鏡よ鏡 10
「信じらんない!」
七瀬は悲鳴のように罵倒の言葉を叫びながら、フライパンと鏡を抱えて走った。並走する拓海も顔色が悪く、七瀬と心は同じに違いなかった。
「わけ分かんない! 何なの、呉野さんって! 変態? 変態なのっ? 普通男子トイレまで追ってくる? 最低! 最悪! 気持ち悪いっ!」
「何でもいいけど……っ、とりあえず、逃げよう! ……次っ!」
廊下を突っ切って階段に向かい、踊り場を目指して駆け下りた。窓からの斜光で茜色にけぶる姿見目掛けて、七瀬は飛び込むようにぶつかった。
普通ならば、手ひどく全身をぶつけて怪我をしただろう。だが鏡は七瀬の全身を呑み込んで、同じ学校風景に着地させた。ぶわりと風が全身を叩き、結った巻き髪が頬の左側で踊る。
もう何度目か分からない変化だった。容姿が何回反転したのか、七瀬は数えるのをやめていた。狭間を行き来する途中で窓や昇降口を調べても、結果は全て同じだった。『外』への扉は頑なに、七瀬と拓海を拒絶する。
開かない扉を前にして、策を考える隙もないままに――鏡に映る少女の笑顔が、七瀬と拓海の退路を閉ざす。
がしゃん! と一際大きな音が、階下から聞こえてきた。
「! 坂上くん、まだ近くにいる!」
「行こう、次! ……考えるから! 今はとにかく、呉野さんから逃げるんだ!」
「うん!」
七瀬は手荷物を抱え直し、階段の上を見据える。拓海も一つ頷いて、氷花から距離を取るように階段を一段飛ばしで駆け上がった。
階段の各踊り場に、点々と設置された大きな鏡。異界への入り口のような鏡面へ今度は拓海から飛び込んで、すぐに七瀬も後を追う。とん、と着地したその場所で、左右がまた入れ替わる。指と太腿の包帯が、右側へと移動する。
「これって私達、同じ場所を行ったり来たりしてるの……っ?」
「多分、違う!」
膝に片手をついて身体を折った拓海が、踊り場から一階の姿見を見下ろした。
「俺も、最初はそう思ったんだ。でも、おかしいんだ。それじゃ辻褄が合わない! さっき、呉野さんが割った鏡……一階と、トイレと、あと、他にも。全部、俺達が違う鏡を通った時には、元通りになってる!」
確かに、氷花が叩き割ったはずの姿見は、罅一つなく壁に収まっている。拓海の言葉の正しさが、そこに証明されていた。
「俺達が移動した場所は、やっぱり違う学校なんだ。同じ学校には、一度も戻ってない。……六つとも、違う学校なんだ!」
七瀬と違って、拓海は数えていたらしい。拓海は姿見の脇にある窓の鍵に手を掛けると、びくともしないのを確認してから、落胆を見せずに階段を下り始めた。
「篠田さん、こっちだ! 一か八か、試したいことがあるんだ!」
拓海の呼吸は、息つく暇もない逃亡の所為で苦しげだったが、瞳には冷静で理知的な光が宿っていた。氷花から逃げ延びる間、必死に頭を回転させていたのだ。そんな同級生の横顔を見て、七瀬は胸が詰まった。
拓海は、諦めていないのだ。現実とは思えないこの非常事態の只中で、揺るがずに知恵を絞り、懸命に戦っている。
励まされたような気がした。そして同時に、持ち前の負けん気を刺激された。
――こんな所で、氷花の悪意に屈するわけにはいかないのだ。
「坂上くんっ、どこに行くのっ?」
「職員室の隣! 茶道部の部室の、畳の部屋! あそこは、運動部の夏の合宿でも使われるらしいから、多分、あれがあるはず……!」
一階に到着した二人は、教員兼来客者用トイレの傍を横切って、夕陽の明かりが届かない廊下の薄暗がりを駆け抜けた。こんなにも全力で廊下を走るなんて初めてだ。教師が見れば泡を食うに違いない。
拓海はまず職員室の扉を開け放つと、壁に鈴なりにぶら下がる鍵の中から一つを掴み取った。がらんどうの室内に背を向けて、職員室と突き当りの壁に挟まれた扉を開錠してなだれ込むと、窓からの眩い西日に出迎えられた。拓海は六畳一間の和室には目もくれず、部屋に入ってすぐ左の扉へ飛び込んでいく。
「何して……あっ」
後を追った七瀬が踏み込んだ場所は、小さなシャワールームだった。姿見の半分程度の大きさの鏡と、壁に据え付けられたシャワーが一つだけある。学校にこんな空間があるなんて知らなかった七瀬は驚いたが、拓海がシャワーでタイルの床に水を撒き始めたので、もっと驚いた。
「篠田さん、今入ってきた扉は全開にして。向こうの窓の日差しが入るように」
「坂上くん、もしかして……『鏡』を、作ろうとしてるのっ?」
ざあああ……とシャワーの筋が、灰色のタイルを暗く染めていく。遠くの窓から零れる日差しが、波紋で忙しなく揺らめく水面に、茜の輝きを与えていた。
「もしこの方法で、移動が出来るなら。最悪、呉野さんに鏡を全部割られても、次の『学校』への道は残る! まずは、俺が試してみて……」
「ううん。試すなら、私も一緒に行く!」
七瀬は荷物一式を抱え直し、拓海が投げ出していた通学鞄も代わりに持つと、水を打つ拓海の隣に並んだ。
「どこにいたって、危険なのは変わらないよ。だったら、一緒に行こう!」
「……分かった」
拓海は覚悟を決めた顔で、カランを捻って水を止めた。排水溝で渦を作る透明な水溜まりが、狭いシャワールームに立つ七瀬達の姿を映し出す。
「どこかに落ちるかもしれないから、俺に掴まって。せーので行こう!」
「うん! せーの!」
荷物を受け取った拓海の腕を掴み、七瀬達は合図と同時に、即興の水鏡へ飛び込んだが――この試みは、成功しなかった。
ばしゃん、と派手な音を立てて、水飛沫が上がる。タイルに着地した両足に、冷えた水がうっすら染みた。二人の制服と手元もしたたか濡れて――急激に体感温度が下がった気がして、七瀬はびっくりして少しよろけた。
「ひゃっ……何っ?」
「っ……『偽物』の鏡じゃ駄目か。でも、今のは一体……。ごめん、時間をロスした。とにかく、今は移動しよう!」
拓海に導かれてシャワールームの鏡のトンネルをくぐり抜けると、からりと乾いた同じ部屋に降り立った。「階段に戻ろう! あそこが一番、鏡が多い!」と叫ぶ声に、七瀬も「うん!」と応えて、もう一度二人で廊下を駆け抜けた。
「篠田さん。俺、分かったかもしんない」
教員兼来客者用トイレを通り過ぎ、階段前の姿見まで戻ったところで、拓海が言った。そして緊張でやや強張った顔で、学校風景を一望した。
「ここは、やっぱり『鏡』だ」
「でもそれって、さっきも言ってなかった?」
「ううん、違うんだ。さっきも言ったけど、少し、違う。単純に『鏡』の中の世界、っていうより、ここ自体が『鏡』っていう物質そのものなんだと思う」
「ん……?」
首を傾げていると、「それ」と拓海は言って、七瀬の持つハンカチを指さした。
「あの調理室で、鏡ってこれしかなかったじゃん。俺は、やっぱりこれがきっかけなんじゃないかって、考えてるんだ」
「それって……でも、やっぱり通れないよ。この鏡から入るなんて、無理だよ」
「出来るか出来ないかとかじゃ、ないんだと思う。篠田さん、俺、今からめちゃくちゃ変なこと言うけど、笑わないで聞いてくれる?」
愁眉を開いた拓海は、躊躇いを振り切るように微笑んだ。
「俺はこの場所を『鏡』かもしれないって言った。でも多分、それだけじゃないんだ。鏡は鏡でも、ただの鏡じゃないと思う」
「ただの鏡じゃない? どういうこと?」
「だって篠田さんの左右が、鏡を越える度に変わるから」
現在は左側で結われた七瀬の髪を、拓海は手の平で示した。
「容姿の左右が入れ替わっても、『外』に出られないって制約は変わらない。でも割れた鏡が復元してるから、前にいた場所と同じって考え方もおかしい。別の新しい『学校』に移動していってるのは間違いないのに、篠田さんの左右だけが、移動の度に変わってる……多分、どこまで行っても、この光景は変わらないんだ。俺達は、その鏡からここに来て、その入り口から、遠い所にいるんだと思う」
「分からないよ……! それって、何! どうなってるの!」
「合わせ鏡」
「え?」
思わぬ言葉に驚く七瀬へ、「合わせ鏡だと思う」と拓海はしゃがれた声で、同じ結論を繰り返した。
「そう考えたら、辻褄が合うんだ。左右が入れ替わる事も。どこまで行っても『鏡』だって事も。合わせ鏡をしたら、まず一つ目に自分の顔が映って、次は後ろ姿が映る。その組み合わせが、どこまでも広がっていく……篠田さん、呉野さんに言われたんだよな? 『合わせ鏡』って。それが鍵なんじゃないかって考えたんだ」
言われて、はっとした。
――『合わせ鏡』
篠田七瀬は、鏡が怖い。それを前提にして、出鱈目にぶつけられた言葉の一つ。他愛のない怪談。呉野氷花の悪意。一之瀬葉月との会話の記憶。
そして――その言葉を突き付けられた瞬間に、身体を巡った、あの怖気。
「……そんなのって……!」
七瀬は、頭を振って叫んだ。拓海の言葉は、理性的とは到底言い難い世迷言だ。これほどの非現実を突き付けられて尚、現実を盾にして理解を拒絶したくなる。もし拓海の推測が当たりなら、七瀬達はとんでもない場所へ迷い込んだ事になる。
鏡の中に。それも、合わせ鏡の中に――鏡の無限ループの中に、閉じ込められた事になる。
それに、まだ謎は残っていた。一体何が、こんな事態を引き起こしたというのだろう。拓海の推理は結果を言い当てたかもしれないが、原因は不明のままだ。
「俺にだって分かんないけど、でもこれで合ってると思う。呉野さんが何かしたのと、あとは篠田さんの鏡がきっかけで、俺達はここにいるんだ。あの時、篠田さんの鏡で『合わせ鏡』ができたのかもしれない。俺達が今いる場所は『合わせ鏡』の中で……この場所と、この鏡の破片って、多分だけどリンクしてるんだ」
「ちょっと、やだ……でも、根拠は?」
「根拠も、さっき一つ見つけられた。篠田さん、シャワールームで『鏡』を作ろうとした時に、少しだけひやっとした感じがしなかった? 跳ねた水が、そのハンカチに掠ったからだって考えたら、筋が通る」
「あ……ほんとだ」
薄いブルーのハンカチは、隅の方だけ濃い青色に湿っている。水の冷たさを精緻に映したのだとしたら、あの現象にも納得できる。
だが、七瀬の割れた鏡が――この学校という『鏡』とリンクしていることが分かっても、脱出の糸口は見つからない。
「俺達は、きっと……ここのどこかに、いるんだ。篠田さんの鏡の、どこかに」
「じゃあ、どうしたらいいの……どうしたら、私達帰れるの」
七瀬は、唇をきつく噛みしめる。
悔しかった。理不尽だった。七瀬の世界は今朝までは普通だったのだ。友人間でのトラブルを抱えてはいたものの、最早そんなものは些事だった。放課後に、毬と会う。それを心からの楽しみと支えにしながら、胸を弾ませて登校した学校で、まさか得体のしれない場所に幽閉されて、出口の所在さえ分からない怪現象に巻き込まれるなど、予想だにしなかった。
こうしている間にも、二人の元へ氷花の魔の手が迫っている。異常事態を引き起こした張本人と思しき少女が、学校の形を取った鏡の閉鎖空間へ、今まさに七瀬と拓海を生き埋めにしようと奔走している。七瀬は、拳を強く握り込んだ。左手に場所を変えた切り傷が、鈍い痛みで疼くほどに。
我慢ならなかった。少なくとも七瀬は氷花の怨恨を買った覚えはないのだ。にもかかわらず氷花は一方的な悪意を振り撒き、七瀬のみならず拓海も巻き込み、二人の窮状を嗤っている。標的がたとえ自分一人でも許せないのは同じだが、迷惑を被ったのは二人なのだ。そうなれば俄然、怒りも二人分湧いてくる。七瀬はフライパンの柄を握り直し、氷花の悪意の具現であるかのような無人の学校風景を、仇のように睨み据えた。
「……脱出、するんだから。呉野さんの思い通りになんて、させないんだから!」
震える声を絞り出すと、拓海の目に、ふ、と穏やかな優しさが灯る。そして「うん、出よう」と七瀬を労わるように、朗らかな声音で言った。
「移動を続けよう。入り口があったんだ。出口だって、きっとどこかにあると思う。呉野さんがなんで俺らの邪魔をするのか分かんないけど、逃げ切らないと」
「私達の邪魔をするのは、あの子が変態だからでしょ」
反射で噛みついた七瀬は、拓海の腕をぐいと引いた。
「帰ろう。坂上くん。絶対、一緒に帰るんだから!」
「うん。行こう!」
拓海が決然と言い放ち、今まさに二人で姿見へ飛び込もうと、足を踏み出した時――その音は、聞こえた。
「……?」
小さな音だった。だが、静かな校舎だからこそ、簡単に知覚できる音だった。
ぶぶぶ……と微かな振動が、通学鞄の生地越しに、七瀬の脇腹に伝わってくる。
これは、マナーモードにした携帯の音だ。
携帯……携帯?
「携帯!」
叫んだ七瀬は、しゃがみ込むなり荷物を全て床に下ろした。「へっ? えっ? 携帯っ?」と不意を衝かれた顔になる拓海を尻目に、もどかしい手つきで通学鞄のポケットを弄った。
携帯の振動は、今も切れずに続いている。この長さは、メールではないだろう。
電話だ。今、この瞬間に、誰かが――七瀬の携帯に、電話をかけている。
考えてみればこの時まで、携帯の存在など忘れていた。怪我の反転や鏡による怪異のインパクトが凄まじく、すっかり失念していたのだ。まともな判断力の欠落を思い知らされたが、反省は後回しだ。七瀬は探り当てた携帯を取り出した。
「篠田さん、携帯持ってたんだ……ごめん、失念してた」
「そんなの、今はいいからっ」
忘れていた事に対する申し訳なさや引け目も手伝って荒っぽい言い方になってしまったが、とにかく今は携帯だ。しかし、携帯を見下ろした七瀬は、画面に表示された発信者番号を見て、驚くことになる。
「? あれっ?」
知らない番号だった。首を捻っている間にも、携帯は震え続けている。既に相当待たせているはずなのに、切れる気配は全くない。悪戯ならばそのうち諦めるだろうが、これは明らかに篠田七瀬を待っている。
出るべきか、少し迷った。だがたとえ悪戯電話であったとしても、これはようやく得られた外部との接点だ。脱出の糸口になるのなら、と不安を振り切った七瀬は、筐体を耳に当てた。
「もしも」
『篠田か!』
大きな声が、鼓膜を貫いた。
「ひゃあ!」
悲鳴を上げて耳から携帯を離すと、『あ、悪りぃ』と焦った様子で声量を絞る少年の声が聞こえてきた。そうなって初めて、七瀬はこの声に聞き覚えがある事に気づく。思わず、弾かれたように拓海を見た。
――まさか。
信じられなかった。連絡先は交換していない。けれど、現実的な疑問などどうでもいい。それでも咄嗟には言葉が何も出て来ず、唇が少し震えてしまった。
「篠田さん、どうしたんだ?」
只事ではないと思ったのか、拓海の表情が気遣わしげなものになる。そんな拓海にも聞こえるように、七瀬は携帯に叫んだ。
「もしかして……三浦くん? 三浦くんなのっ!?」
拓海の目が、見開かれた。緊張と驚きと強い安堵が、瞳の奥で揺れている。七瀬と同じなのだ。胸に迫った感情が、声の邪魔をして言葉にならない。
「三浦?」と拓海が訊くのとほぼ同時に、『ああ』と携帯の向こうで、少年の声が――三浦柊吾の声が、朴訥な返事を寄越してきた。
『三浦だ。お前は、本当に……篠田なんだな……?』
「三浦くん……嘘……っ、よかった……!」
目頭が少し熱くなり、込み上げた感情を堪えるように七瀬は言った。この学校の『外』にいるであろう人間と、初めて連絡がついたのだ。押し寄せた安堵で、胸が潰れてしまいそうだった。拓海もその場に屈み込み、「よかった……」と泣き笑いのような顔で呟いている。
『……』
だが電話の向こうの声は、七瀬や拓海と同じように喜んではくれなかった。
それどころか、柊吾が次に絞り出した声は、かなり硬いものだった。
『篠田。手短に話してほしい。そっちは今どういう状況だ? 連絡がついたってことは、どこかにはいるんだよな? 何が見える? どこにいる? 坂上は一緒か!? 呉野の阿呆とは、ちゃんと距離を置いてるんだろうな!』
「え? え、っと……」
矢継早な言葉に面食らい、七瀬は言葉に詰まってしまう。
そもそも七瀬には、柊吾が何故こんなにも焦って連絡をつけてくれたのか、理由が全く分からないのだ。こちらは状況が状況だったので一方的に喜んだが、柊吾が七瀬達と同じ類の危機感を持っているというのは、何だか少し変だった。
とはいえ、さすがにその話ぶりから察するものがあった。
「もしかして……三浦くん、知ってるの? こっちが大変なことになってるの」
『知ってる!』
即座に荒げた声が返ってきた。かと思えば、『あ、悪い。気をつける』などと言って声をぼそぼそと小さくするので、ますます状況が怪しい。七瀬はリアクションに困ってしまった。
「三浦、どうしたんだ? なんて言ってんの?」
こちらの様子を怪訝に思ったのか、拓海がおずおずと訊いてくる。
「うん、三浦くん、なんでか分かんないけど、私達が危ないの、知ってるみたいで……」
『それだけじゃない。脱出方法も教えてやれる』
「え? ……えぇっ? 待って、三浦くん。私達が閉じ込められてるの、分かってるのっ?」
『ああ。分かってる。でもお前らの状況が分かんなかったら、どうアドバイスしたらいいのか分かんねえ! そっちの状況、どうなってるんだ!』
「……分かった。話す」
なぜ柊吾が事情に通じているのかは気になるが、それは無事に帰還が叶った後で訊けばいい。相手が信頼に足るパーソナリティを持っている事くらいは、柊吾との短い会話からでも分かるのだ。七瀬は電話で繋がった他校の少年へ、息せき切って言葉をぶつけた。
「三浦くん、私達、学校に閉じ込められてるの!」
『学校っ?』
柊吾の声が上ずる。七瀬は「学校! 私達の中学にいる!」と繰り返した。
「でも、誰もいないの! 私と坂上くんと、呉野さん以外誰もいない! それに、変なの! 学校から外に出られないの。さっきから、ずっと!」
説明する七瀬を見守る拓海は、電話の相手が本当に柊吾だと分かってほっとした様子だったが、しきりに周囲を気にし始めた。氷花の妨害を気にかけてくれているのだ。七瀬は拓海へ頷いて見せると、心置きなく柊吾との会話に没頭した。
「階段の姿見とか、鏡がある場所を通り抜けて移動はできるんだけど、どこまで移動しても別の学校に繋がるばっかりで、学校から脱出できないの! それに、呉野さんがさっきから、私達の移動を邪魔してくる!」
『移動を邪魔ぁ? あいつ、何してるんだ!』
「学校の鏡を叩き割って回ってるの! 割れた鏡は通る事ができなくなるみたいで、逃げ続けないと私達、移動もできなくなっちゃう! このままじゃ、学校に閉じ込められちゃうの!」
『篠田。呉野が篠田と坂上の邪魔をしてくるのは、あいつが最低最悪の愉快犯で、阿呆で、変態だからだ。あいつの奇行に理由はないから、そこは気にしなくていいと思う』
柊吾が突然、真面目くさってそう言った。奇しくも同じ感想を抱いていた七瀬は親近感を覚えたが、次に柊吾の放った台詞の所為で、そんな感慨は消し飛んだ。
『あと、お前らが閉じ込められてるっていう学校。それ、『合わせ鏡』だ』
「あ、合わせ鏡っ?」
どきりとする。復唱する七瀬の言葉を拾った拓海が、顔色を変えた。
「もしかして、俺の予想って当たり?」
「……かもしんない」
七瀬が言うと、『篠田、聞いてくれ』と、柊吾が淡々と言った。
『今から、脱出の方法を言う』
「脱出……できるの!?」
『できる!』
力強い声が返ってきた。打てば響くような言葉の迷いの無さに、七瀬は放心してしまう。期待なのか、恐れなのか、期待をかけるのが恐ろしいのか、逸る鼓動を止められない。閉鎖空間の裂け目を、ようやく見つけられた気がした。拓海も、固唾を呑んで成り行きを見守っている。
「っていうか、何で、三浦くんが知って……、ううん、教えて! お願い!」
『……篠田、鏡は持ってるか?』
「鏡? ……あるけど、それって、割れたやつのこと?」
『それ、捨ててくれ』
「え?」
『捨てるんだ、篠田! 頼む!』
言われた言葉が、分からなかった。言われた瞬間に呆けて、次の瞬間には理解が及び、だが結局何も分からない。七瀬には、柊吾の言葉が分からなかった。
そんな七瀬へ畳み掛けるように、『捨てれば終わるんだ、篠田!』と柊吾が電話越しに繰り返す。気の所為か、労りの混じる声で。焦りながらも諭すように。それでいて強く、柊吾が言う。
『篠田と坂上が今いる場所は、『合わせ鏡』だ。俺も憶測しか言えねえけど、学校が鏡の扉で連なってるのは、本当の『合わせ鏡』をした時に、いくつも自分が映る現象みたいなもんだと思う。……けど! 脱出は簡単なんだ。篠田の鏡を捨てるだけで、お前ら全員帰れるはずだ!』
「な、なんで……もう、割れちゃってるし、言われなくても捨てるつもりだったよ? なんで……!」
七瀬は混乱し、携帯を耳に当てたまま狼狽える。「篠田さん?」と拓海が七瀬の異変に気づいたのか、怪訝そうに、そして心配そうに七瀬を気遣った。思考回路がショートしかけて返事ができないでいる七瀬に、電話の声は静かに告げた。
『……悪いと思ってる。お前が、鏡を大事にしてたってこと、俺、知ってる。聞いたんだ』
「え?」
何? どうして? ……誰に? 疑問が次々と湧いたが、『でも、頼む』と真摯な懇願が耳朶を打ち、七瀬は口を挟めない。
『篠田が持ってる鏡は、多分、お前らが閉じ込められてる『合わせ鏡』と関係があるんだ。俺にも、上手くは言えねえけど、繋がってるんだと思う。っていうか、篠田の鏡がないと、その場所は成り立たないんだ』
「それと脱出と、どう関係するの……っ?」
『だから、捨てるだけでいいんだ!』
もどかしさを隠そうともしない声が、七瀬を揺さぶった。
『――『この鏡は、自分の持ち物じゃない』。そんな風に思うだけでいい! 自分の『所有物』じゃない、違うって事を意識するだけでいい。それだけでお前ら全員、こっちに帰って来られるはずだ!』
「な……何っ、それ……!」
『信じろ! 篠田! 坂上も!』
柊吾は、引き下がらなかった。七瀬を説き伏せようと、真剣に声を掛け続けている。
『篠田。鏡の破片、まだ手に持ってるんだな? 呉野の阿呆も、一欠片だけ持ってるはずだ。……坂上も。あいつに自覚はないかもしれないけど、篠田の鏡が服にでも付いてるのかもしれない。持ってると思う』
「……え?」
意外な言葉だった。ここで拓海の名が出るとは思わなかったからだ。
『鏡を持つこと。それが、お前らが今いるっていう『鏡』の学校に存在できる、パスみたいなもんなんだと思う。だから、それを『失くす』こと、『拒絶』することで、多分、お前らは……くそっ、めちゃくちゃ言ってんの、分かってるんだ。俺だって。……悪りぃ。……けど!』
余程言うのが辛いのか、言葉尻に苦渋が混じっている。それでも柊吾は言葉を濁さず、強い語調で叫んだ。
『お前らがそこに閉じ込められてるのは、呉野が全部悪い! けどな、脱出するのは簡単なんだ! 鏡の『所有の義務』を放棄すれば、そんなクソみたいな場所、あっさり出られるはずなんだ! 今だけでいいから、俺を信じろ!』
「所有の……義務?」
七瀬は、その言葉をぽつんと小さく復唱した。
本当に意外な言葉だったからだ。その言葉をまさか、今日会ったばかりの他校の少年の口から聞かされる事になるとは思わなかったのだ。
――所有の義務。
そんな言葉が胸を絞め上げるのは、今日で二度目だ。一度目がいつだったのか、はっきりと七瀬は覚えている。
――氷花の、待ち伏せを受けた時だ。
内面をナイフで切りつけられたような痛みに喘ぎ、血塗れの心で七瀬はあの時、母の顔を思い出していた。七瀬の心に『所有の義務』を刻んだ、理不尽で厳しい母の顔を。
だが、その反面、母には優しい顔もあった。理不尽で厳しいからこそ、余計にそう思ったのかもしれない。最初は当番制の朝食作りだって面倒臭くて嫌だったが、作った卵焼きや味噌汁の味を褒められた時は、嬉しかった。
褒めて欲しいというその気持ちが、子供っぽい幼稚な甘えだと、自分でもどこかで気づいている。それでも認めてもらえたことは誇らしく、七瀬にとってそれが母との付き合い方の形だった。言い合いに発展することも日常茶飯事だが、憎めなかった。反発が憎悪に繋がるほどに、七瀬は母を嫌いになれない。
何故だろう。不思議だった。嫌いになってもおかしくない。現に道場の件は相当根に持っていた。友人と師範。得難い絆を無理やり裂かれて、何も思わないわけがない。七瀬はあの時、母が許せなかった。
だから、七瀬は――喧嘩を、覚えていったのだろうか。母の教育があったからこそ、周囲との軋轢を恐れない性格が、育っていったのだろうか。何だか、苦笑してしまう。結局今の七瀬があるのは、母のおかげといっても過言ではないのだ。素直に認めるのは少し癪だが、やっぱり憎めない。多分それは、一生無理だ。
それは、家族だからだろうか。それが、愛着だからだろうか。
葉月の顔を、思い出す。毬の顔も、思い出す。様々な顔が、次々と頭に浮かんでいく。和音もいた。夏美とミユキ、他の友人の顔もいた。七瀬が今まで生きてきた中で、好きだと思った人達の顔が、走馬灯のように脳裏で煌めきながら駆け巡った。
そして――もう一人。七瀬は、気づけば俯き気味になっていた姿勢を正し、目の前に立つ少年を見る。
昨日までは、他人だった。では、今は何だろう?
決まっていた。友達だ。
「……三浦くん。その方法で、帰れるなら。私、ここで捨てる。……元々、家で処分するつもりだったしね」
『篠田。……言いにくいけど、言う。お前だけは、一番帰還が難しいと思う』
柊吾は、躊躇いを覗かせながらも、はっきり言った。
『お前はその鏡を、本当に捨てられるか? さっき、俺が言ったみたいな意味で。単に手放すだけじゃ、多分駄目なんだ。心から、これは要らないって思えるか? 自分のものじゃないんだって、執着みたいなもの、全部、捨てられるか? ……頼む。それでも捨ててくれ。……時間が、ないんだ』
苦しげに掠れた声を受けて、七瀬は刹那、言葉に詰まる。
執着は、愛着だ。捨てろと言われて、二つ返事で手放せるようなものではない。柊吾はそれを承知の上で、七瀬に声を掛けているのだろうか。だとしたら、柊吾は本当に優しい人間だ。
「分かった。三浦くん。今から試す。……お願いがあるんだけど、通話はこのまま切らないで。後でまた、声を聞きたいから」
『……おい、篠田。待て。お前は』
「じゃあ、ちょっとだけ待ってて」
携帯の通話越しに、息を呑む声が聞こえた。『篠田!』と強く叫ばれたが、七瀬は返事をしない。それは、後ですればいい事だと思った。だから、今はいいのだ。
七瀬は、携帯を鞄へ落とす。有事の今はポケットに入れておきたいが、底が破れているので使えない。そんな七瀬を、拓海が放心の顔で見つめていた。
「脱出、できるんだ……。よかった、のか……? なあ、篠田さん、三浦は何て言ってたんだ? 捨てるって、鏡を?」
「うん。私の鏡を捨てたら、みんな帰れるんだって」
七瀬が答えると、拓海の目に驚きと、それをも超える希望が明るく灯った。
「なんで三浦が知って……いや、今はいい。よかった……やった! 俺ら、帰れるんだな!」
無邪気に笑った拓海は歓声を上げたが、ふと思案気に表情を陰らせ、喜色をそっと引っ込めて訊いてきた。
「篠田さん、その……えっと、鏡……」
「坂上くんまで。何気にしてるの? 元々捨てるつもりだったって言ったじゃん。うちで処分する気だったんだから、そんなの気にしないで。……それより、坂上くん」
七瀬は、通学鞄を床にもう一度下ろした。
「学ラン、鏡の破片まみれだよ。さっき呉野さんが鏡を割った時に、破片かぶってたでしょ。払ったげる」
「え? あ、ああ、うん。……えっと?」
拓海は七瀬が距離を詰めたので、少し面食らったようだった。途端におろおろと後退して、「い、いいっ、大丈夫」と妙な慌て方を見せてくる。
拓海について何も知らなかった今朝の事を、七瀬は不意に思い出した。
桜が咲き誇る昇降口前で転んだ時、最初に相手を避けたのは七瀬だった。拓海の手を借りずに逃げてしまったのは、七瀬の方が先だった。
――手、素直に借りればよかった。
少しだけ、後悔してしまう。だから、もう同じ後悔は、したくない。
「坂上くんってば。逃げたら払えないでしょ。じゃあ触らないから。その学ラン、一回脱いでくれない? 破片まみれで、見ててはらはらする」
「あ……うん、ごめん」
拓海は相変わらず狼狽していたが、七瀬の言葉に従って、学ランのボタンを上から順に外し始めた。
その様子を、七瀬はそれとなく目で追う。拓海が見られた事に気づいて、視線を斜め下に逸らした。ちょっとした可愛らしさを感じて微笑んだ七瀬は、拓海の立ち姿を観察した。
髪、学ラン、ズボン、靴――明確な区別は付かないが、おおよその当たりは付けている。七瀬は、拓海にもう一歩近づいた。
「……私、払うから。それ、少しちょうだい」
「え? いいって。危ないから、俺、自分でやるよ」
「いいってば。やらせてよ。……私が、そうしたいだけなんだから」
拓海が、驚いたような顔になる。
「篠田さん……?」
「坂上くん。あのね……私、一人じゃなくて本当に良かった。こんな所に、たった一人だけだったら……心細くて、怖くて、呉野さんのいないところで、隠れて泣いちゃってたかもしれない。一緒にいてくれて、嬉しかった。……ありがとう。坂上くん。それから……巻き込んじゃって、ごめんね」
七瀬は、笑った。そして、
「じゃあね。坂上くん」
目を見開く拓海の手から、学ランをさっと奪い取った。
――ばさり、と。七瀬の手に残った重い布の感触が、翻って羽ばたいた。
重力を失ったようだった。砂が崩れるように、空気に分解されて溶けるように、ごわついた学ランの布地の感触が消え去った。まるで魔法のようだったが、同じ魔法なら既に何度も見せられている。驚くことなんて、何もなかった。安心した、だけだった。
持ち主を失った麺棒が、床でころころと弾む。ゆっくりとした動きでそれは転がり、こつん、と七瀬のつま先にぶつかり、止まる。
こん、と。遅れて何か、小さなものが落下した。
七瀬は、それを拾い上げる。
――マッチ箱。
拓海の学ランに入っていたものだ。思えば拓海は、麺棒の他にも調理室で武器になりそうなものを物色していた。その時に失敬した物なのだろう。
全く、このアイテムで一体何をする気だったのだろう。拓海はここをダンジョンだとでも思っていたのだろうか。呆れるほどのゲーム脳だ。思わず笑ってしまった時、視界がほんの少しだけ滲んで、七瀬は自分でも驚いた。
それほど辛い別れだなんて、考えもしなかった。
「……ごめんね。何も言わないで、こんなことして。でも、後は……私一人で、頑張るから。……見ててよね。負けないから」
通学鞄から取り出した携帯に耳を当てて囁いたが、応答はなかった。ただ、柊吾が慌ただしく拓海の名を呼ぶ声だけが耳に届き、ああ、と安堵した七瀬が、目の前の姿見へ、視線を戻した時。
そこには、一人の少女の姿が映っていた。
薄い鏡一枚を隔てて、七瀬は少女と対峙する。
そして、がらんどうの校舎でたった一人、戦いの場に寂然と立ちながら――背筋を伸ばして身構えると、仇敵の姿を、ひたと睨んだ。




