う。嫌な奴だって思うだろうけど、それが私だから。葉月……知ってるでしょ?」

「……。そう、だよね。七瀬ちゃんは、そうするよね」

「うん」

「七瀬ちゃん」

「うん」

「ごめんね」

「……うん」

 七瀬は、葉月を抱きしめた。葉月はまた声を上げて泣き始めたが、七瀬は葉月に謝らなかった。酷いことをたくさん言ったから謝るべきだと分かっていたが、今このタイミングで謝ってしまったら、それは拓海を葉月から取ったという言葉に対して、返事をしてしまう事になる気がした。

 そんな言葉には、どんな返事もしたくなかった。誰のものでもない一人の人間に好きだと言った事を、それを受け入れてもらえた事を、たとえ親友の言葉であっても汚されたくなかった。

 だから、ごめんねの代わりに、七瀬は言った。

「好き。葉月。……嫌じゃなかったら、これからも、一緒にいて」

 残酷な、台詞だったかもしれない。

 けれど、それがこの時の七瀬にできる精一杯だった。


 *


 七瀬の退院一日目は、そんな風に怒涛の勢いで過ぎていった。

 葉月は、拓海より先に一人で帰った。挨拶もせずに、リビング横の廊下をそそくさと抜けて帰っていった。

 あれほど女子二人で騒ぎ合ったというのに、一階に下りてみれば拓海は弟の航希こうきとテレビゲームに勤しんでいて、脱出ゲームのステージを着々と攻略中だった。「姉ちゃん、やべえ! 姉ちゃんの彼氏、ゲーム超強ぇんだけど!」と興奮して目を輝かせる航希と、照れながらも生き生きとコントローラーを握る拓海の姿に、何だかげんなりしたのを覚えている。がたごとと階下で物音がしていたのは、テレビゲームの準備の為だったとこの時知った。

 修羅場の元凶がこれほどのほほんとしていると意地悪をしたくなったので、帰り際にキスをねだって困らせた。本当に嫌な奴だと、この時ばかりは自分でも少し思った。

 自宅療養二日目になると、東袴塚学園からは拓海だけがプリントを持ってやって来たが、他にも同時刻に学校帰りの来客があった。

 三浦柊吾と、雨宮撫子。あの日世話になった、袴塚西中学の二人組だ。

 あの小柄で可愛らしい少女の名前を七瀬は毬からのメールで知っていたが、撫子が七瀬と連絡を取りたがっているというのは不意打ちだったので驚いていた。そして昨日、葉月との修羅場を終えた七瀬の携帯に、撫子からの着信が入った。

 撫子とは、『鏡』の事件の日に会話がなかったことが嘘のように、きちんとしたやり取りを交わすことが出来た。本当に、何故あの日は口を利いてくれなかったのだろう。不思議に思ってやまないほど、撫子の話しぶりは七瀬にとって普通の少女そのものだった。

 お見舞いに行っていいかと訊かれたので、恐縮した七瀬は一度断ったが、折角の厚意を無下にするのは勿体ないと思うほど、初めて話す撫子の声は綺麗だった。真夏に鳴る風鈴のような、透き通った涼やかさの声だった。結局、撫子への興味から七瀬は見舞いを了承し、少しだけ楽しみに翌日を待った。

 そして翌日、驚くことになる。

 見舞いに来てくれた撫子が、上り框の手前で開口一番「ごめんなさい」と告げて、深々と頭を下げてきたからだ。

「なんで謝るの?」

 面食らった七瀬は、差し出しかけたスリッパを落っことした。撫子の両側では、拓海と柊吾が複雑そうな表情で、濃紺のブレザーに青と白のチェック柄のスカート姿の小さな身体を見下ろしている。

「雨宮、お前やっぱり謝んなくていいと思うぞ」と柊吾が囁いたが、顔を上げた撫子はかぶりを振って「だめ」と答えた。拓海も気遣わしげに「気にしないでいいよ。っていうか、気にすることじゃないと思う」と声を掛けていたが、やはりそちらも撫子に振り返られて「だめ」と柊吾同様に言われている。そうして何故か拓海にも「ごめんなさい」と謝って、心なしか瞳を潤ませている。

「……とりあえず、部屋に来てよ。話、聞かせて?」

 らちが明かないので、七瀬は撫子の手を引いて、二階へと連れて行く。「俺、ここでいい」と柊吾が家に入るのを妙に渋っているので、「一人分だけ飲み物を玄関に運ぶの、めんどくさい。部屋に来て」と素気無すげなく言った。居心地悪そうに渋々従う柊吾とそわそわ付いてくる拓海を伴って部屋に行くと、ベッドと机と本棚と、ヘアアイロン等を収納しているカラーボックスを除けばすっきりと整理整頓された自室は、中学生でいっぱいになってしまった。

「……篠田。俺らがあの時なんで調理室にいたかとか、全然話せてなかっただろ」

 柊吾が部屋の隅っこでちんまりと座りながら、余所見をして言った。ガタイがいいので、小さく纏まっていてもかなり存在感がある。「三浦くん、そこのクッション使っていいよ」と声をかけると、「いい」とぶっきらぼうな声が返ってきた。女子の部屋は、相当に居心地が悪いらしい。

「坂上くんからも少しだけなら話を聞いてるけど、三浦くんからもっと詳しい話を聞かせてくれるの?」

「そのつもりだけど……その前に一つ、先に言っておきたいことがあるんだ」

 柊吾が髪に手をやりながら、ちらと撫子に視線を投げた。

「お前ら、『学校』にいたって言ってたよな」

「うん」

 七瀬は頷き、拓海を見る。拓海も七瀬を見ていたが、すぐに視線が撫子へ移った。クッションを勧めても座ろうとせず、立ったまま睫毛を伏せる色白の少女は無表情に近い顔つきだったが、少しだけしゅんとしている気がした。ハーフアップツインに結われた栗色の髪も、垂れた犬耳のように下を向いている。

 もしかしたら、拓海は既に柊吾達から説明を受けているのかもしれない。撫子が何故、落ち込んでいるのか。

 七瀬は柊吾を振り返り、会話の続行を促した。柊吾は気が進まないのか、短髪を掻き混ぜながら「あー」と呻いていた。

「……携帯、繋がってただろ。俺が、篠田に電話したから」

「え? ……あ、うん」

 そういえば、と七瀬は思い出す。緊急事態だったので疑問を全て投げ出していたが、どうして通話ができたのだろう。首を傾げていると、「あれさ、ちょっとヤバいらしいんだ」と柊吾がぼそぼそと言ったので、七瀬はぽかんとしてしまった。

「ヤバい?」

「繋がったら、ヤバい電話」

「……は?」

 わけが分からない。七瀬は眉根を寄せたが、柊吾も苦虫を噛み潰したような顔になっているので、この説明はなかなか骨が折れるものらしい。

「電話を掛けたら繋がるって言われたから、お前に掛けたけど。あの場所って『鏡』だろ? そういう異常な所に電話をするのって、何か知らないけど、ヤバいらしいんだ。だから、耐性みたいなものを持ってる人間でないと、電話はヤバいらしくてだな……」

「ちょっ、ちょっと待って。何の話をしてるのっ?」

「疑問はもっともだと思うけど、聞け。あの時、お前の通話相手が務まるのって、俺だけだったみたいなんだ」

「え、だから待ってってば。何言ってんのか分かんない」

「俺だって分かんねえ」

 凄い返しが来た。昨日の葉月に続いて二人目だ。「篠田さん、つまり」と拓海が、説明の要約を買って出てくれた。

「あの場所って、外部と連絡を取らない方がいい場所だったらしくて。そこに無理にでも連絡を取ろうと思ったら、三浦しかそれをやっちゃ駄目だったらしいんだ」

 すっきりとした説明に七瀬は頷きかけたが、「ちょっと待って!」と再び合いの手を入れた。

「何それ? 連絡取らない方がいいって何! って言うか、なんで三浦くんだけオッケーなのっ?」

「俺に訊かれても分からん。今度訊いてみる」

 憮然ぶぜんとした顔で、柊吾が言う。訊いてみるって誰に、と問いたかったが、柊吾が語りを再開させたので、七瀬は渋々黙った。

「とにかく、俺以外の奴が電話でお前と話すのは、まずいらしいんだ。もしかしたらヤバいかもしれないから、やめとけって言われてたんだけど……」

「……どう、まずいの?」

「……発狂、とか?」

 言いにくそうに告げられて、「発狂っ?」と叫んだ七瀬はあんぐりと口を開けたが、大それた言葉にぎょっとしているのは七瀬だけで、他の三者は重い空気を漂わせた。そんな反応が返ってくるとは思わず、七瀬も雰囲気に呑まれて押し黙る。

「……じゃあ、何か問題あるの? 誰も発狂なんてしてないでしょ。なんで重い空気になるの?」

「篠田。お前、坂上と話しただろ。……電話で」

「え? ……あ」

 思わず拓海を振り返ると、少し困ったような優しい微笑が返ってきた。

 ――電話なら、確かにした。七瀬が拓海に告白した、あの時に。

「俺ら、あの時には電話がヤバいっていうのを忘れてたんだ。だから、雨宮が坂上に携帯を渡した時に、俺も止められなかった」

「雨宮さんが?」

 はっと気づいた七瀬は、撫子を見下ろす。七瀬の携帯に残されていた、着信履歴。あの番号は、撫子の携帯のものだった。

「だけど、イズミさんに後で訊いてみたら、坂上は絶対大丈夫だって分かったんだ。だから、雨宮には謝んなくてもいいって言ったんだけど」

「だめ」

 首を横に振った撫子が、「ごめんなさい、篠田さん」とまた七瀬に謝ってきた。

「危ないって、知ってたのに。忘れてて、坂上くんに携帯を渡しちゃったの。ごめんなさい。あと、無事に帰って来られて、よかった」

「いいの、雨宮さん。頭を上げて」

 七瀬は慌てて、立ったままの撫子へ近寄った。手を差し伸べかけたが、微熱で少しくらくらして、自分のこめかみを押さえる。そんな七瀬を見上げる撫子の目に、潤んだ憂いが浮かんだ。

「篠田さんがそんなに熱で辛いのは、私の所為もあるの」

「え?」

「携帯で、坂上くんと話をさせた所為で。坂上くんも、熱を出したかもしれないんだって。あの時、鏡が燃えてたから」

 きょとんとする七瀬に、訥々《とつとつ》と撫子は続けた。

「でも、あの場所は『鏡』だから。そこにいる篠田さんも、『鏡』のようなものだったから。鏡って、怖いことや不吉なことを、代わりに引き受けてくれるって話、聞いた事ある? だから、篠田さんが坂上くんの分まで、引き受けたのかもしれなくて……篠田さんが今、二人分の熱で苦しいのは、私の所為だと思う」

 撫子は長い台詞を喋り終わると、ほうっと溜息を吐き出した。語り疲れたのかもしれない。人形のように白い頬は、ほんのりと上気して薄桃色になっていた。表情をあまり出さない子だと思っていたが、琥珀色の双眸は悲しそうに細められ、小さな手は胸の前でぎゅっと握りしめられている。

「篠田さん、帰って来られて、よかった」

 重ねて撫子に言われた時、何だか胸がきゅっと締め付けられて、切ない気持ちになってしまった。撫子の言葉の意味は、実はあまりよく分からない。けれど、心遣いはひしひしと伝わってきた。それから、健気でいじらしい可愛いらしさも。

「雨宮さん、謝らないで。私、あの時坂上くんと電話できて、ほんとに良かったって思ってる。むしろ、渡してくれてありがと。熱くらい平気。顔上げて?」

 七瀬が軽く屈んで撫子と目を合わせると、「でも」と申し訳なさそうに言われたので、「じゃあ、言うことを一つ聞いてくれる?」と訊いてみた。

「うん、なあに?」

「撫子ちゃんって呼んでもいい?」

「そんなことでいいの?」

「うん、私は七瀬でいいから」

「七瀬ちゃん」

「……ごめん。やっぱり、あともう一つ、言うことを聞いて」

「なあに、七瀬ちゃん」

「ぎゅーってしていい?」

「?」

 目を白黒させている撫子を抱きしめていると、柊吾に白い目で見られた。「雨宮が潰れる。ほどほどにしとけ」と言われたが、柊吾にだけは言われたくない。いーっと顔を顰めていると、「まあまあ」と拓海がやんわり仲裁に入った。

「篠田さん、俺もまだそれくらいしか話を聞けてないんだ。篠田さんの熱の具合を見て、また皆で集まろうかって話してたんだけど……今、熱はどんな感じ?」

「ん……ちょっとぼーっとしてるけど、平気。眠くなったら眠いって言うから、それまでは私も話、聞きたいな」

 そう七瀬が答えた時、「七瀬ちゃ、くるし」と、か細い声が胸元から聞こえてきて、背中をぺちぺち叩かれた。「ほら、離せって。潰れる」と渋い顔になる柊吾と二人で撫子を取り合っていると、しばらくは会話が進まないと判断したらしい拓海が苦笑いを浮かべて、麦茶をゆっくりと飲み始めた。

 こうして、和やかな一日が終わり――自宅療養、三日目。

 七瀬はこの日、ある所へ一本の電話を入れた。

 そして、翌日に備えて来客は全て断り、体調を整えて、今に至る。

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