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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 126

 ――私に用事って、何だろう?

 鳥居から拝殿までを繋ぐ石畳を外れ、玉砂利の道を踏みしめながら――佐々木和音は胸に萌した戸惑いと、静かに向かい合っていた。

 家族からの緊急の連絡となれば、考えられるのは進路絡みだ。時期が時期なので否応にも不安と緊張が掻き立てられたが、同時に心は凪いでいた。呆れ笑いにも似た微笑が、思わず口の端に乗った。

 ――わざわざ連絡なんて、大げさなことをしなくていいのに。

 早く和音に報せたいと、母は思ってくれたのだろうか。ともあれ呉野神社の神主を通じてまで伝えようとしなくても、じきに分かることなのだ。帰宅したら家族に言いたい文句を頭の隅で考えながら、和音は鎮守の森の手前を目指した。

 神社の神主と、和音の通う道場の師範。

 二人の男が、和音の到着を待っている。

「師範、イズミさん。私の家族から連絡って、どういう……え?」

 あと数歩の距離まで二人に近づいた和音は、思わず足を止めて訝しんだ。

 ――和泉も、師範も、実に愉快そうに笑っていたからだ。

 謀られた、と直感した自分がいた。師範が申し訳なさそうに、それでいてやはり愉しげな笑い声を立て始めた。

「和音さん、如何やら一皮剥けたようですね。受験前日にお会いした時よりも、眼差しが凛々しくなりました。貴方なら新天地でも己の強さに磨きをかけて、前に進んでゆけると信じています」

「師範……ありがとうございます。でも、師範もイズミさんも、どうして私を呼んだんですか? 家族が電話なんて、嘘ですよね?」

 面映ゆさを振り切るように、和音は不平を訴えた。背後ではまだ〝遊び〟が続いているのだ。わざわざ和音を引き抜いた理由を知りたかった。

「ええ、看破された通り、嘘をつきました。すみません」

 青い瞳の異邦人は、笑顔で飄々と謝った。今までと性格の異なる男と向き合っている気分になり、和音は反応に困ってしまう。そんな門弟の姿が微笑ましいのか、師範がくつくつと笑い出した。その笑い方は和音にとって見慣れたもので、怪談で子供達を脅かす剽軽な大人の顔そのものだ。

「イズミ君の我儘が理由ですよ、貴女を呼び出したのは。正確には、私の我儘でもありますね。私とイズミ君しか此の景色を見られないのは、些と贅沢が過ぎると思いまして」

「師範……?」

 和音は困惑を深めたが、そういえば師範にも特異な能力があるのだと、つい最近知ったばかりだ。とはいえ和音にとって師範は師範のままであり、急に謎かけのような言葉を受けても、現実感が伴わない。二人の大人は一世一代の悪戯をこれから仕掛けるとでも言わんばかりに、意味深な目配せを交わし合った。

「和音さん、僕から貴女にお見せしたいものがあります」

「私に? 何を……」

「見れば分かりますよ。さあ、お手をどうぞ」

 秀麗な容姿の異邦人が、右手を恭しく差し伸べてくる。和音は、目を瞬いた。ほっそりと白い男の手は、間近で見ればごつごつと硬く骨ばっている。

「手って……どうして、突然」

「理由など、何でもいいではありませんか。さあ、どうぞ」

 担がれている気がしてならない。和音は大人達を睨んだが、理由を教えてくれる気配がないので観念した。頬に感じた熱っぽさを少しの反発心でやり過ごしてから、和音はぎこちなく右手を差し出して、和泉の手の平に重ねた。


 瞬間――世界は、絢爛豪華に彩られた。


「わ……」

 溜息に似た囁きをたった一言漏らしたきり、和音は呼吸すらも忘れてしまった。

 和音の頬の、すぐ傍を――何かがひらりと、紅葉のように舞ったのだ。

 情熱的に燃える赤に心を奪われたのも束の間で、今度は左腕のすぐ傍を、眩い橙がすり抜けた。眼前の和泉の装束にも、鮮やかな桃色が掠めていく。金糸の織り込まれた帯にも似た輝きが、空を金魚のように泳いでいた。彷徨う光を追うように、和音は境内一帯を振り返る。万華鏡のような世界が、くるりと煌びやかに回った。

「これ……」

「貴女にだけは、僕の秘密をなかなか明かしませんでしたから。この光景を見せる相手は、貴女にしようと決めました。――世界は美しいですね。僕は僕という人間としてこの世に生を受けて良かったと、また一つ心から思えました」

 溢れんばかりの慈愛の目で、和泉はこちらへ微笑んでいる。

 和音は言葉をなくしたまま、夕暮れの空と神社の境内とを見渡した。


 ――花が、降っていた。


 一輪だけではなかった。赤、橙、黄、白、薄桃、紫――色とりどりの花々が、淡雪のように空から幾つも降っていた。葉も茎も不思議と見えず、花の最も見目好い部分だけが、門出の祝福のように降っていた。名前の分かる花もあれば、知らない花もたくさんある。幽玄の花は赤金(あかがね)色の陽光を化粧のように纏っていて、そのうちの一輪が、和音の左手に乗った。

 ナデシコの花だった。純潔の輝きを放つ花は、瑞々しい手触りだけを和音の指先にそっと残し、光の粒子が解けるように消えていく。

「綺麗……」

 やっとのことで、和音はそう呟いた。心が震えた人間は、使い古された表現でしか、感動を言葉にできないのだ。何故だか泣いてしまいそうな自分を懸命に律した時、仲間達の声が和音の耳朶を打った。

「勝ーって、嬉しい、はないちもんめ!」

 境内に目を戻すと、花が降りしきる境内で、撫子を中心に据えた五人組が、拝殿に向かって進んでいった。本来ならば、和音もここに加わっている。赤い鉢巻グループは、もう六人にまで増えたのだ。

「負けーて、悔しい、はないちもんめ!」

 対して、美也子を中心に据えた三人組は、五人に比べて明らかに声が小さかった。だが各々がしっかり声を張っていて、五人へ必死に対抗している。氷花は怒りでやけくそになったような声で、陽一郎は天真爛漫さが伝わってくる声で、美也子は、懸命で、健気で、どこか敬虔にさえ聞こえる声で。

「――美しく清らかなものに恋い焦がれた、鬼の少女達の起こした事件。この出来事を経たことで、皆さんは本当に変わりました」

 朗々と流れる和泉の声に導かれて、和音は柊吾達に目を向けた。

 ――皆、楽しそうに〝遊んで〟いる。

「……七瀬さんは、氷花さんに憤りを感じていました。ですが今では氷花さんの境遇に、同情や悲しみも抱いています。彼女が元々持っていた他者を思い遣る心に、豊かな奥行が生まれました。そんな彼女と歩みを共にした拓海君も、変わりました。彼にとっての氷花さんは、怒りや復讐の対象ではなく、恐怖の対象だったのですよ。悪意のこもった〝言霊〟は、七瀬さんを傷つけましたから。ですが拓海君は、臆病を振り切って立ち上がりました。防御以外の戦い方も、いつしか会得していたのです」

 男の声が歌うように、子供達の成長を語っていく。和音は耳を澄ませながら、今度は氷花達に目を向けた。

 ――この異能の少女との出会いが、今の皆を作ったのだ。

「撫子さんは、人を許すことを知りました。そして、人を愛する勇気を持つことを。氷花さんへの感情に折り合いをつけ、柊吾君へ真剣に向き合おうと決めた彼女の姿勢は、柊吾君の頑なさをも変えました。――仇討をやめた彼は、怨嗟を断ち切って前を向くことを選びました。たとえ氷花さんの所業を許すことができなくとも、〝遊び〟で全ての決着をつけて、けじめとする事を決めたのです。……そして、貴女も」

 息が詰まり、和音はゆっくりと振り返る。

 青い瞳の異邦人は、朗らかに笑っていた。白皙の美貌は、燃える夕日色に染まっている。――初めて出逢った、あの日のように。

「貴女は、人を好きになることを知りました。様々な短所や欠点を抱えた人間を、その短所や欠点ごと受け入れて、好きになることを知りました。ああ、このように振り返ってみると、真に変わらない人間は氷花さんだけですね。そんな氷花さんだからこそ、柊吾君たちの〝遊び〟相手足りえたのでしょうが……我が妹ながら、なかなかの頑固者です。そしてきっと、この僕も」

「……イズミさん、ありがとうございます。十二月に、私に声をかけてくれて」

 ぽつりと、和音は言った。

 ここに呼ばれて、良かった。そんな風に、心から思ったのだ。

「あの日から、私は少しだけ変わりました。そんな私になったことで、私は色んな人達と出会いました。三浦君や撫子ちゃん達だけじゃなくて、怖い大人にも、生きる世界が違うと思ってた友達にも、それに……今でも全然好きになれない、びっくりするくらいに嫌な、自分にも」

 瞼を閉じれば、色んな自分が過っていく。柊吾に失礼な態度を取った自分。拓海を傷つけた自分。七瀬に辛辣に当たった自分。撫子になかなか心を開かなかった自分――どの和音も痛々しいほどに惨めで不恰好なのに、どの和音も今の自分から切り離せはしないのだ。

「私は、イズミさんと出逢えたから、今の私になれました。色んなことがあったけど、こういう私になれて、本当に……良かったと、思っています」

 もし今の和音の前に、かつての惨めで不恰好な和音が現れたなら、自分は一体どうするだろう?

 殴る? 蹴る? それとも、逃げ出す? ……思わず、苦笑してしまった。そうしてしまいたい衝動は、きっと生まれてしまうだろう。

 だが、たとえそんな衝動が生まれても――勇気を出して抱きしめるくらい、今の自分ならできる気がした。

「貴女はやはり御立派ですね。頭では判っていても、人は素直に己を愛せない生き物ですから」

 心を読まれてしまったらしい。和泉が相好を崩したので、和音は頬を赤く染めた。だが次に続いた和泉の台詞を聞くうちに、照れ臭さはどこかへ行ってしまった。

「……これからの貴女の人生には、まだまだ膨大な出会いと別れが待ち受けています。その度にきっと、貴女はまた変わります。それでも、己を愛そうとした貴女なら、きっとこの先も大丈夫ですよ。――和音さん、感謝には及びません。僕も貴女と出逢えて良かったと、心から思っているのですから。貴女が今日という日をずっと覚えているように、僕も今日という日を忘れません」

「……はい。でもイズミさん、お別れにはまだ早いですよ。私は……まだ、この街にいますから」

 和音は唇を引いて笑ったが、返ってきたのは寂寞を湛えた微笑だった。

 微かな違和感を覚えたが、和泉は元々こういう風に笑う人だ。師範まで寂しそうに笑っているのも引っかかったが、二人とも和音の進路を知っているから、こんな顔をするのだろう。

「私、戻ります。イズミさん、師範も。ありがとうございました」

 境内を振り返ると、各グループで『もらう』子供の相談が進んでいるのが見て取れた。――そろそろ和音も、あの輪の中に戻るべきだ。

「ええ。いってらっしゃい、和音さん。健闘を祈りますよ。ああ、戦いではなく、〝遊び〟でしたね」

 神主の男は茶目っ気たっぷりにそう言って、和音と繋いでいた手を離した。

 途端に、『花』の群れは嘘のように消え失せた。異能を持つ者と手を繋いだ間だけ、目に『見える』という仕組みらしい。不思議な体験で心がふわふわと浮き立ったが、和音は興奮の残滓を胸に仕舞った。

 ――この気持ちを再び取り出して眺めるのは、全てが終わった後でいい。

 顔を上げて、前を見る。後ろは、きっと振り返らないだろう。

 清かな風を頬に感じながら、和音は鳥居に向かって駆け出した。

 ――あそこで、仲間達が待っているのだ。

 目には見えない、花が降る――この、美しい世界で。

 


     *



「――陽一郎が、欲しい!」

 掛け声を聞いた瞬間、足元ががらがらと崩れていくような絶望を感じた。

 ああ、ついに陽一郎まで呼ばれてしまった。

 分かっていたことだった。次は絶対に陽一郎だと思っていた。

「ふん、何よ! じゃんけん始めるわよ! 私が勝ったら綱田毬を『もらう』からね!」

 歩いていった氷花ちゃんは、顔を真っ赤にして怒っていた。もしかしたら自分が呼ばれるものと思っていたのかもしれない。きっ、と陽一郎を振り返って睨む顔は、悔しさと恥ずかしさが入り混じったみたいな涙目だ。

「呉野さん、怒りすぎじゃない? もう坂上くん狙いはやめたの?」

「う、うるさいわねっ! 早く勝負しなさいよ!」

 じゃんけんに出てきた篠田さんへ、氷花ちゃんは早速噛みついている。さっき陽一郎から指摘されたことも実は堪えていたみたいで、氷花ちゃんはやっと坂上君をしつこく狙うのをやめたのだ。代わりに狙われてしまった毬ちゃんが、石畳の中央に立つ篠田さんを見守っている。

 私の立っている場所からでは、さっきよりも毬ちゃんの表情が見えにくい。空が少し暗くなったのだ。茜色は血のような赤に変わり始め、皆の影も濃い藍色を墨のように含んでいた。「じゃんけん、ぽん!」と二人の女の子は右手を強く前に出して、私にとって大切な勝負を、ほんの一瞬でつけてしまった。

「あちゃー……」

 陽一郎は、やっぱり情けなくふにゃっと笑った。私と握った手を離して、少しだけ申し訳なさそうに首を竦めている。

「みいちゃん、ごめんね。最後まで一緒にいられなくて」

 鳥居の方から、日比谷ぁ、と坂上君の声が聞こえた。他にも皆が呼んでいる。声に応じた陽一郎が、「すぐ行く!」と顔を上げて、走り出そうとした。

 なのに――私は。

「行かないで」

 陽一郎の腕を、掴んでしまったのだ。

 いけないことを、してしまった。『ルール』違反はだめなのに、皆が笑顔で遊べなくなるようなことは、絶対してはいけないのに。私の魂がどんなに血で汚れていても、唯一の誇りだけは、今まで守り通してきたのに。私は目を丸くする陽一郎の腕から、五指を無理やり剥がすようにして、手を離した。

「みいちゃん……ありがとう」

 夕焼けの赤い光の中で、陽一郎が、私に笑った。

「僕、引き留めてもらえて、嬉しかったよ」

 そんな言葉を言い残して、陽一郎は走り出した。〝遊び〟が始まった時からずっと一緒だった陽一郎が、私の元から離れていく。

「陽一郎……私……!」

 ああ、本当に行ってしまうのだ。私達が負けたから、負けたから、負けたから――私の胸が、わけが分からないくらいに熱くなった。

「――負けたくないよぉ……っ!」

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