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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第3章 鏡よ鏡
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鏡よ鏡 13

「篠田さん! 篠田さん! 返事してくれ! 起きてくれ! ……こんなの、嫌なんだ! 頼むから……!」

 携帯に叫び続ける拓海から、柊吾が辛そうに目を背けて、辺りの様子を窺っている。人目を気にしていると分かっていたが、拓海は声量を絞れなかった。

 七瀬が、急に、応答をやめた。

 沈黙する携帯からは、ノイズだけが聞こえてくる。時折獣の唸り声に似た風の音が聞こえるばかりで、どんなに耳を澄ませても、他には何も聞こえない。

「坂上……。篠田、どうした」

「……出ない。声、聞こえなくなった。……ものすごく、疲れてた。やっぱり、無茶、してたんだ」

 七瀬の声は、か細かった。今にも命を手放してしまいそうな小さな声で、拓海を呼んで、笑っていた。

 知らない七瀬だった。そんな七瀬を知るのは辛かった。疲弊した声だけしか拓海の元に届かなくても、もう七瀬の命がどれほど追い込まれているかは分かるのだ。七瀬は『こちら』で失くした意識を、『向こう』でさらに手放してしまった。そうなれば、どうなる?

 考えが、纏まらなかった。こんな土壇場で、冷静に思考など出来なかった。今の拓海でも、はっきり分かることは一つだけだ。『鏡』の炎上がもたらした七瀬の消耗を突き付けられて、ようやく拓海は気づいたのだ。

 拓海は――七瀬の事が、好きなのだ。

 苦手だった。だが、気になっていた。

 怖いと思っていた。だが、会話は簡単に成立した。

 強いと思っていた。だが、その弱さを知ってしまった。

 自分には笑わないと思っていた。

 だが、笑ってくれた。七瀬は、拓海に、笑ってくれた。

 何を考え、何を見て、何を大切にしているのか。何も知らなかったはずなのに、気づけばこんなにも知っていた。七瀬と他人同士だった頃の、今朝までの自分を思い出す。無数の鏡に映るたくさんの七瀬に別々の個性を見出すようだった、かつての自分。一人一人が違う顔を持っている、知らない顔の少女達。

 全て、七瀬だった。実像も鏡像も、違いなど何もないのだ。同じ人間だった。篠田七瀬だった。その一人一人と向き合ってようやく、全てが一人の少女だったと知った。こんなにも切羽詰まった状況で自覚したこの感情が、本当に恋愛感情なのか、拓海自身よく分かっていない。それでも、七瀬は拓海を好きだと言った。きっとその感情と同じくらいには、拓海も七瀬が好きなのだ。それだけは、絶対に嘘ではなかった。

「篠田さん……返事、してくれ。でないと俺、篠田さんが聞いててくれないと……返事が、できない」

 携帯に向かって、目の前の七瀬に向かって、掠れた声で囁いた。不意に視界が滲んでいき、拓海は突然のことに驚いた。熱い涙が頬を伝い、見下ろす七瀬の顔がぼやけていく。それが拓海には不思議で仕方なかった。

 だが、それは全然驚くようなことではないのだ。それくらいに今、悲しかった。七瀬がここで眠ったままで、そんな七瀬に好きだと言われた事が、抉るような痛みを胸に残し、その痛みが消えないのだ。

「篠田さん」

 拓海は、七瀬を揺する。七瀬の瞼は、動かない。揺さぶられた髪が乱れて、うなじからふわりと落ちただけだった。死んでいるように穏やかな寝顔だと思った時、心が耐えられなくなった。もう何度目かも分からない呼び掛けを、拓海が叫びかけた時だった。

「坂上」

 柊吾の呼び声が、それを阻んだ。

 静かな声だった。先程までと、僅かだが違う声だった。何かを覚悟したような、言葉に芯が通った声だった。

「……で。いいんだな?」

「……?」

 拓海は、柊吾を振り返る。そして、柊吾の立ち姿を見て目を瞠った。

「三浦、それ」

「許可、取り付けられたんだな? 俺らがやっていいんだな?」

「え、その、うん……鏡は、任せたって……三浦っ?」

 柊吾の背後、黒板の隣で――調理準備室の扉が開いていた。扉には鍵が刺さったままになっている。拓海が携帯で話している間に、柊吾達が開けたのだ。

 拓海を見下ろす柊吾の手には、小さなプラスチックケースが握られていた。黒い蓋が載った透明なケースには、同色の黒い取っ手がついている。

 その中身は。

「塩……っ?」

「坂上! 行くぞ!」

 柊吾はケースの蓋を剥ぎ取って放り投げると、中に入った白く細やかな粒子を鷲掴みにする。そして呆気に取られる拓海に構わず、塩を床に叩きつけて撒き散らした。

 新雪が、どっと屋根から落ちるような、重く湿った音がした。さっき柊吾が撒いた水と混じったのだ。拓海は咄嗟に七瀬を庇うべきか迷い、結局されるがままに塩をかぶった。頭から塩にまみれた拓海へ、柊吾がすぐさまげきを飛ばした。

「起こせ坂上! 篠田の阿呆に声掛けんの、やめんな!」

「え、あ……、分かった!」

 拓海は、表情をきっと引き締める。流れるに任せていた涙を手の甲でぐいと拭い、毅然と七瀬を見下ろした。

「篠田さん。もう終わるから。気にすることなんて何もないんだ。安心していいんだ。もう、帰ってきたらいいんだ! 帰ってきてくれ! 早く!」

 床に両手をついて、祈りの言葉をかけ続ける拓海の指が、撒かれた白い粒に触れた。ざらりと、手触りが尖っている。鏡の欠片も混じっていた。近くに落ちた、赤い破片が熱い。七瀬。早く。早く!

「くそっ、なんで塩かけてんのに起きねえんだ!」

 柊吾が悔しげに呻き、塩を撒き続ける。次第に悠長さが我慢できなくなったのか、プラスチックケースを鏡の破片目掛けて逆さにし、ばさばさと塩を残らず床へ落とした。ざららっ、と塩の一粒一粒が、夕日を照り返す床で細やかに跳ねた。

「坂上っ、篠田は鏡を捨ててるんだよな? 手には持ってないんだよなっ? ……塩をかけて愛着に区切りを付けるのを、無理矢理にでも一応〝言挙げ〟で人に託してるのに、ここまでして、何で篠田は帰って来ないんだ……!」

「言挙げ……っ?」

 藪から棒に飛び出してきた言葉に、拓海は面食らう。柊吾は沈痛な面持ちで、床の惨状と目覚めない七瀬を睨んでいた。

「……っ、駄目だ。これ以上は、もう。時間をどれだけ掛けたらヤバいのかも分かんねえし、こうなったら、先生にバレるのを覚悟で、イズミさんを呼ぶしか」

「……待って。三浦くん」

 少女が、柊吾を呼ぶ声が聞こえた。

 柊吾が「ん?」と少女の声に応じ、直後、何故かぴたりと黙った。

「? 三浦?」

 唐突な沈黙に驚き、拓海はそちらを振り返り――柊吾同様に、過ちに気づかされて、黙ることになる。

 今まで七瀬の傍について離れなかった少女が、立ち上がっていた。

 手には、プラスチックケース。柊吾の手にしたケースと形は同じだが、蓋の色が違っていた。薄い青みを帯びた白い蓋は、黒い蓋と対を為すような色だった。

 何ということだろう。今日、この調理室でのドーナツ作りで使ったというのに。それも六時間目の授業。ついさっきの事なのだ。

 それなのに、本気で間違えていた。

「三浦くんのそれ、お砂糖。……お塩は、こっち」

 少女には、躊躇いというものが一切なかった。

「ごめんね」

 小さな声で謝る少女の手が、プラスチックケースの蓋を外した。慣れた手つきで開け放たれた白い蓋が、ぱこんと軽い音を立てる。

 人形のように表情を変えない少女が、その一瞬だけ、表情を毅然としたものに変えて――腕の高さに持ち上げたケースを逆さにして、床に、鏡に、拓海に、七瀬に、丸ごと中身をぶちまけた。

 視界が、白一色に埋め尽くされた。


 *


 七瀬ちゃんは、弛んでなんかいません。

 七瀬ちゃんは、遊んでなんかいません。

 七瀬ちゃんは、真面目です。真面目にやっています。お稽古が終わったら私とお喋りしてるけど、お稽古中は真面目なんです。がんばっているんです。どうして、そんな風に、言うんですか。七瀬ちゃんは、遊んでなんか、いません。

 辞めさせないで下さい。七瀬ちゃんを、続けさせてあげて下さい。

 私は、七瀬ちゃんが一生懸命なのを知っています。七瀬ちゃんが私と話すのが嫌なら、私にそう言って下さい。私が、道場に来られないようにしてくれた方が、いいです。七瀬ちゃんが弛んでて、遊んでるっていうのなら、私だって、弛んでるし、遊んでます。

 七瀬ちゃんを、怒らないで下さい。お願いします。怒らないで下さい。

 お願いします。続けさせて下さい。

 私はもっと、七瀬ちゃんと一緒にいたいです。

 七瀬ちゃん。

 辞めないで。


 最後の台詞は、まるで悲鳴のような声だった。涙で潰れて、掠れていた。

 それでも、聞こえた。七瀬には全部、聞こえていた。

 ショートボブの黒髪の少女は、言い切った瞬間に全ての支えと力を失ったように、わあっと大声を張り上げて泣き出した。両手で、顔を覆っている。涙が、ぼろぼろ零れていく。この子がこんなにも感情を露わにしたところを、七瀬は今まで、知らなかった。大人しい子なのだ。思わず守ってあげたくなるくらいに繊細で、脆いところのある子なのだ。

 だから、七瀬は驚いていた。

 綱田毬つなたまりが、七瀬の母親に向かって、震える声で口を利いた時。七瀬は、とても驚いていた。

 ――中学一年生の春に、小学六年生の終わり頃から始めた少林寺拳法の道場を、母に突然、辞めさせられた。

 母はその日、稽古場にいきなりやって来た。

 稽古場に私服の見学者が現れるのは、特段珍しいことではない。だからその人物が稽古場へ足を踏み入れた時、門弟達はちらりと視線を寄越したが、それ以上気にかける者は少なかった。

 だが、その人物は――七瀬の母は、ぽかんとする七瀬を見つけるや否や、つかつかと真っ直ぐにやって来て、出し抜けに七瀬の頬をった。


『今日で、おしまいだから。帰るわよ、七瀬』


 そして、突然に、こう言われた。


『ここで作った友達とちゃらちゃら遊ばせる為に、道場に通わせたんじゃありません』


 七瀬はその時、どんな反応を母に返しただろう。あまり、覚えていなかった。

 確か、母に掴みかかった。どうして、と。そう訊いた。

 ああ。そうだった。

 訊いた途端に、もう一発殴られたのだ。

 最初に叩かれた方と反対側の頬を叩かれそうになり、七瀬はそれを身軽にけた。避けた事が、母の逆鱗に触れたのだ。胸倉を掴み上げられ、頬を往復で激しく殴打された。手をあげる母へ、咄嗟に殴り返しそうになる。衝動で震える手を、七瀬はぎゅっと握り込んだ。

 殴っては、いけない。いや、殴ってもいいのかもしれない。それほどに殴られた。殴り返しても、よかったのかもしれない。母に手をあげた事などなかったが、状況が状況だった。七瀬は、殴りたかった。やられた分を、やり返したかった。ぶつけられた理不尽を、同じ形で返したかった。

 心が、濁っていく。言われた内容の非情さで、頭の芯が熱くなる。打たれた頬と同じ痛みで、眩暈がするほど燃えていく。まるで炎のようだった。

 だが、それでも七瀬は殴れなかった。殴って抵抗すれば、その瞬間に待っているのは破滅だった。七瀬は、ここに居られなくなる。少林寺の道場を、本当に辞めさせられてしまう。その認識だけが唯一の歯止めとなって、七瀬の理性をぎりぎりで繋ぎ止めていた。

 辞めたくなかった。

 続けたかった。

 だから、耐えて――謝った。

 唇を、血が滲むほど噛みしめた。噛みしめて、怒りを堪えた。堪えた怒りを手の平で握り潰し、殺せない痛みで涙が流れる。その顔を隠しもせずに、睨む顔をなんとか整え、ごめんなさいと繰り返した。

 分かっていた。母が、何故怒るのか。そんな誤解が、何故生まれたのか。

 単純な話だった。七瀬の成績が、あまり良くなかったからだ。

 今までに七瀬は、稽古を終えた後の食卓で、綱田毬の話をした。最近になって道場に通い始めた、佐々木和音ささきかずねの話も少しした。

 それを聞く母の顔は、最初は明るいものだった。良かったわね、と楽しげに笑ってくれた。嫌々始めたはずの道場について娘が楽しそうに話すのが、嬉しかったのかもしれなかった。

 和やかな時間を持てたのは、あくまで最初の頃だけだった。

 次第に、母は無表情になった。『そう』とか『ふうん』という相槌が、七瀬の言葉の途中で刺さる。毬や和音の名を聞くだけで、眉間に微かな皺が寄った。その変化に気づいてからは、話すのを控えていた。

 だが、もう遅かった。七瀬は、母を敵に回していた。自分の大好きな居場所を守る為に、器用にやり過ごさなければならないはずの荒波に、気づくのが遅れていた。だから今、こうなっている。回避しようと思えば出来たはずなのに、その努力を怠ったから。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 気が狂うほどの数言った。そうでなければ死ぬと思った。大げさではなかった。本当に死ぬ気がした。友人との接点を断たれて、繋がりを断たれて、隔絶された環境の中で、自分が呼吸できる事が信じられなかったからだ。

 生きる為に、すべき事。それが、七瀬にとっての謝罪だった。怒りを殺すことで居場所を守り、代わりに心を削りながら、死にもの狂いで我を殺し、七瀬は謝り続けていた。

 だが、そんな苦行の時間は――実際には、一分にも満たなかった。


『七瀬ちゃんは、遊んでなんかいません』


 声が、割り込んだからだ。

 ――綱田毬だった。

 胴着の裾を揺らせて、顔面を蒼白にして、がたがたと一目で分かるほど全身を震わせながら、色のない唇を薄く開けて、こちらをじっと見つめていた。大きな瞳に溜まった涙が一筋、泣き黒子ぼくろのある左頬を零れていく。


『七瀬ちゃんを、殴らないで』


 大きな声だった。普段の会話でも、そんな声は聞いた事がない。袴塚こづか中学でも声が小さいと先生からよく怒られるという、綱田毬とは思えない声だった。

 毬は両手をきつく握り込んで、七瀬と母の元まで真っ直ぐ歩いてきた。そして、度肝を抜かれた様子で七瀬の襟首を離した母を、きっ、と悲壮な表情で睨んだ。

 毬が、怒っている。それを、七瀬は、ようやく知った。


『私が邪魔なら、私にそう言って下さい。邪魔な私に邪魔だって言わないで、七瀬ちゃんを殴るのはひどいことです。七瀬ちゃんは、悪くありません。七瀬ちゃんは、真面目です。真面目にやっています。お稽古が終わったら私とお喋りしてるけど、お稽古中は真面目なんです。がんばっているんです。どうして、そんな風に、言うんですか。七瀬ちゃんは、遊んでなんか、いません。辞めさせないで下さい。七瀬ちゃんを、続けさせてあげて下さい』


 そんな魂の叫びを聞いた時、七瀬は声も出なかった。息をするのさえ忘れていたかもしれなかった。黙ったまま二人を見つめて、そして静かに泣いていた。

 激しい怒りと恨みから流れていたはずの涙の質が、いつの間にか変わっていた。毬の言葉で、清らかに洗われていたのだ。

 口を挟まずに成り行きを見守っていた師範が、やがてゆっくりと近づいてきた。そして、泣きじゃくる毬と、そんな毬を支える為に歩いてきた佐々木和音、篠田母子の全員を見回して、はらはらとやり取りを見つめていた他の門弟達に、少し待っているように告げてから――柔和な面立ちに浮かぶ穏やかな表情はそのままに、瞳には真剣な光を携えて、七瀬の母と向き合った。

『篠田さん。此処では何ですから、別室に来て頂けませんか。道場での七瀬さんの態度は、綱田さんが述べた通りだと私も思います。是非、私の口からも、お話をさせて頂けませんか?』

 母は最初渋ったが、門弟達の倦厭や恐怖の眼差しが痛かったのか、それとも毬の言葉がショックだったのか、居心地悪そうに俯きながら、師範と共に扉の向こうへ消えていった。

 そうなってようやく、毬はその場に泣き崩れた。七瀬は一緒になってフローリングにへたり込むと、毬の短い髪を首ごと抱くようにして、同じく声を上げて泣き始めた。

 辛かった。腹が立った。憎かった。母なんか大嫌いだった。だが、この時七瀬の胸に満ちた感情は、憎悪だけではなかった。

 嬉しかった。

 七瀬は、嬉しかったのだ。毬の事を、好きだと思った。毬の事が、大好きになっていた。

 七瀬の為に、戦ってくれた。無理をしてくれた。心が削れたのは七瀬だけではなかった。毬もまた削れたのだ。怖かったと思う。本当に、とても怖かったと思う。毬は泣きながら震えていた。きっと今も怖いのだ。その恐怖を振り切って、弱気を全部かなぐり捨てて、そこまでしてくれた友達の勇気が、胸に痛くてどうしようもなかった。

 だから、七瀬は――葉月にも、同じものを求めたのだろうか。

 もしそうだとしたら、きっと、これは七瀬の我儘だ。だが、仕方がない我儘だと自分では思っている。それくらいに鮮烈な思い出だったのだ。親友のグレードが多少上がっても、相手にそれを期待してしまったとしても、それに応えて欲しいと思う気持ちは、七瀬と切り離せないものなのだ。そのエゴを心から捨ててしまったら、多分、七瀬は、面白くなくなる。人間味が欠損して、話していてもつまらなくなる。毬が大切に想ってくれた、篠田七瀬ではなくなってしまう。自分を正当化しているだけかもしれないが、そんな気がするのだ。

 毬が、泣きながら七瀬の母と戦った、あの日。

 師範と母は、長い間話し続けた。

 そして、三十分ほどが経った時――七瀬は母に連れられて、家に帰る事になってしまった。

 それきり、道場にも門弟という形では行けなくなった。遊びにはよく行ったが、門弟ではなくなってしまった。

 ああ、負けてしまった。屈してしまった。あの時はそう感じてしまい、内心穏やかとは言い難かった。その日の帰り道で母からもらった鏡は、いわば七瀬の機嫌を取る為の物だと思ったくらいだ。毬に鏡を褒められなければ、この愛着は憎悪にすり変わっていたかもしれない。

 ――『絶対に、身に着けていないと駄目よ』

 母は、何でも七瀬に強制してしまう。その怒りを愚痴にして、師範にぶつけてみた事がある。稽古が休みの日に師範の家へ遊びに行き、日溜まりの縁側でアイスクリームを舐めながら告げ口したのだ。

 七瀬の話に耳を傾ける師範の目は、不思議なほどに優しかった。春のぽかぽかした陽気に包まれた七瀬は、手入れの行き届いた庭に咲く薄紅色の芍薬しゃくやくを眺めながら、師範のうちの子になりたいと頭の片隅で思った。

 膝に乗せた鏡を睨むように見つめた七瀬を、師範は慈愛の目で見下ろした。

 そして、骨ばった硬い手で七瀬の髪をぽんぽんと撫でながら、唄うように節をつけて、七瀬へ、不意に、こう言った。


 ――『鏡よ鏡。世界で一番美しいのは、だあれ?』


 唐突な言葉に、七瀬は面食らった。それからすぐに頬を膨らませて、師範にむくれて見せた。面白くなかったからだ。七瀬は人から可愛いと言われた事は確かにあるが、それと同じ数かそれ以上に、派手で怖いとも言われてきた。喧嘩っ早いからかもしれない。鏡に問いかけて可愛さを確かめる行為になんて、何の興味も感じなかった。

 まるで、白雪姫。意地悪な継母ままははが、鏡に向かって訊ねる言葉。

 七瀬にはまだ分からない願いのこもったその言葉を、飯事ままごとのようだと思った時、いじける自分に気づかされた。

 鏡に映ったかのようだった。ぶすっ垂れた顔で睨む七瀬が、今、脳裏に映し出された。一度でもそんな自分と目が合ってしまうと、何だか余計に面白くなかった。からかわれた気がしたのだ。

 だから、師範に言い返した。『別に可愛くなんてなくてもいいし、綺麗だと思われなくてもいい』と、生意気にも言い返したのだ。

 すると、師範は飄々と笑って、こう続けた。


 ――『けれど私は、笑っている七瀬さんの方が、とても可愛くて素敵だと思いますよ』


 師範は、いつもそうだった。子供がみんな可愛いのだ。誰に対しても同じように言うのは知っていたが、少し嬉しくなった七瀬の心は、この日の空のように清々しく晴れ渡った。

『ありがとう、師範』

 そう言って、稽古場に隣り合って建つ一軒家から立ち去る時、七瀬はふと、師範の名前を思い出した。

『ねえ、師範。師範はもう私の師範じゃないけど、それでも私は師範のこと、師範って呼んでもいいですか?』

 訊きながら、答えは分かっていた。

 案の定、相好を崩した師範は、嬉しそうに七瀬に答えた。


勿論もちろんです。藤崎ふじさきと呼ばれても他人行儀で悲しいですから。どうぞ、七瀬さんのお好きなように呼んで下さい。私も、れが嬉しいのですよ」


 *


 長い夢を、見ていた気がした。

 師範の笑顔が、遠のいていく。優しいアルトの響きだけは、耳に残って離れなかった。

 ――鏡よ鏡。

 七瀬が愛着を育むきっかけを作ってくれた、初老の男の唄う声。

 頭を撫でた手の平と、同じ温度を持つ声の残滓が、すう、と静かに消えていった時――白い光が、世界いっぱいに広がった気がした。


「……篠田さん……篠田さん」


 軽く、身体が揺すられる。優しい手つきで、揺すられる。

 揺り籠のようだと思った時、薄く、瞼を開けようとした。明かりが、ふわっと射してくる。その輝きを、赤いと思った。目覚めの瞳には、少し、鋭い。

「……」

 身じろぎすると、ざらついた感触が腿で擦れる。手の甲にも同様の粉っぽさを感じた。ひんやりとした床が心地いいほどに、身体の芯が熱を持っている。

 炎の名残に、じわじわと全身を蝕まれながら、七瀬はそっと目を開けた。

 ――涙が、零れた。

「会いたかった……」

「……」

 坂上拓海は、何も言わなかった。目元を赤くして七瀬の傍らに座る同級生は、先程まで七瀬を呼んでくれていたはずなのに、いざ七瀬が目を開けてしまうと、何にも言わなくなってしまった。唇を結んで、七瀬を睨んでいる。

「……ごめんね。怒ってる、よね」

「もう、いい。いいんだ」

 しゃがれた声が、返ってきた。ほっとした七瀬は、吐息を零す。ようやく、口を利いてくれた。

「……痛いところ、ない? 変な感じとか、おかしいところとか、ない? ……俺のこと、分かる?」

「……わかる、よ。坂上くん。身体も……大丈夫だと、思う」

 七瀬は、何とか言葉にする。拓海が、顔をくしゃりと歪めた。

「……篠田さんは、馬鹿だ。周りに何にも言わないで、全部自分で何とかしようとして、そういうところ、本当にひどいと思う。俺、怒ってた。……でも、もういい。もう、いいんだ」

「どうして」

「帰ってきてくれたから、もう、それでいい」

 拓海は、俯いてしまった。前髪がさらりと揺れて、目元を隠していく。調理室の床に身体を寝かせた七瀬には、隠された表情が見えてしまっていた。それでも隠そうとして震える拳に、七瀬は指先で触れた。

 拓海の手は、冷たかった。手の大きさだって、七瀬とは違っている。大きく冷たい男の子の手に、熱い自分の手を重ねた。力み過ぎて白くなっている指が、ぴくりと震えた気がした。

「好き。坂上くん。状況に酔ってるって、思われても仕方ないけど、本気だから。嘘でもいいって言ったけど、嘘だったら、言わないで。……ねえ。お返事、聞かせて」

「……」

 ぽつ、ぽつ、と温かい雫が、七瀬の頬で、何度か跳ねた。やっぱり、もう死んでもいい。そのくらいに、幸せだった。言葉で返ってこなくても、十分だった。

 茜色の光の中で、拓海が七瀬の手を握り返した。七瀬が身体をそちらに傾けると、拓海が背中を支えて起こしてくれた。このまま抱きしめてくれたらいいのにと思いながら、見つめ合う。目を閉じた。

 もう怖いものなんて何もないと思っていたのに、そうやってキスを待つ間、それでも闇が怖かった。だから、唇に温度が伝わって初めて、やっと安心できた気がした。数秒、そのまま目を閉じていた。温度が遠ざかるまで、そうしていた。

「……ほんとにしてくれるって、思わなかった」

 目を開けてから囁くと、拓海はふいと余所見をした。横顔が、ほんのりと赤い。

「篠田さんは……俺で、いいの?」

「そんな風に、言わないでよ」

 七瀬は、うつらうつら呟く。まだまだ眠り足りない気がした。初めてキスをしたからだろうか。何だか身体が熱くて、意識がふわふわする。

「大体……してから言うなんて、ずるいでしょ……責任、取ってよ、ね……」

「……篠田さん?」

 はっとした顔で振り向いた拓海が、七瀬の額に手を当てて、驚いた様子で目を見開く。

「すごく熱い」

「燃やしたから、かなあ……あ、れ? 私……服、着てる?」

「……へっ? 服っ? いや、何暢気なこと、言ってるんだよ……!」

 拓海は七瀬を床に横たえると、学ランのボタンを急いで上から外していき、ばさりと毛布代わりに掛けてくれた。熱いのに、と七瀬は思ったが、気遣いが嬉しかったから、退けたくなかった。

「暢気とか、なんで、坂上くんに、言われなくちゃ、いけないの。……ん、ごめん……ちょっと、眠いかも」

「……困る。寝ちゃ駄目だ」

 慌てた拓海が、七瀬の肩を揺すってくる。だが七瀬はもう眠くて仕方がなく、うとうとと、瞼を閉じようとしたのだが――次の瞬間、眠気はおろか、甘美な雰囲気もろとも消し飛ばされることになる。

「……あー。その……もういいか?」

 明らかな狼狽を帯びた、少年の声が聞こえたのだ。

「……。はあっ?」

 七瀬は、がばと跳ね起きる。そして、拓海の背後の黒板前に立った存在に気づき、目が点になった。

 三浦柊吾がいた。傍らには、柊吾が連れていたあの少女もいる。

 柊吾は目のやり場に困ったのか、視線を斜め下辺りに這わせていた。傍らの少女は目を瞬いて、口元に手を当てている。

「……」

 妙な、間が空いた。そして次の瞬間には、七瀬は声の限りに叫んでいた。

「きゃあぁぁ! 信じらんない! 三浦くんの覗き!」

「誤解を招くようなことを大声で言うな!」

 真っ赤になった柊吾が、大声で反論してきた。真っ赤になっているのはこちらも同じで、元々熱っぽい身体が、さらに油を注いで点火されたかのように火照っていく。頬に両手を当てた七瀬はわなわなと震え、思わず拓海を振り返った。

「坂上くんだって、知ってたんでしょ! 知ってたのにしたのっ? なんで言ってくれないの! ひどい!」

「ご、ごめん……その、あっち向いててくれてたし、えっと、ごめん……」

 途端に、もごもごと拓海が狼狽え始めた。すっかり挙動不審の坂上拓海に戻っている。おまけにこちらも顔が真っ赤だ。いくら挙動不審だろうが赤面していようが、分かっていて応じた分、三者の誰よりも罪は重い。由々しき事態だった。三人でかしましく騒ぎ合っていると、一人だけ黙っていた少女が、不意に後ずさった。

 こつん、と華奢な背中が、黒板にぶつかる。柊吾が「雨宮?」と呼んで表情を変えた事で、七瀬も少女の異変に気がついた。

「さっきの子、だよね。……どうしたの?」

 七瀬はおそるおそる訊ねたが、少女は返事をしなかった。黒板に背中をぶつけた姿勢のまま、ぴくりとも動かない。

「……?」

 まるで、何かに怯えているようだった。拓海も同じ印象を持ったようで、「どうしたんだ?」と首を傾げている。すると、少女がふらふらと蹲ってしまった。

「あ」

 びっくりした七瀬は立ち上がろうとしたが、身体が鉛のように重く、一人では動けない。「篠田さん、ゆっくりしてて」と制した拓海が、代わりに立ち上がろうとする。そんな拓海を、さらに制したのは柊吾だった。

「坂上も、篠田も、いいから。動かなくていい」

 落ち着いた声音で言うや否や、すとんとしゃがんだ柊吾は、少女の目を覗き込んで、「雨宮」と声をかけた。

 雨宮と呼ばれた少女は、柊吾の声に応えない。代わりに、どことなく心細そうな動きでスカートのポケットに手を入れて、中からプラスチック製のピルケースを取り出した。

「……?」

 不思議に思って手元を注視していると、柊吾が少女からピルケースを取り上げて、ぱちんと手慣れた様子で蓋を開けたので、ああ、と七瀬は合点がいった。

 きっと中身は薬だろう。少女がパニックを起こしたので、症状を和らげるものに違いない。不自由を抱えているという少女に対する認識が、七瀬にそんな予想をさせていた。

 だが、その予想は百八十度裏切られた。

 柊吾がケースから取り出したのは、絆創膏だったのだ。

 オレンジや水色の他に、赤や青の原色もある。色とりどりの絆創膏がぴらりと一枚、柊吾の手から離れてこちらの方まで飛んできた。七瀬はぽかんとその様を見ていたが、同じく呆然の顔をした拓海が、その絆創膏を拾い上げる。

 ピンク色。デフォルメされたウサギ柄。

「……」

 視線を戻すと、柊吾は絆創膏の包装をめくっていた。頬に始まり、続いて左右の手の甲へ、怪我一つしていない皮膚に、ぺたぺたとたくさん貼っていく。来客者専用スリッパの爪先にまでちょこんと貼り付けたのを見た七瀬は、さすがにぎょっとして「ちょっ、三浦くん、何してるのっ?」と思わず呼び掛けた。

「……説明はできない」

 柊吾は少し恥ずかしそうに顔を赤らめて、ついっと七瀬から目を逸らした。

「だって、本当に何してるの。気になるでしょ」

「……じゃあ、こいつがいいって言ったら。でないと説明はしたくないんだ。俺が変な奴なんだって思ってくれてたらいいから。……できたら、忘れてくれ」

「……っ?」

 七瀬は混乱したが、少女が柊吾の手を握ったのでもっと混乱した。怖々と握っているように見えたのだ。石橋を叩いて渡ろうとしているような注意深さを、何となく感じた。

「あと、篠田。分かってると思うけど、お前に怒ってるの、坂上だけじゃないからな。……けど、今日はもういい。さっさと帰って休め」

「……。三浦くん、助けてくれたんだよね。ありがとう」

 もう少し色々と訊いてみたいが、それよりも優先すべきことがある。七瀬はふらつく頭を押さえて居住まいを正すと、柊吾に軽く頭を下げた。

 顔を上げた時、少しだけ意外そうな顔をする柊吾と目が合う。七瀬がきちんと謝ったり礼を言ったりすると、大抵の者はこんな反応をする。失礼な話だと思う。

「礼儀正しいって聞いてたけど、ほんとなんだな」

「何言ってるの。普通でしょ。助けてもらったんだから」

 当然とばかりに七瀬が言うと、柊吾は微かな笑みを覗かせた。普段からもっと笑えばいいのに、と七瀬は思う。少し勿体ない気がした。

 だが、そんな風に思った時――くらっと強い眩暈で頭が揺れて、七瀬は床に突っ伏した。

「篠田さん!?」

 すぐさま拓海に助け起こされた七瀬へ、「おい、篠田、無理すんな」と柊吾も泡を食った様子で声を掛けてきた。だが、七瀬は答えるどころではなくなっていた。

 今、思い出したからだ。それに、現在の七瀬の姿は、心底不思議な変化だが、見た目としては何ら問題がない。酷くしたはずの太腿の傷も癒えている。

 ならば、急ぐべきだった。七瀬は、黒板の上に据えられた壁掛け時計を、ばっと振り仰ぎ――絶望から、歯を食いしばった。

 ――四時、五十五分。

「……行かないと」

 よろけながら立ち上がろうとすると、「駄目だって!」と拓海に止められ、両肩に手を置かれた。抵抗しようとしたが、力が強い。それに七瀬は腕に力が入らなかった。「離して、行かなきゃ」と言って身体を捩ると、「駄目だ」と先程よりも強く言われてしまった。拓海にそんな声を掛けられた事も驚きだったが、顔が近い所為で、さっきのキスを思い出す。思い出した途端にそれ以上の抵抗ができなくなってしまい、七瀬は俯いて唇を噛んだ。

「……毬が、待ってるの。待ちぼうけになっちゃう。連絡、取れないのに……会いに、行かないと……」

「相手だって、分かってくれるって。仕方ないじゃん」

 労わるように、拓海が言う。「だって」と七瀬がごねると、柊吾も事情を察したらしい。顔色が曇った。

「坂上の言う通りだ。お前がそんなへろへろのまま会いに行っても、相手は喜ばねえと思う。連絡して謝っとけ」

「だめ、携帯持ってない子なの。だから、ちょっとだけでも、行かなくちゃ。今日寒いのに。待ちぼうけなんて、だめ……」

 言いながら、言葉尻がぼやけてくる。

 ……眩暈が、先程よりも酷い。長湯でのぼせたような熱と眩暈が、七瀬の呂律を怪しくする。

「相手が携帯を持ってないなら、緊急の時はどうする気だったんだ」

 柊吾の声音まで、労わりの色が濃くなった。やはり傍から見ても、今の七瀬の状態は普通ではないようだ。答えようとしたが、口が開いただけで声が出ない。「六時半が、タイムアップ、って、決めてる」とかろうじて言葉を絞り出した時、柊吾は拓海と顔を見合わせた。

「……ほっといても、まあ、一応問題なさそうだけど……」

「だめ、だってば。行くの……行かなきゃ……」

「……篠田。それ、待ち合わせ場所はどこだ?」

「……。こづか、にし、駅」

「袴塚西駅」

 復唱した柊吾が、こくりと頷く。続けて「相手の名前は? 特徴も」と矢継早に訊かれたので、七瀬はもう考える事も上手くできず、言われるままに、細々と喋った。

「つなた……まり。歳が、いっしょの子。袴塚中の子だから、黒っぽいブレザーで、リボンは緑で、スカートも、緑のチェック柄で……左のほっぺたに、泣きぼくろがあって、髪は……はづきに、にてるの」

「ハヅキ?」

「うん、ああ、はづきとも、けんか、しに行かなきゃ。……許さないんだから。ぜったいに、ゆるさないんだから」

 七瀬はうなされるように、怒りの言葉を吐き出しながら……身体から力が抜ける感覚と共に、意識をゆっくりと手放していった。

「……ハヅキっていうのは、篠田さんの、こっちの友達。……えっと。髪型はショートボブ」

 拓海の補足の言葉に柊吾が頷いて、「なんだ、俺のとこの最寄駅か」と軽い調子で呟いたのを、意識を失う寸前に、耳が拾ったような気がした。


 *


 身体の左側から伝わる重みが、温かい。拓海の肩に寄り掛かった七瀬は、穏やかな寝顔をしていた。体温の高さは気になるが、確かな血の巡りを感じる顔色は、拓海に事件の終わりを予感させた。

 七瀬は、本当に帰ってきてくれたのだ。このまま再び眠りについても、心配することはないのだろう。

 しばらくじっと座っていた拓海は、やがて柊吾を振り返り、「三浦はもう行くのか?」と訊ねてみた。柊吾は少女の手を握り直して、拓海へ浅く頷いた。

「俺が行っても遅刻になるのは同じだけど、六時半まで突っ立たせるよりは早く着けると思う。ちゃんと分かるか、ちょっと心配だけどな」

「三浦は優しいな」

「優しいも何も、俺から首を突っ込んだんだ。最後まで面倒見るのは当然だ」

 柊吾は渋面を作ったが、口で言うほど悪ぶっている感じはしなかった。やはり根は純朴で優しい少年なのだろう。拓海は笑ってから、視線をそろりと、調理室の隅へ転じた。

「……篠田さん、気づかなかったな」

「ああ。気づかないように隠したんだから当たり前だ。でも気づいても良さそうなもんだから、篠田が阿呆で助かった」

 ちら、と今度は二人揃って視線を送る。整然と並ぶテーブルの陰に、紺色のソックスを履いた足が見えた。七瀬が倒れていた場所から、死角になる位置だった。

「三浦、引き摺るからびっくりした。容赦なかったな」

「本当は、今でも殺してやりたいくらい憎い。でも、そういうやり方じゃ最悪だって分かってるから、やらないだけだ」

 柊吾がその一瞬だけ、強い怒りを目に浮かべる。その感情の露出があまりに鮮烈で、拓海は少し、気圧された。

「……職員室に、あいつの兄貴がいるんだ。その人に声だけかけてから、帰る。坂上、面倒押し付けて悪りぃけど。この惨状の説明、お前に任せた。……言い訳、全く思いつかねえ。あと、掃除を手伝う時間もなくてすまん」

 柊吾が渋い表情で、塩と砂糖と鏡の破片だらけの床を見下ろしている。拓海も苦笑いで「……努力してみる」と一応請け負い、その時ふと、思い至った。

「三浦、帰る前にちょっとだけ待って」

 拓海は、七瀬の肩に掛けていた学ランの胸ポケットからシャーペンを引き抜くと、「なんか紙持ってない?」と柊吾に訊いた。柊吾は不思議そうな目をしたが、何も言わずに通学鞄を開けて、ノートを一ページ破ってくれた。礼を述べて受け取った拓海は、床に置いた紙片にシャーペンをさらさらと走らせる。

「……メールアドレス?」

 驚いた様子で、柊吾が言う。拓海は、紙片を差し出して笑った。

「俺もまだ携帯持ってないから、パソコンのだけど。なんか、これっきりっていうのも寂しいじゃん」

「……ん、さんきゅ。帰ったらメール送っとく」

 口の端を少しだけ持ち上げた柊吾が、折り畳んだ紙片をポケットに収める。少女と握り合っていない方の拳が突き出されたので、拓海も応じて、拳をぶつけた。

「じゃあな、坂上」

 柊吾が、調理室から出ていく。何故か一切の言葉を語らなくなった少女の手を引いて、振り返らずに歩いていく。

 窓から射す太陽光はすっかり赤く熟していて、袴塚西中学の制服に身を包んだ二人の男女を、黄昏色に染めている。夕方の時間があと僅かで、これから夜が来ようとしているのだと、否応にも意識する。

 灯りの落ちた薄暗い廊下を、外光の赤さのみを頼りに歩く男女は、美しかった。窓から桜の花吹雪が入り込み、柊吾と少女へ吹き付ける。

 少女の栗色の髪に花びらが乗り、気づいた柊吾がそっと摘まんで、握り合う手を解いて差し出した。花びらを受け取る手の平へ、柊吾がさらに一枚、二枚と、花びらを追加してあげている。増えていく桜色を少女は不思議そうに眺めてから、タンポポの綿毛でも吹くように、ふ、と手の平に吐息をかけた。じゃれ合う二人を拓海は漫然と見送っていたが、「ぶ」と声が聞こえたので、何事かと注意深く見つめると、柊吾の鼻に花びらが一枚くっ付いていた。

 そして、少女の「あ。見えた」という謎の言葉が聞こえ、それきり二人は仲良く手を繋ぎ、拓海の視界から消えていったのだった。

「……何だったんだろうな」

 全てが、夢の中の出来事のようだった。

 今朝、昇降口前で七瀬とぶつかりかけた時は、拓海と七瀬は他人同士だった。

 それが、今は一緒にいる。他人の次には友達だと思い定め、その友達関係すら育まないまま、拓海と七瀬はこうなった。それが単純に不思議だったのだ。

「……」

 唇を、指でそろりとなぞる。眠る七瀬の唇に目が吸い寄せられて、何となく気恥ずかしさと後ろめたさを覚えて、ぱっと顔を、逸らしかけた時。

「……もう一回、する?」

 薄闇の中で、七瀬の声が聞こえた。

 閉じていた瞼が、開いている。拓海と目が合うと、熱で赤みの差した顔に、す、と楽しそうな笑みが浮かんだ。

 拓海は息を吸い込んで、何事かを言おうとして、何も言えずに狼狽える。そんな拓海を見上げる七瀬が、少しだけ不服そうに睨んできた。夕闇の中で、熱で潤んだ瞳が、淡い光を照り返す。

 ――何だか、敵わないと思ってしまった。

 七瀬の表情は、やっぱり拓海が見た事のないものだったからだ。

 知らない表情の一つ一つに、やっぱり惹きつけられてしまう。目で追ってしまっている。ああ、そうかと拓海は思った。こんなにも簡単なことに、どうして今まで気づけないでいたのだろう。

「……俺、篠田さんのこと、前から好きだったのかもしれない」

 拓海は、言った。そして、驚く七瀬の肩に手を置いて、慣れないながらも顔を近づけて、それでも少し躊躇って――結局止まる。

「……坂上くん?」

「……その、ほんとに、俺でいいの?」

「いい加減にして」

 ばちんと頬をたれた。「ぶ」と呻いて、顔が真横に振れる。結構強い張り手だった。柊吾でさえもう少し優しい平手打ちだったと思う。思わず痛いと言いかけたが、白シャツの襟を強く引き寄せられて、拓海の言葉は、そこで途切れた。

 黙った代わりに肩の手を、そのまま背中に、おずおず回した。

 七瀬は本当に、拓海でいいのだろうか。この期に及んでまだ自信がなかった。ただ、緊張しすぎて何にも考えられない。息もできない。七瀬の身体が熱くて、こちらまでぼうっと熱っぽくなってしまう。頭が、回らなくなっていく。


 そんな風にして、拓海と七瀬の一日は終わったのだった。

 鏡の外で、現実の中で、鏡を巡る一つの怪異が、人知れず幕を下ろしたのだった。

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