花一匁 129
『――ほら、受け取りなさいよ』
三月七日の、夕暮れ時。
柊吾を始めとする八人の中学生達と、審判を務めてくれた呉野和泉と藤崎克仁が見守る中で、烏の濡れ羽色の髪を帯のように靡かせた呉野氷花は、つかつかと撫子の正面に歩み寄ると、鏡をつっけんどんに差し出したのだ。
周囲の全員が呆気に取られるほど、潔い受け渡しだった。ばつの悪そうな顔こそしていたが、あれだけ逃げ回っていた撫子に臆することなく近づく態度は、堂々としたものだった。
『呉野さん、どういう心境の変化なの?』
七瀬などは思わずそう漏らしていたが、耳聡い氷花は存外に生真面目な口調で言い返した。
『負けは負けだからよ』
氷花は正方形の手鏡を、撫子に『ほら』と軽く揺すって突きつけた。撫子は物憂げな眼差しで沈黙してから『ありがとう』と礼を言って、氷花から鏡を受け取った。
〝言霊〟の異能加害者と、被害者。その二人が鏡を挟んで手を取り合う光景は、柊吾にとって象徴的なものとして目に映り、感慨で胸が詰まった瞬間だった。
――本当に、終わったのだ。
事件も〝遊び〟も、これで終わりだ。蟠りさえも、なくなった。
――柊吾の仇討は、終わったのだ。
鏡の譲渡を見守っていた面々に、どことなく緩やかな笑みが広がっていく。それに気が付いた氷花は即座に美貌を激しく歪め、『何よっ、気持ち悪いわね! にやにやしないで頂戴! この私があんた達の茶番に付き合ってあげたんだから、根も葉もない噂話なんかをばら撒いたりしたら、承知しないわ! 兄さん、お父様、私は帰るんだから!』と、相変わらず餌を待つ雛鳥のような姦しさで大騒ぎをしてから、闇色と同化した鎮守の森へと走り去った。
こうして境内には、柊吾たち八人と、和泉と藤崎が残された。
沈みかけの夕陽が、境内を赤く染めていた。十人の人間の影が黒く長く境内に伸びているのを柊吾は見るともなしに見ていたが、その影法師たちの中から徐に、撫子の影が動いた。
『七瀬ちゃん』
鏡を受け取った撫子は、真っ先に七瀬の元へ歩いていった。
『七瀬ちゃんの鏡と同じものを、私が持つことになるなんて、思わなかった』
『……私も』
七瀬は撫子と向き合うと、温かな表情で微笑んだ。遠い昔に離れ離れになってしまった最愛の家族と、思いがけない形で再会した時のような顔だった。郷愁と親愛がない交ぜになった目で、七瀬は撫子の手を鏡ごと、そっと優しく両手で包んだ。
『また会えて、嬉しい。私の分まで、大切にしてね』
――そんな経緯があって、鏡は撫子が所有することになった。
あれから撫子は、絆創膏のぎっしり詰まったピルケースを持ち歩くのをやめた。この鏡を所有している限りにおいて、人が急激に『見えなく』なる事態に陥るのは避けられるからだ。身体を蝕む痛みについては未解決のままだったが、それでも人間の姿がいつ『見えなく』なるか分からないという恐怖からは、概ね解き放たれたと言えるだろう。
撫子の表情はいまだ希薄ではあったが、いつもよりも心持ち、晴れやかに変わったように柊吾には見えた。受験や事件が終わった解放感もあるのだろうが、柊吾に見せてくれる微笑みは、この縁側から見える青空のように何だか自由で、花の匂いを含んだ春風のように軽やかだ。
柊吾は多分こうなった事が、撫子本人よりも嬉しいのだと思っている。
また一つ、柊吾の知らない撫子を、知ることができたのだから。
「貴女は甘いものがお好きなのですね。他にはどんなものがお好きですか? 食べ物でも、色でも、本でも、勉強や趣味のことでも。何でも結構ですよ」
「好きなもの……甘いものの他には、辛いものも好きです。というよりも、多分私は食べることが好きです。さっき御馳走になったお蕎麦の海老の天麩羅も、すごく美味しかったです」
「左様ですか、それは良かったです。用意して下さったあの子にも、後ほど伝えておきましょう」
「? 神主さんが、作ったんじゃないんですか?」
「おっと。そういうことになっていましたね。失礼。貴女の好きなものの話に戻りましょう」
「じゃあ、他には……本は、受験であんまり読めなかったから、これから読んでいきたいです。柊吾の叔父さんが面白い本をたくさん知っているそうなので、私もお勧めを教えてもらいたいなって思っています」
「おや、それはキョウジさんも喜びますね」
和泉が相好を崩すと、撫子もほんの少しだけ、くすぐったそうに笑った。
この縁側で二人が語らう内容は、他愛のない雑談ばかりだった。撫子の好きなものや、日常の過ごし方。そんな平凡な事柄ばかりを、和泉は手の平の温度のような言葉で投げかけ続け、撫子も丁寧に言葉を返している。
その様は柊吾には、今回の〝アソビ〟で残された謎を解き明かす為の行為というより、一種のカウンセリングのように見えた。雰囲気が牧歌的なので、三度目の欠伸まで出てしまう。
「僕は蕎麦とラーメンならばラーメン派です。撫子さんはどちらですか?」
「どっちも好きです。でもどちらかと言えば、ラーメンです」
「僕と同じですね。克仁さんの家で食べたお夜食のラーメンの味は最高で、僕はあれを忘れられません。しかし、僕は至高のラーメンを食べる為に煮卵を自作したことがあるのですが、ラーメンのトッピングになる前に、あえなく克仁さんの晩酌のつまみとして冷蔵庫から消えました。僕はあの悲しい事件のことも、生涯忘れることはないでしょう。ちなみに僕は豚骨ラーメンが好きなのですが、撫子さんに拘りは……」
話題はいつの間にやら、こってりとした麺類の話になっている。しかも妙に恨み節が利いている。「イズミさんやめてくれ、ラーメン食いたくなるから……」と柊吾はげんなりしながら口を挟み、ふと、真正面に向き直った。
――小さな泉は、静謐さを湛えてそこにある。
ひらりと桜の花弁が一片、鏡面のように空を映す水面に落ちる。丸い波紋が一つ、二つと広がるだけで、二度の惨劇を経た泉は、ただただ静かに黙していた。
だが、撫子が『鏡』を手放せば――きっと、まだ『見える』のだろう。
あの〝アソビ〟の夜にこの鎮守の森で、撫子の目については『異能』ではなく『病』であると結論が出されていた。今まで誰にも治せなかったこの『病』を、和泉は何とかしてみせると言う。
柊吾達が、高校生になる前に。
「さて、少し話が脱線してしまいましたね」
和泉が、穏やかな声音を崩さないまま言った。
「では、撫子さん。『鏡』を一度、柊吾君に預けて下さい」
「はい」
撫子は従順に頷くと、柊吾を振り向いて『鏡』を両手で差し出してきた。
朱色の煌びやかなコンパクトを、柊吾は猜疑と不安から受け取れない。
「……大丈夫なのか? 手放して」
じろりと和泉を睨むと、柊吾よりも年上の男は、困ったように眉を下げた。
「大丈夫です。撫子さんの体調が以前よりも安定していますから。それに僕の〝先見〟の異能は、君と撫子さんがしっかりとした足取りでこの御山を下りる風景を捉えています。〝オニノメツキ〟の君も傍に控えていることですから、〝彼女〟を『見た』だけで錯乱することもないでしょう」
「そうなんですか? でも……」
「ご心配は尤もです。もし撫子さんが気分の悪さなどを感じれば、すぐに中断しますから。撫子さん、その場合は即座に手を上げて教えて下さい」
「分かりました」
撫子はもう一度頷くと、柊吾を上目遣いで見た。柊吾は渋々と『鏡』を受け取ったが、釘を刺すことだけは忘れなかった。
「……なんかヤバそうだって思ったら、雨宮が手を上げるより先に、俺が止めに入るからな。イズミさんも。俺の好きにさせてもらいます」
「うん、ありがとう」
「君のことも、頼りにしていますよ。柊吾君」
撫子と和泉が、それぞれ柊吾に笑いかけてきた。柊吾としては到底笑みを返せる心境ではなかったが、二人が示し合わせたように正面を向いてしまったので、慌てて後を追うように前を見た。
そこには、やはり――小さな泉が、山の緑に囲まれて在るだけだ。
「撫子さん。『見えますか』?」
「はい」
和泉が淡々と訊くと、撫子も短く答えた。戸惑った様子もなく、いつも通りの表情で、ただほんの少しだけ、声に寂しさが通った気がした。柊吾が振り返った撫子は僅かだか切なげに、空色の水面を見つめていた。
「あの女性を、貴女は知りませんね?」
「知りません。でも、坂上くんからお話は聞いていたから、初対面って感じもしません。それに……呉野氷花さんと、似ているから」
「……成程」
和泉は、目を閉じて囁いた。その仕草はやっぱり死者を悼んでいるように柊吾には見えてしまい、事実としてその通りなのだと遅れて気付き、眉を寄せた。
――撫子が『見て』いるのは、死者だからだ。
但し、本物の死者ではない。かつてここで生きて、ここで死んだ人間が、おそらくはこの世でただ一人撫子にしか知覚できない形で、この場所に焼き付いているだけだ。本当は何もないのだと、拓海だって言っていた。
「あの〝アソビ〟が終わった夜に、克仁さんは僕に言いました。この泉に感情が残っているのなら、その感情とは即ち、何なのか。――未練、と。あの御方は仰いましたよ」
「未練……」
柊吾は、思わず呟いた。
〝アソビ〟の夜の種明かしでは、この場所に残った感情に、名前は当て嵌められていなかった。人の心の〝傷〟が『見える』という異能を持った藤崎は、この泉に残った感情に、そんな名づけをしていたのだ。
「……私も、そんな気がしていました」
撫子が、小声で言った。哀惜を含んだ声だった。
「何故、そう思うのです?」
和泉も、小声で訊き返した。こちらも、哀惜を含んだ声だった。
「何となく、気持ちが分かるから」
「克仁さんが見抜かれていた『未練』を、貴女も見抜いていたとは驚きです。では、質問を変えましょう。『未練』と一口に言っても、様々な未練があるかと思います。撫子さんは『未練』という言葉から、どんなことを連想しますか?」
神職の男の声が、青い空へと吸い込まれる。長閑で平和な森の上空へ、青色の瞳も向けられた。撫子の琥珀色をした瞳も、同じ彼方へ向けられた。薄く開けられた唇から、「未練」と澄んだ声が零れ落ちる。
「何でも構いません。僕は『未練』と耳にすれば否応なく、九年前の夏の罪を、連想せざるを得ませんから。あの九年前を知らぬ者の感性で、『未練』を紐解いて頂きたいのです。抽象的でも構いませんから、仰って下さい」
「……まず、寂しい感じがします」
空を見上げたまま、撫子は言った。琥珀の瞳に、空の青が映り込んでいる。透明な鏡のような瞳の内に秘められた聡明さが見えるようで、その横顔に柊吾は見惚れた。すると撫子の隣でにやりと笑った和泉の顔まで見えたので、むっと唇を結んだ柊吾は仏頂面を作ってやった。
撫子は自分の両脇でそんな無言のやり取りがなされているとも知らないで、ぽつりぽつりと、和泉に出された課題に答えていた。
「未練という事は……果たせなかった想いが、残ってしまったという事です。それはとても寂しくて、諦めきれなくて、でも、諦めないといけなくて……さようならって言葉を、私は連想しました」
和泉が、声もなく息を呑んだ。その様子は今まで飄々とした態度をあまり崩さなかった和泉という人間にあまりにそぐわない驚き方で、柊吾も口に運びかけていた餅を、紙皿の上に落っことした。
「誰かとお別れをしなくちゃいけないのに、したくない。そんな寂しさを、感じました。……本当に抽象的で、ごめんなさい」
最後は少し申し訳なさそうに言って、撫子が和泉を見上げた。対する和泉は「いえ」と首を横に振り、真剣な顔で、切り出した。
「貴女は何故、左様ならという言葉を連想したのです?」
「それは……柊吾のことが、あったからだと思います」
撫子が、柊吾を見る。柊吾は突然だったので、改めて口に運んだ餅を、今度は喉に詰まらせた。
「私がもし……死ぬことを、考えたとして。もし、本当に死んでしまったとしたら……私の未練は、柊吾だと思います。柊吾と、一緒にいられないのは、寂しいから。お互いに心の中で思ってること、言い合えないまま、さよならをしてしまったら……それも、すごく寂しいから。それが、私の未練になると思います。すごく深い未練になって、残り続けると思います」
「……敵いませんね。貴女には」
和泉が、深く息を吐いた。繊細な情愛が、桜の花弁の一片のように、整った容貌の上に温かく乗った。
「僕と拓海君の種明かしによって、この泉に感情が残ったことを示唆した後、克仁さんが指摘された『未練』。克仁さん同様に『未練』を見抜いていた貴女は、克仁さんですら口にしなかった答えをさらに見抜かれていたのですね。あるいは克仁さんは『未練』の名を、敢えて〝言挙げ〟しなかったのでしょうか。――『愛』に疎い、僕の為に。そして『愛』が深い貴女から、その名を教えてもらう為に。隠された名を〝言挙げ〟で解き明かすこの行為も、きっと〝コトダマアソビ〟と呼ぶべきものなのでしょうね」
撫子は頬を桜色に染めて、視線を膝に落とした。こんな撫子の反応は、滅多に見られるものではない。もっと見守っていたい柊吾だが、兎にも角にも必死に餅を呑み込んだ。「柊吾君、よく噛んで食べて下さい」と和泉はにこやかに言ってから、ふっと遠い目になると、正面の泉を眺め始めた。
「それにしても……未練の正体が、『愛』だとは。あの頃にも思いましたが、これでは出来過ぎた悲劇、あるいは観念小説のようですね」
「観念小説?」
柊吾は息苦しさで涙目になりながら、神主の男に倣って泉を見る。
和泉は九年前の夏の景色を、青色の瞳に映しているのだろうか。沈黙した柊吾と入れ替わるようにして、撫子が口を開いた。
「神主さん。未練の正体が本当に『愛』なら、その未練を、どうやって果たすつもりですか?」
淀みのない言い方だった。風に揺れる柳のように淑やかな声だったが、凛と芯の通った声が、柊吾に一つの思いを悟らせる。
撫子は、おそらく予想できてしまったのだ。
柊吾も、そんな撫子に続く形で分かってしまった。
この泉に残った『未練』の正体が、和泉の言うように『愛』で間違いないのだとしたら――果たしてその『愛』は、誰が、誰に、向けているものなのかを。
「さあ、どうしましょうね。僕は誰の『愛』にも応えないで生きてゆくと、十八の時に決めてしまいましたから」
そう嘯いて、和泉は首を傾ける。気だるげにも、飄々としているようにも、何かを諦めてしまったようにも見える態度だった。
「でもイズミさん、それじゃあ……」
口を挟もうとして、柊吾は言い淀んだ。
軽々に、言えるわけがない。注進のしようもなかった。死者が残していった『未練』に、生者が応えられるわけがないのだ。その上、和泉も応えるつもりはないという。しかもそんな和泉の反応を、柊吾は別段非道だとも思わない。
――『生きてる人間は……死んだ人間とは、遊べない』
〝アソビ〟の終わりに、拓海が放った言葉が蘇る。
――『もう、二度と、遊べないんだ』
和泉は、生きているのだから。死んだ人間とは、遊べない。
「あー、くそっ……どうしたらいいんだ? 手詰まりじゃん。線香を焚くとか、手を合わせるとか、花を供えるとかすればいいのか……?」
ぶつぶつと思いつく端から柊吾がぼやくと、和泉が、毒気を抜かれたような顔をした。それから小さく吹き出すと、上品な笑い声を立て始めた。
「面白い。柊吾君、君はなかなか鋭いですね」
「からかわないで下さい。……っと。すみません、俺の方が軽率でした。イズミさんの身内のことなのに……」
「いえ、お気になさらず。先程の台詞、僕は本気で言っているのですよ」
「え?」
「本気ですよ、柊吾君。僕は、本気で言っているのです」
莞爾と、和泉は笑ってそう言った。
森から筋状に射す木漏れ日が、葉の緑色を仄かに纏い、清廉な白い光となって、縁側に座る柊吾たちへ降り注ぐ。この時に微笑んだ和泉の顔は一幅の絵画のように美しく、柊吾は返事を、忘れてしまった。
その沈黙を埋めたのは、やはり撫子の声だった。
「……神主さん。私のことを、『見て』下さい」
「雨宮?」
仰天した柊吾は、隣の小さな身体を見下ろした。撫子は和泉の方を向いているので表情が見えないが、きっと真剣な顔に違いない。これにはイズミも驚いたのか、青色の目を瞠っていた。
「貴女を僕が『見る』とは、どういうことです?」
「神主さんは、『判る』人だから。誰かの心も、読めるでしょう? でも、それはものすごく能力を加減して、相手のことを極力『見ない』ようにしているはずです。だったら……一度、真剣に。私のことを、『見て』下さい。そうしたら、こういうカウンセリングみたいな方法よりも、ずっと早く……この『貞枝さん』を『見れた』私を通じて、解決の方法が、分かるかもしれません」
撫子はゆっくりと、それでいてはっきりと、長い意見を口にした。
縁側で和泉と話す間、こんな思いを己の中で育てていたのだろう。柊吾は息を吸い込んでから、思わず強い口調で制止した。
「駄目だ。雨宮」
悪い案では、ないだろう。むしろ、試すべき価値もあるだろう。
だが、それは――何となく、いや、明確に。柊吾自身が、嫌なのだ。
「反対だ。だって、それは……雨宮のこと」
全部、『見られて』しまうのだ。目の前の、神職の男に。
柊吾が今までの時間をかけて、少しずつ知っていった様々な撫子のことを、おそらくは一瞬で、そして柊吾がまだ知らない撫子まで、ともすれば赤裸々に、和泉に全部、見られてしまう――ずきりと胸が、嫌な軋み方をした。
柊吾は今、おそらく初めて、呉野和泉による異能の行使を、嫌だとはっきり思ってしまった。
「そうですね。僕も反対です。撫子さん。貴女の言う通りにしても、何も得られないかもしれませんよ」
和泉は、やんわりと断った。寂しげな微笑に見えたので、柊吾も胸が痛くなる。さっきの柊吾の思考だって、和泉に筒抜けに違いなかった。
「それに、僕が己の異能を制御なしで貴女に向ければ、貴女の心身に負荷がかかります。何より、僕は男で、貴女は少女ですから。僕のような異能を持つ者に『見られる』のは、貴女にとって辛いはずです」
「それは……気にしません」
撫子は、気丈に首を横に振った。和泉は、一層困った風に微笑んだ。
「お心遣いは嬉しいのですが、貴女のお身体は、貴女だけのものではありませんから。どうか、大切になさって下さい」
きょとんと、撫子は首を傾げた。数秒はたっぷりと時間をかけて、はっとした様子で柊吾を振り返ってくる。どうやら、『見られる』ことへの覚悟は決めても、柊吾がそれを気にするというところまでは、考えが及ばなかったらしい。そんな撫子の反応に、柊吾は少し傷ついた。
そんなこちらの内面を、撫子もすぐに気取ったようだった。琥珀の目に、柊吾への申し訳なさと、哀願が薄く浮かび上がる。
「柊吾……私、この場所にいる人が『貞枝さん』本人じゃないって、分かってても……何とかしたいの。そのお手伝いを、ちゃんとしたい」
「……」
柊吾が何を言っても、撫子の決意は揺るがないだろう。だからと言って賛成するのは嫌だったが、こうすることで最終的に、撫子の胸の〝鋏〟が取り除けるかもしれないのだ。柊吾が黙り込んでいると、和泉が観念の吐息をついた。
「では、撫子さん。僕は十秒間だけ貴女を『見ます』。但し、苦痛を感じたら即座に手を上げて下さい。挙手でなくとも、合図を下さい。また、貴女からの合図がなかったとしても、僕の判断で中断する場合があります。いいですね?」
「……はい」
その時初めて、撫子がやや怖気づいた様子を見せた。柊吾も異様な言い方にぞっとして、身体が緊張で強張った。
途端に――春の麗らかさが嘘のように、肌寒い空気が、首筋に触れた。
「……始めます」
厳かに告げた和泉が、縁側で並んで腰かけた撫子と向き合い、華奢な両肩を両手で掴んだ。青色の目が、琥珀色の目をじっと覗き込んでいる。撫子の栗色の後ろ頭を見守る柊吾からも、様子が容易に見て取れた。
だが、事態は一瞬で急変した。
和泉の言った、十秒どころか――五秒も、撫子はもたなかった。
「! 雨宮!?」
異変を察知した柊吾は、愕然と叫んだ。
撫子の身体が、電流でも流されたかのように、びくんと大きく痙攣したのだ。小さな苦悶の声が上がった直後、「あ、あ、あっ」と切れ切れの震えた悲鳴も続けざまに上がり、上体が仰け反った。蜘蛛に捕食される蝶のように身体は弱々しくもがいたが、両腕は縁側の床に投げ出されていて、上がらない。
違う。上げられないのだ。それどころでは、なくなっている――和泉が撫子から手を離すのと、柊吾が無我夢中で撫子の上体を引き寄せながら、その胸元に鏡を押し付けたのは、同時だった。
ぱっと、薄桃色の花が散った。胸元に挿した門出の花が、柊吾の手が当たった所為で剥がれたのだ。無惨に散った花はまるで失われた命のように、縁側の床に点々と舞い落ちて、尻餅をついた柊吾の腕の中に倒れ込んだ撫子のブレザーにも、薄桃色の雪を降らせた。
「雨宮! 雨宮! 雨宮……!」
「……だ、い、じょう、ぶ……」
顔色を失くした柊吾へ、撫子は――ちゃんと、返事をしてくれた。
瞳孔の開き切った目で、がくがくと身体を震わせたまま、それでも確かな正気を宿した瞳で、柊吾と和泉を見上げている。
意識は、ある――まずはそこに安堵して、緊張感が一気に身体から抜け落ちた柊吾は、撫子と一緒に突っ伏してしまいそうになった。
だが、異常な状態だった。撫子は身体に力が入らないのか、柊吾に抱えられたまま起き上がれないでいる。そんな状況に陥って尚、柊吾よりも撫子の方が、よほど落ち着きを保っていた。色の失せた唇が、たどたどしく、言葉を紡ぐ。
「神主さん……ごめん、なさい……」
「何故、貴女が謝るのです」
神妙な顔で言った和泉は、茫然とする柊吾の腕から撫子を抱え起こそうとした。だが、その途中で手は止まり、静々と引っ込められていった。和泉がそんな動きをしたことに、柊吾は内心でショックを受けた。
この段になって、分かったのだ。
撫子がこうなったことで、誰が一番、傷付いたのかを。
「だって、私は……神主さんに、つらい思いを、させました」
「僕自身の辛さなどより、貴女のお身体の方が大切です。撫子さん、申し訳ありません。今日は、ここまでにしましょうか」
深々と頭を垂れた和泉に、柊吾はかける言葉を見つけられなかった。
だが、ここでちゃんと、何かを言わなければいけない気がした。無理にでも気持ちを立て直した柊吾は、動揺で強張った声を、それでもちゃんと、響かせた。
「俺も、雨宮も……しっかりとした足取りで、この山を下りるんですよね? イズミさんの『見た』、未来では」
「……。ええ」
和泉がその時浮かべた微笑はまるで、人を模した鬼の身では、決して人とは交われないのだと、暗に告げているようで――柊吾はやり切れない思いを、奥歯と一緒に噛みしめた。




