花一匁 135
「起立!」
クラスの委員長の号令で、教室の全員が一斉に席を立った。
上履きのゴムが擦れる独特の音と、椅子の足が床を叩く賑やかな音が混じり合い、耳に慣れ親しんだ喧騒を作っていく。
「気をつけ!」
終わりゆく日常の音に居心地良く浸りながら、篠田七瀬はとびきりの笑顔を作り、教壇に立つ教師に向ける。
そして「礼!」の号令がかかると同時に、予めクラスメイト達と示し合わせていた掛け声を、めいっぱい叫んだのだった。
「先生、一年間、ありがとうございました!」
わあっと歓声がクラッカーのように弾け、教室内で整然と起立していた生徒達の隊列が解けていく。クラスメイトの何人かは、教師の元へ駆けていった。
この一年間、七瀬達を受け持ってくれた男性教師は教え子にじゃれつかれながら豪胆な笑い声を上げていたが、三日月の形に細められた両目はしっかりと潤んでいた。七瀬も貰い泣きしそうになってしまう。卒業式で泣いたばかりだから、余計に涙腺が緩んでいるのかもしれない。
「ななせー、写真撮ろうよ、写真!」
ハスキーな声が聞こえてきたので、七瀬は滲んだ涙を瞬きでやり過ごしてから、教室の窓際を振り向いた。ミユキと夏美がはしゃぎながら、七瀬のいる廊下側までやって来たところだった。
「うん、撮ろっ。あ、デジカメ持ってきたんだ。私も持ってきたら良かった」
「安心しなよ。ななせが映ってるのは現像してあげるから」
「わあっ、ありがと!」
女子三人で楽しく騒ぎ合いながら、一番背の高いミユキを真ん中にして、両側に七瀬と夏美がついた。カメラを預かった七瀬がぐっと右手を前に伸ばして一枚撮ってはみたものの、無理な姿勢を取った上に片手では、カメラの重さを支えきれない。「あー絶対歪んでるよ」と夏美が可笑しそうにけたけた笑った。
「ごめーん。ああ、すっごい斜めになっちゃってる」
「あははっ、夏美、半目になってる! 怖ぁ!」
「うそっ、やだぁ、消してよお!」
夏美がミユキをぽかぽか殴り、ミユキは「やーだよ! これ現像したら夏美にプレゼントするから!」と悪乗りしながらカメラを高々と頭上に持ち上げた。声を上げて笑った七瀬は、涙を人差し指で拭った。
結局、また泣いてしまった。七瀬は二人の友人へ、身体を向けて言った。
「ねえ、二人とも。……私、中三の一年間、二人と過ごせて、楽しかったよ」
七瀬達の胸元には、薄桃色の花が一輪ずつ留めてある。机の上に置きっ放しにしている卒業証書の入った筒も、この中学校での思い出をぎゅっと詰め込んだ結晶のようで、愛おしい。
「ななせってば、何改まってんの?」
「やめなよ、そういうの。泣いちゃうじゃん」
悪ぶって突き放すように言うミユキも、軽口で応えようとした夏美も、二人とも顔をくしゃくしゃにした。物言いがざっくばらんな二人だが、卒業式では大泣きをしていたメンバーの内に入っている。情に厚くて優しい所もあるのだ。二人と一緒に居続けた七瀬は、二人の長所も知っている。
「もー、湿っぽい話はなし! ななせ、写真の撮り直し! 今度はびしっと撮ってよ!」
「了解、って言いたいけど、難しいんだよね。ねえ、誰かに頼まない?」
七瀬はそう提案して、教室をぐるりと見回した。
別れを惜しむ喧騒に混じって、携帯やカメラのシャッター音があちこちから聞こえてくる。学ランとセーラー服に身を包んだ生徒達は、さっきの七瀬達と同じように教卓の周辺や窓際などで、和気藹々と思い出の写真を撮っていた。思案した七瀬が交流のある別グループの女子達へ、声をかけようとした時だった。
「俺、撮るよ」
ふわりと隣に黒い学ランの人影が並んだから、七瀬は仄かに、緊張した。
振り向いて顔を確認するより先に、安心感も覚えていた。この少年はいつの間にか、落ち着いた雰囲気を纏うようになったと思う。教室の喧騒よりも、ずっと身近に感じる匂いがした。
「あ、ななせの彼氏じゃん」
「じゃあお願いしようかな、ななせの彼氏」
「二人とも、坂上くんだってば! ほんと、最後までちゃんと名前呼ばなかったよね」
呆れ半分、怒り半分でむくれた七瀬の隣で、『ななせの彼氏』――もとい坂上拓海は、大いに狼狽えた様子だった。「えっと」や「その」などともごもご呟いてから後ずさり、腰を机の角にぶつけている。
挙動不審な拓海の姿を、七瀬は久しぶりに見た気がする。女子生徒への苦手意識も、完全な克服には至らなかったらしい。
ともあれ、クラス内でもそこそこ背が高い部類に入る拓海が、こういった怪しい動きをしていると結構目立つ。七瀬は笑いを堪えているミユキと夏美を一睨みしてから「撮ってもらっていい? ミユキ、笑ってないでカメラ貸して」とてきぱき仕切り、カメラを拓海の手に持たせた。
「じゃあ、撮るよ」
拓海は露骨にほっとした顔で、七瀬達にカメラを向けた。
シャッターを切る乾いた音が、今というこの瞬間を鮮やかに写し取ったのを報せてくれる。ファインダーから顔を離した拓海は満足げに微笑むと、「綺麗に撮れてるよ。確認してくれる?」と穏やかに言って、ミユキにカメラを手渡した。
「ありがとっ、ななせの彼氏! わあ、ばっちりじゃん!」
「だからぁ、坂上くんだってば! あっ、ほんとだ。良く撮れてる」
わいわいと三人でカメラの液晶を覗き込んでいると、「じゃあ篠田さん、また後で」と朗らかに笑った拓海が、片手を上げて去ろうとした。
「ありがと、坂上くん! また後でね!」
七瀬も溌剌と手を振ってから、ふと思い立って黒板の上の方に目を向けた。
丸い掛け時計の示す時刻は、まだ正午にもなっていない。約束の時間に遅れることはないだろう。拓海も七瀬の考えを察したのか、足を止めると軽くこちらに頷いてくれた。
すると、夏美が突然「ねー、待ってよ。ななせの彼氏」と拓海を呼び止め、傍に立つミユキの袖をくいと引いた。
「ねえねえミユキ、ななせの彼氏も撮ってあげたら?」
「ん、いいよー。さ、お二人さん。並んで、並んで」
「夏美っ? ちょ、ちょっと! ミユキも!」
「えっ、あの、待っ……!」
楽しい悪だくみを思いついたような顔の二人は、七瀬と拓海の腕を引っ張り始めた。面食らう七瀬と慌てた拓海は、あれよあれよという間に教室の一番後ろまで引っ立てられて、チョークの落書きでカラフルに彩られた黒板前に並んで立たされ、ミユキにカメラを向けられてしまった。
「二人とも、面白がってるでしょ!」
「別にー? ほら、撮るよ! むっとしてないで、笑って、ななせ!」
カシャリ、カシャリと、シャッター音が立て続けに響いた。クラスメイト達もこの事態に気づき始め、教室後方に生暖かい視線を送ってくる。七瀬は頬を膨らませて抗議したが、隣で小さく吹き出す声が聞こえた。
見れば、拓海が口を覆って笑っている。
「もう、悪目立ちしちゃってるのに、何笑ってるの?」
「ん、ごめん。でもなんか、楽しくなってきたからさ」
「……坂上くんも、変わったよね。本当に」
七瀬も、小さく吹き出した。今日という門出の日の朝に見上げた空のように、からっと晴れ渡った気分になる。
そんな七瀬の様子に気付いてか、ミユキと夏美がそうこなくっちゃと言わんばかりに、勝気な笑みを向けてきた。よく体育の球技の授業などで、二人はこんな顔をしていたものだ。力強い投球へ全力で立ち向かうように、七瀬も同じ笑みで受けて立った。
「撮り直し、お願い!」
「オッケー! あっ、でもその前に。ななせの彼氏さあ、もうちょっとななせの方に寄ってくれる?」
「ん、分かった」
拓海が素直に頷いて、七瀬の方に半歩ほど詰めてきた。
そこまでは、良かったのだ。問題は、そこから先の拓海の行為だ。
「こう?」
素朴な訊き返しの声と同時に、ぐっと七瀬の左肩が、右側に引っ張られた。
「え?」
セーラー服の右肩が、黒い学ランにぶつかった。さっき感じた春の日向のようにぽかぽかした匂いに、身体が包まれたのを感じた。拓海が七瀬の肩に腕を回して、引き寄せてきたのだと気付くのに、たっぷり三秒ほどかけてしまった。
「……っ、わ、わああっ、まだ進化しなくていいって言ったでしょ!」
「な、なんでっ!?」
混乱と羞恥と怒り混じりの七瀬が上げた叫びと、脇腹に肘鉄を食らった拓海の情けない悲鳴と、カメラのシャッター音と、そしてクラスメイトからの冷やかしの大音声が見事に重なり、極め付けのようにチャイムまで、春の教室へ高らかに鳴り響いた。
*
「あっははは、これやばい。最高だわ。うける」
「ミユキも夏美も、いい加減に人をネタにして笑うのやめてよね!」
七瀬がいくら抗議しても、机に座って足をぶらつかせた二人は、カメラを手に笑い続けている。さっきの騒動で撮れた奇跡の一枚を眺めているのだ。七瀬は顔を真っ赤にして怒ったが、ふっと笑って、嘆息した。
こういう賑やかな中学生活も、もう終わってしまうのだ。
名残惜しい気はしたが、そろそろ七瀬も、行かなくてはならない。
「じゃあ、二人とも。また春休みに遊ぼうね」
「あれ? ななせ、もう帰るの?」
「ほら、ななせの彼氏のところだよ」
「だから、坂上くんだってば。二人とも、よく舌噛まないで言えるよね」
苦笑しながら、七瀬は答えた。拓海は七瀬より一足先に、この教室を出て行ったのだ。友人の男子グループと少し話し込んでから、いつものように学校の裏門で待ってくれると言っていた。何となくびくびくしながら出て行ったので、ミユキや夏美にからかわれるのを避けての行動に違いない。
「えー、今日くらい残ってけばいいじゃん。二人してなんで早く帰るの?」
「ごめんね、坂上くんと一緒に行くところがあるんだ」
「へー、デート?」
「違うよ。お昼ご飯は一緒に食べるけどね。坂上くんだけじゃなくて、他校の子達とも集まるの」
言いながら七瀬は笑ってみせたが、これから会う面々に思いを馳せると、つい物憂げな気持ちになってしまった。
――毬、今頃どうしてるかな。
あの〝遊び〟が終わってから、七瀬は一度だけ毬の様子を自宅まで見に行っていた。毬は学校を何日か休んだそうだが、概ね元気そうだった。きっと空元気などではなく、本当に元気になりつつあるのだと七瀬は思っている。
――和音ちゃんが、頑張ってくれてるおかげかな。
ポニーテールの友人の顔を思い出すと、まだほんの少しだけ胸が疼いた。それでも七瀬は毬を立て直す役割を、今回は和音に一任しようと決めていた。
和音の気持ちを汲んだから、というのが理由としては大きいが、毬を心配している日比谷陽一郎との攻防戦を、七瀬がこっそりと楽しんでいるのも理由の一つだ。さらにそれとは別に、決め手となった理由もある。
〝遊び〟の終わりで泣き崩れた毬に、真っ先に駆け寄ったのは和音だった。
だから七瀬は、和音になら任せられると思ったのだ。
七瀬の、大切な、友達のことを。
それに、強く信じてもいるのだ。
毬ならきっと、最終的には立ち上がれる、と。
「そっか、じゃ、現像した写真はななせの彼氏の分もつけとくから。肘鉄が決まった分は現像しなくていいって言われたけど、その三秒前のやつは欲しいって言ってたからさ。意外とちゃっかりしてるよね。あ、一枚百円でよろしく」
「ミユキ……いつの間に坂上くんと、そんなやり取りしてたの?」
「まあまあ、気にしない! じゃあね、ななせ!」
「ばいばい、ななせ! 早く彼氏の所に行っておいでー」
最後まで冷やかしてくる二人に見送られながら、七瀬も元気に笑って「ばいばい! またね!」と声を張った。教室に居残っている生徒は半分ほどに減っていたが、七瀬に向かって「ばいばい!」と返してくれる子が何人もいた。七瀬も「ばいばい!」ともう一度叫んでから、弾む足取りで教室を出た。
遊園地のコーヒーカップのように、視界がくるりと教室の風景から廊下の風景へ流れていく。その刹那にクラスメイト達の連帯感の輪の中から、七瀬は一人の少女の姿を無意識に探してしまい、やっぱり苦笑してしまう。
いないのは、だいぶ前から気付いていた。早々に帰ってしまったのだろう。しんみりとしながらも、七瀬はひっそり安堵した。
もし見つけてしまったなら、胸が苦しくなったと思う。あの少女への友情の質がどことなく恋愛に似ていたと、かつて感じたことを思い出す。恋愛を知った今であっても、同じように思うのだ。それが七瀬には少し不思議で、甘い痛みを胸に覚えた。
さっき拓海に触れられた肩を、そろりと腕で、抱いてみる。
その場所が熱を持った気がして、七瀬は溜息交じりに、呟いた。
「……急に、ああいうこと、するんだから……」
何となくだが以前よりも、拓海は七瀬に触れるのを躊躇わなくなったような気がする。気持ちを落ち着ける為に七瀬がスカートのポケットに手を入れると、冷たい手触りが指先に伝わった。
丸みを帯びたプラスチックの輪郭は、兎の顔の形をしている。ゴマのような目を指の腹でなぞってから、七瀬は今度こそ、進むべき道に目を向けた。
廊下にも、胸に花をつけた卒業生達があふれていた。この東袴塚学園中等部で過ごす最後の時を、皆が思い思いに過ごしている。その空気は何だか学園祭の時に似ていて、浮遊感のある空間にプリズムのような輝きが溶け込んでいる。
そんな廊下を、七瀬は歩いた。通学鞄を右肩に提げて、サイドで結った巻き髪とセーラー服の襟を揺らして、輝きに満ちた校舎の廊下を歩いた。
教室を一つ一つ通り過ぎていく中で、どっと上がった歓声を聞いた。七瀬がそちらを振り向くと、柔らかな風がひんやりと廊下に吹き抜けた。
目を向けた教室の一番奥で、ベージュのカーテンが風を孕んで、翻る。学び舎を渡る春風は、今日を境にこの学校からいなくなる子供達一人一人の全身を、万遍なく撫でていった。七瀬は自然と微笑むと、前を向いて歩き続けた。
――本当に、様々なことがあったと思う。
階段をとんとんとリズミカルに下りていくと、踊り場に据えられた姿見に、プリーツスカートを番傘のように翻しながら歩く、十五歳の少女が映っている。
――この鏡の向こう側に飛び込んで、全力で駆け抜けた日のことは、今でも鮮明に思い出せる。
七瀬にとって、この学校は始まりの場所だった。
この場所があったから、七瀬は拓海と出会えたのだ。撫子とも、柊吾とも、それから和装姿の異邦人とも出会えたのだ。思い出を映した鏡の欠片を一かけらずつ拾うように、七瀬は階段を下り続けた。
かつては拓海とともに閉じ込められた学校から、自分の足で出ていく為に。
やがて七瀬は一階に辿り着き、最後の姿見の前を通過して、昇降口まで歩いていって――自分の下駄箱がある区画で、息を詰めて立ち止まった。
予想外の人物が、そこで七瀬を待ち受けていた。
「葉月……」
「……」
一之瀬葉月は、無言だった。
昨年の四月とは、風貌が様変わりしたと思う。七瀬と屈託なく笑い合っていた頃は、葉月の髪型は綱田毬によく似た艶のある似たショートボブだった。今では随分と伸びた髪を、後頭部で一つに縛っている。元々人目を恐れていた『大人しい』少女は、以前よりもさらに身なりに手を加えなくなった気がした。
その理由を、七瀬は漠然と悟っている。
お洒落をする、とか。身だしなみを整える、とか。そういった行為に、どうしても気持ちが向かないのだ。きっと、今の葉月には。
「……」
対峙する二人の傍を、何人もの生徒が通り過ぎた。
一階の電灯は点いておらず、校舎の外へ繋がる扉から射す白い光が、長いトンネルの出口のように眩かった。下駄箱の林立する昇降口の簀子に立って、葉月は七瀬に身体を向けている。空色を帯びた外光に照らされた校舎一階の昇降口で、光を背に受けた葉月の姿が、影に沈んで暗く見える。
俯いたその顔に、笑顔はなかった。
代わりにあるのは、苦悶だった。
身体が激しい痛みを訴えているのに、それを頑なに我慢しているような顔だった。微かな不服を宿す黒い目が、上履きを履いた足の辺りを見つめている。
七瀬は、何と言えばいいか分からない。今の自分がどんな顔をしているかさえ、よく分かっていないのだ。
怒っている? 悲しんでいる? 鏡を見れば分かるだろう。自分の感情の振れ幅と、生々しい色彩が、鮮烈に突きつけられるだろう。痙攣のようにぴくりと動いた指先が、スカートのポケットへ伸びかけた。それを七瀬は、ぐっと堪えた。
――鏡を見なくても、分かるはずだ。
目の前の少女に、おそらくは七瀬が最後にかける言葉の形くらい、自分の力で、探せるはずだ。
――おはよう? それとも、卒業おめでとう?
どちらも、適切かもしれない。だが、それを言いたくない自分がいた。
何故なら、七瀬は――まだ、葉月に怒っていないからだ。
本人に直接怒りをぶつける場を、在学期間には持てなかったからだ。
そんな状態で、こんな風に、様変わりした葉月と向き合ってしまうと――怒るべきではないのだ、と。怒りを粛々と畳む自分も、生まれていた。
そんな自分でいいのだと、この選択を受け入れた自分も、生まれていた。
結局、おはようとも卒業おめでとうとも言いたくなかった七瀬が、葉月に唯一かけてもいいと思えた言葉は。
「……元気でね。葉月」
別れの挨拶、だけだった。
かつては誰より一緒にいて、大好きだった友達で、もう二度と会わないかもしれない同級生に、七瀬がそう告げた、瞬間だった。
日陰に沈んだ葉月の目に、涙に似た小さな輝きが灯ったのは。
そして乾いた唇が動き出し、掠れた言葉を、紡いだのは。
「七瀬ちゃん。私、引っ越しするの」
葉月が、スカートのポケットに手を入れた。かさりと紙片の擦れる音がして、小さな水色のカードが取り出される。葉月は俯いた姿勢のまま、唖然とする七瀬にカードを突き出してきた。
「高校は、遠い所に行くから。知り合いなんて、誰もいないくらい、遠くに……親戚のおうちから、通うことになったから……これ、住所。七瀬ちゃんに」
「……どうして、私にそれを、教えてくれるの」
七瀬が何とか声を絞り出すと、葉月はようやく、顔を上げた。
今まで意地を張り続けてきた少女の、泣いている顔と、目が合った。
「七瀬ちゃんだから、教えるの」
言うや否や、葉月が七瀬の手にカードを握らせた。そこで力尽きたかのように顔を葛藤で歪めた少女は、たっと走って七瀬の横を通り過ぎる。
上履きが立てるぱたぱたという足音が、一階の廊下の果てまで響いて消えていくのを聞きながら、七瀬は手中のカードへ、目を落とした。
「……」
葉月の言った通り、そこには見知らぬ街の住所が書かれていた。
丁寧な筆致で書かれたペンの文字を、七瀬は一文字一文字、目で辿る。
やがて小さな溜息をついた七瀬は微笑むと、肩に提げた鞄を開けて、卒業アルバムの最後の頁に、カードを栞のように挟み込んだ。
思い出を綴じた本の中に、友情の断片を閉じ込めると――七瀬は鞄のチャックを元通りに閉めてから、拓海の元へ急ぐ為に、下駄箱に手を、伸ばした。




