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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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コトダマアソビ 後

 ――通りゃんせ 通りゃんせ

   ここはどこの 細道じゃ

   天神様の 細道じゃ

   ちょっと通して 下しゃんせ

   御用のないもの 通しゃせぬ

   この子の七つの お祝いに

   お札をおさめに 参ります

   行きはよいよい 帰りはこわい

   こわいながらも

   通りゃんせ 通りゃんせ


 神社の境内から御山の奥へと続く小道に、その(かす)かな唄は響いていた。

 森の木々の隙間から射す金色の斜光の間を縫って、少女の唄は神々へ奏上する祝詞のように、鳥の囀りを伴奏にして、青白い空へ昇っていく。

 朝露に濡れた小道を抜けた風は、湧水を湛えた泉の畔で、躑躅(つつじ)の瑞々しい葉をそよがせた。それを合図とばかりに御山の枝葉はささめいて、滝の白糸の如き帯の光は、その傾きと色彩を変幻自在に移ろわせ、森の最奥の襤褸屋前に佇んでいた一人の男の、灰茶に艶めく柔い髪と、神職の衣裳を照らし出す。日差しに青色の目を眇め、呉野和泉は、薄く笑んだ。

「……御父様。聞こえますか。和音さんが、唄っています」

 磨り硝子の嵌った玄関扉のすぐ脇には、古い木製の表札が掛かっている。『呉野』と墨痕鮮やかな筆致で書かれた苗字を、和泉の骨ばった白い指が、慈しむようになぞった。

「和音さんは、貴方の死を悼んでおいででした。貴方がもし今も僕の隣に居て下さったなら、屹度この唄を聞いて、このように仰ったでしょうね。――さながら、泉鏡花の『草迷宮(くさめいきゅう)』のような一幕だ、と」

 表札から指を離し、和泉は姿勢を正した。この場所で祖父と対面した皐月の頃を懐かしんでいるかのように、顔には面映ゆげな笑みが覗く。

「――『草迷宮』。幼き日に、亡き母が唄ってくれた手毬唄が忘れられない青年・葉越明(はごしあきら)。誰に訊けども誰もが知らぬ、母の愛の象徴の如き毬唄に、果たして彼は、再び巡り逢えるのか。――夢と現の交わる境を、微睡みながら往くような、妖しくも美しい、珠玉の怪異幻想譚。……御父様。僕が貴方から受け継いだ〝清らか〟は、次の世代に託しました。九年前に貴方と契り、子の務めを果たした僕は、もうすぐ己の使命も果たします。さすれば僕も、貴方の(ところ)へ旅立ちます」

 流れるように和泉は語り、深々と丁寧に一揖(いちゆう)した。

 その〝言挙げ〟に呼応するように、木々が、土が、光が、水が、この御山の全ての自然が、和泉を大らかに包み込んだ。その様はまるで、遠い異国の地から遥々この国へ赴いて、宮司の務めを果たした男を労っているかのようであり、あるいは脈々と続いた血筋の定めと終焉を見届けて、餞別のような憂いと慈悲を与えているかのようでもあった。

 やがて和泉は面を上げて、踵を返して歩き出す。最愛の家族を看取った家に、そして家族を一人残した家に、背中を向けて、歩き出す。

 向かう先には、泉があった。九年前の八月に、浴衣姿の艶美な女が、手毬をつくように絢爛豪華な花の首を、水面に落として遊んでいた、豊かな湧水の泉があった。水面はまるで鏡のように、健やかに萌える木々の緑と、空の青とを映している。金糸銀糸の筋となって綾なす透明な光の群れは、樹木の幹で、葉の裏で、魚のように泳ぎ回った。

 畔まで歩いた和泉は、そこで一旦立ち止まり、浅沓を片方ずつ脱いだ。白い足袋も丁寧に脱ぐと、珠のような朝露を乗せた草色の大地へ、浅沓とともに揃えて置いた。そうして素足で畔に降り立つと、合掌した和泉は世界を映し続ける水色へ、裸足をつけて、踏み込んだ。

 水面に、波紋が立った。鳥の羽ばたきが、森の静けさを揺るがした。和泉の白い(くるぶし)が水面にざぶんと呑み込まれ、白波のように泡を立てた湧水は、袴の裾をも呑み込んだ。和泉は瞳をすうと閉じ、開き、満ち足りた表情で、ゆっくりと前へ進んでいく。二度の惨劇をその水底に呑み込んだ、泉の中央へ進んでいく。

 その時――静寂を切り裂く音が、鳴った。

 それは、電子音だった。着信を受けた携帯の、人工の甲高い音だった。御山の神域にはあまりに不自然なその音は、和泉の装束の袂から鳴っていた。まるでこの携帯の持ち主を、引き留めているかのように。和泉は動じることなく携帯を取り出して操作すると、耳に当てた。

 瞬間、男の声が、森に響いた。

『死ぬな。イズミ君』

「……。貴方はもう僕のことを、異人さんとは呼ばないのですね。恭嗣さん」

 春風のそよぎのように、ふ、と穏やかに和泉が微笑う。この局面で電話を掛けてくる無二の友人の存在を、とうの昔から知っていたかのようだった。

 どこか他人事のような哀惜と達観が伝わったのか、『そんな話はどうでもいい!』と、三浦恭嗣の発した怒声が、携帯からノイズ混じりに叩き出された。

『ハルちゃんから、さっき聞いた。シュウゴがイズミ君達の見送りで、今朝早く家を出たって。イズミ君、それを俺に教えなかったのは何故だ?』

「必要ないからですよ。僕と貴方はこうして今、語らう時を得ています」

『真面目に答えろ! それに、言いたいことは他にもある! イズミ君、ロシアに帰るって名目で、あっちこっちに別れの挨拶なんかして回ってたみてえだがな……ありゃあ全部、嘘だろう?』

「おや。何故です? 現に僕は、もうすぐこの袴塚市を去りますよ?」

『調べたんだよ。君の亡くなった父親の実家に、国際電話を掛けて。ロシア語はさっぱりだから、英語で何とか、訊き出して。……イズミ君。下手な芝居は、止せ。イズミ・イヴァーノヴィチがロシアに帰国するなんて、向こうの人間は誰一人として知らねえだろうが!』

「ほう、驚きましたね。裏付けを取る者がいようとは。ですが、僕は安堵もしましたよ。貴方のような大人がいれば、子供達は健やかに生きてゆけます」

『その責任を、残された人間に投げるな!』

 激昂の声が、携帯を介して轟いた。鳥が飛び立ち、森の静寂に亀裂が入る。烈火の如き激情が、堰を切ったように御山の自然へ溢れ出した。

『イズミ君、逃げるな! 人の命を背負うことから、目を逸らすな! 俺達と、生きろ! これからも、この街で! いろんなものを背負い込んで、辛いことも楽しいことも、皆で分かち合って、ここで生きろ!』

「ええ。逃げません。最後まで。その為に僕はここに居ます。そして、ここで生きろという言葉にも、僕は肯定の返事を致します。いつの日か、きっと、またここで」

『どうして、それが今じゃ駄目なんだ! イズミ君、今どこに居る!』

夜叉ヶ池(やしゃがいけ)に、おりますよ」

『夜叉ヶ池、だと……? それはっ、鏡花文学の話だろうが!』

「さすが、貴方は話が早いですね。――『夜叉ヶ池』。作者は泉鏡花。この物語は小説ではなく戯曲ですが、人と化生(けしょう)、双方の悲哀を幽玄の美しさと情感で以て、巧みに掬い上げた秀作です」

『こんな時に、講釈なんざ要らねえ!』

「いいえ。お聞きになって下さい。三浦恭嗣さん。『罪と罰』という名の『武器』を、圧倒的な悪意に抗うための手段として、柊吾君に授けた貴方。文学は、僕と人とを繋ぐ絆の正体です。――物語の主人公は、古い風習と伝説が残る村で、鐘楼守を務めた男、萩原晃(はぎわらあきら)。彼は義理と人情、己の信条と正義を貫き、遙か昔から脈々と守られ続けた村と化生とが交わした契りを、今後も守り続けようと尽力しました。そうして作中で描写された通り、彼は心のままに生きたのです。貴方も読まれたことがあるのでしょう?」

『イズミ君、お前は、やっぱり……』

「ええ。物語の男が、己が使命と定めた役割を、全うした生を送ったように。僕も彼と同じ信念で、この二十七年の生を全うしたいのです。そんな僕の願望も、あと僅かの時を重ねることで、必ずや成就します。その為に、この命は在ったのです。その為に、この魂は在ったのです。その為に、この出逢いは在ったのです。その為に、この別れもまた在るのです」

『おいっ……馬鹿なことを言うなっ! 君が居なくなったら、藤崎さんはどうするんだ! 嫁さん死んで、外国の友人も死んで、先代の神主も居なくなって、あの人は大事な人に先立たれてばっかだろうが! イズミ君まで居なくなったら、あの人は……!』

「ご心配には、及びません。克仁さんには、拓海君がいます」

 携帯の向こうが、一時沈黙した。やがて全てを了解した声が、絞り出される。

『イズミ君は……最初から、そのつもりで、坂上君を』

「恭嗣さん。貴方も知っているはずです。人を(うしな)う悲しみを。その一方で、ともに生きてゆく者がいれば、人は悲しみを乗り越えて、生きてゆけるということを。僕が國徳御父様と、九年の歳月を生きたように。そして貴方が遥奈さんと柊吾君と、これから生きてゆこうとしているように」

『……ふざけるなよ。たとえそれが事実でも、それは残された人間が語る理屈で、間違ってもこれから死のうとしてる人間が口にしていい台詞じゃねえ! お前はそんな手前勝手な理屈で、藤崎さんにもう一人の子供を宛がってやったって言うのか!』

「お怒りは尤もだと思います。僕は九年前から、散々言われてきましたが……非道な所は、青年の頃から治らなかったようです」

 和泉は、愁然と微笑した。かつてここで出逢った狐面の貌の女に、翻弄された時と同じように。線香花火の煙のような哀愁が、夏の残り香となって携帯の向こうへ届いたのか、恭嗣は、気圧されたように沈黙した。

「ですが、たとえ僕の所業がどんなに非道なものであれ、拓海君は克仁さんを慕っていて、克仁さんもまた拓海君に、慕わしさを感じておられます。両者の間に生まれたこの絆。これを〝清らか〟と呼ばずして、貴方は何と呼ぶのです。そこに確かな安寧を見出したからこそ、僕は満ち足りた気持ちで『夜叉ヶ池』に佇んでいるのです」

 語りながら、小さな泉の中心へ、ついに和泉は辿り着いた。金色の遮光が眩く射したその場所で、頭上の葉の連なりのさらに向こう、快晴の空を見上げている。まるで遍路を往く修行僧が永劫のような行脚の果てに、苦楽を乗り越え、浄土を見つけたような微笑だった。

「――僕は、たくさんの素晴らしい人達に出逢えました。美しい愛の数々に触れられました。イズミ・イヴァーノヴィチでは成れぬものに成る為に、僕は呉野和泉になりました。この身に負った宿命も、きっとじきに果たせます。これでようやく、父達と同じ処へ逝けます。……どうか寂しがらないで下さい、恭嗣さん。幼いイズミ・イヴァーノヴィチにできた初めての友人。きっと、また逢えますから」

『そんなことをっ……俺に、どう信じろって言うんだ!』

 悲痛に抑えられた恭嗣の声に、慟哭に似た響きが混じる。微笑みを絶やさなかった異邦人の美貌に、心痛の色が薄化粧のように浮かんだ。短い沈黙が流れた末に、はっと恭嗣が息を呑んだ。

『……まさか、イズミ君。『夜叉ヶ池』って、あの泉のことを、言ってるのか? 俺とお前が出逢った森の、あの小さな泉のことを……待ってろ。絶対に、そこから動くな』

「いいえ。それは出来ません」

『それじゃあ、君がこっちに来い! イズミ君、俺はこれから、弟の墓参りに行く。シュウゴの父親の、墓参りだ。なあ、イズミ君。君が俺にした質問を、覚えてるか?』

「ええ。もちろんです。――『死者を弔いたい時、貴方は何をしますか?』」

『ああ。そうだ。次に俺は、こう答えたはずだ。――『墓参りに行く。花を持って、家族を連れてな』って。イズミ君、君もそうすればいい! 俺達と一緒に、家族の墓参りに行けばいい! 今をしっかり生きて、命を粗末にするようなつまらねえ事は考えないで、死者に花を手向ければいい! お前まで死んじまったら、これから死者を弔うことだって、出来なくなるだろうが!』

「いいえ。それは違います。何故なら僕は、この命の尊さを知っています。僕の命は、父母の愛によって生まれ、父が身を挺して守り、先代の神主に慈しまれ、ここまで繋いできたものです。この尊い命を最後まで、僕は決して粗末には扱いません。それが僕の信念であり、決断であり、生き方です。ですからこれは、自己犠牲でもなければ人身御供でもありません。僕はただ、達成できるのだと思っているだけなのです。謂わば、死者を弔う為に、僕はここに居るのですから」

『だったら、なんで! お前は、一人で死のうとしてるんだ!』

「貴方はどうあっても、僕が死ぬと信じて疑っていないようですね」

『違うのか? 違うなら、そう言ってみろ! 今すぐ、お前も花を、手向けに来い!』

「花なら。――弔いの、供花なら」

 和泉が、顔を上げて、言った。


「今から、ここで、手向けます」


 その宣言が、終わった瞬間だった。

 ばしゃん――と。荒々しい水音が、山奥の泉の静謐を、突如として打ち破った。光の結晶のような飛沫の間を縫うように、純白の着物から颯と伸びた百合のように白い少女の腕が、此方と彼方の狭間を彷徨う男の魂の置き所を、瞬く間に決定づけた。

 携帯が、和泉の手から離れて水没する。水鏡の世界は壊れ、泡立ち、撹拌され、恭嗣の声がぴたりと途切れた筐体が、水底へと沈んでいく。命の尽きた、蝉のように。

 その様子を、和泉が目で追うことはなかった。その表情が、変わることすらなかった。能面のように白い顔には、人間らしい情感がそっくりと欠け落ちている。

 まるで、角を落とした、鬼のように。

 あるいは、角を拾った、ご隠居のように。

「……何故、泣いているのです」

 訥々と、和泉は問いかけた。

 だが、背後の存在は、答えようとはしなかった。唄はまだ流れ続け、その妙なる調べに紛れるように、腰までの長さの黒髪を純白の着物に垂らした少女は、兄の背に顔を押し付け、小さな嗚咽を漏らしていた。

「お答えする気が、ないのですね。……それは、貴女。狡いですよ」

 和泉は尚も訥々と、背中で泣く妹へ語りかけた。

 その表情には、微かだが変化が萌していた。冬の終わりに桜の蕾が開くように、緩く持ち上がった口の端が、兄らしい笑みを形作る。

 まるで、角を返した、ご隠居のように。

 あるいは、角を取り戻した、鬼のように。

「きちんと、お答えになって下さい。何故、貴女は泣いているのです。今まで散々悪辣に、鬼のような振る舞いをなさっていたではありませんか。兄の前で、涙を見せる妹など。今の貴女は、貴女らしくありませんね。そんな風に、泣かれてしまっては、まるで……ただの、人間の、少女のようですよ。氷花さん」

「……だって、私は、人間だもの。最初から……そう、言っているわ」

 和泉の背から、顔を上げないまま――呉野氷花は、すすり泣き続けた。

 兄の袴の浅葱色と、対を為すような朱色の袴が、緑に囲まれた景色の中で、焔のように灯っている。和泉はただ為すがままに、妹に抱きしめられ続けていた。この森で、初めて唇を奪われた時と、同じように。

「……全く。貴女は、着替えも済ませていなかったのですね。随分前から気合を入れて、別日程の入試で受かった県外の高校の入寮式は、今日でしょう? 引き続き貴女のクラスメイトになるかもしれない佐々木和音さんは、これから発つ予定ですよ。さあ、早く貴女も支度をして、ここを出ていくのです。それとも、この袴塚市を出る前から、もう里心がついたのですか……?」

「どうだって、いいんだもの……高校なんて、進路なんて、未来なんて……どうだって、いい。狡いのは、私じゃなくて、兄さんよ……」

「……やれやれ。ここは一つ兄らしく、言い分を聞いてあげましょうか?」

「……どうして……? どうして、こういうことをするの? ……どうしてっ、死のうとしているのっ? お父様とお母様が、死んだ泉で死のうとするのっ? 貴方は、私が殺すのよっ? なのに、どうして……っ?」

 兄の着物を皺になるほど強く握り、氷花は泣きじゃくる赤子のように訴えた。

「嘘つきっ! ロシアに行くって、言ったじゃない! 貴方が遠い所へ行こうとしてたことくらい、私はずっと前から知っていたわ! だから私の方が貴方より先に、遠くに行ってやろうって決めたのよ! なのに! こんなの、聞いてないわ! ロシアじゃないなんて、聞いてない! どうして……こんな、こんなっ……」

「……さあ、どうしてでしょうね」

 和泉は煙に巻くように嘯いて、ふっと苦笑気味の息をついた。

「もしかしたら、氷花さん。それは貴女の所為かもしれませんよ」

「私、の……?」

「何故なら貴女は、僕にあれほど死ねと言ったではありませんか。左様ならば、貴女のお望み通り、一度死んでみようかと思いまして」

「そんな……どうしてよ! おかしいわ! どうして、たったの、それくらいで……ほんとに、死んじゃおうとするのよ!」

「それくらいで、ではありませんよ」

 穏やかに、寂しげに、和泉は諭した。命を知らぬ人の子に、命の在り処を説くように。あるいは、子に毬唄を、唄うように。

「死ねと散々罵られ続けた僕が、今まで全く傷付かなかったとお思いですか? 妹の貴女が人間だというのなら、兄の僕もまた人間ですよ」

「いいえ、それは間違いだわ! だって私の兄さんは、とっても意地悪なんだもの! 死ねって言われた程度のことで、傷付くわけがないんだわ!」

 嗚咽混じりの声で、氷花が気丈に言い返した。声に、張りが戻り始めていく。九年の歳月を経るうちに兄妹で織り上げた絆の糸が、静謐な森の空気に、新たな風を吹き込んだ。木々が、土が、光が、水が、豊かな情感に漲っていく。

「貴女は僕を、一体何だと思っているのです」

 呆れ笑いで返した和泉の発した声にも、躍動感が生まれ始めた。まるで十八歳の夏の夜に、初めて〝言霊〟を声に込めて〝言挙げ〟した時のように。兄妹が踝を浸した湧水の水面へ、波紋がいくつも生まれては消えていく。

「氷花さん。僕も貴方も鬼であり、鬼でありながら人間です。僕たち呉野の一族は、異能によって多くの人間の人生を狂わせました。僕がこのような〝言挙げ〟をしているのは、彼等へ贖いたいという清廉な心掛けからではありません。僕はただただ単純に、僕等は消えるべき存在だと思っているのです。大いなる神々、自然に宿る御魂が司る運命に、そう規定されている気さえします。それは僕だけではなく、氷花さん。貴女もです。数多の人間を異能によって破滅させてきた貴女も、到底この世で生きてゆけるとは思えません。それに僕は、これから遠い地へ旅立つ貴女に、生き永らえてほしいとすら思っていないのです。僕の願いは、九年前から変わりませんから。――〝言霊〟を弄ぶ貴女が、どのように身を滅ぼしていくのか。その破滅を、見届けること。余すことなく、最後まで。それこそが、僕の悲願です。そして貴女もまた、〝言霊〟と〝言挙げ〟というさながら兄妹のような言葉同様、僕とひどく似た切実さで、或る悲願を胸に掲げ、今日まで生きてきたのでしょう……?」

「私の、悲願……それは……兄さんを、殺すこと……」

「……そして貴女の、もう一つの望みも」

「……ああ、兄さん。貴方は」

「氷花さん。〝アソビ〟の終わった月夜にも、僕は貴女に訊ねました。今こそもう一度、訊ねましょう。――僕を、殺せそうですか?」

「……殺すわ。絶対に。貴方を殺していいのは、私だけよ」

 泣き続ける氷花の声の、質が変わった。雲間から陽が差すように、迷いが晴れ、煩悶の暗雲を退けて、目が明くような神々しさと凛然たる意志の強さが、涙に濡れた睫毛の奥、瞳の光彩で虹色に照った。風がさやさやと泉を取り巻き、水面に、新たな小波が立った。

「……では氷花さん。僕の最後の願いを、聞いては頂けませんか。今まで僕は、別れの挨拶をさせていただいた皆さんに、生への未練はありませんと、断言してきましたが……実を言うと、一つだけあるのです」

 日差しに面を白々と照らされながら、和泉は囁いた。己の非道な行いを、誰にともなく、詫びるように。

「その心残りを抱いたまま、貴女の〝言霊〟に殺されたなら、僕はこの世に多大な未練を残すでしょう。撫子さんの特別な目が、この泉で『見た』ものと同じように。僕もその仲間入りをしてしまっては、往生際の悪さを皆さんに笑われてしまいます」

「何よ、くだらない見栄なんか、張っちゃって……兄さんはやっぱり、嘘つきよ」

 泣き笑いの声で氷花は詰り、和泉はただ哀しげに微笑っていた。表情の異なる二人の瞳に、同じ高揚感が宿っていく。溢れた涙を堪えるように氷花は唇を一度結んでから、「いいわ」と力強く返事をした。

「冥途の土産に、貴方の最後の願いを聞いてあげる」

「有難うございます。では、氷花さん……僕達は今から、少しだけ。昔に戻ってみませんか?」

「昔、に……?」

「はい。和泉と氷花、兄妹の契りを結んだ僕達は、昔に戻ってみませんか。従兄妹同士で、楽しく遊んだ……九年前の夏の、僕達に」

「どうして、そんな事が……貴方の、最後の願いなの?」

「あの少女に、もう一度だけ逢いたいからですよ」

 和泉は空を仰いだまま、ほんの少しだけ申し訳なさそうに、笑った。

「氷花さん。人で、鬼で、花の貴女。しかし貴女という魂は、母に定められた〝貞枝〟にならず、〝氷花〟として生きました。僕が拾った〝鬼の角〟を、もう必要とはしないでしょう。――ですが、僕は。それでも敢えて、〝言挙げ〟しましょう。言う必要のない言葉です。僕ら兄妹の別れの朝に、涙も感傷も要りません。しかし僕と貴女の〝未練〟から、僕は敢えて〝言挙げ〟しましょう。僕の悲願の成就のために、そして貴女の悲願の成就の為に、さらに全ての死者を弔う為に、交わした約束を果たす為に、僕は、敢えて、〝言挙げ〟しましょう。貴女に、敢えて、〝言挙げ〟しましょう。――氷花さん。僕は〝鬼の角〟を返して差し上げたいのです。九年前の、清らかなあの子に」

「……本当に、莫迦な人。そんな少女、もうどこにも居ないのよ。この世界の、どこにも。私の清らかなお兄様が、もうどこにも居ないように」

「いいえ、居ます。きっと、居ます。僕らがその名で、呼び合えば」

「名前で、呼び合う……?」

「ええ。――〝コトダマアソビ〟をしましょう。氷花さん。克仁さんの名づけた〝アソビ〟を、僕ら兄妹が九年前に失くした名で。この〝アソビ〟は、ただの〝アソビ〟ではありません。僕と貴女が遊ぶことで、皆の望みが叶うのです。僕は貴女の破滅を見届けられて、貴女は僕を殺せます。さらに僕は呪われた異能の血筋に終焉を齎すことができて、貴女は全ての未来を擲つことで、魂をかけた望みを叶えます。僕らの魂が形を変えた手向けの供花の如き〝清らか〟が、この世を燦然と照らす時――永訣の朝の輝きは悪意の〝言霊〟を祓い清め、死者の〝未練〟に嫋やかな愛を囁いて、きっと清らかな浄土へ導きます。身体を患い続けた少女にも、安寧の日々が訪れましょう。そんな、夢の遊戯です」

「……無理よ。そんな都合のいい遊戯……あるわけないじゃない」

「それが、あるのです。信じて下さい。僕が美しいものを愛する気持ちは、貴女に引けを取りません。脆く柔い人の身では、決して触れられぬ〝清らか〟に、それでも手を伸ばし続けるのは……呉野の血族の、業ですよ」

「私が、兄さんと遊んだなら……美しく清らかなものに、手が届くの……?」

 兄の着物を掴み続ける氷花が、囁いた。まるで童女のようなあどけなさで、怖々と、切々と、それでいて無垢に、囁いた。

「私、九年前に……お母様に、言われたのよ。私は、いけない子だから……美しく清らかなものには、一生かかっても、手が届かない、って」

「さあ、僕には分かりません。本当に貴女の手は、美しく清らかなものには届かないのか。しかし、たとえ届かないのだとしても、手を伸ばし続けることはできます。そんな勇気と悪足掻きこそが、人間の持つ力ではないでしょうか。現在の僕は、そう思っていますよ。そして九年前の青年ならば、きっと手を伸ばすでしょう。その命が散る、最期の瞬間まで。――貴女は、如何なさいますか?」

「……兄さん。貴方の願いを叶える前に、私の質問に答えてくれる?」

「はい。何なりと」

「兄さん。私のことを、愛してる?」

 甘く笑みを含んだ声で、涙が入り混じった声で、氷花が言った。

「ええ。愛していますよ、氷花さん」

 妹の腕に抱かれたまま、いまだ抱きしめ返すこともしないまま、和泉は常のような飄々たる声で言い返す。「人でなし」と、氷花が悪辣に笑って、非難した。震えた語尾が、涙に潰されて消えかけている。

「やっぱり私、貴方が嫌いよ。意地悪な貴方なんて、大っ嫌い」

「心外ですね。僕の〝言挙げ〟は誠ですよ。何故なら僕は、言葉を愛していますから」

「そういう偏屈なところも、大っ嫌いよ。本当に、大っ嫌い。大っ嫌いだから……殺してあげる。そうしたら、私も、清々して……貴方の居なくなる世界に、未練なんてなくなるもの」

「後悔は、しませんか」

「しないわ。貴方と一緒だもの」

「良い度胸です。左様なら、氷花さん。きっと、また逢いましょう」

「左様なら、兄さん。きっと、すぐに逢えるわ」

「おや。不思議ですね。〝言霊〟の異能を操ってきた貴女にも、〝先見〟の異能を扱えるようになったのですか?」

「ふふ、知ぃらない。意地悪なお兄様には、教えない」

「それは残念です。では、氷花さん」

「ええ。兄さん――――『いいえ、イズミお兄様!』」

 声が、凛と響き渡った。

 涙を散らし、兄にしがみ付く氷花の声が、青天を突き抜けて木霊した。


「――『お兄様は、イズミお兄様なのでしょう? 私は、知っているのです!』」


 〝言霊〟の霊威に呼応して、二人を取り巻く世界の全てがさんざめく。水面へ波紋が丸く広がり、強風に煽られた御山の木々の、梢から離れた葉が乱舞した。

 十五の少女の〝言挙げ〟は、まるで物語の毬唄のように、凄烈な既視感を、和泉の胸中へ呼び起こし――イズミ・イヴァーノヴィチは、長い微睡から醒めたような心地で、従兄妹の呼び声に耳を、傾ける。

 慕わしいあの声が、鈴の音のように心地よく、青年の名を呼んでいる。


「――『遊んで下さいな、お兄様!』」


 嗚呼、と一片の曇りなき心で、イズミは思う。

 其の清らかな声を、今までずっと、聴きたかった。

 屹度、今日という日を迎える為に、此の世界で生きてきた。

 少女の最後の〝言挙げ〟を、イズミは瞳を閉じて受け止める。

 然うして、此方(こちら)も最後の〝言挙げ〟を、万感の思いを込めて、魂を込めて、解き放ち――意識が金色の光の洪水に呑まれる刹那、着物をひしと掴み続けた少女の腕に、そっと、己の手を重ねた。


「――『仰せのままに。杏花さん』」



     *



 頭上を覆う葉の群れから、光が帯のように射している。

 清涼に潤った空気の森の中を、佐々木和音は唄を口ずさみながら歩いていた。

 呉野和泉は見かけによらず俊足で、石段を上がりきった和音が見渡した境内に、人の姿は見当たらなかった。木造の小さな拝殿を取り囲むように咲いた桜の木々が、白銀の花弁をはらはらと一斉に舞わせただけで、和泉も、氷花も、誰もいない。

 幻想的な風景に束の間見惚れた和音だが、やがて石畳を脇に逸れて、朝露でしっとりと濡れた土と緑の道を進んだ。境内にいないなら、きっと家にいるのだろう。

 鮮やかな草色の小道の先に、一際明るい陽の射す空間が開けている。苔むした屋根の木造家屋と、湧水を湛えた小さな泉。今の和音の、目的地だ。

 そこに――探していた人物を、見つけた。

「イズミさん――」

 唄うのをやめた和音は、ほっとして駆け出した。

 少なくとも和音はこの時、見つけたと思ったのだ。

 陽の光が霧のように柔らかく降る泉で、その水面に神域の森と青空とを映し取った、現と幽玄の境目のような場所で、浅葱と緋色の袴が目に鮮やかな、一組の和装の男女の姿を、和音は刹那の間だけ、確かに目にしたはずなのだ。

 そんな、白昼夢のような一瞬の後に――さあっと清澄な風が吹きすさび、金色の光も一際眩く照り輝き、和音は思わず、目を閉じた。

 そして、目を、開けた時――透明な泉からは、二人の姿は消えていた。

 茫然と立ち尽くした和音は、この時、見た。


 幾条もの光の帯が、燦然と泉を照らす、中央に――白い芙蓉の花が、二つ。


 その命の最も見目好い部分だけとなった姿で、酒に酔うようにほんのりと薄桃に色付いて、雪洞のように茫と柔らかく輝きながら、心中を誓った男女が水底へ沈んでいくような緩やかさで、水面へ降りていくのを、見た。

 兄妹のように寄り添う二つの花は、やがて水面と触れ合って、ぱきんと冷えた音を立てて凍りつき、涼やかに砕け、輝きを散らし、透明な水に溶けて、見えなくなった。



     *



 言霊で遊んだ二人は、どこへ消えてしまったのか。

 最後まで二人は、昔の二人に戻った振りをしていたのか。

 それとも二人は、互いに欠け合った愛憎を、正しく取り戻したのか。

 入水した二人だけが、その答えを知っている。



             【コトダマアソビ:END】

【NEXT……?:新連載/番外編/短編集:ことだまあそび(https://ncode.syosetu.com/n1963gg/)】

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