花一匁 127
「陽一郎、風見の様子は?」
鳥居前のメンバーで円陣を組みながら、柊吾は勢い込んで訊ねた。七瀬や毬も拝殿の方角を気にしている。赤い鉢巻グループの面々に、緊迫感が漲り始めた。
「みいちゃん、すごく変わったよ。……負けたくないんだって」
そう言って陽一郎は笑ったが、直後「ふええん」とべそをかき始めた。もらい泣きらしい。和音などは呆れていたが、表情を切り替えて拝殿の方を注視している。柊吾も素早くそれに倣い、白い鉢巻グループへ目を向けた。
――美也子はついに、氷花と二人きりになった。
だが確かに陽一郎の言うように、美也子の様子には変化があった。泣きじゃくってはいたが、氷花に暴言を吐かれた所為で泣いているわけではなさそうだ。
「勝ちに拘って泣くって、すごく普通のことだよ」
七瀬が、ひどく優しい目で言った。そんな七瀬の隣で拓海も、「うん」と頷いて微笑している。ふわりと柔らかな空気が場に広がったので、この流れで柊吾はニット帽の少女に訊いてみた。
「そういえば佐々木、家族の用事は大丈夫だったのか?」
「うん。……全部が終わったら、皆にも話すから」
和音はそう答えると、さっぱりとした顔で空を見上げた。柊吾達は顔を見合わせたが、悪い報せではないようなので安心した。全員で気を引き締めると、大詰めの〝遊び〟に向けて、グループの陣形を組み直した。
「行くぞ! 十四回戦! ――『決ーまった!』」
七人になったメンバーで、柊吾達は駆け出した。
「――氷花が、欲しい!」
相手も二人になったメンバーで、こちらに向けて駆けてくる。
「――柊吾が、欲しい!」
予想通りの人選だった。おそらく最後に一矢報いる為に、柊吾を狙ってきたのだろう。全力をかけて遊ぶ氷花は、鬼の形相で笑っていた。中学の授業で習った古典文学『雨月物語』に、似た執念で男を祟る女がいた。おどろおどろしい墨絵の挿絵を連想しながら、柊吾はかつての仇だった少女を睨み、確固たる信念で悪意を弾き飛ばすように向かっていった。
恐れることなど、何もないのだ。相手は狐狸妖怪でも魑魅魍魎でも何でもない、ただの人間の少女なのだ。
「――頼んだからな! 陽一郎!」
柊吾が鋭く叫ぶと、打てば響くような清々しさで、声がすかんと空に抜けた。
「まっかせて! 行ってくるね!」
泣き止んだ陽一郎が、弾む足取りで歩き出す。拝殿からやって来た氷花が、ぎょっと目を剥いていた。予想外の人選だったようだ。
「な、なんで日比谷君なのよっ? そんな頼りないひょろひょろ男子出してくるなんて、あんたたち正気なのっ!?」
「だって僕、ずーっとそっちのグループにいたから、じゃんけん一回もしてないし!」
陽一郎は向こうのグループにいた間に少し鍛えられたのか、へこたれずに頬を膨らませている。美也子は、胸の前で手を組み合わせて、二人の勝負を見守っていた。祈りの姿のようだった。柊吾達も、固唾を呑んで見守った。
「じゃん、けん――ぽん!」
*
――私は、どうなりたいの?
何度も、何度も、考えた。きっと一生分考えた。
理想を追い求めるのにいつも必死で、ただ必死で、仮面を付けた私の顔しか、鏡に映してこなかった。その下にある醜い顔を、私は永遠に見たくない。本当の私の顔なんて、知らないままでいたかった。
なのに仮面の付け方を忘れた私は、仮面のない私になってしまった。
もうすぐ一人ぼっちになる私は、暗闇の中、たくさんの顔が屍みたいに落ちる場所で、地べたを這いずるのをやめた。仮面に手を伸ばすのを、やめた。
――仮面の付け方が分からないなら、この顔で生きるしかないのだ。
見るに堪えないほど醜くて、鏡に映したくないこの顔を、受け入れるしかないのだ。
暗い世界に、茜色をした光が射す。私は、瞼を開けた。
「……氷花ちゃんも、さよならだね」
石畳の真ん中に立つ女の子は、私に背中を向けていた。艶やかな黒髪を振り乱して、怒りを爆発させている。全然美しくない姿なのに、さよならが迫った今になって、私は氷花ちゃんを少しだけ好きになった。学校では澄ました美少女気取りの氷花ちゃんも、こんなに勝ち負けに拘る子だったのだ。
「……何よ、何よ! まだ負けてないわ! 私は負けてないんだから! ――みいちゃん! 勝つのよ! あんたに全てが懸かってるのよ!」
氷花ちゃんが、ぐるんと私を振り返った。その目は血走っていて冷静さなんて微塵も残ってなかったけれど、私はちょっと嬉しくなった。どんな形でも私はようやく、この子に必要とされたのだ。さっきばいばいした陽一郎も、こんな気持ちで嬉しいと言っていたのかな。傷だらけの指で涙を拭って、私は顔を上げた。
――沈む夕日と鳥居を背に、七人の子供達が並んでいる。
和音ちゃん、毬ちゃん、陽一郎、撫子ちゃん、三浦君、篠田さん、坂上君――そこにたった今、氷花ちゃんも加わった。
――ああ、私、本当に一人になっちゃったんだ。
両足が、かたかたと震える。忘れていた肌寒さを、今になって意識した。拭ったばかりの涙の痕を、新しい涙が濡らしていく。私は、一人。たったの、一人。四年前にいた紺野ちゃんもいなくなって、もう、たったの一人ぼっち。
これから私は一人だけで、皆に立ち向かわなくてはならないのだ。『リーダー』として、さっきの撫子ちゃんのように、こんなにもたくさんの同級生に、学校に棲みついた化け物みたいな、恐ろしさに。
「――勝ーって、嬉しい、はないちもんめ!」
〝はないちもんめ〟の始まりに、特別な前置きなんて要らなかった。〝遊び〟で定められた掛け声が、八人分の大きな声で、びりびりと神社の空気を引き裂いた。その気迫だけで、私の頭から血の気がさあっと引いていく。私は声にならない声で喘いで、それでも脊髄反射で『ルール』を守り、もつれる足を前に運んだ。
「――負けーて、悔しい、はないちもんめ!」
裏返りかけの声で絶叫した。もうどうなったって構わなかった。死んでしまったって構わなかった。言葉通りの悔しさを全身全霊で叫びながら、ふらふらとした足取りで前に進んだ孤独な私は、たった一人で空気を蹴った。
こんなにも弱々しい力では、化け物なんて倒せない。分かっている。分かっているのだ。分かっていても、これが私の戦い方だ。決まった『ルール』の中で出来る唯一にして絶対で、誰に対しても胸を張れる、生きる為の手段なのだ。
「――あの子が、欲しい!」
大きな声が、ちっぽけな私に叫び返す。吹き飛ばされてしまいそうだ。もう怖くてやめにしたかった。でも、私だって叫び返せたのだ。一回目ができたなら、二回目だってできるはずだ。そういう風にがんばった時、私はやっぱり今を生きているって気がしたのだ。
「――あの子じゃ、分からん!」
喉が攣れるほどの声を出した。弱い私の一体どこに、こんな力が残っていたのだろう。こんなに負けたくなかったんだ。私は諦めが悪いだけじゃなくて、すごく負けず嫌いだったんだ。どんどん新しい私を知っていく。紺野ちゃん、ねえ見てる? 紺野ちゃんが居なくなってしまった世界で、私はまだ生きてるよ。
「――相談、しましょ!」
でも私がどんなに対抗しても、大勢の声には適わなかった。圧倒的な力の差は惨いくらいに私へ孤独を突きつける。私は男の子の喧嘩みたいな大声で、悪足掻きみたいな勢いで、〝遊び〟の呪文を一人で叫んだ。
「――そう、しましょ!」
息が、すっかり上がってしまった。私達の声は茜と群青のグラデーションを描いた空に吸い込まれて、木霊になって遠のいていく。鳥居の向こうの夕陽に向かって、黒い鳥が群れをなして飛んでいった。私が荒い息を吐いていると、撫子ちゃん達八人も、肩で息をしているのが見えた。
そんな姿を、見てしまったら――ぼろっと大粒の涙が目から零れ、もう私の目は何にも見えなくなってしまった。
「う……うう……」
唇を血が出るほどに噛みしめても、熱い涙が止まらない。どうしよう、本当に止まらない。きっと酷い顔になっている。紺野ちゃん。紺野ちゃん。寂しいよ。寂しくて堪らないよ。向こうには子供が八人も集まっているのに、私はどうして一人なの?
寂しいのは嫌だった。もう一人ぼっちは嫌だった。紺野ちゃんと地獄に行きたい。今でもまだそんな願いに、くらっとするくらいに惹きつけられる。
――でも、それじゃ駄目な気がした。
そんな考えに囚われていては、私はこの〝遊び〟に勝てない気がした。
私はもういい加減に、紺野ちゃんと地獄へ行くのを、諦めないといけないのだ。
でも、でも、諦めるなんてできないのだ。頭を振って、涙を散らした。だって私は紺野ちゃんのことを、まだまだ全然知らないのだ。それを知ってしまった今ではもう、無垢に紺野ちゃんと遊んでいた頃の私に戻れない。
紺野ちゃんのことを、考えた。私がこれからどうなりたいかを一生分考えたのと同じくらいに、紺野ちゃんという不器用な女の子のことも、一生分考えた。
――だけど、どんなに一生懸命、考えても。
「…………分からないよ……分からないよ……分からないよぉっ!」
思いが、迸った。心を縛っていた重い鎖が千切れ飛び、血と鉄の匂いが鼻腔に迫る。私の心の最も傲慢で醜い部分を解き放ってしまったと、半分麻痺した頭で思った。私は両手で顔を覆い、泣き叫んだ。
「分からないよ……私がどうなりたいかなんて、分からないよ! 私はっ、私のことより先にっ、紺野ちゃんがどうしたかったかを知りたいよ!」
真っ黒な視界の向こう側で、撫子ちゃん達が私を凝視しているのが分かる。私は紺野ちゃんと遊んだ『かごめかごめ』を思い出した。目を閉じて蹲った鬼の子は、ずっと紺野ちゃんだった。けれど、今では私が鬼だ。寂しい孤独の鬼なのだ。
「紺野ちゃんに……会いたい……紺野ちゃんと……話したいよ……」
紺野ちゃん、紺野ちゃん。紺野ちゃん、紺野ちゃん、紺野ちゃん。教えてよ、紺野ちゃん。あの頃に何を考えていたか教えてよ。私に連れ回されながら派手なグループで遊んだ時、本当は何を思っていたの? 私だって、もう薄々分かってる。でも、ごめんね。私はとっても馬鹿だから、ちゃんと言ってくれないと、そんな自分の考えが本当に正しいかどうかなんて、全然自信が持てないよ。
「……美也子。紺野さんのことを……知りたいの?」
涼やかな響きの、声がした。
陶器を爪先で弾いたような、風鈴の音みたいに澄んだ声。
――私の、初恋の人の声。
「知りたいよ……知りたいよ!」
目をぎゅっと瞑ったまま、私は怒鳴った。知りたい。知りたいのだ。紺野ちゃんの本心に、今からでも手が届くなら。
「それを知って、どうするの?」
私の閉じ籠った盲目の闇はほんのりと赤く色づいていて、そこに撫子ちゃんの静かな声が、道標みたいに淡く灯る。けれど、迷子の私は、頭を振った。
「分からない……でも、知らないと、私は……自分がどうなりたいかを、決められない……」
「……じゃあ、美也子。名前を呼んで。……紺野さんを、呼んでみて」
「……え?」
――紺野ちゃんを、呼ぶ?
「紺野さんを、呼んでみて。……そうしたら、答えるから。紺野さんが、答えるから」
「そんなの……だって、紺野ちゃんは、もう……」
あははは、と私は両手の甲で両目を塞ぎながら、ぐしゃぐしゃに泣いて笑った。死んでるのに。紺野ちゃんは、死んでるのに。
呼んだって、答えてくれる、わけがないのに。
――でも、そんな紺野ちゃんと、私は地獄に行こうとしていたのだ。
「……」
私は、荒い呼吸を繰り返した。言葉をまだ何も知らない赤ん坊みたいに、声が出ない。あの子を、呼ぶだけなのに。黒いおかっぱ頭の女の子を、私の声で呼ぶだけなのに。紺野ちゃんって、一言、呼べばいい、だけなのに――。
――ああ。『紺野ちゃん』じゃ駄目なんだ。
ようやく、気付けた。思い出せた。
あの子と一緒にグラウンドで、かくれんぼで遊んだ日に――あの子が私に笑ってくれて、ささやかなお願いをしたことを。
「……沙菜、ちゃん……?」
私は、両手をゆっくりと下ろした。
視界が、晴れ渡っていく。茜色の光が涙の水面できらきら光っていたけれど、それも頬に流れ落ちて、風景がどんどん鮮明に見える。真っ直ぐに続く石畳。茜と群青が溶け合う空。丹色の鳥居。八人の子供達。
「うん。みいちゃん」
声が、すとんと私の元に届いた。私の目から、熱い涙がまた流れた。今、みいちゃんって呼んでくれた。みいちゃんって私を呼んでくれた。あの子と同じ呼び方で、呼んでくれた。
「……みいちゃん」
撫子ちゃんが、歩いてくる。その手には、黒いノートが握られていた。表情は、全然見えない。涙でまだ視界がゆらゆらした。でも、撫子ちゃんの後ろで一列に控えた皆の顔は、不思議なくらいにはっきり見えた。
――皆、辛そうな顔をしていた。
今にも泣き出しそうな目で、痛ましいものでも見るような目で、皆は撫子ちゃんと私を見つめていた。悔しそうな目をしている子もいた。本当に泣き始めた子もいた。手を血が出そうなくらいに握りしめている子もいた。
どうして? どうして皆、そんなに一生懸命な顔をしてるの? 本気で誰かのことを愛しているみたいな顔で、辛さを必死に堪えているの? 私には分からなかったけれど、一つだけなら、悟っていた。
私はやっぱり、一人は寂しい。この皆の輪の中に、行きたいのだ。
――地獄になんか、本当は、行きたくなんてなかったのだ。
「――『みいちゃん』」
撫子ちゃんが、私の目の前に立った。
赤い鉢巻と白い鉢巻。お互いのグループの『リーダー』を務めた私達は、神社の拝殿前で見つめ合う。こうして向かい合って初めて、私はようやく気がついた。
――撫子ちゃんは、私に白い鉢巻を譲ってくれたのだ。
血のような赤じゃなくて、穢れのない綺麗な色を、私に譲ってくれたのだ。
「――『もし私が死んで、みいちゃんもこれから先、死ぬようなことがあったとしたら』」
怪我で血のついた撫子ちゃんの唇が、穏やかな言葉を紡ぎ出す。栗色の短い髪が、別の女の子の黒い髪と重なった。透明感のある声は、中性的な感じの低めの声に変わっていった。聞き取りやすいはずの声が、聞き取りにくいものに思えた。懐かしい感覚だった。夏のグラウンドの匂いがした。
「――『ふたりで生まれ変わって、また小学五年の女の子になれたなら』」
時間が、巻き戻っていく。十五歳の私が、十一歳の私になる。目の前にいる女の子の姿が、涙で余計に見えなくなった。もう、夕日の輝きしか目に見えない。その波間に揺れる向こうできっとこの子も、十一歳の女の子になっている。私は、震える手を伸ばした。四年前に繋げなかった手の平を、今度はちゃんと、繋ぎたいから。
「――『その時は、私たち、今度はめぐり会わないでいよう』」
持ち上げた手を、私は止めた。呼吸も、その瞬間に止まってしまう。
けれど、私は今もここで生きているから、すぐに深く、息を吸った。
持ち上げた手を、ゆっくりと下ろす。
そっか。うん、そうだよね。
「――『たとえどこかですれちがっても、他人どうしのまま、声をかけないでいよう』」
下ろした手をぎゅっと握って、その痛みをしっかりと私は感じ取る。覚えていたいからだ。私が傷つけた女の子が、初めて私を傷つけた。やっと、言ってくれたんだね。寂しいけれど、嬉しいよ。それでもやっぱり寂しいから、今日のことは忘れてしまいたいけれど、それでも私は、覚えていたい。この傷痕だけは永遠に、胸に残していたいんだ。
「――『さようなら、みいちゃん。私は、あなたが大きらい』」
そうだよね、当然だよね。私だって、思ったから。あなたに対して酷いことを、何度も何度も思ったから。私が考えるようなことくらい、あなただって考えるよね。
だって私達は、女の子で……同じ人間、なんだもんね。
「――『もうにどと、あなたとは。死んでも、いっしょにいたくない』」
ああ、と声にならない声で叫んだ。ああ、ああ、沙菜ちゃん。目を塞いだ涙を拭い、私は罪で濡れた手を伸ばす。拒絶されてしまった手の平だ。でも、もう最後だから。お願い。本当に最後だから。今更だって、怒ったっていいから、ねえ、聞いて――涙のように溢れ出した想いを紙飛行機にそっと託して、空の彼方へ飛ばすように、私は声を、絞り出した。
「沙菜ちゃん……沙菜ちゃん……沙菜ちゃん……!」
ごめんなさいって言いたかった。酷い理由で『友達』にしてごめんなさいって言いたかった。
それから、ありがとうって言いたかった。ちゃんと思ってることを言ってくれてありがとうって言いたかった。
最後に、さようならって言いたかった。これでもう本当にお別れだねって言いたかった。私のいない世界で幸せに暮らしてねって言いたかった。
なのに、全部言えなかった。
全部、沙菜ちゃんって呼び掛けに、変わってしまった。
何度も名前を叫びながら、泣き崩れた私は石畳に両膝をついた。お父さんが買ってくれたスカートの裾が汚れても、剥き出しの膝小僧に小石が突き刺さっても、汚れも、痛みも、何にも気にならなかった。
私はもう、あの女の子に会えないのだ。私はあの女の子が死んだことを、全然分かってなかったのだ。石畳の灰色に、私の涙が点々と黒い染みを作っていく。夕日の赤色が涙を光らせる視界の中に、すっと白い手の平が差し出された。しゃくり上げながら、私は顔を上げた。
「撫子ちゃん……」
赤い夕焼けの光を背に受けた撫子ちゃんは――やっぱり、とっても綺麗だった。
こんなに傍に顔があるのに、逆光で表情が見えにくい。
でも、泣いていないのは分かった。撫子ちゃんは悲しげに唇を引き結んで、口角をきゅっと上げている。
笑顔ではないのだ。笑顔でいようと、決めた顔だ。ここにいるのは私が失ってしまったあの子じゃなくて、今も生きている女の子だ。立ち上がった私は慟哭しながら、撫子ちゃんにしがみついた。その瞬間に、私に絡みついていた錆だらけの汚れた鎖が、じゃらじゃらと澄んだ音を立てて足元に残った音を、耳が拾ったような気がした。
――生きている意味なんてなかった。綺麗な人間になりたかった。
でも私の正体は『ばい菌』で、がんばって人間になろうとしたけれど、結局撫子ちゃんのことだってめちゃくちゃに傷つけた。あれだけ望んだ『人間』の姿を、自分から捨てようとしてしまった。
だったらせめて、地獄に堕ちたかった。そうでないと、赦されないと思ったからだ。
私は、赦されたかったのだ。私が『友達』にした女の子から、赦されたいと願ったのだ。
けれど、それだけではなかったのだ。
――私はとっても、馬鹿だから。
何度も何度も、私はそんな言葉を自分にかけた。私はとっても馬鹿だから。私はとっても馬鹿だから。この呪文を唱えるのをやめた時、私は鏡の前に立って、本当の私の顔を見る。
――気付いて、いたんだ。
あの頃には自覚もなかったけれど、心の一番奥の部分で、汚れた血と膿に埋もれてしまった幼い私の良心は、どんな汚泥に溺れても、死なないでちゃんと生きていた。私は、いつしかちゃんと気付いていたのだ。あの子に酷いことをしてしまった、と。だから赦されたいと願ったのだ。
けれど、私は、本当は――赦されなくても、良かったのだ。
怒られても、良かったのだ。叱られても、良かったのだ。蔑まれても、拒絶されても、一生恨まれても、良かったのだ。
たとえ赦してもらえなくても、構わないから――もっと紺野沙菜ちゃん自身の言葉で、あの頃の私の間違いを、教えてもらいたかったのだ。
「……美也子。〝遊び〟を、続けよう」
撫子ちゃんが、私の髪を撫でてくれた。多分、初めて触ってくれた。私は洟を啜りながら顔を上げて、綺麗な女の子と見つめ合った。
「始めた〝遊び〟を、終わらせよう。それで、勝負がついたら……皆で、一緒に帰ろう」
ぼろぼろと泣きながら頷くと、撫子ちゃんの眉が少し動いて、琥珀色の目が潤んだ。けれどすぐにふわりと笑った撫子ちゃんは、腕の中に抱いていた黒いノートをポシェットに仕舞い込んで、皆の元へ帰っていく。
鳥居前で待っていた七人も、撫子ちゃんと同じ顔になっていた。泣いている子もやっぱりいるのに、それでも笑おうと決めた顔。氷花ちゃんだけは一番端でつまらなさそうに唇を尖らせていたから、私は少し、笑ってしまった。その勢いに力を借りて、私も唇を、ぐっと引いた。
――笑いたい。そう、強く思ったのだ。
笑って〝遊んで〟いる皆と、おんなじように、笑いたい。
そうしたら、たとえ少しの時間だけでも――私だって皆の仲間に、なれるような気がしたのだ。
「――『決ーまった!』」
撫子ちゃんを真ん中に迎え入れた三浦君達が、最後の決定を叫んだ。
「――『決ーまった!』」
私も、大きな声で叫び返した。小学五年の新学期に、これから始まる毎日に胸を躍らせた時と同じように、熱い涙が流れる顔に、いつも通りの笑みを乗せた。
「――美也子が、欲しい!」
皆が、初めて私を呼んでくれた。それがあまりに嬉しくて声が震えかけたから、それを誤魔化すような大声で、私は『欲しい』あの子の名前を叫んだ。
「――沙菜ちゃんが、欲しい!」
緋色と濃紺が入り混じった夕空に、私の声が木霊していく。
鳥居の前にいる皆は、すごく驚いているみたいだった。私は少し照れ臭くなってしまい、でもちゃんと言えた自分が誇らしくて、おずおずと撫子ちゃん達ひとりひとりの顔を見た。
「……だめ、かな。『ルール』に違反、しちゃうかな……」
「ううん」
首を横に振って、撫子ちゃんが微笑んだ。三浦君も、坂上君も、篠田さんも、毬ちゃんも陽一郎も和音ちゃんも、みんな明るく笑ってくれた。
「いいよ」
美しい声が、凛と私の耳朶を打つ。ここにいていいと、言われた気がした。
私も、泣いたまま、笑って――髪とスカートを翻しながら、駆け出した。
行かなければならないからだ。この石畳の先に、茜の光の射す向こうに、赤い鉢巻を翻してこちらに向かってくる撫子ちゃんの元に――私の大切な友達を、『もらう』為に。
まだ、〝遊び〟は終わりじゃないから。
最後の一人が『もらわれる』まで、終わりになんか、ならないから。
――ねえ、あの頃よりも……綺麗な私に、なれたかな。
もうどこにもいない友達に、私は心の中で、囁いた。
 




