花一匁 125
「イズミ君、何故止めないのです?」
藤崎克仁が、口火を切った。鳥居の向こうからは赤い閃光が蜻蛉の羽に似た透明さで射していて、茜と群青の帯を幾重にも広げたような空が、御山に夜の気配を運んでいた。
そんな夕暮れの境内で、九人の子供が遊んでいる。
――〝はないちもんめ〟で、遊んでいる。
「その質問、丁度僕から貴方にさせていただく心算でした。克仁さんこそ、何故お止めにならないのです? 子供達が揉めていますよ」
そう穏やかに言って、和装の異邦人は――呉野和泉は、青色の双眸を細めた。
「其れが審判を務める者の台詞ですか」
ひょいと片眉を上げた克仁が、楽しげに嘯く。その視線の先では子供達が盛んに言い争っていたが、やがて粛々と十二回戦のじゃんけんが始まった。
「おや、氷花さんの負けですね。さすが僕の妹。我儘を通した割には、格好のつかない結果です。扨て、先程の質問への答えですが、喧嘩を止めること自体は造作もないことですよ。しかし〝はないちもんめ〟の『ルール』には、『じゃんけんをする権利を一人が独占してはならない』という禁則はありませんね?」
「全く、卑劣と蔑まれても文句は云えない主張ですね」
克仁は呆れながら指摘したが、和泉の言い分を否定はしない。むしろ和泉の語りに経糸にして言葉の機を織るように、緯糸の言葉を紡ぎ出した。
「彼等は此の揉め事に、大人を頼らずに対処しています。此処で我々が出しゃばれば、其れは仲裁ではなく介入です。君も然う考えているのでしょう?」
「貴方と同じ志でこの場に立てていることを、僕は誇りに思っていますよ。では克仁さん、最後まで見届けましょうか。彼等がどのようにして、この〝遊び〟に幕を引くのかを――おや」
語りの途中で、ふと和泉は空を仰いだ。
白い着物に袖を通した腕が、つと持ち上げられていく。純白の神饌を、彼方の神へ捧げるように。あるいは雪の一片を、そっと手の平で受けるように。克仁も俄かに驚いた様子で、赤い空を見上げていた。
「……この『花』は、寂しい場所にだけ降るものではなかったのですね。僕が凍っていない『花』を目にするのは、これが初めてのことですよ」
「……屹度、國徳さんが降らせているのでしょう。昔話によれば天狗は、悪戯で花を降らすことがあるそうです。其れにあの御方はああ見えて、境内で遊ぶ子供を眺めるのがお好きでしたから」
「どういう心境の変化です? 僕が國徳御父様について憶測を語るのを、貴方は好まれなかったではありませんか」
「変化も何も、君と同じです。然う考えた方が楽しいからですよ」
克仁が、目尻に皺を寄せて微笑んだ。和泉も微笑を返したが、そこで名案を思い付いたとばかりに、笑みの質を悪戯っぽいものに変えた。
「この景色、彼等にも見せてあげたいとは思いませんか?」
「彼等にですか? イズミ君、いけませんよ。子供達の真剣勝負を、大人の都合で中断させては」
「ですが、勿体ないとは思いませんか? 誠に良き美しさを、僕達だけが独占してしまうのは」
「全く、君は強情な上に世話焼きですね。……では〝遊び〟の中から一人だけ、一時的に此方へ来て頂きましょうか」
克仁は観念したように嘆息し、境内の中央へ目を戻した。
じゃんけんを終えた呉野氷花が、拝殿に向かって鬼の形相で帰っていく。
そして丁度、入れ違いに――黒いニット帽を被った少女が、拝殿から背筋を伸ばして歩き始め、克仁と和泉の前を、通りかかった。
*
氷花ちゃんが、負けてしまった。
じゃんけんを代わってって頼んだのに、私に代わってくれなくて、皆も文句を言ってくれたけれど、結局氷花ちゃんに押し切られて負けてしまった。
突き上げるような悔しさが、火傷しそうな熱さで噴き上がった。なのに私はこの期に及んで安堵だってしているのだ。負けたのは、氷花ちゃんだから。私じゃなくて、氷花ちゃんなんだから。
でも、私は勝負をしたかった。負けたら責任を押し付けられるのかもしれなくても、まだ傷つきたくないって思っていても、私は、勝負をしたかったのに。
「……美也子、もう行くから」
二回目のさよならが目前に迫っても、和音ちゃんの顔にはやっぱり表情らしい表情がなくて、感傷なんて全然漂わせていなかった。私ばかりが悲しんでいるのが何だかつり合いが取れていなくて寂しくて、でもやっぱりそれ以上に悔しかった。私みたいな存在には、何かを変える力なんてなかったのだ。
「……さっきの美也子の言葉、良かったと思う」
「……え?」
聞き間違いかと思ったけれど、嘘でも夢でもなかった。泣きながら私が見上げた和音ちゃんの顔は、薄くだけれど笑っていた。颯爽と歩き始めた横顔は、確かに笑ってくれていた。
「和音ちゃんっ……!」
悲鳴みたいな声が出た。身を乗り出した私は腕を伸ばそうとして、ぎゅっと握り拳を腿に下ろした。私と和音ちゃんを遠ざける『ルール』の存在が憎くて憎くて仕方なくて、けれどそこに憎しみを覚えるのは絶対に間違いなのだと、私の信念が激しい主張を叫んでいた。私は間違いだらけの馬鹿だけれど、撫子ちゃんだって肯定してくれたこの強い思いだけは、絶対に間違いなんかじゃない。
「みいちゃん、大丈夫だよ。ほら、まだ僕がいるよ?」
陽一郎が、おろおろと私の横に並んだ。私は、八つ当たりみたいに陽一郎を睨み付ける。陽一郎だって次の十三回戦で、いなくなってしまうのだ。
「私……戦えない……じゃんけんだって、させてもらえない……」
「え? 別にいいじゃん、そんなの気にしなくても」
陽一郎は、何だかぽかんとした顔で言ってのけた。
「……え?」
私も唖然の顔で、陽一郎を見つめ返す。陽一郎は私を驚かせたことによっぽど驚いたみたいで、鶏が先か卵が先かの問題で目を回したみたいな顔になった。
「んーと、呉野さんの独り占めはずるいけど、それってみいちゃんが気にすること? じゃんけんくらいできなくても、僕は別にいいじゃんって思ったけど……だめ?」
「そんな……だって、私たち、勝負、してるんだよ? みんながみんな、陽一郎みたいに、言ってくれるわけじゃない……」
「そんなことないよ! みんなだって、絶対同じように思ってるよ!」
ぱあっと明るく能天気に、陽一郎は笑った。
「だって僕達、みんなで遊んでるんだよ? 楽しもうよ! 最後まで! もし負けちゃっても別にいいじゃん! 楽しめるように遊ぼうよ!」
風が吹いて、ざあっと葉っぱが擦れ合う音がする。私は、涙の止まった顔を上げた。難しい数学の問題に頭を悩ませていたら、隣の席の子に小学校の算数レベルの知識で答えを先に出された気分だった。
「あっ、えっと。はい、これ」
陽一郎がもたもたとズボンからハンカチを出してくれたから、私は少し失礼だけどびっくりした。陽一郎がハンカチを持ち歩いているなんて思わなかった。青いハンカチを受け取りながら、私はまた少し泣いてしまった。
――四年前にもこうやって、私にハンカチを差し出してくれた女の子がいた。
あの日はちょうど今みたいな茜空で、私達は初めて手を繋ごうとした。悲しいことがあって大泣きしていた日だけれど、あの子がいたから私は一人ぼっちにならなかった。もう『人間』でも『ばい菌』でも何だって構わないって生まれて初めて思えたから、あの女の子と二人で一緒に、家に帰ろうって思えたのだ。
ああ、なんだ。私ってば本当に、救いようのない馬鹿だ。
答えなら、もうとっくに――四年前から、出ていたんだ。
「……殺す、殺す、殺す、殺す……」
突然に呪詛の言葉がお経みたいに聞こえてきて、私と陽一郎はびくっと肩を弾ませて振り返る。氷花ちゃんが幽鬼みたいな形相で、賽銭箱の前に立っていた。
「行くわよ、十三回戦! もちろん次のじゃんけんも私が行くわ!」
「……みいちゃん、きっと呉野さん、自分が勝つまでじゃんけん譲ってくれないよ。だからやっぱり、別にいいじゃん。ね?」
こそっと私に耳打ちしてきた陽一郎は、地獄耳の氷花ちゃんに「聞こえてるわよ! あんたも殺す!」と絶叫されて、すっかり震え上がっている。私が泣き笑いの顔になったタイミングで、その呼びかけは掛かった。
「――皆さん。ここで一つ僕からお願いがあります」
伸びやかに響いた声の方角を、私達は一斉に振り返った。和音ちゃんだけはもうすぐ撫子ちゃん達と合流するところだったから、その場で足を止めていた。
「イズミさん」
三浦君が、心底驚いたような顔で呼んだ。私も、声の主に驚いていた。
――石畳の中央から少し外れた場所で、神主さんがにっこり笑っている。
「申し訳ありませんが、今から少しの間だけ、佐々木和音さんをお借りします。和音さんのご家族から、緊急の連絡が入りましたので」
「私に?」
和音ちゃんが、不思議そうに訊き返す。意外な呼び出しを聞いた他の皆も、ほんの少しざわついた。
「然ういうことですので、和音さんは此方へ。皆さんは〝はないちもんめ〟を此のまま続行して下さい。『もらう』メンバーの相談が終わる頃には、必ずお返ししますから」
藤崎さんも笑って言い添えると、和音ちゃんを手招きした。その様子を見た篠田さんが、首を傾げながら挙手している。
「師範、お兄さん! 私たち、和音ちゃんの用事が済むまで待ちますよ!」
「何、お気になさらず」
神主さんは長閑に言って、和音ちゃんに目を向けた。和音ちゃんも少し戸惑っているようだったけれど、素直にこくりと頷いた。
「すぐ戻るから、先に続けてて」
「ん、分かった」
篠田さんが小さく息をついて、「じゃ、再開しよ!」と運動部の掛け声みたいな気風の良さで呼びかけると、皆も頷いたり和音ちゃんに手を振ったりしながら横一列に並び始めた。私は和音ちゃんをそわそわと目で追っていたけれど、左手の指先を誰かがいきなり握ってきたから、飛び上がるほど驚いた。
「……何よ?」
氷花ちゃんが、ぎろりと私を睨んでいた。私の左手の指先だけを、ちょこんと握ってきたのはこの子なのだ。私と手を繋ぐのを避け続けてきた氷花ちゃんも、メンバーがたったの三人だけになった以上、もう逃げられなくなったのだ。
「だからっ、何なのよっ? 人の顔をじろじろ見るなんて失礼よ!」
「あっ、ごめんね……」
本当は、氷花ちゃんと手を繋いだ時、ちょっと嫌な感じがして気分が悪くなったから、とは言えなかった。言ったらきっと、もの凄く怒られてしまうだろう。私は陽一郎に借りたハンカチをポケットへお守りみたいに仕舞いながら、緊張の顔を赤い鉢巻グループの皆へ向けた。
――十三回戦が、これから始まる。




