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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
197/200

花一匁 137

 店内に流れたアップテンポなBGMは、馴れ馴れしいほどに明るくて、女子中学生が二人で黙りこくっていても、全然放っておいてくれなかった。

「……」

 日当たりのいいカウンター席に、二人で並んで何分が過ぎただろう。普段は校則で寄り道などしないのだが、今日だけは事情がある。店内は正午過ぎにも関わらず、あまり混雑していない。ちらほらと家族連れが四人掛けのテーブル席を囲んでいる他には、胸に花を挿した学生グループが数人いるくらいだが、他校の制服の人間だ。知り合いは、ここに誰もいない。

 そんな店内で佐々木和音は、このまま待つかどうするか、冷めていくハンバーガーとポテトのセットを見ながら、思案した。

 伸ばした黒髪が肩から一房滑り落ち、ブレザーの腕を掠めていく。怪我の治りは順調で、包帯もニット帽も取れているが、当面はポニーテールに結う予定はない。外光を透かせた髪から視線を外し、和音は隣席の少女の様子を窺った。

「……」

 綱田毬も、トレイに乗せたハンバーガーに、目線をぼんやりと落としている。その横顔は一週間前よりやつれていたが、瞳から光は消えていなかった。

 毬は、立ち上がろうとしているのだ。だから今日の卒業式は、休まずに来てくれた。こんな沈黙だって、和音がこのまま待ち続ければ、呆気なく終わるはずだ。和音が不器用な言葉をかけなくとも、毬は口を利いてくれるだろう。

「……」

 だが、和音は決心した。毬を待たずに、和音から掛けるべき言葉を、沈黙の中で織り上げようと決心した。

 そうでなければ、顔向けできない相手がいるからだ。

 風見美也子の父親の登場で、〝遊び〟が悲しい終わり方をした翌日の月曜から木曜まで。学校を休み続けた毬の家へ、放課後に和音が毎日顔を出せたのは、他校の友人のおかげと言っても過言ではない。腕時計を確認すれば、カウンター席に着いてから、さらに五分が経っていた。

 ――篠田七瀬たちとの待ち合わせは、まだまだ先の時間だ。

 おそらくはそこが、和音のタイムリミットになる。毬を心配しているのは、和音だけではないのだから。

 そんな状況だからこそ、毬と二人だけで過ごす時間を七瀬が作ってくれたのが、和音には単純な気持ちとして嬉しかった。もちろん照れ臭いので、本人にこの気持ちを言う予定はないのだが、ともかく。

「毬」

 これまでの生活の中で、何度も呼んだ名前をぽつりと呼ぶ。そうして和音は毬に上体を向けてから、今週の学校で何度も感じたことを、口にした。

「毬がいない間、退屈だった」

 毬の伏せられた睫毛が、動いた。左頬の泣き黒子を和音にずっと向けていた友達が、声もなく驚きを露わにして、ようやくこちらを見てくれた。それが仄かな嬉しさとなって身体を巡るのを感じたのに、和音は表情の作り方が分からない。ここから先の言葉だって、淡々としたぶっきらぼうなものになってしまう。優しい言い方をしたいのに、今の和音には思いを口にするだけで精一杯だ。

「毬が月曜日に学校を休んで、初めて知ったの。毬がこの一年間、学校を一度も休まなかったこと。私達は今まで三人でいたって言っても、美也子はあっちこっちのグループを渡り歩いてるような子だったから、私と毬が二人でいた時間は、長かったよね。毬は……学校を、休まないようにしてくれてたんでしょ? 毬が学校を休んだら、私が学校で一人になるかもしれないから」

「それは……」

 毬は顔を上げかけて、俯いた。和音の為に咄嗟の嘘をつこうとして、それが逆に和音を傷つけるのではないかと気に病んで、言葉に詰まってしまっている。本当に優しい子だと、和音は思う。その程度のことで、和音は傷ついたりはしないのに。

「休み時間も、教室移動も、ほとんど一人で過ごしてたら、こんなにも手持無沙汰で、こんなにも学校にいる時間を長く感じるんだって、びっくりした。だから……今日、毬が来てくれて、うれしい」

「……ごめんね。たくさん、休んで。和音ちゃんと一緒にいられる時間、全然残ってないのに」

「気にしないで」

 和音は、首を横に振った。その言葉だけで、この一週間の寂しさは、簡単に報われてしまうのだ。胸の内がぽかぽかと温まったのを感じながら、和音はこの四日間の出来事を振り返った。

 毬が学校を休んだ、一日目の月曜日。

 登校した和音が教室で見た空席は、毬の席だけではなかった。


 ――風見美也子も、学校に来なかった。


 友人が多く社交的で、笑顔の絶えない美也子の欠席は、朝の教室の空気を少しだけざわつかせた。クラスのリーダー格の野島亜美なども、最初は軽薄な笑い声を立てていた。どうせ遅刻だと踏んでいたに違いない。亜美の取り巻きの少女達も、亜美と同じ軽薄さで笑っていた。

 そんな軽薄さが一変したのは、朝のHRで教師から、事情説明を受けてからだ。

 全員が着席した教室で、和音達は美也子の母親が急死したと、担任教師から知らされた。

 全員が、寝耳に水の顔をしていた。ニュースなどで知っていた者もいたはずだが、まさか最近火事で死んだ『風見』という一人の女性が、自分達のクラスメイトの母親だとは、思いも寄らなかったのだろう。愕然としている者もいれば、非日常に酔ったような興奮を横顔に覗かせている者もいた。野島亜美は半分笑って半分泣いたような顔のまま、表情を凍りつかせていた。唐突に遊び仲間を失ってしまったような悲哀が、美也子の欠けた教室の中で、何より生々しいリアルだった。

 和音は窓際の一番後ろの席で、どんな罅が入っても変わらず巡り続ける日常を、その日常の内側にいる人間の一人として、淡々と見つめ続けていた。

 美也子のいない空席は、窓から入る午前の白い光を受けて、表面が空色に照っていた。他愛のない落書きを、消しゴムで消した痕がある。机の中にも、教科書が詰まったままだった。

 新学期が始まれば、新しい中学三年生が、この空席に座るだろう。

 もうここは、美也子の居場所ではなくなったのだ。美也子は和音達より一足先に、旅立ちの日を迎えてしまった。教師からの報告を聞きながら、和音は一度だけ目を閉じて、その事実を受け止めた。

 美也子はもう、この袴塚市を、既に離れた後だという。

「和音ちゃん、毎日家まで来てくれて、ありがとう。あの……電話線を抜いちゃって、ごめんね。まだしばらくは、時々繋がらないかもしれなくて……」

 肩を窄めた毬が、恐縮の面持ちでそろりと言った。蚊の鳴くようなその声が、和音の意識を物思いから浮上させた。目覚めとともに夢の記憶を失うように、冬の名残が溶け込んだ教室の匂いは、春の陽気とファーストフードの塩気が絡んだ匂いに戻っていく。

「それも、気にしないで」

 郷愁の残滓を振り切るように、淡白な調子で和音は答えた。毬はこの数日間、電話のことばかり謝っている。丁度いい機会なのでこちらからも、数度目の言葉を掛けてみた。

「あれから、家の問題はどう?」

「えっと……親戚からの電話は、減ってきてるよ。もうちょっとしたら、こういう電話もなくなるんじゃないかな。こんなの、今だけのことだと思うから」

 そう囁いた毬は、疲れた微笑を浮かべた。和音は眉を顰めたが、「そう」と答えるに留めておいた。毬の声には曲がりなりにも、安堵が含まれていたからだ。

 毬の家の問題は、概ね収束に向かっているらしい。

 ただ、今週に入ってからひっきりなしに、件の親戚から電話で誹謗中傷を受けているそうなのだ。昼夜を問わず掛かってくる電話に業を煮やした毬の家族が、電話線を引っこ抜いてしまったというのが、毬の自宅に電話が繋がらない謎の真相だ。

「毬、電話のことは本当に気にしないで」

 和音は、重ねて言い含めた。気に病みやすい毬のことだ。はっきり主張しておかなければ、また電話のことで謝られかねない。大体、電話など繋がらなくとも、直接会いに行けば事足りる。家同士も近いので、和音は不便を感じていない。

 他の中学生メンバーは、どうやら違うようだったが。

「? 和音ちゃん、どうしたの?」

「……ううん、毬は気にしないで」

 和音は心を無にすると、花畑で能天気に笑う日比谷陽一郎の映像を、脳裏から殺伐と排除した。毬はぽかんとしていたが、やがてくすりと小さく笑った。

「ありがとう、和音ちゃん。家のことは、本当に大丈夫。電話線は引っこ抜いちゃったけど、それは私達にとって、逃げてるからじゃないの。親戚って関係でも、もうさよならをするって選んだから、私達はこうするの。それに、色んな人達に相談して、ちゃんと前に進んでいってるから。……我慢してた時には、気付かなかったけど、助けてって、ちゃんと言ったら、助けてくれる人達って、周りにたくさん、いたんだね」

 涙ぐんだ毬が、「えへへ」と笑って指で涙を拭った。一時は酷いあかぎれの目立った指は、乾いた瘡蓋を少し残すのみとなっていた。ここにいる毬はもう、コートもマフラーも手袋も身に着けないで、寒風に吹かれていた少女とは違うのだ。今度は和音も眉間に皺を寄せないで、穏やかな声音で返事ができた。

「うん。ちゃんと言ってくれる方が、周りもうれしい」

「そうだよね。ごめんね。あっ、それにね和音ちゃん。他にもいいことがあったの。お父さん、再就職先が決まったの」

「本当に?」

「うん。本当」

 毬は、本当に嬉しそうに笑った。それから、少し照れ臭そうに目を伏せた。

「そんな感じで、学校休んでる間も、いろんなことがあって……家族もばたばたしてて、私も家事で、忙しくて。学校に行かなきゃって何度も思ったんだけど……力が、出なくて。学校、行きたくないって言ったら、お父さんもお母さんも、いいよって言ってくれたから……甘えちゃって。でも、月曜から木曜までの四日間、ぼうっと過ごしてたら……放課後には和音ちゃんが、毎日来てくれたから。木曜の夜に、気付いたの。私、和音ちゃんのこと、一人にしちゃってる、って」

「それは……」

 口を挟みかけて、和音はやめた。

 ここからだ、と思ったからだ。話し合うべき事柄を、毬ときちんと話すのは。

 月曜から木曜の間、和音は放課後になると毬の家へ訪れたが、そこに滞在できた時間は決して長いものではなかった。見るからに和音の応対どころではない家には長居し辛く、その上毬の家族のいる空間では異能や美也子についての話題も持ち出し辛く、会話は当たり障りのないものばかりだった。

 だから和音は、この時をずっと待っていた。

 毬と二人だけで話す時間を、この一週間、待っていた。

「和音ちゃん。……ミヤちゃん、もうこの街にいないんでしょ?」

 正面の窓硝子を見つめながら、毬が言った。

 小さな声は、夜の海のように落ち着いていた。そんな毬の心の静謐さが伝播して、和音も明け方の砂丘で遠くの街の光を眺めるように、「うん」と答えて前を向いた。硝子越しに見た日の光は、あまりに白々と眩し過ぎて、午後からの授業がないのが不思議で、小波に浚われる貝殻のように不安定な心地になって、非現実的な浮遊感に、身体がゆらりと包まれる。

「私ね、和音ちゃんとか、七瀬ちゃんとか、皆が見てる前で、とっても酷いことを、言ったけど……あんな風に言っちゃうよりも、ずっと前から。私はいつか、あんな風に、ミヤちゃんのことを、突き放しちゃうような、気がしてた」

「……そう」

「前にね、坂上君にも少しだけ、話したことがあるんだけど……私にとってのミヤちゃんは、一番の友達じゃ、なかった。ミヤちゃんにとっての一番は、誰か別にいるって思ってた。それが誰かなんて、全然、思いつかないのに」

「……」

「ひどいよね。ミヤちゃんは学校で、私のことをたくさん助けてくれたのに。ミヤちゃんが私にしてくれたことを、私はすごく残酷な形で、返しちゃった。……なのに。ミヤちゃんのお父さんに、あんな風に言われた時のこと。私は、悪いことをしたなんて、多分だけど、思ってもなくて」

「……」

「なんで、あんな言い方しかできなかったんだろう、とか。もっと別の言い方ができたらよかったのに、なんて。そんな風に考えるしか、できなくて。でも、時間が巻き戻ったとしても、私はきっと、同じ台詞を言っちゃうの」

「……」

「ずっと友達でいれたらいいな、って。私が思った子は、違う子だから。そういう自分の気持ちに、嘘を、どうしてもつけなくて……それとも、あの時くらい、嘘をついた方が、よかったのかな。でも、もし、そうなんだとしても……私には、できないよ」

 目を伏せた毬は、この店に来てから初めて、懊悩を顔に滲ませた。白い日差しは俯く毬の黒い髪に艶やかな光の輪を描き、少女の清濁を残酷なまでに浮き彫りにする。

 その光と影をじっと見極め、和音はついに、唇を開いた。

 必ず伝えようと決めていた言葉を、今こそ毬に、伝える為に。

「……毬。〝はないちもんめ〟の夜に、私達は師範の家に集まったの」

 毬の肩が、微かに揺れた。和音の話を、ちゃんと聞いてくれているのが分かる。己の発した言葉の所為で深く傷ついてしまった少女は、和音に心を閉ざしてはいないのだ。この時ばかりは世界から、雑音が全て消えた気がした。御山の泉の畔のような、清廉に澄んだ匂いがした。

「師範の家で、三浦君が言ってた。毬が美也子のお父さんに言った言葉、もし毬が言ってなかったら、三浦君が言ってた、って。それを聞いた時に、私は思ったの。――私だって、って」

 毬が、声もなく和音を見た。見開かれた瞳から、真珠のような涙が一粒、左頬の泣き黒子を滑っていく。泣いている毬は綺麗だった。だが、和音は毬に泣き止んでほしい。毬がもっと綺麗に見える表情を、和音は仲間の誰より、知っている。

「毬が言ってなかったら、私が言ってた。あの時の三浦君よりも、絶対に、強い気持ちで思ってる。その言葉が誰かを傷つけるって分かっていても、もっと大切なものを守る為に、そうしたいって思った自分の気持ちを守るために、私だって言ったと思う」

「和音ちゃんは……ミヤちゃんと、これからどう付き合ってくか、考えてる?」

 たどたどしく、毬が言った。恐れを踏み越えて前へと進んでいくような、どこか悲壮な顔付きで。和音は、その目を見つめ返した。

「決めてない。でも、もう友達には戻らない」

 戻らないと、敢えて口にした。和音と美也子はもう二度と、以前の関係には戻らない。そんな結論を出した己の心を、偽ることなどできないからだ。毬自身も、さっき和音に告げたように。

「でも……もし、例えばこの街を離れた美也子が、いつか日比谷君宛てに、手紙を書くなら、その時は――私も、手紙を書こうと思う」

「ミヤちゃんに……?」

 胸を打たれた様子で、毬が息を吸い込む。緑のチェック柄のスカートの上で握られていた手の力が、傍目にも少し緩んだ。「うん」と答えた和音は、文字通り手紙をしたためるような丁寧さで、ゆっくりと言葉を紡ぎ続けた。

「書こうと思ってる。皆と、一緒に。そういう手紙のやり取りが、いつか途絶える日が来たとしても。お互いの消息だって、分からなくなる日が来たとしても。それでも今の私は、そうしたいって思ったから」

 ふ、と頤を上げて、和音は空を仰いだ。

 雲一つない快晴が、窓硝子越しに広がっていた。白い花弁がひらりと一片、雪のように舞うのも見えた。この近くにある桜並木の方角から、運ばれてきたに違いない。昨日の放課後に見上げた空は、淑やかな珊瑚色と藤色に染まっていて、熟れた柿色の太陽を地平線に沈めていた。空の見せる表情に、一つとして同じものはないのだと、よく耳にする通りだと和音は思う。今日も、明日も、これからも、新しい顔を見せる世界を、和音達は生きていく。

「今の私が考えてることだって、数年後には違うものに変わってるかもしれない。美也子のことを許す日が来たり、もっと憎む日が来たり、懐かしく思ったりする日だって来るかもしれない。もしそんな日が来たら、数年後の私は、その時の自分の心に従うと思う。だから……今の私の感情は、今の私が、大切にする」

「私も、和音ちゃんと同じように思って、いいのかな」

 毬が、泣きながら笑ってくれた。手の甲で涙を拭いながら、面映ゆそうに笑ってくれた。その笑顔を燦然と照らした日の光は、和音が今までに見たどんな輝きより美しかった。

「私の今の気持ちを、大切にして、いいのかな。私が、これからも一緒にいたいって思う皆と……これからも、一緒にいていいのかな」

「いいよ、毬」

 同じ光に包まれた和音も、薄く笑った。やっぱり毬は笑顔が一番綺麗だと、深い得心を覚えながら。

「ありがとう……和音ちゃん……ありがとう……」

 毬はまだ泣いていたが、声は力強いものだった。その言葉と笑顔に生命力を感じた和音は、ようやく心の底から安堵できた。――毬はもう、大丈夫なのだ、と。

 世界に、音が戻ってくる。午後の微睡のような優しさが、カウンター席に着いた二人の間に、音楽のように流れ出した。自然と二人で、微笑み合った。充足感が絆のように、二人を確かに結んでいた。

「じゃあ、食べよう。待ち合わせもあるし」

 肩の力が抜けた和音は、そう言ってウーロン茶を手に取った。これで一件落着だと、信じて疑っていなかった。

「あ……和音ちゃん。食べながらもう一つだけ、聞いてほしいことがあって……いい?」

 俄かに慌てた様子の毬が、もじもじとハンバーガーの包みを両手で握った。和音は「何?」と気軽に訊いて、ウーロン茶のストローを口に含んだ。

 その結果、毬の次の一言で――和音は飲みかけのウーロン茶が器官に入り、盛大に咽ることになってしまった。

「日比谷君に、付き合って下さいって、言われちゃった」

「っ!?」

「か、和音ちゃんっ? 大丈夫っ?」

 毬は大慌てで和音の背中をさすってくれた。それは素直に嬉しい和音だが、背などさすってもらっている場合ではない。和音はウーロン茶をトレイに叩きつけるような勢いで戻すや否や、息苦しさで潤んだ目を鷹のように吊り上げて、毬の肩をがしっと掴んだ。

「いつ! どこで! どういう状況でっ!」

「け、今朝……学校に、行く前に……玄関に出たら、日比谷君がいて……」

「今朝っ? 家に来たのっ!? どうして日比谷君が、毬の住所知ってるの!?」

「わ、分からないけど……日比谷君、〝はないちもんめ〟の日のことは、誰も気にしてないよって、すごく一生懸命に言ってくれて……それで、最後に言われたの。明日の合格発表で、東袴塚学園に受かってて、私と同じ高校に通うことになったら……付き合って下さい、って。私のことが、気になるから、って……」

「つ、つきあう……っ!?」

「私、混乱しちゃって……お返事は、少し待って下さいって、言っちゃって……ど、どうしよう、和音ちゃん。二時になったら日比谷君にも会うのに、私、どんな顔したらいいか、分かんな……」

「どうしてっ、すぐに断らないのっ!?」

「え、えっ……? だ、だって……分からないんだもん、和音ちゃん」

 へにょ、と毬がまた泣き顔になった。真っ赤に染まった両頬を、ハンバーガーで隠してしまう。

「分からないんだもん……男の子に、好きですって言われたの、初めてなんだもん……」

 ――ぐらりと、世界が揺れた気がした。

 丸椅子から下ろした両足の爪先で、突然に足場が消えてしまったような感覚があった。毬の肩に掛けた、手が外れた。気にならなかったはずの頭の怪我まで、鈍く疼いて脈打った。

 ――どうして、こんな事になってしまったのだ。

 陽一郎を毬から遠ざけようとした和音の行為が、この現実を呼んだのだろうか。毬との接触を徹底的に阻んだことが、かえって陽一郎に毬が好きだと自覚させてしまったのだろうか。

 のぼせているだけだ。絶対に。そう歯牙にもかけない強い自分と、崖の淵に立たされて竦んでしまった弱い自分が、己の内でせめぎ合う。だって、何故なら、和音だって、毬のことを。

 だが、和音が何を思おうとも、陽一郎の告白が毬の心を揺らしたのは動かしがたい現実だ。心臓の辺りが、痛くなる。まるで鏡の欠片が突き刺さったかのようだった。切実な痛みに衝き動かされるように「毬、だめ」と発した声は、氷のように冷たくて、触れれば痛いほどに熱いものとなってしまった。

「そんな告白、真に受けちゃ駄目。日比谷君の真剣さなんて分からないけど、こういうの、どう考えても吊り橋効果だから。危ない〝アソビ〟を一緒に乗り越えた仲だから、毬のことをそういう目で見てるだけだから」

「え? 吊り橋効果って、七瀬ちゃんと坂上君の時も、そうだったんじゃ……」

「他の人なんて知らない。大体、日比谷君は撫子ちゃんの元カレでしょ! 自分の友達の元カレと、毬は付き合っていけるの!?」

「和音ちゃん……? どうしたの……?」

「どうもしてない。どうかしてるのは、毬の方。だって毬は、日比谷君のことをちゃんと知らないでしょ? 日比谷君だって、毬の何を知ってるの? ……毬、ちゃんとして。そんなの、良くないと思う。お互いに相手のことをちゃんと知らないままなのに、好きって言われたくらいで、相手のことを、簡単に好きにならないで」

 好きに、ならないで――。手紙に忍ばせたカッター片のように零れ落ちた言葉の刃が、びっくりするくらいに己の心を切り裂いた。動揺で口の端が引き攣り、その歪みを誤魔化すように唇をきりりと噛んでから、和音はぼそりと、謝った。

「……ごめん。言い過ぎた」

 なんて、見苦しい執着だろう。

 せっかく好きになれた自分のことを、また少しだけ嫌になった。

「和音ちゃん……」

 毬は、唖然の顔をしていた。真ん丸に見開かれた瞳には、悔し泣きに似た和音の顔が、琥珀色に映り込んでいる。

 今の和音はこんな風に、毬の目には見えている。

 そんな現実が、何だか堪らなくなってしまって――きっ、と表情を引き締めた和音は挑むように、毬の瞳を見つめ直した。

 ――こんなにも惨めな言葉ばかりを言うから、情けない顔をしてしまうのだ。

 今の和音の発言は、全て陽一郎のことばかりだった。

 陽一郎の気持ちと言葉を、こき下ろす言葉ばかりだった。

 和音は毬に意見しているようで、その実、何も言っていない。

 自分の気持ちを、言っていない。

 本当の気持ちを、言っていない。


「私の方が……毬のことを、知ってるのに」


 細切れの勇気を繋ぎ合わせて、唇から押し出すように絞り出した言葉は、自分でも驚くほど小さな声に乗って、店内の雑音に掻き消されてしまいそうだった。

「え?」

 毬が、一層きょとんとした目で、訊き返す。頬にのぼった熱が耳たぶにも伝わっていくのを感じながら、和音は次の言葉を考える。様々な言葉を考える。


「私の方が、毬のことを、知ってるのに」


 それより先は、後戻りが出来ない言葉ばかりだった。その覚悟が和音にあるだろうか。まだ、今は、分からない。覚悟が出来ていないのだ。だから言葉に詰まってしまう。言えない言葉に取り囲まれて、心の行き場が、どこにもない。

 ――だが、本当に言えない言葉ばかりだろうか。

 言える言葉だって、あるはずだ。今も目の前で和音の言葉をじっと待ってくれている毬に、今の和音でも伝えられる言葉があるはずだ。〝アソビ〟の日に篠田七瀬に言われた言葉だって、臆病な和音の脇腹を小突いている。

 ――誰にも、渡したくないなら。

 ――好きって、ちゃんと伝えなよ。


「私は……毬が好き。毬のことが、好きなの」


 一拍の沈黙の後に、毬がハンバーガーの包みをスカートの上に落っことした。健やかな日差しに照らされた顔が、驚き一色に染まっていく。

 これからも毬は、和音に笑ってくれるだろうか。和音のことを、嫌になったりはしないだろうか。達成感と後悔で、胸が張り裂けそうに苦しくなる。それでも和音は毬から目を逸らさないで、祈るような気持ちで、言った。


「高校だって、毬と違う所を受験したこと、少し後悔してる。離れたくないの。毬。……それくらいに、好き」


 毬は、頬をさっき以上に赤らめていたが、やがて――妙に意気込んだ様子で頷いてきたから、和音は予想外のリアクションに、拍子抜けした。

「和音ちゃん、ありがとう……私も、和音ちゃんのことが好き!」

 ハンバーガーをトレイに戻した毬が、ぎゅっと和音の手を握ってきた。和音は動転して声も出ないが、それよりも毬の気合いの入り様にすっかり茫然としてしまった。先程までの甘やかな雰囲気が、一気に吹き飛んでしまった気がする。

「私、分かったの。和音ちゃんの言う通りだと思う!」

「え? な、何が……っ?」

「日比谷君のこと。今日会ったら、ごめんなさいってちゃんと言うね」

「ど、どうして突然っ……」

 その英断は和音としては願ったり叶ったりだが、何故急に決めたのだ。混乱で目が回りかける和音をよそに、毬はすっかり憑き物が落ちたような顔で、今までに見た事がないほど勇ましく笑った。

「和音ちゃんと話して、気づいたの。私は日比谷君のことを、全然知らない、って。和音ちゃんにはこういう風に、好き! ってはっきり言えるけど、日比谷君には、言えないもん。……こういう気持ちで向き合っても、日比谷君に失礼だよね。和音ちゃんに言われるまで、私、全然気づかなかった」

 最後は申し訳なさそうに言って、毬がはにかんだ。和音も一緒に笑いたかったが、さらりと言われた『好き』という言葉の破壊力に負けてしまって、表情筋が動かない。

「だから、日比谷君にはごめんなさいって、ちゃんと言うね。もし、これから私が日比谷君のことをちゃんと好きになれたら、その時には私から、伝えたらいいんだよね。……ありがとう、和音ちゃん! お話聞いてもらえて、よかった!」

「……ちょ、ちょっと待って。これから好きになれたら、って何? まさかそこまで日比谷君に言うつもり? 毬、ストップ! 最後のは言わなくていいから! 私はそういう意味で、言ったんじゃなくて……!」

「和音ちゃん? どうしたの?」

「……もう、いい。決めたから。毬。私、週一で袴塚市に帰ってくる」

「えっ? あ、あの……和音ちゃん? 和音ちゃんの通う高校って、ここから片道二時間じゃ……」

「全然、大した距離じゃない」

 スカートの上で拳を握り、和音は固く決心した。毬は一先ず陽一郎を振ってくれるようだが、この戦いの火蓋は切って落とされたばかりなのだ。異能の〝アソビ〟をきっかけに出会った少年が、まさかライバルという形で和音の人生にずかずかと踏み込んでくるとは、全く思いがけなかった。

 カウンター席で闘志を燃やす和音へ、毬がびくびくしながら「あんまり、無理しないで……」と状況について行けていないような声で言った時、控えめな電子音が、断続的に鳴り始めた。

 音源は、毬の隣の丸椅子の上、そこに置かれた通学鞄だ。「あ、ごめんね」と毬は和音に断ってから、鞄から携帯を取り出した。今日も母親の物を借りてきたらしい。画面を検めた毬の声が、明らかな喜色を帯びて弾んだ。

「七瀬ちゃんだ」

「七瀬ちゃん?」

 和音が訊き返した時、こん、と正面の窓硝子がノックされた。

 不意打ちの音に驚いた和音と毬が前を向くと、そこには学ランとセーラー服姿の二人組が、駅前ロータリーの風景をバックに、こちらへ手を振っていた。

 ――篠田七瀬と、坂上拓海だ。

 七瀬は勝気に、拓海は控えめに笑っている。今日までの間にメールや電話でやり取りはしていたが、会うのは〝はないちもんめ〟の夜以来だ。意外な登場の仕方に和音は目を瞠ったが、次の瞬間、ひょこ、と茂みから兎が耳を出すように、拓海の後ろから小柄な少女まで姿を現したから、さらに目を瞠ることになる。

「撫子ちゃんまで……」

 七瀬と拓海の間に立ったのは、雨宮撫子だった。栗色の短髪を風にそよがせた少女は、今日も相変わらず表情が希薄だが、店内にいる和音と毬がその登場に驚いたからか、心なしか得意げにブイサインを作ってくれた。

「どうして? 三浦君は一緒じゃないの?」

 軽く手を振って応えてから、和音は戸惑いの呟きを漏らした。

 よくよく見れば、撫子は制服姿にも関わらず手ぶらだ。荷物はどうしたのだろう。そんな和音の疑問を察してか、七瀬と拓海は肩を竦め合っていた。

「和音ちゃん、七瀬ちゃんが代わってって」

 嬉しそうに笑った毬が、携帯を差し出してくる。薄ピンクの筐体を和音が耳に当てた途端、眼前でにやりと笑った七瀬の声が、電波を介して流れてきた。

『やっほー、和音ちゃん。卒業おめでとっ』

「そっちこそ。電話なんてしてないで、入ってきたら?」

『ってことは、二人で話し合えたんだね。毬も元気そうだし、良かった』

「……」

『ありがとね』

「……そっちこそ」

『もー、和音ちゃんってば。素直に嬉しそうな顔してよ。毬との話が良い感じにまとまった気がしたから、坂上君と一緒に見に来たのに』

「いつから見てたの? っていうか、良い感じって……全然、良くない。それどころか、最悪なんだけど……」

 ひそひそと喋りながら、和音は眦を再び鷹のように吊り上げた。隣では毬が不思議そうにしていて、硝子越しに拓海も呆けている。

 七瀬は何かを察したのか、桜の花びらが舞う青空の下で気持ちよさそうに笑ってから、拓海と撫子から距離を取って歩き出した。セーラー服の襟の紺色が、風で爽やかに翻る。和音はむっとしてしまい、逃がさないとばかりに追及した。

「七瀬ちゃん、何か知ってるでしょ? まさか、毬の住所を、日比谷君に喋ったのは」

『さあ? 和音ちゃんが私のことを、ちゃんと見て喋ってくれたら教えるよ』

「からかわないで。やっぱり七瀬ちゃんなんでしょ!」

『やーだ、教えない。だって和音ちゃんってば、さっきから全然目を合わせてくれないんだもん』

「別に、そんなことっ……!」

『あ、さては! 私の裸を見て、どきどきしちゃった?』

「そっ、そういうのをっ、冗談でも言うの、やめてくれるっ!?」

 思い出してはならないものが、一瞬にしてフラッシュバックしてしまった。顔面を火照らせた和音が丸椅子を蹴倒すような勢いで立ち上がると、毬と拓海という窓硝子を隔てた二人も、揃って和音の権幕に飛び上がった。撫子は一番冷静で、首を軽く傾げただけだった。

 弾けるように笑った七瀬が、悪戯の見つかった子供のように、カウンター席に面した窓硝子のスクリーンの一番端まで駆けていく。そうして役者が舞台袖へ退場していくように、和音の視界から消えていった。拓海と撫子もそれに続き、羞恥でわなわなと震えた和音は、携帯に向かって詰問した。

「冗談は、その辺にして……三浦君は、一緒じゃないの?」

『先に行って待ってる、だって。その伝言で、和音ちゃんには意味が通じるんじゃない? 私達と皆で会う前に、二人で待ち合わせをしてたんでしょ?』

「……」

『だから私と坂上君と撫子ちゃんで、一緒にここで待つってわけ』

「……毬のことも、一緒に頼んでいい?」

『もちろん。こっちは最初からそのつもりだよ』

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 最後の台詞だけは、背後から聞こえた。

「……」

 和音は耳から携帯を離し、通話を切って、振り返る。

 そこには――七瀬が、拓海と撫子を伴って立っていた。

「和音ちゃん。改めて、卒業おめでとう」

 そう言って、七瀬は負けん気の強そうな笑みを、和音に向けた。

 この少女からこんな風に、卒業式の日に笑いかけられる日が来るなんて、中学に入学したばかりの和音には、全く想像できなかった。

 今の和音はまだ少し、こんな関係に慣れていない。

 それでも、さっき上手く言えなかった台詞くらいは――友達に、ちゃんと言えるはずだ。

「そっちこそ。……卒業おめでとう。七瀬ちゃん」

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