花一匁 138
桜の花弁が、しんしんと静謐に降っていた。
こんな風景を、どこかで見たような気がしていた。
どこで、目にしたのだろう。桜並木の只中に立って、三浦柊吾は記憶を手繰る。
真っ先に頭に浮かんだ風景は、東袴塚学園中等部の校門だ。校舎までを繋ぐ道に、桜が等間隔に植えられていた。柊吾が今いる一本道と、酷似している風景だ。
駅にほど近いこの桜並木は、灰色の団地が密集した区域と私立の女子高まで続いている。脇道はおろかベンチもなく、在るのは砂利道と桜だけだ。永遠に続くかのような道の先には、霞がかった街の景色。果てしないその場所を柊吾が見渡していると、背後で砂利を踏む音がした。
振り返れば、待ち人が立っていた。
――佐々木和音が、立っていた。
黒いブレザーに緑のチェック柄のスカート姿。呉野神社の御山の奥で、氷花も着ていた制服だ。今の和音はポニーテールをやめているので、出で立ちが氷花そっくりだ。だが氷花よりも和音の方が、この制服が似合っている。そんな主観を柊吾は言葉の形にしないまま、身体の向きを静かに変えて、和音の元へ歩み寄る。
和音もまた一歩一歩、柊吾の元へ歩いてきた。
互いにゆっくりと距離を詰めていく中学生の少年少女へ、音もなく桜の花弁が降ってくる。その様はまるで、卒業式で体育館から退場する柊吾達へ在校生が降らせてくれた紙吹雪のようであり、本物の雪のようでもあった。昔の日本人は晴天時に空から舞う雪を、風花と呼んで桜に見立てたと、和泉から聞いたことがある。青空の下、薄桃に色付いた白い桜が降る世界で、二人はたったの二人だけで、最後の舞台に立つと決めて、ここにいる。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
「急に呼び出して、ごめん」
朴訥とした口調の台詞は、〝アソビ〟翌日の明朝に、柊吾のアパート前で聞いたものとよく似ていた。「別に」と返した柊吾は、自然と苦笑を返していた。こんな風に、笑みさえ返せるようになったのだ。和音も、薄らとだが笑ったようだ。口角が、少し上がっている。
「鞄、どうして二つも提げてるの?」
「一つは雨宮の鞄だ。イズミさんの家から帰る時に預かったら、うっかり返しそびれた」
そう言って、柊吾は右肩にまとめて提げたスクールバッグを抱え直した。思えば最初の〝アソビ〟の日も、こうして柊吾は撫子の荷物を預かって、東袴塚学園を歩いたものだ。中学校を卒業しても、行動はあの頃と変わっていない。和音も同様の感慨を抱いたようで、卒業アルバムのページを捲るような懐古を、目元へ優しく浮かべていた。
「だから撫子ちゃん、手ぶらだったんだ」
「雨宮に会ったのか」
「七瀬ちゃん達にも会った。日比谷君以外はもう、みんな駅に集まってる」
「そうか。でも、二時までは待ってくれるんだろ?」
「うん。それまでに、聞いてほしいことがあるの」
「内容は?」
「最初の〝アソビ〟の日に、私と撫子ちゃんが二人で行動してた時のこと」
「ああ。聞かせてくれ」
「うん」
微笑を収めた和音は、傍らに植えられた桜の木を見上げた。
柊吾も一緒に見上げたその桜は、周囲の桜の木々よりも、一際立派な大木だった。逞しい幹から健やかに伸びた枝葉はまるで、無限に枝分かれした柊吾達の進路のように、二人の頭上に広がっている。
不意に柊吾は、呉野和泉のことを考えた。日本文学に造詣が深い、和装の異邦人である和泉のことを。
この状況を例えるに相応しい、文学作品の名を思い出したからだ。
文豪の名は、坂口安吾だっただろうか。柊吾の名と同じ『吾』を著者名に冠した作家なので、同胞意識にも似た親近感から印象に残っていた。
肝心の作品タイトルは、惜しいところで思い出せない。
拓海なら、知っているだろうか。恭嗣に訊けば、確実だろう。
今度教えてもらおうと、頭の隅で考えながら――桜の森の満開の下で、柊吾は空を振り仰いだ。
澄みきった青い空へ、門出の歌のように麗らかな響きの和音の声が、朗々と流れて、溶けていく。
*
――氷花と美也子によって始まった、最初の〝アソビ〟の三月五日。
柊吾達の高校受験日でもあったその日、東袴塚学園中等部から、和音と撫子は姿を消した。その空白の時間について話したいと和音が申し出てくれたのは、昨日の晩のことだった。柊吾は自宅の電話でそのまま聞こうとしたのだが、和音は真剣な声でこう答えた。
『直接会って、話したいから』
その誠意を汲み取って、柊吾は今ここにいる。
呉野神社を辞してから、撫子を拓海と七瀬に預けて、ここにいる。
和音は柊吾にどう説明するか、余程入念に考えてきたに違いない。その語り口は抑揚に乏しいながらも滑らかで、理路整然として無駄がなかった。そんなリズムを守るように、柊吾は口を挟まなかった。そうすべきだと思ったからだ。
やがて、和音の着た喪服のように黒いブレザーの両肩に、桜の花びらが一枚、二枚、と積もる頃。和音は柊吾の目をしっかりと見て、長くも短くも感じた告白を、謝罪の言葉で締め括った。
「――ごめんなさい。私の所為で撫子ちゃんを、必要以上に危ない目に遭わせた」
唇を凛と結んで、丁寧に頭を下げた和音の肩から、長い髪がさらりと滝の流れのように零れていく。潔い佇まいは、まるで侍のようだった。揃えられた両手とスカートから覗く両膝には、赤い瘡蓋がいまだ生々しく残っていた。
「いや、いいんだ」
柊吾はそう答えたが、これでは言葉足らずだろう。ぎこちなく礼も付け足した。
「……ありがとな。あいつのこと、守ってくれて」
危ない目に遭ったと聞いてもちろん肝は冷えていたが、和音は撫子を救ってくれた。かけがえのないその事実を、柊吾は尊重したいと思っている。
「雨宮はあの日のことを、何か隠してるって気はしてたし。佐々木が教えてくれなかったら、ずっと知らないままだった」
「やっぱり撫子ちゃん、言わなかったんだ。庇わなくたって、別にいいのに。……でも、そういう所が、撫子ちゃんらしい」
頭を上げた和音は、そう言って目を細めた。柊吾は、俄かに動揺した。いじらしく微笑む和音の顔が、何だか女性的に見えたのだ。事件を通してお互いに、随分変わったものだと思う。
「……雨宮、未だに俺に言うんだ。佐々木のことを怒るな、って。俺だって別に怒ってねえから、もう気にすんな。……あー、それにだな……お前も、無事で良かった。今回は雨宮のこと助けてもらったけど、次からはこういう無茶はすんなよ。ちゃんと人を呼んでくれ」
「? 私は、鍛えてるから平気。大体、そんな悠長なこと言ってたら、助かるものも助からない」
和音は不可解そうに柳眉を寄せて、柊吾をじろりと睨んできた。今日の氷花の言葉ではないが、気遣いに慣れていない人間が、ここにも一人いるようだ。
「そういう意味じゃなくてだな……」
柊吾は額を抑えて唸ったが、続きの言葉は途中で面倒になって諦めた。撫子や七瀬以外の女子生徒とは、やはり会話が難しい。
「どうして、許してくれるの? 撫子ちゃんが、怒らないでって言ったから?」
「雨宮だけが、理由じゃない。なんていうか、お前は……もう、仲間だから」
「……。ありがとう」
和音が、ふっと角の取れた笑い方をした。
同時に、桜並木の道の果てから、風が一直線に吹き抜けた。桜の乱舞を誘う風は、和音の長い黒髪に桃色の艶めきを与えながら、柊吾達の衣服を靡かせた。むせ返るような花の香が二人だけの舞台に広がり、和音の双眸に儚げな優しさが、行燈のように灯っていく。
「東袴塚学園って、西高とすごく近いから。これからも登下校なんかで、危ないこともあるかもしれない。だから……これからは、あなたが撫子ちゃんを守ってあげて。私は、傍には、いられないから……」
「佐々木……高校は、県外って本当か?」
「うん。……遠い所に通うから」
髪を掻き上げながら、和音は言った。桜並木の続く先、青白く霞む街の景色を、遠い瞳で見つめている。
「まだ毬と七瀬ちゃんにしか、言ってないけど……この春から三年間、寮に入ることに決まったから」
「寮に? ……佐々木がっ?」
柊吾が露骨にぎょっとすると、和音は少し気分を害した様子で、唇をつんと尖らせた。それから弁解のような言葉を、決まり悪そうに紡いでいく。
「去年の十二月に、私はイズミさんと初めて会ったの。その時に、今の進路を決めたの。授業が少し変わってて、大学みたいに、単位制の学校。急な進路の変更だったし、普通の学校より費用だってかかるから、家族も先生も驚いてたけど、背中を押してもらえた。いい経験になるだろう、って。……自分でも、馬鹿なことしたって思ってる。遠い所に行ってまで、煩わしいに決まってる集団生活なんかに、わざわざ混ざりに行くなんて。でも、イズミさんと話してたら、出来るって気がしたの。そんな風に感じた自分の可能性が、どこまで開けてるのか、試してみたく、なったから……」
最後は、小声で聞き取りにくかった。そそくさと目を逸らした和音の横顔を、柊吾は若干の呆れと心配の混在した目で凝視した。
「それ、大丈夫なのか? ……寮とか、明らかに向いてねえだろ」
「そうかも」
存外に素直な態度で、和音は苦笑いした。柊吾が見抜いたことくらい、本人が一番痛感しているに違いない。
「本当に、向いてないと思う。イズミさんと出逢う前の私の方が、まだ向いてたんじゃないかってくらい、今の私には向いてない。この進路を選んだ自分の突飛さに、正直すごく呆れてるし、すごく不安。……毬と離れるのも、辛いから」
「……どうしても嫌なら、やめちまってもいいと思うぞ。滑り止めだって、受けてただろ」
「ううん、それは考えてない」
「なんでだ? 綱田だって、そっちの方が喜ぶだろ」
「これは毬の問題じゃなくて、私の問題だから。それに、これから始まる新生活が、今の私に向いてないものだとしても……これからの私に向いてるかどうかは、まだ分からない」
とんと身軽に、和音はローファーを履いた足を、一歩前に進めた。和音の肩に乗った桜が、その動きではらりと散った。もうすぐこの街から旅立つ少女は、全ての枷を振り切ったような清々しさで、柊吾を振り返ると微笑した。
「今の私にできることは、そういう無謀な挑戦をするところまで。大体、もう受かっちゃってるんだから、がんばるしかない」
「そりゃ、そうだけどな……」
「がんばってみるつもり。できるだけ。でも、精一杯。それで駄目だったら、帰ってくる。だけど、駄目になるかどうかなんて、挑戦してみなきゃ分からない。どうせ堂々巡りなら、前に進むか後ろに退くかは、挑戦してから考える」
「……。たまには帰ってこいよ。その方が綱田だけじゃなくて、みんな喜ぶ」
「うん。週一で帰るから」
「……は? 週一だとっ? おい、何なんだその頻度。遠い高校じゃなかったのかっ?」
「譲れない問題があるから。あなたは気にしないで」
和音の目に、抜き差しならない光が宿り始める。殺気まで漲った気がしたので柊吾が思わず後ずさると、背後から「三浦くーん!」と良く通る少女の声が聞こえてきた。振り返らなくとも、分かる。七瀬だ。
「ああ、待たせたな……って、お前ら、何やってんだ……っ?」
駅舎の方角を向いた柊吾と和音は、揃って目が点になった。
呼び声の主は確かに篠田七瀬であり、その隣に並んだメンバーも、袴塚西駅に残してきた顔ぶれだったが、何やら様子が面妖だった。
一同は、柊吾から見て右側から――毬、撫子、七瀬、拓海の順で、仲良く手を繋いで歩いてきたのだ。まるで三月七日の〝はないちもんめ〟の、縮小版のような陣形だ。
一番右側を歩く毬は、眉を下げて笑っていた。柊吾が久しぶりに会った仲間は、あの日の絶望を乗り越えたに違いない。スカートを翻してこちらへ進んでくる足取りは、柊吾の胸の閊えが一瞬で取れるほど爽やかだ。
ただ、一つだけ妙な点があった。毬の襟のリボンタイが、青と白のチェック柄なのだ。これは袴塚中学のものではない。
そんな毬の隣を歩く撫子は、おっかなびっくりと言った足取りだ。表情からも仄かな緊張が窺えたが、柊吾と目が合うと栗色の髪をぴょこんと兎の髭のように弾ませて、安堵の笑みを見せてくれた。胸元のリボンは、緑色。毬と交換しているようだ。
さらにその隣を歩く七瀬は、右頬にカラフルな絆創膏を貼っていた。さっき会った時にはなかったはずだ。しかもこの絆創膏のセンスは、柊吾にとって非常に覚えのあるものだ。ぎくりとしながら目を凝らすと、デフォルメされた犬の柄が視認できた。
そして、一番左端を歩く拓海は、四人の中で一番珍妙な姿をさせられていた。頭頂部で黒髪をぎゅっとヘアゴムで括っていたのだ。ポニーテールをやめた和音の代わりのようなヘアスタイルだが、いかんせん男子の頭髪なので、短い髪がアンテナのように立っている。大方あのヘアゴムは、撫子の所有物に違いない。
――ここまで来れば、何故こんな事態になったかが察せられた。
「まさか……!」
慌てた柊吾は、肩に提げた二つのスクールバッグのうち、兎のマスコットが付いた方を躊躇いながらも開けた。案の定、正方形の緋色が薄暗がりの中で煌めいたので、隣から視線を投げてきた和音が、納得と呆れの吐息をついた。
「ちゃんと持ち歩かなきゃ、意味ないでしょ」
「わ、悪かったな……まだ慣れてねえんだよ」
「ちょっとー、三浦くん! 撫子ちゃんの鏡ーっ! おかげで『見えなく』なっちゃって困ったでしょー!」
わいわいと賑やかに七瀬達が、柊吾と和音の元へやって来た。口では困ったと言っているが、撫子を含めた全員が楽しそうに笑っている。「悪りぃ」と謝った柊吾は撫子に鏡を握らせてから、これだけは突っ込まなくては気が済まないので、一番楽しそうな七瀬に訊いてみた。
「おい、篠田の絆創膏と綱田のリボンは分かるけどな、なんで坂上の目印はこれなんだ……?」
「だって、一度『見えなく』なっちゃったら、撫子ちゃんの持ってる物で何とかするしかないでしょ? 絆創膏は一枚だけだったもん」
堂々と、七瀬が胸を張った。毬が控えめにくすりと笑ったので、拓海も頭頂部のヘアゴムを外しながら、面目なさそうに笑っている。
「三浦、俺は別に構わないよ。っていうか、リボンか絆創膏かヘアゴムかの三択だったから、これしか選べなかったっていうか……」
「……ったく。何やってんだ、お前ら……」
笑いが連鎖して、柊吾も少しだけ笑ってしまった。一連の事件が終わってから、初めて何の気兼ねもなく、心から軽やかに笑い合えた気がした。
拓海も、七瀬も、撫子も、それに和音も、毬も、同じ気持ちのようだった。全員が、今日の空と同じような清々しさで、笑っている。
和やかな空気が、桜の降りしきる世界に流れ始めた。きっと全員が事件の終わりと春の訪れ、それからもう目前に迫った別れの時を、感じている。
だからこそ――柊吾は、決断に迷ってしまった。
皆にも打ち明けるべき事柄を、ここで打ち明けるべきか迷ってしまった。
――何故なら、柊吾はもう知ってしまったからだ。
呉野神社に赴いた柊吾と撫子は、ここにいる皆より一足先に、一つの真実を知ってしまった。見目麗しい神職の男と改めて言葉を交わしたことで、その未来を知ってしまった。
――呉野和泉が、これから、どこに行くつもりなのかを。
「……」
撫子が柊吾の迷いを察したのか、逡巡の間合いを挟んだ後に、首を横に振ってきた。その意思表示を横目に見ながら、柊吾も浅く頷いて、和泉の件は一旦忘れることにした。
報告は必ず行うが、それは柊吾達全員が、ちゃんと揃った時でいい。
「……もうすぐ二時だな。陽一郎の奴が来たら、行くか」
気持ちをさっぱりと切り替えると、柊吾は代表で口火を切った。
そもそも、柊吾達が卒業式を終えた後で集まろうと決めたのは、単純に皆と友達として会いたかったからだ。異能をきっかけに結びついたメンバーで、もう異能なんて関係ない、ただの友達として。
ただ、そんな風に集まる前に――どうしても、皆で行きたい場所があったのだ。
「うん。まずはお花屋さんだね」
撫子が穏やかに微笑んで、柊吾から兎のマスコットがついた鞄を受け取ると、中から黒いノートを取り出した。――事件の渦中で何度も目にした、あの小さな日記帳だ。
「紺野さんのお母さんから、最寄駅についたら電話を下さいって言われてるの。駅まで迎えに来てくれるって。そこからは、徒歩で十分くらい」
「了解。撫子ちゃん、仲介ありがとね」
七瀬が満面の笑みで応えた隣では、拓海が学ランのポケットから折り畳んだ紙片を取り出している。電車の時刻表のメモだろう。紙片から顔を上げた拓海も、鷹揚な笑みを全員に向けた。
「予定通りにいけば、少し早目に着けると思うよ。大切な遺品を、皆で返しに行こう。その後で、皆で行こう。――紺野沙菜さんの、お墓参りに」
「ああ」
柊吾達は、力強く頷いた。
電車で一時間半ほど揺られた先が、柊吾達の目的地だ。濃い緑に囲まれた、日当たりのいい高台で、柊吾達の同級生は眠っている。今にも出発の言葉が誰からともなく上がろうとした、まさにその瞬間だった。
「おーい、みんなぁー!」
少年の甲高い声が、青空へ伸びやかに木霊したのは。
「陽一郎?」
驚いた柊吾が振り返ると、桜が舞う風景の中、駅の方角から柊吾と同じ制服姿の陽一郎が、こちらへ一目散に走ってくるのが見えた。
「あいつ、よくここに俺らがいるって分かったな」
「私がメールしといたからね。ねー撫子ちゃん」
得意げに主張した七瀬は、撫子に抱きついてじゃれている。女子達は今日も仲がいい。その隣では毬が陽一郎を見つめながら頬を朱に染めていたが、妙に意気込んだ様子で「よし」などと呟いて、ぐっと拳を握っていた。そんな毬を和音が物言いたげな目で見下ろしているのが気になったが、今はとにかく陽一郎だ。柊吾は大きく息を吸い込んだ。
「陽一郎!」
すかんと空を抜けた大声に、ぐんぐんこちらへ走ってくる陽一郎は、大きく手を振って応えてくれた。そうして柊吾達六人の元へ辿り着くと、ひょろりとした痩躯の少年は、息を切らせて腰を折った。
「おい、そんなに急がなくたって、待ち合わせには間に合っただろ?」
「だって、早く、報せたくて……っ!」
陽一郎はマラソンを完走したような息苦しさを顔全面に出しながら、切れ切れの声で柊吾に抗議した。だが顔を上げて毬を見ると、ただでさえ運動で上気した頬が、茹蛸のように赤く染まった。
柊吾が思わず毬を見ると、こちらは相変わらず武士のような勇ましさで、背筋を正して立っている。和音は表情の複雑さを先程よりも極めていた。さすがに柊吾も、何かがあったと察しがついた。
「何なんだ……?」
「別に何も。気にしないで」
ぴしゃりと和音が答えてきた。目が完全に据わっている。この件には触れない方が得策だろうと柊吾が首を竦めていると、代わりに拓海が苦笑いしながら、陽一郎に訊いてくれた。
「日比谷、どうしたんだ? 俺達に報せたいことって何?」
「こ、これっ! ……手紙っ!」
はっとした様子で顔を跳ね上げ、陽一郎が右手を突き出してきた。
その手には――純白の便箋。
七瀬が興味津々の体で、「何?」と身を乗り出してくる。撫子も、毬も、和音も――全員が、陽一郎の周りに集まってくる。
「手紙、って……まさか」
柊吾は差し出されたそれを受け取って、裏返し、息を呑んだ。
差出人の名前は――風見美也子。
*
陽一郎へ。
こんにちは。陽一郎。久しぶり、になるのかな。突然こんな手紙が届いて、とってもびっくりさせたよね。こうして手紙を書きながら、私も緊張しています。
だって、陽一郎と私が最後に会ったのは、小学五年の……いつだっけ?
ナデシコの花の種を、植えた時?
ううん、それより後にも、会ってるよね?
でも、ごめんね。思い出せないの。
なのに、不思議だね。私は陽一郎と、楽しく遊んだ夢を見ました。
その楽しい夢のことを考えながら、私がぼんやりしていたら、すごく優しそうな顔のおじさんが、私に陽一郎の住所が書かれたメモをくれたんだ。その人の名前だってもう思い出せないのに、私、すごくうれしかった。だって私が見た夢って、実は夢じゃなくて、本当のことかもしれない、って思えたから。
でも、ごめんね。私のこういう気持ちだって、また忘れちゃうのかもしれない。
それはもう、仕方がないことなんだって、思うことにしたんだ。陽一郎は知らないかもしれないけれど、こういう風に、何でもかんでも忘れちゃう怖さで、すごく心細い気持ちになる時、私はいつも自分のことを、馬鹿だってみんなに言って回ってた。
でも、それはやめることにしました。あんまり自分のことを馬鹿って言ったらダメだよって、怒ってくれた人がいた気がするから。
そうそう、私は今この手紙を、*県の海辺に近い町の外れの、サナトリウムっていう場所で書いています。陽一郎のいる袴塚市から、とっても遠い所だよね。ものすごく田舎で、人通りは少ないけれど、商店街の辺りに出たら、とってもにぎやかな所です。町に着いたばかりでびくびくしていた私に、たくさんの人が話しかけてくれました。町全体が、ひとつの大きな家族みたい。
どうしてこんなに遠い所に来たかっていうと、袴塚市を出た私は、お父さんに連れられて、おじいちゃんとおばあちゃんの家に行ったからです。私のお父さんの、お父さんとお母さんだよ。
あのね、お父さんは、おじいちゃんとおばあちゃんと、仲があんまり良くなかったみたい。おじいちゃんとおばあちゃんは芯の一本通ったしっかり者で、一緒にいるのが辛かったって、お父さんは言ってました。そんな風に言っちゃうお父さんだから、おじいちゃんとおばあちゃんと、一緒には過ごせなかったのかな。そんな風にぼうっと考えてた私のことを、おじいちゃんとおばあちゃんは、家族にむかえてくれました。
多分、おじいちゃんとおばあちゃんは、最初は私が家に来るのを、すごく反対していたと思います。でも、私があんまりぼうっとしていて、何にもできなかったからかなあ。ここにいてもいいんだよって言ってくれたおばあちゃんは、少しだけ笑ってくれました。ぎこちない笑い方が誰かに似てる気がしたけれど、私はそれを、ちゃんと思い出せなくて。でもすごくうれしくて、大泣きしてしまいました。おじいちゃんは、おばあちゃんよりもっとぶっきらぼうな人で、あんまりしゃべらない人だけど、実はおばあちゃんに負けないくらいに料理がとっても上手な人で、あったかいごはんを私にいっぱい作ってくれました。そんなに食べきれないよってくらい。お母さんがいなくなった私に、新しい家族ができました。
お父さんは、一緒には暮らしません。お仕事があるからっていうのが理由だけど、多分それだけが理由じゃないって、分かってる。
さびしくないよ。大丈夫。私はそれを、ずっと前から分かってた。それに、新しい家族が出来たから、うれしいって気持ちも本当なの。うそじゃないよ。信じてね。お父さんは一か月に二回くらい、私に会いに来てくれるんだって。いつかもっと、その回数が増えたらいいな。
おじいちゃんとおばあちゃんの紹介で、私はこのサナトリウムに通院しています。私はここに通って、今よりもっと元気になって、それから高校受験の勉強を再開しようと思います。このことは、おじいちゃんとおばあちゃんに、すっごく怒られちゃったんだ。お父さんが二人を苦手って思った気持ちも、ちょっとだけ分かりました。でも、私の家族はこんな風に私を怒らなかったから、ちょっとだけ新鮮です。本当に私ってば、なんで受験をすっぽかしちゃったのかなあ。一年遅れで高校生になれたら、その時は陽一郎が、一年先輩になっちゃうね。
そのサナトリウムのことで、陽一郎にお知らせしたいことがあります。
私は*県に来てから、新しい友達ができました。
サナトリウムで会った子で、名前は玲奈ちゃんといいます。私よりも一つ年下の子だけれど、私と一緒で、最近*県に越してきたばかりなんだって。
玲奈ちゃんは、とっても内気な女の子です。前の学校でいじめにあって、学校に通うのが怖くなったって言ってました。
だから私が話しかけた時も、全然笑ってくれなくて、私はすごくさびしかったんだ。玲奈ちゃんは真っ黒なさらさらの髪がきれいなのに、全然顔を上げてくれないから、表情が何にも見えなくて、もったいないなって思ったんだ。
笑っている方が、いいのに。
その方がぜったいに、いいに決まってるのに。
ねえ、陽一郎。どうして私はこんな風に、玲奈ちゃんに思うのかなあ? どうして、こんなに近づきたいって思うのかなあ? でも、ほっとけなかったんだ。何にも分からなくて、何にも思い出せないのに、それでも私は思ったんだ。
この子に、笑ってほしいって。仲よくなりたいんだって。友達になれたらうれしいなって、強い気持ちで思ったんだ。
そんな私の思いを、勇気を出して伝えました。そうしたら玲奈ちゃんは、ちょっとだけ泣きそうな顔になって、それからちょっとだけ笑ってくれました。それがすごくうれしくて涙が出ちゃった私のことを、玲奈ちゃんは変な子だって思ったかもしれないよね。でも、いいんだ。どんな風に、思われても。今度はもう、まちがえないから。またまちがえちゃった時は、ごめんねってちゃんと謝るから。そうしたらきっとまた、楽しく笑い合えるよね。私は玲奈ちゃんと、そういう友達になりたいんだ。
ねえ、陽一郎。
それから、私が見た幸せな夢の中で、一緒に遊んだみんな。
みんなは、今日も笑っていますか。
私は今日も、笑っています。これからの毎日はきっと、楽しいだけが全部じゃなくて、お父さんが来なくてさびしい日もあると思うし、おじいちゃんとおばあちゃんに勉強のことで怒られて、落ち込んじゃう日だってあると思う。でも新しい町の空気はきらきらしていて、友達に会える日が待ち遠しくて、今の私は、明日が来るのが楽しみです。
これからの毎日を、私はそういう風に、過ごしていきます。
生きている意味なんて、なんにも、見つけられないままでも。
あの子と一緒にじごくへ行けないなら、一人でそんな場所に行っても、さびしいだけだから。
私は、ここで生きていきます。
いろんな人たちの輪の中で、ここで幸せに生きていきます。毎日笑って、時々泣いて、みんなと一緒に生きていきます。人間として、生きていきます。
仲間外れは、もう、おしまい。
【花一匁:END】→
【NEXT:終幕:コトダマアソビ】




