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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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コトダマアソビ 前

 その一日の始まりは、肌に触れる空気が一際澄んでいるように感じられた。

 虫の知らせ、だったのだろうか。真新しい学ランに袖を通し、自宅の門を出た三浦柊吾は、うっすらと何かを予感した。見上げた空の青白さが、いつもの朝と何ら変わらないはずなのに、何故だか胸を打ったのだ。

 同じ予兆は、七時半に雨宮撫子を家まで迎えに行った時にも感じていた。清爽な風のそよぎが撫子の濃紺のセーラー服と、玄関先に植えられた白い水仙の花を揺らした時、ああ、と柊吾は思ったのだ。これから何かが、喪われてしまうのだ、と。

「柊吾。寂しくなるね」

 しんみりと、隣を歩く撫子が言った。灰色の家々が連なる通りに人気はなく、透明感のある静寂は、朝寝からまだ覚めない街を霞のように包んでいる。

「ああ。そうだな」

 気もそぞろに同調し、柊吾は電線で囀る雀を見上げた。紺野沙菜の墓参りに行った日も、丁度こんな快晴だった。門出の日には、最高の日和と言えるだろう。

 四月八日、春休みの最終日。中学生と高校生の、間の日々が終わる朝。

 柊吾達はこの袴塚市から、三人の人間を送り出す。

 一人は、県外の高校へ。

 もう一人も、県外の高校へ。

 そして、残る一人は――この日本を、離れてしまう。

 その人物の旅立ちは、まだ先だと聞いている。だが遠方の高校へ通う佐々木和音は、今日の午前中には発ってしまう。そのため柊吾と撫子は、高校の制服を着てきたのだ。入学式は明日だが、この姿を見せておきたい相手と一緒に、仲間の旅立ちを見送る為に、待ち合わせ場所へ向かっている。

 ――呉野神社へ、向かっている。

「また、会えるよね」

 栗色の髪を風になびかせて、撫子が円やかに微笑んだ。この先に待ち受けている別れを、撫子はとうに受け入れているのだ。柊吾も同じ気持ちのはずなのに、どうして欠落を意識するのだろう。兎にも角にも、返事をした。

「会えるだろ。佐々木には」

 だが、次の言葉が続かなかった。十字路を右に折れて、公園の横を通り過ぎ、別れの時が刻一刻と迫っても、感傷は依然として柊吾の喉を塞いだままだ。

 ――きっと、また会える、と。

 柊吾がそう断言できる相手は、佐々木和音だけなのだ。

 どうして柊吾は他の二人に対しても、会えると断言しないのか。我ながらそれが不思議だが、何より不思議なのはこの喪失感だった。この喪失感は暗くないのだ。むしろ頭上に広がる蒼穹のような爽涼さすらあったのだ。寂しさが胸を突き刺しているはずなのに、同時に柊吾の魂は、既に寂しさを受け止めている。この感慨は葛藤のようでありながら、その正体は達観なのだ。

 柊吾は、何を諦めているのだろう?

 同時に、何かを諦めているにも関わらず――どうして、前を向けるのだろう?

「柊吾、寂しい?」

 撫子がもう一回訊いてきたので、「……まあな」と柊吾は観念して呟いた。観念という言葉からまたしても水縹(みずはなだ)色の喪失感が生まれたが、やはりその感慨は、どこか清涼に感じられた。

「会えるよ、きっと」

 錫杖の音のように響いた声が、感傷を爽やかに祓っていく。目が覚めたような気分で隣を見下ろした柊吾の目と、撫子の琥珀の目が合った。おそらくは柊吾の感傷をとっくに気取っていた聡い少女は、空の水色を瞳に映し、凛とした笑みを前に向けた。

「大丈夫。どんなに遠く離れても、ここへ帰ってきてくれるまでに、どんなに時間がかかっても。……いつか、きっと。また会えるって信じてる」

「……ん。そうだよな」

「うん」

 穏やかに言葉を交わすうちに、いつもの調子が戻ってきた。仄かにひんやりと湿った春の空気を吸い込んで、柊吾も心機一転、進行方向に目を向けた。

 家々の屋根の向こうに、神社の御山が見えていた。駅前の桜は早咲きだったが、こちらは今が盛りのようだ。石段の始まりと終わりを繋ぐ鳥居の向こう、境の彼方に、きっと居る。今日というこの日まで、柊吾にとって始まりの地である神社の清らかな境内で、代々宮司を務め続けた、異能の一族の末裔が。歩き続ける柊吾の胸に、高揚感も芽生え始めた。別れはもちろん寂しいが、もうすぐいつものように会えるのだ。

「三浦くーん! 撫子ちゃーん!」

 神社の石段まであと少しという所で、柊吾達と反対方向の車道から、一組の男女が歩いてきた。黒い学ランに濃紺のセーラー服の二人組は、今の柊吾達と出で立ちが全く同じだ。撫子が、嬉しそうに手を振った。

「七瀬ちゃん。坂上くん」

「おはよっ、二人とも! 撫子ちゃん、制服似合ってる!」

 篠田七瀬が、元気に手を振り返して走ってきた。石段前で柊吾達と落ち合うや否や、撫子を抱き留めてくるりと舞踏のように回っている。緩やかに巻かれた頭髪は、今日はサイドで結わずに下ろしてあった。つい物珍しさから見入った柊吾だが、慌てて「ほどほどにしろよ、潰れる」と最早恒例の台詞を吐いていると、のんびりと歩いてきた坂上拓海も、朗らかに片手を上げてきた。

「おはよ。三浦、雨宮さん」

「ああ、おはよ。……坂上だけは、前とあんまり格好が変わらねえな」

「それ、言われると思ってた」

 苦笑いで答えた拓海の学ランは、中等部のものと一体どこが違うのだろう。間違い探しのように制服を眺めた柊吾へ「それを言うなら」と拓海が、仕返しとばかりに笑ってきた。

「俺は三浦が学ランを着てる方が、なんか不思議な感じがする」

「それ、言われると思ってた」

 この制服姿を初めて見た母からは『大きくなるのって本当にあっという間ね』と涙ぐんで言われたものだが、その隣で腕組みをした恭嗣からは『シュウゴ、むしろ逆にちょっと若返ったんじゃねえか?』と失礼な感想を賜っていた。げんなりと文句を言った柊吾だが、今では腑に落ちていた。中学三年が高校一年。上級生が下級生になったのだ。柊吾が自覚していない新鮮さを、家族は感じ取っているのかもしれない。

「三浦、明日のクラス発表、一緒のクラスだといいな」

「そうだな。けど……坂上と陽一郎は、難しいだろうな」

「残念だけど、それは仕方ないって。運に任せるよ」

 普段通りの気安さで応じてくれた拓海の声は、女子達にも聞こえたようだ。七瀬が撫子を抱きしめた格好のまま「そうだよ、気にしても仕方ないよ」とこちらも普段通りの明るさで笑った。

「拓海くんと日比谷くんには悪いけど、私はこういう風になって嬉しいよ。同級生の皆には内緒だけどね。ねー、撫子ちゃん」

「だから、潰れるって。けど、俺も正直、同じ気持ちだから……監督には、すげえ感謝してる」

 ぼそぼそと、頭に手をやりながら柊吾は答えた。撫子も七瀬の腕の中から横顔でこちらを振り返り、申し訳なさそうに微笑んだ。

 ――実は、柊吾、撫子、七瀬、そして今日はここにいない綱田毬の四名は、高校一年のクラス分けで、同じ一年三組に内定している。

 理由は単純で、撫子の目が治らなかったからだ。

 袴塚西中学に在学中は、撫子の事情を把握している者が多かったので、日々の生活を誰かが常に援助できた。だが、環境が変わればそうもいかない。その為の介助要員として、数名の生徒を撫子と同じクラスへ組み込むことになったのだ。

「みんな、ごめんね。またいろんな迷惑をかけちゃうと思うけど、みんながいてくれたら、心強いから……これからも、一緒にいてね」

「もー、そういう水くさいことはなし! 私は嬉しいからいいの!」

 まだおずおずと何かを言い募ろうとした撫子を、快活に笑い飛ばした七瀬が、ぎゅっと抱きしめて黙らせた。「俺も。安心した」と拓海も、温かい言葉を掛けてくれた。

「三浦の学校の先生達から、高校の先生達に掛け合ってもらえて本当に良かった。やっぱり何かあった時にすぐ助けられる人間が、そばにいた方がいいもんな」

「ああ。篠田と綱田を入れてもらえたのは、本当に助かった。……けど、女子優先で選んでもらったら、代わりに男子の枠が減ったらしい。すまん」

「いいって三浦。全員を融通してもらうわけにはいかないじゃん」

「拓海くんだけじゃなくて、日比谷くんも外れちゃってるしね」

 そう口を挟んだ七瀬は、感慨深げな面持ちだ。

 確かに日比谷陽一郎は、撫子が絶対的に『見える』人間で、今回のようなクラス分けでは、柊吾より優遇される立場だろう。この件で世話になった野球部顧問の森定からの激励や、さっき家の玄関先で挨拶をした撫子の母親の顔を思い出すと、自然と気が引き締まった。そんな小さな覚悟を見抜いたのか、七瀬がくすりと笑ってきた。

「三浦くんってば、まだ拓海くん達とクラスがばらけるって決まったわけじゃないよ。みんなで一緒のクラス、なれたらいいね。撫子ちゃん、目のことで今まで苦労も多かったんだもん。皆のこういう厚意とかは、どーんと素直に受け取らせてもらおうよ」

 七瀬から解放された撫子は、酸欠で頬を上気させていたが、安らいだ笑みで「うん」としっかり答えてくれた。四人で笑い合った時、頭上からひらりと白い光が舞い落ちた。

 それは、桜の花弁だった。雲一つない青空から、花の淡雪は降ってくる。美しいその結晶の生まれた場所を辿るように、天へと続くような長い石段を目で追って、柊吾は思わず声を漏らした。

「……あ、イズミさん」

 他の面々も顔を上げて、七瀬も「お兄さん」と華やいだ声を上げた。


 ――石段の頂上、鳥居の真下に、和装の異邦人が立っていた。


 灰茶の髪と純白の着物、浅葱の袴を風に靡かせたその男は、背後に境内の自然を背負い、優美な仕草でこちらへ手を振ってきた。

 ――呉野和泉。

 この呉野神社の、宮司であり――もうじき、その務めを辞める男。

「……寂しくなるね」

 七瀬が、言葉通りの寂寞がこもった声で言った。同じ言葉を、さっき撫子も言っていた。やはり何となく相槌を打てない柊吾の隣では、拓海が目を細めていた。

「ロシアって、遠いよな」

 本当に寂しく、そして本当に遠いと思う。神社に参拝へ出向けば会える、そんな距離ではなくなるのだ。会おうと思えば会いにいける、そんな気軽さも消えてしまう。

 若草色に繁った御山を真っ直ぐに貫いた石段を、和泉はゆっくりと一段一段、下りてくる。こちらへ近づいてくるはずのその歩みが、かえって柊吾達からその麗姿を遠ざけていくようだった。

「……結局、雨宮の目の問題は、イズミさんにも解決できなかったな」

「仕方ないんじゃないかな。ちゃんと解決、できなくても」

 巻き髪を耳にかけながら、七瀬が何かを吹っ切ったように息をついた。春休み中の撫子に対する和泉の努力と献身を、買っての言葉に違いない。

「呉野氷花のお兄さんとして、精一杯のことはしてくれたんじゃないかな。それを判断するのは私じゃなくて、撫子ちゃんかもしれないけどね」

「ううん、私も。もういいの。神主さんには、たくさんお世話になったから」

 撫子も満ち足りた顔で答えると、スカートのポケット辺りを手で押さえた。朱色の鏡を、そこに入れているのだろう。七瀬が目元に慈しみを浮かべてから、柊吾の顔を横目に見た。誤解を与えた気がしたので、柊吾は「あー」と唸って弁解した。

「俺だって別に、イズミさんを責めてるわけじゃなくてだな……」

 嘘ではなく本心だ。撫子の目が治らなかったのは残念だが、柊吾にはその件で和泉を責める心算はない。

 ただ、何となく――釈然としない、だけなのだ。

「イズミさんなら、絶対治すって気がしたんだけどな……」

 ――君達が、高校へ入学するまでの間に――いえ。君達の仲間の、門出の日。僕はきっとその日までに、撫子さんの目が起こす『神がかり』を、解決すると誓いましょう。

 袴塚市の花の首が切り落とされ、鬼の〝アソビ〟が終わった夜。事件の種明かしの為に森へ集まった柊吾達へ、呉野和泉は宣言した。

 だからこそ、柊吾は疑問だったのだ。

 ――あの和泉が、守れない約束などするだろうか。

 文学を愛し、言葉を愛し、そこに込められた魂に敬意を払ってきた和泉が、柊吾達と交わした約束を、違えることなどあるだろうか。柊吾が腕組みをしていると、隣では拓海も気難しげな顔をした。

「……三浦。俺も、少し気になってるんだ」

「なあ、やっぱりイズミさん、まだ何か企んでねえか?」

「分からない。でも『俺達の仲間の門出』っていうのは多分、佐々木さんのことだ」

「じゃあイズミさんが、もし雨宮をまだ治す気でいるなら……それは」

「……今日、っていうことになる……?」

「でも拓海くん、現実的に無理じゃない? お兄さん、街の人達への挨拶は済ませたって言ってたけど、ロシア行きまでそんなに時間はないんでしょ? 和音ちゃんだって、もうすぐ来ちゃうし……」

「それなんだよな……うん。俺の考え過ぎかな」

「坂上くん、柊吾、ありがとう。でも私なら平気だから。身体も少しずつ強くしていけるように、がんばる」

 撫子は、ぐっと両手を握って気合を示した。そんな健気な姿を見ていると、さっきまでの緊張感は雪解けのように消えていった。拓海も己の勘繰りを恥じるように頬を掻き、七瀬も「それにしても、毬は残念だったよね。和音ちゃんの見送りに来れなくて」と、明るく話題を変えていた。

「うん、陽一郎も。今日は来たかったって残念がってた」

「えっと、綱田さんは家族とお出かけで、日比谷も家族旅行だっけ?」

「らしいな。陽一郎は今日の午後に帰ってくるぞ。佐々木とイズミさんによろしくって電話で言ってた」

「その日比谷くんの伝言、宣戦布告に思われなきゃいいけどね」

「? 篠田、どういう意味だ?」

「べっつにー? ……あっ、和音ちゃんが来た!」

 ぱっと目を輝かせて、七瀬は柊吾の背後へ手を振った。

 柊吾達も住宅街方面を振り返ったが、皆で揃って黙ってしまった。やがて柊吾と拓海が「ああー……」と示し合わせたように溜息をついたので、相手は機嫌を損ねたようだ。むっと眉根を寄せてから、視線をローファーの爪先へ逃がしている。

「和音ちゃん、髪……」

 撫子が、琥珀色の目を瞬いている。相手は、ばつが悪そうな顔をした。

「……私が、こうしないと気が済まないってだけ。深い意味はないから」

 そう囁いて、ようやく――佐々木和音は、顔を上げた。

 意思の強そうな眼差しは、今までの和音と変わらない。だが葡萄色のブレザーが、墨色のスカートが、襟で結ばれた緑青色のリボンが、十五歳の少女の印象をがらりと大きく変えていた。

 中でも、最大の変化は髪型にあった。

 長く、真っ直ぐだった黒髪は――今では、肩口でばっさりと切り揃えられていた。

 柊吾としては正直なところ、やっぱりか、という思いが強い。撫子の髪が少年のように短くなった件について、和音の感じた責任は重いようだ。

「ちょっと拓海くん、三浦くん! そんな感想ってないでしょ!」と七瀬は腰に手を当ててぷりぷり怒っていたが、やがてにやりと含み笑うと、和音の隣へにじり寄った。

「ま、和音ちゃんも和音ちゃんだよね。あーあ、武士の切腹みたいな責任の取り方しちゃって。長い髪、きれいだったのになあ」

「七瀬ちゃんには関係ないでしょ。それに、深い意味はないんだってば」

「はいはい。短いのも似合う似合う。可愛いよ」

 七瀬は余裕の笑みで受け流し、和音はさっきの数倍は居心地悪そうに沈黙したが、桜の香のように柔らかな雰囲気に絆されてか、撫子もふわりと微笑した。

「和音ちゃん、似合ってる。……遠くに行っても、これからも友達でいてね」

「……うん。学校違っても、よろしく」

 和音もぎこちなくだが微笑むと、改まった様子で柊吾達へ全身を向けた。

「今日は、ありがとう。私とイズミさんの見送りで、朝早くから集まってくれて」

「佐々木、出発の時間は?」

「十時くらい。入寮式は午後からだし、家族の車で向かうから、十分間に合う」

「そうか。……元気でな」

「うん。そっちこそ」

「ねえ和音ちゃん、落ち着いたら遊びに呼んでよね。和音ちゃんが新しく生活する街、私も行ってみたい」

「街を案内できるかは、しばらくは分からないけど……土日なら、遊びにきて」

「私も行きたい。七瀬ちゃんと、毬ちゃんと一緒に」

「うん。私も、こっちに帰る時は連絡する」

「週一で?」

「七瀬ちゃん、からかわないでくれる?」

 憮然とした口調だったが、女子達でわいわいと話す和音は、少し嬉しそうに見えた。切り落とした髪は勿体ないが、本人が前向きな気持ちでいるのなら、柊吾が口出しすることではないだろう。春の陽気のような充足感に包まれていると、すっかり忘れていた人物の声が、背後から朗々と聞こえてきた。

「――おはようございます。皆さん。高校の制服、よくお似合いですよ」

 五人になったメンバーで、今度は御山側を振り向いた。するといつの間にやら石段を下り終えていた呉野和泉が、青色の目を柔和に細めて、柊吾達を見下ろしている。金色に近い灰茶の髪は、早朝の白んだ光と鳥居の丹色によく映えた。

「おはようございます。イズミさん」

 皆でお辞儀をして顔を上げると、向かい合った全員の制服の真新しさに、照れ臭さを覚えてしまう。柊吾達は本当に、もうすぐ高校生になるのだ。大きな一歩を踏み出そうとしている実感が、別れの寂しさを薄れさせた。まずは拓海が頷いて、メンバー代表で口火を切った。

「イズミさん。今までありがとうございました。俺達はイズミさんの言葉から、たくさんのことを学びました。これからもイズミさんと一緒に過ごしたかったから、突然こういうことになって寂しいです。ロシアでのお仕事、がんばって下さい」

「拓海君、堅苦しいことは止して下さい。僕の方こそ、今までありがとうございました。君達と過ごせた時間は僕にとって宝物ですよ」

「あの、イズミさん。これからはロシアの学校で、日本語を教える先生になるんですよね。そっちを本業にしてから親戚のお手伝いもするって言ってましたけど、もしよかったら落ち着いた頃にでも、お仕事のお話を聞かせて下さい。興味があるんです」

「ええ。そのようにしたいものですね。僕は母国も愛していますが、日本も愛していますから。人間として再び生を受けるなら、この地へ戻りたいものです」

「え?」

「拓海君、七瀬さん、撫子さん、柊吾君、和音さん。この別れは、さしずめ『永訣の朝』といったところでしょうか。拓海君は僕から多くのことを学んだと言って下さいましたが、僕の方こそ、君達からたくさんのことを学びました。――僕に世界の美しさと、人の心の清らかさを、改めて教えて下さり、有難うございました。君達の歩む道が輝きに満ちたものであらんことを、僕の最後の願いとして、この〝言挙げ〟に御魂を託し、僕はこの地を離れます。どうか皆さん、お元気で」

「『永訣の朝』、って……宮沢賢治?」

 七瀬が、やや怒ったような顔をした。柊吾も、虚を衝かれて黙ってしまう。その詩なら、中学の国語の授業で朗読したので、知っている。

「お兄さんってば、大げさですよ。ロシアに帰っちゃうだけでしょ? 死別するみたいな言い方、やめて下さい。縁起でもないです」

「そうですね、申し訳ありません」

 愁眉を開き、和泉は素朴な口調で謝った。透徹の笑みに免じてか、七瀬は仕方なさそうに表情を緩め、淑やかに口角を上げ、折り目正しくお辞儀をした。

「……向こうでのお仕事が一段落したら、帰ってくるんですよね? その時は、連絡して下さいね。お兄さん、お元気で。今までお世話になりました」

「ありがとうございます。七瀬さん。礼儀正しさを忘れない貴女は、それでいて己の信念に背かない少女ですね。僕のロシアでの生活が整って、この街に再び戻る機会を得られた時は、連絡を差し上げたいのですが……果たしてそれがいつになるやら、判らないものですから。申し訳ありませんが、約束は出来ません」

「もう。薄情なこと言わないで、ちゃんと連絡して下さい。お兄さんはこの呉野神社の神主さんなんですよ? 青い瞳が綺麗なイケメンの異人さんがいなくなるーって、寂しがってる氏子だって、たーっくさんいるんだから!」

 頬を膨らませた七瀬を「判りました、判りました」と和泉は困ったような笑みで宥め、拓海が若干のやきもちを窺わせるしかつめらしい顔をした。「真に受けんなって」と柊吾が小声で諌めると、そのやり取りが聞こえたのか、あるいは心を読んだのか、和泉は愉快気な笑みを拓海に向けた。

「拓海君も、お元気で。東袴塚学園の高等部への入学によって、君は本当に僕の後輩となりましたね。強い向学心を持った君はこれからお忙しくなるでしょうが、時々は今までのように、克仁さんの家へ遊びに行ってあげて下さい。あの御方はああ見えて、寂しがり屋なのですよ」

「もちろん、克仁さんの家にはまた遊びに行かせてもらいます。それは克仁さんの為だけじゃなくて、俺自身の為でもあるから……俺は、克仁さんが好きなんです。だから、これからも一緒にいます。イズミさん、安心して下さい」

 すっきりと笑った拓海は、和泉とよく似た穏やかさで、はきはきと己の言葉を口にした。その成長ぶりに感じ入るものがあったのか、睫毛を目を伏せた和泉が「有難う」と言った気がしたが、柊吾が聞き取れなかっただけだろう。大体、敬語を使わない和泉など、不自然だ。拓海も訝しげな顔をしたが、気を取り直すように会話に戻った。

「俺は今、イズミさんが克仁さんの家に住んでた頃の本をたくさん読んでる途中なんです。イズミさんが帰国する時には、前よりも文学の話ができると思います」

「おや、それは楽しみです。数年後には僕よりも君の方が、ずっと博識になっているやもしれませんね」

「いや、さすがにそれはないと思いますけど……」

「謙遜なさらずとも良いのです。……拓海君。その時はぜひ僕に、美しい物語を教えて下さい。君の選んだ〝清らか〟を、どうか僕に教えて下さい。かつて十八の青年が、一族の大人達からそうされたように。そして二十七の男が、十五の君達へそうしたように。次は君の番ですよ、拓海君」

「え、っと……はい。そんな日が、もし来たら」

 戸惑い気味の声で応じた拓海へ、和泉は未練を果たしたような顔で、もう一度「有難う」と言った。今度は、聞き間違いではなかった。柊吾は、和泉の顔を見返した。

「イズミさん……?」

「柊吾君 如何なさいましたか?」

 何かが酷く引っかかったが、和泉は純度の高い慈愛の顔で、長閑に訊ね返すだけだ。大人の顔だ、と柊吾は思う。中学生が高校生になったところで、心の内は見通せない。

 だが、たとえ外から心が見えなくとも、それは大した問題ではないのだ。

 決して誰にも見えない心を手探りで届け合う為に、きっと人間は遥か昔から脈々と、言葉とともに生きてきたのだから。柊吾はそれを、目の前の男から教わった。すうと息を吸い込むと、柊吾はこの地を去ろうとする和泉へ、決意を秘めた別れの言葉を投げかけた。

「イズミさん。俺はイズミさん達と出会って、いろんな事件を経験して、決めました。将来は、警察とか、刑事とか、そういう仕事を目指したい、って」

 小さな驚きの声が、仲間達から上がった。和泉も、青色の目を瞠っている。柊吾のこの〝言挙げ〟は、意外なものだったらしい。人の心が『判る』男にも、読めない心がここにある。それを伝える為の手段は、やはり声と言葉であるべきだ。それこそが、柊吾達の絆なのだから。

「風見のことだけじゃなくて、呉野のことも、俺は〝はないちもんめ〟で全部決着をつけたつもりです。でも、俺は……呉野氷花っていう仇討の対象が、俺の中から消えてなくなっても。ああいう悪意から誰かを守りたいって気持ちまでは、消えてないから」

 十四歳の初夏の柊吾には、まだこんな目標は生まれていなかった。

 ――呉野氷花。暴風のような悪意で以て、〝言霊〟を操る異能の少女。

 出逢い、憎み、敵対し、ついには手を取り合って一緒に遊び、こうして進むべき道が分かれた今、仇討への決意が未来への足掛かりに変わった柊吾の胸中は、不思議なくらいに凪いでいた。

 そんな柊吾の嬉しさは、『判る』男へきちんと伝わったようだった。和泉は一度瞳を閉じて、「成程」と得心の囁きを漏らしていた。

「柊吾君らしい決心ですね。氷花さんとの出逢いから、長いようで短い時が過ぎましたが、君も本当に大きくなりましたね」

「はい。まだまだ、デカくなるから」

「ほう、懐かしい台詞ですね。君は覚えていますか? その台詞が、既に二度目のものであることを」

「え? 二度目?」

「思い出せなければ、君のご家族に訊ねてみると良いでしょう。変わってゆくものもあれば、変わらぬものもありましょう。君達は皆、変化と普遍の狭間に立って、これからも日々を生きてゆくのでしょう。――これで、明瞭に判りました。やはり僕に、生への未練はありません」

「……本当に、ですか?」

 ざあ、と春の風が吹き抜けて、桜の花弁が空高く舞い上がった。雨音に似た風音を縫って聞こえたその声に、誰もが意表を突かれて、振り返る。

「雨宮……」

「本当に、未練はありませんか? それだけをもう一度、ちゃんと聞けたら……私達も、安心できますから」

 風に短髪をそよがせた撫子は、寂しげに囁いた。

 その視線の先にいる、呉野和泉は――俄かに、驚いたようだった。

 青色の双眸は、大きく見開かれていた。瞳に燦然と宿った光はまるで、(あけぼの)色の空に昇る朝日のような神々しさで、無限の広がりを見せていく。劇的な出逢いを迎えたとした形容できない表情で、和泉は撫子を見つめていた。

「貴女は…………ああ。そうだったのですね。貴女は、そうだったのですね。だから僕は、貴女を救いたかったのかもしれませんね。サンクトペテルブルクのアパートで、幼少期の僕が初めて目にした、世界で一番、清らかな光……」

 和泉は撫子の正面まで静々と歩み寄り、恭しく片膝をついた。柊吾達はぎょっとしたが、和泉は浅葱の袴がアスファルトに擦れてもお構いなしだ。

「この清らかな輝きを、僕は再びこの目に映すでしょう。二度、三度と、生まれ変わったその先で、再びこの目に映すでしょう。その輝きの放つ色は、きっと貴女の愛の色です」

「神主さん……?」

「今はまだ、何も分からなくとも良いのです。撫子さん。――しなやかに、強かに、美しく、そして幸福に、生きて下さい。僕が呉野和泉でいる間に、貴女と出逢えて良かった。きっといつか、僕達はまた逢いましょう。左様ならば、暫しの別れも耐えられます。貴女の育んだ〝清らか〟が、僕の新しい名に変わる日まで――お母様」

 青色の目に敬虔を浮かべた和泉は、きょとんと無垢に戸惑う撫子の肩に、右手を添えて、栗色の前髪を櫛けずり――額に、口づけを落とした。

「なっ……!」

「きゃーっ!?」

 柊吾が大口を開けて絶句するのと、七瀬が黄色い叫びを上げるのは同時だった。拓海と和音は唖然の顔で石のように固まっている。呉野和泉は一同の混乱を意に介さずに、頬を紅色に染めて動けなくなっている撫子へ、小声で何かを耳打ちした。

「い……イズミさん、殺す! ぶっ殺すっ!」

 喚いた柊吾は二人の元へ詰め寄ったが、立ち上がった和泉はひらりと柊吾の手を躱し、「今日だけはお許しください。外国流の挨拶ですよ」などと逃げ口上を暢気に述べて、くつくつと楽しげに笑っていた。

「ああ!? 今までそんなこと誰にも一回もしてねえだろっ!? じゃあ俺や坂上にもしてみろよ!?」

「えっ、俺!? あ、あの、俺には篠田さんという人がっ……」

「ちょっと拓海くん! 呼び方間違えてる! 篠田さん禁止!」

「おやおや、拓海君。呼び名の間違いはいただけませんね? そして柊吾君、君がそれを望むなら、僕は一向に構いませんよ」

「い、要らねえし! それより、返せ! さっきの返せ! 無しにしろっ!」

「返せるものではありませんよ。君達は本当に、皆さん仲が良いですね。それでは僕はこの辺で、失礼させて頂きます。神社の務めがありますから」

 嫋やかに一礼して、和泉は衣裳を翻して歩き出した。すると七瀬が「あっ、お兄さん! 待って!」と我に返った様子で呼び止めた。

「ねえ、呉野さんは? 私達、あの子のことも、送り出すつもりで来たんだけど……」

「……そのお気持ちだけを、有難く頂戴いたします」

 鳥居の真下、此方(こなた)彼方(あなた)の境界で、和泉は足を止めて、振り返る。何故だか哀切を湛えた青い目が、柊吾達を見下ろしていた。

「あの子は今、旅立ちの準備に追われていますから。今日の午前中には発つのです」

「今日の午前中? ……和音ちゃんと、一緒だ」

 七瀬と和音が、顔を見合わせている。「ええ」と和泉は莞爾(にっこり)した。

「ついさっきまでは僕の務めを手伝って、境内の掃き掃除に勤しんでおりましたが、今頃は家に戻って着替えを済ませ、荷物の確認をしているはずですよ」

「待てよ、じゃあ呉野ってこれからは、一人暮らしなのか……?」

 これには柊吾もびっくりしたが、そもそも呉野氷花の進路について、柊吾達はいまだに『県外の高校』としか聞かされていないのだ。詳細については和泉にはぐらかされてばかりだった。今日こそ明かしてもらう心算でいたが、あまりにも和泉が寂しげに見えた所為で、深く追求できなくなってしまった。

「氷花さんも僕同様に、これから暫くの間、この袴塚市を離れますから。彼女が〝言霊〟の異能で皆さんにご迷惑をかけることは、今後二度とないでしょう」

「それは……本当に?」

 七瀬が、神妙な面持ちで訊ねた。喧嘩友達が転校していくような寂寞が、僅かだが声に滲んでいる。そんな感情の機微が心地よく伝播したのか、「ええ、当分の間は」肯定した和泉の顔は、今までのどんな時より氷花の兄らしいものだった。

「もしこの街に戻ることがあれば、その時は克仁さんが教えて下さるかもしれません。ですが、こちらも約束はできません。……戻ってきた人間が、本当に君達の知っている氷花さんかどうかなど、誰にも断言できませんから」

「え? お兄さん……?」

「こちらの話ですよ。氷花さんには先程、皆さんに会って行かれませんかと訊ねてはみましたが、ご存じの通り、意地を張ってばかりの子ですから」

「……呉野さんってば、素直じゃないんだから」

 嘆息した七瀬は、小さく笑った。相手の勝ち逃げに目をつぶって、寛容に許すような笑みだった。その隣では拓海がまだ考え込んでいる風で、「イズミさん」と呼びかけたが、和泉は弟子の追及を避けるように、身を翻したところだった。

 だが、何を思ったか立ち止まった。

「ああ、最後に」

 いつも通りの口調で言って、和泉は柊吾達を振り返る。

 そうして、眉目秀麗の和装の男は――花のように、微笑んだ。

「先程の撫子さんの質問に、まだお答えしていませんでしたね。……僕の答えは、変わりません。僕に生への未練は、ありません。もし数刻前までの僕にまだ未練があったというならば、その未練はたった今、朝日に照らされた宵闇のように、僕の内から消えました。改めまして、皆さん。今まで有難うございました。それでは――左様なら」

 桜舞う神域の入り口に、別れの〝言挙げ〟が滔々と響く。灰茶の髪が、空色に艶めいた。浅沓(あさぐつ)を履いた足が、現世(うつしよ)幽世(かくりよ)を隔てるような境目を、今度こそ踏み越えていく。まるで『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフが、己に罪を赦すように。石段を今度は一段一段上がる和泉は、もう二度と柊吾達を振り返りはしなかった。遠のいていく後ろ姿を見送りながら、柊吾は漠然と、思ってしまった。

「もしかしたら、イズミさんと、呉野とは……」

 〝言霊〟の異能を受け継いだ、あの美しい呉野一族の末裔とは――この別れが、今生の別れになるのかもしれない。

 それ以上の発言を、柊吾は躊躇した。〝言霊〟は、現実世界に影響を与えてしまう。だが声の形にしなくとも、全員が同じ思いを等しく分かち合っていた。

「でも三浦、まだイズミさんは今すぐロシアに行くわけじゃないし、まだ雨宮さんの目の問題だって、ぎりぎりまでどうなるか分かんないじゃん。……今日は笑ってさよならできて、良かったよ」

 空元気のように笑った拓海が、柊吾の背を軽く叩いた。さっきまでの蟠りは、七瀬のように一旦据え置くと決めたらしい。励ましを受け取った柊吾も「そうだな」と頷いたが、頷かなかった者もいた。

「……私、イズミさんと少し話してくる」

 朴訥に声を発したのは、佐々木和音だった。スカートの横で握り締められた拳は固く、何となくそわそわと落ち着かない様子に見えた。

「佐々木、どうしたんだ?」

「別に……でも、もう会えないかもしれないなら、私もちゃんと、お別れの挨拶をしたいから……」

「そうか……って、おい。イズミさん、足めちゃくちゃ速くないか? もう見えなくなってるぞ」

 御山を見上げ、柊吾は唖然としてしまった。さっき別れたばかりのはずなのに、和泉の姿は石段のどこにも存在せず、影も形も見えなかった。まるで、夢の終わりのように。

「行ってくる」

 やや慌てた様子で、和音が石段に向かおうとする。すると七瀬が小声で「和音ちゃんってば、もしかして。やだ、面食い」とからかったので、即座に気難しげな顔で振り返った和音の頬に、さっと朱が差した。

「なんでそうなるの」

「あははっ、冗談。じゃあ皆、私たちもここで解散にしよっか。和音ちゃんがお兄さんと心置きなく話せるように。呉野さんに会えなかったのは残念だけど、いつかまた会えるでしょ」

「七瀬ちゃん、私は別に、そういうのじゃなくて……」

「ほらほら、和音ちゃん。お兄さん行っちゃったよ。早く追い駆けなきゃ、追いつけなくなっちゃうよ」

「分かったけど……」

「じゃあね、和音ちゃん! 絶対会いに行くからね!」

「……じゃあね、七瀬ちゃん。みんな」

 ふっと柔らかに笑った和音も、御山を見上げて歩き始めた。ローファーの踵が石段を踏む硬い音が、遠ざかる。ブレザーの肩口で揺れる黒髪を見上げながら、柊吾も「じゃあな!」と声を張り、「元気で!」と拓海も溌剌と叫んだ。和音は一度だけ振り返り、面映ゆそうに手を振った。友人の門出を見届けると、場には別れの余韻がしめやかに沁みていった。

「三浦達は、これからどうする?」

「あ、ああ。俺達は……中学に、遊びに行こうと思ってる。さっき話してた野球部の先生に、この格好で挨拶したいから。坂上と篠田はどうするんだ?」

「んー、決めてないんだよね。私達は中等部に行っても、その隣が明日から通う高校だもん。……撫子ちゃん、大丈夫? そういえばさっき、お兄さんに何かこそっと言われてたよね。あれ何だったの?」

 いまだ一言も喋らない撫子の傍に、七瀬が少し心配そうに寄り添った。撫子は潤んだ目で七瀬を見上げて、心細そうに囁いた。

「それが、七瀬ちゃん……分からないの」

「分からない? 聞き取りにくかったってこと?」

「ううん、そうじゃなくて……日本語じゃなくて、多分、外国の言葉だった……」

 その時、桜の花びら混じりの風が、石段前に集う四人の間を吹き抜けた。

 冷えた風音に打ち消されずに、その男の声は、伸びやかに響いた。


「――『До сви(ダスヴィ)дания(ダーニャ)』。イズミ君は、然う云ったのではありませんか?」


「藤崎さん」

「克仁さん」

 不意打ちの登場だった。柊吾と拓海は振り返り、それぞれが男の名を呼んだ。

 鳥居の正面、灰色の住宅街の十字路から歩いてきたのだろう。麻の白シャツにカーキのズボン姿の初老の男――藤崎克仁が、いつの間にか柊吾達の傍に立っていた。

「師範、どうして……」

 驚く七瀬の傍らで、撫子が息を吸い込んでから、「はい」と神妙に返事をした。無表情に近かった藤崎の顔に、明白な哀愁が生まれていく。

「……やはり、ですか。あの子の云い残しそうな言葉です」

「克仁さん、いつからここに……?」

 放心の体で問う拓海へ、藤崎は「イズミ君が、ロシア語で別れを告げた辺りからですよ」と、穏やかに答えて微笑んだ。

「……虫の知らせ、なのでしょうね。屹度、今日だと思いました。あの子は私との決別を、あの月夜に済ませた心算でいるのでしょう。……親不孝者ですよ、本当に。ですから、私も決めました。必ずや、長生きをしてみせます。九年前に國徳さんが、イズミ君と誓いを立てて、天寿を全うしたように。私も屹度、妻の分まで、そして最愛の息子の分まで、長生きをしてみせますよ。……イズミ君。其れが、君の、望みでしょう……?」

 そう宣誓した藤崎は、背筋を伸ばし、神社の境内に繋がる鳥居を見上げた。

「君が希望を捨てぬように、私も決して諦めませんよ。屹度いつか、君と氷花さんと、再び出逢える日が来ることを……」

「……」

 柊吾は――既視感の奔流に、呑まれていた。

 父が亡くなった時も、和装の異邦人が己の家族を悼んだ時も、この哀愁は影法師のように、柊吾の傍に在り続けた。今朝だってそうだ。この場所へやって来るまでの間に、何度だって柊吾はその存在を、肌で感じていたではないか。水縹色の喪失が、御山の奥に広がる泉のように、とめどなく溢れて決壊した。この大空のように世界を包み込んだ喪失感の正体を、柊吾はとうに、知っていた。永訣の朝の気配を、知っていた。

「……藤崎さん。さっきのロシア語の意味を、教えて下さい。イズミさんは、雨宮に……最後に、何て言ったんですか……?」

 やっとのことで、柊吾は訊いた。

 藤崎は、ひどく儚げに微笑した。


「……『До сви(ダスヴィ)дания(ダーニャ)』。此の言葉の意味は――『左様なら』ですよ」


 その囁きが、場の空気を淑やかに震わせた時だった。

 撫子が目を見開いて、「ああ」と小さな喘ぎの声を上げたのは。

 柊吾を始め全員が、何事かと撫子を注視する。だが当の撫子本人も、己の身に何が起きたのか、分かっていないようだった。ただ愕然と虚空を仰ぎ、白いタイを結んだセーラー服の胸元に両手を当てて、風にそよぐ花のように、身体がアスファルトへ傾いでいく。

「雨宮!」

「撫子ちゃん!」

 柊吾も駆け寄ったが、撫子の傍に立っていた七瀬の方が早かった。俊敏な動作で撫子をしっかり抱き留めた。「雨宮さん!」と叫びながら拓海も切羽詰まった顔で駆け出した。藤崎も血相を変えていたが、何故だか悲痛な表情に変わり、片手で顔を覆ってしまった。骨ばった手の隙間から、透明な滴が伝い落ちる。柊吾は、絶句してしまった。

「撫子ちゃん! 撫子ちゃん! ……えっ、何て?」

 七瀬はアスファルトに両膝を付いて、倒れた撫子の上体を抱え上げて叫んでいたが、不意を衝かれたような顔になると、撫子の顔に耳を寄せた。

 撫子が、うわ言のように、何かを呟いている。

「……な、い……」

「ない? 何が……っ?」

「外れた、の…………はさみ、もう、なくなった……」

 空を見上げる撫子の目に、透明な涙が次々と溢れ始めていく。「ああ」ともう一度、唇から切なげに零れた声は、まるで別れを偲ぶような声であり、決して避けようのないその別れを受け入れたような声でもあった。撫子の震える手が、ゆっくりと虚空へ差し伸べられる。

 その指先が、差す場所は――丹色の鳥居の向こう側、神社へ続く石段の中腹、佐々木和音の、後ろ姿。

「早く……」

 佐々木和音は、気付かない。撫子の哀願に、気付かない。

 それに、たとえ、気付いたとしても――全てはもう、終わったのだ。

「……さようなら……」

 静かに落涙する撫子が、七瀬の腕の中で囁いた時、一陣の風が再び吹き抜けた。

 清冽な山の気配と、それから仄かな花の匂いが、立ち尽くして空を見上げ続ける柊吾達の肌に触れて、そっとすれ違い、そのまま追い越して、去っていく。



    *



 佐々木和音は、石段を上がり続けていた。

 ゆっくりと、一定のリズムを崩さずに、目の前の一段一段をローファーを履いた足で踏みしめて、背後は一度も振り返らなかった。

 振り返ってしまったら、別れが寂しくなってしまう。

 さっき鳥居をくぐる直前に、七瀬がいつも通りの別れ方をしてくれたのが、和音には有難かったのだ。この別れは決して特別なものではなく、その気になればいつだって、和音達はまた会える。徐々に近づいてくる頂上の鳥居を見上げながら、和音は自分が微笑んでいたと気付き、浮き立っているのだと、自覚した。

 思えば、数日前に家まで遊びに来てくれた毬からも、指摘を受けたばかりだった。

 ――『和音ちゃん。私、嬉しいの。ちょっと前の和音ちゃんは、前ほど笑わなくなったから。でも今の和音ちゃんは、幸せそうに笑う時間が、増えた気がして……私、すごく嬉しいの』

 毬はそう言って、和音よりもずっと幸せそうな顔で笑ってくれた。

 数か月前の和音は、人に合わせた笑い方ばかりを極めていた。

 二ヶ月前の和音は、人に合わせた笑い方をやめてしまった。

 そして今の和音は、ちゃんと、和音として笑っている。

 自分の笑顔を、見つけたのだ。誰に憚ることなく、無理もせずに、和音は和音の顔を知った。きっと毬はそれを指して、嬉しいと言ってくれたのだ。和音もそれが、嬉しかった。自分を見定められたことも、毬がそれを、誰より早く気付いてくれたことも。

 だからこそ、和音はこうして――呉野和泉に、会いに行こうとしているのだ。

 和音が自分の笑顔を見つけられたのは、あの和装の異邦人との劇的な出逢いのおかげだった。和音は和泉と出逢えたから、これからも笑顔で生きてゆける。その喜びを、感謝の気持ちを、きちんと言葉で伝えたかった。あの〝はないちもんめ〟の夕暮れに和泉とは二人きりで話せていて、あの時の会話を以て別れとしても構わないが、ほんの少し、欲が出た。最後にもう一言二言、和音は和泉と話してみたい。そんな風に考えた時、さっき七瀬に言われた言葉を思い出して、頬が緩く熱を持った。

 だが、そうかもしれない。素直に認める自分もいた。

 ――自分は、攫われてしまうかもしれない。

 初めて出逢った瞬間の、非日常への畏怖や憧憬にもひどく似た、心の揺れ動きを思い出す。魂さえも奪われてしまいそうな青い目と、鮮烈な茜色に染まった美貌に、見惚れたことも思い出す。和音は、淡く笑ってしまった。

 やっぱり、そうかもしれない。和音の初恋は、和泉。もうその恋は自覚をする前に終わっていて、仮にあの頃に自覚が出来ていたとしても、和音はそんな自分の心をどう扱ったらいいものか、酷く不様に戸惑ってしまったに違いない。気付いた時には消えていて、けれど確かに生まれていた、それは夢でも幻でもない、血の通った恋だった。その確信を胸に抱いて、和音はふと、思い出した。

 昨年の十二月に、和音は和泉と、ある約束を交わしている。

 ――和音さんがこの唄を諳んじる事を、禁止します。

 改めて回想すると、つくづく妙なお願いをされたものだ。くすりと和音は笑ってしまい、春の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 解禁だ。こんなにも清々しい、それぞれの旅立ちの朝なのだ。和音を狙ったという呉野氷花は、もうすぐこの袴塚市を去ってしまう。もう二度と出逢わないのかもしれないし、あるいはいつか何処かで再び出逢う日が来るかもしれない。未来がどんな風に転がるのか、今の和音には分からない。

 今の和音に分かるのは、呉野和泉と交わした約束の期間を、既に満了したという事実だけだ。

 そして和音は、燦々と白い光と桜の花びらが降る石段を、弾む足取りで上がり続け――唇に唄を、乗せたのだった。

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