花一匁 131
沈みかけの夕陽の光が、一際赤く輝く頃。
氷花が去り、撫子と七瀬が繋ぎ合った手を離し、鳥居の前に集った柊吾達が、誰からともなく『帰ろうか』と言い合った時だった。
しなやかな野菊の群れが、風に一斉にそよぐように――臙脂のサロペットスカート姿の少女の身体が、ゆっくりと傾いでいったのは。
あっと誰かが声を上げた。それは柊吾だったかもしれないし、少女に最も近い場所に立っていた陽一郎だったかもしれない。和音が俊敏な動きで駆け寄ろうとしたのが見えたが、黒いニット帽の少女よりも、白い和装の男の方が早かった。
『……遊び疲れたのでしょう。僕が背負っていきますよ』
そう請け負って、呉野和泉は微笑すると――抱き留めた風見美也子へ、嫋やかな慈愛の目を向けた。
『幸福そうな寝顔ですね。きっと今日の出来事は、彼女の中で美しい記憶として残ります。たとえ写真のように色褪せても、形を保つことさえできなくても』
『屹度、然うなりますよ』
同調したのは、藤崎だった。薄手のコートに包まれた身体が素早く動き、美也子を抱えた和泉の腕を支えている。そして陽一郎を始め、眠る美也子を心配して見守っていた面々に、『大丈夫ですよ』と夕餉の団欒のような声音で言った。
『さあ皆さん、帰りますよ。じきに日が暮れますからね。赤ら顔の異人さんが、子供達を攫いに来る前に。イズミ君、手伝いますよ』
『有難うございます』
藤崎の手を借りて、和泉が美也子を背負い始めた。その様子を陽一郎がはらはらと見守っていたが、何を思い立ったのか、ぱっと撫子の方へ駆けてきた。
『撫子っ、紙とペン持ってる?』
頷いた撫子は、黒いポシェットからメモ帳とシャーペンを取り出した。それを受け取った陽一郎は『ごめん、一枚もらうね!』と言うが早いか、メモ帳に何かを書きつけると、びっ、と一枚切り取った。
そして和泉と藤崎の元へ取って返すと、『あの、これ! みいちゃんに!』と慌てた様子で声を掛けて、手中のメモを差し出した。
『僕の家の住所、書いたから……もし、みいちゃんと会えるのがこれで最後でも、落ち着いた頃に、手紙のやり取りとか、できたらいいなって……』
『陽一郎……』
柊吾は驚いたが、傍では和音がもっと驚いた様子で立ち尽くしていた。陽一郎が美也子との接点をこんな形で残そうとしたのが、よっぽど意外だったのだろう。後に柊吾はこの時の和音の驚き方を、そんな風に解釈した。
『……美也子さんも、きっと喜ばれると思いますよ』
美也子を背負った和泉は、そう答えて微笑んだ。
何故だか寂しげな微笑だった。柊吾は違和感を覚えたが、藤崎の方は『では、私が預かりましょう。後ほど美也子さんにお渡ししますよ』と頼もしく請け負ってくれたから、柊吾は気のせいだと信じようとした。和泉の微笑を寂しげだと感じたのは、柊吾の気のせいに違いないと。
気のせいではなかったと知ったのは、この神社の御山を皆でぞろぞろと下りている途中、石段の終わりに差し掛かった時だった。
『あ、そういえばイズミさん。訊きたいことが、あるんですけど……』
柊吾は足を止めて振り返ったが、美也子を背負った和泉の足取りはのんびりとしたものだったので、いつの間にか柊吾達との距離が開いていた。
『どうしたの?』
隣を歩いていた撫子が気にかけてくれたが、『いや、後でも訊けるから別にいい』と柊吾は軽く頭を振った。本当は、和泉の進退について訊ねようとしていたのだ。三月六日の道場でも一度訊ねてはいたのだが、その際には和泉から三月七日の夕方に改めて訊くよう言われていた。
つまり、〝遊び〟が終わった今のことだ。今なら、和泉も答えてくれる。そう期待して訊いたのだが、少女を負ぶった人間に、急いで訊くことでもないだろう。
そう割り切った柊吾が、視線を前方に戻した時だった。
異変にいち早く気付いた七瀬が、硬い声で言ったのだ。
『あれ? あの人……』
『篠田さん? どうかした?』
『見て、あの人。……私達のこと、見上げてる』
先陣を切って石段を下りていた七瀬と拓海が囁き合い、二人の後ろについた柊吾も、眉根を寄せて下界を見た。
石段の終わり、丹色の鳥居の手前で――確かに、一人の人間がいた。
その人物は、黒いスーツ姿の男だった。柊吾達が石段を一段下りる度に、その容貌も具に観察できるようになっていく。
白いシャツには皺が目立ち、黒髪も整えられてはいない。のっぺりとして表情のない顔に、精彩を欠いた瞳。目の下には皮膚の色とは対象的な、どす黒い隈が浮いている。歳は恭嗣より少し上くらいだろうか。中学生くらいの子供がいても、決して不思議ではない、大人の男。
『……まさか』
柊吾は、隣の撫子や、こちらを振り返ってきた拓海や七瀬と、目配せを交わし合う。この時の皆の顔は、きっと柊吾と同じ顔だ。戸惑いと、驚きと、それから得体の知れない恐怖とをパレットの上で混ぜ合わせて、困惑の色を足した顔。
スーツ姿の男の傍には、三浦恭嗣も渋面で立っていた。この男がここで柊吾達を待つことを、明らかに良しとしていない。恭嗣はしきりに男へ話しかけていたが、男は聞いていない様子だった。
敢えて無視しているのか、それとも本気で耳に入っていないのか、柊吾達には判断できない。柊吾達は緊張で表情を硬くしながら、石段の最後の一段を下りた。
そして、男と間近に、向き合った。
そして、突然、こんな言葉をぶつけられた。
『……君達は、美也子の友達だね?』
柊吾も、撫子も、拓海も、七瀬も、四人ともが声を失くした。
挨拶もなく、脈絡もなく、いきなり放たれた〝言挙げ〟に、咄嗟の反応ができなかった。言われた言葉の意味さえも、すぐには脳に沁み込んでこなかった。背後で息を呑む声が聞こえたので、後続の和音や陽一郎達にも、この男の言葉が聞こえたようだ。
この男――風見美也子の、父親の言葉が。
『美也子と仲良くしてくれて、本当にありがとう』
紙のように白い顔で、男は言った。
淡々とした台詞だった。台本のト書き通りに台詞を読み上げているような、血の通わない声だった。恭嗣が『風見さん』と声を荒げ、唖然として何も言えない柊吾達と、表情のない男との間に割り込んだ。柊吾も、撫子も、拓海も、七瀬も、背後にいるはずの仲間達も、誰も何も言えなかった。
――美也子の、友達。
――仲良くしてくれて、ありがとう。
その台詞が、打ち捨てられた風車のように、頭の中を空虚に回った。
柊吾達は、確かに子供達で集まって、〝はないちもんめ〟に興じていた。
だがその行為を、たった今顔を知ったばかりの男から、『友達』や『仲良く』という言葉で紐つけられた途端に――明確な不協和音が、頭蓋の内で鳴り響いた。
まるで黒板に爪を立てた時のような、耳障り極まりない音だ。聴覚をノイズで侵された柊吾達の間に、戸惑いがひたひたと溢れていく。恭嗣が、男に何かを言っている。車に戻って待つように、と厳しい声で制している。
だが男は、やはり恭嗣の言葉に耳を貸さなかった。
それどころか、柊吾達の前で盾のように立つ恭嗣を――ぐいと手で押し退けて、こちらへ身を乗り出したのだ。
『頼みが、あるんだ、君達に! ――美也子とっ! これからも! 友達でいてくれないかっ?』
全員が、今度こそ絶句した。
男の顔に、壮烈な切迫感が、墨のように滲み出す。
『風見さん、少し落ち着いて!』
『お願いだ! 美也子は不安定な子なんだ! おじさん一人では、この子を元気にしていく自信がないんだ! 支えになってくれる子が必要なんだ! だからっ! これから美也子が引っ越しても、ずっと友達でいてくれないかっ? 時々は会える友達でいてくれたら、美也子だって普通の女の子に戻れるはずなんだ! なあ、お願いだ、助けてくれ! 美也子には君達しかいないんだ! 美也子の親友になってあの子のことを、支え続けて欲しいんだ! 助けてくれ、助けてくれ、助けてくれ……!』
七瀬が、蒼ざめた顔で後ずさった。拓海も、表情を引き攣らせた。柊吾も唇を動かせず、撫子はひどく悲しそうな顔をした。
――美也子と、ずっと友達でいる? 美也子と、これからも仲良くする?
何も、言い返せなかった。同時に、衝動にも似た気持ちで、早く言い返さなくてはならないと、あの時柊吾は思ったのだ。
気付いたのだ、唐突に。この男は氷花の異能で狂ったわけでもなければ、〝フォリア・ドゥ〟によって美也子の狂気に罹患したわけでもないはずなのに、この男の言葉はたった今、新たな戦いを生んだのだ、と。この神社の入り口で勃発した出来事は、柊吾達が今までの潜り抜けてきた戦いと、何ら変わらないのだ、と。柊吾達はいつの間にか、全く予期していなかった戦いに、巻き込まれてしまったのだ、と。
氷花との出会いから今までの間、柊吾達は様々な戦いに翻弄されて、その度に何度も足掻き抜き、抵抗の仕方を模索してきた。なのに今、戦い方が分からなかった。いや、本当は分かっている。
だが、できないのだ。抵抗など、できるわけがないのだ。
この男に、美也子の父親に、発せられたその願いに、反論するということは――即ち、美也子を、拒絶するということだ。
美也子の父親の嘆願は、次第に絶叫に近い声量で発せられ、狂気に通じるような妄執が、昂っていく語りの熱で、どろどろと煮詰められていく。一人で地獄に堕ちるのを、全身全霊で拒むように。蜘蛛の糸という絆の形をした救いに、命懸けで縋るように。細く張り詰めた銀の糸が、眼前の一人の男によって、死にもの狂いで手繰られていく。
それを柊吾達が、ただ見送るしかできなかった、その時――一人の少女の発した声が、混乱で熱せられた場の空気に、夕暮れ本来の冷たさを取り戻した。
『できません』
あの少女があんなにも大きな声を出すところを、柊吾は初めて知ったと思う。
美也子の父は、愕然の顔をしていた。縋った神に見限られ、地獄への入り口を閻魔に突き付けられたかのように、怒りか悲しみか絶望か、あるいはそれをも超えてゆく空虚がそうさせたのか、顔が青黒く染まっていく。
柊吾も愕然の顔で、同じく愕然の顔をした拓海や七瀬、撫子と共に、背後の仲間を振り返った。
――綱田毬は、泣いていた。
大粒の涙を零しながら、怒っているとも、悲しんでいるとも、どちらともつかない顔で泣いていた。腰の横に下ろされた両手は、強い力で握られている。小刻みに震える毬の両脇では、和音と陽一郎も愕然の顔をしていた。
『できません、それは、全部、できません。ごめんなさい、できません』
毬は、何度も拒否と謝罪を繰り返した。そして、横面を張られたような顔で立ち尽くす男が握りしめた蜘蛛の糸を、鋭利な鋏で断ち切るように――男を地獄へ叩き落とす言葉を、涙声で絶叫した。
『それは、あなたが決めることじゃありません! 私達が決めることです! 誰かと、どんな風に、一緒にいるかはっ、私達が決めることです!』
わっと声を上げて泣き崩れた毬に、和音が沈痛な表情で寄り添った。陽一郎は真っ青になって、和音に縋りついて泣く毬のショートボブの髪を見下ろしている。
――そして、柊吾は見たのだ。
毬と和音、陽一郎の三人の背後、真っ直ぐに伸びる石段から――藤崎と和泉が、下りてきたのを。
――和泉の背には、眠り続ける風見美也子。
この時の和泉の目は、ひどく不思議な哀愁を湛えていた。だが単に悲しんでいるだけの顔ではなかった。遙か昔から決められていた哀しい定めを見届ける使命を果たしたような眼差しには、明確な安堵も宿っていた。確かな労りの顔だった。
だから、柊吾は悟ったのだ。
――本当の終わりは、ここなのだ、と。
呉野氷花と風見美也子によって〝アソビ〟が始まり、悲しみの連鎖を断ち切って前に進んでいく為に、柊吾達が始めた〝遊び〟。
その幕は、たった今――綱田毬によって、引かれたのだ、と。
柊吾がそれを知った時、背後で誰かが、吐息をついた。
振り返ると、怒りに燃える目をした七瀬と、睫毛を伏せた撫子、そして暮れてゆく茜の空を見上げる拓海の姿があった。三人の傍で街灯が瞬き、ぱっと白い光が点く。人工の明かりに照らされた拓海の横顔を見つめた柊吾は、その唇が紡いだ小さな言葉を、聞き取った。
『仲間外れが……終わらない』




