花一匁 134
「風見美也子の父親は、貴方達にとんでもない横暴を通そうとしたらしいわね。それを綱田毬が拒絶したって聞いたから、私はあの子を見る目が変わったわ。大したものね、貴方達が誰一人として言えなかった非道な言葉を、臆することなく放つなんて」
「おい、馬鹿にしてるなら今すぐ黙れ」
「馬鹿は貴方よ。私は褒めているんだもの。いざという時に他者を躊躇なく切り捨てられる女は好きよ。友達にはなりたくないけどね」
いきり立つ柊吾の腕を、撫子が掴んで止めた。首を横に振られたので、柊吾も歯噛みして沈黙を守る。
障子に映る氷花の影は、柊吾達に背中を向けているのだろうか。御山のどこかで鳴いた鳥の声に誘われるように、影絵の首が、つと動いた。
「あの〝はないちもんめ〟の〝遊び〟の夕方、風見美也子の父親は、克仁お父様が自宅に連れて帰ったそうね。あんた達が七時頃に集合した時には、公民館の方に場所を移ったみたいだけど。あの日はそこに泊まったみたいよ。もちろん、風見美也子も一緒にね」
「そんなことまで知ってるのか」
「呉野貞枝の娘、呉野氷花を甘く見ないことね。私は何でも知っているのよ」
「要するに、立ち聞きと盗み聞きの才能を受け継いだってことか」
「あら、むかつく言い方をしてくれちゃって。まあいいわ、続けるわよ」
今日の氷花は、何だか殊勝な態度だった。いつもの氷花なら口論になっていても不思議ではないはずだ。手応えのなさを柊吾が不思議に思う間にも、氷花の語りは流れるように進行した。
「風見美也子の父親は、克仁お父様の家に着いてから、怒涛の勢いで懺悔したそうよ。内臓まで全部吐き出し尽くしてしまいそうな程に、多くのことをね。――四年前の夏の終わりに、風見美也子が小学校を転校したのは、貴方達も覚えてるわよね? あの転校は、風見美也子の忘却癖を心配した両親が、しばらく空気の良い所に娘を通院させる為のものだったそうね。いずれは袴塚市に戻って来るつもりだったから、一戸建ての家を残したらしいわ。今回燃えてなくなっちゃった、あの家のことよ」
「……」
「風見美也子の父親は、一時期あの家に一人で住んでいたのよ。いずれは妻と娘が帰ってきて、また三人で暮らすようになる、あの家に。当時の風見美也子が自分の転校について、どんなことを思っていたか。あの父親は克仁お父様に、こんな風に打ち明けたそうよ。――小五の頃の風見美也子には、自分が記憶の大部分を取り零してしまっていることに、ちゃんと自覚があったみたい。でもそれは本当に短い期間だけだったようね。……古い記憶の上から新しい記憶が、どんどん上書きされていく。その結果として自分の娘は、小学五年の記憶の大半と、それから忘却癖そのものも忘れてしまった。けれど風見美也子の両親は、そんな娘の忘れっぽさを、本人にいちいち指摘しなかった。理由は、きりがないから、ですって。それに娘が心配だから、とも言っていたわ。莫迦みたいな、言い草よね」
吐き捨てるように、氷花は言った。線香の煙に似た青灰色の悲しみが、室内を包んでいくのを柊吾は感じた。
氷花は今、悲しんでいる。それに、憤ってもいるのだ。
「『愛』を白々しく語るその口で、あの男は家族じゃない女にだって、甘い言葉を吐けるのよ。風見美也子の父親は、妻との離婚を本気で考えていたんだから。離婚届だって用意していて、風見美也子の高校入学を見届けてから、役所に出す予定だったのよ。結局、離婚するはずだった妻は死んで、娘だって高校受験をすっぽかしちゃったわけだから、あのどうしようもない男の思い描いた未来なんて、只の絵空事に終わったけどね。……ねえ、三浦君。この男を可哀想だって思う? たとえこの男を可哀想だって思う人がどれだけたくさんいたとしても、私はこんな男に同情なんて絶対しないわ。だって風見美也子の父親は、娘のことを、こんな風に思っていたんだもの」
氷花は、冷めきった軽蔑の声で続けた。
「可哀そうな娘、って。他人事みたいに思っているんですって。自分にもこの子が好きだった頃はあったはずなのに、どうしてボタンを掛け違えてしまったんだろう、って。他人事みたいに何度でも思っているんですって。家族が幸せだった頃に、戻りたくて堪らないんですって。この嘘みたいな現実と向き合うのも、恐ろしくて堪らないんですって。……全く、どの口が言うのかしら。警察から妻が死んだって聞かされた時だって、あの男は実は安堵していたのよ。もう壊れきった自分の家族を、立て直そうとしなくていいんだから。負担が減った。解放された。とことん壊れてほっとした。悲しみの他に安らぎも、あの時確かにあったのよ。喪失感で泣きながら、本心では暗い喜びに震えたのよ」
「おい、そんなのって……」
柊吾は思わず声を上げたが、氷花は揺るがず「事実よ。本人が言ったんだもの」とシビアに告げた。撫子は、物憂げに唇を結んでいた。美也子の父親の感情の変遷が、撫子には理解できたのだ。柊吾にも、薄々とだが理解できる。
美也子の父親は子供を愛せなかった大人だった。だが同時に、子供を愛そうとした大人でもあったのだ。
だからきっと、袴塚市に家を残した。
その身の内で激情が、どんな温度で、逆巻こうとも。
「あの男が言った、美也子が可哀想とか、美也子を愛してる、なんて。薄っぺらいのよ。厳密には『美也子』の部分を自分に置き換えた方が正しいに決まってるわ。自分が可哀想。自分を愛してる。こっちの方が辻褄が合うわ。……全部、自分の為なのよ。それが周りの人間に伝わるのはあまりに体裁が悪いから、愛娘っていう隠れ蓑を使っているに過ぎないのよ。狡くて、汚くて、醜い男。さすが風見美也子の父親だわ。娘が醜い女に育つのも納得よ」
「……。お前は、そんな風見の父親の態度に、腹を立てたんだな」
「……。知ぃらない。喋りすぎたみたいね」
氷花は毒気を抜かれた様子で黙った後に、白々しく嘯いた。象牙色の影絵が、すっと障子戸の中で立ち上がる。柊吾は「待てよ」と呼び止めた。
「呉野。……風見が、これからどこに行くかは聞いてるか?」
「さあね。そこまでは知らないわ。言っておくけど、本当よ? でも克仁お父様の話しぶりを聞き取った感じだと、引っ越しは間違いなさそうね。あと、この街にはもういないはずよ。父親の方はどうだか知らないけど、娘の方は公民館に泊まった翌日、この街を発ったそうだから。父親がどこかの知り合いに預けたんでしょうね。そんな物好きな知り合いが、本当にいればの話だけどね」
「……そうか」
だとしたら、柊吾達が美也子と連絡を取ることは、今後二度とないのかもしれない。そもそも〝遊び〟の終わりに手酷い拒絶を叩きつけた柊吾達が、美也子との繋がりを気にすること自体が、おこがましいのかもしれないが、ともかく。
現時点では、陽一郎からの報せを待つしかないということだろう。
柊吾達と美也子を繋ぐ、唯一のパイプ。それは〝はないちもんめ〟が終わった後で、陽一郎が藤崎に手渡したメモ書きだけだ。いつ来るとも分からない報せを思い、気持ちを彼方へ飛ばした柊吾の袖を、くいと撫子が引いてきた。
「柊吾、柊吾。……呉野さん、まだいるよ」
「ん?」
言われて顔を上げると、確かに氷花の影は依然として、障子戸の片側に立ったままだ。象牙色の影は何故かもじもじと揺れていて、間の抜けた沈黙が、三者の間に流れた。
「何してんだお前」
柊吾がストレートに指摘すると「う、うるさいわね! 何してんだとは何よ!」と、氷花は羞恥を爆発させたような声で怒鳴ってきた。
「何なんだ? お前、まだ俺らに何か用でもあるのか?」
「……ねえ、私は喋ったわよ? 食後のデザートだって出したわよ。貴方達からも、私に何か、有益な情報を提供すべきだとは思わない?」
「はあ? 意味が分かんねえ。もっと分かりやすく言ってくれ」
「何よ! 人が下手に出れば、偉そうな口利いちゃって! さっさと最初の〝アソビ〟の賞品がどうなったか、私に洗いざらい白状しなさいよ!」
「あ。何だお前、それを聞きたくてわざわざ来たのか」
呆けた柊吾は、次に気まずさを覚えて頬を掻いた。撫子が隣にいる状況でこんな話はしたくないのだが、仕方ないのでぼそぼそ言った。
「安心しろよ、俺らはお前の恥ずかしい過去なんか忘れたから」
「そっちじゃないわよ! 死ねえぇーっ!」
障子戸から伸びてきた黒いブレザーの腕が、おしぼりとお盆を凄い速さで投げてきた。「うわっ!?」と叫んで飛び退いた柊吾の手前の畳にぶつかったそれらを、撫子が目を白黒させながら見つめている。
「あっぶねえな! 何してんだテメェ!」
「私の方の賞品じゃなくて、あんた達の方の賞品を聞いてんのよ! ほ、ほら……篠田七瀬が、言ってたでしょ!」
「……ああ、そっちか」
ぽんと柊吾は手を打った。氷花はどうやらそれについて探りを入れる為だけに、美也子についての知り得る情報を先払いという形で押しつけてきたらしい。撫子は律義にお盆を拾い、おしぼりを丁寧に並べている。その様子を柊吾は横目に眺めながら、「別にデートなんか行ってないぞ」と、氷花へおざなりに報告した。
「篠田がデートだとか色々言ってたアレ、結局は坂上とイズミさんとの三人で、蕎麦を食いに行ったらしいから。ほら、この山を下りたとこの近くに、なんか美味い蕎麦屋があるんだろ?」
「……っ、あのクソ兄貴! 何よ、何よ! 絶対に許さないわ! 今日くらいラーメン作ってあげようなんて思った私が馬鹿だったわ! 春休みの間は毎晩、天麩羅蕎麦に決定よ!」
影絵が、地団太を踏んで怒り狂い始めた。柊吾はたじろいだが、隣にいる撫子は何かを察したのか、「お蕎麦屋さん、呉野さんも連れて行ってほしいのかな」と、柊吾にだけ聞こえる小声で教えてくれた。犬も食わない喧嘩、という言葉が頭に浮かんだ柊吾は嘆息したが、ふと思い立って氷花に訊いた。
「呉野。……イズミさんがこれからどうする気でいるのか、お前は何か知ってるんだろ?」
暴れていた氷花が、ぴたりと止まる。
鳥の囀りがまた聞こえ、緑の匂いが先程よりも深く香った。五感が鋭敏になるほどに冴え渡った緊迫感が、霧のように和室に満ちた。
「……知ぃらない。知っていても、貴方達には教えないわ」
氷花の声はいつも通りの揶揄を含んだものだったが、声は笑っていなかった。可笑しくもない事柄を、さも可笑しい事のように笑い飛ばそうとしている。そんな無理を、柊吾は感じた。
「なあ、イズミさん、この神社の宮司を辞めるかもしれねえんだろ? お前が教えてくれなくても、これから本人に直接訊くからな」
「だから、知らないって言ってるでしょ? でも、そうね。あんた達の予想通りかもしれないわね? だってお兄様は、遠い所へ消えようとしているもの。その場所がどこかなんて、分からないけどね」
そんな氷花の見解は、柊吾にとって初めて耳に入れるものではなかった。
この告白は、二回目だ。一回目は、〝遊び〟を始める前にスーパーで七瀬と一緒に聞いたのだ。倦怠感に、憤りを、溶かし込んだような声色で。
――あの人は、自分からどこかへ消えようとしているわ。
「呉野は……イズミさんは、どこに行くと思ってるんだ?」
「ロシアじゃないの?」
気だるげに、氷花は言った。むずがる子供が、床に散らばる玩具を片付けられずに、出鱈目にあちこちへ放るように。整理の出来ない感情を手に取っては投げ続ける氷花の声が、柊吾達の和室にぽつんと落ちた。この場所に降るという、目には見えない花のように。
「ロシアに帰るの? って訊いてみたら、あの人は何て答えたと思う? はいともいいえとも言わないで、あの人は『故郷が懐かしくなった』とか、『親類縁者の仕事を手伝いたくなった』とか、『母親の顔を見たくなった』とか、極めつけには『親孝行をしたくなった』なんて言ったのよ? 綺麗過ぎて胡散臭い、子供騙しの、あの笑顔で。……絶対、嘘に、決まってるわ。その母親に『一生会わない』ことこそが、最大の『親孝行』だって、あの人は心得ているはずなのよ。……それなのに……どうして……?」
「イズミさんが……ロシアに?」
息を呑んだ柊吾は、撫子と顔を見合わせる。
驚きはしたが、予想の範疇ではあった。和泉の覚悟がどれほどのものなのか一切不明というところまで含めてだ。氷花から齎された新事実にも似た憶測は、皆が考えていたことだろう。
「嘘でしょ? っていくら言っても、あの人は嘘くさく笑うだけよ。いくら私が追及したって、させてくれないんだから。あの人は、ずっと変わらないのよ。私を子供扱いし続けて、誰にも心の深い部分なんて見せなくて、一人で消えようと決めてしまっているのよ。そんなこと、随分前から感じてたわ。――だから、私だって。消えてやろうって決めたのよ」
「呉野? お前まで消えるって、何の話だ?」
「兄さんを、困らせてやるって話よ」
「イズミさんを、困らせるって……なあ、そういえばお前の進路、皆知らねえんだ。高校、どこに行くつもりなんだ?」
「教えないわ。受かったって、教えないんだから!」
「――遠くに、行くの?」
氷花の声が、止まった。はっと息を吸い込む気配とともに、障子戸に映る長い髪の影が、揺れる。柊吾は、驚いて隣を見下ろした。
撫子は、氷花を見つめていた。布団の上で正座して、障子戸という遮蔽物などものともせずに、ひどく切実で真摯な視線を、氷花へ真っ直ぐ向けていた。
「高校は、県外を受験したんでしょう? そこまでは神主さんから聞いてたから、知ってるの。どこを受けたかは、知らないけど」
「……」
氷花は、押し黙っていた。まるで、恋を言い当てられたかのように。
撫子は、目を伏せた。まるで、その恋を知っていると告げるように。
「一度決めてしまった進路は、今さら簡単には、変えられないかもしれないけれど。でもあなたは、大切な人をここに残して、遠くに行って、後悔しないの?」
「……しないわ! 後悔なんて、私はしない!」
床を蹴る足音が、荒々しく木霊した。
途端に――障子戸から、呉野氷花が姿を現した。
格好は、黒いブレザーに緑のチェック柄のスカート。和音や毬が着ていたものと同じ、袴塚中学の制服だ。胸元に咲いた白い花の名前は、柊吾には分からない。だが、この時の氷花の激情は、胸を打つほどに伝わってきた。
――呉野和泉は、神社の宮司を辞めようとしている。
――呉野氷花は、県外の高校に通おうとしている。
すれ違い続けることを敢えて選んだかのような兄妹は、本心では何を思っているのだろう。その謎を柊吾には解けなくとも、氷花の本心くらいは、分かる。
中二の頃、進路に迷い、人生の岐路に立った己の姿を思い出す。この家に上がった時にも、柊吾はかつての己を思った。
あの時には、ただの感傷に過ぎなかった。
そして今は、明らかな同胞意識で思ったのだ。
「……呉野。迷ってるんだな? ここを離れて、県外の高校に通うのを」
「そんなわけないじゃない! 私は遠くの高校に行って、兄さんを困らせてやるんだから! あの莫迦な人が日本に居残ろうがロシアに帰ろうが知らないわ! 私の居ない家で寂しくカップラーメンでも食べてればいいのよ!」
頭を振った氷花の声が、柊吾の声を跳ねのけた。
きっ、とこちらを睨む目に薄く輝いた光は、春の麗らかさが見せた幻だったのかもしれない。柊吾がそれを判断するより早く、氷花は廊下を駆けていった。
足音が、遠ざかっていく。水面の波紋が広がって消えていくように、後には何事もなかったかのように、静寂が辺りを包み込む。
「呉野……」
異能の少女が消えた廊下を眺めながら、柊吾はやるせない気持ちを覚えた。
氷花だけは、変化も成長も撥ねつけて生きているように見えていた。
だが、そうではなかったのだ。
あの葛藤は、変化という摩擦が生み出す苦しみだ。
「柊吾。呉野さん、前にスーパーで柊吾と七瀬ちゃんに言ったんだよね? 〝言霊〟で私達のことがどんな風に壊れても、何とも思わない、って」
廊下を見つめたまま、撫子が神妙な様子で言った。
「ああ、言ってたけど……」
柊吾は気もそぞろに答えながら、はっとした。
スーパーでの会話を振り返ると、腑に落ちるものがあったのだ。
――『私は、兄さんなんて嫌いよ。あの人は意地悪で、私を馬鹿にしてばかりだもの。私があの人の『憎悪』をいくら引き出そうとしたって、あの人から出てくるのは、薄っぺらな『愛』ばっかり』
和泉への感情を、氷花はどこか悔しげな声で吐露していた。
そんな氷花が、言ったのだ。和泉に向けた悔しさを、代わりに他の誰かへ、ぶつけるように。
――『……ねえ、貴方達なんて所詮、私にとっては暇潰しの玩具でしかないのよ。赤の他人の人生がどんなに滅茶苦茶に壊れたって、私は何も感じないわ。そんなもの、私の知ったことではないからよ。私はあの人を困らせられたら、それでいいの。それが一番の〝アソビ〟なのよ。……でも、お兄様は、それでも私と遊ぶのを、やめ続けたままなんだわ』
氷花は異能で柊吾達を傷つけた過去を、欠片も後悔していないのだ。さっきの氷花の〝言挙げ〟には無理を感じた柊吾だが、以前の氷花の〝言挙げ〟には、窮屈さを微塵も感じなかった。
きっと以前は、本気で言っていたからだろう。
だからこそ、今回の無理が余計に際立って聞こえたのだ。
「呉野さんは、〝言霊〟で私達を壊すのは、何とも思わないのかもしれないけど……神主さんのことは、そうじゃない。だから今日の呉野さんはこんな風に、私達と話してくれたのかな」
「? どういうことだ?」
柊吾には、意味が呑み込めない。撫子は立ち上がると、さっきまで氷花がいた場所までてくてく歩き、林檎の小皿を持ち上げた。外光を眩く反射させた廊下には、桜の花弁も点々と白く散っている。
季節は、春。そしてこの春、柊吾達は高校生になる。
新たな出会いも、あるだろう。
出会いがあるなら、別れも、近い。
「呉野さんも、神主さんと同じ。時間がないんだと思うの。それから、余裕も。もう私達を相手に〝言霊〟で遊ぶ暇も、ないくらいに」
「……」
確かに、そう考えたら納得できる。今日の氷花は、害意や敵意を見せなかったからだ。ただの普通の少女として、柊吾達の前に立っていた。
――もう、柊吾達を弄ぶ意思がないからだ。
「神主さん、本当にロシアに帰るのか、分からない。さっき呉野さんが言った通りだと思う」
「俺もそう思うけど、だからって、日本に残るかって言われたら……」
それも、違う気がするのだ。
柊吾はしばらく呻いたが、「雨宮、それ食ったら行くか。イズミさんの所に」と言って思考を一旦放棄すると、撫子を軽く手招きした。
「イズミさんに直接訊こう。さすがに今度は教えてくれるだろ。それに俺らだって、待ち合わせの時間もあるし」
「……。日本とか、ロシアとか、そんな表面的なことじゃ、なくて。……もっと大切なものが、消えようとしてる気がする……」
林檎の兎を見下ろしながら、撫子が悲しげに囁いた。
「……」
柊吾は、黙り込むしかなかった。撫子の声にこもった哀愁が、途方もない切なさが、柊吾に何度でも予感させるのだ。
――和泉はやはり、どこかへ消えようとしている、と。
和室に漂った寂寞感は、まるで煙管の煙のように、柊吾と撫子の間に揺蕩い続け、しばらくの間消えなかった。




