鏡よ鏡 12
「呉野さん。どうして、私達の邪魔をするの?」
七瀬は、静かに問う。
怒りが消えたわけではない。むしろ、時間の経過と共にその感情は強くなる一方だが、振り切った怒りの感情は、七瀬を不思議と冷静な心持ちにさせていた。
きっと、拓海のおかげだろう。だからこそ今、七瀬は戦える。目の前の敵に厳然と、確固たる意志で立ち向かえる。
さっきまでここに居た少年に支えられ、勇気づけられたことを、忘れなければ――怖いものなんて、何もない。
一階の姿見に映る少女は、始めのうちは七瀬の問いかけに答えなかった。俯き気味の姿勢の所為で、前髪が目元を隠している。表情はほとんど読み取れないが、唇は笑みの形に吊られていた。
「……篠田七瀬。貴女、何を知っているの」
鏡の境界越しに聞いた氷花の声は、嵐の前の静けさを感じさせる不気味な恫喝を含んでいた。どんな音色の声であろうと、七瀬がたじろぐことはない。顔を上げて平然と、異質な少女に訊き返す。
「何のこと?」
「とぼけないで……とぼけないでよ!」
氷花が、顔を跳ね上げた。前髪で隠れていた表情が露わになり、強い怒りが爆ぜた声で、七瀬を怒鳴りつけてくる。
「あんたが、私をここに閉じ込めたんでしょ! 信じられないわ! 一人で引き籠っていればいいのに! 私まで巻き込むなんて、あんた馬鹿なのっ? 殺す……殺してやる……二人揃ってここに閉じ籠って、餓死でも何でもすればいいのよ! あんたを殺せば、十分兄さんへの当てつけになるんだから!」
「呉野さんって、ほんとに頭、大丈夫? ……気持ち悪いんだけど」
合いの手を入れてしまった七瀬は、思わぬ情報に驚いていた。七瀬はこの怪現象を氷花の所為だと思っていたが、氷花のこの言い様だと、真相は少し違うらしい。氷花が悪いのは前提として、この状況には七瀬にも責任の一端があるようだ。
ただ、それに対して責任という言葉を宛がうのは、やっぱり癪だと七瀬は思う。少なくとも、氷花が妙な行動を取らなければ、今の状況はなかったはずだ。互いにとって不測の事態だということは理解したが、まだ疑問は残っていた。七瀬の予想が正しいなら、氷花の奇行の理由が不明なのだ。
「呉野さん。もう一度訊くけど……どうして私達の邪魔をしてるわけ? 鏡を叩き割って、ストーカーしてきて、あんた、本当に気持ち悪いんだけど」
「何回言ったら分かるのよ! あんたを殺す為よ!」
氷花が気炎を吐いた。七瀬はこのやり取りにかなり辟易していたが、氷花の次の一言で、気が変わった。
こちらの覚悟が、決まったからだ。
「鏡の所為よ! 篠田さんが鏡を気にする所為で、こんな変なことになっちゃったに決まってるわ! だから、調べたのよ。移動できるって事。それに、壊したら移動できなくなる事も分かったわ。……分かったから、邪魔してやるって決めたのよ! あんた達二人、ここで生き埋めになって死ねばいいのよ!」
「――こんな所でっ、誰がっ、死ぬかあぁ! 呉野さん、いい加減にしてっ!」
堪忍袋の緒がぶち切れた。辺りを憚ることない罵声を張り上げると、氷花がその声量に慄いたのか、ぎくりと身体を仰け反らせた。
――やはりだった。
氷花は七瀬達とは別行動を取る中で、鏡の破壊という暴挙に至った。その行為が七瀬と拓海の邪魔になると勘付き、金槌を入手して実行に移した。
だが、それだけだった。それだけのことでしかなかった。皆で結託して脱出方法を模索するとか、何故帰れなくなったのか原因を探るとか、取るべき行動や考えるべき事案は幾らでもあるだろう。それらに思考を割く余裕がないのか、それとも余裕を失うほどに取り乱しているのか、はたまた前者と後者、両方なのか。この学校にいた坂上拓海の、真剣な目を七瀬は思う。抽象的ながらもきちんと考察し、堅実な行動に移してきた拓海に、氷花はまるで及ばなかった。
――気づいていないのだ。
目の前に立つ仇敵、呉野氷花は――ここが『鏡』である事に気づいていない。それどころか、七瀬達の邪魔に一生懸命になるあまり、この緊急事態で取るべき行動を、完全に履き違えていた。自分の身に何が起こっているのかさえ、ほとんど把握していないらしい。
だからこそ――これは、強みだった。
やっと分かったのだ。戦い方が。目の前の少女に対抗する為に、七瀬に出来ることが何なのか。これは、今まで氷花の悪意と奇行に翻弄され続けた七瀬が、やっと掴んだ武器だった。
――『お前らがそこに閉じ込められてるのは、呉野が全部悪い! けどな、脱出するのは簡単なんだ! 鏡の『所有の義務』を放棄すれば、そんなクソみたいな場所、あっさり出られるはずなんだ! 今だけでいいから、俺を信じろ!』
柊吾の言葉が、頭を過る。七瀬は、氷花の全身を隈なく見つめた。
視線に気づいた氷花が、何かを隠すように軽く片足を引いたことで、スカートのポケットに目が留まり、悟る。
――まだ、『所有』している。
ゴミ呼ばわりしておきながら、それでも『所有』をやめない辺り、大した執念だと七瀬は思う。七瀬を不機嫌にさせる為だけに、そこまで出来るのはかなり凄い。敵ながら、なかなか見上げた根性だ。同時に馬鹿だとも思ったが、喧嘩の相手として不足はなかった。
何せ、こちらも相手も同じ女子なのだ。きっと七瀬たち女子生徒の遺伝子には、喧嘩の相手を完膚なきまでに叩き潰さなければ気が済まない、陰険で業の深い闘争心が織り込まれているに違いないのだから。
幸い、教師もいないので邪魔は入らない。壊せる対象もたくさんある。ストレス発散の道具と罵倒された七瀬だったが、今初めてこの状況が愉快に思えた。柊吾と拓海のおかげで、理論は頭に入っている。成功するかどうかは未知数だが、方法に間違いはないはずだ。
「……呉野さん。一応、訊くだけ訊いてみるけど。あんたさ、私と協力してここから脱出しようとか、そういうことを考えないの? 脱出方法、分からないんでしょ?」
「協力ぅ? 篠田さん、何を言っているの」
氷花は、きゃらきゃらと笑い声を上げた。
「状況分かってる? 私は貴女を殺そうとしてるのよ? 貴女は寂しい学校で、寂しく孤独に死ねばいいのよ。良かったわね、坂上君がいてくれて。餓死するにしたって、一人じゃないわよ? ……そういえば、姿が見えないみたいだけど……ねえ。あんた、何を企んでいるの?」
「……そ。分かった。呉野さんは、私に協力する気がない。……よく分かった」
「……何よ、改まっちゃって。気に入らないわね」
氷花が悪態を吐いたが、七瀬はもう氷花など見てはいなかった。その場に屈んで薄いブルーのハンカチを足元に置くと、粉々に割れた鏡の欠片が、触れ合って涼やかに鳴り響く。この学校を叩いた時と、同じ音色だ。
――『単純に『鏡』の中の世界、っていうより、ここ自体が『鏡』っていう物質そのものなんだと思う』
――『俺達が今いる場所は『合わせ鏡』の中で……この場所と、この鏡の破片って、多分だけどリンクしてるんだ』
拓海は、言っていた。始めは自信なさそうに、それでも真摯に真剣に、いつしか堂々と懸命に。七瀬を導いてきた、言葉の中で――今も輝く、一つの希望。
――『どこかには、出口があるんじゃないかな』
七瀬は、床に片膝をつき、頭を垂れる。
そして――手を、合わせた。
「篠田さん、何してるの? お祈り? あははっ、ばっかじゃないの?」と氷花が嘲笑ってきたが、七瀬は一顧だにしない。そんな邪悪は邪魔なだけだ。揶揄に腹を立てる荒削りな感情さえ、この瞬間には邪だ。
不思議と、敬虔な気持ちだった。少しだけ切なく、寂しかった。
――お葬式みたいだね。
綱田毬の言葉を、七瀬は思う。『大人しい』少女が紡いだ美しい言葉を、十字架のように胸に刻んで、七瀬は瞳をそっと閉じる。
声には、出さなかった。心の中で、小さく、本当に小さく呟いた。
――今まで、ありがとう。
七瀬は今から目的の為に、この割れた鏡に酷いことをしようとしている。非道な行いに対する許しを請う為だけに、七瀬は短い黙祷を捧げている。毬の言ったお葬式を、七瀬はこの鏡にしてあげられない。それを悲しいと思うほどに、いつしか大切に思っていた。
執着は、愛着だ。たとえ強制された所有物でも、その執着が歪んでいても、七瀬にとって大切にしてきた物を弔うのは当然のことで、くだらない迷信だとか、鏡という曰くのある物への恐れだとか、そういった物は全てどうでもよかった。ただ、お礼を言いたかった。そしてお別れの形を成り立たせたかった。それをきちんとできない事が、七瀬はただ寂しいのだ。そんな礼儀正しさを、七瀬は母から、友人から、今までの時間をかけて、学んできたのだから。納得ずくの行為だったが、閉じていた瞼を開いた時、ああ、やっぱり、とは思ってしまった。
七瀬では、駄目だった。この方法ではまだ足りないのだ。ごめんね、と柊吾に心の中で謝った。
愛着に区切りをつけることは、難しいものだと思う。
「ちょっと篠田さん、茶番はいい加減にしてくれる? 退屈なのよ。あんたがいつまでもそんな調子なら、こっちにだって考えがあるわ。今から坂上君を探し出して、あの優男を脅かしてやるんだから。隠れたって無駄よ、絶対に見つけてやるわ」
「……坂上くん、もういないよ」
「? 何、聞こえなかったわ。もう一度言って」
七瀬は返事をせずに立ち上がると「言いなさいってば」としつこく食い下がる氷花を尻目に、スカートを少したくし上げて、下に履いていた体操着の半ズボンを脱いだ。
氷花が、黙る。驚いたのか声も出ない様子の氷花をよそに、七瀬は黄色のタイを緩めて解き、セーラー服にも手を掛けると、脇腹のチャックを上げて両手で捲り、ぱっと頭から脱ぎ捨てた。軽く畳んだ衣服をハンカチの包みの上に被せると、七瀬は軽装で氷花に向き直る。
寒がりが幸いして、制服の下にTシャツを着こんでいたので恥ずかしさはない。半ズボンを脱いだ所為で腿の辺りがひんやりするのは気になったが、スカートが捲れたところで、ここにはこの変人しかいないのだ。見られて困ることはない。
それに、七瀬は勉強は不出来だが――体育には、そこそこ自信がある。身体を動かすのは好きなのだ。それもきっと、強みのうちの一つだろう。
「篠田さん、何やってるの……貴女、まさか変態だったの?」
「変態はそっちでしょ。男子トイレでにたにたしてたの、すごく気持ち悪かったんだから。それより、呉野さんも薄着になった方がいいんじゃない? まあ、やせ我慢するなら止めないけど?」
「はあっ?」
氷花が、不可解を露わに語尾を跳ね上げた。七瀬は床に置きっぱなしにしていたフライパンを通学鞄に挿すと、代わりにそこへ無造作に入れていた物を取り出して、相手に見えやすい高さに掲げてやった。氷花が七瀬の鏡にした仕打ちに擬えて、ゆらゆらと、挑発するように。
氷花が、気づく。息を呑む声が、聞こえた。
「篠田さん、それ……、あんた、何する気なのっ? そんな物で、何が出来るっていうのよ!」
「見たら分かるでしょ? ……呉野さん。もう一度訊くけど。今から私と協力して、出口を探す努力、してくれる?」
「嫌よ! 絶対嫌! 誰があんたなんかと!」
「じゃあ、言い方を変える」
――しゅ、と。擦過音が、手元で響く。
一回目で点かず、もう一度擦った。今度は手応えがあった。胸をすくような点火の音とともに、小さな火が、ぼうっと灯る。噴き上げた煙が、細く立ち上った。
この方法を選ぶことが、正しくなくても構わない。目的は、脱出なのだから。出口を、目指したいだけなのだから。その為なら、目の前の不愉快な少女の邪魔を排斥し、文字通り焚き付ける為の作業など、何ということも、なかった。
七瀬は、マッチ箱を足元へ落とした。
ぽすん、と軽い音を立てて、マッチ箱は脱いだ衣服の上に着地する。その先達の後を追わせるように、七瀬は手中の小さな炎を、もう一度これ見よがしに掲げて見せた。
「何してるのよ、篠田さん……! 何、する気なの! 答えなさいよ!」
七瀬の行動にただならぬものを感じたのか、氷花の声が悲鳴混じりになり、慌てたようにこちらへ足を踏み出そうとした。
七瀬は、待たなかった。
「私と協力しない? っていうお誘いじゃなくて。――出口、探して。今から、死ぬ気で」
氷花の足が、姿見の境目を踏み越えるよりも、ずっと早く、七瀬の手から、燃えるマッチが落ちていき――衣服とハンカチの上で、滑らかに燃え広がった。
――瞬間。最初に訪れた変化は、色彩だった。
校舎に射し込む夕焼け色が、すうと濃くなっていき、明度を下げて、黒く、重く、濁っていく。高温で煮詰めた飴のように濃縮された世界の色の反転は、一秒もしないうちに到来した。
急激に、明度が上がり始めたのだ。退廃的な夕日色に、鮮烈な赤色がじりじり混じる。燦然と輝いていく様は、予熱を終えたオーブンのようだった。「何っ! 何なの!」と氷花が叫び、鏡越しに向き合う二人の間に、ゆらりと陽炎が立ち上った。床から、壁へ、壁から、天井へ。燃える夕日の色彩が、学校の色を変えていく。
炎の色に、変えていく。
――ぱきん。
涼やかな破砕音が、エコーする。それが、決壊の合図となった。
灼熱の炎が、荒々しい旋風となって、二人の間に巻き起こった。
火の粉が躍り、血の色に染まった風が爆発する。獣の遠吠えに似た轟きに呼応するように、触れるだけで火傷しそうな熱風が猛り狂い、剥き出しの太腿を、手の平を、項を、頬を、二人の全身を炙っていく。みるみる体感温度が上昇し、サウナに放り込まれたかのようだった。
「きゃあぁぁ!」と氷花が絹を裂くような悲鳴を上げる姿を、七瀬は両腕を交差させて顔を庇い、隙間から激しく睨めつけた。だが七瀬とて状況は氷花と変わらないのだ。暴風が身体を凄い速さで嬲っていき、スカートがはためき、髪を括るゴムがぶつんと音を立てて千切れ飛ぶ。束ねた巻き髪が帯のように解けていき、背に流れることもなく風に遊ばれ、燃え盛る炎と同じ灼熱の艶を弾いていく。
氷花は鏡の向こうで蹲り、熱い空気そのものから逃れようとするように、出鱈目に暴れ、もがき、髪を振り乱していた。
まるで鬼のようだった。人間とは思えないその様は、火炙りに処されているかのようだった。暴れた拍子に、氷花が金槌を取り落とす。鏡という物質で構成された床が、突然降ってきた鈍器で叩かれ、きぃんっ、と澄んだ音を響かせた。
「何! 何なのっ! 篠田さん、あんた、何したの! 答えなさいよ! 何したの! 何、したのよおぉ……!」
氷花が激昂した途端、学校を取り巻く変化はさらに劇的なものに変わった。かっと赤い光の明度が増したのだ。火勢が強くなっている。七瀬の足元で、畳んだセーラー服が、火達磨になっていた。
――結構、火の廻りが早い。
正直、これほどとは思わなかった。だが後悔はなかった。予想が的中した達成感と、もう後戻りは出来ないというスリルが全てだった。七瀬は赤い風の中で、焼かれて形を失くしていく亡骸を、最期のその輝きを、瞳に継承するように目を眇めずに睨みつけた。あらゆる激情を戦意に変えて、熱地獄と化した校舎に、挑むように立ち続けた。
校舎に吹き荒れる業火は、瞬く間に『鏡』の世界を包んだが――この『炎』には、熱さはあったが痛みはなかった。
七瀬の衣服や髪を何度も赤い旋風が撫でていくのに、燃え移る気配が全くない。火焔は何も燃やさずに、ただただ熱と煌めきだけを、その激しさとは裏腹な静けさでもって、無限の『合わせ鏡』に分け隔てなく映していた。
本物の痛みを帯びる、現実の『炎』は――やはり、たったの一つだけだった。
七瀬の足元で黒煙を噴き上げて、ひたすらに燃え続ける衣服。その中に埋められた、割れた鏡。この場所とリンクしているという、母の鏡。
――この幻の『炎』の仕組みを、目の前の鬼は分かっていない。こうなって尚、未だに分かっていないのだ。
「手伝ってよ! 呉野さん!」
七瀬は凛と前を向き、情けなく蹲って頭を抱える氷花に近づいていく。フライパンで姿見の鏡面をごんごん叩き、怯える氷花を傲然と見下ろすと、ありったけの怒りを込めて、強く命じた。
「燃える学校の中で私と心中するか、それとも移動を続けて出口を探すか! 選んでよ、呉野さん! さあ、早く!」
「いっ、嫌よ! 誰があんたなんかと、心中なんかっ!」
「ごちゃごちゃ言ってる暇があるなら早く探せって言ってんの、まだ分かんないのっ!?」
七瀬はフライパンを、目の前の姿見へ叩きつけた。澄んだ轟音が爆発し、ひっ、と氷花が短い悲鳴を上げた。七瀬はその腑抜けた声を、ごうごうと唸る火炎で視覚も聴覚も触覚も馬鹿になりそうな状況で、かろうじて聞き取った。
ぱらぱらと、破片が剥落する。鏡面に落ちた落雷のような罅割れの向こうで、氷花が身体を震わせて、七瀬の姿を見上げていた。罅の所為で表情は窺えないが、そんな有様であっても氷花が愕然としているのが伝わってくる。先程まで自分が圧倒的優位に立って翻弄していたはずの弱者の姿を、堪らなく恐ろしく思っているのが伝わってくる。少しだけ気分の晴れた七瀬だが、余韻に浸る暇はなかった。急がなければ最悪、本当にこの変態と心中だ。自分から提案しておきながら酷いと思うが、それだけはたとえ死んでも御免だった。
「私、違う鏡から探すから。呉野さんも、早くそこから移動しなよ。そっちの学校も、出口がないんでしょ?」
「あ……あんた、何が目的なのよ……何が、したいのよ!」
氷花が、よろよろと立ち上がる。鏡面の罅割れが酷く、やはり顔色は読めなかった。そんな仇敵の姿に一瞥を寄越すと、七瀬は身を翻し、階段へと向き直る。
「そんなの、決まってるでしょ。帰りたいから。それ以外の理由なんてない!」
「あんたは帰れないわ! 篠田七瀬!」
氷花が憎悪を盛り返したのか、七瀬へ挑発的に叫んできた。
「あんたの所為でこうなったのよ! その張本人が、あっさり帰れるわけないでしょ! 『篠田七瀬はここでっ、たった一人で死ぬのよ!』 このまま、焼かれて! 『坂上拓海にも会えずに、寂しく一人で死んでいくのよ!』」
「知るかあぁ!」
七瀬は振り返り様に、フライパンで再び鏡面を殴打した。ばりばりと姿見を抉る凄まじい音が炸裂し、氷花の臆した声が向こう側から聞こえてきた。
人を挑発しておきながら、何という様だろう。この程度の牽制で、氷花は簡単に怯えてしまうのだ。七瀬の喧嘩相手は、こんなにも仕様のない小物だったのだ。思わず強く歯噛みした。七瀬にとって呉野氷花は、得体の知れない存在で、意味不明な罵倒の数々も、偏執的なまでの悪意による行いも、総じて気味が悪かった。
だが、もう思わない。ここにいるのは、七瀬と同じ歳の少女だった。悪辣な態度と厭味な言葉で己を強く見せているだけの、一人の人間がいるだけだった。
他愛ない。はっきりとそう思った。
そして同時に――やはり、許せなかった。
こんな相手に、自分がこれほど貶められた。それを許したままこの戦いの場から逃げるのは、誰が許したとしても七瀬だけは許せなかった。
「呉野さん。あんた帰りたくないの? 帰って、会いたい人とかいないの? 私はいる。会いたい人、たくさんいる。会ってたくさん話したくて、全部ぶちまけて喧嘩したい人がいる。そういうの、あんたにはないの? 呉野さんって、人のことを何だと思ってるの? 人間だと思ってないんでしょ! そういうの、本当に最低! 気持ち悪い!」
「会いたい人……、それって『坂上拓海』の事かしら!」
氷花が、笑った。だが、震えた笑みだった。虚勢で無理やり覆ったような、継当てだらけの嘲笑だった。
「『坂上拓海に二度と会えないかもしれない事が怖い』のね! がさつな女だと思ったら、結構かわいいとこあるじゃない! まあ、もう会えないでしょうけどね! 『閉じ込められた篠田七瀬は、もう、坂上』」
「うるせえって言ってんのがまだ分かんないの、あんたは!」
言葉遣いが滅茶苦茶に乱れた。フライパンを三度、渾身の力でフルスイングした。乱舞する火の粉もばちばちと爆ぜ、鏡面にめり込んだフライパンから、ぼろっと大きく破片が崩れる。「あ、わわ、わああ」と氷花が激しく狼狽する声が、性懲りもなく聞こえてきた。
「わ、割らないでよ! 野蛮人!」
「それはあんたも同じでしょ! 野蛮人!」
四度目も殴りつけた。鏡は最早ほとんど残っていない。肌を撫でる空気も熱い。こんな所で立ち止まっている場合ではないと分かっていたが、それでも殴った。殴りつけた。七度、八度とまだ殴る。だが足りない。まだ足りない。まだまだ全然殴り足りない。殴る度に、もう一発目を切望する。それほどまでに殴打しても、一向に殴り足りなかった。まだまだ、全然、気が済まないのだ。
「坂上くんは! 私に! 怒っていいって言ってくれた! 私は、怒らなかった! 怒るべきじゃないって思ってた! ……でも! いいって言ってもらえたんだから! 帰ったら、真っ先に喧嘩しに行く! 簡単に許す気なんか、ないんだから! ……呉野さん、まだ私の邪魔をするつもり? あんたが私と坂上くんを閉じ込める為にやった事、私にもできるって事を忘れてるんじゃないの? 私、あんたよりは絶対に運動できるからね? 足、速いからね? この怪我、大したことないからね? ハンデにはならないからね? 先に学校の姿見を全部叩き割って、あんたの逃げ道、残らずぶっ潰せるんだからね? ……協力、してよ? ねえ! 死ぬ気で! ほら! 早く! ……出来ないんなら、ここで死ねえええぇぇぇ!」
幻の炎が、一際大きくごおうと唸る。その風に乗せた威嚇の咆哮に、氷花の気配がはっきり竦み上がった。七瀬が執拗に殴打し続けた所為で姿見には欠片がほとんど残っていないが、かろうじて貼り付いた僅かな鏡に、氷花の黒髪が見えた。へたり込む足が見えた。声もなく、抵抗もなく、がたがた震える身体が見えた。
これほど威嚇して、それでも駄目なら仕方ない。ふい、と七瀬は踵を返した。
「私、行くからね。呉野さん。後でね」
「……探すわよ、探せばいいんでしょ! もう、嫌よ! こんなのばっかり! なんであんた達って揃いも揃って野蛮なの! 皆まとめて死ねばいいのに!」
氷花が、怒りと屈辱と涙が混じったような声で喚き、さらりと揺れた黒髪が、姿見の破片の中から消えた。去りゆく姿を見届けた時、ぱきんと足元で何かが爆ぜる音がした。
七瀬が音に振り向くと、ばきばきと大きな破砕音がそこら中から聞こえてきて、赤い空間に白い罅の稲妻が、ノイズのように入り乱れ始めた。
まるで、硝子の罅割れ。目の前にある、姿見のような。あるいは、七瀬の鏡のような。このまま、この空間が壊れてしまえばいい。そんな風にも思ったが、鏡は多分、燃え残る。知識は薄かったが、不燃ゴミに分類されるはずだった。たとえ外部からの刺激や熱でさらに細かく割れたとしても、脱出の助けにはならないだろう。逃げ道を困難にするだけだ。
最後にもう一度だけ、『炎』を見下ろした。
「……。ごめんなさい。お母さん」
小さな声で呟くと、それを最後に、見るのをやめた。
背中を、向ける。鏡から、そこにある執着から、愛着から、絆から――そして、そのまま駆け出した。
通学鞄を揺らし、フライパンを携えて、階段を数段飛ばしで駆け上がる身体に、吹きつける風がまだ熱い。どこもかしこも赤い世界で、七瀬は高揚する感情に混じる強い怒りに衝き動かされて、次の鏡へ向かっていった。
まだ、絶対に諦めない。氷花が一応、味方についた。このまま二人で総当たりして、調べられる所まで調べ尽くす。こんな所で、死ぬ気はなかった。
――葉月!
七瀬は、名を呼ぶ。心の中で、その名を叫ぶ。
七瀬の親友。『大人しい』少女。去年からずっと一緒にいて、今は他人のように余所余所しい。そんな関係に甘んじた、怒らない自分を詰りたかった。
何故、怒らなかったのか。理由はもう分かっていた。
拓海に言われて、分かったのだ。
――『理由は分かんないけど……怒っていいと思う。それ』
――『ひどいじゃん。ちょっとくらい文句も言いたくなるよ』
その通りだ。だが、違うのだ。七瀬は怒れる。ミユキや夏美とも今日は一度険悪になった。衝突を恐れてはいないのだ。
それでも七瀬は、葉月が相手では駄目だった。一ノ瀬葉月は、ミユキや夏美たちと一体何が違うのだろう? 『大人しさ』も『派手さ』も関係ないはずなのだ。七瀬は葉月と喧嘩をした事はなかったが、それは衝突を避けていたわけではない。偶然今まで衝突しなかっただけの話だ。
喧嘩を避けた理由だって、今ならはっきり分かっている。
そもそも――前提が、違ったのだから。
七瀬は、怒りたかったのではない。
――怒って、欲しかったのだ。
新学期になって、新しい友人を紹介されたあの日。『大人しい』少女達から一斉に向けられた、排除と倦厭と拒絶の目。異分子を排斥しようとする眼差しに射竦められた七瀬を見て、驚いた顔をする葉月。七瀬が彼女達と実のない会話を続ける間、ずっと固まっていた七瀬の親友。
怒って、欲しかったのだ。七瀬は、葉月に、彼女達を。
自分の友達が今、目の前で攻撃を受けた。葉月はそれを、黙って見ていた。明らかな倦厭に対して言い返せずに、黙ったまま、葉月はただ見ていただけだった。七瀬は、葉月に見過ごされていた。
何がショックだったのか分かった。それがショックだったのだ。七瀬が葉月を怒りたいのではない。ましてや新参者の外野など始めから眼中になかった。相手は葉月だ。葉月しかいない。七瀬は怒って欲しかった。それを葉月に求めていたから、衝突したくなかったのだ。
待っていたのかもしれない。葉月が、怒るのを。だから七瀬は、上辺を取り繕った実のない会話を繰り返した。そうやって待っている間、ついに葉月は怒らなかった。
それが――怒れない原因の、全てだった。
先に怒って欲しかった。七瀬が怒るよりも早く、葉月に怒って欲しかった。それを切望したからこそ、七瀬は耐えた。笑顔で、上辺を、取り繕って。怒れないまま、こんなにも時間を費やしてしまった。こんな風に気づくまで、七瀬は葉月を待っていた。
馬鹿馬鹿しかった。最悪だった。しかも葉月は、それを分かっていないかもしれない。七瀬が待っていた事を知らないで、七瀬が身を引いたとしか思っていなくて、七瀬の避ける行為で勝手に傷つき、隔絶感で切ない気分にでもなっているかもしれない。だとしたら、やっぱり馬鹿馬鹿しくて最悪だった。
喧嘩がしたかった。今すぐ。葉月と。本気で。詰り合いのようなものでいい。どんなに醜くても構わない。この感情をぶつけたかった。暴力のようだとどこかで気づいている。それでも受け止めて欲しかった。何をされても受け止めるから、代わりに本音を聞いて欲しい。そうやってぐちゃぐちゃに傷つけ合いたかった。それほどに七瀬は葉月が許せないのだ。一度自覚して火がついた怒りに、もう歯止めが利かなかった。
そして、やっぱり好きだと思った。
分かっているのだ。これ程の怒りに身を焼かれても、芯は何も変わっていない。
この怒りの感情は――葉月が好きでなければ、生まれないものだからだ。
――葉月の馬鹿!
声に出さない代わりに、涙がぼろぼろ零れてきた。ぐいと熱い手の甲で雫を拭い、七瀬は熱気で揺らめく風を切って、踊り場の鏡へ飛び込んだ。
葉月に会いたい。怒っても良かったのだ。もっと早く怒れば良かった。何をずるずるしていたのだろう。七瀬もまた馬鹿だったのだ。好きなら一緒にいればいい。拓海に二度も言われていた。一緒にいれば良かったのだ。
だから、それが叶わないまま死ぬのは嫌だった。
やり残したことがたくさんあった。毬との約束も果たせていない。葉月と喧嘩もできないで、十四歳で、無知なまま、これから積んでいく経験とか、将来とか、恋人の存在とか、そういったもの全てが丸ごと奪い去られて、半端な七瀬のまま死ぬわけにはいかなかった。七瀬は葉月の好きな人だって知らないのだ。何度訊いても誤魔化されてばかりだった。もっとそんな話をしたかった。葉月が恋をしているなら、その話を聞かせてほしい。七瀬はまだ恋だってしていない。キスもセックスも知らないままで、このままここで死ぬのは嫌だ。絶対に嫌だった。
まだ死ねない。
死にたくない。
ああ、違う。
生きたい。
すとんとシンプルに、言葉が胸に落ちる。余分な情動が削ぎ落されて、冴え渡った本能を胸に、七瀬は階段を駆け上がる。
走った先には、新たな鏡。
ただ生きることだけを渇望しながら、七瀬は解けた髪を風に靡かせて――次の学校へ繋がる赤い鏡に向かって、全身で飛び込んでいった。
*
「燃えてる……」
雨宮と呼ばれていた少女が呟いた時、愕然とする拓海の隣で、柊吾がすっくと立ち上がった。つかつかと流し台に直行して蛇口を捻り、火の粉を散らせる二つの欠片へ、柊吾は手で受けた水をびしゃりとかけた。
じゅっと熱い水蒸気が立ち込める。だが、何も変わらない。熱した鉄に似た灼熱の輝きが、濡れた床で赤々と燃え盛るばかりだった。
「どうなってるんだ、一体……!」
悪態を吐いて床を蹴飛ばす柊吾の傍で、少女は茫然自失といった体で、眼前の怪現象を見下ろしていた。
見れば、指には赤い傷。この輝く鏡に先程触れてしまったらしかった。「大丈夫?」と思わず拓海が声を掛けると、少女はこくんと頷いた。
「……」
二つの欠片が噴き上げる、赤い火の粉――最悪の確信が、拓海の頭から血の気を引かせた。すぐさま、制服のポケットに手を入れた。
――ない。
記憶違いでは絶対にない。ということは、『こちら側』に引き継げなかったということだろう。立ち上がった拓海は、黒板の隣、調理準備室に駆け寄ったが、扉の施錠に阻まれ、立ち尽くす。
あの『鏡』の学校でも、ここには鍵が掛かっていた。振り返れば、七瀬が倒れている床には、鏡の破片やハンカチの他に、調理室の鍵も落ちている。
そこまで確認できれば、もう現物を検める意味はなかった。
この扉の向こうには――マッチ箱がある。
夢では、ないのだ。――夢であれば、よかったのに。
「おい、坂上っ? 何やってるんだ?」
「……三浦。俺、分かったかもしんない」
「? 何がだ」
「なんで、燃えてるのか。……篠田さんは多分、呉野さんと喧嘩してるんだ」
「喧嘩ぁ? 篠田と呉野が?」
「三浦、俺達のいた『鏡』の学校は、『合わせ鏡』なんだよな。それは、ここだったんだ。この燃える欠片で出来た『合わせ鏡』に、俺達はいたんだ」
柊吾が、驚いた顔になる。拓海が状況をある程度把握している事に驚いたのかもしれない。拓海は七瀬達の元へ戻ってくると、二つの破片を見下ろした。
「篠田さんは多分、割れた鏡を燃やしたんだ。でも鏡は燃えないから、周りで何か別のものが燃えてるんだと思う。……鏡を、炎の中に放り込んだんだ。篠田さんは、マッチを、使ったんだと思う」
「……おい! それで何が変わるって言うんだ!」
柊吾も、鬼気迫る表情で鏡を見下ろした。その内に閉じ込めた火炎の強さを表すように、赤い輝きが一層強くなる。
「篠田の奴、鏡を燃やしてどうする気なんだ! 捨てろとは言ったけど燃やせなんて言った覚えはねえぞ! 燃やしたところで、どうにかなるもんでもないだろ!」
「それも、何となく分かる。俺は、『合わせ鏡』の学校自体が、この割れた鏡とリンクしてるんじゃないかって考えてた。その憶測も、篠田さんに話したんだ。だから……あの『鏡』を燃やせば、火の海になる。篠田さんはそう考えて、実際にやったのかもしれない。邪魔してくる呉野さんを、攻撃する為に。……それで合ってると思う」
「おい……それ、捨て身じゃねえかっ!」
頭を抱えた柊吾が、怒りと呆れがない交ぜになった声で呻いた。
「坂上の推測が正しいなら、今あいつらどうなってるんだ! 向こうが火の海なら、呉野だけじゃなくて篠田もヤバいだろ! 火傷じゃ済まないぞ! これ!」
「……。もしかしたら、大丈夫かもしれない」
「? なんでだ?」
「鏡だから。……火を映す、だけだと思う。本体の鏡が燃えたり割れたりしない限りは、火傷とかは……ごめん三浦、やっぱり俺にも分かんない。ごめん」
耐えきれなくなって、拓海はすぐに謝った。何しろこんなにも赤々と熱せられているのだ。たとえ直接的な炎上を免れたとしても、熱伝導は苛烈を極めるだろう。そんな殺人的な熱地獄の中で、人間の身体は、どこまで耐えられるのだろう? ――考えるだけで、怖くなってしまった。
「篠田さん……何やってんだよ……やり過ぎだ……!」
状況が、急激に悪化していた。それは本当に文字通り、火を見るより明らかだ。
確実に、七瀬は鏡を火にくべた。
そして――――戦っているのだ。
脱出と意地、命。己の全てを賭した全力で、あの学校で戦っている。
だが、それはあまりに無謀で、無茶以外の何ものでもなかった。
――七瀬。
勝気そうに笑って拓海を振り返る、篠田七瀬の笑み。眩しい快活さを思い出し、拓海は隣を見下ろした。
表情もなく昏々と眠る、篠田七瀬の白い頬。人形のように動かない七瀬の姿を見た途端、込み上げた切なさに臓腑を引き絞られて、息が苦しくなった。
「生きていてくれ、篠田さん……頼むから……もう、無茶、しないでくれ……!」
強く俯きながら、拓海は声を絞り出す。狭窄する視野の端に入った、燃える二つの欠片を見るうちに――居ても立っても居られなくなり、『炎』を映す鏡へ手を伸ばした。
「そうだ……この欠片で、『合わせ鏡』をすれば……!」
「! 坂上、やめろ! 素手で触んな!」
指が欠片に届く前に、血相を変えた柊吾によって、拓海は羽交い絞めにされた。「離してくれ! 出口が作れるかもしれないんだ!」と叫び返した拓海は、柊吾の腕をがむしゃらに振り解く。
「その方法じゃ無理だ! 出口はないって散々言っただろ! それにイズミさんだって、今さら俺らが『合わせ鏡』をしたところで、篠田の『出口』を用意できないって、言って……!」
「やってみないと、分からないだろっ!」
自分のものとは思えない怒声が、喉から迸った。柊吾の瞼が、驚きで震えたのが分かる。拓海自身も、あまりに直向きに響いた己の声に、はっとした。
こんなにも、切実な情熱が――自分の中にあったなんて、知らなかった。
束の間流れた、沈黙。窓からの赤い斜光の中で、交錯した激情の間を縫うように、「ねえ」と小さな呼び声が聞こえたのは、その時だ。
振り向くと、小柄の少女が、拓海をじっと見つめていた。
「どうして鏡、処分しなかったの?」
「え?」
どきりとする。人形のように坐する少女から話しかけられた驚きもあったが、それ以上に、その台詞に不意を打たれたからだ。
「え、と。どうして、って……なんで?」
「鏡」
す、と少女の視線が床に落ちる。粉々の鏡と、破片に塗れた拓海のハンカチを見下ろしている。
「ハンカチに包んでたってことは、この調理室に来た時にはもう割れてたんでしょう? 割れた時に捨てないで、持って帰ろうとしたの、なんでかなって。ずっと気になってた。……理由、あるの?」
本当に、不意を打たれた気分だった。
……考えてみれば、そうだった。
校舎一階の階段前で、七瀬の鏡が割れた時。呉野氷花が、七瀬の鏡の欠片を持ち去った。あの時七瀬は、それをひどく気にしていた。
割れた鏡。捨てる鏡。七瀬の鏡の残骸は、拓海が回収していなければ、教師が不燃ゴミとして処分しただろう。七瀬の心情を知っているだけに、ゴミと見做すのは気が引ける。だが周りから見れば、用を為さない鏡はやはり処分すべき物だ。
それに、七瀬自身も言っていた。
――坂上くんまで。何気にしてるの? 元々捨てるつもりだったって言ったじゃん。うちで処分する気だったんだから、そんなの気にしないで。
うちで、処分、する気だったんだから。
「……あ」
今。ようやく分かった気がした。
学校での処分を拒み、持ち帰る事へ拘る、その理由が。
――毬。
面識のない少女の名を思い出した時、天啓のように理解が閃き、予想が確信に飛躍した。
「そう言えば妙だな。なんで篠田は、鏡を捨てなかったんだ?」
「葬式」
「は?」
「分かった。葬式だ、三浦!」
「さっぱり分かんねえ」
柊吾は胡乱げに睨んできたが、拓海が「篠田さん、帰って来られるかもしれない」と早口で告げると、色めき立って顔色を変えた。
「鏡を学校で捨てなかったのは、家で処分したかったからだ。塩をかけてから捨てたかったから、学校じゃ駄目だったんだ」
「は? 塩? 鏡に?」
怪訝そうに首を捻る柊吾へ、「お塩をかけて、お浄めをしてから捨てる人もいるんだよ」と隣で少女が囁いた。柊吾が余計に複雑な顔になったので、拓海も「葬式帰りとかにも、塩をかけるとか、あるじゃん。雰囲気はそんな感じ」と補足する。すると少女が、再び拓海を見つめた。
「坂上くん。それは、私達がやってもいい事なの?」
初めて拓海を呼んだ少女に問われ、拓海は言葉に詰まる。少女の言葉の意味が、瞬時に汲み取れたからだ。
「篠田さんの、鏡でしょう? 私達が篠田さんの知らない所で、お塩をかけて、お浄めをしても。篠田さんは、納得できない気がするの」
「でも……っ」
それどころではない。咄嗟にそう言い返しかけたが、出来なかった。辛かったが、少女の言った感情の動きは、拓海にだって分かるのだ。
「お浄めをしてからさよならするのは、その物に対して、ありがとうって感謝を伝える為でしょう?」
少女の言葉が、胸に突き刺さる。残酷なまでに、それは七瀬の台詞と同じだった。
「お世話になったのは自分なのに、そこを人任せにしちゃうこと、複雑だと思う。それなのに私達が勝手にお浄めをしても、気持ちがついて来れないから、このままじゃ帰って来られない気がするの」
「……」
「だから、言ってあげて」
「……え?」
携帯電話が、拓海の目の前に差し出された。
画面に表示された、通話時間は――十五分四十八秒。
まさか。はっとした。
七瀬が通話を終えた、あの時。
通学鞄に携帯を仕舞った、あの時から、ずっと。
「友達がいいよって言ってくれたら、少しだけでも軽くなると思うの。それに、やっぱり嬉しいと思うの。……お願い。説得して。坂上くんにしかできない」
柊吾が驚きの目で、少女の携帯を見下ろしている。すっかり忘れていたのかもしれない。
――そんな様を、視界の端に捉えながら。
拓海は強く頷くと、携帯を受け取って、耳に当てて――友達の名前を呼ぶ為に、すっと息を吸い込んだ。
*
「はあ……はあ……、う……」
足を引き摺って歩く度に、ざらざらと音がした。煤を踏む音だと気づいていたが、もしかしたら粉塵と化した鏡かもしれない。どちらでもよかった。赤黒い世界の中で、区別など無為だった。
歩きたくはなかった。もっと走っていたかった。
だが、それも、ここまでらしい。
からん、とフライパンが、階段の踊り場に落ちる。耳障りな金属音が打ち鳴らされ、聴覚に鋭敏に突き刺さる。くらっとした眩暈に襲われ、剥き出しの肩から通学鞄がずり落ちた。チャックを開けていた所為で、中身がばさばさと雪崩れ落ちていく。
拾わなくちゃ、と緩慢に思ったが、上手くいかない。身体がスローモーションで倒れていき、色とりどりの教科書が階段に撒き散らされるのを目で追いながら、足が段差を踏み外した。
腿の傷に、階段の段差が思いきりぶつかる。その痛みにあっと喘いだ時、身体が数段分落ちていく。強く右腿を擦りつけた痛みで「あ、あ、あっ……」と悲鳴が喉から飛び出して、唇を噛んで無理やり殺した。
落ちる身体を階段にしがみついて引き留めると、なんとか一階と二階の中間辺りで止まれた。右太腿を、布の感触がさらさらと撫でていく。包帯が解けたのだ。傷口が熱いのは痛み故か、この場所全体の熱さ故か、火照った身体ではもう判断できなかった。
ぬるりと、生ぬるい液体が腿を伝う。顔を傾けると、煤と血で酷い色をしたスカートが目に飛び込んできた。傷口が、開いてしまっていた。本当に経血のようだと思うと、情けなくて泣きたくなる。だが、心はそれ以上動かなかった。
ふらりと立ち上がり、のろのろと通学鞄を拾って、肩に提げた。フライパンは拾ったが、教科書は放置した。もう拾っても意味がない気がしたからだ。
階段をゆっくり上がる度、解けた包帯がするする伸びて、右足に絡みつく。このままでは、また転ぶ。直そうと手を伸ばしたら目が霞み、目を擦ろうとした手の平も煤と擦り傷で汚れていて、何も出来ないでいるうちに、今度は足がもつれてしまった。巻き損ねた包帯に、結局足を取られたのだ。
手すりを掴むとか、踏み止まるとか、そんな抵抗ができるほど、体力も精神力も残っていない。ああ、また落ちる、と思っていたら、本当に身体が階段に叩きつけられた。今度は止まれず、下の階まで落ちていく。結構凄い音がした。痛みと音を身体に直接叩き込まれたかのようだった。倒れたまま動けないでいると、高飛車な掠れ声が聞こえてきた。
「……あはははは。無様ね。篠田七瀬」
「……」
七瀬は、うつ伏せの姿勢のまま顔を上げた。セミロングの髪がゆるゆると頬にかかり、片目を隠す。そんな最悪の視界の中央に、校舎一階の姿見を見つけた。
今もまだ熾火のような赤色がじわじわと灯る、煤でくすんだ姿見の向こうに、無様にもこちらと大差ない体勢で頽れる、仇の醜態を見つけた。
「……お互い様でしょ。頭、鳥の巣みたいになってるんだけど。自慢のストレートヘアー、台無しになった気分、聞かせてよ」
「……死ね」
罵倒が返ってきた。厭味で返してくるかと思っていたので、少し拍子抜けだった。だが、これで良かったのかもしれない。口喧嘩を無闇に繰り返したところで、互いの体力が削れるだけだ。
氷花の姿は、こちらに負けず劣らず酷いものだった。セーラー服はいつの間にか消えていて、白いキャミソールとスカートだけになっている。靴下は履いていたが、煤で汚れて真っ黒だ。素肌も同様に煤まみれで、完全に白いままの場所はほとんど残っていなかった。長髪も激しく乱れていて、表情は全く窺えない。まるで有名なホラー映画のようだと思うと、少しだけ笑えてきた。忍び笑いが聞こえたのか、「死ね……」と呪詛が返ってくる。相変わらずの小物っぷりだ。七瀬は笑いを収めると、皮肉を込めて氷花に言った。
「……最悪。呉野さん、制服どうしたの? 下着を見せられても、全然嬉しくないんだけど。あれだけ強がってたくせに、脱いだわけ……?」
「……こっちの台詞よ。似たような格好してるくせに……篠田さん、パンツ見えてるわよ。本当に最悪だわ。引っ張って隠しなさいよ……はしたない……」
「頭が爆発してる人に言われたくない……大体、先にパンツ見せたの、そっちでしょ……知ってるんだから。保健室で、スカート捲って逃げたっていうの……」
結局、ねちねちした口喧嘩になった。互いに物言いがあけすけだが、拓海はいないのだから別にいいか、と思う。一応指摘を受けた七瀬がスカートを引っ張ると、氷花も髪の指摘が余程ショックだったのか、こそこそと乱れた髪に手櫛を入れて直している。
互いに、動きは酷く緩慢だった。会話が途絶えると、おおん……と唸る風の音が、鼓膜を不気味に震わせていく。身体をつけた床が、微かに振動した気がした。世界が、揺れているのだろうか。気にはなったが、どうでもよかった。どの道、炎は自然な鎮火を迎えている。熱さは依然として『学校』を蝕んでいたが、先程よりは遙かにマシだ。
「ねえ、呉野さん……お兄さんが、いるの?」
何とはなしに、七瀬は訊く。氷花が、「いるわ」とあっさり答えた。
返事を期待していなかった七瀬は驚いたが、「でも、嫌いよ」と氷花が続けたので、もっと驚いた。
「私、兄さんが大嫌いなの。殺してしまいたいくらい。いいえ、殺したいの……でも、殺せないのよね。どうして、かしら」
「……家族だから、じゃないの?」
「家族」
せせら笑う声が返ってきた。むっとしたが、感情を返すのも億劫なので、七瀬は黙る。氷花も笑うのが体力的に辛かったと見えて、すぐに笑い声は萎んでいった。
「……いつか、私は兄さんを殺すわ。それが、私の夢なのよ……」
「どうして、そんなに……憎むことが、できるの」
七瀬は、夢うつつの意識を懸命に繋ぎ止め、訊いた。その感情は、七瀬には理解できないものだったからだ。
だが、訊く前から、訊いてはいけない質問だと分かっていた。
理解してはいけない感情の、存在。それを、感覚的に理解していたのだ。そんな不穏なものを嗅ぎ取っていながら訊いてしまった七瀬は、やはり意識が朦朧としていたのだろう。ぼんやりと、そう理由付けた。
「そんなの……決まってるじゃない」
氷花が、気怠く、そして馬鹿にするように言う。
「許せない、から」
「……何が?」
「ぜんぶ」
氷花の声が、沈んでいく。
「……兄さんは、嘘つきなのよ。本当に、嘘ばかり。あの人の魂は、きっと欠けているんだわ。おかしいもの。優しすぎて……『愛』なわけ、ないわ。あんなの、『拒絶』の間違いよ。人が好きだって言いながら、同じ口で、人を拒絶しているのよ。……だから、許せないのよ。私、あんな人、知らないもの。……大嫌いよ。あんな人。お兄様では、ないんだわ……」
「……くれのさん」
七瀬は、呼ぶ。今の言葉で少しだけ、目が覚めた気がしたのだ。
「それ、あんた、お兄さんのこと、好きなんじゃないの?」
「寝言は、寝て言いなさいな。篠田七瀬。……滑稽だわ」
氷花が、笑う。顔は見えなかったが、言葉は笑みを含んでいた。
「……『愛』なんて、知らないわ。『憎しみ』があってこそよ、兄さん……あなた、やっぱり、人でなし」
言葉が、ぷつんと、そこで途切れた。
「……呉野さん……?」
怪訝に思って呼びかけると、氷花の手から、くたりと力が抜けていた。眠っているのか、体力が尽きて気絶したのか。ともかく、意識がないらしい。
「……」
七瀬は、よろよろと立ち上がる。皮膚に擦れる通学鞄の肩紐を掛け直して、ふらふらと歩き、姿見の前に立った。
考えてみれば今まで、氷花側に立つ事だけは、一度もしてこなかった。そんな風にふと気づいたが、今なら特に、抵抗はなかった。姿見の銀色の淵をすっと跨ぐと、鏡面は七瀬の身体を受け入れて、すんなりと向こう側へ着地させた。そうして七瀬は、ついに氷花の前に立つ。
氷花は、目を閉じていた。すう、すう、と規則的に胸元が上下している。これで髪がぼさぼさに爆発していなければ妖艶と言えたかもしれないが、煤まみれなのでどの道厳しかっただろう。七瀬は呆れながら、眠る氷花を見下ろした。
全ての元凶と思しき、悪意の申し子。こんなにもぼろぼろの姿に身を窶して尚、脱出の糸口やこの世界について、何の知識も得られなかった仇の姿。
七瀬は屈み込むと、氷花のスカートに触れた。ポケットに入った鋭利な物質は、この場所の熱気が嘘のように冷たい。この破片は炎上とは関係がなかったのだから、当たり前といえば当たり前かもしれない。
七瀬はそれを手中に収め、氷花のポケットから引き抜いた。
「……さよなら、呉野さん。学校で会ったら許さない」
呟いた七瀬は、立ち上がる。そして誰もいなくなった姿見前から離れると、次の鏡を求めて二階を目指し、不自由な歩行を再開させた。
恨みが、潰えたわけではない。むしろまだ、収まりきらない。
だが、この辺りが潮時だ。引き際を誤れば、七瀬も氷花と同じになる。本当はあんな復讐さえ、きっとすべきではなかったのだ。
だから、今。七瀬がこんな姿で学校を彷徨い歩くのは、当然の帰結なのだろう。人を呪わば穴二つ。憎悪に憎悪で対抗すれば、無事では済まないという先人の教えを、道場の師範からいくつか聞いたことがある。師範の事を思い出すと、ふと、毬の顔を思い出した。
今は、一体何時だろう。六時間目が終わってから、三十分は確実に経っている。四時半を過ぎくらいだろうか。
だとしたら、五時の待ち合わせには、何とかぎりぎりで、まだ間に合う。そんな風に、考えた時――ブラとスカートだけを身に着けて、ほつれた髪を風に流した自分の姿が目に入り、七瀬は掠れた声で笑った。こんな格好になってもまだ、毬と会う事を諦めていない。そんな自分が、少し可笑しかったのだ。
こんな窮状を知られたら、きっと心配されてしまう。毬は優しいから、泣いてしまうかもしれない。七瀬の怪我を自分の怪我のように受け止めて、傷ついてしまうだろう。そんな顔は、させたくなかった。
会いたかったが、会ってはいけない。こんな姿では、もう会えない。
「……毬、ごめんね。待ちぼうけ、させたくなかったのに……わたし、今日は……会いに、いけない……ごめん、ね……」
足が、またもつれた。倒れないようにしたかったが、やっぱり駄目だった。
壁に、身体がぶつかる。ぶつかった身体がよろけて、階段の中ほどから階下に向かって、傾いでいく。いい加減に、身体をぶつけ過ぎて死ぬ気がした。だが、それでもいい気がした。
ここで、終わるなら。もう、終わりでいいと思った。
――葉月。
綱田毬に似た、顔が過る。
怒りが湧くかと思った。情愛が湧くかと思った。
だが、違った。どちらも、違った。
別の顔を、思い出していたからだ。
「……。坂上くん。……ごめんなさい」
ぽつんと、それだけを言い残して――落下に身を任せた七瀬が、目を閉じた時だった。
――――。
何かが、聞こえた。
その音を声だと認識した瞬間、はっと目が開いた。反射的に手すりへ手を伸ばし、ニスの塗られた木製の表面をがりりと引っ掻き、何とか掴む。通学鞄が肩から抜けて、踏み止まった七瀬の代わりに、大仰な音を響かせながら、階下へ転がり落ちて弾んでいく。中に入れていた物が一つ、青白い流星のように飛び出した。
「あ……」
――忘れて、いた。
橙色の陽炎が、足元でまだ燻っている。赤と黒と橙でぐちゃぐちゃになった校舎風景の一階で、別の色彩が光っていた。
ひんやりと無機質な電子機器の放つ光は、一階の姿見の傍に落ちている。
青白い光を、焔のように灯した――携帯の液晶。
通話、切らないで。そんな、自分の言葉を、思い出す。
接続の残った携帯へ、七瀬は誘われるように、ふらふら歩いた。
感情は、分からなかった。何を思い、何を感じ、何の為に動いているのか、もう、七瀬には、よく分からなかった。疲れ過ぎたのかもしれない。とにかく、眠りたかった。氷花の後を追うように。
だが、多分、まだ駄目だ。今眠ってしまったら、七瀬は本当に帰れなくなる。何となく、そんな気がするのだ。
ああ、と思う。まだ、諦めていないのだ。この期に及んで、まだ。
一歩、一歩、階段を下りる。もっと早く、話せばよかった。それを後悔だとまでは思わないが、少しだけ申し訳なかった。必死過ぎて、忘れていた。自分で全て、何とかできるとでも、七瀬は思っていたのだろうか。とんだ思い上がりだった。相手も多分、携帯の向こうで、同じことを思っている。
怒られるかな、と。ぼんやり思う。この人でも、怒るだろうか。
それでもいいや、と。やっぱりぼんやり思う。
声が、聴ける。それだけで、もう、何も、望まなかった。
階段の最後の一段を下り切ると、膝から力が抜けた。身体を支える糸が切れたように、七瀬は倒れる。携帯の灯りが、投げ出した指先で光っていた。声が、微かに、聞こえてくる。
ノイズが、酷い。けれど、声で分かった。手を伸ばして、やっとの思いで手繰り寄せた携帯を、耳に宛がう。
そして、相手が何かを言うより先に、七瀬は言った。
「坂上くん」
電話の向こうが、一瞬沈黙する。
すると『篠田さんは、馬鹿だ!』と、泣き出しそうな声で叫ばれてしまった。
坂上拓海から、そんな罵声を聞かされるとは、さすがに思ってもみなかった。「ごめんね」と七瀬が謝ると、相手はまた、黙ってしまう。吸い込む息遣いが、微かに聞こえた。もっと怒らせてしまったのだろうか。それとも、泣いてくれているのだろうか。そんな呼吸まで、何だか愛しい気がした。愛しいと思った自分に、七瀬はとてもびっくりした。
『身体はっ? 火傷してない? 怪我はっ……』
「どうして……分かるの? ……坂上くん、すごいね」
『答えてくれ!』
怒鳴られてしまった。
「……。動けない。ごめんなさい」
『……篠田さんは、馬鹿だ』
もう一度、拓海が言う。声が、震えていた。怒鳴る声も、張りつめた感情で震える声も、初めて耳にする声だった。七瀬の知らない坂上拓海が、鏡を隔ててそこにいる。それを何故嬉しいと思うのか、七瀬はもう、知っている。
『篠田さん、何やらかしたかは大体分かってる。何で、こんな無茶するんだ』
「……ごめんね」
七瀬は、笑う。耳からずり落ちそうになる携帯を必死に支え、床につけた煤だらけの頬に涙を伝わせながら、それでも笑ってしまった。
何だか、もう、死んでしまってもいい気がした。
「……坂上くん。私、今、幸せかもしれない」
『何、言ってるんだよ……何、言ってるんだよ!』
「……うん、そうだよね。……ごめん」
『……』
電話の向こうは、いよいよ沈黙してしまった。
「ねえ。……何か、話してよ。なんでも、いいから」
『……俺が、やるから』
「……え?」
『鏡。一之瀬さんと、篠田さんの友達が言ってた、塩をかけて、捨てるって話。俺が、やるから。こっちで、俺が、ちゃんとやるから。篠田さんの代わりに、俺がやるから……帰って、きてほしい』
「こっち? ……そっちに、鏡、あるの」
『ある。だから、安心していいんだ。人がやるから駄目とか、そういうの、気にしなくていいんだ。篠田さんの分まで、俺がやる。だから』
「坂上くん」
『何?』
「……帰り方、分からない」
『……』
「どうしたら、帰れるんだろ。三浦くんが、教えて、くれたのに。……ごめんね。捨てたけど、駄目だった。坂上くんの時も、呉野さんの時も、帰れるのに、私だけは、駄目みたい。……分からなくて、ごめん。どうしたらいいのか、分からない」
『……』
「……でも、帰りたい。帰りたいって、ちゃんと、思ってる」
『……帰って、きてくれ。お願いだから。……嫌なんだ! こんなの! 頼むから!』
「……ごめんね。優しい坂上くんに、そんな風に、いわせて」
『……』
「私……坂上くんのこと、好きになったのかもしれない」
息を呑むような声が、聞こえた。その声を記憶に刻んで、七瀬は言った。
「お返事、きかせて。嘘でも、いい、から……」
煤で汚れた、手が滑った。かつん――と硬質の音が響き渡り、涼やかなエコーに消されない大声で『篠田さん!』と強く拓海に呼ばれて、ああ、やっぱり、もう死んでもいいや、と。またしてもそんな風に思ってしまった。
「鏡、ありがとう。……任せる、から」
視界が、暗くなっていく。意識の緞帳が、下りていく。本当に死ぬかもしれないと、漠然と思った。あれだけ生きたいと切望したのに、不思議なものだと思う。今が幸せだから、麻痺してしまったのかもしれない。
少し、眠ろう。起きた時に、拓海が傍にいてくれたらいい。
そんな夢を、見られたなら……もう、それで十分だった。
闇色に呑まれていく世界の隅で、幽かに光る、火焔色をした姿見へ、小さな願いをかけながら――七瀬は静かに、目を閉じた。




